聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉
第 3 章  再 会

 3

 瘴気すら立ちこめた廟の中、光はたった一条滑りこんできただけだというのに、即座にわたしたちの視力を奪った。
 真白い空間だけが広がっているかのように見える向こうには、しかし、光に埋もれることなく一人の影が立ちはだかる。
「緋桜」
 お腹の底に据えかねた怒りをも一緒に絞り出すかのような声。
 聞き覚えのあるその声は、忘れもしない。レリュータのものだった。
「あちゃー、ここなら寄りつかないと思ったのに」
 腕の中で緋桜は身じろぎして体を無理矢理起こそうとする。
「寄りつかないって……」
 尋ねかけたわたしを緋桜は目だけで制す。
 そうだ。
 ここは聖がファリアスとユーラから肉体を奪った場所。
 レリュータが生まれた場所。
 誰がそんな忌まわしい場所に足を踏み入れようなどと思うだろうか。
 柩の蓋が戻されることなくそのままだったのがよい証拠。
 緋桜も、おそらくは切羽詰ったからここに逃げこんできたのだろう。ここならレリュータも入ってこられないと踏んで。
 であれば、廟内に灯をともしたのは夏城君、か。
 灯をともし、廟内を一通り探索して、とうにこの人は真実をつかんでいるのかもしれない。だからこそ、わたしにも緋桜にも深くその追及の手を伸ばそうとはしないのだ。
 夏城君は眉間に皺を寄せて、眩しさと苦々しさの入り混じった表情でレリュータの方を見ていた。
「いい子だからそんなところにいないでこっちに来なさい、緋桜」
 入り口に見えない壁でもあるかのように、レリュータは一歩たりとも敷居をまたごうとはしない。ついさっき緋桜を呼んだのとは真逆の猫なで声で手招きこそすれ、それも微笑むだけ。
 そしてその微笑にはかなりのところ無理に抑圧された怒りが滲みでていた。
「いい子だからって、あたしのこと何歳だと思ってるんだか」
 齢百歳の緋桜はため息混じりに苦笑する。
「緋桜、レリュータに何したの?」
「結界を張ってくれてたんだろ。あいつがお前にちょっかい出しに行かないように」
 答えたのは夏城君。
 わたしは呻き声を押しこめるように口元を手でおさえた。
『忌々しいあの精霊の結界からね』
 レリュータの言葉がよみがえる。
 わたしが時を止める魔法なんか使ったばっかりに、時を預かる緋桜は手一杯になってレリュータを閉じ込めきれなくなってしまったのだ。
 その憔悴ぶりは今目の前で立つに立てないでいる緋桜を見ればよくわかる。
「ごめん、緋桜」
「なーに、いつものことでしょ。あんたの向こうみずっぷりは」
 おおらかに緋桜はわたしに手を振って見せ、すっと切り替えるように鋭い視線をレリュータに向けた。
「さて、樒。澍煒の名前を覚えてたくらいだから心配ないと思うけど、あんた、何すればいいかわかってるでしょうね?」
「……刻生石を返してもらって、それから……」
「それから?」
 途切れたわたしの言葉を掬いとって澍煒はさらに問いを重ねる。
 本当にいいのだろうか。
 時を巻き戻す。
 そんなことを言ったら、澍煒は……ううん、緋桜はまた笑顔で自分を犠牲にする。
 もう、二度とあんな笑顔はさせたくないし見たくもない。
 けれど、彼女の力なしではわたしは何もできない。
「言いなさいよ。あんたはあれこれ考えるのが苦手なんでしょ? 言ってくれれば細かいことはあたしが考えたげるから。それとも何? あたしのこと気遣ってくれてるわけ?」
 わたしはわずかに緋桜の目から視線を外した。
「うわ。分かりやすっ」
「だってそんなこと、当たり前でしょ? 今だってふらふらしてるのに」
「無駄にするの? あたし達の百年」
 緋桜のさす『あたし達』の中には、レリュータが――ファリアスとユーラの二人が明らかに含まれていた。
「聖の九百年を、無駄にするの?」
 胸をかきむしりたくなるほど、永い永い時。
 暗く冷たいこの廟を飛び出してもなかなか寂しさを紛らわしてくれる人など現れなくて、過去の記憶にばかり縋りつづけてたあの年月。
「いずれ時は戻さなきゃならないでしょ。その必然性を百年かけてあたし達は作ったんだから」
 業を煮やして結論づけた緋桜の意見は最もだ。
 戻さなかったら戻さなかったで人界は失われ、世界の均衡は崩れ去る。
 歴史のやり直しという重さを知るのはわたしと緋桜の二人だけ。他の誰も、時が巻き戻され、わずかに歪められた歴史をやり直しているなどということに気づくはずもない。
 そしてわたしも、そのときには今のわたしを失うことになる。
「そっか」
 わたしは小さく一人ごちた。
 わたしはそれが怖いのだ。
 今のわたしがリセットされてしまうことが。
 大切な人たちと出会えたという記憶そのものを失ってしまうことが。
 二度目の歴史が今と同じレールを辿ろうとも、全く同じことはありえない。あってはいけない。でも、そのために今までに会えた人たちと会えないようなことにでもなったとしたら……。
「何の話かよく分からないが、守景、後始末はきちんとつけろよ。手伝えることは手伝ってやるから」
 なぜだろう。
 心に浮かんだのは「龍兄」という呼び名。
 もう二度と会えないかもしれないと半ば諦めていたその人の名。
 違う。諦めてたんじゃない。諦めようとしてたのだ。
 会ってはいけない。会わせる顔がない。そう思っていたから。
 それでも彼は見つけてくれた。
 何があっても、わたし達はまた――
「緋桜、ごめんね」
「その言葉は聞き飽きたわ」
「じゃあ、お願い」
「それも聞き飽きたけど、……まあいいでしょう」
 仕方なさげに笑った緋桜は、よっこらしょとおばあちゃんのような掛け声をかけて立ち上がった。ついでに元気よく身体を伸ばしたり飛び跳ねたりしている。
「緋桜……?」
「いやぁ、病人なんてガラじゃないのよね~」
 緋桜はニヤニヤして振り返った。
「試したの?」
「試すまでもなくあんたのやることは決まってんのよ。ただ、トラウマは少ないほうがいいでしょう?」
「トラウマって……」
 聖が澍煒を失った時のこと?
 それともやっぱりこれから先に起こること?
「樒、いい? あたしは何があってもあんたの側にいるからね」
 そう言って昔と同じ言葉でわたしの手を握った彼女の手は冷たく、どこか力に欠けた。
「緋桜、やっぱり本当は具合悪いんじゃないの?」
 口にまで上りかけたその言葉は、しかし飲み下されて、そのかわりにわたしは悟られないよう深く顔を隠すように頷いた。
 無駄にしないで、と彼女が言ったから。
 何より、今を逃してはもはや修復する意味すらなくなる。
 ならば、やはり今しかない。
 全てを元通りに。レリュータに刻生石を預ける前まで時を戻し、今度は魔法石と共にわたしが刻生石を支えればいい。
 あ……その肝心の魔法石が壊れていたんだった。
「緋桜、実は魔法石が壊れちゃったみたいなんだ……何とか元通りに出来ないかな」
「魔法石が壊れた?」
 素っ頓狂な声を上げた緋桜は、驚き冷めやらぬうちにわたしの胸へと手をのばす。その手は身体に触れることなく、輝きが鈍り、形を保っているのが不思議なほど縦横無尽にひびの入った白い石を抜き出した。
「ああ、これはまぁちょっとやばいけどまだ壊れちゃいないじゃない。そうだ。せっかくだし、もう一度契約でもする?」
 明るい声で笑いかけてきた緋桜を、わたしはしばし見つめた末、頷いた。
「そんな神妙な顔しなくても。って、覚えてないのか。聖と澍煒が契約した時のこと」
「ごめん」
「それは残念。まぁ、ちょっと痛いだけだから」
 そう言って緋桜は自分の左手の小指の腹をわずかばかり噛み、流れ出た血を魔法石のひびに垂らした。
「次は樒の番」
「う、うん」
 生憎針などは持っていない。けれど、自分で緋桜のように上手く噛める自信はなかった。
「貸して」
 ためらうわたしの左手を緋桜の手が掴みよせ、小指にそっと唇を当てる。
 痛みというよりは熱が吹き出したようだった。
 ぷくりと丸く噴きでた血は、やがてゆっくりと一滴一滴白い石の上で緋桜の血と混ざり、ひびの中へと吸いこまれていく。
 と、次の瞬間、魔法石は廟内を白く浮き上がらせるほど白く輝いて滑らかな一つの石に戻った。緋桜はそれを再びわたしの胸の中へと返す。
「これで契約完了」
 にっと笑った緋桜にわたしも微笑み返した。
「何? 何なの? 緋桜、あなた一体何をしたの?」
 入り口からはレリュータの怯えたような金切り声が聞こえてきた。
 わたしは、まだ今の光の名残から視力を回復しきれずにいる夏城君をそっと振り返り、聞こえるかどうかの小さな声で囁くように言った。
「夏城君、ばいばい」
 彼の表情が変化するのを見届けてしまう前に、わたしはレリュータのいる扉の方に向き直る。
「守景?」
 深刻に訝しげな声が背中にやんわりと突き立った。
 高くもなく、低すぎもしない耳に心地よい柔らかな声。それが、今は抱きしめるようにわたしの背に根を張り、体中を束縛していくかのごとく肩へ、爪先へと走り抜けていった。
 わたしは知ってる。
 背を預けたいと願うほどに、胸が締めつけられていくこの感覚を。
 これは、聖がずっと抱いてきた大切な想いと同じもの。
 気づいてしまったら、もう二度と手放せないもの。
 けれど、聖はそれを手放したのだ。
 わたしをレリュータへと向かわせるために。
 その代価が、わたしにとって同じものであろうなどとは考えもせずに。
 わたしは爪が手の平に食い込むほど両手を強く握りしめていた。
 前を見ようと自分に言い聞かせる。
 振り返ったら二度と思いきれない気がしたから。
「樒」
 冷たく柔らかな手がそっとわたしの左手の拳を解いていった。
 緋桜がわたしの隣に立ったことで、レリュータの姿はやおら揺らいだようだった。
「そこにいるのは……聖刻法王?」
 信じられないというように疑心の入り混じった声。
 わたしは深く息を吸い込んだ。
「そうだよ、レリュータ。約束どおり、終わりにしよう?」
 わたしは一歩一歩、光を背負うレリュータへと向かって歩き出した。
 彼女はひたと入り口の外に張りついたまま身じろぎすらしない。
 すぐにわたしは彼女の表情が逆光でもありありと見て取れる位置まで辿りついてしまった。
 平凡よりは多少凹凸のついたその顔は、呆けたようにぼんやりわたしを見つめている。
 が、やがて数秒もおかず哄笑が廟内に響き渡った。
「約束? 終わりにする? 何を勘違いしているんですか、貴女は! さっき私が向こうへ行ったとき、貴女は何も聞いていなかったのですか? 私が望むのは終わりなんかじゃない。永遠ですよ。だから貴女の魔法石が欲しいと言ったのです。貴女の代わりに私が時を支えてさしあげます。だから、貴女は心置きなく、」
 哄笑が断絶した。
 女性らしく大人しげだったレリュータの顔が、今は見る影もなく凶悪に歪む。
 大きく両端が吊り上げられた口元に刷かれたそれは、憎悪。
 わたしをこの空間に貫きとめるように大きく見開かれたその目にたぎるのは、憤怒。
 ぞくりとわたしの全身は粟立った。
「消え失せろ」
 いつの間に抜き放たれたのか、両手で振り上げられた白銀の刃が日の光に反射してわたしの目を灼いた。
「守景!」
 夏城君の叫び声に反応も出来ないほど、わたしは一瞬にしてどうしたらいいのか分からなくなっていた。
「やぁぁぁっ」
 立ち竦むわたしめがけて、刃は勢いづいたレリュータの体ごと目前に迫ってくる。
 おそらくは肩口を狙っていたのだろう。 
 しかし、刃はわたしの体に切り込む前に、再びブラウスを軽く斜めに切り裂いただけでそれていった。
 標的を捉えそこねたレリュータは、わたしの肩にぶつかりながら前のめりにたたらを踏んで廟内へと転がり込む。
「あっ、あっ、あっ……」
 短剣が金属音をたてて廟内の石畳の上で小さく跳ねた。
 すかさず夏城君がそれを拾い上げ、呼吸困難に陥って胸をかきむしっているレリュータに突きつける。
「レリュータ、刻生石を」
 目の前に膝をついて差し出したわたしの手を、レリュータは飛び出さんばかりに目を見開いて見つめ、ゆっくりと視線をわたしの顔に移す。
「もう、遅い」
 歪んだ笑みを浮かべ、レリュータはのびた爪をわたしの左胸に突きたてた。
「痛っ」
 わたしの悲鳴に夏城君がのばされたレリュータの腕を掴む。
 それを見たレリュータは噛み殺しきれずに笑い声を漏らした。
「天龍法王、貴方は何のために私に剣を突きつけていたんです? どうせ刺せもしないくせに」
 形ばかり突きつけたままの短剣が小さく震える。
「聖刻法王、貴女もですよ。今更あなたに刻生石を渡してどうなります? 今の貴女にこれを受け入れる覚悟など欠片も出来ていないでしょう?」
 嘲笑いながらレリュータは掴まれていないほうの手で小刻みに、しかし激しく不均一に震動し続ける手の平ほどの石を胸から抜き出してみせた。
 本来なら震動によって穢れなき純白の光が辺りに飛び散るはずなのに、今目の前にある石には黒い霧のような瘴気が絡みつき、輝きを鈍らせるどころかかなりのところ吸い取ってしまっているようだった。
「どうして……? どうして瘴気なんか絡みついてるの? 闇獄界が関わっているっていうのは分かってたけど、どうしてレリュータの中にあった刻生石まで……」
「どうして? 違うだろ、お姫さん。そこはやっぱりって言うところだよ」
 答えたのはレリュータではなかった。
 その証拠にレリュータの肩は一瞬怯えたようにびくりとすぼめられる。
「時空震に瘴気が混じっていたのも、こいつがお姫さんと接触するとき闇を渡ってきたのも、神界でありながらこの廟や聖刻の国中が瘴気で溢れているのも、闇獄界が協力するのも全部、こいつが闇獄界の要人だからさ」
 廟の外から聞こえる愉悦を帯びた軽やかな声は、低すぎるわけでも高すぎるわけでもなく 、したがって男とも女とも判じがたい。
 ただ、揶揄交じりに言ったお姫さんという言葉には悪意ばかりがこもっていた。
 わたしが振り返るよりも早く、珍しく茫然と表情を失った夏城君が呟く。
「サザ……」
 名を呼ばれたその人は嬉しげに、しかし憎しみをこめて微笑んだ。
「久しぶり、龍。ああ、今は星だっけ? ほんと、弱くなったもんだねぇ。彼女のためなら他人の命の一つや二つ、これぽっぽっちも惜しくなかったんじゃなかったの?」
 声も声なら、顔も中性的としか形容しようのないものだった。けれども、その性別の曖昧さが、逆に明瞭な輪郭に整えられた容貌とあいまってどこか妖しげな美貌を放つ。
 嘲笑を浮かべながら睥睨するその黒い瞳に出遭ったとき、わたしの胸にはどこからか突如重いつかえのようなものが降ってきて否応なく気道を塞いだ。
 嫌な感じと気持ち悪さ。
 どんなに飲み下そうとしても、それは頑固にそこに居座ったまま消える気配はない。
「なぁ、聖刻王、言ってやればいいじゃないか。刻生石を支え続けるどころか約束のときまで残り一年、肉体も精神ももたすことが出来そうになくて、俺に泣きついて闇獄界の炎に手を出しました、って」
 俯いたまま背中にその男の言葉を浴びるレリュータは抑えきれない感情に震えていた。
「闇獄界の炎?」
「そう。人は生きてる限り争いが絶えないだろう? そうやってちょっとずつ生み出されてきた負の感情が人界や神界を汚染しないように造られたのが闇獄界。でも闇獄界は溜め込むばかりでほとんど浄化作用なんか働いちゃいない。闇の底に溜まったヘドロのような重くて量も多い感情やつらはやがて一所に凝り、強大な意思と力を持つようになった。あまりにも強いんでね、闇獄界そのものにすら悪影響を及ぼしはじめた。で、仕方なく応急手当っぽく愛優妃が炎の檻の中に一時的に閉じ込めて出来たのが闇獄界の炎。その数、十二。それを一つでも意思をねじ伏せて自らに同化させ、自分の身体に封じ込めることができれば、永遠の命と若さが手に入るんだ。そんな奴らのことを闇獄界じゃ敬意だか負け惜しみだかをこめてこう呼ぶ。闇獄十二獄主、ってな」
 闇獄十二獄主――
 神闇戦争においても、その獄主の称号を持つ者が法王に対して闇獄界側の将となって神界侵攻の指揮をとっていた。
 当時はまだ十二人揃っておらず、第三次神闇戦争の時点で半分いたかいなかったかくらいだったと聞いている。そのうち一人は、龍兄が自分の命と引き換えに最期に斃した相手だった。
「永遠の命なんて謳い文句につられて獄炎を手に入れようとする奴の数は後を絶たなかったが、やれば十中八九逆にその炎に焼き尽くされる。生き残って屈せられるのは、その炎に封じられた負の感情よりも己の中のその感情の強さの方が勝っている奴だけ。そうだよな、十二人目、〈悔恨〉のレリュータ。いや、ファリアス、と呼んだ方がいいかな?」
 ゆらりとレリュータの体が揺らぎ、頭がもたげられた。
 その視線は獲物を見つめるようにわたしを捉え、放さない。
「私は永遠が欲しい。ユーラといつまでも、いつまでも、いつまでも、共にありたい。そう願えと言ったのは聖刻法王、貴女だ。だから闇獄界にまでこの身も魂も捧げたのに――」
 ひょろ長い身体つきをした男は歯噛みするレリュータの肩に手をかけ、抵抗がないのをいいことにそれとなく立たせて廟から引きずり出し、そっと囁く。
「永遠は手に入らなかったんだよな」
 日の下に晒された蒼白のレリュータはその言葉を聞いた瞬間、かっと目を見開いた。
「法王と魔法石……法王の操る魔法石が私を滅してしまう……」
「そうだ。じゃあ、どうすればいいんだった?」
「魂ごと消滅させられる前に、誰でもいい。自分に闇獄界の炎を手にするきっかけを与えた法王を殺して、奪いとった魔法石を逆に我が身の核にしてしまえばいい!」
 悪いものにでも浮かされるようにレリュータは叫ぶと闇にまみれた刻生石を握りしめ、男を突き飛ばして再びわたしに向かって憎悪の限り突進してきた。
 夏城君が庇うようにすっとわたしの前に出る。
「どけぇっ、天龍法王!」
 レリュータは走りざま空を切り開き、今度はその中から長い剣を取り出す。
 夏城君は短剣を放り捨て、その手に蒼竜を構える。
 白刃の剣と青白い光を帯びた剣、二つは冷たい金属音を立てて噛みあった。
「天龍法王、所詮貴方に何が出来る? 聖刻法王を追い込んだのも、結局は貴方だったのでしょう? 何故です? 何故聖刻法王の心に答えてあげなかったのです? あれほど想いあっておきながら、何故?」
 聖の想い出を抱えたままの聖刻王は、残酷にもわたしの前で彼女の想いを夏城君にぶつけてみせた。
 が、夏城君はそれには答えなかった。切れてしまいそうなほどの緊張感を背中に背負い、地を這うように低い声で確かめる。
「俺こそ聞きたいことがある。魂ごと消滅させられるっていうのは、どういうことだ?」
 レリュータの顔は一度呆け、すぐに口元と目が嫌な形に歪んだ。
「聖刻法王よりもご自分の心配ですか。そんなこと、さっき言ったとおりですよ。闇獄界の炎は法王の魔法石が具現化したその武器によってのみ滅される。私たちは永遠の命を手に入れた代わり、二度と転生が叶わない魂になってしまったんです」
 二度と、転生が叶わない?
 永遠の命を手に入れておきながら、それはなんて大きな代償だろう。
 魂の消滅は、即ち永遠の死。存在そのものが途切れてしまう。
 代々の天宮王達のように。――ナルギーニのように。
 闇獄界の炎を手に入れることは崖っ淵に立たされるのと同じこと。
 レリュータはそれを知らずに同化してしまったのだろうか。
 もしそうなら、ううん、たとえ知っていたとしても、己の命を脅かすものを自ら排除しにかかるのは至極当たり前のこと。成功すれば危難が永久に去るだけでなく、真の意味で永遠が保証されるのだから。
「〈憤怒〉のグルシェース。龍、お前の手にかかって倒されたあの男が最初の犠牲者だった。それまで闇獄主たちは己の魂が輪生環に戻ることなく消滅するだなんて一言も聞かされていなかったんだからな」
 煽るように中性的な男が付け加える。
「それも、消滅条件は武器に具現化された法王の魔法石に致命傷を与えられたときのみ。相手が法王でなく、武器がただのそこらの剣ならいつまでも転生が可能だ。但し、その場合は闇獄界の炎ごとということになるから前世の記憶は色濃く残り続けるだろうけどな」
「天龍法王、私の相手は貴方ではない。私を脅かすのは後ろの聖刻法王だけだ!」
 レリュータ――ファリアスの叫びを聞いて、わたしは思わず夏城君が放り投げて足元に転がったままの短剣を拾い上げた。
「樒、何する気?!」
 緋桜が叫ぶ。
「夏城君、ファリアスの相手はわたしが」
 刃が外の薄暗い光に鈍く光る。
 包丁くらいしか握ったことのないわたしにとって、それは重いなどという言葉では表しきれないほど禍々しい呪力を持っているように思えた。
 握り方すらまともに分かりはしない。
 それでも、彼の相手はわたしがしなければならないと思った。
 そんな運命まで背負わせたのは、そう、わたしだから。
 夏城君とファリアスが間合いを取るのを見計らって、わたしはファリアスに向かう。
「樒、駄目! 魔法石を持つ者が闇獄界の炎を持つ者に殺されてしまったら、逆に法王の魂が消滅してしまう!」
 緋桜の叫びは幾分遅かった。
 わたしがファリアスの胸めがけて振り下ろした短剣は、切っ先が服をかすることすらなく長剣に払い飛ばされ宙に舞う。
「澍煒、余計なことを」
 中性的な男が困ったように呟いたのが聞こえた。
「緋桜、緋桜も知ってたの? 魔法石と闇獄界の炎の関係を」
 目の前に突きつけられた剣に、ファリアスの体から噴きだしてきた黒い炎が蛇がとぐろを巻くように巻きついていく。
 確たる緋桜の返事はなかった。
 そのかわり口早に詠唱が始まる。
『織り成されし全ての時 全ての記憶 全ての事象
 我が手に在りて 現在いまとなる』
 時を戻すつもりなんだ。
 今、ここで。
 ぶりかえす恐怖。戸惑い焦る心。
 ああ、でも彼は救わなきゃ。
 闇獄界の炎――そんなものに手をのばさせてしまったのは誰あろう、わたし。
 学校ではじめて接触してきたレリュータは「助けて」と言っていた。
 あれは、きっとユーラの方だったんだね。
 助けるには、彼が〈悔恨〉を受け入れる前に刻生石を返してもらうしかない。
 悲劇のはじまりのあのときをなくすることは出来ないけれど、せめて、彼の願う永遠だけは守りたい。
 わたしは、彼らに永遠を約束することでその魂を聖の身体に縛りつけたのだから。
『震えしときの石よ
 全てを生み出し 全てを刻む聖なる石よ
 そして 我が血を浴びし時の守人よ
 汝らの築きし理 我が前に差し出せ』
 応えなければならない。
 わたしが巻き込んでしまった全ての人の望みに。
「そうはさせないよ。まだ、早すぎる」
 中性的な男は余裕たっぷりに笑み、何かをつまむように指先をすぼめると、その手を軽く引くような素振りをした。
 ファリアスの今や黒い嵐を巻きつけた剣が止めを刺さんばかりに持ち上がる。
「ファリアス、抵抗すると痛い目にあうよ。分かるだろう? 君のユーラは本当に脆いから」
 ファリアスはまた震えた。怯えを、その青くも曇った瞳ににじませて。
 それから目だけでわたしを見下ろした。
「聖刻……法王」
 ついさっきまで漲っていたはずの殺気が消え、懇願するように一筋、涙をこぼし落とす。
 胸に何かが切り込んできた。
 それは、深い深い悲しみ。
 操られて尚、抵抗を試みようとする哀れな者の。それでも抗いきれない呪縛に為す術なく涙を流すしかない者の。
「時は、どうか私が〈悔恨〉を取り込んだあとに」
「どう……して……?」
「これは、いずれ葬らねばならぬものです。私しかその役目を引き受けられないというのなら、もう遅いかもしれませんがどうか、最後は聖刻王ファリアスとして民や宰相たちを欺いてきたことへの、せめてもの罪滅ぼしの機会を」
 声が震えたのは、それが彼の本心だから。
 欲望を抑えて何とか顔を出した、理性を纏った彼の本心だから。
「でも、ユーラは?」
「ユーラも、それを望んでいます」
 嘘だ。
 そんなのは嘘だ。
 愛する人の魂の消滅を望める人間などこの世にはいない。二度と逢えないというその恐怖に、怯えない人間がいるはずがない。
 愛しいならきっと、知らずその世界でもその人の姿を探し求めるに違いない。
 そしてその果て、決して見つからぬ絶望に必ずや過去の選択を悔やむのだ。
『グルシェース、グルシェース、どこ? ねぇ、本当はいるのでしょう? わたくしの愛しい旦那様……』
 探し求めても見つからない歯がゆさに、ついに自ら別の炎を取り込んで消滅を願う女性がいた。
 わたしは……聖は、何度その女性の影を神界で見かけたことだろう。
 一途に消滅した夫の魂を探し、その痕跡の果てた世界を彷徨い続ける妻の姿を。
 わたしは首を振った。
「できない。できないよ。わたしにはそんなこと……」
「貴女は……私の懇願を二度までも踏みにじるおつもりですか?」
 青い瞳に狂気が戻っていた。
 奥では中性的な男が手を開いて指先から何かを放すような動作をする。
 途端、剣を持ったまま吊り上げられていたファリアスの腕は鎖から解き放たれたかのように黒い瘴気を絡みつかせた刃をわたしの上に振り下ろした。
 とっさにわたしは身を捻る。
 刃は寸隙を残してわたしの背後の土を抉った。
「ファリアス! わたし、そんな願いは聞けない。あなたはユーラを残していけるの? あなたが永遠にいないこの世界に、愛しい人を一人を残していけるの?」
 ファリアスは答えなかった。
 ただ、狙いも何もかもがめちゃくちゃなまま剣をわたしに向かって振り下ろし続ける。
 己の迷いをも共に鎮めてしまおうとするかのように。
「闇獄界の炎は、この先また増えるかもしれない。もしそんなことになったら、あなたのユーラはあなた追いたさに今のあなたと同じ苦痛を味わう道を選ぶかもしれないんだよ? ファリアス、ほんとにそれでもいいって言えるの? ユーラ、それがどんなに辛いか、分かってるの?!」
 見るに耐えないあの姿。
 たとえか声をかけられたとしても、もはや誰も彼女を救ってやる道はない。
 彼女自身が想う人を忘れてしまわぬ限りは。
 わたしの責任でそんな二の舞までさせるのはいくらなんでもやりきれない。
「お姫さん、どうしてこいつが〈悔恨〉なんて感情持つに至ったか考えてみたらどうだい? 聖刻王として生まれ育てられて玉座にまで就いておきながら、全てを捨ててこの男は個人的な愛情を全うしようとした。同じ道を貫こうとしたと有名なあんたの加護を求めてな。なのにお姫さん、あんたはこいつの全てを踏みにじってめちゃくちゃにしただろう? その身に取り込んだ後は王としての矜持ごと」
 指先を閉じて激しく息つくファリアスの動きをしばし留めた男は淡々と解説する。
「どうだい? そろそろその矜持を取り戻させてやったらいいじゃないか。本人だって望んでるんだろ? 王として人のために役に立って消えたい、ってさ」
「だめ! そんなことは絶対にだめ! 絶対、わたしが許さない」
「頑固さは相変わらずだな。じゃあこう考えたらどうだい? ファリアスの身に厚く積もった悔いを雪ぐことができれば、こいつはもしかしたら取り込んだ炎ごと消滅しなくて済むかもしれない」
 誘うように男は微笑した。
「……それは、本当?」
「守景! あんな奴の言うことなんか鵜呑みにするな!」
 夏城君がわたしの肩を掴んでファリアスたちから引きずりはなす。
「でも、もし可能性があるなら……」
「あいつの言うことに真実なんかない!」
「あーあ、ひどい言い草だね、こりゃ。つれないじゃないか、これでも俺はお前の影なのに」
 いかにも悲しげにそう言ってのけた声を聞いた夏城君は、わたしのすぐ近くで呻くように自嘲の笑いを漏らした。
「俺の影だと? ほんとにその口はよく回る。龍を嫌うだけじゃ飽き足らず、大切なもん傷つけて飛び出してった奴がよくもぬけぬけと」
「嫌ってたんじゃないよ。愛してたからやったんだ。それに飛び出したわけでもない。よく思いだしてくれよ。俺は追い出されたんじゃないか。主に龍、お前にね」
 男の不敵な笑いに夏城君はわたしにまで聞こえるほどぎり、と歯ぎしりした。
 これほどまでに強く感情を表に出した夏城君を見るのは初めてだった。
 笑うことも稀なら怒ることもほとんどない。
 それが、遠くから三ヶ月間見てきたわたしの中の夏城君像。
 ひどいときには仏像かと思うくらい一日中表情が変わらないことだってあるのに……。
 けれど、どう捉えてもこの感情がよい作用をもたらすとは考えにくい。
「夏城君、わたし……」
「守景、あいつは俺が片付けるから、お前はやることをやれ。緋桜が呪文途中で口も利けなくなってるぞ」
 言葉途中に遮られて、ようやくわたしはさっきから緋桜に睨みつけられていることに気がついた。
「分かったら……」
「なぁ、お姫さん。〈悔恨〉の炎を消し去るためにはどうしたってそれを閉じ込めとくうつわが必要なんだよ。そして、適合者はそう簡単には現れない。せっかく十二の炎全てが儀の中に納められたってのに、神界側としてもこれを逃す手はないんじゃないか?」
「っの野郎っ!」
 夏城君はさっと手を一振りして現れた蒼竜を手に男へと突進する。
 待ち受ける男は再び指先を広げてファリアスを解放すると、夏城君の一撃を風になびく暖簾のようにふらりと避けた。
「守景!」
 振り返らずに夏城君はもう一度わたしの名を呼んだ。
 わたしは間近で剣を構えるファリアスを見据える。
「ファリアス」
 呼びかけに応えるように再び剣の動きは鈍る。
「聖刻法王、私などのことよりどうかファリアス様を」
 青い目の狂気を一瞬和ませたのはユーラ。
「お約束します。例えファリアス様を失おうとも、私はけしてあなたに仇なすようなことはいたしません。緋桜を産んでくださった貴女に刃を向けることなど私にはできませんから。ですから、お願いです。ファリアス様を助けて」
 優しげな声が掻き消される。
 ユーラは、生前からお世辞にも強い女性とはいえなかった。どこか周りに流されて生きていて、要領が悪いのか城でも面倒な雑用ばかりを押しつけられていた。それでも彼女は嫌な顔一つせずに仕事をこなす。
 自己主張のない弱い女性。
 ずっと聖はそう思っていたけれど、その見立ては誤りだったのかもしれない。
 雑用でもなんでも、彼女は投げ出すことは愚か、不平不満を漏らすことすらなかった。それは逆に彼女の我慢強さの表れだったに違いない。
 何より、想いが強くなければ今の今まで狂気に苛まれたファリアスと共に過ごすことなどできるはずがない。
『震えしときの石よ
 全てを生み出し 全てを刻む聖なる石よ
 そして 我が血を浴びし時の守人よ
 汝らの築きし理 我が前に差し出せ』
 わたしは魔法石を取り出して力を分け与えてもらうようにしっかりと握り、もう一度さっき唱えかけた呪文から唱えなおした。
運命さだめによりて織り上げられし歴史の布
 ただ一つの過ちも許されなくば 例え一糸といえども掛け違いは加重なる過ちなり
 されば 未来を紡ぐものよ 今しばしその手を休めよ
 現在を握る者よ ほつれし場所への扉を開け
 我 今こそその過ち正さんと欲すればなり』
 目の前の空間が波打つように歪みゆき、風を吹き散らしながら大きな渦を巻きはじめる。
 それは学校の校庭でわたしたちが遭遇したものと同じものだった。
「させるか。私の喘いだ日々をなかったものになど、させるものか」
 レリュータの中で呻いたファリアスの目には、もはや私の魔法石しか映ってはいない。
 これを奪われたらわたしも終わり。
 そう思うと、両手で覆うように魔法石を握る手に力が入った。
 ファリアスの剣が再び振り上げられる。
 わたしは目をつぶり、最後の一言を発した。
「時よ、偽りの時間を刻みはじめし時まで巻き戻れ」
 そのわたしの声を打ち消すかのように、同時にファリアスも叫ぶ。
「血晶石よ、汝の重ね吸いし数多の命と引き換えに、過去へと逆流せし時を引きとめよ!」
 振り上げられたはずの剣は小気味いい金属音を散らして石畳の上に転がった。
 代わりにファリアスの手にあったのは、通常よりも赤みを増した血晶石。
 その血晶石が赤黒い光で世界を満たした瞬間、立っていられないほどの風が目の前の時空嵐から容赦なく吹きつけてきた。
  
 




←第3章(2)  聖封伝  管理人室 第3章(4)→