聖封神儀伝・0 記 憶 の 扉
第 1 章  侵  食

 2

「……き、消えた……?」
 講堂の中はまだ真っ黒なまま、声と人の気配だけがそっくり抜き取られていた。
 扉の向こうに広がるのは、ただ茫漠とした暗闇。
 講堂なんて狭い空間を優に超越した異空間。
 闇は充満しているのか希薄なのか、ぱっと見にはわからなかった。
 わたしは、手を伸ばしていた。
 引き寄せられるように、おそるおそる闇の中へと手を差し入れる。
「ひっ?」
 陶器のように冷たい手が闇の向こうでわたしの腕を掴んだ。
「助けて……」
 どこからか聞こえるかすかな声は掠れ、大きなうねりのようなものに飲み込まれて消えた。
「いっ、きゃぁっ」
 長い爪が獲物をいたぶるようにゆっくりと食い込む。
「掴まえた。もう逃がさないわよ……おいでなさい……」
 女の人の声だった。
 姿は見えない。気配もない。なのに、恨みこもった悲しげな声だけははっきりと聞こえてきた。
「いやぁっ! 誰か! 桔梗! 葵!」
 お化けだ。幽霊だ。
 真昼間から?
 だって向こうは真っ暗だ。
「助けて!」
 叫ぶうちにも、わたしはずるずると腕から肩口まで暗闇の中へ引っ張り込まれていた。
 桔梗はどこへ行ってしまったんだろう。
 葵は? 葵はこの中で? どこに消えてしまったの?
 腕が痛い。
 引っ張られている腕に食い込んだ爪が痛い。
 こっちに留まろうと必死にドアの縁を掴むもう片方の手が痛い。
 上半身が引き裂かれそう。
 痛みにぎゅっと目をつぶった瞬間、体中にしっとり冷たいものが巻きついた。
「な……に?」
 おそるおそる目を開けたその先、わたしに絡み付いていたのはうなぎのように黒光りする数多の触手だった。
 思わず脱力した瞬間、わたしは闇の中に一気に引っ張り込まれた。
「樒ちゃん!」
 向こうに残った手を掴んで叫んだのは桔梗。
「桔梗! 桔梗! 助けて、桔梗!」
 闇の中、声は下へ下へと落っこちていく。
「そうはさせない」
 黒い触手の合間、思いのほか間近からあの声が聞こえてきた。
 闇から生まれ出るように白い顔が現れる。
「あ……なたは……」
 闇に溶け込む漆黒の髪に縁取られた顔は、ついさっきトイレの鏡に映った顔と瓜二つだった。
 黒髪と青藍の瞳とに統一された瞳の色以外は。
「ようやく逢えた。探したのよ、聖刻法王」
 こういうの、なんていうんだっけ。
 そう、蛇に睨まれた蛙。
 鼻と鼻がくっつきそうなほど顔を近づけられて、わたしの体はすっかり固まってしまっていた。
 幽霊だ。
 夢の中の人物とばかり思っていた人が、目の前でなにやら喋っている。
 わたしにはそんな感覚しかなかった。
「早く貴女の魔法石をちょうだい。でないと、私たちはもう支えきれない。壊れてしまう。全て壊れてしまう!!」
 壊れてしまいそうなのはわたしのほうだ。
 夢に出てきた怖い人に体中、息もできないほど抱きしめられて、左手は助けようとしてくれている桔梗に引っ張られて。
「た……すけて……」
 だが、女は震えた唇が紡ぎだした言葉に逆に眉を逆立てた。
「助けて? 私たちがそう言ったとき、貴女は私たちの言葉など無視したでしょう? いつまで知らないふりを通すつもりなの?」
 あの時の二人だ……!
 二人――聖刻王ファリアスと侍女ユーラ。
 なぜ、二人の面影が見えたのかは分からない。
 あるいは、知っているのかもしれない。
 知っている?
 誰が? わたしが? 
「ううん、わたしは知らない」
「知らない? これは貴女がはじめたことなのよ、聖刻法王!」
 ほら、また知らない名前でわたしを呼ぶ……
「聖刻……法王……?」
 そう、彼女が知っている。
 彼女なら、この女が何なのか知っている。
「樒ちゃんっ!!」
「樒ーーっ!!」
「桔梗、それに……葵?」
 内なる深い闇におちそうになったわたしを掬い上げたのは、わたしを呼ぶ二人の声だった。
「葵?! 葵も無事なの?!」
「おう、無事だ! だから、早く上がって来い!」
 ぐい。
 関節が外れなかったのが不思議なほど、新しく加わった手によってわたしは力いっぱい引き上げられていた。
 白い顔の女は深い闇の水底で小さくなっていく。
「どうして……」
 絶望に満ちた女の声だけが耳元まで追いすがり、そして消えた。

「樒ちゃん! よかった、無事で……」
 眩しさに目が慣れないうちに、わたしは今度は桔梗に抱きしめられていた。
「無事ってわけでもないだろ。見ろよ、この腕」
 葵は右手を掴みあげて、痛ましげに爪痕から流れ出る血を見つめている。
 講堂があったはずの扉の向こうには、青空と高層ビル群の頭が中途半端な切り取られ方をして見えていた。
 太陽ばかりが斜めに差し込んできて、じりじりと現実的な音をたてて肌を焼き焦がす。
「かわいそうに。痛かったでしょう?」
「……うん」
 確かに痛かった。
 痛かったけれど、痛かったのはもっと別のところ。
 こんなに明るい日の下にいるのに、寒々とした暗い淵のすぐ横に座り込んでいる気がしてくる。
 わたしはいつかあの淵に落っこちる。
 そしてわたしは水底に取り残してきてしまった彼女と、嫌でもまた顔を合わせることになる。
 嫌な予感だ。
 外れてくれればいい。
 そう思うのに、嫌な予感ほどよく当たる。
「結構深いな。化膿しないうちに消毒しちまわないと」
「そうね。保健室、やってるかしらね」
 水飲み場の蛇口をひねって出てきた泥水に桔梗は首を振った。
 それを見て葵はポケットから自分のハンカチをひっぱり出す。
「さあ? この騒ぎじゃ保健室もどうかしちまってるかもな。ま、消毒液さえみつかれば あたしがやったげるよ」
「葵ちゃんは保健室の常連さんですものね」
「うっさいな。役に立ってんだからいいだろ」 
 女子高生にもなって生傷が絶えない、そう揶揄された葵は桔梗に対する口調こそぞんざいだったが、吸血鬼に噛まれたような痕が残るわたしの腕には丁寧にハンカチを巻きつけていった。
「葵」
「ん?」
「葵、講堂の中にいたんじゃなかったの?」
「うーん、うん。それが……トリップ? してた」
「え? トリップ? どこに?」
「森?」
 自分で言って葵は苦笑している。
「講堂に入ろうとしたらいきなり揺れてさ。で、いきなり目の前の景色がねじれて、引っ張り込まれたって思ったら森の中にいたんだ。そんな長い間じゃなかったんだけどね」
 申し訳ないけれど、わたしは回想する葵を凝視してしまっていた。
「葵ちゃんには会わなかったけれど、私も引っ張り込まれたわよ。視界がこうぐにゃ、ってねじれるのよね」
 水のかわりに、なぜか掃除用具入れからモップやら柄の長いブラシやら座敷箒を持ち出してきた桔梗が珍しく葵を庇った。
 たちまち葵は嬉しそうに顔を上げる。
「そうそう!! 戻ってくるときも同じだったよな」
「じゃあ、さっき桔梗がいなくなっていたのは……」
「私は江戸時代のセットみたいなところに立っていたわね。お魚売りの坊やとか籠を担いで走り去っていく人たちとか、刀を腰に差したお侍さんとかとか。みんな着物着て歩いてるんだけど、やけに変な目で私を見ているのよ。お魚売りの坊やには『その格好、変』って言われちゃうし」
 桔梗は不服げにそっと制服のスカートの裾を摘まむ。
「確かに時代劇のセットの中に制服の少女が混じってちゃおかしいでしょうけど、あの反応、この格好が学校の制服だってこと自体を知らないみたいだったわ」
「人に会ったんならまだいいじゃん。あたしなんか恐竜にでくわしたんだぞ。ウルトラマンにでも出てきそうないかつい顔したおっきな奴。でも、足元にミニチュアセットあるわけでもないし、カメラもないじゃん? そしたらがばぁって犬歯の並んだ口、目の前で大きく開けられてさ……」
 ふわり、と生臭い風が頬を横から撫でていった。
 わたしは風の来た方を振り返る。
「ねぇ、葵、それって、こんな感じ?」
 凝固したままわたしは尋ねた。
 五人並んで楽に歩ける廊下いっぱいに、大口を開けた巨大爬虫類の顔が詰まっていた。
「わっ。そうそう、こんな感じ。いやぁ、よく出来てんなぁ」
「って、そんなわけないでしょ!!」
 大きく開いた口の中に、柄の長いブラシが桔梗の手で縦のまま押し込まれる。
「ジュ、ジュラシックパーク?」
「本物よ! 本物!! 逃げるわよ!」
 蒼ざめた桔梗がわたしと葵の手を引っ張った。
 葵はとっさに残っていたモップと座敷箒を拾い上げ、座敷箒をわたしに投げ渡す。
「これ、どうすれば?」
「たとえば、こうっ」
 桔梗の手を振り切った葵は、にやりと笑って踵を返す。
「葵!」
 振り返った先、枯れ木を折るような音がしてブラシは数多の牙の中に消えてしまった。
 その口を閉じた一瞬に、葵は恐竜の顔めがけてジャンプしていた。飛び上がりざまモップを振り上げ、渾身の力で柄頭を下に眉間に突き立てる。
 短い沈黙。
 直後、強風と共に耳を劈くほどの咆哮が轟いた。
「うそ……効いたの?」
 両耳を押さえながら、一度あまりの強風に背けた顔を廊下の奥、恐竜のいた方へと向けなおす。
 何も、いない。
 消えた講堂のあと、四角く切り取られた廊下の形に切り取られた高層ビル群の頭と暑苦しいほど青い青空。
 だが、すぐに巨体が地面に打ち付けられる重々しい音と地響きが続いた。
「葵?! 葵は?」
「た~すけて~」
 間抜けな声が青空の向こうから聞こえる。
「樒ちゃん! 来て! 早く!」
 葵の声に反して、廊下のきわで腹ばいになっている桔梗からからは切羽詰った声が聞こえてきた。
 慌てて私は桔梗の元へ駆け寄る。
 青空に投げ出しているように見えた桔梗の両手は、葵の左手と手首を精一杯握っていた。
 葵の体は風に吹かれてゆらゆら揺れる。
 わたしは、かろうじて床に爪を立てている葵のもう片方の手を掴んだ。
「樒ちゃん、いくわよ。せーのっ」
 引き上げるのは思いのほか大変だった。
 暑くて噴き出す汗と、四階の高さから葵を落としては大変だという冷や汗とで手のひらはどんどん汗ばむ。
 それ以上にわたしは混乱していた。
 高さと、暑さと、眩しさと葵の危機に。
 なにより、眼下で校庭の木々をなぎ倒して横たわる恐竜の巨体に慄いていた。
 もしまたあれが目覚めたら?
 胸まで引き上げると、葵はあとは自力で床の上に這い登ってきた。
「はぁ~。あぶなかったー。あいつ、校庭に立って顔だけ廊下に突っ込んであたしらのこと覗き込んでいたのな」
「葵ちゃん!!」
 両足を投げ出して安堵のため息をつく葵に、桔梗は怖い顔で迫った。
「あんな無茶なことはもうしないで」
「無事だったんだから……」
「心配したんだよ?!」
 わたしも、つられるように葵に迫っていた。
 さすがの葵も一瞬怯む。そう、怯みはしたもののすぐににんまりと笑んだ。
 大きな手が伸びて、わしゃわしゃとわたしの頭をかき撫ぜる。
「ごめんな、樒。それに桔梗」
「なぁに? 私はつけたしなの?」
「樒が心配して怒ってくれたんだぞ?」
「葵……反省してくれないの?」
 へらへら笑う葵に私はそのまま苛立ちと不安をぶつけていた。
 すぅっと葵の顔から笑みが消えていく。
 階下からは、再びたくさんの悲鳴。逃げ惑う足音。得体の知れない獣の鳴き声。大きな震動。
「西講堂では二年生が夏期講習してたはずよね」
 西講堂はここと同じ階、三年の教室六クラスとリラックス・ルームを挟んで向こうにある。
「あの悲鳴の量じゃ、半分も校舎に残っていないな」
 ここは、もう学校じゃない。
 冷静に見交わす二人の間で、わたしは呟くことしかできなかった。
「ねぇ、どうなってるの? 人が消えたり、黒い闇が出てきたり、恐竜まで出てくるなんて……。夢? これって夢なの?」
 葵はちょっと考え込んだ末、わたしの頬を軽くつねった。
「いたた」
「夢じゃない、と」
「葵!!」
「ふざけたわけじゃないよ。確かめたかっただけ」
「ふざけたんじゃんっ」
「まぁまぁ、樒ちゃん。考えてもごらんなさい。三人が三人、同じ夢を体験するなんて、そう簡単にあることじゃないでしょう?」
「現代に恐竜が出現するのだってそう簡単にあることじゃないよ」
「三人で同じ夢って方が、まだ確率高いかもな」
 「葵ちゃんまで」と桔梗は苦笑したが、すぐには反論を思いつかないらしい。
「とりあえず、ここから出ましょう。こんなことになっているのはこの学校だけかもしれないわ」
 ここだけ。
 この学校だけがおかしなことに巻き込まれている?
 なぜ?
 そんなことはどうだっていい。
 助かりたい。
 生きて、ちゃんと現実に帰りたい。
 あんな怖い思いはもうしたくない。
 この学校の外に出れば――
「行こう」
 わたしは勢い込んで立ち上がった。
「早く帰ろう」
 これは、夢だ。
 葵につねられたほっぺたにはまだ指の感触が残っているけれど、夢と思ったほうが何とかなるような気がしてくる。
 数学の授業途中から見はじめたあの常識はずれの怖い夢の、これは続きなのだ。
 桔梗と葵がこんな状態なのにやけに落ち着いて見えるのも、夢だからだ。
「ええ、帰りましょう。そうと決まったら、はい、葵ちゃん」
 桔梗は再び用具入れから新たにモップとブラシを取り出し、モップを葵に、拾い上げた座敷箒をわたしに渡した。
「護身用の武器はあるに越したことはないわ」
「えっ、箒が武器?」
「素手で戦うよりはいいでしょう?」
 桔梗はにっこり笑ってブラシ箒からブラシの部分を取り外してしまった。
 残ったのはちょっと細くて頼りないが木刀に見えなくもない。
「桔梗、あんまり部活行ってるの見たことないけど、剣道部だっけ」
「ええ。最近忙しくてあまり部活にはいけてないけれど、これでも結構強いのよ」
「忙しいって、近所のガキのお守りで?」
「あら、葵ちゃん余計なことを知っているのね」
「だてに保健室の常連やってないんでね。……このモップ、経験値積めばレベルアップするかな」
 葵の方はモップを分解する気はないらしく、とりあえず軽く振り回してみたり埃を落としたりしている。
 わたしのは花柄模様の赤いビニルカバーのついた座敷箒。
 薄抹茶色の藺草を束ねた細い毛先は床についただけでしなやかに曲がる。これではお世辞にも強力な味方とはいえない。
「桔梗、わたしもモップかブラシに……」
「樒の細腕にモップは重いだろう」
「樒ちゃんの運動神経じゃ、ブラシ持っても当たらないんじゃないかしら。急所だって分からないでしょう?」
「う゛っ。でも……」
「その座敷箒なら軽いし、巨大平手打ちってかんじで当たりもいいかと思って」
「なーに、大方あたしらで片付けちゃうんだから問題ないだろ?」
 この二人、もうこの環境に馴染んでる?!
 潔い二人が顔を見合わせたとき、背後から強い風が吹き付けてきた。
 大きな羽ばたき音。
「鳥?!」
 また、あの四角い空からだ。
 一、二、三頭。
 カラスや鶏しか見たことのないわたしにとって、その大きさは恐竜と形容したくなるほどの大きさだった。事実、鳴き声はさっきの恐竜と同じく肉食獣じみている。
「桔梗!」
「行くわよ、葵ちゃん」
 頭を抱えてしゃがみこむわたしとはうってかわって、桔梗はどこか楽しそうな笑みさえ浮かべて飛び来る巨鳥の頭めがけてブラシの柄を打ち下ろす。そして、桔梗の脇に構えて
いた葵がゴルフの要領で落下する巨鳥をモップで空へと打ち飛ばす。
 狙ったのか否か、襲来しかけていた二頭目は飛ばされた一頭目に巻き込まれて外へと消えていった。
 三頭目も同じ要領であっという間に真昼のお星様になる。
「あ、あっちって都心だっけ? 飛ばしちゃったけど大丈夫かな」
「むしろ異変に気づいて助けに来てくれるかもよ?」
「なーる。じゃ、いっか」
 いいのか、本当に……。
 違う意味でどっと疲労が蓄積する。
「大丈夫? 樒ちゃん」
「え、ああ、うん。わたしはぜんぜん平気なんだけど、桔梗と葵、適応するの早いね」
 二人はまた顔を見合わせ、一斉に口を開いた。
「待て、樒。あたしをこの腹黒い脳みそお化けと一緒にするな。仮にもあたしは現実主義者だぞ? こんな状況に適応できてるわけないだろう? ココロだってあたしの方がどう考えたって桔梗より繊細だ!」
「樒ちゃん、私をこの腕力だけが取り得の剛腕少女と一緒にしないでくれるかしら。いくら毎日鍛えているからって、このモップであの巨鳥をお星様にしちゃうくらい飛ばすなんて女子高生業、もとい、人間業じゃないわ。こんな子と一緒にいて私が平気なわけないでしょう?」
 二人いっぺんに言いたい放題言うだけ言うと、二人は同意を求めるようにわたしを見た。
「つまり、二人とも毎日が普通じゃなかったからこれくらいは日常の範疇だ、と……」
 苦し紛れに開いた口から出たのは、炎の舌を呼び寄せる油のようなものだった。
「みーつーきー?」
「それはどういうことかしら?」
 わたしより背の高い二人から凄みたっぷりに見下ろされてわたしは縮こまる。
「えっと、その、ごめん……」
 誰か助けてー。
 冗談交じりにそんなことを思ったときだった。
 地面を叩くような震動に、ふわり、体が浮き上がった。
「きゃぁぁぁぁっっ」
 体はごろごろと転がって廊下の壁に叩きつけられる。
 それは、今さっきまで元気にけんかしていた桔梗と葵も同じだった。
「校舎が斜めになってる……?」
 そう思った瞬間、頭上の窓を突き破って鋭い爪が頭をかすめて校内へ侵入してきた。
 ガラスの破片がきらきらと舞う。
「樒ーっ」
 悲壮な葵の悲鳴。
 座敷箒を傘代わりにかざしてわたしは少し上を見上げる。
 割れる蛍光灯。
 大小のかけらとなって落ちる天井。
 あらわになった鉄筋は悲しげにひしゃげて、桔梗と葵の上に落ちていく。
 悲劇の瞬間は、ゆっくりと訪れる。

 わたしは、何度こんな瞬間に居合わせることになるんだろう。

 だから、貴女はこの力を欲したの?

「時よ……」
 そんなのは嘘だ。
 これは、夢。
 目が覚めれば全て忘れる。
 必ず忘れられるというのなら、桔梗と葵を助けられるというのなら、わたしは――
『時の精霊よ
 時を刻みし者達が生まれ出る石を預かりし 聖なる者よ 
 我 聖刻法王の名において命じる
 未来へと流れし時の流れを堰きとめよ
 我が吐息 途切れし時まで 時産む石に休息を与えん』
 わたしは、貴女の記憶を引き受けてもいい。
「停止」
 ずるいのは分かっていた。
 受けとめられる覚悟も器量もないことだって、分かっている。
 わたしは、まだ逃げたいと願っている。
 夢に、現実に、手を替え品を替え忍び寄る貴女から、わたしはまだ逃げられると思っている。 
 崩れかけるまま、空中で動きを止める鉄筋とコンクリート。
 茫然と頭上を見上げる桔梗と葵。
「レリュータ……」
 時を止めたその一瞬の景色に、なぜか闇の底に残してきた女の顔が浮かんだ。
 


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