聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉
第 4 章 闇 世
1
「飛嵐、もう少し何とかならないの?」
荒れ狂う時空風をくぐりぬけていく飛嵐に、耐えきれなくなったわたしは尋ねていた。
「何とかと申されましても、これ以上は」
さっきと変わらない冷静な声が、逆にわたしを苛立たせる。
時空風は絶えず時空軸内を未来へと向かって吹き上げるもの。その風の影響を受けずに、神界、人界、闇獄界三界の歴史を保存する時空軸の中を往来できるのは、時を司る魔法石を持つ聖と精霊王の澍煒、守護獣の飛嵐、そして統仲王と愛優妃の五人だけだった。
その五人のうち二人が今ここにいるというのに、時空風は横から斜め下から、時に上から激しく吹きつけてはわたし達を翻弄する。
刻生石をファリアスに預けたのは、まさにこの長い長い時空軸の編み出す未来を揺らがすため。軸の先が大幅に振れれば、中の時空風だって乱れるのは分かっていたこと。学校にいた時、みんなが一斉に消えたり、桔梗や葵が遥か太古にトリップしてしまったのも、全てこの時空風が律しきれないほど乱れ、好き勝手な時代から時代へ、空間から空間へと吹き渡りはじめてしまったから。
聖の狙い通りとはいえ、このまま放っておいては人界の未来どころか、神界、闇獄界も含めて全てが過去から滅びてしまうかもしれない。
「うわっ」
深刻な事態になっているっていうのはとってもよくわかったよ?
でも、とりあえず今すぐ安心して深呼吸出来るところに降ろしてくれなきゃ、何とかできるものもできなくなってしまいそう。
「飛嵐、休憩……! もう、無理……」
「あと、もう少しでございますから」
わたしの懇願を、飛嵐は前を見据えたまますげなく一蹴する。
「飛嵐、私もちょっと酔ってしまったみたい……」
やはり耐えかねていたのか、真っ青を通り越して蒼白の桔梗もぐったりと葵にもたれかかりながら虚ろに呟く。
「なんだよ、これくらいで。だらしないなぁ、桔梗は」
一人、この状況を心から楽しんでいた葵は勝ち誇るように胸をそらせて笑っていたが、ふと、上の一点を見据えたまま笑いを引っ込めた。
「なぁ、あれ、あそこにいる奴、さっきの奴じゃないか?」
葵の指し示す遥か上空。かすかに見える時空軸の先、闇獄界への扉を前に立ち止まっている影があった。
時空風に煽られて白い裾は激しくはためき、着ている者の顔を執拗に覆い隠す。しかし次の瞬間、突風の合間に訪れた凪に白い裾はなめらかに足元に落ちた。
そしてあらわになった白い横顔に、わたしは思わず息をのむ。
「レリュータ……!」
風はわたしの憎しみのこもった叫びを運んでいったのだろうか。
青い瞳は開きかけた扉越しにわたしを見下ろした。
怒りも恐怖も嘲りもなく、悔いた表情すらなく、仮面のように白いだけのレリュータの顔が、微動だにせずわたしに向けられる。
中身はファリアスなのかユーラなのか。あの表情からでは察することすら難しいけれど、それは今はどうでもよいことだった。
彼女を捕まえさえすれば、必然、ファリアスと対峙することになるのだから。
「捕まえなきゃ……決着をつけなくちゃ……」
湧き上がる心のままに、わたしはにらみ上げたまま呟いていた。
同時に、わたし達の元にも突風が吹きおろす。
構えていなかったのか、飛嵐の身体は風に弄ばれぐるりと旋回した。
「きゃぁぁぁっ」
「うわぁぁぁぁ」
気がついた時、桔梗と葵の悲鳴はやけに遥か下に聞こえていた。
かわりにレリュータの無表情な白い顔が近づく。
「――」
青い瞳で風に流され上昇してくるわたしを見つめたまま、レリュータは赤い唇を動かした。
なんと言ったのか、音までは聞こえなかった。
だけど、最後にその唇は挑むように笑み、白い裾を翻して闇獄界への扉の中へ消えていった。
「待って!」
わたしは風の中を泳いでそのドアノブにしがみつく。
「樒ちゃん!」
「樒、戻ってこーい!!」
「主!」
桔梗、葵、そして咎める飛嵐の声だけが風に乗せられて上ってきた。姿はすでに黒い点ほどにしか見えない。
時空軸の中にレリュータがいる。それは明らかに異常なことだった。
たとえ聖の血を一滴受けた血晶石を持っていたとしても、たかが一滴でこの時空風の中を平然と渡り歩けるわけがない。闇獄界の炎を取り込んでこの時空軸を我が物顔で歩けるようになっているのだとしたら、放っておくわけにはいかない。
また、さっきのような悲劇が新たに過去に刻まれることになるかもしれないのだ。
「ごめん。見逃すわけにはいかないんだ」
わたしは一度下の三人を見下ろし、意を決してその扉を開いた。
溢れ出る瘴気。
少々なら時空軸の浄化作用で消し去ることは出来るけれど、長くは開けていられない。
見えるのは底知れぬ闇ばかり。
だけど、この向こうに確かにレリュータはいるはず。
「せぇのっ」
息を吸い込んで、わたしは中に踏み込み、後ろ手に扉を閉めた。
うん。扉はちゃんと閉められたと思う。
だけど、わたしが踏み込んだその先には大地などなかった。
扉が閉まる音が遠ざかる。
わたしの身体は、飛嵐の背で時空風に翻弄されるよりも恐ろしいスピードで落下していった。
まだ三半規管も元に戻っていないのに。
闇獄界の構造なんて覚えてはいない。
ただ、空間が有限なら、いつかはどこかにたどり着くはず――なんて悠長に言ってたら転落死しちゃうかもしれないじゃない!
「〈渡り〉!」
わたしは慌てて叫んだ。
ただ地面があるところにたどり着けるように。
「うっ」
直後、全身が強かに硬いものに打ちつけられた。
なのに身体はまだ落下しているような感覚が強く残っている。
なんでもいい。わたしは大地と信じるものに爪を立てた。
そのままゆっくり数を数えながら、息をつめて感覚が元に戻るのを待つ。
いち、にぃ、さん、しぃ、ごぉ、ろく……。
「ふぅ」
かすかな眩暈を振りきるように、わたしは息を吐き出して身体を起こした。
「はぁ……」
つづいて、辺りを見渡してため息をつく。
見渡す限り、真っ暗だった。
何の遠近感もなければ、何の音もしてこない。
耳鳴りが始まりそうなほどの静寂。
だけど、闇は確かにざわざわと対流していた。
「どうしよう」
レリュータを追いかけなきゃ。
それはわかっている。わかっているんだけど、へたりこんだわたしのお腹からは情けない音が滲み出した。
考えてみたら、お昼ご飯を食べ損ねてから今まで何も口にしていない。
「喉、渇いた……」
一つ思い出すと連鎖的に身体は贅沢な欲求を打ち出してくる。
わたしはぺたりとその場に座り込んだ。ついで上体も崩れていく。
闇獄界でそれはないだろうとは思うのだけど、一度わたしが気づいたと知るや、身体は遠慮なくだるさと眠さを訴えはじめる。
限りなく低くなった視界は相変わらず真っ暗で、何かが近づいてくるとも思えない。どうせ真っ暗なのだから、誰もこんなところで人が寝ているなんて思わないだろう。
あまり賢いとも思えない理由でも、身体は安心しきったように弛緩して眠りの世界への扉をノックした。
のだけれど――
ぐうぅうぅ
闇の静寂を揺るがしかねない情けないその音に、誰かが聞いているとも思えないのに飛び起きたわたしは赤面してお腹をおさえた。
「お腹が空いて寝らんないよぉ」
やっぱり多少疲れていてもここは〈渡り〉で桔梗たちを追いかけたほうがいい。
というか、こんなとこで一休みしちゃおうって言うのが頭が疲れている証拠じゃない。
「よし、えっと、呪文、呪文」
増えた独り言への突っ込みはこの際入れないことにして、わたしははじめの一句を思い出そうと首を捻る。
その傾いた視界の先で、さっきまで何もなかったはずの闇の中でどろどろとしたものがゆっくりと人の形をとるようにせりあがりだしたのは、ちょうどその時だった。
真っ暗なのに、その姿だけはよく見えた。
真由。
〈俤〉という魔物なのだとすぐに思い至りはしても、鮮明なその姿にはさっき納得して別れてきたばかりだというのにやりきれない思いがにじむ。
「みっちゃん」
声までが鮮明に聞こえてくる。
けど、腕を広げて駆け寄ってこられても、今度はおとなしく抱きしめられるわけにはいかない。
唇を噛みしめて繊月を取り出そうとした時だった。
「え……?」
真由の姿を模した〈俤〉は背後から衝撃を受けたように一度のけぞり、そのままあっけなく崩れ去っていった。
「ぼんやりしてっと危ねんだ。あんた、怪我はねがったか?」
ちらちらと揺れる明かり。
その持ち主は、ひどく訛りながらも陽気にわたしに話しかけてくる。
敵意は、ない。
「助けてくれたの?」
人懐こく瞬く澄んだエメラルドグリーンの瞳。こんがり日焼けした肌。ぼさぼさだけど一応後ろで一つに結わえているオレンジがかった金髪。歳は二十代くらいだろうか。西洋人形のように美しい顔立ちをしているくせにどこかあどけなさが抜けきっていないせいか、角度によっては同い年にすら見えてくる。
その明るい瞳と目が合うと、くいっと上がった唇の端は嬉しそうににぱっとつりあがった。
「んだ。あいつは〈俤〉つって、この辺にたくさん生息してんだ。自分一人じゃなかなか抜け出せねがったえん? でも悪がったな、大切な人切っちまって」
微妙に聞き取りにくいけど、すまなそうな顔にわたしは首を振ってみせた。
「ううん、ありがとう。わたし一人だったらやっぱり躊躇していたかもしれない」
その人の笑みにつられるようにわたしもにっこり笑っていた。
不思議な人だ。
闇獄界にいるということはここに生を受けた人のはずなのに、ファリアス、高白羽黎那、それにサザのような表情の翳りがどこにもない。むしろ翳など吹き飛ばしてしまういそうなほど太陽のように明るい表情が絶えず顔を輝かせている。
「おめはん、迷子か?」
おめはん……?
自分の鼻先を指差すと、その人はにこにこしたままうんうんとうなずいた。
出ようと思えばいつでも出られる。下手に迷子と認めて知らないところに連れて行かれたら、出られるものも出られなくなってしまうかもしれない。
だけど、迷い込んだといわなければ、敵とみなされてこの場で危ない目に合わされるかもしれない。
人のよさそうな顔はしているけど、ここは闇獄界なのだ。
もしかしたら新手の魔物なのかもしれない。
ぐぅぅうぅう
「……」
思考を遮るようにわたしのお腹が抗議の悲鳴をあげた。
あまりの大きさに、青年の目がわたしのおなかに釘付けになる。
「えっと……あ、あはは」
笑うしかない。
ここは笑ってごまかすしかないじゃない!
今すぐ隠れられる場所があったら飛び込んでしまいたい。でも、あたりはやっぱり真っ暗で、目の前にあるちっぽけな明かり一つじゃどこに何があるのか見当もつかない。
わたしのごまかし笑いに許されたとでも思ったのだろうか。その人は豪快にお腹を抱えて笑い転がりだした。
なんだろう、この反応。
そこまで笑わなくてもいいと思う。
「ごめん、ごめんな。でも、そんなおっぎな音はじめて聞いたから」
その人は慰めるどころかさらに刺激するようなことを無邪気に言ってのけ、たっぷり一分は笑い転げた後ようやく涙を拭き拭き肩から提げていた鞄から一枚のチョコレートらしきものを取り出した。
はやる気持ちを抑えきれず、わたしは反射的にそれをもぎ取る。
「チョコレート、好きか?」
「大好き! じゃなくて……でもこれって……」
思わずくらいついたわたしに遠慮なくその人はふきだしたが、これ以上は悪いと思ったのか頬とお腹をひくつかせながら何とか体裁を取り繕っている。
「闇獄界製だけど、多分おめはんが食ってもお腹壊さないと思うよ。愛優妃様もお召し上がりになるものだからね」
「愛優妃……様?」
「そ。この世界の女王様。神界からおいでになった方だけど」
もしかして愛優妃と近しい人なのだろうか。
「付け加えると、闇獄界人だからっておかしなもの食べてるってわけじゃねんだぞ。そりゃそういうの好んで食う奴もいるけど、そういう奴らは大概さっきみたいな本能だけで生きてるような魔物ばかりなんだ。おれたちは一応人だえん? 神界人と喰うもんは変わらねんだ」
いつのまにかわたしは綺麗過ぎて心臓に悪いと思いつつ、食い入るようにこの人の顔を見つめていた。
特に目と口元。
年齢不詳だけど絶妙なバランスで形作られたその顔の造詣とあいまって、見つめれば見つめるほど意識はその人に引き込まれていく。
それなのに、それなのに。
「あ、なんだ? 訛りがひどいって?」
図星を指されて気づいた時にはがくがくと頭を前後に振っていた。
「あっはは。よぐ言われんだ。黙ってればいいのにって。だけんどおら、これで喋るのが好きだからさ。我慢してけれ」
我慢はできても微妙に意味が分からないんですけど……。
「ま、いいから食? 頭に糖分足りてねぇとろくな考え浮かんでこねがらな」
促されてわたしは焦げ茶色のパッケージを外し、少しずつ銀箔ををはがした。
甘くむせかえりそうなほど濃厚なカカオの香りに、お腹はさらに催促の音をあげる。
その人はまた笑い転げていたけど、かまわずわたしは「いただきます」と言ってそれに口をつけた。
「おいしいーっ」
じんわり口の中に広がる甘さと下の奥に残る苦味。どちらが突出するでもなく、むしろ引き立てあって香りとともに心を満たしていく。
「んだえん? 愛優妃様も大好き! 闇獄界最高級のチョコだからな!」
「うん! お土産に買って帰りたいくらい!!」
「だべだべ? 今なら一枚五百キュア。三枚以上お買い上げならもう一枚おまけするよ!」
「買ったあ! って、わたし闇獄界のお金もってないや。あ、もしかしてこれも口つけちゃったけど……」
「あっはは、それは試食用。安心して全部食べな」
お墨付きをもらって、わたしは素直に残りを口の中でとろかし味わいながら全部食べてしまった。見計らったかのようにコップに注いで差し出された水筒の水も一気に飲み干す。
そんなわたしをにこにこしながら見ていたその人は、わたしが一心地ついたのを見て口を開いた。
「忘れてたけど、おらはクレフティス。おめはんは?」
「守景樒」
「んー、人界の人間?」
「そう……です。でもどうして?」
「その顔と名前は日本人。だえん?」
迷いなく言い当てるクレフにわたしは頷きだけを返す。
「愛優妃様が好きでいつも見てらっしゃる国なんだ。樒ちゃん、おらさついといで。愛優妃様に会わせたげる。あの方ならきっと帰るべき場所に帰してくれるよ」
思わずわたしはクレフを見つめていた。
「愛優妃……会うの? わたしが?」
聖はついぞ生きて会うことがなかったその人に、今、わたしにこの姿で会いに行けというの?
胸中に広がりゆくのはもやもやとした割り切れない思い。
「大丈夫! 愛優妃様はお優しい方だから怖い目になんかあわされたりなんかしねぇ。それに愛優妃様のいるとこまではおらがちゃんと送り届けてやっから」
そうじゃ……ないのだけれど。
心はためらいながらも、身体はすでにクレフに手をひかれ歩き出していた。
クレフの手に握られた小さくも強力な光を放つ懐中電灯は、歩くたびに闇のそこここを照らし出す。照らし出されたその先には、やっぱりまた闇。ごくたまに青白いものがうず高く積みあがっていたりするが、そういう場所を通りかかるときは決まってクレフはわたしを背中に隠すようにして歩いてくれた。
「ねぇ、クレフ。ファリアスという人を知ってる?」
ちょっと心を許していたんだと思う。
その分、一瞬緊張が走ったクレフの背中に、逆にわたしが慄いた。
「……知ってるよ。〈悔恨〉の炎を宿した男だえん?」
発される声も硬い。
わたしは頷くにも声をかすれさせてしまい、見えないと分かっていて深く頷いた。
「そいつがどうしたってんだ?」
「その人が初めてここに来た時、どうだった?」
聖が死んだ後、聖のと自分たちの肉体が融けあわされたレリュータの身体を引きずって、ファリアスはどんな思いでこの世界に来たのだろう。
いや、そんなことはファリアスしか分からないことだ。
わたしが知りたかったのは、ファリアスが周りからどう見えていたかということ。
「どうだったって……そんなのもうあまり覚えてもいねがらなぁ……。おらもちらりと見ただけだったし」
「それでもいいよ。どうやってここに来たの? どうやって闇獄界の炎になんて手を出したの?」
思い出すようにクレフはちょっと顔を上げ、天を見上げる。
その先に星も雲もない。
ただそこには、瘴気に暗く減光されながらも、近くのクレフの顔が見分けられる程度に光を届ける半月があった。
「あれは……月?」
「え? ああ、んだ。月だ。って言っても人界の月とは違うらしいけどな。あれは神界からも見えるんだと。満ち欠けして見えはするけど、けしていなくなることはねぇのす。いつも上のどこさかさいて……まるで監視してるみたいに……」
思いもよらぬ郷愁感にわたしは胸元を押さえていた。
「どうしたえん?」
俯いて月を視界から追い出す。
突き刺されるようだった胸の痛みは魔法でも掛けたみたいにすっと解ける。
「なんでもないよ」
わたしは笑って首を振って見せた。
今のは聖?
違う。
――もう一人の方。
その昔あの月に住んでいたという。今でも、あんなに遠くに身体を残してきているという。
喉が乾いた。
あからさまなほど彼女は帰りたがっていた。
眠らされているというのに、魂が揺れている。
わたし達から離れようと、もがいている。
「樒ちゃん、これ」
クレフが差し出してくれた水筒をひったくるようにしてわたしは飲み干す。
喉の渇きは癒えても、心には焦げ目が残った。
「ごめん、全部飲んじゃった」
まだざわめく心が水筒を返す手を震わせていた。
クレフは一度それに目を留めていたが、すぐにわたしの顔に視線を戻して微笑む。
「構わねのす。これは魔法の水筒。中の水が足りなくなれば空気中から酸素と水素を勝手に取り込んで、自動的に水を精製するのす」
わたしは今まさにわたしを苦しめていたはずの月のことも忘れて、返した水筒を凝視した。
クレフが笑っている。
「ハイテクだえん?」
「……うん」
闇獄界って一体どんなところよ。
周りは未開のどろどろ魔物大発生地帯なのに、中にはこんな人間と変わらない人もいて、わたし達の世界では目を見張るような技術を持っている。
「神界は精霊と契約することでその力を貸してもらえる。だけんどこの世界にいる精霊は闇の精霊ばかり。あるいは人界や神界で穢れきった霊魄を引きずって落ちてきたものばかり。それでも彼らは闇獄界の人間のためには指一本動かさない。それ以前に、ここに生まれ育った人間は精霊を感じることができねのす。所詮この世界は生き物が暮らす場所でなく穢れが行き着く溜まり場。結局、ここの人らは魔法が使えねがら、技術を高めるしかなかったのす。自分達の身を守るために」
精霊は、確かにこの世界にも存在している。
わたしの、あるいは時の精霊王の魂を守ろうと微弱ながら何かの存在がわたしを取り巻いているのが分かる。
「クレフも感じないの?」
「おらは……おらもわがらねな」
一瞬感覚を研ぎ澄ませるように目をつぶったあと、クレフは寂しげに笑った。
「闇獄界の炎ってのは、つまるところ神界の精霊たちみたいなものなのす。あいつらにおらたちを助ける気なんざ毛頭ないんだろうけど、それを魂に納めて御して操るのが闇獄主なのす。御するためにはその炎の性質――悲しみや怒りや恐れや、それを世界の誰よりも抱えていなければできないのす。足りずに手を出せば、逆に手を出した人間が焼き尽くされ、炎を大きくしてしまう。いつかこの世界を、ひいては神界も人界も焼き尽くしてしまうだろうその炎を身に治めて御するのが、闇獄主の本当の役割なのす。闇獄主のほとんどが自分のことしか考えてねぇのが実情だけんどな。それでも御せる者がいれば愛優妃様は何も言わずに炎を預けている」
横顔に僅かにやりきれなさを滲ませて、クレフは一度言葉を切り、再び前だけを見て歩き出した。
わたしは小走りにその後についていく。
「闇獄界に来た時、愛優妃様はこの世界に溜まった澱を十二の負の感情に分け、燃やしはじめたんだ。でも澱は溜まる一方。炎は燃え尽きることなく、どんどん大きさを増すようになっていた。あろうことかその負の感情を糧にして」
「サザは炎の檻に閉じ込めてるって言ってた」
「同じことだよ。厳密には燃やされるべき負の感情それ自身が自らを拘束する檻を成長させているけれど」
「だから、キャパシティの大きい人に取り込ませることにしたんだ……」
ファリアスは望んでいた。
ほんの一瞬正気に返って、わたしに願った。
わたしに、殺してほしいと。
わたしはただのちっぽけな人間なのに。神様でも神様の子供でもないのに。
自分の命を背負ってほしいと、願われた。
「もし、闇獄界の炎に灼き尽くされたらどうなるの? 取り込んでいたその人の魂は?」
「意思も何もかもを失って、ただの澱となり、炎の糧になる。燃え尽きた後には何も残らない」
「灼きつくされても魂は消滅するの?」
「だから、闇獄主たちは生きるしかない」
悲愴な声だった。
「ねぇ、クレフ。クレフはどうしてこんな外歩いてたの? どうして愛優妃と親しいの? もしかしてクレフも……」
「あ、見えた!」
クレフはわたしの言葉など聞こえなかったのか、突如明るい声で前方を指差した。
わたしは左に一歩進み出てクレフの背後から顔を出す。
クレフの指差す先、まばゆいばかりの煌きが視界を灼いた。
函館の夜景よりも、横浜の夜景よりも彩りに満ちた光が闇を埋め尽くさんばかりに輝いている。
「あ……れは?」
振り返ったクレフの顔半分が青いネオンを反射して表情が翳る。
「光電の都ディアス。闇獄界の首都だよ」
「……ディアス」
「あの向こうにひときわ高い尖塔が見えるだろう? あれが愛優妃様が住んでおられる闇獄宮なんだ。そして、この闇獄界の中枢でもある」
闇獄界の中枢。
そこへは、いや、ディアス自体、時空軸から直接飛んでくることはできない。あの闇の都には幾重にも外界からの干渉を阻む障壁が張られているのだ。そうでなくても闇獄界は人界と、そして神界から排出された負の感情が流れ着く先。わたしの周りに漂うこの黒いものは全てその澱。長く触れるなり吸い込むなりすると、少なからず精神に異常を来たす……かもしれない。実際は闇獄界に行って戻ってきた者はいないのだ。第三次神闇戦争で闇獄界に攻め入り、停戦状態に持ち込んだ統仲王ですら生きて戻ってはこなかったのだから。
「さてと。もう少し進むとディアスに入る転送装置があっからな。がんばるんだぞ」
「ディアスに入る転送装置?」
「んだ。城壁代わりの障壁がいくつも張られてっがらな。この周りにはたくさん魔物がいるえん? そいつらが入り込んで悪さしねように、存在登録済みの者しか中さ入れねようになってんだ。転送装置はその選別装置みたいなもんだな」
「選別装置……パスワードとか入れるの?」
「んだのす。虹彩で適合するか判断して、その次にパスワードを入力するのす。外にいる奴らは大概本能だけで生きてるんだども、中にはちょっと頭の働く奴もおってな。そういう奴らは中から外さでてきた奴の……いや、ま、えっと……」
言葉を濁したクレフの目が一瞬鋭く眇められた。
その視線の向けられた方をわたしも振り向く。
「い、イソギンチャク……!? タコ?! イカ?!」
闇に青白く透けるそれの背丈はわたしよりも大きい。ざわざわと触手を蠢かしながらそれはこっちに向かってくる。
思わず凝固したわたしの前にクレフは進み出で、左手一つをかざした。
それだけでその魔物は悲鳴とも泣き声ともつかない音を発して闇の中に消えていく。
さっき真由の〈俤〉を消滅させた時と同じだった。
触れることもなく魔物を消してのける。この人、あんなに気さくで垢抜けない感じがつきまとうのに、愛優妃に会いにいけるだけあってやっぱり強いのだろうか。
もしかしたらわたしも気を抜いたら……。
「そったに怖がらねでくなんしぇ。これは闇獄界の澱から生まれたものにしか使えねのす。この外でしか意味がねぇのす」
エメラルドグリーンの瞳に映るわたしは正直すぎるほど怯えた顔をしていた。そのわたしを映す瞳はどこか悲しげに揺れる。
深い。
何にそう思ったのかはわからない。
だけど、クレフの目は澄んでいながら深く深く底が見えなかった。何かを奥底に隠しているかのような。それはきっと、わたしに見せている陽気なクレフからは想像もできないほど異質なもの。あるいは、正反対のもの。
絶望?
「したらばほれ、も少し歩くべ」
わたしが深く入り込もうとした瞬間、瞳の奥にひた隠されていた底は、限りなく明るい透明感に塗り替えられて再び底なしになっていた。
「ん? まだなんかいるな……」
「えっ」
ふと耳をそばだてたクレフにわたしはしがみついた。
「あ、今度はそんな悪い気配でもないみたいだけんど」
「……ぉぃ……おぉい……誰か、いませんかぁ~……!」
聞こえてきたのはなんともかわいらしい少年の声。
「夢追ちゃーん、譲葉ちゃーん、どこいっちゃったのー?」
切羽詰っているらしいのは気配で分かるのだけど、お腹から力が抜けきっているのか、いまいち緊迫感のある張った声になっていない。
わたしとクレフは顔を見合わせ、もう一度声のするほうを眺めた。
が、わたしにはやっぱり何も見えない。
「クレフ、今度は何がいるの?」
つかんだまま離せずにいるクレフの袖。
その袖の下の袖はぴくりとも動かない。
クレフは息をつめていた。息をつめて声のした方向を見つめていた。
顔を上げた視界の中、一点緑色の輝きが放たれる。
その周りに群がるのはさっきわたし達を襲ってきた青白く透明なイソギンチャクをひっくりかえしたような魔物。
「た……助けなきゃ……」
さっき何もできなかったというのに、思わず飛び出そうとしたわたしをクレフは静かに腕で制した。
「片付いたみてぇだな」
緑色の光は弧を描いて一振りで青白い光をなぎ払う。
そして、クレフが言ったとおり蝶が燐光を散らすように切り裂かれた青白い光は破片となって舞い上がり、音もなく闇に還っていった。
綺麗だと思うことは不謹慎かもしれない。
だけど、その光景は幻想的であまりに現実からかけ離れていた。
「いいな……あいつはちゃんと救えるんだな……」
漏れ落ちてきたクレフの言葉にわたしは彼を見上げる。
「おれは、自分の糧にするしかできねから」
再び垣間見せた緑の闇の底。それはさっきよりも深さを増していた気がした。
「それ、どういうこと?」
クレフは口元だけで微笑んでみせる。
「あの緑の光の持ち主も、法王の魂だべ」
「え……?」
緑の光を放つのは育兄さまの魔法石。じゃあ、あの光の軌跡は〈緑牙〉?
青い燐光が消えた後、緑の光も色を失い、再び視界は闇だけが埋め尽くす。
「樒ちゃん、彼も拾ってってあげるべか。いくら育命法王でもここの魔物全部と対峙するんじゃ分が悪すぎだ」
まるで旧知の友人の名を呼ぶような気楽さでクレフはその名を口にした。
「知ってるの?」
「……おれはね」
今度の翳りは瞬く間だった。
わたしが覗き込む前に、エメラルドグリーンの瞳は闇の中から徐々に姿を現すその少年に向けられてしまったから。
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