聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉
第 1 章 侵 食
4
流れ込んできた記憶の断片は夢の続きだった。
たった一瞬の、迸るような記憶だった。
時は止まったまま。
わたしは一人ふらふらと音もない空間に立ち上がる。
「わかんないよ……」
映像と音と、まるで映画でも見せられているかのようなひとときだった。
それは元々あった鉱脈を道筋どおりに後ろ向きで掘り返していくのとよく似ている。
でも、堀が浅かったのだろうか。
あまりに急速に掘り返したからだろうか。
わたしは彼女に同化することなく、こうしてまた現世に放り出されてしまった。
覚悟もなく覗いた記憶は、浸透させる間もなくわたしから零れ落ちていく。
しかし、そんな音も聞こえないほどここは静かだった。
わたし以外、動くものは何もない。
不自然に宙に浮いたコンクリートの残骸もまだ誰も害してはいない。
「桔梗、葵」
わたしは上空を見上げたまま動かない桔梗と葵の体を、とりあえずひしゃげた鉄骨の下から遠ざけた。
「さて、どうしよう」
二人背負って下まで行くのはわたしの体力じゃ無理だ。
かといっていちいちここと下とを往復している暇があるとは思えない。
時を止める〈停止〉の魔法は、一時的に時を生み出す刻生石の震動を押さえ込んでいるだけ。
「あはは、そんな事務的なことばっかり残ってる」
彼女が伝えたかったことはわたしが忘れようとしていることの方だというのに。
分かっていてもわたしは取り戻す気にはなれなかった。
あの記憶は違う。
樒のものじゃない。
わたしに相容れないもの。
だから刻まれることなく零れ落ちていく。受け入れても良いと言ったそばから。
わたしが頭に手をやって自嘲したときだった。
「誰か…いるのか……?」
男子の声だった。
誰も動くことが許されないこの空間に、まるで時の流れなど意に介していないかのような誰何の声が降りてきた。
わたしは声のした階段の方を振り返る。
そこにはやや辟易した面持ちで階段を下ってきた男子生徒の姿があった。
「な……」
男子生徒はすぐにわたしとその背後に広がる光景に気がついて、あと一段というところで足を止める。
信じられないものを見てしまったというように。
「守景?」
名を呼ばれてわたしは肩をすぼめた。
今更動いていないふりなどできない。けれど、説明を求められても困る。
それ以前に、わたしは彼がわたしを覚えていたことに驚いていた。
ちゃんとした面識はない。
正確には高校に入学して以来口をきいたことがなかった。同じクラスではあったけれど、桔梗と葵が日常のほとんどを満たす空間にいたわたしにとって彼は壁一枚隔たったところにいた。
「夏城君……」
夏城星。
制服のシャツの襟元を適度に開き、緩く深緑のネクタイを結んだその姿は夏のこの学園ではごくありふれたものだ。普段からも目立つようなタイプではない。一人のときはいつも眉間に皺一つを刻み込んで、どちらかというとひっそり息を潜めてその他大勢の中に埋もれている。
「ど、どうして? もうとっくにみんなと逃げたんじゃなかったの?」
「いや、俺屋上で寝てたから」
「……寝てた? 今まで?」
夏城君は無愛想に頷いた。
「この暑いときに屋上で?」
「正しくは屋上の植物園で」
めんどくさそうに付け足して夏城君は最後の一段を降りた。
屋上の植物園。
そこは園芸部所有の冷暖房完備、冬でも夏でも快適に過ごせるハウスの中にある。
中等部と高等部の裏にある学園所有の植物園よりは大分規模が劣るが、設備のよさは凌駕しているらしい。
小さな花ばかりでなく大きめの観葉植物も多々置いているから、その木陰はさぞかし寝心地の良かったことだろう。
「って、この騒ぎにも気づかなかったの?!」
「だから今さっきの地震で起きたんだよ。せっかく人がいい気持ちで寝てたのに、ハウスが崩れてきたんじゃ起きないわけにいかないだろ」
よく見ると白いシャツはところどころ土ぼこりに汚れていた。
「怪我は?」
「してない。ここと同じように目の前で鉢植えとか止まったから」
夏城君は目の前に広がる光景を再び一瞥すると、動かないままの桔梗と葵に目を留めた。
「死んだのか?」
「死んでないよ! 縁起でもないこと言わないで!!」
「じゃあ、どうして守景は動いてる?」
一瞬私は口をつぐむ。
「どうしてって、それはわたしの台詞だよ」
刻生石は動き出そうとしていた。
わたしの手元にはなくても、押さえ込んでいるわたしには分かる。
一体どうやっているのか実感はなかったけれど、どこか遠くにその実体を感じていた。
全身から汗が噴き出しはじめる。
限界が近い。
「守景が停めたのか?」
二人を抱えだそうとしたとき、ぼそりと夏城君は呟いた。
「停める? 停めるって何を?」
「時を」
ざっくりと胸に切り込まれた気分だった。
「何……言ってるの。やだなぁ。あ、もしかして夏城君ってそういうの信じる人だったんだ?」
声が乾く。
「そういうのって?」
夏城君の手が葵の肩にかけられる。
「藤坂、運べるか?」
「え、あ、うん、何とか」
促されるようにわたしは桔梗を背負った。
葵を背負ってくれた夏城君は、もう一度宙に浮いたままの瓦礫を見上げる。
「少なくとも、目に見えるもんは信じないわけにいかねぇだろ」
わたしは夏城君を振り返っていた。
「信じるの? この光景を?」
「二人そろって同じもん見えてるだし、信じないわけにいかないだろ。いくぞ。時が動き出さないうちに」
まるでわたしが呪文を唱える瞬間を見ていたかのように夏城君は言った。
でも、まさか「見てたの?」なんて聞けない。
常識でいけばおかしいのはわたしの方なんだから。
それでも、わたしは夏城君の言葉にちょっと癒されていた。
固まったままの桔梗を引きずるようにして、わたしは夏城君に続いて階段を駆け下りた。
階段の風景はあまり変わっていない。
その角度は多少傾いていたが、いつもと同じ迫るような白亜の壁と抜け穴のような階段がまばゆい静寂の中で空間を留めている。響くのはわたし達の足音だけ。
でも、その静けさも長くは続かなかった。
一階間近にして、頭上に堰を切ったように轟音が溢れた。
ぱらぱらと天井から剥げ落ちたものが降ってくる。
「み……つきちゃん……?」
同時に背中も軽くなっていた。
「大丈夫。もうすぐ下につくから」
「おろして。自分で歩けるわ」
するりと桔梗はわたしの腕から抜け出した。
「私、どうしてここに?」
「気を失っちゃったから連れてきたんだよ。危機一髪だったもんね」
「気を失った? 私が?」
桔梗が余りに怪訝そうな顔をするものだから、わたしは一瞬嘘がばれたのかと言葉に詰まった。
ちらりと桔梗の視線がわたしの顔を横切る。
「そう。私も情けなくなったものね。助けてくれてありがとう、樒ちゃん」
「ううん、どういたしまして」
わたしは何とか平静を装って言葉を紡ぐ。
「ところで葵ちゃんは?」
「葵なら夏城君が抱えていってくれたよ。多分もうすぐ追いつくはず」
「夏城君? あら……そう、夏城君が」
「なぁに? その引っかかった言い方」
「ううん。なんでもないのよ。でもどうして夏城君が? もうみんな逃げたとばかり思っていたのに」
「それがね、屋上の園芸部のハウスで昼寝してたんだって」
桔梗の表情がようやく緩んだ。
「それは夏城君らしいわね。あそこは最近音楽療法取り入れるために防音設備もつけたっていうから、さぞかし寝心地良かったんでしょうね」
「そうみたい」
いつもに輪をかけて不機嫌だった夏城君の顔を思い出して、わたしもちょっと頬が緩んだ。
「さっきの恐竜は?」
「多分、まだ外にいると思う」
「それは困ったわねぇ。葵ちゃんの一撃でずっと気絶してくれてれば良かったものを」
校舎は外からかけられる衝撃に不自然な揺れ方をしていた。
破れた窓の外にはきらきらとガラスの破片が散っていくのが見える。
「やっと追いついたな、樒」
ようやく一階に辿りつくと、イライラした葵が夏城君の横で足を踏み鳴らしながら待っていた。
「そんなに怒んないでよ。これでも一所懸命走ってきたんだから」
「それを怒ってんじゃない。どうしてあたしが夏城に抱えられてたんだ!?」
「あ、そっち」
「こいつなんつったと思う? 科野の方が重そうだったからって言ったんだぞ?」
「それは科野の方が背が高かったから……」
わずかに顔を背けた夏城君がため息をつく。
「あぁ? 背が高いからって重いとは限んないだろ?! 純情な乙女心を傷つけやがって」
「そんなぞんざいな口利く乙女がどこにいるんだよ」
「あんだと?」
「まぁまぁ、おやめなさいな、二人とも。葵ちゃん、夏城君にちゃんとお礼は言ったの?」
夏城君に掴みかかった葵を引き剥がして桔梗はにっこり微笑む。
たじろいだ葵は、こみ上げた怒りごと息を吸い込んで夏城君を睨みつけ、これでもかと上半身を直角に折り曲げた。
「ありがとうございましたっ」
「どういたしまして」
最大限抑えこんだ声で夏城君が答えた。
それを見てわたしは桔梗の袖を引っ張る。
「ねぇねぇ、あの二人……」
「似てるわよねぇ」
「えっ。あれ、似てるの?」
「似てるじゃない。表面化の仕方は逆だけど」
そうか……似てるんだ……。
「じゃなくて、知り合い?」
「葵ちゃんにしてみたら私よりも古い知り合いよー。私は小三のときにこっちに来たけど、あの二人は幼稚舎から一緒ですもの」
「そんな昔から?」
「気になるの?」
桔梗はそっと耳に口を寄せて囁いた。
「ち、違うよ! そんなんじゃないって」
「傘、返せるといいわね」
「だからぁ」
違うんだってば。
わたしは去年借りた傘を返したいだけなんだって。
返す機会を窺っているうちに入学してから三ヶ月過ぎてしまったけれど……ああ、今日話せるって分かってたらお天気よくても持ってきたのに。……って、夏城君に迷惑か。
「とりあえずさっさと外出るぞ。ここにいたって潰されるだけだ」
わたしが話しかける間もなく夏城君は昇降口に向かって足早に進みだす。
「樒、お前具合は? さっきより顔色悪くないみたいだけど」
「うん、今は保健室どころじゃないじゃん。大丈夫だよ」
胸の奥にしこりのような重みがかかったままだったけれど、こみ上げる気持ち悪さは消えうせていた。
彼女の記憶は空想や神話の世界をなぞるよう。
真実なのか虚実なのかわたしにはまだ判断がつかないけれど、夏城君の言葉を借りるならわたしは目の前で起きたことを信じないわけにはいかない。わたしが起こしたことを、信じないわけにはいかない。
わたしのこの体には重苦しさと引き換えに手に入れた力がみなぎっている。
刻生石の震動を抑えていたときよりももっと穏やかに記憶は波打つ。
じゃあ、彼女は一体私に何をしてほしいんだろう。
そこまで思い至ったとき、ようやく重苦しさは半減した。
「どうした、樒?」
「ううん。なんでもない」
彼女は、わたしに何かをしてほしいのだ。
何か――あの夢を鵜呑みにするのなら彼女の成し遂げようとしていたことの続きを。
けれど、具体的に何をしたらいいのかが分からない。
あの話には続きがある。
彼女はもっと準備をしていったはずだ。
その続きが分かれば、この胸につかえたものも取れる。
でもわたしなんかに何ができるというの?
夢に出てきた世界はこことは違う世界だった。少なくとも売られている地図に載っているような世界じゃない。学校の歴史の授業で習う世界じゃない。
それに、彼女は創造神とか言っていた。
その言葉を聴けば、普通の人間なら笑い飛ばすかそら恐ろしさに震えるかしかない。
多分に漏れずわたしも人間だ。
大それた願いは聞けない。
「あれ、揺れ止まったね」
気がつけばさっきまで不規則に震動していた校舎はぴたりと静止し、多少でこぼこに歪んだりひび割れたりした床が先へ先へと伸びていた。
耳障りな破壊音も消えている。
「なぁ、なんか寒くないか?」
不意に前を走っていた夏城君が、足を止めて振り返った。
「そういえば……」
南側に教室を連ねているこの校舎の廊下は総じて北側。元から直接太陽の光は入りこまないし、その分暑くもなりにくい。けれど、袖の隙間やスカートの下から入り込む冷気は日陰の気温の比ではなくなっていた。
かといって警報機が止まり蛍光灯も点らなくなってしまった現状で、エアコンが効きすぎているなんて考えにくい。
冷たい空気が漂ってきているのはわたし達の向かう先からだった。
何よりその空気はとてもいやな予感を含んでいる。
「あっちにあるのって昇降口と保健室くらいだよな」
「まだ誰かいるのかもしれないわね」
いち早く桔梗と葵は走り出す。
直後、その先の部屋から闇が迸った。
「爆発?!」
だが、跳ね飛ばされてきたのは水しぶきだった。薄ら寒かった冷気も消える。
その部屋の中からもうもうと立ち上るのは、物が燃えるときに出る煙ではなく水蒸気。
噴き出す水蒸気とともにせわしなく命を噴き出すような音があちらこちらで立ち上る。
その白い煙の中、廊下の北側の壁に打ちつけられてのびた男の子の姿があった。
「光くん!!」
それを見て悲鳴を上げたのは桔梗。
知り合いかと訊ねる間もなく桔梗はその子の側に駆け寄った。
その子の格好は白いTシャツに黒灰のハーフパンツ。袖裾から伸びた細い手足はまだまだ華奢で小学生の域を出ているようには見えない。
「あれだよ。桔梗が熱心に面倒見てる近所のガキ」
光くんと呼ばれたその子は、桔梗に揺すられてすぐに目を覚ました。
「桔梗……? 桔梗だ……」
安心したようににっこりと微笑む。が、すぐにどこかの痛みに顔をしかめた。
「光くん、どこか痛むの?」
「大したことないよ、こんなの。それより、後ろ……」
右わき腹の辺りを軽く押さえた光くんは、わたしたち三人をぐるり見回してから桔梗の背後、光くんにとっての前方をきっと見つめた。
保健室があった場所だった。
戸口も窓も破れたそこからは、白い水蒸気と黒い気体が絡み合いながら流れ出している。
「いた」
その闇の向こうから、不意に女の声がした。
嬉しさと恨めしさがないまぜになった奇妙な声。
それは、中から突き飛ばされてきた光くんに向けられたものではなかった。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん達っ、逃げて!! 早くっ」
光くんが叫ぶや否や、人影とも定まらないものから黒い矢が放たれた。
影のような矢は真っ直ぐわたしめがけて飛んでくる。
「樒ちゃんっ」
「樒っ」
立ちすくんだわたしは鋭く研ぎ澄まされた黒い矢の先端を見つめていた。
止まれ、といえば、また止まってくれるだろうか。
でも、桔梗や葵や夏城君や見知らぬ子の前で唱えるの? あのひどく疲れる呪文を。
迷っている場合ではなかった。
わたしは口を開く。
が、何かに射すくめられたように私の喉からは声が出なかった。
鏃の先端は違うことなくわたしの眉間を狙って腕が伸びる範囲まで迫っている。
凝固したわたしの体はこんなときなのに腰が砕けることなく佇立していた。
「ぃ…や……」
ぎゅっと目をつぶる。
刹那、何かがぶつかって体が転がった。
「ぼやぼやすんな」
頭ごなしに不機嫌な声が降ってくる。
腰に巻きついているのはわたしのよりもずっと太くて黒く日に焼けた腕。
反射的に私は身を縮めた。
「あ……夏城君……? あ…りがと……」
上ずる声に呆れたようにするりと腕は離れていく。
「お前、ほんっとにとろいのな」
「え?」
「なんでもない」
ぶっきらぼうに言い捨てたものの、夏城君はわたしの後ろから離れようとしなかった。膝を立ててしゃがんだまま、真っ直ぐに斜め上を見据える。
その視線の先、揺らめく影は光を浴びて玉を転がすように機嫌よい笑い声を零した。
「相変わらず一人じゃ何も出来ないようですね。今生でもまた他人を巻き添えにして」
わたしは声も出なかった。
夢幻に闇をまとって現れていた女が、今目の前にその全身を晒していた。
「今度こそ来てもらいますよ」
差し出されたのは陶器のように青白く無味乾燥した細い腕。
「知ってるのか?」
夏城君の声にわたしは頷くことも首を振ることも出来なかった。
身動きできないまま差し出された指先を見つめ、ゆっくりと顔を上げてその顔を見据える。
青い瞳。波打ちながら闇と同化する漆黒の髪。日本では見かけない民族衣装を着た地味めながらも顔立ちの整った女性だった。
それにしても、さっき闇に引き込まれた時に見た顔とは明らかにどこか違っていた。
あの時は依頼心の強い弱りきった顔をしていたというのに、今目の前にあるのは邪悪としか形容できない。
「ひどい人ですね。私です。貴女から代わりを言いつかった第五十三代目の聖刻王、レリュータです。ついさっきもお会いしたばかりだというのに、まさか見覚えがないなんておっしゃいませんよね、聖刻法王?」
「聖刻……法王……?」
レリュータの確信に満ちた声を聞いて呟きを漏らしたのは光くんだった。
わたしは光くんの方を振り返る。
驚きながらも光くんの表情はその名を受け入れていた。
けれどわたしはすぐに光くんから顔を背けた。
「わたしは違うわ。その聖刻法王って人じゃない」
レリュータはひとしきりくつくつと噛み殺した笑いを漏らすと一転、凍りつきそうなほど鋭い視線でわたしを射抜いた。
「しらじらしい。さっき時を止めたのはあなたでしょう?」
周りなど意にも介せずレリュータは強引にわたしの腕を引き掴んで立たせる。
「やっていないなどとは言わせませんよ。あなたが一時的とはいえ刻生石の動きを封じ込めてくれたおかげで私はこうやって外に出られたのですから」
「外に出られた?」
「忌々しいあの精霊の結界からね」
わたしは顔をしかめるほかない。
「よみがえったのは時の精霊を操る呪文の部分だけか。本当に都合のいい」
吐き捨てたレリュータは強い力でわたしの両肩を押さえつけた。
「しかしあなたには礼を言わなくては。こう言えばおわかりになりますか? あなたが時を止めるなどという大それた魔法を使ってくださったおかげで、あの精霊は私を閉じ込めていた結界を解かざるを得なくなったのですよ」
「大それた……?」
「時を止めることがどれほど世界を不安定にするか、それすらも今のあなたにはお分かりにならないのですか? あなたはここだけではない。人界と神界、それに闇獄界、三界全ての時を止めてしまっていたのですよ? そして、さっきも一度ならず二度までも同じことをしようとした」
三界全ての時?
確かにどっと疲れはしたけれど、あの一言二言で、それほどまでに大きな力が働いていたというの?
「やはり恐ろしいものですね、法王の魔法石とやらは。しかし、あなたの力を見せつけられて私は確信しましたよ。その魔法石なくしては所詮時など治めることはかなわなかったのだと」
押さえつけられていた肩が楽になったと思った瞬間だった。
レリュータの繊手はわたしの制服のブラウスの胸元を引きちぎっていた。すかさずあらわになった胸の真ん中へと手を伸ばす。
「っきゃぁぁ」
わたしはとっさに胸元をかき集めてレリュータの手元から飛び退った。
完全に威圧されていた桔梗と葵も、呪いが解けたように悲鳴を上げながらわたしとレリュータの間に立ちふさがる。
「樒ちゃん、怪我は?」
「してないみたい。でも……」
「これでも羽織ってろ」
着せ掛けられたのはところどころ土に汚れた男物の白いワイシャツ。
「あ、夏城っ! あたしが貸そうと思ってたのに!」
黒いTシャツ一枚になった夏城君に一歩先をこされた葵は、悔しそうにブラウスのボタンを留めなおす。
「科野が脱いでどうする。乙女なんだろ、一応」
「っんだとぅ!! 一応は余計だ、一応は!!」
「ありがとう、夏城君、それに葵」
わたしは長すぎる袖をまくりあげて頭を下げた。
「あのままじゃ逃げるに逃げらんねぇからな」
「お礼なんかいいって。それより、何なのあのセクハラ女!! 自分も女なら何されたら嫌かくらい分かるもんだろう?!」
葵の怒鳴り声にレリュータは臆した風もない。ただ呆れたように笑った。
「生まれ変わっても麗しき兄弟愛ですね、聖刻法王、天龍法王、火炎法王」
「な……」
「ちょっとレリュータ! 葵たちまでおかしな名で呼ばないでよ!!」
「もちろん、生前のあなた方を直接存じ上げているわけではありませんが、私はあなたの懐かしきよき日々の思い出を預かっておりますから。それに〈予言書〉の内容も」
〈予言書〉。
全ての始まりをもたらした忌まわしき書物。
彼女が入り込んでしまった茨の道を用意したもの。
「あなたはご自分の大切なものを私にお預けになったことすらもお忘れになったのですか?」
胸が軋みをあげていた。
返してもらわなければ、と彼女の呻く声が聞こえるようだった。
返してほしいの?
わたしは心の中で彼女に問いかける。
だが、震えが伝わるばかりで明確な答えは返ってこなかった。
この人はどうして迷っているのだろう。
大切なものならば返してもらえばいい。レリュータもそのつもりであんな話を持ちかけたのだろうから。
「どうすれば返してもらえるの?」
私は葵と桔梗と夏城君を押しやって一歩前に出た。
レリュータは薄気味悪い笑みを浮かべる。
「あなたの魔法石を私にください。その石は今のあなたが持っていても何の訳にも立ちはしない。時の精霊王との契約の証であるその石は、聖刻王であるこの私が持つことこそふさわしい」
「さっきから言っているその魔法石って一体何なの?」
「精霊王の魂を封じ込めた石ですよ」
わたしにはそういう肝心の基礎知識がなかった。
見せられた夢と白昼夢、二つの記憶の断片はあまりに情報量が多くて、わたしは自分の記憶として感じることが出来なかったのだ。
「残念だけど、わたしはそんな石持ってないよ」
首を振ったわたしの目の前に、瞬時にレリュータは現れた。
「いいえ。持っていらっしゃいますよ。魔法石はあなたの命でもあるのですから」
レリュータはわたしの左肩を引き掴み、右手をぐっと胸に差し入れた。
白い繊手は実体がないかのように痛みなくわたしの体に吸い込まれていく。
息をつめているのが苦しくなって吐き出そうとしたときだった。
「ぁああああああ」
燃え上がらんばかりの痛みが体中を包み込んだ。
「だめ! 無理矢理外に出そうとすると樒ちゃんが死んでしまうわ!!」
叫んでレリュータに飛び掛ったのは桔梗だった。続いて葵と夏城君までもが引き離しにかかったが、どこにそんな力があるのだろうと思うほど華奢な体のレリュータは微動だにしない。
わたしの全身からは、みなぎっていたはずの力がレリュータに手を差し入れられた部分からとめどなく抜け出していた。程なくその力の奔流は白い光となってわたしとレリュータとを押し包みはじめる。
同時に、白い光にまぎれて意識も剥落しはじめていた。
「桔梗、その他のお兄ちゃん、お姉ちゃん、そいつから離れて!」
三人がかりでもびくともしないレリュータに業を煮やしたのか、光君が切羽詰った声で叫んだ。
続いて一トーン下げた子供とは思えぬ声が滑らかに謳う。
『熱あるものより全てを吸い取りし清らかなる者よ
我が望みし者より その身に宿りし熱を奪い取れ
しかして美しき汝が身に しばしその者の姿おしとどめん』
散り去っていた冷たい風が、再び鋭い唸り声を上げてわたしとレリュータの頭上に集まりだしていた。
呪文だ。
わたしがさっき唱えたのと形式が似ている。
「凍結」
それがとどめの一言だった。
冷気は一つになってわたしを掴むレリュータの右手を覆いこんだ。
わたしの体は宙に放され、右手を完全に蒼白い氷に覆い尽くされたレリュータの口からは絶叫が迸る。
さらに氷は右手だけでは飽き足らず、生き物のようにレリュータの右腕を上へ上へと這い上がりはじめた。
「魔麗法王、貴様……」
「さっきのお返しだよーだ。全身氷漬けにされたくなかったらさっさと帰りな」
わき腹を押さえながら光くんが言うと、レリュータは尻餅をついたわたしを見下ろして、ここまで聞こえてくるほど歯噛みした。
「聖刻法王、分かっているのだろうな。時空の規律が乱れていることに。もはやあなたの 血たった一滴では支えきれないところまできているということに。あなたには責任がある。私たちをこんな姿にして時の守人を押しつけた責任が! どうだ! 本望か?! 私たちの今のこの有様は! 時空が乱れたこの世界は!!」
程なく。息を切らして叫んだレリュータの姿は闇に掻き消えた。
二つの記憶の断片しか持たないわたしには、レリュータの言葉は故なき罵倒にしか聞こえなかった。
「どうしろっていうのよ……」
「とりあえず、出ましょう。この校舎ももうもたないわ」
「外が安全とも限んないけどな」
差し出された桔梗と葵の手に支えられて、わたしはようやく校舎の外へ出た。
だが、そこはさっきまでかんかん照りの青空が広がっていたとは思えないほど黒い霧に深く蝕まれていた。
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