聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉
第 3 章  再 会

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「……ん……っ」
 ひんやりとした風がそっと体を撫でていった気がした。
「起きたか、守景」
 聞き覚えのある声。
 誰だっけ、この人……。
「あ」
 ぼんやり見上げた先には、薄闇の中ぼんやりと片膝を抱えて壁に背をもたせかけている夏城君の姿が見えた。
「ここは?」
 頼りない灯火がどこかで揺れてわたし達の影を歪ませる。
 腕や頬には起き上がってなお残る床石の冷たく湿った感触。
 その床石同様肺に入ってくる空気も涼やかさと湿り気を帯びてはいたが、お世辞にも澄んでいるとはいえない。孕んだ生臭さは気を失う前よりも強くなっていて、視界を遮る瘴気は一層黒く濃さを増している。
 淀みながらも空気は動いているのだからどこかに隙間くらいはあるのだろう。けれども闇を貫く日の光らしきものは一条も見えない。
 薄暗い地下牢のような場所。
 けれど、わたしはここを知っているような気がした。
 天井に揺れるわたしの影。
 その奥にあるのは――
「ひっ」
 わたしは思わず息をのんだ。
 奥へ行くほど高くなっていく石段。その最高最奥に設えられているのは、蓋が斜め下にずり落ちて行儀悪く開かれたままの柩。
 暗がりの中でも、それは磨き上げられた大理石の白さにぼんやりと浮き上がっていた。
 ――聖刻法王が眠っていたはずの柩。
 わたしは首はそのままに目だけで夏城君の表情を窺った。
 わたしよりも先に意識があったのだから、あの柩に気づいていないわけはない。
「夏城君、ここ……」
「誰かの墓だったのかもな」
 夏城君はちらりと空いた柩を見やって低く言った。
 やっぱり、気づいてる。
「誰のだったのかな」
「……さあ」
 あまりに感情の見えない短い答えにわたしはうろたえる。
 聖のだと気づかれてる?
 だめだよ。夏城君にだけは知られたくない。だって夏城君は……だから、どうだというのだろう。
 わたしは首を振って聖の妄執を振り払った。
 (わたしは聖じゃない)
 言い聞かせるように心の中で呟く。
 大丈夫。何か聞かれても知らぬ存ぜぬを通せばいい。実際わたしは夢で見ただけなのだから。
「そうだよね。誰のだっていいよね」
「いや、それじゃ困る」
「え?!」
 わたしの驚きをよそに、夏城君はぐるりと首を一巡りさせて淡々と言った。
「多分ここは神界だ。覚えてるか? 気ぃ失う前のこと」
 気を失う前のこと。
 時空の歪を修正したまではよかったけれど、あと少しでみんなと神界に来れるというところで、立っていられないほど大きな地震――時空震が起きた。わたしはあまりの揺れの激しさに茫然と校庭に座り込んでしまって、結局なにもできなかった。
 目の前によみがえるのは青年と呼べる齢の男のものにしては繊細で白い苦労知らずの手。
『さあ、私の手を取るのかい? 取らないのかい?』
 わたしはその手に手を重ねようとして……。
「時空震だったんだろ? あれ」
「うん」
 わたしは力なく頷く。
「あれに巻き込まれて俺らはここに飛ばされた」
「桔梗たちは?」
「ここにはいなかったからあそこに残ったか、どこか別のところに飛ばされたかだろうな。  まぁ運がよければ無事なんじゃないか?」
「運がよければって」
「俺たちが無事だったんだ。あいつらも悪運だけは強そうだし」
 ぶっきらぼうにそう言ってから、夏城君は小さく「大丈夫だろ」とつけたした。
「そう、だね」
 わたしはその気遣いが素直に嬉しくて、無理矢理桔梗たちの無事を自分に承服させた。
「でも、どうして神界だって分かったの? こんな狭い廟の中に閉じ込められたままだったのに」
「……守景こそ、どうしてここが神界だって分かった?」
 ひた、と薄茶色の瞳がわたしに据えられた。
「え? だって、夏城君がそう言ったから」
「多分ってつけただろ。なのに、守景はここが神界だって確信してて聞きかえしてきた」
「……」
 この人はどうしてそんな微妙なニュアンスまで気がつくことが出来たんだろう。
 どうやらかまをかけられたのだ、と気づいたのは次の言葉を聞いたときだった。
「ここは聖の廟なんだな?」
 わたしは思わず口を硬く閉ざし、目を宙に泳がせていた。
 夏城君はわざとなのか大きなため息をついた。
「お前、隠したいのか? それとも気づいて欲しいのか?」
 呆れたように言う。
 聖は隠したいのだ。それは間違いない。でも、わたしは……
「どうして聖の廟だってわかったの?」
「柩の下に落ちてた白いかけ布に縫い取られてた紋章が百合だったから。柩の蓋に刻まれていたのも」
 わたしは息を飲み込んだまま天井を仰ぐ。
 百合は聖の象徴花。紋章も百合を図案化したものだ。
 ここまで見ていて遺体がないことに気づいていないわけがない。
「守景、俺こそ聞きたい。どうしてここが神界だって、聖の廟だってわかった? お前はこっちに来てから一度も目を覚ましてなかっただろ?」
「それは」
「俺が気を失ってた間に一度起きたなんて言うなよ。俺はこっちに飛ばされてからまだ昼寝もしてないんだから」
 言う前から釘を刺されてわたしはそっくりそのまま言いかけた言葉を飲み下す。
「わたし、どれくらい気失ってた?」
「二時間かそこら」
 夏城君はすっかり圏外になった携帯の電源を入れて時間を確認する。
 時刻はまもなく午後四時。
 本当ならそろそろ講習も終わろうという頃だ。講習が終わったら桔梗と葵と駅近くのアイスクリーム屋さんに行ってストロベリーとバニラのジェラード食べようと思ってたのに。
 そう思ったら、やにわ涙腺が熱くなった。
 取り返せない日常。
 いや、刻生石さえ手に入れられればまだ遅くはないはず。
「夢で見たの。お昼前についうたた寝してて、そのときに夢に出てきた場所がここだったの」
 嘘はやめておこう。わたしは聖ほど嘘が上手くないから、吐いたところですぐに夏城君に見破られることだろう。
 余計なことさえ口走らなければいいのだ。
 鋭い夏城君はすぐにわたしが言ったことの珍妙さに気がついたらしい。
「自分の前世の墓の中を見たってことだよな。おかしくないか、それ」
 わたしはじっと開けられたままの柩を見つめていた。
「死んだ後のことはわからない。そうだろう? 麗や鉱や炎が死んだとき、確かに廟内で弔いはしたが……聖はもう動けなかったはずだ。守景が聖なら、廟内の様子を知っているはずがない」
「……随分はっきり覚えてるんだね。いろんなこと」
 口元に浮かんだのはそれと分かる棘を含んだ微笑。
 聖がレリュータに死ぬ前までの記憶を渡してしまったせいで、わたしにはそのあたりのことが分からない。記憶を差し出してなお残るのは、狂おしいまでの龍兄への恋慕。理由が分からないわたしには、聖がただ恋狂っているとしか思えない。
 同時に、今はひたすら抑制されているその狂気が、いつか爆発してわたしまで蝕むのではないかとわたしは密かに恐れていた。
「守景はないんだな。その様子だと、本当に」
 微かに残念そうな響きを感じたのはわたしの思い過ごしだろうか。
 夏城君に龍兄と自分のことを自覚してほしい――あまりにも必死に聖がそう願っているのが分かるから。
「聖刻王を名乗る奴に刻生石と自分の記憶を引き渡して、聖は一体何をしようとしてたんだ?」
「……どうしてそこまで……」
「言っただろ。死んだ後のことなんか本来知ってるはずがないんだ。少なくとも、俺は神界が今なお存続してたことも知らなかった。かろうじて国を当時宰相格だった人間に託してきたことは思い出したけどな。あの聖刻王もその時の末裔か?」
 わたしは多少思考をめぐらせたが、いい考えが浮かぶでもなく、結局おとなしく首肯した。
「いくらなんでも代替わりくらいしてるだろ。俺だってあんな奴は知らない。かといって、守景、お前今日の今日まで何も知らずに過ごしてたんだろ?」
 夏城君は核心を掴んでいる。
 背筋を冷たいものが流れ、胸の辺りが凍りついていった。
「……そう、だよ。お昼に夢を見るまで、わたしは何も知らなかった。レリュータが現れたって、悪夢の続きだって……なのに桔梗と光くんがあんなこと言い出すし、葵も、夏城君も……!」
 拒み続けたかったのに、親しい人たちが現実の一線を越えてしまったあの時。
「何の夢を見た? ここで、何があった?」
 急かすでも煽るでもなく、淡々と夏城君は尋ねた。
「言え、ない」
 首を左右に振って口元を両手で押さえる。
 言ってしまわないように。
 この人には知られたくない。この人にだけは、そんな浅ましい話は出来ない。
「そうか」
 そっけなくそう言うと、夏城君はおもむろに開いたままの柩の前へと歩んでいった。
 わたしは顔をそらす。
「あのさ、前に会ったことあるだろ」
 きっと今度は聖の遺体がないことを問われるのだと思ってたわたしは、予想外の言葉にはたと顔を上げて夏城君の背中を見やった。
 こっちを向こうとしないその背中は背が伸びた分広く大きくなっていたけど、去年雨の中を駆け去って行った時のまま孤独のような寂しげなものを背負っていて、どこに行ってしまうわけでもないのにやけに遠く感じた。
 ぎゅっと胸の辺りが苦しくなる。
 反射的にわたしはまた顔を背けて、石畳の床の溝一点を見つめた。
 背中は嫌いだ。
 手の届きそうで届かない距離にある背中は、特に。
 わたしだけが置いてきぼりを食って取り残されていくような気がしてしまうから。
 だから、振り向いてと願う。
 親しければ親しいほど。愛おしければ愛おしいほど。
 けれど、夏城君の背中にこれほど胸苦しくなるのはきっと聖のせいなのだ。一年前のときも、きっと。
 この感覚はわたしのものじゃない。受け入れるには、わたしには理由が弱すぎる。
「傘、貸してくれたときだよね。あの時は、ありがとう。わたし、ずっと傘返さなきゃって思ってたんだけど、ずっと返しそびれちゃって」
 自分のものじゃない。そう否定しておきながら、声は弾んでいた。
 覚えていてくれてのだと。わたしだと、ちゃんと気づいてくれていたのだと。
「いいよ、返さなくったって。あっても困るだけだから。あのときも受け取ってもらえてほんと、ほっとした」
 思い出しているかのように、夏城君の声には苦笑が混じった。
「聞いてもいい? どうしてせっかく傘持ってたのにささなかったの? あんなにどしゃ降りだったのに」
「派手な女物の傘だったろ? させるわけないだろうが」
 声に混じっていた苦笑が自嘲にかわっていた。
「じゃあ、持ってるだけでも恥ずかしかったんじゃないの? コンビニの傘立てに置いてくるとか、いろいろ手放す方法はあったはずなのに……どうしてわたしに渡したの? ううん、それ以前に、どうして使わない傘なんか持ってたの?」
 今度は夏城君が言いあぐねて天井を見上げた。
「ごめん。立ち入ったこと聞いちゃったよね。いいよ、言わなくて」
「あれ、お袋の傘なんだ」
「え……」
「あの辺りの軽食屋で会ってたんだけど、別れ際に雨降りそうだからって渡されてさ。そしたら本当に降ってきて……でも、開けなかった。柄がすごかったってのもあったけど、なんだか親父に申し訳なくてさ」
 なんとなく鈍いわたしにでも夏城君の複雑な家庭事情が見えたような気がした。
 黙りこんでしまったわたしを気にかけたのか、ようやく夏城君はこっちを振り返って、困ったように甘苦い微笑を口元に浮かべた。
「家に持って帰ったら帰ったで親父にお袋と会ってたのばれるし、だからって守景が言ったようにコンビニに置いてくる気にもなれなかった」
「あ……ごめんなさい」
「いいって。重い話聞かせちまって悪かったな。まあ、そういうわけだからあの傘は返さなくていいし、守景の好きなように処分していいから」
「でも、それじゃあ……」
 夏城君は空の柩を一瞥すると、こっちに戻ってきた。
「随分はっきり覚えてるようだって守景は言ったけど、俺は状況把握に必要だからあいつの記憶を少し手繰らせてもらっただけだ。こんなことにさえならなきゃ、ずっと頭の片隅に押しやっておくつもりだった」
「……夏城君はいつから知ってたの?」
 桔梗や光くんのように、いや、それ以上に注意深く夏城君はずっと息を潜めてきたのだろう。
「どしゃ降りの中、せわしない傘の向こうに雨宿りしてる守景を見つけたのが龍だった」
 小さく、聞き取れるかどうかの低い声で呟かれたというのに、わたしの耳にははっきりと一字一句逃さずに聞こえていた。
 体の底から泉のように湧き上がってくる、これは歓喜。
 見つけてもらえた。気がついてもらえた。
 何より、龍兄が「私」を見つけた――これに勝る喜びなど、ない。
 聖の存在がわたしの中でいや増していた。
 踊り飛び跳ねる彼女に飲み込まれそうになって、わたしは思わず自分で自分を抱きしめた。
「守景?」
 わたしは泣きそうになるのを堪えて夏城君を見上げた。
「夏城君。夏城君は龍兄じゃないよね? 龍兄とは、全然別の人だよね?」
 夏城君の目に、切羽詰ったわたしがどう映っているかなんて、この際関係なかった。
 わたしはただ、聖を抑えるために否定の言葉が欲しかった。
 夏城君はほんの刹那だけじっとわたしを見つめ、すっと目をそらした。
「あたりまえだろ。俺はあいつじゃない。あのガキも言ってたけど、昔の人格が残ってるわけないだろ」
 すっと、氷水を流し込まれたように胸の動機が冷え固まっていく。
 期待した答えなのに、どうしてわたしまでこんな思いをさせられるのだろう。
 わたしには龍兄なんて必要ないのに。
 夏城君がいれば。
 そこまで思考が飛躍して、慌ててわたしは首を振った。
 それは違う。そんな欲なんてわたしにはない。わたしは単に傘を返したかっただけなのだから。
 その傘も返さなくていいと言われてしまったけれど。
 ほんの少し。ほんの少しだけ、わたしは途方に暮れた。
 傘という接点もなくなり、今度は聖の願いどおり時を巻き戻して何もなかったことにしてしまえば、わたしはほんとに夏城君とは何の接点もなくなってしまう。
「でも」
 夏城君はそっと付け足した。
「ここが聖の廟だと知って、聖に会えるって期待したのは俺じゃなかったと思う」
 ため息の中に、抑えきれない何かがこもっていた。
「期待……したの?」
「困るよな、ほんと。けど、振り回されっぱなしでいるわけにはいかないから」
 目の前に差し出されたのは夏城君の手。
 背中に残っていた華奢さはどこにもない。男の人の、手。
 わたしはその手をとっていいのか躊躇した。
「とりあえず、ここでうずくまってたって仕方ないだろ。逃げ道探すぞ」
「……わたし、どうしたらいいかわかんなくて……。直接話しかけてくるわけじゃないの。姿が見えるわけでもないし、体を勝手に操られてるわけでもないの。でも、なのにいるの! 聖がわたしの中にいるの! 眠るたびに過去を見せられるだけならまだ我慢するよ? でも、夏城君が龍兄や聖のこと口にする度に、わたしの体が一喜一憂するの。龍兄が聖を見つけてくれたんだとか、龍兄はもういないんだとか、でも、私に会えるって期待してくれたんだ、とか……ほら、今だってわたしじゃないのに私って……」
「守景」
 心配そうな夏城君の顔が目の前にあった。
「ご、ごめん。わたし、こんなことぶつけるつもりじゃ」
 遠慮がちな手が肩にかかる。え? 夏城君、大胆っ。
 そっと引き寄せられて、不慣れなわたしの鼓動はどんどん早くなっていった。ぎゃ~っっ
「今脈速くなったのも聖のせいか?」
「ちっ、違っ、これは……」
 口走りかけたことに思い至って頭が真っ白に飽和する。
「ごめん」
 一瞬の間ののち、低い一言と共にするりと腕は遠ざかっていた。
 謝らなくていいのに。
 今のでちゃんと自分がいるってわかったのに。
 夏城君にどきどきするのは聖だけのせいじゃないって、わたしわかったのに。
「あーあ、結局そこどまりかぁ。おとなしく見てて損したかも~」
 不意に、多分にからかいの混じった落胆した少女の声が響いてきた。
 思わずわたしと夏城君は顔を見合わせる。
「ちょっと、ちょっと! そこは顔を見合わせるんじゃなくて、『誰だ!』って誰何の声あげるとこでしょっ?」
「西瓜?」←素です。あしからず。
「ばかっ。西瓜じゃなくて誰何」
 空の柩が置いてある祭壇の方からこつこつと足音を響かせ、罵倒込みのつっこみをしながら薄闇がりの中に姿を現したのは一人の少女。
 透き通る肌と、丁寧に梳きとかされた腰まである栗色の艶やかな髪。顔の造作は大人しく神秘的な風情さえあるというのに、好奇心にはつらつとした明るいサファイアの色をした瞳が全体をやけに活動的な少女に見せていた。
 初めて会う人、のはずだ。
 なのにわたしの中には懐かしさがこみ上げてきた。
 小気味いいつっこみはさることながら、その瞳。
 生き生きと見開いたその瞳に浮かんだいたずらっぽさは、忘れようもない。
「澍煒」
「よっ。随分な力の使い方してくれたじゃん。おかげであたし、足腰立たなくなっちゃったんだぞ」
「え、でも今歩いてるよね? 幻?」
「うわ。ボケ度増してない? 言葉のあやだってば」
 澍煒は何故か夏城君に向かってにやっと笑った後、力いっぱいわたしを抱きしめた。
「会いたかったよ、樒」
「わ……たし?」
 呼ばれた名に驚いて見つめ返すと、彼女はにっこり笑んだ。
「そうだよ。あたしはあんたの魂に会いたかった。その魂の今の名が樒、でしょう?」
「聖じゃなくていいの?」
「あんた、やっぱり頭悪くなったんじゃない? 聖に会いたかったら聖って呼んでるわ。それに、あたしももう澍煒じゃないんだよ?」
 そうだ。澍煒はもういないのだった。
 この子は瞳の色も違うというのにわたしは何も考えずに澍煒、と呼んでしまった。
「ごめ……」
緋桜ひおう
 謝ろうとしたわたしを遮って、彼女はにっと口の端を吊り上げて言った。
「ひおう?」
「緋色の桜って書いて、緋桜。それがあたしの名前。ファリアスとユーラ、二人の両親につけてもらったあたしの名前。どう? いい名前でしょ?」
 ふふん、と彼女は胸をそらせてみせる。
 それは澍煒の頃とあまり変わらない仕草で。
 でも、やっぱり違うのだ。
 名残はあっても同じものではありえない。
 うつわが変わり、名が変わって、出会った時代も違うのだから。
「うん。綺麗な名前だね、緋桜」
 だからといって口から自然に出たのは敬語ではなくタメ語。
 何の遠慮を感じることもなく、おそれることもなく。
「よし! これからもよろしく、樒。今の誉め言葉で力無駄遣いしてくれたことは流してあげるわ」
 ありがとうとお礼を言いかけて、意図するまでもなくわたしの口からは笑いが漏れた。
「なによ。なんで笑うのよ」
「ごめん。だって、だってね、全っ然変わってないんだもん」
 ちっ、と小さく舌打ちが聞こえた。
「あんたは大人しくなりすぎ。せっかくのチャンスをみすみす逃すなんて、ねぇ」
 最後の相打ちを求める声は夏城君に向けられたようだった。
 夏城君はそ知らぬふりで天井を見上げている。
「うわ。そういうとこ全然変わってない。都合の悪いことには関与しませんってとこ、龍様そっくり」
「……あのな、俺らは別に……」
「受け入れてあげなよ。ちゃんと居場所作ってあげて、存在認めてあげなよ。人間生きてりゃ人と出会う度に自分変わっていくじゃない? 体は死んじゃってるけどさ、その存在と出会ったと思えばこれからも上手く付き合っていこうって思うじゃん。そのことで自分が変わることが怖くなくなるじゃん」
 はっと胸をつかれていた。
 それは夏城君も同じだったようで、見合わせた顔に虚だけが浮かんでいる。
「だーかーらー、そこは顔を見合わせるんじゃなくて説教くさいとかさぁ」
「緋桜も苦労した?」
 見つめるわたしの視線を緋桜はそれとなく受け流した。
「苦労してなきゃ、言えないよね? 説教くさいって責めてるわけじゃなくて、えっと……」
「あたし自身はあんまり苦労なんかしてないわよ。今のあんた達ほどには。だって、あたしの存在意義は生まれる前から一つしかなかったから」
 緋桜は澍煒の記憶をそのまま受けついで生まれてきたということだろうか。
「言っとくけど、それでも澍煒と同じじゃないわよ。記憶があってもちゃんと赤ちゃん時代があったし、ファリアスとユーラに育てられてきた思い出だってあるんだから」
 同じじゃない。だから彼女は緋桜と名乗った。けれど、まっさらな状態からではなく澍煒という人格と共に育ったというのなら、彼女は澍煒でもあるはず。
「あたしは生まれたときから一緒だったから齟齬が生じなかっただけ。結局この通り、似たような性格になっちゃったし、今でも問題なし。でも、一緒に育ってきたんだよ。姉妹とかそういうんじゃなく、影のようにおぼろな存在だったけれど」
 わたしは頷いた。
 緋桜の言うとおり、わたしの中に聖の居場所をつくってあげられればいいのだ。
 ちゃんと向き合って話が出来るように。
「まぁ、澍煒のことよりはレリュータって存在を親に持ったことの方が大変だったかな」
 不敵な笑みを浮かべ続けていると思ったその滑らかな額には、いつの間にか汗がにじんでいた。
「緋桜?!」
 ふわりと栗色の長い髪が空中でしなり、緋桜の体がわたしの方に傾いだ。
 慌ててわたしはその華奢な少女の体を受け止める。
 その体は腕にかかると目算したよりもよほど軽いものだった。
 何より、氷のように冷たい。
「いやぁ、ごめんごめん。ちょぉっと誰かさんのおかげで疲れちゃって」
 支えきれずにわたしは彼女を抱いたまま座り込んだ。
「緋桜、嫌だよ。またあの時みたいにいなくなったりしちゃ、嫌」
「だーいじょうぶだって。生まれて百年。樒に会うために十六で時を止めて八十四年。まだまだ若いんだからこれくらいじゃ死にませんって」
 ひらひらと力なく白い手の平が揺れる。
 わたしは思わずその手を握る。
「こんな冷たいのに?」
 緋桜は心配げなわたしの耳元に口を寄せ、夏城君に聞こえないように囁いた。
「法王の血が混じってるんだから大丈夫だって」
 その声に触発されたようにわたしの下腹部は一瞬裂けそうな痛みに苛まれ、それが消えたかと思うと、今度は元気な赤ちゃんの泣き声が耳の奥にこだました。
 緋桜はファリアスとユーラの愛の結晶。
 でも、一年近く育んだのは聖自身だった。
 彼ら二人の肉体を奪い、自らのものにしたにもかかわらず生き残った命の芽。それは確かにファリアスとユーラから成っていたのだろうけれど、間違いなく聖の血を受けて成長し続けてきたのだ。
 一度も異性のぬくもりを知ることがなかったというのに宿し育み、産み落とした命。
 その皮肉さに、彼女は何度己を嘲笑ったことか。 
 けれど、だからこそ彼女は自らの命終えるときを正確に計ることができた。
「樒?」
「ううん。大丈夫」
 疲労した人間に心配されている場合じゃない。
 わたしは目の前に蘇りだす記憶を、一度瞼を強く閉じて頭のどこかに押しこめた。
「緋桜、お前確か柩の裏から出てきたよな。俺がさっきそっちにいたときにはいなかったはずだ。いつこっちに来た?」
 大分顔色の優れない緋桜を夏城君も覗き込んでいたが、意を決したように訊ねた声には危機感のようなものが含まれていた。
「来たときには夏城君が離れていくのが見えたわね」
 緋桜はそれに気づかないふりをして相変わらずあっけらかんと答える。
「直後か。ずっと見てたのか?」
「やぁねぇ。人を覗き魔みたいに。逃げてきたらちょうど夏城君の背中があっただけよ」
「誰から逃げてきた?」
 緋桜が苦笑したときだった。
 祭壇とは逆方向から、眩しいばかりの光が射しこんできた。





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