聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉
第 4 章  闇 世

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 ふらり、ふらりとその男の子は歩いて来た。
 白の開襟シャツは闇から浮き上がり、黒のスラックスは闇に溶け、まるで幽霊のように足元が消えて見える。
 その子は、わたし達に気がつくとすかさず再び手に緑牙を取った。
 緑に輝く柄の長い大鎌。
 育命法王――その名の通り、命を司る者に相応しい武器。
「君たちも僕を襲うつもり? それなら容赦しないよ!」
 声変わりがまだなのか、少女のようなかわいらしい声と色白で小さな顔。張りつめてはいるが潤んだ瞳には愛くるしさまでいっぱいに湛えられている。
 背も、お世辞にも高いとはいえない。
 わたしがちょっと爪立てすれば視線は同じ位置になってしまうだろう。
 構えた緑牙の方が長くて、多少もてあましているようにすら見える。
 聖の中の育兄さまは龍兄よりも背が高くて、それはもう山を見上げるような思いでいつも見上げていた。だけど座ってお話しするときの目はいつも穏やかで、龍兄はあまりいい顔はしなかったけど、冬、聖刻の国に霜が降りると、聖は毎日育命の国に避寒のために遊びに行くのを指折り数えて心待ちにしていたものだった。
 その育兄さまが本気で緑牙を振るうところを聖はちゃんとみたことはなかったけれど、あの長身なら緑牙も箸のようなものだったに違いない。
「……ほんとにあれ、育兄さま……?」
 思わず漏れ出た呟きにわたしははっと口元を押さえた。
 ここは闇獄界なのだ。
 そしてこの人は闇獄界の人。
 わたしが法王の魂を受けついでいると知ったら……。
 おそるおそる見上げたわたしを、クレフはにっこり笑って頭を撫でた。
「無事に帰すって約束したえん?」
「あ……」
 そっか。
 クレフは初めから気づいていたんだ。
 さっきだってあの子をみた時、「あの緑の光の持ち主も、法王の魂だ」って言ってたじゃない。
 警戒するならその時にしておかなきゃならなかったのに、わたしったら本当にうかつすぎる。
「おめ、鈍いなぁ。そんなんで大丈夫かぁ?」
 表情を読んだのか、心を読まれたのか、クレフはからからと笑っている。
 そんなわたしたちを前に、男の子の表情は険しさを増していた。
 あの位置からは表情は見えても、顔を寄せ合って何を話しているかなんて聞こえていないに違いない。
「クレフ、」
「ん?」
「さっきのチョコレート、おいしかったからもう一枚サービスしてくれないかな」
 にやりと笑ったクレフはすかさず鞄からチョコレートを取り出した。
「どんぞ」
「ありがと」
 受け取って男の子の方に走り出そうとしたわたしに、クレフは後ろから呼びかける。
「おらのこと、ほんとに信じてるの?」
 わたしは意味が分からなくて振り返った。
「もしかしたら、樒ちゃんが背を向けた瞬間に襲い掛かってたかもしれないえん?」
 わたしは小首を傾げた。
「だって、帰してくれるって約束したでしょう?」
 一瞬、虚を突かれたような表情をして、クレフはまた笑い出していた。
「もうっ」
 きっとまた鈍いと思って笑っているのだ。
 確かに鈍いし気がつかないことの方が多いけれど、闇獄界の人なのにクレフは信じられるって思ったのだ。少なくとも、帰してくれるといった時のクレフの目は翳りもなければ底なしでもなかったから。
 そんなことを考えていたわたしの首筋に、ひた、と冷たく鋭利な空気が張りついた。
「こ、こんにちは」
 硬直する表情筋を総動員して、わたしは首に傷がつかないように目だけをそっと横に流した。
「普通に挨拶して僕の気を殺ぐつもり? 随分頭の回る魔物もいたものだね」
「あ、そんなつもりでは……」
 潤んでいる分、間近で睨んだ時の底光りは尋常ではない。
「あの、お腹空いてませんか?」
「そう言われて、ありがとうって言って食べると思うの?」
 ごめんなさい。わたしは飛びつきました。
「わたし、守景樒っていいます。東京に住んでて、高校一年生で……」
「さっきもいたよ、そんな奴。人間のふりして親しげに僕に近づいてきて。あろうことか夢追ゆついちゃんの姿でね。でも、僕はもうだまされない。どうせお前も魔物なんだろうっ?」
 緑牙の刃が一瞬遠のく。
 男の子の全身から放たれたさっきにわたしの身体は金縛りにあったように動けなくなった。そのままがくんと膝から力が抜け落ちる。
 ぺたりと座り込んだ頭の上数センチを、殴りつけんばかりの風圧が通り過ぎていった。
「樒!」
 クレフの悲鳴が近づく。
 クレフ。
 顔を上げた瞬間に出会ってしまった男の子の視線は、そう呼ぶ声すらつまらせた。
「僕に、夢追ちゃんを切らせて楽しかった? もしあの中に本物がいたらどうしようって、戸惑う姿だっていい余興だっただろ? だけど、もうわかってるんだ。ここに飛ばされたのは僕だけだって。だって、よべば必ず夢追ちゃんも譲葉ちゃんも応えてくれるはずだから」
「それは『俤』っていう魔物だよ。人の記憶の中から大切な人の姿を映し出して油断させるの」
「だから? お前も似たようなものだろうっ?」
「ちがうっ、わたしは……」
 男の子は問答無用とばかりにまた鎌を振り上げた。
「繊月!」
 とっさにわたしは叫んだ。
 裏切ることなく両手には繊月の弓幹が現れ、弧の外側で緑牙の刃を受け止める。
 が、上から勢いをつけて振り下ろされた力に、中途半端な位置で傾いでいたわたしの腹筋が耐えきれなかった。
 背中が地に着く。  続いて肘から力が抜け、首の上に橋を架けるように弓幹の両端が地に着いた。
 目の前には緑の薄刃。
 しかし、とうに圧す力はかかっていなかった。
 鼓動が耳の側で響く。胸の上下すら刃に触れてしまいそうで、わたしは繊月の下で荒ぶる呼吸を抑えていた。
「どういう……こと?」
 男の子は茫然と呟いた。
「育兄さまの緑牙、だよね、これ」
 わたしを映す男の子の目は揺れる。
「だって、まさか。そんなわけはない。あれはただの夢で、これも、ただの夢だ。だからぼくは夢の中で持ってる武器を手にできて……ぼくは悪い夢を見ているんだ……」
「わたしもそう思ったよ。ううん、まだ夢だと思いたいかも。でも、海姉様も炎姉さまも、麗兄さまも……龍兄も……いたよ……」
 桔梗、葵、光くん、それに夏城君。
 大切な親友やそのお隣さんや、去年わたしに傘を貸してくれた人がその昔兄弟だったなんて、とても信じられることではないけれど、でも、確かに彼らは法王の魂しか扱い得ない魔法石を武器として具現化してわたしを守ってくれた。
「聖……なの……? 魔物でも幻でもなく、本当にこれは君の繊月なの……?」
 揺れてはいたけれど、彼はわたしの上から緑牙をおろした。
 わたしが聖の夢を見たのは、もう大分遠いことのように思えるけれどまさに昨日か今日のこと。だけど、桔梗も光くんも葵も、それから夏城君も、もう大分前からそういう夢を見てきているかのようだった。きっと彼も同じだったのだろう。
 それは、何もなければただのちょっとリアルな夢ですんでいたはずだった。
 なのにもう取り戻せもしない夢を現実に呼び寄せてしまったのは、聖。
 刻生石を不安定にして時空を狂わせ、人界を消滅させて、眠らせておいていいはずの記憶まで起こして。
「ごめんなさい」
 目を閉じて謝って。
 きっと彼には何のことか分からないだろう。
 大切な人とはぐれて傷つけてしまうかもしれない恐怖を味わわされた諸悪の根源がわたしと知ったら、きっと今度は緑牙の刃をおろしたりはしないはず。
 でも、わたしにはそこまでこの状態で告白する勇気はなかった。
「……ぼくは全力だった。全力でこれを振り下ろしたんだ。それでも壊れなかったんだから、だからその繊月……本物、か……」
 彼は握っていた緑牙を魔法石に戻し、胸に収めた。
「ごめん。謝るのは僕の方だね。信じられなくて、ごめん」
 その言葉にわたしも繊月を収め、おそるおそる上半身を起こす。
「一人だったんだね、こんな真っ暗なところでずっと。それなら無理ないよ」
 わたしはずるい。
 こんな、自分ばかり許すようなことを平気で口にしている。
 それなのに、彼は真っ直ぐにわたしに手を伸ばして来た。
「ぼくは織笠おりかさいつき。君と同じ高校一年生だよ」
 緩んだ頬には人懐こく嘘のない純粋な微笑み。
「なんだ、聞こえてたんだ」
 って、同い年……。
 慌てて驚愕を笑顔で包み隠してわたしはその手を取った。
 意外と大きい。柔らかそうに見えて、思ったよりも骨ばっている。
「聞こえてなきゃ迷ったりしないよ。えっと……」
「守景樒です」
「守景さん、守景さんもここに飛ばされてきたの?」
「……まあ、うん。織笠君も?」
 正確には自分で迷いこんできちゃったんだけど、迷子には変わりない。
「うん。学校で夏期講習受けてたんだけど、地震みたいな揺れがあってさ。地震っていうか、あれは空間そのものが揺れてたんだと思うんだけど、全身が殴られたかと思ったら真っ暗なここにいたんだ」
「わたしのところもそうだよ。やっぱり夏期講習やってたんだけど、ちょうどお昼だったんだよね。あ、そうだ、これ、お腹空いてたらどうぞ」
 わたしはさっきクレフからもらったチョコレートを差し出した。
「闇獄界製らしいんだけど、わたし食べても大丈夫だったから」
 織笠君はじっと私とチョコレートとを見比べる。
「食べたんだ……」
「あはは。お昼食べ損ねたまま飛ばされちゃって」
 まん丸で大きな目がこれでもかというほどに見開かれた後、織笠君は耐えかねたように吹き出した。
「もらうよ。ありがとう」
「うん。あ、でもそのチョコ、ほんとはここにいるクレフからもらったの。だから……」
 少し遠巻きにわたしたちを見ていたクレフは、突然名前を呼ばれて慌てふためいた。
 挙動不審なクレフを、織笠君は一瞬見定めるように鋭い視線で見つめる。が、クレフがその視線に気がつく前にまたさっき見せた人懐こい表情に戻っていた。
「クレフさんっていうの? 僕、織笠樹です。これ、いただいていいんですか?」
「あ、どんぞ、どんぞ」
 織笠君は嬉しそうに笑ってわたしの手からチョコレートを受け取った。
「その訛り、東北の方だよね。あ、この世界じゃぜんぜん違うところのってことになるのかもしれないけど、クレフさんってぼくのおばあちゃんと同じイントネーションしてる」
 どこかほっとしたようにクレフを見つめて、遠慮なく織笠君はチョコレートのパッケージをはがしはじめた。
「織笠君、分かるの? クレフの言葉」
「分かるも何も、ぼくも使えるよ。今住んでるところは仙台だけど、その前はお祖母ちゃんと一緒に住んでたから」
「仙台? そんなところから来たの?」
「巻き込まれただけだから、来る分には大変でもなんでもなかったんだけどね。それより、ほんとにおいしいねぇ、このチョコ」
「でしょでしょ?」
 つい意気込んでわたしは頷く。
「スーパーの試食販売のお姉さんみたい」
「うっ。別に売りつけているわけでは……」
 むしろ話をそらしたかっただけだったり。
「樒ちゃん、ほら、もう一枚」
 そんなことを知る由もないクレフは呆れながらもう一枚私にチョコレートを差し出してくれた。
「いいの?」
「おまけだ。そったに食いつくような目で見られてたら織笠君も食べずらいえん?」
「んだんだ」
 織笠君までクレフに調子を合わせる。
 なんだろう、この微妙な疎外感は。
「ねぇ、守景さん、さっき他にもいるって言ってたよね。もしかして同じ学校?」
「うん。今ちょっとはぐれちゃってるんだけど、クレフが何とかしてくれるって言うから一緒に来たの」
 視界の端でクレフはうんうん頷いている。
「織笠君も一緒に行こう?」
 チョコレートを半分食べて手を止めた織笠君はふとわたしを見据えた。
「守景さん、聖なんだよね。記憶はどこまで戻ってるの?」
 冷たい緊迫感が胸をとららえた。
「どこまでって……」
「転生した君に責任があるなんていうつもりはないよ。だけど、繊月を使えるなら記憶もあるはずだ。時空の管理者としての、ね」
 この場から逃れようもなく、わたしは視線だけをそらせた。
「人界はまだ残ってるの? 残ってるとしても仙台は突然爆撃されたからね。もう何も残っていないだろうけど」
「爆撃?」
「地震は一度だけじゃなかった。何度目かでいきなり空にたくさんの飛行機が現われたんだよ。テレビでよく聞く低い音あるだろ? 爆弾を落とす前に高度を下げた時のあの音。あの音が聞こえた時、空は真っ暗になった。校庭は真っ赤になった」
「第二次世界大戦の時の時空が混じったんだな」
 クレフが呟く。
「ぼくの前でもたくさん人が消えてったよ。どこに飛ばされたかは分からないけど、あそこに残されるよりはましだったかもしれない。ぼくの夢追ちゃんと譲葉ちゃんも目の前で消えてしまった」
「夢追さんと譲葉さんって?」
「ぼくの三つ子の姉達だよ」
 織笠君は怒りを押し隠すように目を伏せた。
「守景さん! 守景さんなら何とかできるんでしょう? 返してよ、ぼくの夢追ちゃんと譲葉ちゃんを! 返してよ……ぼくたちの住んでた世界……!」
 握られた拳は赤を通り越して白く色を失う。
 わたしが男だったら遠慮なくその拳をぶつけてくれただろうか。
 いや、濡れ衣だと分かっているからやはりこらえたままぶつける先もなく、その手のひらの中で憎しみや怒りを握りつぶすのだろうか。
「せめて、説明してくれ……記憶があるなら出来るだろう? どうしてこんなことになったのか、誰のせいでこんなことになったのか……」
 まるでわたしに原因があると見透かしたような台詞だった。
 わたしはすぐには口も利けず、へたり込んでしまった織笠君を見下ろす。
 その織笠君の身体を黒い気流が取り巻きつつあった。
「いげね。ここでそんな感情ばかり持ってたら……!」
 クレフが叫んだ時、織笠君を取り巻くだけだった黒い瘴気が一気に密度を増した。
「ぐっあ……」
 黒光りするそれは数多の腕となり、織笠君の身体を宿主にわたし達へも伸びてくる。
「きゃぁぁぁ!!」
 繊月で振り払う間もなくわたしの腕は体ごと縛り上げられた。
 肌には直に冷たいスライムを押しあてられているような感触。冷たさは心地よさなど通り過ぎてちりちりと肌を灼く。
 それだけじゃない。接触しているだけで頭のどこか深いところがくらくらとしてくるようだった。
 痺れ? 酔い?
 わからない。
 だけどどんどん体も心も重くなっていく。
 何か嫌なことを思い出させられているわけでもないのに、立っていることすら面倒になってくる。
「樒、楽しがったこと考えんだ。好きなもののことでもいい。嬉しかったことでも何でもいいから!」
 クレフは、すっかり黒い繭に包まれてしまった織笠君とそこから伸びる腕に捕まったわたしの間に無理矢理割り入って切羽詰った様子で叫んでいた。
「無……理だよ……そんなこと、何も思い出せない……わたし……だってわたしが人界を……織笠君のお姉さんたちを……学校のみんなを……」
 真由が死んでしまったのも、夏城君に怪我を負わせてしまったのも、葵に現実を突きつけてしまったのも、桔梗や光くんに無茶なことをさせてしまったのも、みんなみんなわたしのせい。
 ううん――聖の、せい。
「っあっ」
 鈍りゆく思考がその一点で停止した瞬間、全身に衝撃が走った。
 ファリアスに魔法石を抜き取られた時のような気持ちの悪い衝撃。
「あああああ」
 衝撃はおさまるどころか冷たく脈打つ流れとともに体中に広がっていった。
 足はもはや立っていられず、わたしの体は重力に任せて仰向けに地へと傾ぐ。
「……ったく、なに自己嫌悪でこんな奴らに囚われてんだよ」
「え……?」
 打ちつけられるはずだった背中には力強い支えの感触。
 どうして目の前に夏城君がいるんだろう。
「え? じゃない。お前、好きなものは?」
「ええ? えっと、越前屋のイチゴチョコレートパフェ」
 聞かれて咄嗟に口から飛び出た言葉に、尋ねた本人は露骨に嫌そうな顔をした。星「何でチョコレートとイチゴ一緒に喰えんだよ」
「夏城君……怪我は……?」
「治った」
 ちらりと夏城君が見上げたそこにはニヤニヤ笑っている緋桜の姿。
「越前屋のイチゴチョコレートパフェだな。なら、全部片付いたらおごってやる」
「ほんと!?」
 正直なところ、嫌そうなままそう言った夏城君がちょっと視線をそらし気味だったことなど、わたしの目には入っていなかった。視界にあったのは、現実に半透明のフィルターをかけて上書きされた越前屋のデラックスイチゴチョコレートパフェ。
 バニラアイスとさくさくフレーク、それにチョコレートソースとイチゴソースが重なり合いながらいくつもの層を織りなし、頂点をドーム状に覆う生クリームの上には器からはみ出さんばかりのいちごたち。さらにその上には仕上げのチョコレートソースがたっぷりかけられている。
「夏城君、約束だよ? 絶対だよ?」
 生唾を飲み込んでそう言った瞬間、わたしの体はぐんと軽くなっていた。
 蹴散らされるように引き下がっていく瘴気の流れを前に、夏城君は呆れ果てた顔でわたしを見やっている。
「ちょっとぉ、藤坂の奥さん聞きまして?」
「ええ、ええ、科野の奥さん。聞きましてよ、聞きましてよ」
「夏城さんのところのお坊ちゃん、見事に越前屋のデラックスイチゴチョコレートパフェに負けてましたわよね」
「ええ、ええ。せっかくデートのお誘いしたというのに、誘われた本人はパフェしか見えてませんでしたものね」
 一部始終を見ていたらしい葵と桔梗の声に、背中を支えてくれていた腕から一瞬力が抜け落ちる。
「ぅわっ」
「っと、悪ぃ」
「ごめん、すぐ自分で立つから」
 逃げるようにわたしは夏城君の腕から這い出した。
 うっすら寒ささえ感じる背は、一部、触れられていた手の届かない部分だけが灼けつくように熱い。
「って、ちょっと葵、桔梗!! いい加減なこと言わないでよね!」
「まぁ、ご挨拶だこと。勝手にどこかに入っていっちゃったから心配してきてあげたのに」
「うっ」
「桔梗、ここは責めないでいてやろうや。樒は今越前屋のデラックスチョコレートパフェのことで頭がいっぱいなんだ」
「ああ、そうだったわね。夏城君は愚か、私たちのことすら見えていないんですものね。悲しいことだわ」
「そんなことないって! ……今は」
「樒、帰ったら越前屋のデラックスチョコレートパフェ、三日連続でおごってやろうか」
「ほんとっっ!!?」
 思わず掴みかからんばかりに葵に詰め寄ったわたしに、葵と桔梗は一度顔を見合わせて、哀れむように夏城君を見やった。
 わたしと夏城君は、期せずして同時に咳払いをする。
「それより。なあ、あれはなんだ?」
 夏城君が指差した先。
 巨大な一つの柱がいつの間にか立っていた。
「あ……うそ、織笠君……?」  建物三階分はありそうなその柱は、まさに織笠君がいた場所に立っていた。
 その前にクレフの姿は、ない。
「クレフは? クレフが何とかしてくれるって思ってたのに……」
 確かについさっき、織笠君と対峙していたはずだ。
 なのに、その柱は今はぽつんとそびえ、表面がわずかに蠢くばかり。
「その人なら消えちゃったよ」
 ひょっこり桔梗の陰から顔を覗かせたのは、こんな暗いところでもそれと分かるほど顔色の悪い光くんだった。
「あの柱の前に立ってた人でしょ? あの人なら、星お兄ちゃんが樒お姉ちゃん助けてる間に柱の中に消えちゃった」
「呑まれたって……こと?」
「そうも見えたし、自分から入ってったようにも見えた」
 そう言うと、光くんはそれまで握っていた桔梗のブラウスの端をより一層強く握りしめて桔梗を見上げた。
「ねぇ、桔梗、僕やっぱここは嫌だよ。早く帰ろう? 帰る場所がないってならどこでもいい。過去だろうが未来だろうがそんなの構わない。ここ以外の場所だったら、僕どこでも行くから……」
 がくがくと震える細い腕。
 そこからはさっきわたしが闇に飲まれかかった時のように黒い瘴気が溢れだしはじめていた。
「おい、やばい! あの黒いの、こっちに伸びてくるぞ!」
 そしてもう一方。
 完全にここの瘴気に搦めとられた織笠君を宿主に、闇の魔の手が左右から包み込むようにわたし達に向かって迫ってきていた。









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