聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉
第 4 章  闇 世

 4

 遠くから産声が聞こえていた。
 今まさに喜びの苦痛に喘いでいるこの身体は、私のものであったはずなのに、とうに私一人だけのものではなくなっていた。
 愛される喜びを知らないこの私が、身二つになる痛みなどよもや一生味わうことなどないと思っていたのに。
 私は彼女にただ身体を委ねていただけ。
 産み落としたのは紛れもなくこの子の母親であるユーラ。
 それなのに、どうしてだろう。
 私の意識が直接身体に結びついているわけでもないのに、こんなにも私は喜びに満たされている。もし今身体を明け渡されることになっても、きっと涙腺は緩められたままになるだろう。
 澍煒を失ってから縋るように半年あまりも慈しんできた子。我が子というよりも、親友の復活を待ち望む気持ちの方が私は強かったかもしれない。
 宿ったその魂は確かめるまでもない。
 この子は、澍煒だ。
「また会えたね、澍煒」
 ユーラが疲れから眠りについて、身体の主導権は私に移る。
 産湯を浸かった赤ちゃんは、真新しい産着に包まれて今は泣き疲れて安らかに寝息を立てていた。
 猿そっくりの赤い顔にさらに皺を寄せて高らかに命の産声を張り上げていたさっきが嘘のように、眠る顔は愛らしい。
 一体、この小さな身体のどこにあんな力が宿っているのだか。
 私はそっとふっくら柔らかそうな頬を指の腹で撫でた。
 それだけでは飽き足らず、誘惑に負けてその頬に唇を寄せる。
 吸いついてくる滑らかな肌からは生まれたての無垢で幼い匂いがした。
 愛おしいと思う。
 いつの間に私にまで培われてしまったのだろう。
 母性本能。
 聖であった頃にはこれほど想い満たされたことはなかったかもしれない。
 龍兄を乞うるばかりで、私の心は満たされないまま要求だけが肥大していった。
 今思えば、あの頃の私は空しさを満たしてくれるものを求め、手当たり次第に何でもかんでも拡張する空洞に詰め込もうとしていた。それで凌げると思っていた。凌がなきゃならないと、思っていた。
 結局、死ぬまで私の心は満たされることはなかった。
 本当は龍兄によってしか満たされてはいけないと、どこかで頑なに他のものを拒んでいたからかもしれない。
 やっぱり代替物で凌げるようなものではなかったからかもしれない。
 ならば、これほど穏やかな気持ちにさせてくれたこの子は、私にとって龍兄以上だということだろうか。
 私はゆっくりと首を振った。
 そんなことはない。
 龍兄への想いがこの子によって途絶えさせられたわけではない。
 むしろ、生まれたこの子を見て、堪えきれないくらい逢いたい気持ちは強まっている。
 この気持ちは恋とは全く別のもの。
 龍兄を思う気持ちが研ぎ澄まされた刃のようなものならば、この子を愛おしく思う気持ちは刃を包み込む鞘のようなものなのだ。
 穏やかな海を睥睨するように、穏やかなもの。
 腕と胸に染み入るは温もりと鼓動。
 それさえあれば荒波立たんとする心は癒される。
 この平穏を守るためならば、何でもできるような気にすらなってくる。
 同時に、胸に抱けば抱くほどこの子と離れたくないと。手放したくないと、焦れる思いが湧きあがりはじめていた。
 それが単なる母性のゆえなのか、それともこの温もりの向こうに澍煒の魂を感じるからなのか、私自身にもよく分からなかった。
「ファリアス、ユーラ、名前は決まった?」
 静寂な部屋に私の声だけが小さく響いた。
『緋色の桜と書いて緋桜、と』
 眠るユーラに代わって、ファリアスの声が意識下からわずかに揺りあがってくる。
 私はふと窓の外に視線を移した。
 窓から見える庭の桜はまだ花芽が膨らみはじめたかどうかというところ。花開くにはもうしばらく時がいる。
「桜にはちょっと早いんじゃない?」
 気の早い名づけに私は笑いを含んだ声で訊ねた。
『体調がよくなったら確かめてみてはいかがです? 直接、あの桜の木に触れて』
 お産の疲労から来る倦怠感はまだ抜けない。
 それでも、わたしの心は弾むファリアスの声に負けていた。
 今すぐ、確かめてしまいたい、と。
 幼子を抱きしめたまま〈渡り〉と一言呟く。
 眩暈をこらえ、私は久方ぶりに外の空気を吸っていた。
 二、三日ぶりだろうか。
 そのときは開けた窓から吸い込んだ空気だったけれど、まだ外は雪と氷の入り混じった鼻の奥がすんとする冬の匂いが色濃く残っていたはずだった。それなのに、たった数日でこの広大な空間は柔らかな春の萌えはじめる匂いに埋め尽くされていた。
 そして見上げる桜の大木は、枝枝に芽のふくらみをつけ、心なしか根元から幹の端まで淡く紅がさしているように見えた。
 触れてみる。
 ごつごつと荒さの目立つ桜の樺はまだ冷たい。だけど、確かにその向こうにこの手を押し返してくるものを感じた。
『ご無理をなさいますね。でも、お分かりになりましたでしょう? 桜は何も花だけが鮮やかに色づくわけではないのですよ。花を咲かせるために、まずは先に幹や枝から色づいていくんです』
 ファリアスの声は喜びに弾んでいた。
 わが子の誕生に、間近に迫った春を待ちわびる気持ちに。
「そうだったわね……」
 苦笑が漏れる。
 本来、ファリアスとはこういう性格の持ち主だった。
 無邪気で、いつまでたっても少年らしさが抜けきらない。これといった才は発揮しなかったけれど、分け隔てなく周りの人や物を大切にしていたところは同世代のどの王たちよりも優れていたかもしれない。王が変わっても、宰相をはじめとして前代の有能な者がファリアスのもとに残ったのは、偏にその人柄に惹かれたからだったのだろう。
 もし、彼がユーラを愛したりなどしなければ。
 もし、私が彼らを我が物にしたりなどしなければ。
 ファリアスは仁王の名の下に聖刻の国を支える善き王となっていたかもしれない。
 後悔が、よぎる。
 何故私はこんなことを――。
 腕に抱く緋桜の重みが増す。
 この腕も鼓動を感じる肌も、私を動かす心臓も、元は彼らそれぞれ二人のものだった。彼らはそれぞれ自らの腕でいとし子を抱きしめ、その温もりを感じ、愛撫する権利があった。
 私が奪ったものは、なんと大きなものだったことだろう。
 澍煒。
 私は父母を知らずに育ったあなたからも、あんなに憧れていた両親というものを結果的に奪ってしまった。
「ごめん……なさい」
 私は眠る澍煒の小さな胸に埋めるように顔を伏せた。
「ごめんなさい」
 レリュータを名乗るようになって、約一年。
 私ははじめて懺悔の気持ちを言葉にしていた。
 その一方で、彼らに聞こえていなければいいと切に願った。
 憎まれていいと思っていた。
 その憎むべき相手が、こんなに弱いのでは彼らに申し訳が立たない。
 だけど、緋桜を抱く腕は重く、こらえきれずに涙は溢れる。
 返さなきゃ。
 せめて彼ら二人、邪魔する者なくこの子をいとおしめるように、この腕を彼らに返してあげなければ。
 一刻も早く。
 見上げた空は随分と青かった。
 夏に比べればまだ白いといっても過言ではなかったけれど、冬、低く垂れ込める雲が覆う空に比べれば、はっとするほどその空は青かった。
 そしてその青空を背景に枝をのばす桜の枝は、刻一刻と紅を増していく。
「澍煒……緋桜だって。いい名前もらったね」
 眠り続ける緋桜に私はもう一度頬を寄せた。
 頬には頬の温もり。腕には小さな身体の温もり。
 一方で、冷たい風に晒された背は寒さに小刻みに震えだす。
「聖様、なんて無茶なことを。そんな薄着で外になど出て。まだお産が終ってさほどたってはいないのでしょう? それに雪が融けたとはいえ、まだ聖刻の国はこんなにも寒いんですよ」
 不意に背を詰る寒さが和らいだ。
「ナルギーニ」
 振り返った私にナルギーニは微笑みかけた。
「おめでとうございます」
「もう天宮まで聞こえたの。相変わらず早いわね」
「いえいえ。そろそろお生まれになる頃だと思って近くまで公務を入れてきていたのですよ。さすがに私でも天宮から足を運ぶとなれば二、三日は要しますから」
「それでも、早すぎよ」
 濡れた頬を手の甲で押し拭う。
 こんな顔を見られるわけには……。
 ナルギーニは拭う私の手を優しくとどめ、かわりに自分の指を私の目元にそっとあてた。
 私は真っ直ぐナルギーニの顔を見られなくて顔を伏せる。
「おめでとうは、二人に言ってあげて欲しいの。この子を産んだのは私じゃないわ。ユーラが産んだの。ユーラを支えたのは私じゃないわ。ファリアスが支えてあげてたの。この子は二人から産まれたの。だから、」
 抱き寄せられるがままに私はナルギーニの胸に身体を委ねた。
 緋桜が起きる気配はない。
「おめでとうございます。ファリアス殿、ユーラ殿」
 ナルギーニの囁きに心が潤ぶ。
 伝わった?
 ちゃんと、ナルギーニの声はあなたたちにも聞こえた?
 深い意識の底に沈み込んだ二人は無言のままわずかに身じろいだようだった。
「聖様、貴女もです。身体を共有している貴女も、一緒にこの命を育んできたのでしょう?」
 摘みとらず、流れないように本当なら忌むべきこの身をいとしんで。
 契約の代償のつもりだった。
 この子を無事産ませるかわりに、後には刻生石を担えと。
 刻生石を託された人の魂がどうなるかは、言わなかった。最も、一度も人の手に渡したことなどないのだから確かなことは私にも分かりはしない。それでも末路を想像することは容易ではあった。
 刻生石は魔法石の中にあるからこそ規則正しく振動し続けることができる。精霊王の魂が生み出したものだから、精霊王の魂をその振るえによって蝕むことはけしてない。けれどただの人の魂がそれを預かることになったならば――
 それこそが、狙い。
 今更どう悔いても、私は自らの敷いた道のりからそれるわけにはいかない。一度罪に染まった手は洗おうがこすろうが綺麗になることはけしてない。
 中途半端に投げ出すくらいなら、とことん罪でこの魂を染めきるしか私にできることは何もない。
「ナルギーニ、この子、緋桜っていうの。桜の木が赤く染まる頃に生まれたから、緋桜っていうんだって」
「よい名ですね」
 感心したようなナルギーニの声に、私がつけたわけでもないのになんだか心が浮き立った。
「ナルギーニ」
「何でしょう」
「緋桜のこと、お願いね。私の分まで見守ってあげてね」
 ナルギーニはすぐにはうんと頷かなかった。
「約束、しましたよね。旅立つ前にもう一度、私のところでお茶を飲んでいってくれると」
「……したわね、約束」
 最期に私をこの世に繋ぎ留めておこうとするもの。
 それは、貴方の心だったのかもしれない。
 嬉しいような、悲しいような。
 私に与えられたその痛みは、緋桜と名づけられた生まれたばかりの赤ちゃんをこの腕から離さなければならない痛みととてもよく似ていて、それでいて――
 それでいて、ほんの少し。
 ほんの少しだけ、龍兄を想う激しさと同じものが潜んでいるような気がした。


 一月後。
 神界中の国賓を招いての緋桜のお披露目を終えて、私は長いこと住みなれた聖刻城をあとにした。
 あとにしたといっても〈渡り〉で一跳びで来たのだからさほどの感慨もない。
 産後の体はまだ本調子というわけにはいかなかったが、天宮まで一往復、空間を往来できるくらいにはどうにか回復していた。
 半月以上も前に天宮に帰っていったナルギーニは、いつもの午後のお茶の時間、聖の姿で現われた私に一瞬驚いたようだった。
「こんにちは。お茶、いただきに来たわ」
 努めて明るく言ってみたものの、察しのいいナルギーニの表情は即座に曇っていった。
「どうしてそんなにお急ぎになったのです? 私はてっきり、もっと長くこの世にいらっしゃるものだと。それこそ私のことも見送っていただけるものとばかり思ってましたのに」
 しかし、ナルギーニは言葉で責めておきながら、諦めたように柔らかく笑んで肩を竦めただけだった。
「せめて、親子水入らずの時間が少しでも長くなればと思って」
 思いのままそう言ってふと楽になった私は、すすめられていつもの――とはいえ一年ぶりだけれど――場所に座った。
 一年前、隣には澍煒がいた。
 それよりもっと前、私はこのソファの感触がどんなものか感じることができなかった。
 柔らかな羽毛のカバーの触り心地や、身体を預けきってもちっとも疲れない座り心地の良さを、私は知らずに二十年、ここに座っていたのだ。
 今なら私をこの地獄に引き入れたあの神の気持ちが分かる。
 自由にできる肉体が欲しくて仕方なかったあの神の気持ちが、一度手に入れた肉体から離れられなくなってしまったその執着すらも含めて。
 腕にはまだ最後に抱きしめてきた緋桜の重さの名残が残っていた。
 目を閉じずとも、ありありと両手に刻まれた重さを思い出すことができる。
 また抱きたいと、このままもう一度聖刻城に帰ってしまいたいと、どこかで悪い誘惑の声がする。
「よかった。ナルギーニと約束しておいて」
「どうしたんです? 急にそんなことを口になさって」
 ナルギーニはその昔彼の父が使っていたという、今ではすっかり私専用となった白磁のカップを私の前に置いた。
 中にはなみなみと注がれたご自慢のナルギーニご特製ブレンドの紅茶。
 ゆらゆらと立ち上る湯気に連れられて、ほのかに甘い香りが周りに広がる。
「ナルギーニ、ちゃんと見届けてちょうだいね。最後まで、ちゃんと私を見届けてちょうだいね」
 浅ましくこの肉体に固執しようとしないように。
 情に負けてこの一年、ううん、九百年を無駄にしたりしないように。
 喉元を滑るように甘い香りを残して流れ落ちていく紅茶。
 湧きあがった不安や妄執もともに腹の底へと落ちていく。
 飲み下してしまわなければいつまでたっても事は進まない。
 このままこの身体で長い時を享受するなど、あってはいけない。望んではいけない。
 言い聞かせて。戒めて。それでも私は紅茶の水面にあどけない緋桜の面影を見る。
 重症だ。
 もう二度と会えないと思えばこそ、愛おしさは募る。
「聖様、一体何を見ておいでです?」
 穏やかにナルギーニはわたしの思索の世界に切り込んだ。
「だめね。どんなに振り払っても目の前に浮かんじゃうの。私の産んだ子でもないのに。それも中身は澍煒よ? おかしいと思わない? 澍煒が愛しくて愛しくて仕方ないなんて」
「きっと澍煒様も同じ気持ちでは? 最も、今の段階で意識も記憶もあるとは思えませんが」
「あったら嫌よね。本人も嫌だと思うわ」
 お乳をあげて、おしめを替えて、それだけで一日が終る。
 公務復帰のために一日も早く乳母を雇えと言われたけれど、ユーラは頑として譲らなかった。私も、お乳をあげないでいると張ってくる胸の痛みに耐えかねて、ついユーラの言を入れてしまったのだ。もとい、緋桜を前にして、仕事のためにただ母乳を搾り出して捨てることは、私にはできなかった。
 愛優妃は一体どんな思いで産んだばかりの私をパドゥヌに残して闇獄界へ行ったのだろう。
 気持ちで割り切っても身体がついてきてくれるものではない。それは、七人も先に子を産んで自ら育ててきた愛優妃ならよく分かっているはずだ。
 ――少しでも私のことを考えてくれる時もあったのだろうか。胸の張る痛みに引きずり出されるような形であったとしても。
「おじいちゃん!」
 不意に、ノックもなしに不躾に扉が開き、何かが入り込んだかと思うとすばやく閉じた。
「何……?」
 何が入り込んできたのか、私の場所からではソファとナルギーニとでよく見えなかった。ただ、声だけはここから見えないほど小さいという事実に比例して、聞いたこともないほど幼く、発音も覚束ない。
 ナルギーニはやれやれとため息まじりにカップを置き、ちらりと私の方をうかがった。
 その間に、予想通りの小さな子供が私たちの向き合うソファとソファの間に回りこんできて、あっという間にナルギーニに抱きついた。
 くせのない黄金の髪がさらりと空気を撫でて午後の柔らかな光を散らす。
「ライレク」
 ナルギーニは幼子が左手に握った細長い棒が顔に当たらないようにのけぞりながら小さく呻く。
 そんなことにはお構いなしに、ライレクと呼ばれた幼い子供は、はたと気がついたように私の方を振り向いた。
 私は思わず息をのむ。
 神秘的な深さを持つ青紫の瞳。
 なんて強い色なんだろう。
 なんて、迷いを知らない真っ直ぐな色なんだろう。
「こらライレク、お客様に挨拶するのが先だろう?」
 あまり威厳の感じられない声で叱りつけ、頭を一撫でしてナルギーニはその子をおろす。
「あ!」
 正面から真っ直ぐに私を見上げたあまりに幼いその子は、目を丸くして小さく叫んだ。そして手に持っていた細長い棒を慌てて背中に隠す。
「こんにちは」
 背格好から察するに、二歳か三歳くらいだろうか。その割に利発そうでやけにしっかりとした顔つきをしている。
 とうに死んでいるという建前上、私はちゃんと名乗るわけにはいかず、挨拶だけで留めおく。
「こんにちは。はじめまして。ライレクです。……ごめんなさい」
 ぺこりと頭を下げるとまた麦穂のように金髪が揺れた。
「おじいちゃんて呼ばれてたみたいだけど……」
「孫のライレクです。ちょっと、いいですか」
 苦笑してナルギーニはライレクの前に膝をついた。
「ライレク、今日はどうしたんだい?」
「ナタァシャがこわいの。こわくてにげてきたの」
「また何かいたずらでもしたんだろう?」
 ライレクはその問いには答えず、顔を背けてじっと私の顔を見る。
「なんでこのひとがここにいるの? ゆうれい? おばけ?」
 怯えた様子はかけらもない。
 ただ疑念だけを抱いて真っ直ぐ私を見つめてくる。
「さてはまた肖像画に悪戯でもしたんだな」
 ナルギーニは素早くライレクが背中に隠したものを抜き取って、深くため息をついた。
「申し訳ありません。最近悪戯を覚えたようで、その……」
 困ったようにナルギーニは没収した細い筆を見つめながら頭をかく。
「私の肖像画にも何か書き加えられちゃったってことかしら?」
 笑いを押し殺して私は直接ライレクに訊ねかける。
 気圧されたのか、ライレクは口を引き結んで一歩下がった。
「おはなかいたの。さびしそうだったから」
 ことり、と音をたててその言葉は私の中に転がり込んだ。後に続いたのは、底知れぬ闇へと向けて空洞の中を遠ざかっていく乾いた金属。
 ライレクは逃げるように扉に向かって駆け出していた。
「あ……」
「こら、ライレク!」
 呼び止めるのも聞かず、ライレクはちょっと背伸びしてドアノブを掴むと、開いたわずかな隙間から身をねじ入れて外へ出て行ってしまった。
「行っちゃった……」
「聖様、本当に失礼なことを」
 見たこともないほど恐縮してナルギーニは言葉を詰まらせた。
 対照的に私は笑いがこみ上げる。
「ここに置いてあるのは一体いつ描かれたものかしらね。あの子の描いた花で少しでも私が明るく見えてくれるならいいんだけれど」
 きっと成神後、それもどちらかというと死に近い時期に描かれたものだったに違いない。龍兄に距離を置かれ、有極神につけこまれ、病は悪化し……。
 できることなら、あの無邪気な手で花の付け足されたその絵を見てみたかった。慰みに描き加えられたその花が、少しでもわたしの表情を明るく見せてくれているのか、確かめたかった。
「ねぇ、ナルギーニ。そういえば余りお孫さんの話はしてくれなかったわよね。生まれたとは聞いていたけど」
 ふと一息つき、私はもう一度ソファに腰を下ろした。
「歴代の天宮王の容貌に似ていないとお思いになりましたか?」
 やれやれと一気に老け込んだように見えるナルギーニも私の前に戻ってくる。
「目は似ているんじゃない? ちょっとたれ気味なあたり」
 からかうとナルギーニはわざとらしく咳払いをした。
「息子は今のうちに自由を謳歌するのだとかのたまって神界中好きなところに行っていたのです。見聞を広められるならと私も許してはいましたが。この間聖様のところから帰ってきたら、その放蕩息子が嫁と孫をつれて帰ってきていまして。私も手紙では孫ができたとは聞いていましたが、何せ息子が帰ってきたのは三年ぶり。会うのは半月前のそのときがはじめてでした。そのあたりまだ祖父という自覚は薄いんですよ。何より、この歳でおじいちゃんと呼ばれるようになるとはよもや思っておりませんでしたし」
「ナルギーニ、苦笑するたびにどんどん老け込んでいってるわよ?」
「それだけじゃありません。おじいちゃんと呼ばれる度に気分は大老になっていきます」
 こらえきれずに私は笑い出した。
 何十年か後、それが様になっているナルギーニがありありと今の姿に重なったからだった。
「でも息子さんのお嫁さんってことは……許婚は?」
「許婚は作らなかったんですよ。神界でも最近は各国の情勢を見て裁かなきゃならない時代ですから。ですがあの息子が連れてきたのは魔麗の国の王女でしたよ」
「……ちょうど三、四年前にクーデターで王家がひっくり返されそうになってたわよね?」
 まだ私が身体もなくふわふわとここに出入りしていた頃。魔麗の国では宰相が王の座を狙って民衆を炊きつけ、蜂起した。あることないことデマが飛び交い、それを信じた民衆は宰相の側につき……ところがそれがたった一週間で鎮圧されたのだ。
 神界は平和な世界であったはずだ。
 争いがなく、憎しみあうことなく、皆が笑って暮らせる世界だったはずだ。
 でも、そんなのは幻想もいいところだった。
 統仲王や法王がいた神代と呼ばれた時代でも、人は殺され、物は盗まれていた。平和を体現するはずの私たちが、闇獄界相手に手を血で染めていた。
 魔麗の国で起こったクーデターは何も真新しい事象ではない。
 少しずつ頻度を増しながら、この世界もまた行き先が狂いはじめているのだ。
「その魔麗の国のクーデターで王家に助っ人して何かやっていたらしいのですよ。後になってから聞かされたことですが」
 ナルギーニにはもはや苦笑するしか表情を保つ術がないらしい。
「婚礼はどうするの? ……次期天宮王と魔麗の国の王女なのでしょう?」
 緋桜は見かけ上私生児になってしまったけれど、この間のお披露目で無理を通してしっかり印象付けておいたし、後見にはナルギーニがなってくれると約束してくれた。
 天宮王の息子とて、いや、むしろ天宮王の息子だからこそ、そのあたりをおろそかにするわけにはいくまい。
「ええ。だから今回はそのために戻ってきたらしいんですよ。あの口ぶりだとまた親子三人でどこかに放浪に出そうですけどね」
「随分放任主義だこと」
「私もまだ若いつもりなんです。おじいちゃんはさすがにいたたまれないと自分でも思いますから、今度からは名前で呼ばせようかと」
「それがいいわ。私も姪や甥には名前で呼んでもらったもの」
 ひとしきり笑った後、ナルギーニはふと私を伺うように見た。
「その甥御には会っていかれなくてよいのですか? 私などと他愛もない話をして過ごすよりも……」
「いいのよ」
 鉱兄さまの息子はまだ生きている。
 それは知っている。
 でも、すでに鉱土の国を出て、ナルギーニの息子よりもあてどなく放浪しているはずだった。
 神代の名残。神代の生きた化石。
 そう呼ばれるのが嫌だったらしい。
「今更会ったところで何か話せるわけじゃないもの。打ち明けるわけにもいかないし」
「邪魔されるかもしれませんしね」
 表面上傍観を決め込んでいるナルギーニは静かに冷めかけた紅茶を啜った。
「昔の私を知る人に、こんな姿を見せたくないだけよ」
 それは本心でもあり、ナルギーニの示唆への肯定でもあった。
 私は出された苺パイに幸せを感じながら最後の一かけを口に入れ、残りの紅茶を飲み干して空になったカップをソーサーに戻した。
「ごちそうさま」
 その一言にカップを口に運ぶ途中だったナルギーニの腕はわずかに震えた。が、後は滞りなく自分もカップを空にする。
「そろそろ日が暮れる頃ですね」
「そうね」
 薄紗のカーテン越しに窓から差し込む光は朱を帯びて、物憂げに春の午後を締めくくろうとしていた。
 ソファから立ち上がって、惹かれるように私は窓辺に寄る。
 そっとカーテンをたくると、白壁の多い城下の街々が赤い光に染め上げられて、朱金の海の如く地の果てまで茫漠と広がっていた。
 きっとその波間では夕食前の人々が準備のために活発に動き回っていることだろう。
 眼裏に浮かぶ日常の些事。
 そこには当然のように澍煒がいて、飛嵐がいて、時に風兄さまが竪琴を奏でていたり、鉱兄さまがお馬鹿なことを言って誰かを笑わせていたり、炎姉さまが豪快に見得を切っていたり、無茶なことをしないように麗兄さまが厳しい顔で私を見守ってくれていたり、海姉様がお手製のマドレーヌを持ってきてくれたり、育兄さまがたくさんの花を咲かせて見せてくれたり、統仲王がたくさんのプレゼントを持ってきてくれたり。そして隅の方で龍兄が困ったように苦笑していたり。
 たくさんの人の面影がこの聖の目には焼きついている。
 それを私は捨てようとしている。
 ううん。とうに失ったはずのものだけれど、魂だけの時よりもこの目はより鮮明に私に愛しい過去を見せてくれる。
 失いたくない。
 肉体よりも何よりも。
 辛い記憶ばかりと思っていたけれど、今になって思い出されるのは楽しかった日々ばかり。苦い龍兄への想いすら、辛さばかりではなかったのだと今は思える。
 だってほら。
 こんなにも長いこと逢えない時を過ごしているのに、胸の奥は貴方のことを想っただけで甘く疼く。
 今この瞬間、私は九百年前の弱冠十六歳の少女に還っていた。
 有極神の〈予言書〉に記された未来も、ファリアスとユーラにした仕打ちも、緋桜への母性愛もみんな忘れ果てて、ほんの刹那、私は何も知らない聖になることを自分に許していた。
『聖刻法王、よもやこのまま逃げようなどと思ってはいないでしょうね? 私たちをこの中に残して』
 幻想を突き崩したのは内から沸きあがるファリアスの声。
『そんなことは私が許さない』
 まるで内なる監視者を気取った声に、私は朱の海が広がる現在に引き戻された。
『約束するわ。刻生石は必ず受け取りに行く』
 この身で為しておかなければならないことを終えたなら、今度は私の中で眠る有極神が目覚める前に、人間という無力な身体に魂を移し替えておかなければならない。その際、か弱い人間の身体でもある程度大人ならばともかく、成長途中の幼い身体では刻生石を支え続けられるわけがない。
 ――だから、次の私の身体が大人になるまで預かっていてくれないかしら。私と時の精霊王の血を受けた血晶石と、神の血を引く法王の肉体があれば、魔法石がなくとも刻生石を支えることはできるはずだから。
 嘘を、ついていた。
 私の手元からはなすことができるなら、支えるのはファリアスでもユーラでもどちらでもよかった。
 刻生石は肉体で支えるものではない。血晶石などほんの気休めに過ぎない。
 刻生石は、時の精霊王の魂と契約を受けた私の魂とを封じ込めた魔法石があってはじめて安定させられる。
 私はその時生みの振動を狂わせたいが故に、ファリアスとユーラに嘘をついて刻生石を押しつけたのだ。
『貴女は約束どおり緋桜を産んでくれた。けれど、私たちから離れた後も約束を守ってくれるとは限らない』
 ファリアスの疑念は最もだった。
 逃げ出したい。そんな誘惑に今この瞬間も心引き寄せられている私を間近で見続けているのだから。
 それとも、肉体とともに精神をも蝕む危険性に気がついてしまったのだろうか。
『どうすれば信じてもらえる?』
 私はおそるおそる言葉を切り出す。
『刻生石の中に、あなたの最も大切なものを預けていってくださいませんか? 何があろうとも必ず、貴女が取り戻したいと願うものを』
 私の大切なもの。
 そう言いつつもファリアスは暗にそれを指定していた。
『貴方は何だと思う? 私が最も固執するもの』
 だから、返事は早かった。
『記憶を。刻生石とともに貴女の記憶を預けてください。聖刻法王として生きた九百年前までの記憶を』
 私はそっと唇をかんだ。
 覗かれたのだろうか。さっきの記憶を。心を。
 ふと頬の下が微弱な空気の流れに一瞬冷たくなった。
「な……」
 いつの間にか涙が頬を濡らしていた。
 これではあけすけに覗くまでもない。
 大切な私の記憶。
 抱えていけるものなら次の世にも抱えていきたい。
 龍兄、貴方を見つけるために。
『どう、なさいますか?』
 それは、訊ねていながら駄目押しの確認だった。私に選択する道などない。
『私の記憶なんてあっても面白くないわよ』
『けして覗き見たりなどいたしませんよ。第一、私たちはただの人間だったのです。他人の記憶を覗く術からして私たちは知り得ません』
 ただの人間だった。
 その言葉が、私にはやけに重かった。
「ナルギーニ」
 私は握っていたカーテンの端から手を離し、気を遣ってソファにかけたまま目を閉じていたナルギーニの方を振り向いた。
 ゆっくりと時間を稼ぎたいかのようにナルギーニはソファから腰を浮かす。
 もどかしさに私の口の回転は早くなる。
「緋桜のことお願いね。それから、レリュータのことも」
「それはお任せください。時に、聖刻の国の守護獣殿はどうなさいました?」
「……さあ?」
 今まで一度も尋ねなかったくせに、どうしてこんな時にそんなことを言い出すのだろう。
 一応そらとぼけた私に、ナルギーニは一瞬咎めるような視線を投げかけた。
「精霊界でお昼寝でもしてるんでしょう」
 すげなく私は言い捨てる。
 けれどナルギーニは納得しようとはしなかった。
「ここまで関わらせておきながらお隠しになるのですか?」
「嘘じゃないわ」
 挑むように私はナルギーニを睨みあげる。
 その視線をナルギーニは逃げることなく静かに受け止め、厳かに口を開いた。
「貴女の最大の罪は、貴女の良心の代弁者を封じてしまったことなんですね」
 何かが崩れる音がした。
 今更だ。
 そんな、今更悔いても遅すぎる。
 涙は出なかった。
 泣く気にもならなかった。
「だって、ナルギーニはなってくれなかったじゃない」
 呟いた。
 この世に肉体を得て甦ったあの日。引き留めずに貴方は私の背を押した。
「だから私も共に、貴女の罪をかぶりますよ」
 掬い取った手に、ナルギーニはそっと唇を寄せた。
「馬鹿」
 烙印の刻まれた手に、私は静かに唇を押しあてた。
 その唇で呟く。
「出でよ、聖なる時の契約を受けし我が魂なる魔法石よ」
 手に白い光が宿る。
「ナルギーニ、手を貸してちょうだい」
 差し出されたナルギーニの手には聖刻王の血晶石をのせる。
『時を生み出す刻生石よ
 我が手の導きに応えるならば 今ある場所を離れ
 新たなる拠りどころへと その身を移せ』
「転移」
 魔法石から重みが消える。
 かわりにナルギーニの手が一寸下がった。
「これほど重いものだとは」
「三界の時を司る要ですもの。軽いわけがないわ」
 私は魔法石をもう一度レリュータの身体に戻し、ナルギーニの手から血晶石をつまみあげ、両手の中に包みいれた。
『我が愛しき記憶たちよ
 悲しみも 苦しみも 怒りも 憎しみも
 嬉しさも 幸せも 楽しさも 喜びも
 全て詰まった私の記憶よ
 その形失うことなく 色褪せることなく
 封を解かれるその時まで
 この刻生石の中で静かに眠れ』
 次の一言で最後になる。
 その前に、私は真っ直ぐナルギーニを見上げた。
 さようなら。
 唇だけを動かした。
「さようなら」
 穏やかなその声に、私は笑んだ。
 この人に出会えてよかったと、伝えたかった。
「封印」
 私の魂は、魔法石を引きずってレリュータの体から離れた。
 崩れ落ちるレリュータの身体をナルギーニが受け止めている。
 さあ、記憶が全て刻生石の中に流れ出てしまわぬうちに辿りついてしまわなくては。
 心もとない浮遊感は懐かしいようでいて、またひどく不慣れなものになっていた。
 その身で天宮の回廊を走り抜ける。
 生家だというのに瞬く間に道が分からなくなっていく。
 黄色い絵の具で向日葵が描き足された私の肖像画の前を走り抜けたところで、私は観念して魔法石を握り、〈渡り〉を唱えた。
 真っ暗な天宮地下。
 銀布の掛けられた柩の前に私は跪き、抱きしめるようにその柩に寄りかかった。
 よかった。間に合って。
 まだ龍兄の記憶だけは残っている。
 どうか最後までその名だけは忘れさせないで。
「今度こそ、貴方の側で逝けるのね、私」
 私が消えていく。
 手足の感覚も、お腹や胸の感覚も、首も頭のてっぺんも、端からどんどん空気の中に消えていって。
 そして最後に、頬に冷たい愛しさだけが残った。
「龍兄」
 また、逢えるよね。







←第4章(3)  聖封伝  管理人室   第4章(5)→