聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉
第 2 章  覚 醒
 2

 天宮地下、いつもは暗闇の中で統仲王が眠るだけの室に灯がともっている。
「一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ……」
 私は一歩一歩時計回りに歩いて回りながら、統仲王のベッドの周りに運びすえた柩を数え上げていった。
 緑、青、銀、紅、紫、金、黄。それぞれ法王を象徴する色を基調とした布が掛けられた柩は、統仲王の眠る寝台を中心に放射状に並べると色鮮やかな七つの花弁が花開いたように見える。
「これで全部」
 私は深く息を吐いた。
 もうじき、半年。
 神界中を回って七つの柩をここに運び入れるまで、思いのほか時を費やしてしまっていた。
 〈渡り〉を使えばすぐだと思っていたのに、久方ぶりの肉体はすぐに疲弊して言うことをきかなくなった。加えて現在の王というのはなかなかに忙しくさせられているらしい。
 聖国王とユーラを取り込み、天宮でナルギーニに会った後、私は一人で聖刻城の門扉をくぐった。
 聖国王と侍女が行方不明になった王城は予想通り大騒ぎで彼ら二人を探していたが、私が左胸から血晶石を抜き出して見せると、彼らは皆私の前に跪いた。
 壮観とは思わなかった。一時的なれど、私はまたこの国を預かることになったのだから。
『私はレリュータ。天宮に預けられていた聖刻王縁の者よ。身証なら天宮王が立ててくれるわ』
 レリュータという女性は、前聖刻王が天宮を尋ねた際に性懲りもなく世話係の侍女に生ませた娘の名前だった。彼女の母親は面倒を嫌ってそのまま天宮に残り、そのため生まれた子供が前聖国王の子と知っているのは天宮王とごく親しかった母親の侍女仲間くらいだった。聖刻の国でその存在を知っている者となると、当時から宰相職にあった王弟くらいのものだろうか。本人ですら出自は知らなかったかもしれない。
 その娘も、本当は一ヶ月前、流行り病で倒れた母親を看病するうちに感染して、母の後を追うように亡くなっている。
 ナルギーニの入れ知恵でわたしはそのレリュータになりすますべく再び顔を変え、なぜか瞳と髪の色が違うだけの本来のわたしの姿に戻っていた。
 自分でも強行と思えたこの身分証明に口を挟んだのはただ一人。
 今でも現役で聖国王の補佐を務める六十半ばの宰相だった。
『あなたのことはすぐに天宮に問い合わせましょう。ですが、その石を持っておられるということは、ファリアス様の行方をご存知のはず。どちらで行き会われました?』
 私は宰相の耳を口元にそっと引き寄せた。
『ファリアスから伝言よ。死んだことにしてほしいって』
 私は嘘を塗り重ねた。信じさせるために大切な国民に嘘をついた。
 統仲王が言っていた。国の民は私たちのことを信頼して命と財産を預けてくれているのだから、何か特別なことが出来なくとも、嘘だけはついてはいけないよ、と。それが国を治める者の心構えだと。
 私はどんどん過去に依って立っていた場所から追い落とされていくような気がした。
『お幸せ、なのですね』
 わずかに震えた老境の声に、私は微笑んで頷いてみせた。
 何度となく闇獄界に攻め入られ、人々は完全に正だけの感情では生きられなくなっているはずなのに、この宰相は心から人の幸せを願える顔をしていた。
 宰相の名はユーシン。そもそもはファリアスの叔父に当たる人物だった。
『ファリアス様のお幸せと引き換えにあなたが何を引き受けられたのか、分からない老いぼれでもございません。かくなる上は、慣れぬことも多いと存じますが、私が精一杯お手伝いさせていただきましょう』
 そう言ってくれた宰相に、私は返す言葉もなかった。
 本当のことは言ってはいけない。そう言い聞かせて出かけた言葉を飲み込み、ただ頭だけを下げた。
 その後はナルギーニの言ったとおり即位式や各国王への挨拶周りで息つく暇もなかった。
 〈渡り〉を使う回数よりも、挨拶周りで立ち寄った機会に廟から柩を運び出してくることの方が多かったかもしれない。
「これで全てですか?」
 勘のいいナルギーニは私が呼びにいくまでもなく、見計らったように地下宮に入って来た。
「ええ、全部よ」
「一つ、足りないようですが」
 ざっと見渡したナルギーニは分かっていてそんなことを言う。
「誰の分が?」
「聖様の分です」
 答えたナルギーニはいたって真剣なようだった。
 その真剣さがむしろ私の悪あがきを代行しているようで、私は思わず笑いだした。
「私ならここにいるわ。それに、話したでしょう? 私は兄さまや姉様達が甦るときにはいないのよ。そのためにこんなことしているっていうのに、ナルギーニったら察しが悪すぎる」
「本当によろしいのですか? 貴女はそれで本当に……」
 私はナルギーニの前で外見を聖の姿に変えてみせた。腹部にわずかにしこりのようなものを感じたけれど、気にせずナルギーニの両袖を掴む。
「なら、こう思ってちょうだい。聖は兄さま、姉さま達よりも一足早く甦ってしまったの。自分でかけた魔法が不完全だったおかげで」
「……聖様……」
 ナルギーニは遠慮がちに私の肩を抱いた。
「おっ二っ人さーん! お取り込み中申し訳ないんだけど、あたしの前で見せつけないでちょうだいな」
 はたと気づいたように慌ててナルギーニは両腕を浮かせた。
 当たり前のようにその腕に抱かれていた私は、今更ながらに顔が火照る。
「すいません。聖様はどうも妹のようでほっとけないというか、もし妹がいたらこんな感じかな、というか……」
「三十五のおっさんがなに少年ぶったことを。おまけに不倫だし。奥さんのとこに教えにいってこようかな~」
「澍煒!」
 澍煒は肩をすくめただけで、反省の色もなく飛ぶような足取りで銀の布を掛けた柩の元に走っていった。
「ちょっと、澍煒、何するの!」
 慌てて私が追いかけたときには、澍煒は銀の布を柩から剥ぎ取り、重い蓋を一人でこじ開けていた。
「おっと、こちらの方にお知らせするのが先だったわね」
 悪びれることもなく澍煒は柩に横たわる亡骸を見下ろしてそう言った。
 私は、灯の下でその人の眠る顔を見るのははじめてだった。
 以前、遺体の腐食が進まぬように時を止めに行った時は、暗い廟の中、誰かに見つかるわけにもいかなかったから灯は点さなかった。それよりも何よりも、私は見たくなかったのだ。私の記憶に刻まれているのは、兄さま、姉さまたちの生き生きと動き回る姿。眠った顔など見た記憶はほとんどない。その兄さまと姉さまたちが永遠の眠りについた姿など、見たくもなかった。
 あの時は受け入れられなかったのだ。
 自分の死は受け入れることが出来ても、兄さまと姉さまたちの死は。
 魂のみの姿で彷徨い、龍兄の廟を訪れても、私は柩を開ける気にはならなかった。ただ、この中に愛しい人が眠っているのだと思って今は床に打ち捨てられた銀の掛け布に頬を寄せていただけ。
 龍兄の寝顔は穏やかだった。
 もはや何を思い悩むこともないと、魂がないのをいいことに安心して瞼を閉じている。
 私の膝からは力が抜け落ちていった。
「聖?!」
「聖様?」
 柩の縁に手をついて何とか体を支えながら、私は静謐そのものの龍兄の顔に手をのばす。
 指先に感じる滑らかな白い肌は今は陶器のように冷たい。けれど、霜が降りたように長い銀の睫も指の間をすり抜けていく銀糸の髪も、私が最期に見た龍兄のままだった。
 そう、この指先に伝わる冷たささえなければ、まだこのうつわの中に龍兄の魂が囚われているのではないかと思うほど。 
 けれど、白い頬に私の涙が一滴零れ落ちても龍兄は目を開けてはくれなかった。
「それでいいの……」
 私は言い聞かせるように呟いた。
 目などあけなくていい。
 たとえ、もう二度とこの瞼の奥に眠る透きとおった蒼氷色の瞳に見つめられることがなくても、それこそが今の私の願い。
 〈予言書〉は記している。
 私たちは未来にまた出会うと。
 そのとき私たちは血など繋がっていない全くの赤の他人。
 あれほど狂おしく願ったことがようやく実現されるの。数え切れないほど呪ったこの血の鎖から解放されて、何に縛られることなく素直にお互いを求め合うことが出来るようになるの。
 私たちの出会いが人界の、ひいては世界の崩壊の序曲だったとしても、私は貴方と出会いたい。出会った世界で今度こそ貴方と一緒に寿がれた命が尽きるまで、離れることなく笑って暮らしていきたい。
 そのために私は罪と嘘とを重ねてもう一つの運命を作り出そうとしているの。
 それでも――
 私は龍兄の背に腕を差し入れて抱き起こし、力いっぱい抱きしめていた。
「逢いたいよぉ、龍兄……今すぐ逢いたいよ……」
 体は石像のように冷たくこわばったまま。
 時を止めているのだからそんなのは当たり前だけれど、たとえ今から蘇生させたとしてもこの中に龍兄の魂が戻ってきてくれなければ同じこと。これはただのうつわ
 でも、この儀には確かに龍兄の記憶が刻まれている。生きていた証が残されている。
 この儀に龍兄が戻ってくることなどなければいい。それは即ち人界の崩壊を意味するから。私たちが唯一幸せになれる機会が残された世界の崩壊を。
 分かっているのに、私は心のどこかでもう一つの可能性を願っている。
 人界が崩壊した後、この儀に戻った龍兄が有極神に飲み込まれた私を救いに来てはくれないかと。
 本当はその方が私自身の喜びはいや増す。もしそうなってくれれば、私たちは魂に上書きされた者同士ではなく、心から過去に戻ってやり直すことが出来る。そう、きっとまたこの体に流れるものに苦悩させられるのだろうけれど、今度こそそれを克服できる気がするのだ。
 自分で壊してしまうからそうなる前に世界を救う。そんな大義名分など、龍兄の顔を見たとたんに私はすっかり忘れ果てていた。このまま私も一緒に固まってしまいたいとさえ思っていた。
「う……っ……」
 私の束の間の至福を破ったのは、澍煒でもナルギーニでもなく、私のお腹の中で身動きするかのごとく蠢いたものだった。
「聖? あんた顔色悪いけど」
「ううん。なんでもない」
 私はその気配を断ち切るようにお腹を軽く撫でて龍兄の元から離れた。
「そうね、どうせならちゃんと顔を見ましょう」
 私は独り言ちてまず龍兄と双子の炎姉さまの眠る柩の蓋を開けた。
 褐色の肌。生きているときはいつも後頭部高く結い上げられ、静止することを知らないかのように揺れつづけていた焔のように紅く長い髪。その髪も今は梳きとかされて膝近くまで真っ直ぐに流れている。でも、眠る表情に龍兄ほどの穏やかさはなかった。それは傍から見れば穏やかだったかもしれない。でも、私には何か抱え込んだまま眠りについてしまったように見えた。普段が明るく快活だっただけに、死の影が色濃く滲んで見えたのかもしれないけれど。
 次は麗兄さま。私よりも、ううん、兄弟の中で一番初めに死んじゃった人。法王は死なないって常識を崩してしまった人。我が儘で冷血なふりばかりしていたけれど、私の病気を治すためにずっと尽力してくれてたよね。精霊の力を持たない人でも病気や怪我が治せるように医術の研究に没頭してた、本当はとても気高くて優しい人。龍兄よりももっと白い肌と蝋燭の灯すら透かしてしまうほど繊細なプラチナブロンドは生前のままだね。そのちょっと高慢とも思えるくらい高い鼻も。これで混じり気のない紫水晶の瞳が見られたら生きてるときと変わらないのに。
 金の掛け布を掛けた柩に眠るのは鉱兄さま。浅黒い肌と普段は白いターバンに押し込められてた波打つ茶色混じりの黒い髪。彫りの深いエキゾチックな顔立ちは澄んだ緑の瞳とあいまっていつも陽気な笑顔とお馬鹿な冗談ばっかり振りまいていたのに、どうしちゃったんだろうね。そんな悲しげな表情、鉱兄さまには似合わないよ。
「そっか、サヨリさんが死んじゃってから鉱兄さま、ずっとそんな顔で暮らしてたんだね」
 私はもう病床から動くこともままならなくなりはじめていて、サヨリさんを失った後の鉱兄さまに会ったのなんて数えるほどだったんだ。
 重くなった心を抱えたまま私は風兄さまの柩を開ける。
 私は思わず目を見開いてその表情を見つめた。
「笑ってる……?」
 鉱兄さまの次だったから余計にその表情は幸せそうに見えた。
「何で? だって炎姉さまは苦しそうなのに……?」
 二人が想いあっていたことはちゃんと聞いたわけじゃないけど知っていた。せめて公にできなくてもあんな感じで二人強く愛しあえたらなって思ってた。
 風兄さまはその名に違わず爽やかな微笑をいつも絶やさなかった。すぐ下の妹だったからか私にはいつも優しくて、よく遊びに来ては竪琴を弾いて聴かせてくれた。一番私のお兄ちゃんらしかった人。春風のようにどこかふわふわしてみえるけど、それはこの柔らかな金髪と南洋の海水を集めたような碧眼がそう見せていただけ。内には確かに炎姉さまとの恋を貫く強さを持ってた。
 それなのに、どうして……?
「聖、そんな人の死に顔見て責めるもんじゃないよ。風様の死に様だって楽じゃなかったって聞いてる。もしかしたら死ぬ間際、何か見つけたのかもしれないじゃん」
「精霊王たちの情報網か。カインリッヒは元気なの?」
「……うん、ずっと風様の側にいるよ」
「そっか」
「なーに落ち込んでんの。あんたにはあたしがいるじゃない」
 ぼすっと肩を叩かれて、私はよろめくように次の柩の前に膝をついた。
「育兄さま」
 私たち兄弟の長子。この神界に住まう人が造られる前からこの世に生れ落ちていた人。
 長く真っすぐな黒髪と統仲王によく似た東洋系の顔。龍兄とは微妙に仲が悪かったからかな。もしかしたら兄さま、姉さまの中で一番接点が少なかったかもしれない。
 私が見てきた育兄さまは、穏やかなんだけどどこか悟りきったような冷めた雰囲気を纏っていた。過去も未来も全て見通してしまっているかのような。
 未来が分かることはけして幸せなことなんかじゃない。望まない未来の場所が空きのまま約束されていて、現在はどんどんそれに向かってピースをはめ込むように刻一刻とつめられていく。無力な私はただそれを茫然と見送るだけ。
 そう、もしほんとに育兄さまが未来を見ていたというのなら、悟りきった中でそれだけの年月を生き抜いてきたのは尊敬に値する。きっと〈予言書〉の中身を知らなくても育兄さまなら独自に近未来の行く末くらいは見抜いていたに違いないけれど。そうでなきゃ、この燻し銀の雰囲気は顔にまで出ないだろう。
 ある意味統仲王よりも達観している表情のような気がする。……恐るべし、育兄さま。
「で、最後に海様か」
 澍煒が青の布をとり、私が蓋に手を掛ける。
 炎姉さまは姉さまらしかったけれど、私は海姉さまには姉さまというより母の憧憬を重ねていたような気がする。私を実質上育ててくれたパドゥヌが死んでからはより一層強く海姉さまに母性を求めていたかもしれない。周りから聞きかじって作り上げた母・愛優妃の像にある慈悲深さといい、包み込むような優しい腕といい、全て海姉さまに残されているような気がした。そう、何より私の名前をつけてくれた人だったから、隣国ということも手伝って年は離れていても親近感は一塩だった。
 そんな海姉さまの表情には、何も残されていなかった。
 ほんとはまたあの慈悲深い微笑に出会えるかと期待していたのに、見事なまでに海姉さまはただの抜け殻になってしまっていた。
 喜びも悲しみも苦しみも、最期に何を思って魂を手放したのかすらこれでは窺い知れない。運命を拒むでも受け入れるでもなく、その儀はただ柩の中に存在しているだけだった。
 魂の痕跡だけは綺麗に消して。
「やっぱ年上組は何考えてるか分からないねぇ」
「ここまで無表情だと偽物のような気すらしてくるよね」
「あ、聖もそう思った? 思いきり作り物っぽいよね」
「うん……生きてたはずなのにね。ちゃんと、私の背中を押し続けてくれてたはずなのに」
 私は本当はあまり海姉さまのことを知らない。兄さまも姉さまもあまり語りたがらなかったから。特に龍兄は、育兄さまのことは毛嫌いしてる程度だったけど、海姉さまのことは心から憎んでるみたいだった。実の姉なのに、どこかで憎まなきゃならないって言い聞かせてるみたいで、私は見ていて辛かった。海姉さまがずっと龍兄のことを特にも案じ続けているのを知っていただけに。
 確かに心が宿っていたはずなのに、今目の前にある海姉さまの遺体には不自然という印象だけが色濃く残っている。
 私はためしに触れてみた。薄い肌色と青みがかった黒の長髪は胸の辺りで切り揃えられたまま伸びた気配はない。珊瑚色のふっくらとした唇もするりと通った鼻筋も昔と変わらない。
 確かにこれ・・は海姉さまなのだ。
 人形でもなんでもなく、〈蘇生〉をかければきっと呼吸を始める有機体。
 それなのに……。
「これは、壮観、と言ってよいのでしょうか。神代においても八柱の法王と統仲王、全員が一堂に会すことなど稀でしたでしょうに」
 まとまらない思考に割り込んできたのはいささか感嘆混じりのナルギーニの声だった。
「そうね。愛優妃はいないけど。ナルギーニ、貴方も自分は幸せ者とか言い出す?」
「幸せ者? 残念ながら私はそこまでの忠誠心も陶酔も持ちあわせておりませんので」
 柩を上から覗き込んでしまわないようにか、ナルギーニは跪いたまま笑って答える。
 ファリアスには不躾なものを感じたけれど、やはりナルギーニはある程度心得ているらしい。年月が培わせたのかは別として。
「そこまで畏まらなくたっていいのよ。貴方らしくもない。何も今すぐ動き出すわけじゃないんだから」
 そう言いながら私は最後に統仲王の側に寄り添うように立った。
 眠り続ける統仲王。〈予言書〉に苦しめられているのは父様、貴方も同じはず。もし貴方も変えたいと願うなら、少しでもいいから私に力を貸して。
「澍煒」
 改めて一息吸い込んで私は信頼すべき時の精霊王の名を呼んだ。
「いつでもどうぞ」
 統仲王を挟んで反対側に立っていた澍煒が遠足にでも行きそうな陽気な声で返事する。
 私は一瞬肩の力を抜いてから目を閉じた。
『我が儀に納められし 時を司る命の石よ
 儀の柵より放たれて しばし我が手に宿れ』
 私は胸元から白く輝く拳ほどの石を取り出し、両手に捧げ持った。
『時は即ちたゆとうもの
 つくられし過去 定められし未来へと 現在を軸に自在に運命を渡りしもの
 それらを律し未来へと導きし者 汝 時を司る王 澍煒よ
 我 聖刻法王聖の声 聞こえるならば答えよ』
『我 時の精霊王 澍煒
 汝 聖刻法王聖の魂に 我が命を預けて永遠の忠実を誓う者なり』
『ならば 時の精霊王よ その命にかけて 我が望みを聞け』
『我 汝の望みに背くことなし』
『一つ 古より時を止めし七つの躯に 時を返し与えよ』
『諾』
 背後で澍煒が頷くと共に、七ヶ所で部分的に滞っていた時が現在と繋がる。
『二つ 主なき躯に魂宿りし時まで その中遡り』
『諾』
 目の前に横たわる龍兄の頬ににわかに赤みがさす。
 けれど私は両手にのせた魔法石から放たれる重圧に耐えるのが精一杯で、微笑む余裕すらなかった。
 あと、一息。
『三つ 未来重ねられし過去を今に繋ぎ留めよ』
『諾』
『よみがえれ 魂を受け止めし法王の儀たちよ』
「蘇生」
 私と澍煒の力強い声に応えるように七つの遺体に時は集まり、凝縮され、瞬時に弾けた。
 七ヶ所から迸り、せり上がった純白の光は地下宮中に溢れかえり、大津波が空間を洗うように波打ったあと、何事もなかったかのように薄暗い蝋燭の灯だけがゆらりと揺れた。
 否。揺れたのは私の視界の方だった。
「聖様!」
 統仲王の寝台に寄りかかるように崩れ落ちた私にナルギーニが駆け寄ってくる。
「澍煒、生きてる?」
「……はは」
 力ない笑い声は私よりも一層低いところから聞こえてきた。
「澍煒? 澍煒!」
 私は膝と腕でなんとか這いながら寝台の裏側に回る。
 澍煒は寄りかかる力もなくぐったりと手足を投げ出していた。
「澍煒!」
「み…みもとで大きな声出さないで……よ……」
 声にはとうに張りがなかった。
「聖様、急いで上にお運びしましょう」
 駆けつけたナルギーニが澍煒の背と膝に手をのばそうとしたが、澍煒はそれを首を小さく振って制した。
「聖、あんた妊娠してるでしょ」
 見つめた視線は土気色になっていく顔色に反して異様なほど輝く。
 驚いたようにナルギーニは私を振り返ったので、私は目はあわせず頷いて見せた。
「だ……れの……?」
「ファリアスとユーラの」
「なっ、まさか……」
 まさかといったあたり、ナルギーニはとうに私の生成過程を理解しているのだろう。
「私もびっくりよ。あるときからあの二人の呻き声が聞こえなくなったと思ったら、二人で必死に守ってたのよ。私から自分達の忘れ形見をね」
 一年近く経つというのに、この子はまだ生まれない。お腹もそれほど張り出してこない。
 さすがにだめだろうと思っていたのに、さっき蠢いたのは確かにこの子。
「聖、産むの? その子」
 震える手を澍煒は私のお腹にあてる。
 私は頷いた。
 約束をした。あの二人、ファリアスとユーラと。
 宿った赤ちゃんはこの世界に返すと。そして、いずれこの体を、もう二つには分けられはしないけれど、この聖刻王レリュータを彼らに返すと。
 ただし、時を生み出す刻生石を預かってくれるという条件で。
 頷いた私を見て、澍煒は安堵したように微笑んだ。
「よかったぁ。これであたしも安心して輪生環いける」
「なに言ってるの、澍煒! すぐに回復できるように……」
「ばーか。あたしが弱ってるのにあたしの力吸い尽くしてどうすんのよ」
「そ、そっか。でも、じゃあどうすればいいの? 澍煒、一言も言わなかったじゃない。大丈夫ってしか言わなかったじゃない!」
 九百年ずっと七つの遺体の時を局所的に止め続け、休む間もなく過去と現在を結び付けさせられた。その負荷は魔法石が悲鳴を上げたように私にかかったものの何十倍にもなってのしかかり、その儀を……蝕んだ。
 考えるまでもなく分かることだった。
 対象は一体だけじゃなかったのだ。七つ、それも一度に。
 なのに私はてっきり澍煒の疲れも時が回復してくれたものだとばかり思って、無理強いをしてしまった。
 影は法王の命令に逆らえないというのに。
「ごめん。ごめんなさい、澍煒!」
「いいって。この儀もほんとはガタ来てたし。替え時だと思ってたんだよね」
「そんな服みたく言わないでよ。精霊王の魂受け入れられるくらい頑丈な体なんて……」
 私ははたと自分の腹部を覗き見た。
 澍煒はすっかり満足したようにとんとんと軽く私のお腹を叩く。
「また会おう、聖。あたしはずっとあんたの側にいるよ」
 一息に言ったその言葉は力に満ち溢れて私の胸に真っ直ぐに投げ込まれた。
 直後、のばされていた澍煒の手は重く私の膝の上に落ちた。
   あれ、うそ、澍煒死んじゃった……一足早いって、お前……


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