聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉
第 2 章  覚 醒
 4

「樒ちゃん!」
「樒!」
 胸が痛い。
 外からは締めつけられているのに中からは焙られているようで、わたしは数瞬呼吸が出来なかった。
 胸元を掴んで前かがみになったわたしの肩には半開きになった扉から烈風が吹きつける。
 これは普通の風が吹いているんじゃない。
 時空風。
 気圧が変化したのではなく、時空の存在そのものが溶け合いきれずに揺らいでいるんだ。
「まずい……桔梗、葵、早くみんなとここから逃げて」
 かろうじて見上げた先には、陽炎にさらされたようにぐにゃりと歪んだ黒い霧の空。
 その歪みは徐々に扉から広がりだし、加速度的にこの世界を侵食していく。
 扉を閉じなければ。
 早く閉じなきゃ、この世界が食い尽くされる。人界が壊れてなくなってしまう。
 その前にわたしたちが死んでしまう。
 わたしは半開きの扉を見つめてぎり、と奥歯を噛みしめた。
 桔梗と葵はまだわたしの肩を支えながらおろおろしている。
「早くわたしからはなれて! 早く!」
「でも、樒ちゃんが」
 わたしの胸にはさっきまで確かに息づいていたはずの魔法石の気配が消えていた。
 あの石がなければ精霊王の力は借りられない。
 それ以前に、その頼るべき精霊王が無事かどうかも分からない。
「どうしたらいいの……!?」
 いっそ体当たりであの扉に突進してみる?
 一瞬浮かんだ馬鹿な考えに、わたしは自嘲する。
 そんなことしたってあれは肉体のままでは触れることさえ出来ない。
 そもそもあの扉は物質を超越した存在なのだから。
「樒! ここにいたって無駄死にするだけだ。樒も一緒に行こう」
「でもわたしには責任が!!」
「責任って何の責任だよ。守景が責任感じなきゃならないなら、疲れてるって分かってて止めなかった俺たちも同じだ」
 夏城君はぐい、とわたしの腕を引っ張ると引きずるようにして扉から離れるように走りはじめた。
 わたしは簡単に息が上がって、夏城君の腕を振り払おうとした。
「だめだよ。逃げたってあれは……!」
 だが、いくらも走らないうちに夏城君は急に止まった。
 右手が一振りされて現れたのは蒼竜。
「どうした、夏城?」
 葵は一応訊ねたがその手にはすでに朱雀蓮が握られている。
「お客様、か。こんなときに」
 紫精を手にした光くんが呆れたように笑った。
 わたし達の向かう先、黒い霧が一箇所より黒々とゆらめき、滑らかになったかと思うと、それはわたし達の前に姿を現した。
「残念。ここでさっきの壊れた聖刻王だったらこのまま全部終わりに出来たのに」
 桔梗の軽口にその人は少しばかり口元を歪めた。
 後ろ低くで一つに括られ流された長い黒髪。着ているものも夏だというのに体の線もあらわな長袖のタートルネックで、細身のパンツも靴も黒。ただ顔だけが白く闇の中に浮き上がって見える。
 〈俤〉ではない。
 禍々しいながらも洗練された美貌をもつその顔は確かにわたしより二、三歳年上の日本人男性のものだったが、わたしにこんな知り合いはいない。もしいたならば、忘れるわけがなかった。
 闇を背負っているくせに華々しいまでの輝きを放つこの人を。
「それは随分な歓迎文句だね」
 うっすら笑いすら浮かべて発せられた声も思わず聞きほれるほど深みのあるバリトン。
「とりあえずその物騒なものをしまってくれないか? 私は君達とやりあいに来たんじゃない」
 失われることのない余裕はかえって怪しい。
 すぐ間近で次元の亀裂が広がるプレッシャーを感じているのはこの人も同じはずだ。
「じゃあそこをどけ!」
 葵が朱雀蓮を片手に男に詰め寄った。
「どいてもいいが、君達はこの世界にいる限り死ぬことは確定だ。そうだろ? 守景樒君」
 初対面の人に名前を呼ばれて、わたしは思わず食い入るようにその顔を見つめた。
「桔梗、確認するけどあの人、何に見える?」
「随分と綺麗なお兄さんってとこかしら。黒がとてもよく似合うわね」
「〈俤〉じゃないよね」
「ええ、違うと思うわ」
 わたしと桔梗のやり取りにその人はくすくすと笑い出した。
「私をそんな低級な者共と一緒にしないでくれたまえ。せっかく助けに来てあげたのに気が変わってしまうかもしれないよ?」
『助けに……来た……?』
 五人の口から同じ言葉が漏れだした。
 それはこの状態だ。助けてくれるものなら藁にでも縋りたい。
 でも、この人は危険だ。
 普通の人間としての第六感がそう言っている。
「時をつかさどる刻生石が機能しなくなった以上、君達はこの空間から出られない。どこか別の世界に行くしかなくなるわけだ。私はその別の世界に君達を連れて行くことが出来るんだよ」
 その人は悠然と言い放った。
 わたしは背後に迫ったプレッシャーと重さを引きずるような鈍痛が続く胸の痛みに、全身に嫌な汗をかいていた。
 夏城君はそんなわたしをちらりと横目で見、前の男に向き直る。
「違うと思うが一応聞く。そこは神界か?」
「いいや。闇獄界だ」
「それじゃあ意味が……!」
「話は最後まで聞くものだよ、木沢光くん。何せ今は時間がない。私が連れて行けるのは闇獄界までだ。だが、そこに着けば神界に君達を案内できる方がいる」
「神界に案内できる……方?」
 わたしは思わず呟いた。
 闇獄界と神界を自由に行き来できるのは確か、時を司る聖と精霊王、そして守護獣のほかには統仲王と愛優妃だけ。統仲王は陰をつかさどるというその性質上闇獄界にいることはありえない。
「行こう」
 夏城君が結論を出すのは早かった。
「それが賢い選択というものだね」
 その人は上機嫌に頷く。が、桔梗は用心深かった。
「待って。闇獄界が私たちを助けるなんて、どういうことかしら? 私たちだって自分の名前を名乗りもしない人にほいほいついていくわけにはいかないわ。闇獄界の人だというのなら、尚更」
「なるほど。確かに恩人の名前を知らないのでは満足にお礼も言えないだろうね」
 何をどう勘違いしたのか、その人は鼻にかかるような声で額に手まであてて喋りだす。
「いいだろう。よく覚えておくがいいよ。私は高白羽たかしらば黎那れだ。高白羽グループの名前くらい、聞いたこことあるだろう? 私はその高白羽グループの総裁の三男さ」
 わたしたちは結局その人の一人演説を一人として最後まで聞いてはいなかった。
「おい、あいつやばいよ。ナル入ってる!」
 牽制していたはずの葵までもが戻ってきて腕の鳥肌をかきながら震えた。
「喋り方もなんか演技くさいよね」
 光くんが一緒に頷く。
「高白羽グループもあの人が三男じゃ見通し悪いわねぇ。あそこは血縁者みんなが何らかのグループ傘下の社長や取締役になることになってるみたいだから」
「ねぇ、高白羽グループって何?」
 あの人は印籠でも出すように言ったが、経済に疎いわたしはその名すら知らなかった。
「高白羽グループって言うのは戦後急成長した総合グループだよ。銀行から病院まで手広くやってるんだ」
 つらつらと答えたのは光くん。
「お前、よく知ってるな」
「最近お小遣い稼ぎに株投資はじめたんだ。高白羽は優良企業だから僕もいくつか持ってたんだけど……そういえば、これじゃあ利益回収できないね……」
 夏城君に自慢げに喋っていた光くんは、はたとつきつけられた現実に空を仰いだ。
「ていうか、なんで高白羽のぼんぼんが闇獄界の使者みたいなことしてるわけ?」
「さあ? お金持ちって暇な人が多いみたいだから、黒魔術にでも手を出して洗脳されちゃったんじゃない?」
「く、黒魔術?!」
 わたしが飛び上がったとき、空間の亀裂とは別の怒気含みの気配が背後で立ち上った。
「……君たち、私は帰ってもいいかね?」
 わたしたち五人が一斉に振り返ると、さっきまで端正な顔に美麗な微笑を浮かべていたその顔は、柳眉が痙攣し、口元がひきつっていた。
「それでも」
 怒りを抑制しながら高白羽黎那が息だけを吐き出すようにそう言った次の瞬間だった。
「君だけはつれて帰らなければならないけどね」
 わたしの肩は高白羽黎那の胸中にあった。
「魔法石が機能しなくても、刻生石を元に戻せるのは守景樒、聖刻法王の魂を持つ君だけだ」
「は、はなしてよ! 大体魔法石がなきゃわたしは何も出来ないんだから!」
「そんなことはない。魔法石は精霊王と法王とをつなぐただの道具でしかない。持っていればああやって身を守るものにもなろうがね」
 高白羽黎那は夏城君や光くん、葵の手にあるものをざっと見渡した。
「それに守景樒君。愛優妃は君に会いたがっている」
「わたし……に?」
 鸚鵡返しに問い直したものの、わたしの口からは嘲笑が漏れていた。
「わたしに会いたいんじゃないでしょ。その人は自分が神界に産み捨てた子に会いたいだけ。違う?」
 聖は頑なに愛優妃という名を拒んでいた。
 割り切れないむかむかとした気持ちがわたしにまで伝わってくる。
 愛優妃は聖を産んですぐに本格的に闇獄界に行ってしまった。以来、愛優妃が神界に足を踏み入れたことはない。上の兄弟七人は皆彼女の母乳で育てられたというのに、聖だけは乳母に育てられていた。それも天宮ではなく次兄、天龍法王の居城で。
 せめて乳離れするまで、どうして神界に留まっていてくれなかったのか。
 聖の愛優妃に対する思いは、憎しみに近い。
「さぁ? それは私が判断することではなく愛優妃が判断すること。私はただ彼女の望みが叶えられればいい」
 高白羽黎那の答えは淡白なものだった。
 それを聞いた桔梗は脇でくつくつと笑っている。
「随分と忠実なのね、愛優妃に」
「どういうことかな?」
 皮肉げな表情を浮かべて高白羽黎那は桔梗を振り返ったが、桔梗はそれには答えなかった。
「私たちも闇獄界に連れて行ってもらいましょうか。ここから出るにはもう貴方にお願いするほかないみたいだから」
「お願いしている割には偉そうだが」
「そんなことないわよ。ただ、樒ちゃんだけを貴方に渡すわけにはいかないの」
「桔梗、」
 ここは素直にお願いしようよと言おうとした時には、葵と光くん、それに夏城君までもがすでに臨戦態勢に入っていた。
 上からは楽しげな笑い声。
「そんなに自分の命が惜しいか?」
「当たり前でしょう」
 桔梗は堂々と嘯いたがすぐに神妙な面持ちになった。
「でも、そんなことで樒ちゃんを貴方に預けられないって言ってるんじゃないわ。この辺に立ち込めている瘴気、それにさっきの〈俤〉やレリュータが初めて樒ちゃんに接触してきた時の状況、異変が起こったときに講堂一杯に広がっていた瘴気。この異変に絡んでいるのは聖刻王だけじゃない。闇獄界も一枚かんでいるってことは明白なのよ。それなのに闇獄界の使者を名乗る貴方が私たちの窮地に喜んで救いの手を差しのべようと言う。そんなのおかしいって思うのが普通でしょう? 貴方の申し出は疑われて当然だわ」
 わたしは心からさっき全部言わなくてよかったと安堵した。
 と同時に、背の高い高白羽黎那を見上げる。
 不敵な表情に変わりはなかったが、いささか笑みが深まったようだった。
「愛優妃とは別の誰かが聖刻王に力を貸したのかもしれないね」
「逆でしょ? 弱ったレリュータにつけこんだんじゃないの?」
 わたしは油断して緩んでいた高白羽黎那の腕からようやく飛び出した。
 闇獄界まで絡む予定ではなかったのだ。
 あくまで聖刻の国と人界だけで終わらせるつもりだった。
 そもそも、神界に住むレリュータに闇獄界が接触できるはずがない。神界には闇獄界が容易に攻め込んでこられないように、眠りながらも統仲王が四方の楔を基点に結界を張っているのだから。
 レリュータの心が病むことを聖は見通していた。そうでなきゃ刻生石のぶれは生み出せない。けれど、たとえ心を病んで負の温床となったとしても、神界にいる限り闇獄界から種が蒔かれることなどないはずだったのだ。
「まさか君も私を疑っているのかい?」
「だって、思いっきり胡散臭いんだもん」
 桔梗の受け売りだけど。
「胡散臭い……ちゃんと素性は名乗ったじゃないか」
 高白羽黎那は怒ってなどいなかった。むしろ楽しそうにわたしたちを見つめている。
「黒魔術やってる人なんでしょ? 十分怪しいよ!」いまさらだよ
「み、樒ちゃん、さっきのそれは冗談よ」
 苦笑しながら桔梗がわたしの肩を抱いて後ろに連れ戻した。
「え? 冗談なの?」
「半分、ね。似たようなものかもしれないけど。ねぇ、樒ちゃん、無理を承知で聞くわ。あの歪み、私が樒ちゃんを癒してあげても修復できなそう?」
「桔梗! お前何言って……!」
「そうだよ! 無理だから逃げてきたんじゃないか!」
「樒ちゃん、思い出しなさい。法王と契約した精霊王は、法王の魂が死なない限り死ぬことはないわ。あなたにはあなたに仕える精霊王を助ける義務があるでしょう? 顔も見たことないって言うかもしれないけど、彼女はずっとあなたを迎えるために聖刻の国で待っているのよ」
「でも、これ以上時の魔法を使ったら……」
 わたしの手には、夢の中で聖が感じた魂が抜けたあとの澍煒の手の重さが俄かによみがえってきていた。
 わたしがここで何かしようものならさっき見た夢の二の舞になる。
「精霊に頼るのでなく、樒ちゃんが願ってごらんなさい。きっと道は開けるわ。あなた自身の手で」
 桔梗は囁いた。
 その言葉に、一年前、塾で知り合って間もない頃に桔梗が言った言葉が重なる。
『傘を返したい? それなら自分でお渡しなさいな。私からだと変に思われるわ』
『でも、わたし他の学校の校門の前で誰か待つとか、そんなことは……』
『それなら、守景さんが岩城うちに来ればいいじゃない』
『え? 岩城に? む、むむ無理だよ、そんなの!!』
『無理じゃないわ。守景さんが強く望めばいいの。もう一度夏城君に会ってちゃんと傘を返したいって願えばいいのよ』
『けど、願ったって……』
『強く、鮮明に、具体的に。守景さんには理由があるもの。大丈夫よ。あなたには自分で道を切り開く力があるから』
 あの言葉は今でも有効だろうか。
「うん。分かった。やってみる。闇獄界なんかに寄り道してる場合じゃないもんね。澍煒が待っていてくれるっていうならなおさら」
 桔梗は励ますように頷いてくれた。
『癒しの水よ 傷つきし者の中を流れる者達よ
 途絶えることなきそのめぐりにて 汝らの器を癒せ』
「廻れ、癒しの水たち」
 体中が海姉様に抱きしめられた時のようにほんわりと温かくなったかと思った瞬間、わたしの体は錘を取っ払ったように軽くなった。
 同時に凍えていた胸のあたりが活気づく。
 魔法石の気配は冷えたままだったけれど、わずかに温みがあった。
 澍煒は死んでいない。大丈夫、まだ間に合う。
「ありがとう、桔梗」
「お願いね」
「うん」
 わたしはくるりと踵を返して迫り来る時空の歪みと対峙した。
 聖刻法王としての力の使い方は、魔法石を通して精霊王の力を借りる方法しかわたしは知らない。
 でも、聖はもう一つの力を持っている。
 有極神――創造神の力。
 その力ならこの時空の歪みを修復し、一緒ににみんなと神界へ行ける。
『その望み、叶えてやろうか?』
 レリュータに楽しい思い出を預けてしまった聖の過去は苦いものばかり。
 有極神が初めて聖に接触してきたとき、聖はその言葉に縋ってしまった。
『願えばいい。強く願えば、お前は全て欲するものを手に入れられる』
 わたしは願うことが怖かった。
 願う前にいつも思う。
 もし、叶わなかったら? と。
 願って叶わず落胆するくらいなら、はじめから願わなければいい。手元にあるもので満足できるようにすればいい。
 でも、それではいつか不満だらけになって自分がどんどん薄汚れていくのだ。
 学校という小さな社会の中に押し込められて、同じ人たちの間ばかりを転がり続けて。
 居心地は悪くないのに息苦しくて、あの頃のわたしは笑いながらも窒息しそうだった。
 こんな今がずっと続くのかと。
「困るなぁ、守景樒君。君一人で解決されては私が来た意味がなくなってしまうじゃないか」  背中に朗々と台詞でも読むような高白羽黎那の声。それに続いてわたしの周りに闇が凝る。
「樒、ここはあたしらで止めるから」
「うん、頼むよ、樒お姉ちゃん」
 校庭に撒かれた砂がじゃり、と小気味いい音をたてる。
「うん、任せたよ」
 わたしは吹きつける風を腕で防ぎながら歪を見上げる。
 もし、聖が有極神の力を制御できるまでになっていたなら、聖はここまでややこしいまねはしなかっただろう。有極神の力で人界を一度破壊し、時を巻き戻す。それすらも創造神の力を持ってすればたやすかったのだろうから。
 でも、そうしなかったのは、もう頼りたくなかったからだよね?
 何より、彼女の孤独はあなたの孤独と似ていたから。
「守景」
「うわ、夏城君」
 音もなく横にいたのは夏城君。
「ま、何とかなるだろ」
「そんな小難しい顔で言われても信憑性ないよ?」
 突っ込まれたことが意外だったのか、夏城君の眉間の皺はちょっとだけ緩んだ。
「帰ったら、ちゃんと傘返すから」
「傘?」
 夏城君の顔は怪訝そうだった。
「うん、そう。大きな花柄の傘」
 思い出してわたしはちょっと笑った。
「夏城、そっち行った!」
 葵の声と共にわたしの目の前の瘴気はさらに凝り、高白羽黎那となってわたしに腕をのばしてくる。
 その腕を狙って夏城君は蒼竜を振り下ろした。
 見切っていたのか、高白羽黎那は背後に時空の歪が控えているというのに意にも介せず後ろに飛び退る。
「急げ、守景」
 蒼竜で高白羽黎那をわたしから引き離そうと追い立てながら夏城君が叫ぶ。
 大丈夫。わたしは孤独なんかじゃない。
 有極神の力に飲み込まれかけたって、きっとみんなが手を差しのべて引っ張りあげてくれる。
「乱れた理のまま開け放たれた扉よ、閉じなさい」
 わたしは心の掛け金を一つ外した。
 感じたこともない力の奔流が溢れんばかりにわたしの体中を駆け巡り、時空の歪へ向かって迸っていく。
『我が理に背くものを我は許さじ
 しからば 混沌と成り果てしものよ
 汝 その存在許されたくば
 今一度我が理に従え』
 有極神の言葉の威力は絶大だった。
 傷口が外側から急速に癒えていくように、ぽっかりあいた時空の歪は閉じていく。
 そのかわり、せっかく癒してもらった体はさっきよりもひどい疲労感に苛まれはじめていた。
 倒れちゃう前に急がなきゃ。
「次は、みんなと神界へ……」
 有極神の言葉にする前に、それは来た。
 大地ごともっと固いものに突き落とされたような衝撃に、わたし達の体は一瞬浮き上がり、地面に打ちつけられた。
 間髪をいれず大地は不気味な静けさをもって鳴動しはじめる。
 その音を掻き消すかのように校舎崩落の轟音が続き、鳴り止まぬうちに大地の嘆きはより一層深くなった。
 わたしは恐怖に声も上がらなかった。
 立っていられずへたり込んだ土は怒りに打ち震えつづけ、体中に恐怖を刻み込んでいく。
 もう、誰も立ってはいなかった。
 わたしのようにただ茫然と座り込んでいる。
「守景樒君、だから私は迎えにきたのに」
 闇を渡って目の前に現れた高白羽黎那はしゃがみこんでわたしの顔を覗き込んだ。
「少なくとも君さえ無事なら彼女達も助けられる。時を巻き戻して、ね」
 わたしは差し出された真白い手を見つめた。
 背中に時空風が吹きつける。
 体が溶かされそうなほど軋んだ。
「わたし、失敗したの?」
「成功したさ。これは刻生石が限界の悲鳴を上げているんだよ。人界だけじゃない。闇獄界も神界もこれじゃあ全てばらばらになる。君の〈影〉もこのままだと存在そのものが危うい」
 時空震――今回のはもう、致命的だ。
「さあ、私の手を取るのかい? 取らないのかい?」
 ほら、何度願っても結果は同じ。
 願うことも望むことも、ただ自分の無力さを思い知らされるだけ。
「でも、樒ちゃんは勝ち取ったでしょう? 私たちと同じ高校に入ってきたでしょう?」
 桔梗の声が聞こえた気がした。
 そうだよ。
 わたしの願いが叶えられたのは、ただその一度だけ。
 それでも、わたしの願いは肝心なときに聞き届けられなかったんだ。
 桔梗、葵、光くん、夏城君、ごめんね。
 わたしが虚ろにその白い手に手を重ねようとしたとき、大地はもう一度跳ね上がった。


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