聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉
第 1 章  侵  食
 3

 立ちのぼる湯煙の中、水鏡に映った黒髪の「女」はまだ見慣れぬ自分に向かってため息をついた。
「これが、私」
 言いきかせなければ見失ってしまいそうだった。
 身体など、ただの器だったはずだ。
 現に、つい最近まで魂のままふらふら出歩いていたって、なんら心細い思いをすることもなかったのだ。
 魂のときは、生前の自分自身を思い描くだけで姿を魂に簡単に投影することが出来た。
 左右で違う色の瞳、グラデーションがかった髪。
 病気がちでお世辞にも健康的な色の肌とは言えなかったけれど、それでも調子さえよければ肌理は滑らかに整い、春の光に当たれば絹の如く煌いた。
 胸は姉さまたちに比べれば多少小さめ……ううん、正直に言えば洗濯板も同然だったけれど、今、この体で夢のように大きな胸を手に入れたからといって、諸手を挙げて喜ぶ気にはなれない。
 水の中の女は、所詮他人だった。
 九百年も昔に死んだことになっている聖刻法王として聖刻城に赴くわけにも行かず、私は二人から貰い受けたパーツと腐りかけた自分のパーツとを捏ね回して新しく姿を造りだした。
「だから甘いって言うのよ」
 澍煒はばっさりと私の心中を代弁する。
「血が通った途端に良心まで復活しちゃったわけ?」
「……いるのよ、二人が」
 心の奥底、真っ暗な闇の水底に二人を突き落として、悲鳴や嘆願が聞こえないように蓋をして、それでも絶え間なく耳元でちらつく呻き声は私に残された良心が発しているとしか思えなかった。
 犯した罪の重さを忘れるな、と。
 彼らの存在を忘れるな、と。
 肩から背まで真っ直ぐ癖なく伸びる緑色がかった黒髪。小さく整った鼻筋、やや薄めの唇。少女の手でつまめるほどの小さな顎。
 作りとしては美人の部類に入るかもしれないが、どことなく地味で華やかさに欠けるこの顔は、ユーラと呼ばれていた侍女そっくりだった。
 そして、その地味さを補うかのようにファリアスから貰い受けた藍玉の瞳が、生前の彼からは想像もしないほど強い光を放って鏡の中の女を射抜いている。
 私の面影はどこにもない。
 少しくらい残ってくれたっていいのに。これでは自分で自分を受け入れられないといっているのと同じだ。悔悛の言葉をどんなに並び連ねても中身が空っぽだといっているのと、同じだ。
 どうせならファリアスの姿をそのまま借りればよかったのだ。そうすればこの後、避けては通れない聖刻王の不在という問題が楽に乗り切れたのに。
 どうして、こんな姿に落ち着いてしまったのだろう。
 わかっているのに、もうこれ以上手を加える気がしない。
 本当に壊れてしまいそうだった。
 これ以上姿をいじったら、私が私でなくなってしまう。
 じゃあ、最終的にファリアスでなくユーラの姿を選んでいたのは?
 ――どこかで女性であり続けたいと願ったから。未練がましく、龍兄への想いを断ち切れずにいるから――
「聖。あたし、のぼせそうだから先あがるね」
 私の呟きは澍煒には聞こえていなかったらしい。
 湯煙の向こうから浴槽に身体を沈めなおす私を一瞥すると、澍煒は先に浴室から出て行ってしまった。
「薄情者」
 香草の香りが鼻腔に満ちていく。
 身体は優しくお湯に抱かれて解けていく。
 こんなささやかな幸せがあったことを、私は長いこと忘れていた。
 そしてこれからは罪悪感と隣り合わせのこんな日常が、短くも長くも続くのだ――

 聖刻の国から西に広大な草原と砂漠を越えたところにあるここ、天宮まで一息に空間を渡ってきた私たちの姿を見て、壮齢の白髪王ナルギーニはティーカップを口に運びかけたまま絶句していた。
 赤黒く染まった死装束から滴るのはまだ乾ききらぬ二人の血。はね飛んだ血にところどころ固められた長い髪は、元の色を失って蒼白な顔を覆い隠すように流れ落ちる。
 その髪の間から覗くのは野獣のようにぎらついた瞳。
 わずかに眇められた彼の鳶色の瞳には、焦燥に駆られたそんな鬼女の姿が映りこんでいた。
 しかし、彼は見抜いていた。
『聖様、ですね?』
 一呼吸おいて、静かにナルギーニは訊ねた。
『ええ』
 応える声が詰まる。
 私はもう廟に引き返したくなっていた。
 せめてもっと身ぎれいにしてから来ればよかった。
 昼下がりのお茶の時間。執務室の窓から差し込む春の光は、憚ることなく化け物の姿を日の下に晒しだす。
 踵を返しそうになった私は、ナルギーニに視線を搦めとられてかろうじてそこに留まった。
『せっかくのお茶の時間にお邪魔してしまったわね』
 口もつけずにゆっくりとカップを皿に戻しながら、ナルギーニは微かに笑う。
『何を今更。この時間にお茶しに来るのは貴女の日課でしょう? それとも――』
 刹那、ナルギーニの目から友好的な色が消えた。視線は私の服から滴る血と後ろに控える澍煒とを素早く行き来して、再び私に据えられる。
『今日は違うのですか?』
 私は静かに息を吸い込んだ。
『第四十九代天宮王、ナルギーニ。今日は貴方にお願いがあって来ました』
 音もなく微笑は消え、かわりに苦いものが広がっていく。
『〈渡り〉を使って直接私のところに飛んできましたね? 私が私事にかまけている最中だったらどうするつもりだったんです?』
 口調こそ冗談交じりだったが、予想だにしないほど氷雪混じりの風が胸に吹き込んできた。伸びた指の爪が冷えた手の平に食い込む。
 言葉を失った私のかわりに、澍煒が口を開いた。
『そんなこともあろうかとわざわざ天宮王の執務室じゃなく、貴方自身に狙いを定めて来たんじゃない。何棟も似たような宮が集まるこの天宮で貴方一人を探すなんてことになったら、到底〈渡り〉一回じゃ済まないもの。せっかく得た聖の命もすぐに縮まっちゃうわ』
 確信犯的な澍煒の言葉に、ナルギーニは今更顔色一つ変えやしなかった。
 言うまでもなく、私が〈渡り〉で彼の前に現れたその瞬間から、彼は私が肉体を手に入れたことに気づいていたのだろう。
 二十年来、そう、ナルギーニが十五で天宮王となったその日から、私たちは密かに友情とも家族ともつかない親愛の情を育んできた。いや、彼の中には憎しみもあったかもしれない。私が止めなければ、彼は今頃天宮王のしがらみから解放されていただろうから。
 たとえ憎まれていたとしても、所在無い私にとって、彼は大切な友人だった。
 九百年ぶりに巡りあえた家族のようなものだった。
 法王と知っても敬遠することなく、詐欺師呼ばわりすることもなく、ただ普通にありのままの私を受け入れてくれた、九百年間でただ一人の人。
『一緒にお茶、しませんか?』
 亡き父のカップを差し出して当たり前のように誘ってくれた日のことを、私は今でもありありと思い出すことが出来る。
 しかし、今ばかりは違った。
 これほどまでに神妙で冷厳なナルギーニの顔を私は見たことがなかった。
 決して怒りをあらわにしているわけではない。恐れているのでも悲しんでいるのでもない。ナルギーニは、私を二十年来の茶飲み友達としてではなく、全く未知の者として客観的に観察しているようだった。
 やがて、わずかに彼のまとう空気が弛んだ。
『聖様。貴方のお願いを伺う前に一つ、私の提案をのんでいただけませんか?』
 ナルギーニは「提案」とやんわり言ったが、実際それは強制だった。
『お体をお流しする侍女はつけてさしあげられませんが』と言いおいて、私と澍煒を執務室に隣接する小さな浴室へ放り込んでしまったのだから。
 そして私は浴びた血を洗い流し、澍煒に髪を洗い梳いてもらい、ようやく今、こうやって浴槽で手足を伸ばしている。
「聖ー、いい加減上がらないとゆでダコになるわよー」
「わかってるー」
 澍煒は、変わらない。
 私の姿が生前と違おうが、私がどの道を歩もうが。
 多少のぼせ気味で上がった先には、いつのまに調達したのやら、聖刻の国の衣服が用意されていた。繻子で織られた淡いピンクの膝下ほどの長衣と黄色い細帯、やや濃いめのピンクのゆったりとしたズボン、それに茶色の長靴――もとは風に波打つ緑の大草原を馬で駆け抜けるために工夫された衣服だった。
 病弱が板についていた生前、私が馬に乗れたことなど数えるほどしかなかったけれど、馴染みある様式の服には違いない。長衣の上からしっかりと細帯を巻きつけて結ぶと、懐かしさがこみ上げてきた。
「ようやく人らしくなりましたね」
 私と澍煒の湯上りの熱が冷めた頃、ナルギーニは執務室に戻ってきた。
 いつもの穏やかさを取り戻して戸棚からティーセットを取り出し、水の精霊と火の精霊を駆使してお湯を沸かしはじめる。
「ナルギーニ、あの……」
「お湯加減はいかがでしたか?」
「ええ、ちょうどよかったわ。ありがとう。おかげで大分落ち着けたわ」
「それは何よりです」
 ナルギーニは、顔かたちのみならず全身聖の姿でなくなった私を見ても何も言わなかった。説明する暇すら与えてくれなかった。
「お食事の用意をしようかとも思ったのですが、これ以上勝手にお時間をとらせるわけにもいかないのでしょう? 遅くなりましたがまずはお話をお聞かせくださいますか?」
 ナルギーニは手際よく沸かしたてのお湯をポットに注ぎ、頃合を見て三つのカップに注ぎ分けた。
「天宮王に給仕させるなんて、あたしたちくらいよね」
 これから私が何を言い出すか分かっているくせに、澍煒はのんきに笑って差し出された紅茶をすする。
「よろしければ聖様も飲んでいただけませんか? 私の淹れたお茶を貴女に飲んでいただくのが、ささやかながら私の夢だったんです」
 向かいのソファに深く腰を沈めて、つい今しがた言ったことなど忘れたように、これまたのんびりとナルギーニは言った。
 私はカップを手に取る。
 ナルギーニはいつも、私にお茶を出してくれていた。けれど、せっかくご自慢の独自ブレンドの茶葉だといわれても、私の手はいつもカップをすり抜け、触れることが出来なかった。結局、私は香りだけを楽しみ、歯がゆい思いでお茶が冷めていくのを見つめていた。
 念願叶って、私はカップに口をつける。
 口の中に静かに流れ込んできたお茶は、まず口腔内を気品ある香りで満たし、喉を潤しながら体全体に温かな波となって広がっていった。
「おいしい……」
 頬が、身体中が緩む。 
 つい先刻、この喉を通り過ぎたもののことなど忘れてしまいそうなほど、一口一口が砂糖も入れていないのにこの上なく甘露だった。
 こみ上げた悲哀と裏表の幸福が一滴の涙となって紅い水面に波紋を広げる。
 死の直前、腫上がった喉は水すら通すのを拒んだ。薬の苦さも、果物の甘さも私はもう二度と感じ分けることなど出来ないのだと思っていた。
 喜んじゃ、だめ。
 今の幸福感は、彼らの幸福を奪って得たものなのだから。
 それなのに、私は――
「ごめんなさい」
 どうしていいか分からない。
 ナルギーニにもっとちゃんと喜んでるって伝えたいのに、言葉にすることが出来ない。
「ありがとうございます」
 それでもナルギーニは少年に戻ったように嬉しそうに微笑した。
「私の夢を叶えてくださって」
 ナルギーニは自分でも一口、二口味わうように口に含んで小さく頷くと、カップを置いてわずかに身じろいで居ずまいを正した。
「お話を、伺いましょう」
 真っ直ぐ正面から私を見る目は、今度は話の腰を折る気がないことを誓っていた。
「結論から言うわ。各国、七つの廟にそれぞれ安置されている法王たちの遺体を、ここの地下に移させてほしいの」
 様子を窺うために私は一度言葉を切った。が、ナルギーニはわずかに首を傾げて次を促した。
「何故、今更?」
 静かに問う声に、言葉以上のものは含まれていない。
「統仲王復活の話は、天宮王なら当然知っているでしょう?」
 今私たちがいるこの世界、神界の創造者の一人にして永遠の統治者。そして、私と七人の兄姉の父――それが統仲王。
 九百年前、神界と相対する闇獄界の境界侵犯に端を発した第三次神闇戦争で、私たちは皆命を落とした。
 終結は統仲王と闇獄界に与した母、愛優妃との一騎打ちだったとか。彼らは示し合わせたように互いの力を封じあい、時が満ちて再び合間見える日が来るまで眠りにつく道を選んだ。
 将が皆倒れた神界の方が壊滅的な打撃を受けたといえるが、統治者たる愛優妃を欠いた当時の闇獄界はそれだけで脆かった。両世界はそれぞれの統治者の意を汲んで、二人が目覚める日まで矛を収めると約束した。
 時がたちすぎた今では、神界の人々の間では統仲王も愛優妃も死んだことになっている。
 すでに神と人が共に暮らしていたということ自体が神話扱いされ、その存在を心から信じる者もほとんどいない。たとえ身近に廟が建てられていようと、古代の信仰の証くらいにしか思われていない。
 この神界で神代と呼ばれた時代が真実だと知っているのは統仲王から神界を託された天宮王の末裔と、法王たちから国と廟の守護とを任された各国王の末裔くらい。
 そして、統仲王が実は眠っているだけだと知っているのは、直に会うことの許される天宮王だけ。
「勿論。二十年ほど前になりますか。聖様と初めてお会いしたのは、ここの地下宮で眠る統仲王様の御前ででしたしね」
 天宮王となる者は代々、前代が譲位または死亡すると統仲王の元に戻った血晶石を継承するために一人で地下宮に赴く。自らに流れる天宮王の血を鍵に扉を開くことができれば、あとは何の障害もなく真っ暗闇の中心で眠る青年神と対面することができた。求める血晶石は、赤い輝きを闇に滲ませながら、まるでその男が生きていることを明かすように胸の上で呼吸に従って上下しているからすぐに見つかる。
 事は簡単だ。
 天宮王となる者はただその石に触れればいい。
 それだけで石はその者の魂に喰らいつき、統仲王が生き続けるために、文字通り命を削りだす。
「歴代の後継者達は大抵短剣を振り上げるところまで行っても、本当に振り下ろしはしなかったのに」
 自ら命を統仲王に捧げると誓った初代天宮王マルナートはともかく、次代の王達は子の寿命を慮ってできるだけ長生きに努めた。四十九代目のナルギーニが父の早世によって十代の若さで天宮王を継ぐ羽目になったのは、先祖たちからすれば耐えがたい不幸だったに違いない。
 そんな反発を象徴するように、後継者には地下宮の存在の意義と共に、その扉を開ける血を流すための短剣が譲り渡される。
 指を傷つけるにはいささか大きいその短剣を握って、暗闇の中、無抵抗の諸悪の根源を前にしたときに本当の試練が彼らに襲いかかるのだ。
「私はまだ若かったですから、本当に怖いものなどなかったんですよ。むしろ、子々孫々までの禍根を断てるなら喜んで振り下ろすのが普通でしょう? 父も祖父も、そのまた前の天宮王達も、継承する時には年を重ねすぎていたんです」
 ナルギーニの言うとおりだった。
 代替わりのたびに私は地下宮で彼らの継承式を見守ってきたけれど、熟慮やら保守やらが積年つもり積もって固められてしまった中年の男達は、短剣を振り上げるならまだいい方。多くは躊躇しまくった上、がっくりとうなだれながら血晶石を継承するのが常だった。
 ただナルギーニ一人が、本当に短剣を統仲王の胸に突き立てようと渾身の力をこめて振り下ろした。
「聖様が邪魔さえしなければ、私は今頃世界と引き換えにしたことも忘れて制約のない権力の美酒を堪能していたでしょうに」
「貴方に私が見えたのが不運だったのよね。私にとっては幸いだったけれど」
 統仲王を守らなければならない。
 今、死なせてはならない。
 とっさに私はナルギーニの振り下ろした短剣と統仲王との間に飛び込んでいた。
 身体を短剣が突き抜けてしまうことすら忘れて。
「いいえ。見えても貫き通せる覚悟が足りなかったんですよ。私の負けです。それに、見えたおかげで聖様とお茶の時間を持つことができるようになりましたし」
 短剣は私の姿を掠め逸れ、統仲王ではなく寝台に突き立っていた。
「基本的にナルギーニってお酒よりお茶よね。権力の美酒なんていうけど、そんなのナルちゃんには何よりも不味いものなんじゃない?」
 角砂糖を二かけ紅茶に投入しながら澍煒が酔っ払いじみた茶々を入れる。
 だが、それは半分当たりで半分外れていた。
 ナルギーニにとって権力は不味いもの、もしくは酔えないものに違いはないだろうけれど、彼ほど飲み方を心得ている王もこの世にはいない。
 だから私は彼を選んだ。
「ナルギーニ、私は統仲王の復活にあわせて兄さまと姉さまたちも……法王も復活させたいの。あと百年もたたないうちに統仲王と愛優妃は目覚め、四度目の神闇戦争が始まる。今度こそ最後にするためにね。闇獄界は着々と将の数を増やし準備を進めているけれど、神界はどう?」
「平和ボケしている、と?」
 ナルギーニは苦笑した。
「必ずしも平和なんていえた状態じゃないでしょう? 北西の引きこもり王、西の王はすっかり外戚の傀儡になっているし、南は度重なる旱魃と猛暑で政権が民衆にひっくり返されるのも時間の問題」
「そして、聖刻の国の王は腹違いの妹と駆け落ち、ですか」
 私は口をつぐんだ。
「もう、知っているの」
「さっきナターシャに調べさせましたから。聖刻法王の廟に聖刻王とその侍女が逃げ込んだとか。そして、今の貴女の姿――聖刻王とその腹違いの妹にそっくりだ」
「ナルギーニ。貴方、他国の侍女の顔まで覚えているの?」
「まさか。私は女性の顔は覚えられない方なんです。妻と貴女の顔さえ認識できればそれで充分。しかし、天宮王として他国の王家の様子は一応把握しておかなければならないでしょう? 前代の聖刻王が多少やんちゃだったとか、その庶出の娘が血筋を知らずに聖刻王のお付の侍女になってしまった、とか」
「……一応どころじゃなく全部お見通しなんじゃないの」
 呆れた口を何とか塞ぐ。
 こういう人だと分かってはいたけれど、ここまで見通されると逆に恐ろしくもなってくる。
「ただ、分からないのは聖様がどうやってその姿を手に入れられたのか」
 静かに背中を冷たい汗が流れ落ちた。
「時の精霊に物質を変化させる力はなかったはず。違いますか、澍煒様」
「ええ。ないわ」
 澍煒はちらと私を見たが、合図を送る間もなくあっさり明快に答えてしまった。
「澍煒……!」
「何言ってんの。この男がそこの説明なしに納得するわけないでしょ」
「でも……」
 ナルギーニはにこにこと私を見ている。ちゃんと話してもらいましょうか、と。
 心の中で小さく澍煒を罵って、私はどう説明しようか考えた。
「世界は神界と闇獄界、それに人界、三つに分かれている。それらを造ったのは統仲王と愛優妃……ということになっている。けれど、それなら統仲王と愛優妃はどこから生まれたのか。誰もそんなこと考えもしなかったのだろうけれど、あの二人にも産みの親がいた。この神界はその親が創ったものなのよ」
 ナルギーニは笑みを消して押し黙った。
「真の創世神、ですか」
 ぽつりと呟いた言葉にこめられた感情は、まだ混沌としている。
「信じられなくても当然よ。私だって、直接彼女に会わなければ……彼女の魂と出会うことさえなければ、そんな話信じるわけがない。愛優妃はともかく、統仲王が……父が世界に嘘をつき続けているだなんて、信じたくなんかない」
「どうやって聖様はその方と出会われたのですか?」
 息ばかりが喉元を通過し、言葉を音にするまでにしばらく時間がかかった。
「心が弱くなったときに、囁きが聞こえたの。身体を貸してくれるなら、私の望みを叶えてくれる、と。私はその声に縋ったわ。身体なんてその頃には微熱続きで思うように動かなくなっていたし、胸の発作の回数も増えていた。自分の部屋でベッドに縛りつけられて……想う人にも逢えなくなっていて……。私は彼女と契約を結んだわ。夜、私が眠る間なら彼女が自由に身体を使っていいという条件で。私は彼女の魂を受け入れ、残りの日々を共に過ごすようになった」
「その方はなぜ聖様の身体を欲したんです?」
「自分の身体は統仲王と愛優妃に封印されてしまったから。彼女が神界で自由に動ける身体を欲したのは、まさに統仲王と愛優妃に復讐するためだった。娘の身体を奪い取ることで、願いを叶えると言いながら私を衰弱させ続けることで……」
「では、何故契約を破棄しなかったんです? 破棄などと順を踏まずとも、受け入れたのなら追い出すことも出来たはずでは?」
 そう、それが今、私がここにいる理由。
 九百年もこの世に留まり続けることになった全てのはじまり。
「魂が同化しはじめていたの。彼女の記憶が流れ込むようになって、彼女もそれに気づいて出ていこうとしたわ。けれど……だめだったのよ」
 何故、と聞いても彼女すらその原因が分からないらしかった。
 記憶の共有は増えていく。私たち自身の存在が危うくなるほどに。
「じゃあ、まさか今でも?」
「私は残っていた生きる力全てを使って、死んだわ。死んで、一時的に彼女を封じ込めたの。私の中に。でも……」
「いずれその方は目覚める。最悪、封印した貴女はいなくなる。しかし、貴女は生を終えたのです。摂理を曲げて苦しんでまで、貴女はその方の復讐からご両親を守りたかったのですか?」
「親不孝と詰られるかもしれないけど、それは違うわ。彼女は封じられてすぐに未来を記した〈予言書〉を創った。統仲王と愛優妃がもがきながら大切なものを失っていく未来を記した、ね」
 ナルギーニは息をつめた。
「その手始めが私の身体を手に入れることだったのよ。時空を自由に渡れる私の体は闇獄界と神界を行き来するのに最も都合がよかった。私はね、あの時何があっても彼女の言葉に耳を傾けてはいけなかったの。彼女に縋ってはいけなかったの。逃げちゃいけなかったのよ。……だから、第三次神闇戦争の火種を蒔いたのも、兄さま、姉さまたちを死に追いやったのも私のせいなの。そして、彼女は今度こそこの世界を滅ぼす気でいる。自らも元の身体を取り戻し、統仲王と愛優妃の目覚めと共に否応なく第四次神闇戦争を起こす気でいるのよ。彼らの意向など関係なく、全てを終わらせるために」
 握り合わせた手に額が落ちていく。
「このままでは、私が世界を滅ぼしてしまう。身体を与え、この手を汚し、彼女を目覚めさせ……同化した私の魂が罪を重ねる。それだけは――」
 それだけは何としてでも止めたい。
 どれだけ私が身勝手なことを言っているのか、ナルギーニはよく分かっていることだろう。世界のため、そういいながら私は自分のために二人を殺した。私が更なる大罪を犯すのを恐れて。
「つまりは〈予言書〉の導く結果を変えたいとおっしゃるのですね。そのためにひとたび安息の眠りを得た肉体に魂を呼び戻す、と」
 責めてくれればよかったのに。
 そんな事務的に話を進めるんじゃなく、ちゃんと立ち止まって私を罵ってくれればよかったのに。
 やり方が間違えていると、叱ってくれればよかったのに。
「ええ。小さなひずみでもいいの。でも、そのときに兄さま、姉さまたちが統仲王の側にいてくれるなら、これほど心強いことはないわ」
 ナルギーニは天宮王の顔を崩さない。
「本当は、そんなことになる前に未来を変えてしまいたい。だからちゃんと布石は打つわ。でも、もしそれが失敗した時のために、兄さまと姉さまたちの身体を集めて蘇生の準備をしておきたいの」
「それが本当の理由、ですか」
 第四次神闇戦争。
 もし、その勃発を止められなくても、神界が一方的に負けなければ望みはある。
 私は真っ直ぐ鳶色の瞳を見据えた。
「『世界には闇が残り、闇は全てに滅される。かくして有は無へ還る』この最後の二行が現実のものとならないために、天宮王ナルギーニ、貴方の許しがほしい。天宮地下に七体の法王の柩を移してもよいと。来るべき時には貴方の、あるいは貴方の子孫の手が地下宮を開いてくれると」
 二つ目の頼みを口にしたとき、ナルギーニの顔は僅かに歪んだ。
「各法王方の廟を預かっているのは各国の王です。その方々に話は通しましたか?」
「話したのは貴方がはじめてよ。それに、王達は今今のことでそれどころじゃない」
「しかし――」
「天宮王の血晶石と、各国王の血晶石。違いは何?」
 ナルギーニは発しかけた一度言葉を飲み込んだ。
「天宮王の血晶石は統仲王様の血と我が先祖、一代目マルナートの血とを分けあって成されたもの。各国王の血晶石は精霊王と法王の血から成るもの」
「そう。天宮王の血晶石は王座と引き換えに継いだ者の命を蝕む。国王の血晶石は命はとらない。ただ王の証と精霊の守護を与えてくれるだけ」
 私は胸から、先刻、聖刻王ファリアスから奪い取った聖刻王の血晶石を取り出し、手の平に乗せた。半透明の琥珀のような輝きは、禍々しいほどに赤い天宮王のものとは根本から違うものを思わせる。
「私もはじめ天宮王の血晶石の話しを聞いたとき、命を吸い取るなんて、統仲王もなんてひどい枷を課したのだろうと思ったわ。でも、結局今、そのおかげで天宮だけが九百年余りもの間、変わることなく王自身に害されることなく善政が敷かれてきた。魂そのものを失う子孫にせめて残せるものはゆるぎない平和だけだから、あなた達は堅実に神界を支え続けてきた。貴方もそうでしょう、ナルギーニ?」
 ナルギーニはゆっくりと視線を落としていった。そして、何かを抑えこむような低く静かな声で訊ねた。 
「貴女が法王方の命の摂理を曲げること自体、その方の意思である可能性はないのですか?」
「それは……ないとは言い切れない。眠らせてはいても、私は彼女の力を利用できた。私たちはもはや魂を通じて互いに影響を与えあっているのよ。だから、私の考えていることすらどこかに彼女の思惑が入り込んでいないとも限らない。でも、法王の復活までは〈予言書〉には記されていないの。そもそも、私と魂が同化を始めることすら彼女の予定外のことだったのよ。時は揺らいでる。未来は違う方へ向かっている。……確信がほしいの。拭い去れない不安を確かな未来で補っておきたいの……!」
 ナルギーニはしばらく私をおぼろに見つめ、考え込んでいた。彼にしては珍しいほど長く。
 やがて、ナルギーニは左右にゆっくりと首を振った。
「お受けいたしかねます。天宮王は統仲王様から託された血晶石で統仲王様と天宮、ひいては神界を守るのが務め。他国の王の権限を侵してまで聖刻法王の意に従うことは出来ません」
 ナルギーニの目はもはや思索の森に迷ってはいなかった。
 これが彼の出した結論。
「そう。私の方こそ無駄な時間を取らせてしまったわね」
 私はおかわりのポットに手を伸ばそうとしていた澍煒を促してソファから立ち上がった。
 聖刻城に行かなければ。廟が暴かれてしまう前に、この証を以って五十三代目の聖刻王として即位してしまわなければ。
「お風呂、貸してくれてありがとう。とても気持ちよかったわ」
 私なら、たとえ天宮王の許しがなくても地下宮には自由に出入りできる。
 ただ、協力者がほしかっただけだ。諸手を挙げて賛同してほしいとは言わない。許してくれる人がほしかった。
「お待ちください、聖様。貴女のことです。私の同意などなくてもどうせ貴女は地下宮に法王方の柩を集めるおつもりでしょう?」
 振り向くまでもない。
 ナルギーニは笑っていた。
「廟に納められた柩の中の法王は、千年を目前にして朽ちることなく若い姿を保ったままだとか。かといって髪が伸びているわけでもない。神の血とは不思議なものだ、とはどこぞの口の軽い王が即位した時にもらした話ですが、さて、聖様。そのようなこと、本当にありえるのですか?」
 私に答える言葉はない。
「第三次神闇戦争終結後、すでに身体を失った貴女は澍煒様の力を借りてご自分と、七つの廟を回って法王の亡骸とに時を止める魔法をかけた。神の血を引く身体なくしては蘇生などという大それた魔法は使えない。死んだまま肉体の時を止めるのが、貴女と澍煒様がその時できた精一杯のことだった。なにより、肝心の法王方の魂もとうに輪生環をくぐって散り散りになってしまっていたから」
 私はため息混じりに付け足した。
「局所的に八体の身体の時を止め続けるのは至難の業。澍煒にはもう神界内を〈渡る〉力さえ残っていなかったわ。だから、私は待つことにしたの。澍煒が回復し、私が新たな肉体を得られる日が来るこの時を」
「それだけじゃないでしょう? 〈予言書〉には記されているのではありませんか? そう遠くない未来、法王の魂が再び一堂に会す日が来ることが」
 私は振り返っていた。
 少し見上げた先、鳶色の瞳が憐憫と諦観とをないまぜにしたような色を湛えて私を見下ろしていた。
「確かに天宮王としてはお引き受けできませんが、私ならば……僭越ながら、長年聖様の茶飲み友達として友誼を深めていただきましたこのナルギーニならば、この天宮に住まう者として多少なりともお力になれるかと」
「ナルギーニ……」
「私に頼んではいただけませんか? 聖様」
 どうして、この人はこんなずるいことを言い出すのだろう。
 どうしてこの一族は――
「やっぱり貴方もマルナートの血を引いているのね。マルナートが統仲王から血晶石を受け取ったときも、そんなことを言っていたわ。天宮王という職のしがらみにはしたくない。ただ、友人として受け取るのなら後代も文句は言っても理解してくれるだろう、とね」
「同感です」
 その昔、本気で統仲王を殺しかけたナルギーニは苦笑した。
 私も思わず笑む。が、すぐに口元から笑みを掻き消した。
「私のしたこと、しようとしていること、決して誉められることじゃないわ。大口叩いても、自分のためなのは否めないもの。軽蔑しないの?」
「理由があり、相応の報復は覚悟なさってのことなのでしょう? であれば、私は軽蔑などいたしません」
 理由と報復。そんなもの、いくらあったって事実は消せない。
「ありがとう、ナルギーニ。これから何日間か〈渡り〉で地下宮に出入りするでしょうけど、目をつぶっていてもらえるかしら」
「ええ。当面は新たな聖刻王の即位式やら迎賓の準備などで忙しいでしょうから、地下宮にまで神経を割く暇なんか私にはありませんよ」
 さっきまでの有能ぶりは影を潜め、のんびりとナルギーニはそう言った。
「但し、法王方の身体に時を与えるときには、私にも同席させてくださいませんか? 私にもそれくらいの権利はありますでしょう?」
「……わかったわ」
「それともう一つ」
 付け足そうとしたナルギーニは一瞬言いよどんだ。
「もし私よりも先に聖様が旅立つようなときは……」
 この男、かいつまんだ私の話からどれだけのことを知ってしまったんだろう。〈予言書〉の存在すら知らなかったはずなのに。
「輪生環へ向かう前にもう一度貴方のお茶をいただきに来るわ。私たち、二十年来の茶のみ友達ですものね」
 私が頼むまでもなく、澍煒はすでに聖刻城への扉を開いて待っていた。
 ナルギーニはそれを確認し、泣きたくなるほど深い慈愛のこもった微笑を零して深く頭を垂れた。
「お待ちしています、聖様」
 彼に転生の未来はない。
 そんな運命を課した統仲王が、〈予言書〉を書いた彼女が、たまらなく私は憎かった。



←第1章(2)  聖封伝  管理人室  第1章(4)→