聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉
第 3 章  再 会

 4

 時は、拮抗していた。
 いかにも危険そうな赤黒く濁った光。
 そして、白い光輝。
 二つの光はせめぎあい、新たな次元を生み出す。
 けれども、ぱっくりと開いた黒い空隙は人一人出入りできるほどまでに拡大すると、不意に何かに抑えらこまれたように動きを止めた。
「聖様、貴女はまたなんという無理なことを」
 わたしを取り巻く白い光輝の中、一点光は凝縮し、時空嵐と空隙からわたしを守るように間に割り込むようにしてそれは現われた。
 見上げるほど大きなその背と羽根は穢れなき白でありながら光の加減によってうっすらと紅づいて見える。目の前に垂れ下がるのは優美な帷子を連ねた幾本もの美しい尾。
 孔雀のようでいて、この鳥はもっと大きく――それこそ人一人や二人乗せられるほど大きくて、何より崇高な美しさを纏っていた。
飛嵐フェイラン……!!」
 突如現われた巨大な美しい鳥を前にして叫んだのは緋桜だった。
「フェイ……ラン……?」
 小首を傾げたわたしにはお構いなしに、人語を喋った鳥は黄金色の鋭い目を背後の緋桜に向ける。
澍煒しゅい、お前がついていながら何をしている!」
 鋭く冷たい一喝。
 黄金の瞳は怒りに燃えたまま、わたしにも向けられた。
「聖様、貴女は時の管理者だったはず。それが、何故自ら時を、歴史を曲げようとなさるのですか?」
 大きな鳥は見る間に一人の男性の姿に形を変え、すぐ間近から見下ろすようにわたしを覗き込んだ。
 年は二十代半ばくらいだろうか。厳しく据えられた黄金色の目はそのままに、青みがかかった短めの黒い髪が時空風になびく。
 その姿は懐かしいはずなのに、わたしの中の記憶に当てはまるものはなかった。
 レリュータに預けたままの記憶の断片に閉じ込めてきてしまった人。
「聖様、私の居ぬ間に何をしました?」
 鋭く見つめられてわたしは息もできなかった。
 ただ胸の辺りがざわざわと騒ぎ、苦しく締めあげられる。
「……邪魔を……、邪魔をしないで。全部これにかかっているのよ」
 口からはうわごとのように聖の言葉が漏れる。
「助けてくれなかったくせに、今更邪魔をしにこないで」
 口がそう告げたとき、俄かに飛嵐と呼ばれた青年の顔は曇った。
 が、それも一瞬のこと。すぐに厳しさが顔に戻ってきた。
「いいえ。黙って見過ごすわけには参りません。貴女はまたご自分でご自分の命を縮めようとなさっているのですから。それも人界を消滅させてまで」
「消滅……したの……?」
 ぐらりと揺れたのは足元だったのかわたしの上半身だったのか。
 とにかくも、その揺れはわたしを守景樒だけに戻すのに充分だった。
「聖様、いいえ、モリカゲミツキ。これ以上、聖様に心許してはいけません。貴女はもう何もしなくていい。いいえ、ただ聖様が勝手なことをしないように抑さえていていただきたい」

「飛嵐! 今更しゃしゃり出てきて余計なことを言わないでくれる?」
「澍煒。お前は真に時を生み出し治めゆく者でありながら、何故聖様の勝手を許した? 許すだけならまだしも、お前まで一緒になってこの世界まで消し飛ばす気か?」
 わたしのすぐ横に走ってきた緋桜と飛嵐が短く睨みあう。
「うーわー、仲間割れ? こんな時だってのに」
 割り込んできた気楽な声は、中性的な風貌をした男――サザだった。
「あ……夏城君は?!」
 時空の裂け目のせいで向こう側は見えなくなっていた。
 その裂け目を迂回するようにして遠目に見物の体制を整えたサザはにやにやと後ろを振り返り、左手の指先をきゅっと縮めた。
 その動きに合わせてよろよろと傷だらけの夏城君が引き寄せられてくる。
「星、かわいそうに。お姫さんにそんな姿見られちまって。でも恨むんならお姫さんだからな? 俺はお姫さんのリクエストに応えただけ」
「っくしょぅっ」
 ぎり、と夏城君が唇を噛む。その唇からも血が流れ出ていた。
「龍ならもっと上手く蒼竜を使いこなすよ。残念だな。腕が鈍りすぎ」
 そう言ったサザは軽く指を鳴らして手を開いた。
 夏城君の体が無造作に時空の裂け目の方へ向かって転がりだす。
「夏城君!!」
 思わず、わたしは強い風から庇ってくれていた飛嵐の背中から飛び出した。
「逃がすものか」
 折りよく立ちふさがったのはレリュータならぬファリアス。
 その手に握られた剣は、ぎらりと物騒な光を放って一条の軌跡を描いた。
「……ぁっ……」
 切られたのだと、わたしは気がつくのに随分時間がかかったと思う。
 痛いというよりも、左肩から右わき腹にかけてから炎が吹き上げているような感じだった。
「今度こそいただきますよ、魔法石」
 そのまま前方のファリアスの胸に倒れこんだわたしを、彼は女性の柔らかな腕でしっかりと抱きとめ、もう片方の手で魔法石を握ったままのわたしの手を開いていく。
「あ……!」
「樒!」
 飛嵐と澍煒が叫び声をあげた。
 けれどそれはわたしが魔法石をとられそうになっているからではなくて、夏城君を飲み込んで一層激しさを増した時空の裂け目が津波のようにファリアスの背後から覆いかぶさってきたからだった。
「う……あぁぁっ」
 目の前でレリュータの姿をしたファリアスがまず黒い波に飲み込まれた。
 支えを失ったわたしの体は更に前へ、黒い波の中へと傾いでいく。
 楽しげなサザの笑い声が、やけに近くからくつくつと響いてくるのはどうしてだろう。
「なぁ、お姫さん。過去に戻れるなら、お姫さんは一体いつに戻りたい?」
 顔から暗闇に突っこみ、切られた傷はきっと傾いだ身体の歪みに合わせて悲鳴をあげるのだろう。そう思った矢先、その腕は差しのべられていた。
 至近距離で耳をくすぐる声は、わたしを連れてそっとまさぐるようにわたしの記憶を遡っていく。
 過去、もし戻れるのなら。
 もし、やり直せるのなら。
「……真由……」
 闇に覆われていく視界に浮かび上がったのは、いつまでたってももはや二度と成長することのない一人の少女の面影。
 小学校六年の初冬、わたしが失ってしまった大切な親友の、唯一記憶に残された笑顔だった。
 胸には重く鈍いものが去来する。
「じゃあな、お姫さん。一年前のここで待ってるよ。鍵を見つけて、今度は自力でここまでおいで。そうすればきっと、お姫さんの記憶の扉も開かれる」
 囁かれた言葉はわたしを闇へと誘っていった。
 わたしの記憶の扉?
 違うよ。
 開かれるのは、聖の記憶だけ。
 そんなもの、わたしはいらない。
 過去の記憶なんてあったって仕方ないもの。
 忘れてしまったほうが楽なことなんて、この世にはたくさんある。
 願ったもの、望んだものが手に入らなかった苦い記憶なんて、わたしはいらない。
 ただ、満たされた記憶だけがあればよかった。
 都合の悪いものには全部消え去ってもらおう。
 都合の悪い記憶になりそうなことには手を出さずに。
 忘れて、忘れて、忘れて。
 そして、ようやくわたしはわたしを保っているの。
 願うことが罪悪だと。
 望むことが罪悪だと。
 わたしが知ったのは、消し去ろうとしても消しきれない彼女の笑顔が残されたあの日。
 罪悪。
 それを決めるのは、わたしを傷つけるか否かというだけの尺度で判定される。
 単純に引かれた境界線ボーダーは、けれど単純には消えてはくれなくて。
 ほんとは、消し去ってしまいたい、自由になりたいと願ったことだって、桔梗に出会う前にも幾度かはあったのだ。
 ただ、自力ではわたしはそのラインの外へと踏み出せなかっただけで。
 ラインのこっち側にいる真由の方が、わたしを引き留める力が強かったから。
「真由――」
 桔梗の手でようやく真由の元を離れられた後も、わたしは臆病なままだったんだね。
 彼女――聖の記憶は怖い。
 初めて彼女の記憶を覗いたときに、きっぱりと他人のものだと拒むことが出来ればよかったのに。今はもう、夢で見せられた彼女の記憶が自分のものだとどこかで受け入れてしまっている。
「真由――」
 せめて、今でも彼女が生きていてくれたなら、わたしはここまで世界に怯えなくても済んでいたのかもしれない。
 真由。
 真由。
 真由。
 もし、過去に戻れたなら。そう、桔梗に出会う前のわたしは数え切れないほどあの時のことを思い出し、想像しつづけていた。想像するたびに、偽りの事実を自分の中で真実にしようとしていた。
 けれどそれはいつも上手くはいかなくて、大概は翌日学校に行って視界に入り込んでくる彼女の机の上にのせられた花瓶と生けられた花に、ものの見事に打ち砕かれるのだ。
『心配かけてごめんね、みっちゃん。でも、わたしと話してるの見られたらみっちゃんまでいじめられちゃうから、だから……』
 ――もう無理して話しかけなくていいよ。
 水のみ場で一人きりで雑巾を洗っている真由が、疲れたような笑顔を浮かべてそう言ったとき、一体わたしはなんと答えたのだろう。
 いつも記憶は彼女のその苦笑のようなもので途切れ、最期の時の映像に切り替わってしまう。
 きっと、わたしは何も言えなかったのだと思う。
 それは、真由の気持ちを慮ったからではなく、己の保身を考えてしまったから。
 わたしには、クラスの四十人から一日中無視されて尚、真っ直ぐに顔を上げていられる自信はなかった。
 真由も、ぎりぎりだったんだよね。あの頃、すでに。
 なのに彼女を支えられる最後の一人だったはずのわたしまでもが、その一言をきっかけにクラスで話しかけられなくなってしまったのだ。登下校を一緒にすることも減っていって……どうしてせめてそれぐらい出来なかったのだろう。放課後の合唱部の文化祭での発表が近いからとかそんなことを言い訳にして。
 集団がわたしに植えつけた真由への生理的嫌悪。
 あの人たちよりもわたしの方が、一分でも一秒でも真由と過ごした時間は長かったはずなのに。ううん、時間だけが問題なんじゃなく、その濃さをとっても。
 真由と初めて出会ったのは、小学校三年のクラス替えのときだった。
 そうだね。時間だけをとってしまったら、わたし達が一緒に過ごした時間はあまり長いとはいえないのかもしれない。
 それでも、ずっと一緒にいたよね。
 さすがに席はくじ引きだったからいつも近くってわけにはいかなかったけれど、一緒に給食食べて、学校が終れば手をつないで帰ってどちらかの家で夕飯近くまで遊んで。
 真由はその頃、とても明るくて活発な子だった。おそらく、はじめてわたしに話しかけたときに真由が思っていたのは、引っ込み思案でなかなかクラスに慣れようとしないわたしを、自分が話しかけることでクラスに馴染ませようということだったのだろう。真由の周りにはいつも何人かの女の子達がくっついていて、真由に頻繁に話しかけられるようになったわたしは、同時に周りにいた女の子たちを通してクラスに溶け込んでいったのだ。
 気があうとわかったわたしと真由が二人でいる時間が増えても、クラス委員や生徒会の書記まで立候補してこなす彼女の周りには、やはりいつも人の輪ができていた。
 その輪が崩れていったのはいつだったんだろう。
 小学校五年生のときにまたクラス替えがあって、また一緒になれたねって喜んだのは覚えている。だからといって席が近くなることはなくて、林間学校の班も、修学旅行の班も別だった。
 そうだ、小学校六年の修学旅行のあとくらいからかもしれない。
 真由の周りの人の輪が崩れていったのは。
 ちょうど今頃、七月の梅雨明けとともに行った修学旅行のあと、そのまま夏休みに入ったものの、真由は私立の中学に行くんだって塾と家だけを往復する生活になってしまっていて、わたしは内心、取り残されていくようで面白くなかった。
 わたしも一緒に目指せばよかったのかもしれない。けれど、わたしはこの学年のまま中学にいっても楽しいだろうくらいにしか思っていなくて、むしろどうして真由がそんなに外に出たがるのかがわからなかったのだ。多分、わたしはその頃から望むことを恐れはしなくても、強く望むということを知らなかったのだろう。わたしの生活はそれほど可もなく不可もなく毎日が同じように回っていて、その生活は少なくとも見通せる範囲で続いていくのだと信じていた。
 真由は成績もよかったし、生徒会では副会長を務めるまでになっていた。考えるまでもなく通知表は申し分なかったことだろう。
 夏休み中、塾で何があったのかわたしはよく知らない。
 ただ、夏休み明けの九月、明らかに真由の顔は精彩を失っていた。
 わたしはただの受験勉強疲れだとしか思っていなかったけれど、とうにいじめは始まっていたのだ。塾の延長で、今度は学校のクラスを巻き込んで。
 今思えば、はじめは受験のプレッシャーのはけ口を求めてのことだったのかもしれない。真由が塾で何をしてしまったのか、耳に入ってくるのは成績を自慢したとか、解けない問題の教えを請うたらそんなこともわからないの? と冷たく言われたとか。
 わたしは直接それらの場にいたわけではなかったけれど、彼らの口から出てくる噂はどれも本当の真由を映し出してはいないことだけは分かっていたつもりだった。
 わたしは、リスクを分かっていて学校で真由との会話を試みていたのだ。
 どこかに真由を一番分かっているのはわたし、という幼い自負心もあったのかもしれない。
 だからこそだったのだろうか。
 真由にもう無理しなくていいと言われたとき、わたしはその自負心を傷つけられたような気がしたのだ。もう、わたしは必要とされていないのだと、盲目的に思い込んだのだ。
 あの頃のわたしが望んでいたもの。
 それは、真由がいる他愛もない日常だった。
 何の気負いもなく話せて、例え会話がなくても気まずくなんかならなくて。積極的にクラスのみんなと関わったりするのは全部真由がやってくれていたから、わたしは無理して自分を外交的にしなくても済んでいて。
 真由といるとわたしは楽でいられた。
 わたしは、真由という居心地のいい陽だまりでずっとぬくぬくとしていたかった。
 真由も、のんびりしたわたしが好きだといってくれていた。
 みっちゃんといると居心地がいいって。
「真由」
 十一月の文化祭が終った日。
 わたしは一度家に帰ったあと、振り替え休日になった翌日分の宿題ドリルを学校の机の中に入れっぱなしにしてきたことに気がついて、慌ててとうに夜闇の降りた夕方の薄暗い道を学校へと急いでいた。
 お祭りが終った後の学校は急にがらんと寂しくなってしまっていて、早々に先生達も帰ってしまっていたから、ほんとに宿直室以外は真っ暗だった。
 すでに閉じられた校門前でインターホンで宿直の先生を呼んで中に入れてもらい、足音がやけに大きく響く廊下に内心恐れをなしながらようやくクラスのある階まで来たとき、わたしの耳を掠めていった音があった。
 誰も残っていないはずの校舎で、階段を屋上へと上っていく足音。
 聞こえなければよかったと思うかと問われれば、わたしは正直今でも首を横に振る自信はない。ただ、宿直の先生に一緒についてきてもらえばよかったとは思う。
 いつものわたしなら足が竦んでその場に立ち尽くし、ドリルを取りに来たことも忘れて逃げ出していたに違いない。
 わたしが逃げ出さず、その後を追う気になったのは、もう一つ聞こえてくる音があったからだった。
 音というより声、といったほうが正確だろうか。
 やけに上機嫌で足取りに合わせ音を刻む幼げな女の子の鼻歌。
 その声の主が真由だとわかったからだった。
「真由?」
『真由?』
 目の前で、怯えるように小さな女の子は階段の上を見上げて呼びかけていた。
 さっきから耳元で聞こえている鼻歌は、わたしの記憶と微妙にダブりながら現実に重なっていく。その過程で、わたしは目の前の少女と一緒にその名を呼びかけていた。
「あ……」
 小さなわたしが階段を駆け上がっていくのを見上げて、わたしは小さく吐息混じりの声を漏らした。
 わたしは存在していた。
 漏れた吐息が白く暗闇に浮き上がっている。
 わたしは望みどおり過去、何度もやり直したいと願ったあの時に居合わせようとしていた。
 十一月の学校の廊下の床は冷たく、足から腰が冷えはじめているのがその証拠。
 聖の過去夢を見せられている時のようにただ傍観者としているのではなく、実体を持ったわたしが今ここに存在しているのだ。
「助けなきゃ」
 けれども現実を実感した瞬間、わたしは体中が燃え上がるような激痛に顔から廊下に突っ伏した。
「誰……か――」
 傷から痛みという名の炎が燃え上がれば燃え上がるほど、わたしの悪寒はひどくなっていった。冷たい床で冷やされはじめていたはずの頬には生暖かくべったりとした感触の液体が侵食しはじめる。
 薄暗い廊下は緑色に不気味に光る非常灯や窓の外からの街のネオン、それにやけに明るい月の光でかろうじて壁やドアのありかが分かる程度だった。それでも、鉄くさい臭いと感触で頬を濡らしていくそれが、さっきファリアスに切られた傷から溢れ出ている自分の血だということくらい容易に察せた。
 まずい……まずいよ。
 わたし、このままここで出血多量で死んじゃうのかな。
 宿直の先生が見回りに来るのは、きっと小さなわたしが戻るのが遅いと気がついてからだろう。
 でも、あの日、小学校の校舎で女の子が倒れてたなんて話はなかったはず。
 血の跡が校内に残されていたという話は、確かなかったはずだ。
 最も、この直後の記憶なんてわたしにはあってないようなものだったけれど。
「真由」
 わたしはかろうじて手に残されたままの魔法石を握った。
 石は硬いくせに柔らかく吸いつくようにわたしの手に馴染んでくる。
 せっかくこの時に戻ってきたのに。
 ここに血の跡が残っていないというわたしの記憶が正しいのなら、わたしは小さなことかもしれないけれど、ここに存在するだけで新たに歴史を作り変えていることになる。
 本当に変えてしまえるというのなら、どうか真由を、真由の手を――
「桔梗、葵、助けて……」
 呼ぶ名前が変わっていたことに、わたしはちゃんと気づいていたのだろうか。
 確かなのはわたしが彼女達の名を呼んだ刹那、握られていた魔法石が力の抜けたわたしの手から転がりだして目を灼くほどの閃光を放ったということだけ。
「あれ、どこ、ここ?」
「真っ暗ねぇ……って、なんだかやけに血なまぐさいんだけど……」
 遥か上の方で聞き覚えのある声がする。
 ほっとしたわたしは、なぜか鼻でかすかに笑っていた。
「う、ぎゃぁぁっ、なんかいる! なんかいるよ、桔梗!」
 葵が桔梗の後ろに隠れたのがうっすらと見えて、わたしはさらに笑った。
 そのわたしの前に桔梗がしゃがみこむ。
「樒ちゃん?」
「何言ってんだよ! 樒がどうしてこんなところにいるんだよ! それも死体みたいに……」
「あはは、でも、わたしだよ……」
 かすかなわたしの笑い声に葵は飛びつくようにしゃがみこみ、手の平サイズの灯火をともした。
 わたしは眩しさに目を閉じる。
「樒!!?」
 二度驚いた葵はそのままわたしの下に広がる海に気がついて絶句したようだった。
 厳しい顔をした桔梗が何も言わずにわたしの身体を仰向けにする。
「っうっ……」
 呻いてはみたものの、もう痛いのかどうかさえわたしには分からなくなっていた。
「た……すけて……。おねがい……」
「何言ってるの! 当たり前でしょう! すぐに治癒を……」
「あお……い、お、願い、上、行って、真……由を……」
 そこまで口にしたとき、大津波のような悪寒が体中を震わせて意識を揺るがせた。
「樒ちゃん!!」
 呼びかけながら桔梗は葵に目で合図したようだった。
「樒、上だな? 屋上でいいのか?」
「……ん……おね……がい……」
 変えてはいけない歴史。歪めてはいけない人の寿命。
 人一人を予定通りに輪生環に送らなかった場合どうなるか――過去、そんな事例はなかった。きっと、その人物が他愛ない人生を送ることになったとしても、関わる人々の人生もどこかでちょっとずつ歯車が狂っていく。
 それは、もしかしたら時を戻してしまうことよりも大きな波及効果を世界に拡げていくかもしれない。
『癒しの水よ 傷つきし者の中を流れる者達よ
 途絶えることなきその廻めぐりにて 汝らの器を癒せ』
「廻れ、癒しの水たち」
 桔梗の声が滑らかに詠唱を終えたとき、わたしの身体はよく眠れた朝のように軽くなった。
 とはいえ、胸の辺りにまだむかつきが残っている。
 それでも、わたしは自分の手で起き上がることが出来た。
「ありがとう、桔梗」
 桔梗はにっこりといつものように微笑する。
 わたしは、不意に彼女の肩に腕を回して抱きついていた。
「樒ちゃん? まだふらふらするの?」
 ふらふらするのはわたしの心。
 ああ、真由が助かったらわたしは桔梗と出会うこともなくなってしまうのだろうか。
 夏城君に出会うことも……。
「桔梗」
 いなくなってしまわないように、そんなことはないって勿論分かっているけど、わたしは桔梗の背に回した腕に力をこめた。
 そっと桔梗の手が頭を撫でる。
「樒ちゃんが私達を呼んでくれたのね。ありがとう、頼ってくれて」
 わたしはいつから今が大切になってしまったのだろう。あれほど真由との過去をやり直したいと願っていたのに。
 大切だと思えるものが現在にできてしまったから?
 現在が過去の犠牲の上に成り立っていて、けれどもその犠牲を救えるチャンスが今目の前に迫っていて――迷う自分が許せなかった。
「守景樒、こんなところにいたのですか」
 微かな光が暗闇から漏れ、飛嵐と緋桜が姿を現す。
「樒、心配したのよ! あんた傷は?」
「ありがとう、緋桜。傷なら桔梗が治してくれたんだ」
 わたしは横にしゃがみこんでほっと一息ついている緋桜に笑いかけた。
 緋桜と桔梗は顔を合わせると、どことなくぎこちない会釈で挨拶を交わす。
「緋桜、お願いが。桔梗を連れて夏城君を探してちょうだい。夏城君、怪我してた……」
「それはいいけど、樒、あんたは?」
「わたしは……やらなきゃならないことがある」
 どうできるのかは分からなかった。
 でも、二度目のショックを受けることになろうと、わたしはこのまま葵に任せきりで夏城君を探しに行くわけにはいかない。
「あれ、桔梗、光くんは?」
「ああ、向こうから飛ばされたときに離れちゃったのよね。大丈夫。光くんたくましいからたとえ闇獄界でも生きていけるわ」
「……緋桜、光くんも探してちょうだい」
「光くん? ああ、わかった。わかったけど――樒一人にするわけには……飛嵐、」
 緋桜はその名を呼んで後ろに控えたままの男を見やる。
 わたしはなぜかその名を聞いただけで少し胸が苦しくなった。聖のせいなのか、はたまたさっきのせいか、どうやら苦手意識が生まれてしまったらしい。
「飛嵐、貴方が樒を守って」
「緋桜、それは――」
 そんなことをしたら真由を助けられなくなる。
「貴女がそういうなら」
 わたしの意志などそっちのけで飛嵐と緋桜は勝手にそう決めていた。
 わたしはちらりと飛嵐を見る。黄金の瞳が容赦なくわたしを貫いた。
 びくりと肩が震える。
 嫌だった。何もかもがだめになりそうで、飛嵐を連れて行くのは嫌だった。
 混乱したまま口を開こうとしたとき、ふと肩に柔らかな手がのせられた。
「いいえ、私が一緒に行くから大丈夫よ」
「桔梗……」
 不安げなわたしの視線を横に、桔梗と緋桜とは見つめあう。
「葵ちゃんも先に行ってるし、夏城君と光くん探してくれるなら私が一緒よりもあなたたち二人一緒のほうが時空を渡りやすいんじゃないかしら」
「あ、でも緋桜じゃ光くんの顔分からないんじゃ……」
「誰がどのうつわに生まれてきたかくらいチェック済みなんでしょう? 時の精霊王」
 桔梗の余裕の笑みは崩れない。
 やがて、緋桜はにやりと笑ってわたしを見た。
「樒、夏城とも一人のガキのことはきっちりあたしと飛嵐が回収してきてやるから、あんたは安心して過去を取り戻してきな」
 そういうと音もなく立ち上がり、渋い顔のままの飛嵐の袖を引く。
「しかし澍煒」
「澍煒じゃない、緋桜よ。飛嵐、あたし達はあの子の影なの、守護者なの」
 緋桜は遠く飛嵐に囁いただけだったはずなのに、その声は周りが静かなせいかわたしにまで聞こえてきていて。
「緋桜! 緋桜はただの影じゃないよ! 澍煒もそうだったけど、れっきとしたわたしの友達なんだから! だから……」
「分かってるって、だからあたしはあんたのために最大限できることをしに行く。でも、ありがとう」
 暗闇に融けかけた緋桜が嬉しそうににっこり微笑む。
「それから飛嵐! ……ごめん」
「主のその言葉は聞きあきました。見つけ次第またお迎えに上がります。それまでどうかご無事で」
 うなだれたわたしに落とされた声音は氷のように冷たいものだったけれど、かき消える直後に残された言葉はほんのりわたしの心を暖めていった。
 小さく隣で桔梗が笑っていた。
「桔梗?」
「相変わらず仲いいわねぇ、あなたたち」
「え、仲いいって、でもほんとはまだ会って半日もたってないのにわたし、馴れ馴れしかったかなって、今……」
「向こうは半日なんかじゃないわよ。樒ちゃんが生まれてから今日まで、姿は見せなくてもちゃんと見守ってくれてたはずよ。友達というよりは子孫を見守るご先祖様に近い感覚だったかもしれないけれど」
 桔梗はまたくすくすと笑って立ち上がった。
 ご先祖様……なんかイメージが……。
 でも、もしかしたら彼らに見守ってもらえていたから今、わたしはここに存在していられるのかもしれない。事故に遭うこともなく、大病を患うこともなく。
 勿論たった十五年だけどわたしの人生は平坦な道ばかりだったわけじゃなくて、大小の禍福を味わって今がある。
 そして、この先に待ち受けるのは最も苦い、ううん、味すら分からないほど悲しい出来事。
  「桔梗、桔梗はいなくならないよね?」
 スカートについた埃をほろいながら、呟くようにわたしは尋ねていた。
「桔梗はいきなり死んじゃったりとか……しないよね?」
 振り向いたわたしに桔梗はゆっくりと微笑む。
 答えはそれだけで充分だった。
「ごめん、変なこと聞いちゃって」
 どうしてそんなことを考えてしまったのか。真由のことで不安になっていたからだったのかもしれない。だけど、どこかで桔梗がいつかいなくなってしまうんじゃないかって気がして、ついわたしは確かめてしまったのだ。
 いつかいなくなる――普通に生きてれば心配するようなことでもない。それも桔梗のようなタイプはそんなこと心配するだけ無駄に違いないのに。
「大丈夫よ」
 そう言って微笑む桔梗と一緒に、わたしは真由と小さなわたしが上っていった階段を駆け上がりだした。
 わたしの記憶が正しければ、彼女達はきっと屋上にいるはず。
 葵が間に合っていればいいのだけど。
 拭い去れない胸騒ぎを抱えて二階から三階の踊り場を抜け、三階と屋上手前の踊り場まできたところで、わたしは呼吸を整えるために手すりにもたれて一度立ち止まった。
 見上げれば、真っ暗な先になぜか白く浮かび上がる屋上の扉。
「樒ちゃん、大丈夫?」
 心配そうな桔梗にわたしは何とか笑みをつくってみせる。
「思いつめてるみたいだけど、聞いてもいいのかしら?」
 遠慮がちに尋ねた桔梗にわたしの喉は一瞬つかえた。
「桔梗、桔梗ならどっちを選ぶ? わたしのせいで死なせてしまった友人の命を救うことと、大切な命を失ったからこそ出会えた大切な友人と」
 少しの間をおいて、静かに桔梗は訊ねかえした。
「それは、これから歴史を変えに行くということかしら?」
「……そう、なるよね」
 たった一人の少女の命といえども、消失してしまった未来と存在し続けた未来とでは必然、その存在がどんなに矮小なものであっても同じ未来とはなりえないはず。時が経つにつれて影響される人の数は波及的に増加し、そして、もしかしたら生まれるべき子が生まれないという事態も生じかねない。
「それでも……もし機会があるなら取り戻したいって思う過去だってあるでしょう?」
 それがどんなに危うい未来を招くことになろうとも。
「もしかしたら死ぬべきじゃなかったのかもしれない。わたしの過去でだけ、真由は死んでしまったのかもしれないじゃない。それなら、わたしはあるべき過去を取り戻しに行くだけよ……でも……」
 おとなしく聞いていた桔梗を、不安になってわたしは見上げる。
「それで桔梗たちに出会えなくなったらって思うとわたし……」
 どれだけわがままなことを言っているのか、分かってる。
 二つの未来なんて手に入るはずもない。
 そもそも、ただの人間のままだったらわたしは真由を失い、桔梗たちに出会った未来を歩み続けるしかないのだから。
「刻生石を支える者の力が揺らぎ、その結果として私達は今、遡った過去にいる」
 静かな声にわたしは頷きだけを返す。
「それならば、ここでの行動も現在の範疇になるのかもしれない。樒ちゃん、例えばここでその真由というこの命を助けられたとして、今の樒ちゃん自身の前に成長したその子は現れるのかしら? それとも、この時間軸を生きるもう一人の樒ちゃんがその幸福を享受するだけなのかしら?」
 助けても、わたしの元に真由は戻ってこないかもしれない?
 わたしの記憶に真由のいる三年が付加されることはないかもしれない?
「わからない。ごめん、わたし、わからない」
 よく考えもせずにわたしは何をしようとしているのだろう。
 ああ。
 でも、向こうから声が聞こえる。
 葵の悲鳴と、小さなわたしの悲鳴と。
 のろのろとわたしは身体を動かした。
 桔梗は何も言わずについてくる。
 気は急いているのに、いつしか体は重くなっていた。
 白く浮き上がる屋上への扉が近づくにつれ、胸の中で渦巻く気持ち悪さが増していく。
 冷たい空気に冷やされた金属製のドアノブは、わずかな静電気でわたしの手を拒否しつつも最後には手の平に収まった。
「樒ちゃん、選択するのは樒ちゃん自身よ。過去の傷を癒せるのも」
 心は決まっていなかった。
 でも、開けなければならない。
 この向こうでわたしが恐怖に慄いているのは確かなのだから。
 救えるのか救えないのか。
 不安なままわたしは過去の記憶の扉を開いた。









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