聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉

第 3 章  再 会

 1

 その日、わたしは塾の進路指導で何も言えなかった。
 成績は通っていた都立中学ではとりあえず中の上。
 委員会の委員長や部活の部長など、これといって内申点を上げられるようなことをしているわけでもない。学級委員に立候補するような気骨もない。
 目立たないように。
 ただそれだけを気をつけて、学校でも塾でも表面はみんなに合わせて笑いながら息を潜めて毎日をやり過ごしていた。
 目立たないようにするために、わたしは願うことを恐れるようになった。望むことが罪悪のように思うことすらあった。
 願えば。望めば。
 叶えるためにはどうしたって目立たなきゃならない。
 どんなにそれが些細なものでも、わたしにとってちょっとでも人と違うことをするのは大きなリスクだった。
 恐怖、だった。
『それで、希望はないのか? まぁ、はっきり言うと今の成績ではそれほど大それたところにいけるわけではないんだけどな』
 それでいいんです、とだけわたしは答えた。
 このまま入れそうな都立高校に行きます、と。
『それじゃあ塾に通ってる意味がないだろう? 今からならもっと伸ばすことだって出来るんだ。守景、俺はいつも思うんだが、守景は本気でやってないだろう? 守景のいるクラスの生徒達はもっと上のクラスへ行こうとみんな切磋琢磨してるじゃないか。そういう中にいて、どうして守景はやる気にならないんだ?』
 わたしにとって、上のクラスには何もない。今いるクラスに何があるわけでもないけれど。
 この塾に入ったのは、春にクラスの子達が通うから一緒に行こうと誘ってきたから。
 みんな行ってるなら行っておこうかな、くらいの気持ちでとりあえず通いはじめたのに、誘った当の本人達は三ヶ月経たないうちに進度についていけなくなってやめたり、好きな人を追いかけて別の塾に移っていってしまった。
 気がついたときにはわたしはこの塾で親しく話す人が一人もいなくなっていた。
 一度はそのときににやめようとも思ったけれど、お母さんが『勉強する時間が取れていいでしょう?』と暗に続けることを望んだから、わたしは惰性で来春の高校入試に向けての夏期講座まで受けに来ている。
 わたしが塾に通っている意味――それは、強いて言うならお母さんがそう望んだから。
 誰かの望みを叶えてあげることは苦痛ではなかった。それがたとえわたしの人生を思うままに運ぼうとする人のためであっても。
 それでも息苦しさを感じなかったわけじゃない。
 それが苦痛というのだと言われれば、わたしは前言を撤回せざるを得ないけれど。
 そう、本当のわたしは、ひたすら目をつぶって冷たい土の中で身を丸めて眠ったふりをしている種のようなものだったのかもしれない。
 いつか土の上の雪や氷が融けてくれればいいと、本当は強く望んでいたのかもしれない。
 塾の担当講師に半ば呆れられて解放された後、わたしは誰もいない教室が続く廊下を一人とぼとぼと歩いていた。
 悔しかったわけじゃない。
 なのに、何かが間違っているような気がして前に進む気力がすっかり萎え衰えていた。
 ふと足を止めたのは掲示板の前。
 つい先週やった実力テストの順位やその前のテストの上位百人の名前が張り出してある。
 当然その中にわたしの名前などなくて、決まった人の名前ばかりがやや位置を変えながらつらつらと並ぶ。
 その中にあって、七月に行われたテストのトップは三回とも同じ名前だった。
 ――藤坂桔梗。
 なんとも古風で奥ゆかしそうな名前だ。
 六月の終わりにこの塾に入ってきたばかりらしいが、入ってさっそく受けたテストからしてトップだったというのだから噂にならないわけはない。その上美人だというのだから男子が放っておくはずがないのだが、残念ながら彼女は男女共に他人をほとんど寄せつけないのだそうだ。
 この頃では専ら妬み混じりに、「そもそも岩城学園の生徒がこの塾にいること自体何かわけありなんだろう」と囁かれるだけになっていた。
 わたしも話したことはない。
 ただ、廊下ですれ違うたびにいかにも頭がよさそうで綺麗な子だな、と思っていた。残念ながらそんな知性の塊に自分から話しかけられるほど、わたしは自信もきっかけも持ってはいなかったけれど。
 窓の外は激しい夕立。
 けれどわたしはこれ以上このがらんとした構内に居たくなくて、とりあえず自動ドアの向こう、むっとした湿気が絡みついてくる外に出た。
 午後六時過ぎの道路は会社から帰る人たちの車で渋滞している。
 その両脇をせわしげに色様々な傘が行き違っていく。
 打ちつけるような雨の中、雨宿りする暇も惜しいのかその人たちの足が止まることはない。
 ビルのちょっと出張ったひさしの下に立って雨上がりを待つわたしは、行き交う人たちと同じ空間にいるはずなのに世界そのものから切り離され、置き去られていく。
 すれ違いざま傘が触れ合ってもお互い気づかぬふりをして過ぎ去っていくのだから、わたしなど傘に遮られるまでもなく視界に入ることはないのだろう。
 車の排気音。苛立ったクラクション。交差点の盲人信号の陽気なメロディ。人々の足音。
 それらは雨がアスファルトを打ちつける音の中でたえず蠢いていて、時折苛立った雷の轟音に真上から切りつけられて束の間白い静寂に還る。
 その時だけ、人々の歩調はほんの少しだけ乱れる。
 雷はそんなに怖いものだろうか。
 夕暮れ時。暗紫に染まった雲の中を縦横無尽に渡る白い光を、わたしは綺麗だとすら思うのに。
 どれほど見上げていても見飽きることがない天空の芸術。
 誰かがそんなことを教えてくれてから、わたしはあの音も光も恐ろしくなくなった。
 わたしが雷を恐れないのは物心もつかない昔からのこと。今となっては誰がそんなことを教えてくれたのか定かではないけれど、それでもわたしは夏になると一日のうちで一番この夕立のときがたまらなく待ち遠しくて、愛おしかった。
 雷雲はあっという間に過ぎ去り、俄かに強まった雨が強かに人々の傘を打つ。
 おじさんたちの黒っぽい地味な傘や若い女性の華やかな傘は放流された川のように速度を速め、色とりどりに波打ちながら先へ先へと左右せめぎあいながら流れていく。
 その流れの中、溺れた何かのように榛色に濡れそぼった頭が一つ、行き交う流れの中に飛び出しているのが見えた。
 額に張りついた前髪の下には前だけを睨みつけるように見据える両眼。急ぎ足ながら傘の流れを見越した滑らかな身のこなし。
 あまりの異質さに、わたしの目はしばしその人に釘付けになった。
 見た目はわたしと同じか一つ、二つ上だろうか。気難しげな表情のせいかもっと年上にすら見える。
 不意に、その人は少し首を捻ってわたしの方を見た。
 髪と同様、薄い茶色の瞳がわたしを捉える。
 わたしの喉は小さな悲鳴を上げかけた。
 あまりにも不躾な視線を送っていたことに気づかれてしまったのだろうか。
 けれど、その目は怒るでも非難するでもなく、わずかに悲しげに歪んでいる以外虚ろなだけだった。
 視線はすぐに外された。が、その人はあろうことか傘の流れを縫って真っ直ぐにこちらへ向かってきたのだ。
 雨に濡れて黒いシャツ越しに体にはりついた白いワイシャツの左胸には、かの有名な岩城学園の校章。
 わたしが目の前のその校章に釘付けになっていると、突如視界に閉じられたままの女物の傘が割り込んで来た。
 白地に赤とも濃いピンクともつかない大柄な花柄が入った傘。
 わたしはおずおずと顔を上げた。
 思ったよりも背が高い。
 顔をあげるというよりは見上げるという感覚に近い。
 わたしを見下ろすその目は不機嫌なばかりで、傘を突き出しているにもかかわらず好意的な色はどこにもない。
「使えよ」
 濡れた榛色の髪からは絶え間なく雫が落ちていく。
 言葉とは裏腹にぶっきらぼうなその声に、わたしは軽く慄いた。
 何度か口を開閉させてみるが、声にはならない。ようやく首を振るので精一杯だ。
「いいから」
 胸に押しつけられた傘に、わたしはさらに首を振りながら後ずさる。
「雨があがるまで待つから、大丈夫……です」
 語尾がしぼんでしまったのは、その人の目が譲るつもりがないことを告げていたからだった。
 わたしは目の前に突きつけられた女物の派手な傘と、眉間に皺を寄せたその人のいかめしい 顔とをせわしなく見比べる。
 素直に受け取ったほうがいいのだろうか。
 確かに女物の派手な傘だからさすのが恥ずかしいという気持ちは分からなくもない。けれどこのどしゃ降りだ。ずぶぬれになってもさしたくない傘だなんて、何かいわくがあるとしか思えない。さしたらからかさお化けになるとか、雨女になるとか、開くと二度と手から傘が離れなくなるとか……。
 そんなことあるわけないけど。
 飛躍しすぎた妄想を打ち消そうと、わたしはもう一度その人の顔を見上げた。
 無言ながら「早く受け取れ」と言ってる声が聞こえる。
「いいん……ですか?」
 わたしがおそるおそる手を伸ばすと、その人はわたしの手に傘を預けて一つ頷き、くるりと背を向けた。
 ふと、わたしの胸は締めつけられるような感覚に襲われた。
 寂しげな背中だと思った。
 身長が高いからそれ相応に広く大きな背中だけれど、少年らしく線はまだ細い。そのせいか、丸められているわけでもないのにその背はひどく頼りなげで、無理矢理しゃんと伸ばされているようにすら見える。
 わたしが息を飲み込んだままお礼も言えずにいる間にその背はどんどん遠ざかり、傘と夕立の中に飲み込まれるようにして消えていた。
「あ、どうやって返せばいいんだろ……」
 はたと気がついて、わたしは傘を持ち上げて見つめた。
 さすがに名前なんか書いてないよね。小学生が使う傘でもないし。
「どうしよう」
 思わずしゃがみこみそうになったときだった。
「私、今の人知ってるわよ」
 自動ドアが開く音がして、しっとりと落ち着いた少女の声が後ろから聞こえてきた。
 前髪を眉の辺りで切りそろえ、腰まである黒髪を左右二本に分けて三つ編みにしている大人びた顔をした少女。
 藤坂桔梗。
 廊下ですれ違うときはいつも仮面のように無表情で笑みのかけらも浮かべてはいないのに、今現れた彼女は上機嫌そのものといった顔でわたしを見ていた。
 わたしは微笑を向けられる理由が分からず、心持ち後ずさる。
「藤坂さん……?」
「はじめまして。そんなに怯えなくてもいいのよ。食べちゃうわけでも怖いお話をしようってわけじゃないんだから」
「え、あ、そうなんですか?」
 凝固寸前のわたしを見て、困ったように藤坂さんは笑った。
「私がこの塾の人に話しかけるのは珍しい?」
「はい。あ、じゃなくて、どうしてわたし……なんですか?」
 自分でも日本語がぎこちなくなっているのがわかる。
 初対面の人が苦手とはいえ、絶対藤坂さんはわたしのことを頭の悪い子だと思ったにちがいない。
「どうして? って、簡単でしょう? 同じ塾の人が困っていて、私はその悩みを解決するために一役買ってあげられるんですもの。そうだわ、お名前は?」
「守景樒、です」
「守景さんね。何度か廊下ですれ違ったこともあるわよね?」
 笑顔で聞かれてわたしはおそるおそる頷いた。
 どう考えても、藤坂さんの目にわたしのような目立たない子が映っているわけがないとずっと思っていたから。
「大人しそうだけど可愛い子だなって思っていたの。話すチャンスが巡ってきてくれて本当に嬉しいわ」ナンパですか?
 わたしは曖昧な笑みを浮かべて頷いた。
 ずっとずっと前にもこんなことがあった。台詞は全然違うけれど、向こうから積極的に友達になろうって言ってきてくれて……あの時は素直に頷いた。
「守景さん、私と話すの、嫌?」
 挙動不審でその上自分が示した分の好意のかけらすら見いだせないわたしに不安になったのだろう。藤坂さんはちょっと小首を傾げて確かめるようにわたしを覗き込んだ。
 どちらかというと切れ長に属する目は、黒く澄んでいて優しげな光を内包している。
その目で見つめられれば、きっと誰もが癒されるのだろう。心を開かなきゃという気になってくる。開いても大丈夫だと信じさせてくれる。
 わたしはゆっくり首を振った。
「嫌なんかじゃないです。わたしもちょっと、話してみたいと思ってたから」
 視線はあわせられなかった。
 借りた傘をぎゅっと握りしめて、俯いたまま早口に言い終える。
 ふっと藤坂さんの空気が和らぐ。
「本当に?」
「本当です。綺麗な子だなってずっと……」
 わたし、なに口走ってるんだろう。こんなのベタなナンパもいいところだ。それも同じ女の子に……!
 穴があったら入りたい。出来れば蓋つきの防空壕みたいなものがいい。でもコンクリートだらけのこの世界じゃ地面に穴なんかあいてるわけがない。せめて壁一枚向こうに逃げ込めたらいいのに。
 わたしの頭の中の葛藤がそのまま動きに出てしまっていたのか、気がつくとわたしは冷静な藤坂さんに背を向けて頭を抱えて蹲っていた。
 くすくすと上から笑い声が降ってくる。
「同い年なんだからせめて敬語はやめない?」
「え……?」
 わたしはしゃがみこんだまま首だけを捻って藤坂さんを見上げた。
 きっと呆れただろうと思ったその白皙の綺麗な顔には、さっきよりもより親しげな笑みが湛えられていた。
「あ……うん。ありがとう」
「お礼言われるようなことはまだ何もしてないでしょ?」
 わたしは差し出された手に素直に掴まって立ち上がった。
「ううん、してくれたよ。敬語やめようって言ってくれた」
 わたしは心からほっとして頬を緩めた。
 ほんとは同い年の人にずっと敬語を使い続けるのは難しかったりする。途中で仲良くなってくるとタメ語になりそうになるから。そのままタメ語にしてしまえればいいのだけれど、わたしは相手の反応が怖くてついついタメ語にする機会を逸してしまうのだ。
 自分で自分の周りに壁を作りながら、ほんとはずかずか入り込んできてくれる人を待っているのかもしれない。ちゃんと気づいて、わたしを楽にしてくれる人。
 わたしは、なんて臆病な人間なんだろう。
「そう。敬語って一度使いはじめるとやめる時期見極めるの難しいものね」
「分かるの?」
「なんとなく見当がつくだけよ」
 藤坂さんはそう言ったけど、この人は分かる人なんだとわたしは直感で思った。見当だけで気がついてくれるようなことじゃないから。
「そうそう、その傘の持ち主さんのことだったわね」
 わたしの手にある派手な傘を見つめる藤坂さんの顔には楽しげな微笑が浮かんでいる。
「さっきの人はね、夏城星君。私と同じ岩城の中等部の三年生よ」
「中等部? 年上だと思った」
「苦労してるのか昔から老け顔なのよ」
 揶揄混じりの言い方だったけど、あながちその理由は間違っちゃいないのかもしれない。
 眉間に寄せられた皺とか、表情の動きが少なめなとことか、親切なことをしてるのに怒って見えてしまうところとか、ただ格好をつけているにしては板につきすぎている。
「守景さん、そこは笑うところよ」
「え、そうなの? ごめん。だって本当に苦労してるっぽかったから」
「よく見てたのね。あんな短時間だったのに」
「そういうわけじゃ……ないんだけど。あれ、藤坂さん、もしかして一部始終見てたの?」
 はたと気がついてわたしは藤坂さんをうかがうように心持ち見上げた。
「夏城君がこっちに来るあたりからかしらね」
「それを一部始終って言うんだよ」
 は、恥ずかしい。
 別にわたしが傘を持ってきて貸したわけじゃないけど、胸の辺りがもやもやする。
「気にしなくていいのよ。別に悪いことしたわけじゃないもの」
「そうだけど……」
「夏城君にも言わないから。守景さんが困ってただなんて」
「困ってたわけじゃなくて……」
「じゃあどきどきしてたなんて言わないから、安心して」
 わたしは声も出せないまま何度か口を開閉させた。
 脅されてる? わたし、もしかして脅されてる?
「どきどきなんてしてなかったよ。今言われたからちょっと意識しちゃっただけで」
「ふぅん」
 なんだろう。どうしてかものすごい弱みを握られてしまったような気がする。
 わたしにはそんな気なんてないのに。
「と、とりあえず、この傘のことなんだけど。藤坂さん明日も講習来るよね?」
 話を変えようと、わたしは傘を軽く持ち上げた。
「ええ、来るわよ。でも、その傘を私から返して欲しいっていうなら、それはお断りするわ」
 思ってもみない返事にわたしはしばし藤坂さんを見つめた。
「どうして?」
「だって、私は今日のこと夏城君に口外しちゃいけないんでしょう?」
「それはわたしが困ってたとか、どきどき……してないけどしてたとか言われると困るって言う意味で」
「夏城君も私に見られてたなんて知りたくないと思うわよ。私から傘を返すってことは、 否が応でも私が見てたことを言わなきゃならないでしょう? そもそも夏城君がこんなことするなんて私も意外だもの。何か理由があったんでしょうけど、きっとあまり触れられたくないんじゃないかしら」
「じゃあ、どうやってこの傘返せばいいの?」
 困りきったわたしに藤坂さんは極上の微笑を振舞った。
「自分で返せばいいのよ」
「自分で? でも、わたし他の学校の前で待ち伏せとかは……それこそ人目につきすぎるし……」
 そんな大胆なことは絶対に無理。
 無理ったら、無理。
 激しく首を振るわたしを宥めるように藤坂さんは言った。
「夏城君はその傘を守景さんに渡すときになんて言ったの? 貸す? それともあげるだった?」
 わたしは一言ずつしか発しなかったさっきの人の言葉を思い出す。
「使え、だったかな」
 藤坂さんは小さく噴出した。
「らしいわねぇ。でも、それなら何も今すぐ返さなくても大丈夫なんじゃない? 何しろこんなにどしゃ降りでもささなかった傘ですもの」
「そうだけど、でももらっちゃうわけにもいかないよ」
「一つ、校門前で待ち伏せなんてしなくても、私の手を介さなくても守景さんが直接返せる方法があるわよ」
「ほんと? どんな方法?」
岩城うちにおいでなさいな」
 その一言はあまりにさらりと告げられた。
 わたしは一瞬何のことかわからず藤坂さんを見つめる。
「来年、岩城の高等部に入ってくれば同級生として嫌でも傘を返すチャンスが出来るわよ」
「そう……かもしれないけど、わたしに岩城なんて……」
 冗談としか思えない。
 岩城学園は幼稚舎からエスカレーター方式で進学できる。その分、上にいくほど外部入学者の募集人数は減って、倍率的にもどんどん難しくなるのだ。だから、岩城の高等部なんて、この塾でいうならトップクラスの在籍者でなきゃ志望に加えることすら出来はしない。上から三つ目の標準クラスでのんびりしているわたしには到底手が届く場所じゃない。
「息苦しくはない? そうやって自分の出来ることを限定して諦めて、現状で満足させようと無理をして」
 わたしは息をのむ。
 藤坂さんの声は穏やかだった。が、その声音に反して言っていることは手厳しい。
「行動に動機がいるというなら、今守景さんは手に入れたじゃない。とっても些細なものかもしれないけれど、ただ漫然とトップレベルの高校に入りたいと思っている人たちよりは入った後でも有効な動機だと思わない?」
「動……機……?」
 心が、揺れる。
 激しく揺さぶられてる。
 今さっき話したばかりなのに、この人はどうしてかわたしという人間を見抜いていて的確に痛いところをついてくる。そしてただちくちくといじめるだけでなく、そのあとには欲しい言葉をくれる。
 でもわたしは怖かった。
 いつもの自分から一歩踏み出すのが、とても怖くて仕方がなかった。
「はじめから成功することだけを考えるから二の足を踏んでしまうのよ。併願できることだし、駄目だったらそれでいいじゃない。そのときは私が傘を返してあげる。でも、来年守景さんがうちの学校に入ってきてくれたら、私なんだかとても楽しい学校生活が送れるような気がするのよ」
 誰かの願いを叶えることは、嫌じゃない。それは、母の望みとも合致することだろう。
「あら、私いつの間にか自分本位なことを言ってしまったわね。ごめんなさい。でも、考えてみてもいいんじゃないかしら。もちろん、今すぐ答えなんか出さなくてもいいのよ。願いは口にしないほうが叶うっていうし。それにね、息苦しかったら自分で這い出るしか方法はないのよ。他人ひとは這い出るきっかけは与えられても、本当にその人を望む場所まで引っ張り上げてあげることは出来ないものだから」
 同い年なのに、妙に説得力のある言葉だった。
 そのくせ言い方は淡々としていて押しつけがましくない。
 表情もさっきと変わらぬ微笑が浮かんだまま。
 得体の知れない人だと思ったことは否めない。
 けれど、それ以上にわたしはもっと彼女を知りたいと思った。
 そんな言い方をしたらまた疑われそうだけど。
「……うん、そうだね」
 彼女の抱えるものが何か、知りたいと思ってしまったんだ。
 だからわたしは願った。
 とても久しぶりに、強く未来のことを思い描いた。
 藤坂さんと同じ制服を着て、同級生として心置きなく一緒に笑っている自分を。

 ――ねぇ、真由。いいかな。わたし、また心から笑ってもいいかな。
 生きながら自分を殺し続けるのは、やっぱり疲れちゃったんだ。
 自分のために願うのはもうこれっきりにするから。
 ごめんね、真由。


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