聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉
第 3 章  再 会

 6

「聖、聖」
 ふと、真っ暗な激流の中、もがくこともできないわたしの耳に声が流れ込んできた。
 心配そうな男の人の声。
 優しそうで、でも悲しそうで。
「聖、こんなところにいたのか。駄目じゃないか。勝手に空間を渡ってきたりしたら。あれほど言っただろう? 〈渡り〉は体への負担が大きいから使ってはいけないと」
 声は現実であるかのように明瞭にわたしに囁く。
 聖、と。
 その声に呼ばれただけで、わたしの胸は満たされていった。
 柔らかくも抱きしめすぎれば刃を向けられるような切なさを伴って。
「龍兄」
 わたしは姿の見えないその人に向かって両手を伸ばしていた。
「龍兄」
 もう一度呼ぶと差し出していた腕が引き寄せられ、肩に重めのコートらしきものがかけられた。そして、遠慮がちに大きなその腕はわたしの肩を抱く。
 ばりっとした厚手の服の向こうからは、心地よい心臓の音。
「言わないことはない。またこんなに身体を冷やしてしまって」
「龍兄が迎えに来るのが遅いからだよ」
「私がいつもいつもお前の様子を見に来れるわけではないことくらい分かっているだろう?」
 困惑気味に言ったって無駄なんだよ?
 だって貴方は現にこうやって探しに来てくれたんだから。
「今日は来てくれるって思ってた。だって、お仕事の方、一段落したんでしょう? さっき私のかわりに天宮に行ってた澍煒が教えてくれたもの」
 見上げなくたって私には分かる。
 貴方が呆れた顔をしてることくらい。
「ねぇ、龍兄。いつの間にか、風冷たくなっちゃったね。私、待ちくたびれておばあちゃんになっちゃうかと思った」
 この温もりが恋しくて。
「忙しいのは分かってたんじゃないのか?」
 貴方が私だけに向けてくれるその声が恋しくて。
「忙しくないときもあったことくらい分かってたよ」
 私はずっと待ってたの。
 寒さにかこつけて貴方が私の肩を抱いてくれるこの季節が来るのを。
 貴方はいつも理由ばかりを大切にしようとするから。
「だからって、澍煒にも侍女達にも何も告げずに行方不明になるのは……」
「だって、龍兄はこうでもしなきゃ私に逢いにきてくれないでしょう? それに私、ちゃんと書きおき残してきたよ。龍兄にだけ、だけど」
 わざとらしいため息が耳をほんのり暖めて吹き抜けていった。
 くすぐったくて私は肩をすくめる。
「どうした? やっぱり寒いんだろう?」
「うん、寒いね」
 もっと強く抱きしめてほしくて私の口は嘘をつく。
「なら早く城へ帰ろう」
 なのに逃げ腰な貴方は口実ができたとばかりにそんなことを言う。
「それは嫌。だって、私がお城に帰っちゃったら龍兄も帰っちゃうんでしょう?」
「聖の元気そうな顔が見られたからね」
「元気そう? それはね、龍兄が今一緒にいてくれてるからだよ」
 そして、ほら。また困ったふりをしてため息をつく。
 観念してもっと抱きしめて?
 それ以上はもう、望んだりしないから――
 それは、小さな砂時計の砂が全て零れ落ちてしまう程度の、私たちにとってはとてもとても短い時間。
 そんな刹那でも、触れ合っていられる瞬間があるなら私は幸せだった。
 たとえ私の肩を抱きしめている間中貴方が苦しんでいたとしても、逆にそれが私には嬉しかったの。
 流れ込む濁流の中にちりばめられた愛しい記憶のかけら達。
 ともすればわたしの意識は聖となり、揺れながら記憶を辿るように流されていく。
 甘くて、切なくて、痛くて、苦くて。
 けれど、その一つ一つを味わっている暇はわたしには与えられなかった。
「樒ーっ」
「樒ちゃんっ」
 葵と桔梗の叫び声にわたしは現実に呼び戻される。
「それ以上近づくとこの方の息の根を今すぐ止めますよ」
 愉悦に浸ったファリアスの片肘はわたしの首元を息もつけないほどきつく締めつけ、もう片方の手はまだ魔法石を掴みだそうともがいていた。
 時はさほど経っていなかったのかもしれない。
 気持ち悪さも痛みもさっきとあまり変わってはいない。
 ただ一つだけ違ったのは、わたしの意識がさっきよりも明瞭になっていたことくらいだった。
「ファリアス、そんなに魔法石がほしいなら出してあげる」
 意識を取り戻していたことに気づいていなかったのだろう。
 ファリアスはぎょっとしたようにわたしを見下ろした。
『悠久なる時の流れを刻みし 我が魂なる魔法石よ
 時の精霊の魂を預かりし 聖なる時の石よ
 時空の理 守るため 
 一張りの白き弓となりて 今こそ我が手に蘇れ』
 手を、前にのばす。
繊月せんげつ
 石とも金属ともつかない硬く冷たい弓幹ゆがらが掌に触れた。
 わたしはそれを取り落とさぬように両手でしっかり握り、切っ先をファリアスの喉元に突きつける。
「う゛っ」
 顔をしかめたファリアスがのけぞった隙に、わたしは滑り出すようにしてその腕から逃げ出した。
「樒ちゃん、それは――」
 確かめにくそうに桔梗は途中で口をつぐむ。
「聖の繊月、だね」
 口元に浮かんだであろう苦笑も憎悪に煮えたぎるファリアスの目に射られて瞬時に掻き消えていた。
 せっかく手にしたこの弓を上手く使えるかは分からない。
 何せわたしは運動神経は悪いし、弓なんて矢に触れたことすらないのだから。
 せめて武道に明るい桔梗ならもっと上手く使えたかもしれない。
 でも今はそんな弱音を吐いている場合じゃなかった。
 ファリアスは手を一振りすると、時空の切れ間から溢れだす闇に手を差し入れて一本の抜き身の長剣を取り出した。
 わたしは弓幹から集中して一本の矢を引き出し、番えて弦を引き絞る。
 文字通り弓なりにそった繊月はぎしぎしと懐かしい音をたてた。
 基本は聖の記憶が覚えていた。
 それだけに、筋肉の薄いわたしの腕は心もとなくて仕方ない。
 不安を吹き飛ばすために、わたしは一息胸裂くほど冷たい空気を吸い込んだ。
「〈悔惜〉の炎に身を焦がす哀れな男ファリアス。今、その苦痛から解き放ってあげる」
 傲慢とも思える台詞を吐いて、わたしは向かい来るファリアスに向けて矢を放った。
 解き放ってあげる――そう言っておきながら、とうのわたしの心にそんな慈悲は残っていなかった。
 この矢には真由を傷つけた恨みしかこもってはいない。
 聖の記憶を、心を引き渡されながら、詫びも何もなく私怨だけで極限まで引き絞った弦を離していた。
 鏃の向く方向は真っ直ぐファリアスの左胸。
 だけどわたしは外れた時のことも考えてもう一本を弓に番えた。
「こんなもの」
 余裕すら窺えるファリアスは握った剣で矢を叩き落し、瞬時に、そう、さっきわたしの前に立ちはだかったようにまたわたしの目の前に現れた。
 とっさにわたしは振り下ろされた剣を弓幹で凌ぐ。
「聖刻法王、悔しいのでしょう? 己の非力さが、憎くて仕方がないでしょう? 貴女は今、この世の何よりも醜いお顔をなさっていますよ」
 楽しげに囁いてきたファリアスの言うとおりだった。
 ファリアスの、いや、レリュータの青い瞳に映るわたしはきつく唇を噛み、自分でも禍々しいと感じるほどぎらついた目でファリアスを睨みつけていた。
「ファリアス、貴方がそれを諭すの?」
 わたしの負け惜しみにファリアスは嫣然と微笑む。
「私だから諭せるのですよ。よろしいのですか? 貴方が後悔すればするほど、私は力が漲ってくる」
 さあもっと悔やめといわんばかりにファリアスは上から力を加え、わたしの腕を圧迫する。
「樒ちゃん、だめよ。今まともに前から向かったところで……」
 桔梗の声に耳を傾けた瞬間、わたしの肘はファリアスの力に耐えかねて砕けるように曲がり落ちてきた。
 上から迫り来るは月光を鈍くはねかえす不気味な長剣。
 このまま上体を寝せたとしても屋上のコンクリートをまな板に調理されるのは目に見えている。
 だけど、身体をどう動かしていいのかわたしには分からなかった。
 耳には永遠に終わらなそうな桔梗の詠唱。
 視界の端には間に合えとばかりに飛んでくる朱雀蓮の紅き炎。
 ここで倒れるわけにはいかない。
 真由、真由、真由――!!
「障壁」
 呪文の詠唱もなしに、突如朗々たる青年の声が空間に割って入ってきた。
 ファリアスの剣はわたしの鼻先すれすれで何かに弾かれるようにはねかえり、その衝撃にファリアスまでが後ろに吹き飛ぶ。
「主、貴女はまたできぬことを無理になさろうとしましたね?」
 ため息混じりのお説教の声は、ついさっき気まずく別れたとは思えぬほど自然なものだった。
「飛嵐」
 振り返ると、その腕にぐったりと力の抜けさった幼い少女を抱いた飛嵐の姿があった。
 その姿にファリアスは歯ぎしりするような表情を浮かべ、続いてわたしを一瞥するとふっと闇の中に溶け消えてしまった。
「真由」
 今すぐにでも真由の下に駆け寄りたいのに、わたしの足腰は冷たいコンクリートにへばりついたまま力が入らない。
 幼いわたしは仰向けに倒れたまま身じろぎもしない。
「飛嵐……真由は……?」
 おそるおそるわたしは確かめる。
 目に入る真由の姿はもう命宿しているとは思えなかったけれど、どうしても否定してほしくて。
 けれど、飛嵐はそんなわたしの期待に答えることなく無言のままわたしの前に跪き、真由の身体を差し出した。
「真由? 真由! 真由っ!」
 手をのばし、真由の痛みも省みずわたしはその肩を揺さぶった。
「み……ちゃん……?」
 先に僅かに唇が震え、微かな痙攣とともに真由は目を開けた。
「真由……」
 安堵とともにわたしは肩をおろし、息をついた。
 しかし、真由の目はいつまでたってもうつろなままわたしに焦点を結んではくれない。
 わたしは慌ててその手を握った。
 わたしの両手の中にすっぽりと納まってしまうほど小さな小さな手。
 それは、もう血が通っていないのではないかと思うほど冷たい。
「真由、今すぐよくしてあげるからね!」
『集え 時を動かす者たちよ
 この者のあるべき姿……』
「みっちゃん……だめだよ……」
 早口に呪文をまくし立てようとしたわたしの手の中で、真由は少しだけ指を震わせた。
「あたし、いないんでしょう? 未来……」
「そ、そんなことないよ!! いるよ、真由はいるよ! わたしの未来にだって真由は……」
「みっちゃん、嘘つくの下手なんだから。時はね、一つだよ。未来も、過去も、現在も。全部一つに繋がってる。理が……あるんだね……」
「理……? でもわたしはそれを曲げられるの。現にこうやって過去に戻ってこれたし、今すぐ真由を治してあげられる。生かしてあげられる!」
「あたし、自殺しようとしたよ。でも、みっちゃんに助けられて、みっちゃんにもう一度って言われて、生きようと思ったよ。これは、自殺なんかじゃない。見殺してって言ってるんじゃない……あたしは……」
 真由はそこではじめてちらりと身体を抱き支える飛嵐を窺ったようだった。
 飛嵐は何も言わない。
「飛嵐? 飛嵐がそう言えって言ったの? そうなんだね?」
 わたしは苛立ちをそのまま命の灯火消えそうな真由にぶつけてしまっていた。
 真由の髪の先が柔らかに左右に揺れる。
「違うよ」
 穏やかに真由は否定した。
 口元には笑み。
「あたし、もう死んでるの。いまは、少しだけ魔法かけてもらって……」
 飛嵐が?
 飛嵐が呼び戻してくれたの? あれほど理を犯してはいけないと忠告してくれた貴方が?
 おそるおそるわたしは飛嵐の顔を覗き見る。
 飛嵐は表情一つ変えず目を閉じている。
「ごめん、飛嵐」
「……いえ」
 低く小さな声にほっとしたかのように笑ったのは真由だった。
「みっちゃん、あのね、みっちゃんに、忘れさせてあげて」
「え?」
「なんかややこしいね……二人もみっちゃんがいると」
 真由が言っているのは小さなわたしの方のことらしかった。
「みっちゃんが屋上の扉あける直前から後の記憶、全部消してしまって? できるんでしょう? いまのみっちゃんなら」
 わたしの記憶が扉を開けてから曖昧なのは、わたしが小さなわたしに真由の言うとおり魔法をかけたから?
 〈忘却〉の魔法を――
「でも、それでも辛かったよ! 結局わたしは何一つ忘れられなかった。忘れるどころかわたしは……」
 事故の直後、確かにわたしの記憶は屋上の扉を開ける直前から綺麗になくなっていて、当直の先生に見つけられたときに屋上で一人で倒れていた理由すら、満足に思い出せなかった。
 でも翌日にはわたしは真由が飛び降りた直前に自分が何を言ってしまったのか思い出していて、その言葉のせいで真由は死んでしまったのだとずっと後悔していて。
「ありがとう、みっちゃん」
 真由は穏やかに笑った。
「本当はちゃんと伝えたかった。ありがとうって。あんななし崩しにじゃなく、みっちゃんに会えてよかったって」
 もう、治癒するとも蘇生するともわたしは言えなくなっていた。
「わたしも……真由に会えてよかった……」
 降参を認めるように呟いたわたしに真由は安堵の笑みを浮かべ、囁いた。
「いまのお友達も、素敵だね」
 わたしは思わずちょっと笑った。
「あたりまえじゃん。わたしの好きになる人はみんな素敵な人たちばかりだよ」
「違いないや」
 謙遜なしに真由はそんなことを言う。
 わたしたちは一緒に笑い、やがて、笑い疲れた真由がはじめてわたしの顔に焦点を合わせた。
 見えているのかは分からない。
 おそらくもう何も映っていないのだろうけれど、その目はきらりと生気に溢れ、わたしをいとおしむように見つめていた。
「短かったけど、あたし、もう一度みっちゃんとやり直せたかな?」
 はらり、とわたしの目の前からは薄い紗膜のようなものが剥がれ落ちていった。
「うん、ばっちりだよ」
 他にどう言ったらいいのかわたしには分からなかった。
 でも、いつの間にかわたしの奥底に溜まっていた罪悪感やしこりは流れ去ってくれていて、戒めを解かれたように心は軽くなっていた。
「よかったぁ」
 真由はにっこりと笑ってうなずき、やがて静かに目を閉じていった。
「飛嵐、ありがとう」
 真由の手を離したわたしは、思い切るように立ち上がって踵を返し、小さなわたしが倒れている方に向き直った。
「真由を、元の場所に返してきてくれるかな」
「主……」
 珍しく迷うような飛嵐の声に、わたしは付け足した。
「わたしだけが救われて終るなんてことはできないから」
「御意」
 二拍の間の後、飛嵐の気配は真由を伴い掻き消えた。
「樒ちゃん」
「樒」
 小さなわたしの側からわたし達を見守っていた二人が遠慮がちに声をかける。
 葵は、泣いていた。
「ごめんね。つきあわせちゃって」
 ちょっと微笑んで見せたわたしを、駆け寄ってきた葵が殴るような勢いで抱きしめた。
「馬鹿野郎」
「あはは、野郎じゃないって」
「こんなときに突っ込むな、馬鹿」
「ん……」
 でも、わたしはまだ泣くわけにはいかなかったから。
 ショックで意識を失ったままのわたしの側に膝をつき、そっとその額に手をあてる。
「樒ちゃん、いいの?」
 その手に手を重ねるようにして桔梗が訊ねた。
「うん、いいの」
 真由の最期のお願いだから。
 でも、わたしは真由の言うとおり全て消したままにする気はなかった。
 三年前、大きなわたしがわたしにしたように、苦いところの記憶はすぐに戻るように、わたしたちが現われた記憶だけを消してしまおう。
 それはとりもなおさずこの子にもわたしと同じ苦しみを味あわせてしまうことになるけれど、だからこそわたしはここに戻ってこれたのだ。後悔がわたしをこの時に引き寄せ、真由とやり直す機会をくれたのだ。
 そして、苦い思いを抱えていたからこそ、桔梗や葵、夏城君にも出会えたのかもしれない。
『時はね、一つだよ。未来も、過去も、現在も。全部一つに繋がってる。理が……あるんだね……』
 聖は理を乱すことで未来を変えようとしている。
 けれど本当はそれも、一つの流れの一部に過ぎないのかもしれない。
 乱れた時の中でわたしが過去に戻り記憶を繋げられたように、一つの流れの中でもがこうとしているだけなのかもしれない。
『我 聖なる刻印を以て 汝が魂に刻まれし記憶の一部を断ち切らん
 時の流れ永久とこしえなれば 今はただ
 時満ちるまで 果て無き空を抱えて眠れ』
「忘却」
 僅かなほの白い光が小さなわたしの額に吸い込まれていく。
 折もよく、飛嵐は戻ってきていた。
「飛嵐、夏城君たちは見つかった?」
「はい。……一応」
 短く首肯した後、飛嵐は微妙にそう言葉を付け足した。
「一度、お会いになりますか?」
 わたしは桔梗と葵を見回した。
「そろそろ落ち着ける場所で一服したいわねぇ」
「そうだな。恐竜がいないとこなら、もうどこでもいいけど」
 二人は思い思いに一人ごちる。
「葵、なんかもうそればっかだね」
「あのなぁ、一日三回あいつらと追いかけっこしてみろよ。自然博物館~なんて喜んでる暇なんかなくなるぞ」
 少なくとも一回は喜んでいたわけだ。
 呆れを苦笑で紛らわして、わたしはもう一度飛嵐を見上げた。
「じゃあお願い。連れて行ってちょうだい」
 飛嵐は頷き、鳳凰の姿に身を変えた。
 背に乗るように翼をコンクリートの屋上に垂れ差し伸べる。
 葵は嬉々として早速その背に乗り、桔梗もわたしを気にかけながらも先に上っていった。
 わたしはもう一度小さなわたしを振り返る。
「がんばって」
 その言葉を彼女に落とし、わたしも輝く翼の上を上った。
  
 




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