聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉

第 2 章 覚  醒

 1

 呼吸はできている。
 かろうじてというほどひどくもなかったけれど、わたしは妙な焦りを覚えて何度か深く胸に息を吸い込んだ。
「大丈夫か、樒?」
「うん……」
 焦り、というよりは不安だったのかもしれない。
 黒い霧に視界を遮られて、せっかく外に出たのに先が見えない不安。いつもはもっと身近に人々の生活音が聞こえるはずなのに、車の走行音一つ聞こえてこない不安。
 無人島にでも置いてきぼりにされたようだった。わたし達よりも先に避難したはずの生徒達の姿もどこにもない。
 けれど、決してこの状況だけがわたしを不安にさせていたわけではない。
 風一つ吹かないこの霧の中に立っていると、全身も真っ黒に染め替えていかれるような気がしたのだ。空気を黒く染めるこの物質はぼた雪のように降り沈み、わたしの上に降り積もっては下から融けだしていく。その生ぬるい冷たさを感じるたびに背筋には悪寒が走る。
「あれ、あいつもいなくなってる」
 ふと、落ち着きなく辺りをきょろきょろと見回していた葵が呟いた。
「あいつって?」
「あたしらに襲い掛かってきた恐竜」
「……意外とあの恐竜に親近感抱いてたんだね」
「そりゃまぁな。死闘を繰り広げた相手だし」
 誇らしげに葵は胸を張ったが、残念ながら黒い霧が邪魔で表情まではわたしの位置からははっきりとは見えなかった。
「確かに命がけだったと思うけどね」
 葵の方が、と心の中でそっと付け足しておく。
 きっとわたしの苦笑もよく見えていないのだろう。葵は名残惜しそうに霧に隠れかけた東講堂の方を眺めていた。
 とりあえず、太陽がなくなってしまったとかそういうわけではないらしい。黒い霧の向こう、頭上にはかすかに薄汚れた丸い輪郭が浮かんでいる。その光だけが、かろうじてわたし達が今現実にいるのだと教えてくれていた。
 ただし、携帯は圏外。それは桔梗や葵、夏城君のも同じだった。
 誰かと連絡を取るわけにも行かず、今は夏城君が学校近辺の様子を見に行ってくれている。
「それじゃ光くん、ちょっとごめんね」
 わたしは桔梗の膝に頭を預けた光くんの赤く染まった白いシャツをちょっとめくった。
 思わず顔をしかめる。そもそも中学校のとき、理科の教科書の裏表紙に載っていた蛙の解剖図だってまともに直視できなかったのだ。転んで怪我することは多かったけど、他人の傷は痛みがわからない分、より痛そうに見える。
 レリュータにつけられた傷は元気なふりをしている割には深く、応急処置だといって自ら低温状態にしてはいたものの傷にはまだ真新しい血が滲んでいた。
「光くん、よくこれで動けたわねぇ」
 光くんの頭を膝に預かっている桔梗が横から覗き込んでしみじみと言う。
「だって動かなきゃ殺されるとこだったじゃないか」
「……殺される……?」
 思わずわたしは鸚鵡返しに呟いていた。
「脅しでここまでの傷つけるわけないじゃん。狙われてたのは樒お姉ちゃんだったんでしょ? それくらいの危機感もなかったの?」
 逆に問い返されてわたしは唸るしかなかった。
「光くん、普通の人は簡単にそこまで考えないわよ」
「だって、実際あんな目にあったじゃないか! ……っつつ」
「あ、ごめん。今やってみるね」
 顔をしかめた光くんの顔を見てわたしは覚悟を決める。
 葵は夏城君の消えた校門の方を見据えたまま。桔梗はといば、しっかりとわたしを見つめていた。
「あの、桔梗……」
「いいのよ、気にしないで」
 気にするって。
 だってわたしがそんなことしたら……。
「嫌いになるわけ、ないでしょう?」
 にっこりと微笑む。その笑みに毒はない。信じてちょうだいと言外に言っている。
 なのにわたしは上手く微笑み返すことが出来ず、顔をふせたまま光くんの傷口に手をかざした。
『集え 時を動かす者たちよ
 この者のあるべき姿 失われし時まで遡り
 今ひとたび この時まで廻り来よ』
「回復」
 白い光が光くんの傷口をなぞるように溢れ出し、内側へと向かって入り込んでいく。
 傷はあっという間に元の滑らかな肌にならされていた。
 わたしはちらりと桔梗、葵、そして光くんを見る。
 葵は背を向けたまま。桔梗は目を見張り、光くんは嬉しそうに口元をほころばせた。
「もう……痛く、ない?」
 おずおずと切り出したわたしの首に、いきなり光くんは抱きついた。
「うん! 痛くない! 痛くないよ! すごい、本物だ! 本物の聖だ!!」
「光くん……本物の聖って、やっぱり何か知ってるの?」
「何か知ってるの、なんて他人行儀な! 僕たち前世で兄妹だったんだよ!」
 くらりと目眩がした。
 なんていう日なんだろう、今日は。
 なんか、どんどん危ない方向に引っ張られている気がする。
 桔梗もおかしなことを言い出した光くんをたしなめる気もないらしい。
「じゃあ、聞かせてもらおうか。さっきの奴のことも含めて、どうしてお前があんな怪我する羽目になったのか」
 不機嫌な声が上から割り込んで来た。
「あら夏城君、お帰りなさい。どうだった? 向こうは」
「何もないってさ」
 夏城君のかわりに葵が落胆を隠しもせずに首を振った。
「何もない? どういうことなの、それは」
「言葉の通りだよ。とりあえず校舎伝いに歩いて裏の寮まで行こうと思ったんだけど、校舎から繋がる道がなかった。学校囲んでるはずの塀も見当たらないし、内側に植えられてたはずの木もなかった」
「つまり……」
「この霧がなかったら見渡す限り荒野かもな」
 夏城君はこともなげに言ってのけたが、わたしは霧が晴れた時の様を思い浮かべて慄然とした。
「家は? わたしの家もなくなっちゃったの?」
 ここからは何駅も離れているけれど、都内にあることには変わりない。
「お母さんは? お父さんは? 洋海ひろうみは?」
 専業主婦のお母さんは家にいるだろうし、お父さんは会社だろうし、弟の洋海は部活で中学校に行ってるはずだ。
 圏外と分かっていてもわたしは携帯を取り出してダイヤルせずにはいられなかった。
 けれど、携帯の画面には何度も家の電話番号が点滅するばかりで一向に繋がる気配はない。
「樒」
 受話器を耳にあて続けるわたしの手を掴んだのは葵だった。
「だって、どうしよう。こんなことになるなんて……葵は平気なの? 桔梗は? 光くんは? 夏城君は? みんな平気なの?!」
「ばか。平気なわけないだろ」
 縋りつくように葵はわたしを抱きしめた。
「平気なわけないじゃんか」
 くぐもった声に続いて、肩口に葵の涙がしみこんでくる。
 葵の家は大家族だ。朝会ってきた顔の数だけ、胸を切り裂かれるような思いはわたしより強いかもしれない。
「僕、お母さんにお弁当届けに来たんだ。しばらく待ってたら中等部の保健室の先生が来てさ。お昼前からお母さん、高等学校の保健室の先生達の集まりに行ったんだって」
 放心した声でぽつりぽつりと呟きはじめたのは光くんだった。
「それって、ここにいなかったってことでしょ? もしかしたら学校だけここに飛ばされちゃったのかもしれないじゃん。現に僕、一度野原みたいな所に飛ばされたし、戻ってきたと思ったら窓の外は真っ暗で、あの女がいたし……少なくともお母さんが学校にいなくてよかったって思ったよ。この学校だけかもしれないでしょ? こんなことになってるのは」
 どちらかというとその声は自分に言い聞かせているようだった。 
「でも、心配してるよね……きっと」
 わたしは不通のままの携帯電話をうつろに見つめた。
「もしかしたらまたすぐに戻れるかもしれないわ。私も葵ちゃんも、光くんもそうだったんだから。今のところここは安全みたいだし、とりあえず状況を整理しましょう」
 気丈に、というよりはいつもの調子で穏やかに桔梗が言った。
「そうだな。とりあえず坊主、お前の素性から聞こうか?」
 わたしの横に安座した夏城君は、相変わらず愛想のかけらもない顔で光くんの顔を覗き込んだ。覗き込まれた光くんは腕を組み、同じく仏頂面で夏城君を見返す。が、それも喋りはじめるとすぐに崩れた。
「僕は坊主じゃないよ。木沢きさわこう。岩城学園初等部の六年生。住んでるところは桔梗ん家の隣。お父さんはアメリカに単身赴任中。お母さんはご存知、高等部の保健室の先生の木沢洋子。兄弟は他にいないよ。桔梗がお姉さんみたいなもんだけど。血液型はB型。誕生日はバレンタインデー」
 来年はチョコよろしくね、とさっきとはうってかわってあっけらかんと言う光くんを、わたしは呆然と見つめる。
「ほかに聞きたいこととかある?」
 一方、隣の夏城君はいたずらっぽく聞き返した光くんを、眉間に皺を寄せ、わずかに拳に力をこめて見つめ返した。
「むしろどうでもいいことばっか喋っただろ?」
「ええぇ、どうでもよくないって。僕が一人っ子ってことも、血液型が何型かってことも、 星座が何座かってことも、僕という一個人を知ってもらうためには重要なファクターでしょ?」
「光くんは今占いにはまってるのよ。ねー?」
「ねー」
 光くんと桔梗は仲良し姉弟よろしく頷きあう。
「桔梗、お前ガキのペースにのせられまくってるぞ」
 呆れた葵が指摘するも、桔梗は全く動じない。
「私、光くんといるときはいつもこんな感じよ」
 どうしてだろう。桔梗のたちの悪い微笑と光くんの一見天使のような微笑とが同じ種類に見えるのは。
「あ、そうそう、付け足すの忘れてたけど桔梗は僕の彼女だから。お兄ちゃん、手ぇ出さないでね」
『……』
 小さな天使の投下した爆弾は、見事にわたしと葵と夏城君の思考を直撃した。
 わたしはおそるおそる桔梗の顔をうかがう。いや、わたしだけじゃない。葵も夏城君も恐ろしいものでも見るかのように桔梗を振り返った。
「やぁね。光くんは将来有望だもの。やっぱり投資は早くからしなくちゃ」
「桔梗……お前それ、ショタ……ていうか、そこまで聞いてない……」
 ショックを隠しきれないながらも何とか葵が喉から声を押し出す。
「口は悪いけど黙ってりゃ美人なお前が十五年彼氏も作らずにいたと思ったら、そういうことだったのか……。桔梗、どうしてそれを早く言ってくれなかったんだ。言ってくれてたら、絶対弟達には会わせなかったのにっ!!」
 姉の威厳をかけて掴みかかった葵を桔梗は軽く一蹴する。
「それは心配しなくていいわよ。まかり間違っても私、葵ちゃんをお姉さん、なんて呼びたくないもの。それに、光くん今は小学生だけど私たちと四つしか違わないのよ? 背だってもうすぐ夏城君くらいには伸びるわ」
 くらい、といったが、夏城君の身長はわたしからすると見上げるほどある。ざっと見積もって一八〇ちょっと手前くらいだろうか。それに比べて光くんはわたしと同じかちょっと目線が下だった。どんなに想像たくましくしても、この子が夏城君のようになるとは思えない。
 しかし、光くんは純粋に喜んでいた。
「わーい、桔梗大好きー」
 甘えた声で桔梗の腕に抱きつく。
 その様は、歳が四つしか違わなくても、いずれ背が伸びると言われても、今のところはどう見たってアンバランスだった。
「まぁ、投資はしているけど、まだ彼女になるって決めたわけではないのよね」
 するりと光くんから腕を抜き取って桔梗は表情一つ変えずに付け足した。
 ああ、光くんが崩れていく……。
「お前らが付き合おうが何しようが俺はどうでもいいんだが、はぐらかさないでもらおうか?」
 倍疲れたとでも言うように夏城君が無理矢理話を引き戻す。
「マレイホウオウって何だ?」
 泣きそうだった光くんの表情が、一瞬にして大人よりも大人びた表情に変わった。
「僕の前世の名前だよ」
 唇に浮かぶのは自嘲とも嘲笑ともつかない笑み。凄絶なほど冷たくて、見てるこっちがすっぱり切られてしまいそうな刃を抱えている。
「前世? ガキ、お前さっきも樒に向かってそんなこと言ってたけど、そりゃ何の冗談だ?」
「冗談なんかじゃないよ。事実だ。僕は物心ついたときから彼を知ってる。まるで自分のことのようにね」
「物心ついたときから……?」
 思わずわたしは聞き返していた。わたしはついさっき夢の中で知らない人の記憶を見せられて、断片的に託されて……それだけでもかなり混乱しているというのに、この子は違和感なくあんなものを受け入れたというのだろうか。
「怖い思いはしなかったの?」
「怖い思い? 彼はもう死んでるんだよ? それも大昔に。彼が襲ってくるわけでもないし、その頃の意識が残っているわけでもない。僕の中に混ざっていることはあるかもしれないけれどね。何せ僕はその大人の記憶と一緒に育ったから。母国語と同じようなものだよ」
 ならば、その記憶はよほど気楽なものだったのだ。
 もしわたしが幼いときにあんなものを見せられていたら、今どんな人間に育っていたか分からない。もしかしたら生きていることすら出来なかったかもしれない。
 あの記憶はそれだけ重い。ほんの欠片だとうすうす気づいているだけに、全て揃った時の重圧は想像するのも恐ろしい。
「どうしてそれが前世だって分かるんだ? お前のただの妄想かもしれないだろ?」
 夏城君の言葉に光くんは挑戦的な笑みで返した。
「共有者がいたんだよ。ね、桔梗?」
 桔梗は大人しく頷いた。
「おい、桔梗、お前まで何こくん、なんて頷いてんだよ……」
 葵は嘲笑半分、怒り半分に地面を叩く。けれど桔梗は全く動じずに口を開いた。
「法王っていうのは神の子供達に与えられた尊称のことよ。神の名は一柱を統仲王とうちゅうおう、もう一柱を愛優妃あいゆうきと言ったわ。その二柱の間に生まれた八柱の子供達が法王。彼らは二柱の神が住まう天宮を中心に八等分された領土に自らの名を与え、そこに居城を構えて治めていたの」
 桔梗は校庭の砂の上に大きな丸い円を描き、その中央に小さな円を描き足した。続いてその小さな円から大きな円の外周へ向けて等間隔に八本の線を引いていく。
 その手つきはよどむことなく、ためらうことなく、確かな記憶をなぞるよう。
「この小さな円が天宮。八柱の兄弟は生まれた順に、南南東を治める育命いくめい法王、東南東を治める水海すいかい法王、北北東を治める天龍てんりゅう法王、南南西を治める火炎かえん法王、北北西を治める魔麗まれい法王、西南西を治める鉱土こうど法王、西北西を治める風環ふうわ法王、そして東北東を治める聖刻せいこく法王」
 桔梗が手を止めた時には、円の中の八つのスペースには右上から時計回りに天龍、聖刻、水海、育命、火炎、鉱土、風環、魔麗と文字が埋め込まれていた。
 それはとてもよく見慣れた簡略図だった。
 わたしが見るのは初めてだったけれど、確かにわたしはこの図を知っている。彼らの名前を知っている。中でもそう、とりわけこの龍の文字が愛おしい……。
 わたしは何かに操られるように砂に書かれた「龍」の文字に指を伸ばしていた。
「やっぱり覚えているんだね。さらに付け加えるとこの八ヶ国守るために四つの楔となる 国があるんだけどね。こんな感じで」
 横から光くんが桔梗の描いた円を包むようにさらに大きな円を書き足し、北東、南東、南西、北西に当たる部分に線を引く。出来上がった四つのスペースには北に羅流伽らるが、東に志賀宮しがのみや、南に奈月なづき、西に周方すおうの文字が埋められる。
「どう? 見覚えあるでしょ? 樒お姉ちゃん」
 光くんは目を輝かせてわたしを覗き込んだ。
 わたしは視線を落としたまま彼女の記憶を辿る。
 聖刻法王、聖。
 天宮の北東に居城を構え、時を治める少女。
 そこは、見渡す限りの大草原。頭上には手を伸ばせば届きそうなほど近くに青い空が弓なりに広がり、風に揺れる緑の草原は遥か地平線を丸く縁取る。せわしく時を費やし暮らす者はどこにも居らず、悠久ともいえる時間がゆるゆると風と共に草原を渡っていく。
 不意に鼻の奥が切ないものにくすぐられた。それは上へと伝播し、目元を痺れさせていく。
「草原があった? 緑の揺れる草原と、宇宙の色をした青空と……」
 そこに彼女の故郷はある。
 悪夢の原点が、ある。
「あったわよ。抜けるような青空と草原が広がる地。むしろそれしかなかったけど」
「桔梗……」
 桔梗がわたしを抱きしめる。
 いつもの桔梗の腕。口ではきついことも言うけれど、必要なときには絶妙なタイミングで差し出されるあったかくて、何でも包み込んで癒してくれる桔梗の腕。
 それはわたしだけのものであるはずなのに、わたしの胸の奥底ではあの少女が涙を零した。
かい……姉さま……」
 桔梗の背に回していたわたしの手から力が抜け落ちる。
 甘えてはだめ。私がしたことは……しようとしていることは……
「っやめてっ」
 わたしは両手で両耳を塞ぎこんだ。
 目だけは見開いて、彼女の顔が見えてしまわないようにじっと砂を、砂に描かれた略地図を見つめる。
 わたしは記憶を引き受けてもいいと言った。貴女もそれでいいと思ったからわたしに記憶の欠片をくれたんでしょう? それなのに、どうして貴女がでしゃばってくるの? どうしてわたしを飲み込もうとするの?
「樒!」
 葵が後ろからわたしの肩を掴んで桔梗から引き離した。
「桔梗! お前、樒に何植えつけてんだよ。あたしのファンクラブくらいなら目ぇ瞑ってやるけどな、おかしな新興宗教まがいな勧誘は……」
「葵ちゃん、あなたは何も思わなかった? 何も心に引っかからなかった?」
「なっ、何言い出すんだよ! あたしはそういうのには絶対引っかからないんだよ。桔梗、お前がそういう奴だとは思わなかった。信じるなら桔梗の好きにすればいい。でも、樒 まで巻き込むな!」
「ち……がう……。葵、違うの。わたしは……」
 時を止めたのもわたしで、レリュータって人に何やら狙われているのもわたしで、怖い夢を見たのも、彼女を受け入れられないのも全部わたしだ。
 そう言いたかったのに、葵はわたしに喋る間も与えず桔梗たちのいる昇降口前から遠ざかろうと腕を引っ張り続ける。
「葵。葵!!」
 黒い霧が桔梗たちの姿を見えなくしていた。
 ようやく葵が立ち止まる。
「葵、あのね、聞いて……」
「何を? 『わたしもあの地図見覚えあるの。そこではわたしは聖刻法王でね、八人兄弟の末っ子で、ひじりって呼ばれて可愛がられてたの』って?」
 向けられたままの背中は行き場のない怒りに震えていた。
「葵?」
「知るか、そんなこと。あたしらはあれの続きをやるために生まれ変わってきたわけじゃない。あれはもう終ったことだ。だから、樒、」
 歯を食いしばって表情を硬くした葵がくるりと振り向いてわたしの肩を抱く。
「忘れろ。何を植えつけられたか知らないが、そんなもの忘れてしまえ。あたし達は何も背負う必要なんかない。何とかして現実に、東京に戻ることだけ考えよう? な?」
 わたしは思わず頷きそうになった。
 頷きそうになって、葵の肩越しに霧の中、より一層黒く染まった影が近づくのが見えた。
「葵、なんか来る……」
「え?」
 葵は機敏に後ろを振り返る。
 黒い影はゆっくりとわたし達の方へ向かって歩いてきていた。それらは次第に人の形をとり、今一番会いたい人たちの姿となってわたし達の前に姿を現す。
「お父さん、お母さん、洋海……!」
「父さん、母さん、幹兄、じっちゃんばっちゃんたち、それに拓兄、菫姉、蒼也、宝也!」
 わたしと葵はそれぞれに叫び、互いの声も耳に入らず家族のもとへと駆け寄る。
「無事だったんだ!」
「やっぱ死ぬわけないと思ってたよ」
 わたしに見えていたのは、たくさんの人影の中央にひときわはっきり見える家族三人の姿だけ。
 葵に見えていたのも、おそらく自分の家族十一人だけだったのだろう。
「樒、そんな危ないとこなんかにいないで早くこっちに来なさい」
「姉ちゃん、とろいのによく無事だったなぁ」
 お母さんが厳しい口調ながら笑顔で手招き、日に焼けた弟が軽口を叩く。
「樒、怪我はしてないか?」
 お父さんが優しく微笑みかける。
「うん、大丈夫! どこも怪我してないよ」
 広げられたお母さんの腕にわたしは思い切り飛び込んだ。
 なのにその腕にはさっきの桔梗や葵のようなあたたかな感触はなかった。
「お……母さん?」
 雲のような腕に飛び込んだわたしは、勢い余ってつんのめりかける。不意に、前のめりに折れ曲がったその背中に何かがのしかかった。
「えっ、何?!」
 上半身を起こそうとするが、重くてなかなか上がらない。と、目の前で洋海の足が黒くどろどろしたものに溶け出した。それはアメーバのようにうねりながらわたしの足に絡みついてくる。
「た、助けて、お父さん!」
 けれど振り向いた先にお父さんの姿なんかなかった。
 黒いへどろの壁がわたしを取り囲み、津波のように上から波頭も高く覆いかぶさってくる。
「きゃぁぁぁぁぁぁっっっっ」
 壁に隔てられた向こうから上がったのは葵の悲鳴。
 わたしは目の前に迫り来る黒い闇に言葉も出ない。
 かろうじてさっきの呪文が脳裏をよぎる。
「時よ……」
 止まれ。そう言おうとした瞬間、レリュータの言葉が耳元によみがえった。
『時を止めることがどれほど世界を不安定にするか、それすらも今のあなたにはお分かりにならないのですか? あなたはここだけではない。人界と神界、それに闇獄界、三界全ての時を止めてしまっていたのですよ?』
 壁がもう少し硬かったなら体当たりで崩すことも出来たのかもしれない。でも、力で押そうとすればやんわり取り込むだけのその壁に、わたしはただ飲み込まれていた。
 時を止めることも、巻き戻すこともかなわず。



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