聖封神儀伝2.砂剣
◆幕 間◆
カチ コチ カチ コチ。
ちぇっ、食堂中に秒針の音が響いてやがる。向かいの席に着いた奴の声が聞こえるかどうかも怪しいようなでかい長方形のテーブルの短辺に座って、手が届かないほど遠くまで置かれたごちそうを前に、俺様はフォークとナイフを手にしたまま口をへの字に引き結んでいた。
どれから食おうなんて気にもならない。どれもうまそうに見えない。いや、料理作ってくれた奴の腕が悪いって言ってんじゃねぇんだ。どう見たってこのテーブルに載ってんのは一級品だ。俺様のような見た目年齢若干九歳のお子様の口にはもったいないくらいの、な。到底この小さな胃袋に入るわけないじゃないか。
あーあ、母上の手料理が食いたいなぁ。こんなにたくさんでなくていいんだよ。焼きたてのふわふわパンとコーンポタージュとひき肉のキッシュにほうれん草と人参のあっさり塩炒め添えとか、そんなんで充分なんだよ。んでデザートに洋梨のコンポートとかあれば最高だな。
俺様が食いたいのはさ、家庭料理なんだよ。こんなごてごてしい、どこから手を付けたらいいかわかんねぇような油と肉だらけの十数人分の料理じゃねぇんだよ。
そりゃあさ、母上だって毎日毎晩手料理ふるまってくれたわけじゃねぇけどさ、少なくとも神界にいるときは飯は一緒だったもんだぜ? あのバカ親父だって母上に言われて飯だけはできるだけ一緒に食うようにしてたんだ。だってのによ、八歳の誕生日に鉱土宮に住むようになってからというもの、俺様の飯の時間はたった一人っきりになっちまった。食堂の両壁にずらっと給仕たちが並んでさ、一体小さな俺様一人にどれだけ手をかけるつもりなんだってイライラしながら、それでも残さず食べるように頑張ったけどさ、そもそも物理的に無理なんだよ。三日目には腹壊して俺様は寝込んだね。壁にいる別嬪さんに話しかけてみたこともあったけど、執事長のマーベルに「食事中に無駄話なさるとは何事です」とかなんとか言われてさ、愛想よく返事してくれたその別嬪さんも次の日から来なくなっちまった。
来なくなっちまった別嬪さんはそれだけじゃねぇ。やっぱ飯時は誰しも腹時計が知らせるもんだろう? そんときにはマーベルに頼み込んで両壁の給仕さんたちを片壁だけにしてもらうことに成功してたんだけどよ、そのうちのそばかすのまだ十代半ばくらいの女の子がぐぅぅなんて腹鳴らしたんだよな。この通り時計の秒針の音が硬質に響く食堂だ。もうばっちり俺様の耳にも届いちまって。でも俺様はしめたと思ったんだ。
『なぁ、腹減ってんなら俺様と一緒に食わねぇ? 俺様だけじゃこの料理多いからよ。みんなもどうだ? もういい加減型っ苦しいのはやめにしようぜ』
そばかすの女の子、名前は確かミアって言ったっけ。恥ずかしそうに顔を赤らめて首を振ってさ、なおも俺様が席を立って迎えに行こうとしたら、マーベルの奴、ミアに平手打ち喰らわせて食堂から追い出したんだ。
『失礼いたしました、鉱土法王。しかし、わたくしたち庶民が法王様と同じテーブルに着くわけにはまいりませんので』
ってこれまた堅苦しいこと言ってさ。
ミアもそれっきり鉱土宮からいなくなっちまった。
それだけじゃねぇ、それ以来、俺様が食事中、何を話しかけてもだれも答えなくなっちまったんだ。それどころか、話しかけられた奴は男も女もびくっとふるえて肩をそびやかし、ぎゅっと目をつぶって身体をカチコチにしてさ、直立不動で俺様の言葉の嵐が通り過ぎるのを耐え忍んでいるわけ。初めは何とか笑わせようと面白いこと言って、それなりに小っちゃく肩が震えてるのを見て楽しんだりもしてたんだけどよ、そいつらも来なくなっちまって、ますます給仕たちは石像のようにただ突っ立ってるようになってさ。俺様がスプーンやフォーク落っことしちまったときだけ機械的にがくがくと動いて床から拾い上げていくんだよな。それももう、何か粗相があったらどうしようってな具合でさ。んなこと俺様は気にしねぇのに、むしろみんなでワイワイガヤガヤいろんな話しながら飯を食いたいのに、ぜーんぶ執事長のマーベルが潰しちまった。
この宮では俺様が一番偉いはずなのに、俺様が小さいばっかりにマーベルはちっとも俺様の言うことを聞いてくれないんだ。飯の量だって減らしちゃくれねぇ。「法王様にお出しする料理が貧相なものであってはなりません」とかなんとか言って、厨房にとりなしてもくれないんだ。毎日どんだけの貴重な食料が捨てられてるのかと思うとうんざりするぜ。ああ、もちろん俺様だって厨房に掛け合いに行ったんだぜ? でも、入った途端に料理人どもはさぁっと青ざめて、「申し訳ございませんが、マーベル様にきつく言われておりますので」って、先手打たれてたってわけだ。
カチ コチ カチ コチ。
ああ、もう何回この音聞いたかな。何回聞き終わったらここから出られるんだろう。
カチ コチ カチ コチ。
外に、行きたいな。
勉強も飽きたし、政治も俺さまがいなくったって宰相のカルファがしっかりやってくれてっし。はっきり言って俺様ここにいる意味なんもねぇんだよなぁ。
とりあえず手元の子羊のローストにフォークを刺して一口切り取って口に入れる。香草の香りと癖のある肉汁の旨みが岩塩に引き出されてじゅわりと口の中に広がる。
一度何か口に入れると、胃袋は素直に次を求める。
そうだ、食わないと。ある程度食ってやらないと、厨房の奴らがマーベルに怒られるんだ。
がっついて、すぐにこってりした味に飽きて、胃袋の半分も埋まらないうちに俺様は葡萄の房に手を伸ばす。一粒もぎ取って口の中に入れるとこれまたじゅわっと口の中に甘い汁が広がった。これだけはいつもやめられねぇんだよな。マーベルもわかっているのか葡萄だけはこの季節必ずテーブルに載せてくれる。ほっとする。何にも加工されていない味。天宮で母上と食べた葡萄の味とおんなじだ。
『いつまでも母上恋しいでは困るのです』
何度も何度もマーベルに言われた言葉だ。
分かってる。でもよ、俺様はお前らよりも長く生きてはいるけど、身体も心の成長も見た目通り基本ゆっくりなんだよ。時間が長い分無駄に経験がついて性格は歪んでいくけどよ、さみしいもんはさみしいんだよ。
十歳までは手元において育ててたはずなのにさ、つうか、炎姉貴の幼い頃までは家族六人みんなで結構でかくなるまで一緒に暮らしてたっていうじゃねぇか。それが麗兄貴の時から十歳で魔麗城に出されるようになり、俺様はいろいろ忙しいとかで八歳でポイ。そりゃねぇよ。いくら母上が闇獄界との行き来で忙しいからってさ、俺様いい子で留守番くらいいつまでだってできるのに。
それでも後見役の炎姉貴がちょくちょく隣から押しかけてきてくれる時は、一人で飯を食わなくて済んでるんだけどな。でもそれだって二、三か月に一度か二度程度のものだ。もちろんすぐ上の麗兄貴は極北に引きこもってるからこんな熱い南国まで来るわけがない。むしろ俺様の存在を認知しているかどうかすら怪しい気がする。天宮の会議とかにも代理の禦霊しか来ないし。この間だって海姉貴の誕生祭に久しぶりに現れたかと思ったら、「お前……」って訝しげに眼を眇めて、明らかにそのあと「誰だ?」をつけようとしたからな。俺様だってあんな奴、顔を忘れちまいそうだ。
「ごちそうさまっ」
逃げるように俺様は椅子から飛び降り、出口へと急いだ。
壁に並んだ給仕たちは人形のようにまっすぐ遠くを見つめたまんま微動だにしない。
「ふんっ、つまんねぇの」
吐き捨てて外に出る。
回廊をどすどす歩きながら、俺様は一人で自分の部屋に向かう。いや、後ろから監視代わりのマーベルがくっついてきていることくらい分かっているが、もうあんな奴無視だ、無視。
マーベルは天宮にいた時は母上の信頼厚い、それこそ天宮の執事長だった。天宮の内務のことを取り仕切り、俺様たちの生活に不自由ないようにいろいろと取り計らってくれていたんだ。まあ、思い返せばあの頃から一度も笑顔なんて見たことがなかったが、こんなに嫌な奴でもなかったんだよ。母上がいたから嫌な奴だって思うくらい身近じゃなかったってのもあったんだろうけど。
八歳の誕生日、母上は天宮の執事長だったマーベルを俺様につけて鉱土宮に送り出した。マーベルがいれば全部大丈夫だから。笑顔でそう背中を押されたのを今でも昨日のことのように覚えているが、母上はきっとマーベルの本性を知らなかったんだろう。マーベルは俺様のことを法王様だから大切にしなければいけないとか言ってるが、一人ぼっちの食事のことも一日中監視してることも、きっと自分が俺様のせいで天宮から鉱土宮に都落ちさせられた憂さを晴らしてるからに違いねぇ。
おとなしく部屋に戻り、部屋の蝋燭に明かりを灯し、分厚いカーテンを閉める。
扉の向こう側をカツコツカツコツと何事もなかったかのように通り過ぎていくマーベルの足音を確認して、俺様は暖炉の薪の下から薄汚れた着替えを引っ張り出す。埃にむせながらそれを着込んで、顔に炭の粉を適当に塗って、窓から飛び降りる。こんな時、自室が一階にあてがわれてよかったと胸を撫で下ろさずにはいられない。そうでなきゃこんなとこ、こんなに長くいられるものか。ただし、法王様のお部屋だからな、鉱土宮の中では最深部にあたる。うまく宮中の見張りを躱して、木に登りそこから枝伝いに低い城壁に飛び乗って宮殿を出なきゃならない。一度でも見つかったらもう二度とこのルートは使えないから、行くときは慎重だ。
ちなみに俺様は鉱土法王なんて名乗っちゃいるが、土の魔法はからっきし使えない。ああ、もう気持ちいいぐらいに何にもできない。兄貴たち姉貴たちが持っている魔宝石とかって奴も俺様にはない。なんでも時が来れば精霊王って奴が契約しにくるっていうが、みんなその時はバラバラらしい。焦ったってしゃあないからな、俺様は至って普通に堂々と法王様面して鉱土宮の中を歩いているってわけだ。一応魔法の勉強はさせられているが、やったことのないことは何一つ覚えられない俺様の頭だ。底の抜けた桶に水を注ぎ続けるくらい無駄なことの一つだ。
「ほんと、法王って無駄が多いよな。格式だか形式だかしらねぇけど、んなもん俺様にゃぁ必要ねぇっての」
無駄っていやぁ、命も無駄に長いよな。時間だって有り余るくらいあるし、成長するのに時間かかるし。あーあ、早く大人になんねぇかな。
城壁から飛び降りて丘を滑り降り、薄暗い路地をくねくねと行った先にある居酒屋が、俺様の最近のお気に入りだ。初めは宵の終わりにちびっこが飛び込んできたと大騒ぎになったが、深緑色のぼろを着た見ず知らずの金髪の男が勝手に自分の連れってことにしてくれて、さらに今後は一人でも来るかもしれないけどよろしく、とか言ってくれちゃって、それ以降、俺様は夜に宮を抜け出してきたときはここにきている。店のカウンターの隅っこが俺様の定位置。俺様のことをこの店によろしくしてくれた奴とはそれ以降会っちゃいねぇが、店のオヤジは何も言わないで、俺様が頼めば酒だって簡単に出してくれる。あのマーベルが気づいていないわけはないんだが、今のとこ一向に捕まえに来る気配もない。
ま、こうやって場違いなガキが居酒屋で一杯やっているってのも初めて見る奴にゃあ変な光景だろうが、慣れてる奴は何も言わねぇ。ここに来れば金さえ出せば好きなものを好きな分だけ食わせてくれるし、一人っきりでも周りのガヤガヤした噂話に耳を傾けていれば寂しさも紛らわされる。宮殿のこってりした料理に手を付ける気になれなくても、ここに来れば適度に酒のつまみで飢えは凌げるって寸法だ。
「おいコラ、お子様がなにを片手に一杯やってるんだ?」
一口呷ろうとしたコップが背後から取り上げられた。
「ああ?」
さっきも言ったように、ここで俺様を見逃してくれるのは常連だけだ。ご新規さんは必ずと言っていいほど酔っぱらうとちっこい俺様に絡んでくる。当然、常連どもは助けちゃくれねぇ。酒の肴ににやにやしながら観劇を始める。
俺様はいつものように眉間にしわを寄せてできるだけガラ悪く振り返ってやった。
その瞬間、息が止まる。
深緑色のぼろのフードから出来立ての金貨のような色をした髪が波打ちながらこぼれ出ていた。
「ゲッ」
「何が、ゲッ、だ。ガキのくせにこんなもん飲みやがって。身長伸びねぇぞ」
いつぞや俺様を連れってことにしてくれた男は、久しぶりに現れたかと思うと俺様の酒をぐいっと一気に飲み干した。
「あ゛あ゛っ、何すんだよ! 俺様の命の一杯!」
「ガキにはまだ早ぇよ。いま言っただろう。そんなちっこいうちからこんな強いもん飲んでちゃ身長伸びねぇぞ。いいのか? ちびっこのまんまで」
「関係ねぇよ。返せよ!」
「いいけど空だぞ?」
すんなり取り返したコップをカウンターのオヤジの前に俺様は突き出す。
「オヤジ、もう一杯」
「あ、次は牛乳で」
すかさず男が上機嫌で付け足した。
「はぁっ? っざけんなよ! 俺様は牛乳が大っ嫌いなんだよ! 誰があんなぬめぬめしたもん飲めるかっ」
「ママン大好きの鉱ちゃんがおっぱい嫌いだなんて初めて聞いたな。年がら年中おかあちゃんおかあちゃん言ってるのはママのおっぱいが恋しいからじゃなかったのか?」
どっと店中に笑いが沸き起こる。
「ふっざけんな! てめぇ、人のことガキ扱いすんのも大概にしろよ。俺様はお前なんかより本当はよっぽど年くってんだからな!」
「その割には幼すぎる。年の功なんて言葉吐くのは心身ともに老いてからにしてもらおうか、このクソガキが」
「ざ~んねんでした! 俺様は老いるまで年取ったりしねぇんだよ」
あっははははとさっきまで両手をたたいて大笑いしていた酔っ払いどもが、急にしんと静まり返る。
「あんだよ。なんか文句あるってのかよ?」
周りの酔っ払いどもを見回すと、みんな今までの陽気さはどこ吹く風、すっかり素面に戻った顔で俺様を凝視していた。
「鉱土法王?」
「鉱土法王じゃないか?」
「鉱土法王だ。間違いない。俺様パレードしてる時に見たことあるぜ。確かにあれくらいの子供だった」
そんな囁き声が飛び交ったかと思うと、皆一斉に「法王様だっ!」と叫んで椅子から飛び降り、俺様の前に土下座した。
「なんだよ。なんなんだよ、この展開。俺様はただ酒飲みにきてただけだっつーの」
「だからガキだって言ったんだ。俺よりも年が食ってて、しかも老いないガキなんて、この世界にはお前しかいないだろうが、バレて当たり前だこのクソガキ」
「てめぇ、よくもさっきから俺様のことクソガキクソガキって……」
「なら俺にもひれ伏されたいのか? 居心地の悪い食堂をここに再現してやってもいいんだぞ?」
げ。
何で知ってんだよ、俺様のお宮事情を。
はっ。まさかこいつ、この間俺様のことこの店によろしくーってしてくれたけど、そもそもマーベルの差し金で現れた奴なんじゃないか? そうだ、マーベルの奴、こっちのことまで全部監視済みだったんだ。でなきゃ今の今まで何回も脱走しててここがわからないわけがない。でも、そうすっとわからないのは「庶民」と法王様の線引きをきっちりするあいつがどうして俺様がここに来るのを許していたか、だ。
「勘違いしているようだが、マーベルが俺をここに寄越したんじゃないぞ? 俺はマーベルの手下じゃないからな」
「どういうことだよ? きっちり説明しやがれ」
「自分でわかるまで説明する必要なんかないさ。で、鉱土法王サマ。この人たち、どうするの?」
「どう、するって……」
酔っ払いどもはまだ汚ねぇ床に這いつくばったまま震えていた。
そう、震えていたんだ。
鉱土宮に仕えに行った奴らが何人も戻されているのを知っているんだ。鉱土法王は誰でも彼でもすぐにやめさせる恐ろしい奴、とでも思われていたんだろうか。確かにちらほらそんな噂話を聞くこともあったが、やめさせているのは俺様じゃなくてマーベルなんだ。俺様は仲良くしたかっただけなのに……そうだ、仲良くだ。俺様、ここを失っちまったらもうどこにも行くところねぇんだよ。マーベルがこっちには手を出してこないっていうなら、俺様はここだけは守るしかねぇんだ。
ガキだけど、せめて同等の扱いしてもらえるように。
もう一度店内を見渡す。誰一人として顔を上げてねぇ。ほんと、辛気くせぇ雰囲気作っちまったもんだぜ。
俺様は勢いよくその場に膝を折って土下座した。
「みんな、すまねぇ。せっかくの楽しい時間ぶち壊しちまって悪かった。お詫びに今晩は俺様のおごりだ、好きなだけ飲み食いしていってくれ」
「え?」「あ?」と多少緊張が緩む。間髪入れず、俺様は続ける。
「それから頼みがある。また、ここに飲みにきてもいいか? できればその時は法王様って呼ばないでほしいんだが……」
しばしの沈黙の後、下げた頭の向こうで視線のやり取りをする気配があった。
すぐ目の前の恰幅のいい男が立ち上がる。
「よぉし、それじゃあデリボアのおやっさん、このガキンチョに牛乳一杯」
こんっと頭の上に空のグラスが載せられた。
「いやいや、牛乳は嫌いだって言ってんだ、かわいそうだろ。せめてオレンジジュースにしてやれ」
どこからかもう一つグラスが頭の上に置かれる。
「どうせ坊ちゃんのおごりなんだ、二杯とも飲ませてやればいいさ。だろ、シャルゼス?」
「そうだな、どっちもたんまり飲ませてやってくれ」
三つ、四つと頭にグラスが載せられたところで、俺様はうがぁっと立ち上がった。
「こらぁっ、人の頭をテーブル代わりにするなぁっ!」
「おお、がきんちょ様が噴火しよった」
「ほんと、小っせぇなぁ。隠れてアルコールなんかやるからだ。ほら、牛乳来たぞ」
手渡されるがままに白く濁った液体がなみなみと入ったコップを渡される。
「よし! コウくんのっ、ちょっといいとこ、見てみたい。それいっき、いっき、いっき、いっき!」
手拍子に煽られて、俺様は逃げようもなく牛乳を飲み干した。直後、口から全部吐き戻した。
これはもう思い出したくもない思い出なんだが、この日以来、俺様は少なくとも一人きりじゃない場所を手に入れられたわけだ。
「というわけで、ウチの家訓は飯はみんなでだ。分かったな、メルーチェ、錬。それからさっきから笑いすぎのサヨリ!」
テーブルに並んでいるのはすべてサヨリの手料理だ。あれだけのお転婆だったのに、料理上手だったのはめっけものだったと思う。まあ、陰で相当修行したとか、初めは包丁でまな板を切り落としたとか聞いたが、それももう昔の話だ。
「あー、おかしい。子供のころから出入りしていたなら、貴方、牛乳はもう飲めるようになりまして?」
「当たり前だ」
「それじゃあ飲んでもらおうか、コウ様。ここにしぼりたてのヤギの乳がある」
シャルゼスとの初めての出会いはあの居酒屋だったわけだが、それからしばらくシャルゼスは精霊王であることを明かさず、俺様の夜の師匠としてあの居酒屋だけでなく、もっといかがわしい店や活気にあふれた夜の市場を連れまわしてくれた。
正式に契約を結んだのは十歳の誕生祭の時。夜は楽しくても昼間はどんどん腐っていっていた俺様は、ついに自分の誕生祭からも逃げ出した。人通りの多い昼間の街はすぐに見つけられて連れ戻されちまう。仕方ないからまだ開鉱前だったキルヒース山の洞窟内に入り込み、初めこそ冒険気分だったものの終いには迷いに迷って来た道さえ分からなくなって、半泣きでようやく金剛石の間にたどり着いた。そこにはもうすっかり顔なじみになった夜の師匠と、俺様と同い年くらいの、いや、それよりも幼く見える女の子がいたんだ。
『鉱土法王、魔法もなしによくここまでたどり着いたな』
その時のシャルゼスはフードをかぶっていなくて、薄暗いのに金髪がきらきらしていたのを覚えている。その横にいた女の子はにこにこしててかわいいっちゃかわいかったが、なんだか冴えない感じでどんくさい雰囲気が拭えていなかった。
『どうぞ、ハンカチです。あ、まだ使っていないからきれいですよ』
もじもじおどおどしていた少女は勇気を振り絞って俺様に白いハンカチを貸してくれた。俺様はそれで汗と涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭い、まっすぐにシャルゼスを見上げる。
『俺のことは知っていると思うが、名はシャルゼス・ルシュディー。言っていなかったが、土の精霊王だ』
『は……?』
予想だにしないことに幼い俺様はぽかんと口を開ける。そりゃそうだろう。こんな悪い大人が精霊王だなんて、俺様の影となるべき人物だなんてそんなバカなことあるわけがない。俺様はその時まで、シャルゼスは本人は否定はしていたがマーベルの手先か統仲王の差し金だろうと思っていたんだ。
『こちらは秀稟。土の精霊獣だ。鉱土法王、今日は十歳の誕生日だったな。祝いの品だ。受け取れ』
シャルゼスと秀稟がそれぞれの手のひらに載せて俺様の前に差し出したのは、夢にまで見た黄金の魔法石だった。
『って、ちょっと待て。何でこれ真っ二つに割れてんだよ!』
『ああ、それはお前の日ごろの行いが悪いから、じゃない、とてもよいからプレゼントの数も増やしたんだ』
『ふざけんな。割れてる魔法石なんて聞いたことねぇよ』
『そりゃそうだろうな。これはお前だけの特別な品だ。不完全な主人にふさわしい石だろう?』
『ああっ? てめぇ、こんなとこに来てまでケンカ売ってんのか?』
『あ、あのっ! 鉱土法王様、この石はわたしの分です。シャルゼスの分とわたしの分。両方と契約を結ぶためのものです』
遠慮がちに、しかし一所懸命に秀稟がとりなす。その健気さに、俺様は溜飲を下げてやった。
『その前に、だ。鉱、デリボアの居酒屋で二度目に会った時、俺が言ったこと覚えているか?』
『お前が言ったこと? クソガキとか、次は牛乳で、とか……』
『そこじゃない。つくづく察しの悪い弟子だな。俺はマーベルの手下じゃないと言っただろう?』
『あ……そういえば』
これ見よがしにシャルゼスはため息をつく。
『俺が仕えなきゃならない王だからな。お宮の中しか知らないような脳みそに花が咲いた御主人様は願い下げだった』
お宮の中しか知らないような?
ん? ちょっと待て。それって、もしかして俺様わざと鉱土宮から追い出されていたのか? 追い出されていたっていうか、自分で外に出ていくように? 仕向けられていた?
『マーベル……』
今頃鉱土宮で歯噛みしているとばかり思っていた老執事の顔を思い出して、俺様がひとしきり歯噛みした。
そうだよ、そうでなきゃ俺様の部屋をわざわざ外に逃げ出しやすい一階になんかするもんか。部屋を掃除すれば暖炉の下のぼろ服くらいすぐに見つかるに決まってるんだ。脱出ルートだって、見つかって一つ潰されても、変更された守衛たちの哨戒ルートを注意深く探っていれば必ず一つか二つ、逃げ切れる隙ができていた。あれもわざとだったって言うのか? 言うんだろうな、ああ言うだろうさ。お前はいつでもあの老執事の手のひらの上だったんだ、って。
『それからもう一つ、今晩は俺様のおごりだと豪語したお前に釘を刺したことがあったよな?』
『え? 釘? 俺様あの時牛乳吐いて具合悪くてあんまり……』
覚えていないと言いかけたが、目の前の怒りと苛立ちに満ちたシャルゼスの顔を見て俺様は心を入れ替えて記憶の掘り起こしに専念した。朦朧とした意識の中、確かに何か言われている。
『お前が今晩こいつらにおごってやる金の出所はどこか。お前自身が毎晩のようにちびちびやってた酒代の出所がどこか、よく考えろ』
一言一言噛みしめるように俺様は復唱する。
『考えたか?』
『……いえ、あまり……』
俺様のお小遣いはつまり、鉱土の国民から集めた税金だ。その小遣いを使うなら、胸張って使えるだけの仕事をしろ、と、あの時シャルゼスはきっとそう言いたかったのだ。仕事って言っても俺様にできるのは将来に備えて勉学と武術に励むことだったんだが……あまりのモノのならなさにとうに放り投げて見向きもしなくなっていたものだった。
俺様はもう一度、二人の手から差し出された二つの魔法石を見つめる。黄金にきらめく光はこの薄暗闇では眩いばかりだ。だが、二つに割れた魔法石は不完全そのもの。なんだ、出来の悪い俺様にピッタリじゃねぇか。俺様の出来もよくなれば、いつかこの魔法石も一つになる日が来るかもしれねぇな。
『分かった。勉強も武術も魔法も頑張る。だから俺様に力を貸してくれ、シャルゼス・ルシュディー、秀稟。鉱土法王の名において、お前たちと契約を結ぶ』
シャルゼスに言われたとおり、それぞれ二人の血を吸った魔法石に俺様の血を足してやると、魔法石は洞窟中を光が貫いていくほど光り輝き、シャルゼスの魔法石は一振りの光り輝く曲刀に、秀稟の魔法石は……ただの薄金色の石っころに戻っていた。
『おい、こっちの魔法石、光失ってんだけど!?』
『騒ぐな。右手の剣は俺の魔法石〈玄武〉。左手の魔法石は〈砂剣〉』
『砂剣って、これただの石っころじゃないか!』
俺様が抗議すると、ぐすっと秀稟が目を潤ませる。
『あ、俺様は別に秀稟をいじめたいんじゃなくてだな……』
『確かにこれはまだ原石だ。が、これを打てば必ずやお前を守ってくれる剣になる。そうだな。たしかホアレン湖の畔に腕のいい鍛冶師がいるから、ここを出たら頼みに行くといい』
絶対嘘だ。はめられてる臭いがぷんぷんする。が、今にも泣きだしそうな秀稟を見ると乗せられてやるよりほかに策はなかった。
『ホアレン湖の鍛冶師だな? ここを出たら訪ねてみよう』
こうして契約を済ませて洞窟からようやく外に出た俺様が見たのは、鉱土の国最高峰のキルヒース山頂上から見る眩しいくらい目に染みる青い青い空だった。
で、俺様はシャルゼスによって目の前に突き出されたヤギの乳が入ったコップを見つめて若干のけぞる。この距離にいても生臭い臭いが鼻の中まで漂ってくる。
無理だ。これは絶対に無理だ。絶対吐く。が、期待に目を輝かせている子供たちの前でそんな無様な姿を晒すわけにもいかない。
「親方様、がんば」
秀稟が控えめに両拳を握ってみせる。
シャルゼスと秀稟と契約を結んだ時、力を貸してくれという願い以外にもう一つ頼んだことがある。これから先ずっと、一緒に飯を食ってくれ、と。二人を鉱土宮に連れ帰った時、マーベルは二人が食堂で俺様と同じテーブルに着くことに異を唱えはしなかった。法王に仕える影と守護獣として丁重にもてなしたものだ。それは二人が「庶民」より格上だと判断したからなのか、先よりの約束だったのか、今となってはマーベルに確かめる術はない。それでも、二人が鉱土宮に来てから俺様の生活は一気に精神的には楽なものになったのだ。勉強やなんやらで忙殺されていっても、二人が側にいてくれたから何とかやってこれたのかもしれない。
そう思うと、だ。シャルゼスと秀稟。こいつらも俺様の家族だったのかもしれない。ずっと一緒にいたのに今更気づくなんて、な。
それにしても牛の乳ならまだしも、ヤギ乳を持ってくるとは、シャルゼスめ、俺様がまだ本当の意味で牛乳を克服していないことを見抜いてやがるな。
不敵に笑うシャルゼスを一睨みしてコップを受け取る。
鼻を突く臭いはさらにきつくなる。
俺様は深く息を吸い込むと、片手で鼻をつまんで一気にコップの中身を飲み干した。
空いたコップをテーブルに置き、両手で口を抑え込む。
そんな俺様をサヨリとメルーチェは冷ややかな目で見ていた。
「父上、かっこ悪い……」
「貴方……」
一方、錬ははらはらした様子で俺様を気にかけている。
「父上、大丈夫ですか? 戻すなら早めに……」
戻すとか言うな。本当に戻ってくるだろうが。
ごっくんと飲み込んだとき、目は涙にかすんでいた。
笑い声が聞こえる。
シャルゼスと秀稟、サヨリとメルーチェと、ついさっきまで心配していたはずの錬と、五人の笑い声が聞こえる。
俺様はちっと舌打ちをして「次は見てろよ」と呟く。すると間髪入れず、シャルゼスが次のコップを差し出した。
「じゃあ今度こそ牛の乳だ。どうだ、これならまだましだろう?」
「……今日はもう、勘弁してください」
げんなりして言うと、通りがかりの侍女や執事たちも笑いを噛み殺しながら通り過ぎて行った。
ああ、俺様の父としての権威も法王としての権威もカタナシ。あ、夫としての権威が行方不明になったのっていつだったっけ……。
まあ、でもいっか。こうやって賑やかな食卓をまた囲めるようになったのだから。
誰一人が欠けてもこの食卓はつまらない。そのうちメルは嫁に行くこともあるだろうが、その時は夫となる人物がこの食卓に増え、いずれは孫がその辺に座っているかもしれない。
なぁ、人の世ってのは面白いもんだな。
一人一人の命に限りはあっても、次の世代、次の世代へと連綿と受け継がれていく何かが確かにあるんだ。それは希望かもしれないし、願いかもしれないし、生きるよすがなのかもしれない。
サヨリ。
君と出会ってこの子たちを授かって、最近よく思うことがあるんだ。
人の命は限りがあるから懸命に生きられるんじゃないかって。老いと死があるから未来をつないでいきたいと願うんじゃないかって。
本当はそんな話、居酒屋のじい様たちがよく言ってたことで、聞き飽きたなんて思っていたけど、自分で経験していくと自然とそう思えるようになるもんなんだな。今は自分の子供たちもだが、国の人々、神界の人々みんなが愛しく思えるよ。
それもこれも、君と出会えたおかげだ。
「ありがとう、サヨリ」
「あら、なんですの? 急に」
微笑みながらサヨリが振り返る。
「幸せだなぁと思って」
「ふふ、いやですわ鉱様ったら。わたくしたち、もっともっと幸せになりましょうね。時間はまだまだたくさんありますもの」
時間はまだまだたくさん。
法王である身からすれば、思い返せば束の間にしかならないような時間でも、俺様たちが人として日々を積み重ねていける時間はまだまだたくさん残されている。
「そうだな」
これからもずっとずっと、一緒にいような、サヨリ。
死が二人を分かつ、その時まで。