聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉
第 2 章  覚 醒
 3

 闇のどろどろとした揺りかごに抱きこまれたわたしは、あまりの気持ち悪さに一瞬気を失っていたようだった。でも、意識を取り戻したからといって周りの状況は何一つ好転してなんかいなかった。
 体は顎半ばまで飲み込まれ、かろうじて呼吸ができるだけ顔が出ている。
「樒、無理しなくていいのよ。早く私たちに会いたいんでしょう?」
 つと顔を上げると、黒くぬめる壁にお母さんの顔が現れて心配そうにわたしを見ていた。
「それとも姉ちゃん、俺らのことなんかもうどうでもよくなっちゃったの? 前世の家族を見つけたから?」
 洋海の手がわたしの頬にのばされる。
「前世の家族……?」
「統仲王と愛優妃、それに七人のお兄さんとお姉さん。あれ、みんな姉ちゃんの前世の家族だろ?」
「な……に言ってるの、洋海。あんた、まるで見てきたようなこと言わないでよ!」
 わたしが身をよじって洋海の手をのけようとすると、洋海の形をしたものがずいっと泥の壁から抜け出てきてわたしを覗き込んだ。
「見てきたよ、俺は。ずっと見守ってきたもん」
 ひたと見据える目はあまりに真剣で、わたしは一瞬言葉を失った。
「ふ……ざけないで!」
「ふざけてなんかない。あれだけ聖の叫び声聞いてるのに、どうしてまだ受け入れようとしないの? 聖は姉ちゃんなんだよ」
 それは偽者の弟の言葉。ここに居もしなければ、わたしが今日どんな目に遭ってるかも知りようがない弟の言葉。
 信じられるものの言葉じゃない。
 それなのに、洋海の最後の言葉はだめ押しのようにわたしの心を揺さぶった。
 同時に、怒りがこみ上げた。どうして何の関係もない弟の口を借りてそんなことを言うのかと。
「いい加減にして! 会わせてくれるなら本物にしてよ! 聞いてるの、聖!」樒、逆ギレ(笑)
 全部聖のせいにして叫んだ途端、目の前で偽者の洋海はどろりと融け落ちた。わたしを拘束していたどろどろの壁も緩み、わたしは吐き出されるように筒の中央に押し出される。
 同じくして、わたしが解放されるのを見計らったかのように青白い雷光が壁を上から下へと真っ直ぐに切り裂いた。
「守景! 無事か!?」
 暗闇の中に突然切り込んできた光から目を覆っていた腕をゆっくりとどける。
「な……つき君?」
 べしゃりと潰れた黒い泥の向こう、肩で息を吐きながら青白く光る剣を構えた夏城君はが立っていた。その頬には返り血のように黒いへどろがこびりついている。
「無事か。ならいい」
 一瞥すると夏城君はくるりとわたしに背を向けた。まるで手に持つ青白く輝くものを見られたくないかのように。
「夏城君、その剣は……」
 わたしはその剣に見覚えがあった。正確には聖が知っている。
 龍が大空でうねるように青白いプラズマを絶えず散らしながら、主の意思に沿って形を保ち続ける長剣。
 名を蒼竜。
 法王が一人一つずつ持つ精霊王の魂と己の魂とを宿した魔法石が武器となって具現した姿。その形もまた八者八様。
「さぁ? 身を守るもんが欲しいと思ったら手にあった」
 夏城君は背中を向けたまま空とぼけた。
 でも聖が間違うわけがない。大切な人の愛剣の形を。
 たとえ生きていた頃の記憶を全てレリュータに預けてきていても、貴方のその面影だけはわたしの魂に深く刻まれている。
 精霊王同様、その武器は魔法石の持ち主にしか使えない。
 彼が龍兄だ。
 心の奥底で喜びに押し開かれるように歓喜の花が咲きほころんだ。
 体中が聖の心に感応して震える。
「守景?」
 振り返った夏城君はわたしを怪訝そうに見つめた。
 ねぇ聖。わたしにどうして欲しいの?
 そんなに彼が欲しいなら、どうしてあなた自身が守景樒にならなかったの?
 あの魂の持ち主と幸せになりたかったのは、誰あろう聖、あなただよね?
「……ううん、なんでもない」
 聖は何も言わない。
 確かにわたしの中にいるのに、わたしの問いに答えてくれることはない。
 これがわたしだけの気持ちだったらよかったのに。
 わたしの心は彼女ほど激しく昂ぶることはない。恋も友情も、盛り上がりきる前にいつもどこかで歯止めがかかる。ブレーキをかけるのは冷めたように遠くから自分を見つめるもう一人のわたし。のめりこんだ末に傷つけられないよう、心に埋められた喜びの種が芽生えればあらかた伸びたところで成長点を摘みとってしまう。
『守景さんはどうも感動の薄い子みたいですね』
 そんなことを言っていたのは誰だったろう。確か中二の時の担任だ。冬の面談でお母さんにそう言っているのをドアの隙間から偶然聞いてしまったのだった。帰ってからもお母さんはそんなこと一言も言わなかったけれど。
 聖の心は、わたしの手に余る。
「あ、夏城君、ありがとう」
 わたしは最大限彼女の気持ちを押さえ込んで控えめな微笑を作った。
 が、「ああ」と口の中で小さく呟いたかと思った直後、夏城君は血相を変えてわたしに向かって来た。
「前だ! 前に走れ、守景!」
 わたしは振り向く間もなく言われたとおり夏城君とすれ違うように前に走る。
 背後では雷が大木を切り裂くような轟音がとどろいた。
 夏城君が切り裂いたのは、さっき倒れたはずの大雑把に人の形を象ったへどろだった。
「樒ちゃん、夏城君! それは〈おもかげ〉っていう化け物よ。狙った人間が一番会いたいと思ってる人の面影を映し出して自分のほうに引き寄せて吸収してしまうの」
「桔梗!」
「よかった、樒ちゃんが無事で」
 安堵の微笑を零した桔梗はすぐに表情を引き締める。
「夏城君、それは闇獄界に沈殿した澱が凝って命を与えられたもの。ただ切り裂いても何度でも再生してしまうわ。心臓の辺りに核があるからそれを切って!」
「分かった」
 短く答えた夏城君の前にはすでに切り裂いたはずのお化けが足元から再生されていた。
 だが、夏城君はそれが人型になるまでさっきわたしがそうだったように、魅入られたようにじっとそれを見つめていた。そうしている間にも黒い触手が夏城君を抱え込んでいく。
「夏城君!?」
「待って」
 飛び出そうとしたわたしを桔梗が制す。
 瞬間、何度目かの青白い雷光が唸りを上げて俤の黒い体を突き破った。その切っ先には透明な玉が突き刺さっている。
 〈俤〉の体はあっけなく崩れ去り、夏城君の足元には黒いへどろの塊だけが小さな山となって残った。
「大したものだわ。私が心臓の辺りに核があるって言ったのを聞いて、人の形が出来上がるまでわざと待ってたのね。そうでしょ、夏城君?」
「まあな」
「え? でも夏城君にも大切な人の面影は見えていたんだよね?」
 もしかしなくても、夏城君はその大切な人の心臓にあの剣を差し入れたことになる。
 わたしが何を言わんとしたのか察したように、仏頂面にわずかに疲れをにじませて夏城君は言った。
「俺にはいつまでたっても黒い塊にしか見えなかったけどな。粗雑な形から察しただけだ」
 それは、夏城君には今会いたいと思うような大切な人がいないってこと?
 思わずわたしは口を開きかけたが、冷たさすら伴った夏城君の視線に一瞥されてその言葉は飲み込んだ。
「ごめん」
「別に謝られる理由なんかない」
 夏城君はさらにのたのたと重い体を引きずってくる〈俤〉へと向かっていった。
「桔梗、葵は? 光くんは?」
「光くんなら向こうで別の〈俤〉の一団を食い止めてるわ」
 桔梗は夏城君が駆けていったのとは逆方向を指さした。その先には、紫の燐光を振り撒きながら鮮やかに弧の軌跡を描きながら身長ほどもある槍を振るう小さな男の子の姿があった。
「あれは紫精しせい……!」
「そう。魔麗法王だけが操れる槍」
 確信と懐かしさのこもった声。
 逆にわたしの心はにわかに凍える。
「桔梗、ほんとはお昼からわたしが具合悪くなった理由わかってたんでしょ? 分かってて何も知らないふりしてたの? もしかして学校がこうなることも分かってた?」
 桔梗は落ち着いた微笑を崩さなかった。
「驚いた。まずは私が誰かって聞いてくると思ってたのに」
「表情と言ってることが合ってないよ」
「そうかしら?」
 桔梗の笑みは深まる。
 わたしは桔梗の腕を思い出していた。
 聖の故郷を思い出しかけたときにわたしを抱きしめてくれたあたたかな腕。その温もりが聖の記憶と重なった一瞬、聖は呟いていた。
 海姉さま、と。
 でも、今すぐにそれを確かめることは聖の思惑にはまっていくようで、わたしには面白くなかった。
「ねぇ、ほんとは全部分かってたんでしょ?」
 もう一度訊ねると桔梗はそっと息を吐いた。
「私は予言者じゃないわ。未来がどうなるかなんて確かなことは分からない。でも、樒ちゃんが具合を悪くした理由ならうすうすと。過去の記憶と拒否反応を起こしていたんでしょう?」
「あの記憶までわたしのもののように言わないで。葵だって言ってたもん。『あたしたちはあれの続きをやるために生まれ変わってきたわけじゃない』って」
 葵も……思い出していたんだ。多分、わたしなんかよりもはっきりと。いつかは分からない。桔梗のようにずっと前からだったのかもしれないし、あの場で神界の略図を見たときからかもしれない。いずれにしろ自分のものにしていなければ、ああまできっぱりと拒絶できるわけがない。
「葵ちゃんらしいわね。でも、どうあがいてもあんな状況に突き落とされたらそうも言っていられないでしょうね」
 桔梗はさっきまでわたしがいたところの横にそそり立つ黒い柱を眺めやった。
「まさか、まだ葵はあの中に?! だって、夏城君通り過ぎて行っちゃったのに?」
「私が葵ちゃんは助けないでって言ったのよ。あの子もこれ以上借りを作りたくないだろうし」
「そんなこと言ってる場合じゃないよ!」
 わたしは今度は桔梗の手を振り切ってその〈俤〉の元へ走りよった。
「! 危ない、樒ちゃん!」
 桔梗の腕が伸びて、わたしは桔梗と共に校庭の土の上に転がる。
 間髪を入れず、黒い柱から赤い炎が噴き上がった。炎の舌先の一つは小さな炎の鎖となって割れ目から伸びだし、柱に絡みついて苦しげに蠢く〈俤〉を締め上げる。
 そして〈俤〉から低い唸り声がした瞬間、その体は内から燃えさかる紅い炎の中に飲み込まれた。
「あの子なら自分で出てこられるって思ってたのよ」
 横で桔梗が小さく付け足した。
「葵……」
 葵は紅い炎を纏って泣いていた。
 唇を引き結び、前をきつと見据えたその両目からは、溢れ出した涙が熱に蒸発させられることなく静かに頬を濡らす。
 手に握られた長い炎の鎖は朱雀蓮。炎姉さまの武器。
 茫然としていたらしい葵は取り巻いていた炎が消えて我に返ると、手に握られたものを怪訝そうに見つめ、やがてもう一度握りなおした。
「あ、樒、桔梗、生きてたか。よかったよかった」
 葵は腕で顔を強くこすって涙を拭い去ると思いきり笑った。
 痛ましくなるほどその笑みは強い。
「いやぁ、あたし、ほんとに死ぬかと思ったのはじめて。家族十一人がかりで襲ってこられちゃ敵わないよなぁ」
 十一人。その重圧は想像するに余りある。
 わたしと桔梗はようやく起き上がり、葵の姿をしげしげと見つめた。
 葵は葵で桔梗を悪意のこもった笑みで見返す。
「桔梗、ご丁寧なことだな。あたしらを覚醒させてどうするつもりだ?」
「葵ちゃんも樒ちゃんも濡れ衣よ。私は何もしてないわ。ちょっと説明しただけじゃない」
「お前、ほんとに海姉貴かよ。海姉貴はマリアナ海溝より慈愛深い性格してたぞ。少なくとも覚醒させるために妹の命を危険にさらすようなことはしなかった」
「葵ちゃん、少しは地理勉強したのね。偉いわ」
「混ぜっ返すな! あたしはなぁ、怒ってんだぞ? 心の底から」
「葵ちゃんの心は太平洋より広いかもしれないけど、常に海底火山抱えてるようなものよね」
「はんっ、桔梗なんかそもそも水たまり程度だろ? 狭い狭い」
「あら、場所がよければ池にも湖にも海にだってなれるわよ」
 桔梗は負けずに笑みを深め、葵は聞こえよがしに舌打ちする。
 前世の記憶を背負ったというのに、二人の関係はお昼時と何も変わってはいなかった。
 もっと、どこかギクシャクしてしまうと思っていたのに。
「樒! お前もぼやっと見てないで桔梗になんか言ってやれ!」
「あ、うん。桔梗、桔梗なら知ってるんでしょう? どうすれば帰れるのか」
 桔梗は一瞬とぼけようと思ったらしいが、諦めたようにゆっくり頷いた。
「知ってるわよ。帰るって言い方が正しいかは分からないけれどね」
「どういう意味だよ」
「ここは私たちの学校よ。もっと言うならここが現実。私たちは帰るのではなく、取り戻さなきゃならないの」
「取り戻す?」
「そうでしょ、樒ちゃん」
 桔梗は葵からわたしへと視線を転じてじっと見つめた。
 わたしは驚いたように見つめる葵の視線を気にしながらもおずおずと口を開く。
「……レリュータから刻生石を返してもらって時を……修正する」
 時も空間も、聖の目論見どおりレリュータに刻生石を渡すことによって支えられきれずに不安定になった。彼女の記憶を辿るなら、後はレリュータから聖の昔の記憶と引き換えに刻生石を返してもらって時を修正――巻き戻すだけ。
 それで〈予言書〉に記された未来とは別の未来が生み出されるはず。
 そう、聖の最終的な目的は時間を巻き戻すこと。
 でもわたしは時を巻き戻すとは口に出来なかった。
 聖はレリュータが刻生石を支えきれなくなる直前まで巻き戻すつもりらしいけれど、人の心がここまで歪み崩れてしまうには半年やそこらでは足りないだろう。数年単位で歴史はやり直されることになる。でも、そんなことになったら、わたしは今度は彼女達と出会うことすら出来なくなってしまうかもしれない。この出会いが〈予言書〉に定められたものであったというならなおさら、歴史が変わればわたしたちは出会う意味を失ってしまう。
 ――夏城君と初めて出会ったあの夏の雨の日もなくなってしまうかもしれない。
「ならさっさとさっきのあいつを追いかけに行くまでだろ」
 いつから聞いていたのか、すぐ横には夏城君が戻ってきていた。
「あら夏城君、お疲れさま」
「桔梗ー、僕にもお疲れ様って言って。見てたでしょ? 僕の勇姿!」
 同じくいつの間にか戻ってきていた光君が桔梗の腕にじゃれつく。
「ええ、もちろんかっこよかったわよ」
「えー、そうか? ちびっこいからお前の方が槍に振り回されてんのかと思ったぞ?」
「葵お姉ちゃんこそ長い間捕まりっぱなしでかっこ悪かったじゃん」
「それはお前……仕方ないだろ」
「僕の背だって仕方ないんだよ。ま、こっちはこれからいくらでも伸びるからどんどん挽回できるけどね」
「あたしだってなぁっ」
 いきり立った葵はしかし、つと自分の手に残ったままの朱雀蓮に視線を落とした。
「……あたしは別に今が乗り切れりゃそれでいいや」
 葵の手から朱雀蓮は消え、かわりに紅い魔法石が握られる。
「あれれー、らしくないんじゃないの? 売られたケンカは買うのがお姉ちゃんの流儀でしょ?」
 全員の間に一瞬落ちた沈黙を振り払うように、光くんは嫌味なほど下から葵を覗き込んで言った。
「うるさい、ガキ。あたしは大人なんだよ」
 すかさず葵は光くんの頭をその大きな手の平で掴む。
「痛い、痛い、痛いっって!! どこが大人だよ、この凶暴女っ!」
「っんだとぉ?」
 葵の手から何とか逃れた光くんは後先かまわずさっきよりも濃くなりつつある黒霧の中を駆け回りだした。
「あらあら」
「暢気に眺めてる場合じゃねぇだろ」
「そうねぇ。さっきのあの人、追い返さないほうがよかったかしら」
 桔梗の言葉に夏城君はちらりとわたしを見た。
「ご……めん。気づくの遅くて」
 わたしは視線をそらすように俯く。
「お前のせいじゃねぇよ。いずれにせよあれじゃあ取りつく島もなかっただろうし」  
「でも……」
「樒ちゃん、済んじゃったことを悔やんだって仕方ないわ。それにあの時は光くんが怒らせてしまったみたいだし。もう一度冷静に話して刻生石のぶれ・・を直せるように協力してもらいましょう? ね?」
 桔梗の包み込むような声にほっとしてわたしは頷いた。が、すぐにはっとして桔梗を見あげる。
「あれ? わたし刻生石のことまで言ったっけ?」
「言ってないけど、空間や時間が歪む原因なんて刻生石しか考えられないでしょう?」
「あ、そっか」
 刻生石が時空を維持しているのは常識だったのだろう。それを聖が預かっていたことも。
「それで? どうやってあいつを追っかけるんだ? あいつが帰ったのって神界だろ?」
 羽交い絞めにして引きずってきた光くんのマシュマロのようなほっぺたをつまんだりつついたりして弄びながら、葵が口を挟んだ。
「それはもちろん、樒ちゃんに開いてもらうのが早いでしょう」
 わたしははじめて桔梗の微笑が凶悪に見えた。いや、私にもそう見えた。
「わ、わたし?」
「他に誰がいるの?」
 重ねて笑まれてわたしは無意味と知りつつ他の四人の顔を見回す。
「やっぱりわたし、だよね」
 体の節々にはまださっき時を止めた時の疲労感が残っていた。残っているどころか、じわじわとのしかかってきているような気さえする。
「そうそう。ぱぱーっと開いちゃえばいいじゃん。さっき時止めたときみたいに」
「こら、光、軽く言うんじゃない」
「呼び捨てにしないでよ、馴れ馴れしい。僕を呼び捨てていいのは桔梗だけだよ」
「私は誰も呼び捨てにしたりはしないけどね」
「つれない……それはつれないよ、桔梗。僕たち何年の付き合いだと思ってるのさ」
「せいぜい一年か二年ってところでしょう? 葵ちゃんとの方がよっぽど長いお付き合いだわ」
 桔梗のダメ押しに光くんは葵の腕の中でがっくりとうなだれた。
 わたしは返事の機会を逸したままその様子を遠巻きに見ていた。
「守景、体、きついんならそう言ったっていいんだぞ? お前のは……その、負担が俺たちよりもでかいだろ?」
 思ったよりも早く復活した光くんが再戦に挑むのを尻目に、低い声で夏城君がわたしに囁いた。
「うん……」
 わたしは顔も上げずに小さく頷く。
 夏城君も思い出している。それも、蒼竜の持ち主に違わず龍兄の記憶を。
 確信した瞬間、わたしは自分が聖自身でもないのに顔から火が出るほど恥ずかしくなった。
 聖があれだけの想いをぶつけた相手。どこまで思い出しているか分からないけど、それだけにどう距離をとればいいのかわたしには分からない。
「別に今すぐじゃなくても向こうの居場所は分かってるんだろ? それなら少し休んでからだっていいはずだ」
 夏城君は優しい。
 話したのなんか一年ぶりだし、その時だって一言二言会話とも言えない言葉のやり取りをしただけ。
 それなのにそんなに気遣われると、わたしが聖だからなんじゃないかって思ってしまう。
 夏城君にそんな気なんてないだろうけど。
 わたしは軽く首を振って馬鹿な考えを振り払った。
「やるよ。こんなこと、早く終らせちゃいたいもん。やればいいことが分かってるならやるだけだよ」
 ちらりと頭の隅を掠めたのは、胸の奥に眠る魔法石に魂を預けているという時の精霊王のこと。わたしは会ったこともないけれど、さっき時を止めたときの負荷がまだ癒えきっていないのがよく分かる。
 夏城君の言うとおり、本当はもっと時間を空けたほうがいいのかもしれない。
 でも、わたしは深まる闇への息苦しさに耐えられなくなってきていた。
 機会を逃したらこのまま帰れなくなってしまいそうで。
 わたしは聖から記憶を引き出す。
「あ、樒、やるのか?」
 光くんに逃げられて手持ち無沙汰になった葵にわたしは頷いてみせた。
 それを聞きつけて桔梗と光くんも痴話げんかをやめる。
 わたしはちらりと夏城君を盗み見た。
 勝手にしろとでも言わんばかりの表情をしてるんだと思ったけど、そこまではっきりとは顔に出していない。ただ、ちょっとだけ不機嫌だった。
 わたしは嬉しさを噛み殺そうとちょっと唇をかみ、集中するために深呼吸した。
『この世に存在する全ての時空に通じる時の精霊よ
 命有るもの 無きもの全てを一つにつなぐ時の精霊よ
 我が声聞こえるならば ここに光溢れる神界への扉を開け
 汝らの集いし聖刻の国に 我を導け』
 目の前にわたしの身長の倍はありそうな高さの重々しい鈍色の扉が現れる。
 その瞬間、わたしの体は軋みを上げた。
 正確には胸の中の魔法石が悲鳴を上げていた。
 痛みは懐かしいほどに胸に切り込み、息つく間もなく深く抉る。
(ごめん。おねがい、耐えてちょうだい。これで全部終わりにするから)
 喘ぎながら心の中でそう呟いたのはわたしだったのか、聖だったのか。
 とにかく、あと一言言わなければこの扉は開かない。
 わたしは普段握ったこともないほどきつく手を握って自分の手に爪を立てた。
「開け、時空ときの扉」
 扉は物々しい音をたてて光を撒き散らしながらゆっくりと開いていく。
 夢の中で澍煒が聖に開いてみせたように。
 だが、それは開ききる前に動きを止めた。
 直後――
「う……ぁ」
 胸の中で何かが爆発したような気がした。えええぇっ  


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