聖封神儀伝 2.砂 剣
第6章 愛、一考。
◆ 6 ◇
「無理なことは承知で頼んでいるんだ。帰りまで約束してほしいなどとは言わない。会えればいいんだ、メルに。会って、側にいてやれれば、一人じゃないと肩を抱いてやれれば、それで俺様は満足なんだ。今頃、きっとメルは真っ暗な中一人で泣いている。頼む、俺様を闇獄界に連れて行ってくれ」
何度頭を下げたか知れない。何度聖刻城を訪れたか知れない。だが、その度に聖の出す答えは「ごめんなさい」の一言だった。
愛優妃のいる闇獄界には触れたくもないのだろう、そんな妹の気持ちを、俺様はよく分かっているはずだった。何より、闇獄界に時空を超えていくのは、時空の歪みから逆に闇獄界の瘴気や危険なものを入れかねないという理由で禁忌とされていた。許されるのは罪人を闇獄界に送る時だけだ。
「頼む、聖、お前しかいないんだ。分かるだろう? 聖に行って探してきてほしいと言ってるわけじゃない。俺様は帰ってこられなくたって構わないんだ。頼む、俺様は闇獄界に……」
しまいには聖は俺様と顔を合わせようともしてくれなくなっていった。
目の前で聖との間の扉が閉まる。
「申し訳ありませんが……」
聖刻城の門番がいかにも済まなさそうに俺様を気遣う。
だが、俺様はそれでも門に食い下がった。
「開けてくれ、聖! お願いだ、聞いてくれ! メルを、メルーチェを助けに行きたいんだ。会いに行きたいんだ。サヨリとの約束なんだ。頼む、聖、俺様の話を……」
今考えてみれば、あの頃、聖ももうだいぶ具合が悪かったのだろう。立って自分で歩いていられたのもあれが最後じゃなかっただろうか。
「兄さん」
ずるずると扉伝いに膝をついた俺様の腕を引き上げる奴がいた。
風か。
言葉にする気にもならなかった。
聖にこうやって懇願しに聖刻城を訪れる以外は、俺様はもう何も考えられなくなっていたし、何もできなくなっていた。我に返ると頭も手も足も体中全てが鉛をつけたように重く、視界は靄がかって見えにくくなっていた。
「聖も調子が悪いみたいなんです。許してやってください」
許しを乞うのは俺様の方だ。聖は何も悪くない。困らせているのは俺様の方だ。
わかっているんだ。こんな衆人環視の元でこんな醜態晒して、そんな俺様を取り繕う余裕も聖にはないってこと、分かっちゃいるんだ。だけどよ、他に誰もできる奴がいないんだ。〈渡り〉を使える奴なら探せばごろごろいるが、闇獄界までとなれば話は別だ。世界を渡る力など、持てるのは時の精霊王と契約している者か、この世の創造者の統仲王と愛優妃だけ。
「そうだ、天宮……親父の目を盗んで地下に行けば母上の使っていた扉が……」
「兄さん!」
風はさっきよりもいささか強く俺様を呼んだ。
俺様はぼんやりと風を見上げる。
「行きましょう。ここでは人目に付きすぎます」
風はずるずると俺様を引きずって麒麟となった逢綬の背の上に乗せる。
「秀稟はどうしました? ここまでどうやって来たんです?」
「……歩いてきた」
風は碧い目を見張る。
「冗談でしょう?」
「歩いたり、歩いたり、ラクダに乗ったり、馬車に乗ったり……歩いたり、歩いたり……」
「一体何か月かけてきたんですか。シャルゼスはどうしたんです? 錬は? 国は? 誰も鉱兄さんが行方不明になったなんて言ってませんでしたけど」
「なあ、天宮に行ってくれないか」
「統仲王は地下には入れてくれないと思いますよ」
「許可なんかいらない。入ってしまえばこっちのもんだ」
「どこに出るかもわからないのに?」
「少なくともメルと同じ世界に入れる。そうすればしめたものだ。何百年、何千年かかってでもメルを探し出してみせる。時間だけはたっぷりあるんだから。それとも何か? 何か最高級にあくどい罪を犯せばいいのか? ああ、そうだな。ちょうどいい、ここに風環法王様がいらっしゃるじゃないか。お前の首を取って姉貴のところにでも持っていけば、即座に俺様を闇獄界に送ってくれるだろうな」
妄想は妄想では終わらない。俺様の手にはいつの間にか玄武が握られ、風の首筋に切っ先を突き付けている。風の首筋にはうっすらと赤い血が滲んだ。
「らしくない、と言っても無駄なんでしょうね。僕を殺してもきっと闇獄界には行けませんよ。きっと多分、炎自ら貴方を殺しにかかるでしょうから」
「のろけなんて聞きたくないね。本当に死ぬか?」
「兄さん、僕たちは死なないんでしょう? この身体は死なない、そう初めに教えてくださったのは兄さんじゃありませんか」
「じゃあお前は永遠に俺様に世界の壁を越えられずに泣いていろというのか? すぐ手にできるところに闇獄界に行く方法があるのに、永遠に諦め続けろというのか?」
「兄さん、貴方はメルの父親であると同時に、鉱土法王でもあるでしょう。国のことはどうするんです」
「知らない。国なんてシャルゼスと錬がいればなんとでもなるんだ。国よりも俺様を必要としてくれているのはメルのはずなんだ。メルなんだ。メルに、会わせてくれ……!!」
この頃になるともう末期で、興奮するとすぐに意識が抜けるようになっていた。
白なんだか黒なんだかわからない霧の中をずっと歩き続ける夢を見る。霧は時折赤い血飛沫を伴いながらどこまでも続いていく。果てがない。出口がない。行く先も見えない。何があるかもわからない。ただ時折、赤い悲鳴が聞こえては遠ざかっていく。
殺していたのかもしれない、本当は。
何人か分からないけれどこの手にかけて、生き残ったのか死んでしまったかは分からないが、あの霧に染みついた血飛沫はそういうことだったのかもしれない。
俺様はベッドに拘束されたまま、天井を見上げていた。
錬が言った。
「父上。第三次神闇戦争が始まって、羅流伽の極北で魔麗法王がお亡くなりになりました。南では火炎法王が。それからつい先ほどですが、羅流伽南方で天龍法王がお亡くなりになったそうにございます。時を同じくして聖刻法王も聖刻城で病のためお亡くなりになったと」
粛々と告げられる同胞たちの死の知らせ。
俺様は笑った。
これでもかと声高く笑った。
これで死ねる。俺様もようやく死ねる。死ねない身体? 誰がそんなことを言い出した? 嘘だったんだ。まやかしだったんだ。俺様のこの身体も永遠じゃない。俺様でも牢獄みたいなこの身体から解き放たれる時が来るのだ。
「それから、周方南部にも闇獄軍が上陸したとのことです。鉱土の国も救援要請を受けました」
ははは、渡りに船とはこのことじゃねぇか。
「俺様が行く」
妙に視界はすっきりとしていた。心は軽く、身体も軽い。自然と口元には笑みが浮かぶ。
「父上がですか? しかし……」
錬は戸口の方を振り返った。シャルゼスに助言を求めたらしい。だが、シャルゼスは首を横に振っていた。
錬の意見もシャルゼスの意見も関係ない。俺様は戦争に行く。そこで闇獄界の捕虜にされて闇獄界に連れ去られるもよし、運良く死ねたら今度こそ闇獄界に生まれ変わってメルーチェを探そう。
そうだ、今度こそ、だ。
「拘束具を外してくれ」
錬は一瞬俺様に近づくのを躊躇った。そうだろう。拘束具を外した途端に俺様が暴れだすかもしれない。いや、いままで散々暴れたからこそこんなもんで俺様の自由を奪ったんだろう。一体どんな思いでそんな決断をしたんだろうな。錬はあれで優しい奴だから、悩まなかったわけはない。だがそれはとても賢明な判断だ。今だって、一歩心の歩む道を踏み誤れば意識の及ばないところで玄武を振り回していたかもしれない。誰かを傷つけていたのか、自分を傷つけていたのか、それは分からないが。
「〈分解〉」
錬が慎重に手を伸ばそうとする前に、俺様は自ら拘束具の鋼鉄を解いた。
そう、いつだってできたんだ。やろうと思えば、俺様はいつだって自由になれた。そうしなかったのは、まだ心が決まっていなかったから。どう動けばよいのか分からない状態で手探りで進むのはもう疲れていたんだ。
だが、今はもう決めてしまった。
俺様は死ねる。
ようやく。ようやくだ。
すがすがしい思いで背伸びした俺様は、久方ぶりに鉱土法王らしさを取り戻した気分だった。
「軍議を開く。皆を集めろ」
ざんざんと降る雨の中、キルヒース山の噴火は止まっていた。初めに噴きあげられた溶岩が文字通り消滅し、それから山は眠ったように静かになってしまった。今は大気中に放出された灰だけが雨と絡み合いながら漂っている。間もなく藤坂も噴火が止まったことに気づいてこの雨も止ませることだろう。
「さて、藺柳鐶はどこにいるのかな」
ざっと辺りを見回しても、噴火の落石で破壊された建物が見えるだけだ。その合間合間には鏡をはじめ怯えた表情の人々が立ち尽くしている。
「あら、あんなところに花が咲いていますわ」
初めに声を立てたのは佳杜菜ちゃんだった。
「本当だ。すぐ近くで噴火があったっていうのに」
続けた誠が見ていたのは、キルヒース山の山頂だった。カールターン側の一部分がおぼろに雨に霞んではいるが、確かに白くなっていた。
「噴火は周方側の方に寄っていたんですね。奥様のお墓が無事で何よりでございました」
「まあ、それではあの白い花は」
「槐の花か。秀稟、連れて行ってくれるか?」
「勿論でございます」
快く変身した秀稟に乗って、一気にキルヒース山上空まで来ると雨も降り止んでいた。さっき火口上空に見えたような気がした星と守景の姿は今はもうない。
「守景ちゃん、無事に身体に戻れるといいけどな」
「夏城さんがいるから大丈夫ですよ」
負け惜しみにしてはやけに潔く洋海が答えた。
「秀稟、槐の木の元に降ろしてくださいますか?」
そわそわと佳杜菜ちゃんがお願いすると、秀稟の高度が下がる。熱風に吹き流されてきた槐の花びらに包まれて、このまま槐の木のたもとに降ろされるものと思ったその時だった。
ダァァァァン
銃声が耳をつんざいた。
何が起こったのかは分からなかったが、俺様たちは秀稟から振り落とされた。
『大地よ 砂となって俺様たちを受け止めよ』
「〈砂化〉」
とっさに落ちそうなあたりの大地に砂を敷いたが、俺様は腰を強かに打ち付け、心ならずも呻く。
「くっ、佳杜菜ちゃん……は……?」
「お兄様、お兄様!」
すぐ近くで佳杜菜ちゃんが仰向けに倒れた洋海の肩を揺さぶっていた。
「だ……いじょうぶだって。佳杜菜軽いんだもん、これくらいなんてことないって」
どうやら王子様よろしく佳杜菜ちゃんの下敷きになった洋海は、強がったあと顔をそらして何かを吐き出した。
「〈治癒〉」
すかさず錬が洋海に治癒をかける。
「秀稟! 秀稟!」
と、少し離れたところでは人型に戻って倒れている秀稟を誠が抱き上げて悲鳴を上げていた。
「錬、洋海と佳杜菜ちゃんを頼む」
俺様は腰をさすりながら誠と秀稟のところに行く。
抱き上げられた秀稟の胸のど真ん中には丸い拳大の穴が開いていた。貫通だ。抱き起している誠の足が見えている。だが、それは異様な傷だった。
「知ラナかっタだろウ」
構えていたバズーカを下して、槐の木の下、藺柳鐶が嗤う。
「ソれハ土人形ダ」
「土……人形……?」
藺柳鐶に会ったらあれを言ってやろう、これを言ってやろうと考えていたものが全部吹っ飛んでいた。俺様は藺柳鐶を警戒したまま、再び秀稟の傷に視線を落とす。
いや、果たしてこれは傷と呼べるのか。
服は穴が開いた部分が無残に引きちぎれている。だが、引きちぎれているだけだ。血が染み込んだ形跡はない。貫通した傷穴の向こう、誠の足も汚れてはいない。
秀稟の傷口からは血が流れていなかった。
それだけじゃない。恐る恐る覗き込んだ穴は、肉や骨や神経内臓、筋肉の色形はなく、割れた白磁の瀬戸物のような日々が放射線状に走り、所々に至っては食器よろしく欠けていた。
取り上げた手の甲にもひびが入り、ポロリと指先から欠片が落ちる。
「なんだ……これは。どう、なってるんだ?」
誠を見たくても見られなかった。なんで何にも言わねぇんだよ、こんな時に。いいわけでも理由でも何でもいいから言ってみろよ。でねぇと藺柳鐶の思う通りの展開になっちまうだろうが。
「クッくっクっくックっ。傑作ダな。何も知らヌは主のミ、カ。マ、ソれダケ手厚ク怪我一ツしナイよウニ保護シテきたッてコトだよナ」
〈夢滅〉と呟いて藺柳鐶の手には鉤爪が握られる。見ただけで治ったはずの俺様の腹が疼く。
「おカシいと思ッたコとモなカッタんジャなイのカ、そノ様子ジャ。魔法石ガ二ツに割れテイタこトスラ、今マデ何の疑問モ抱カナかっタんダロウ? ソうダよなァ。神界人に疑問ハ禁物だ。問ウテはイけなイ。答えハソこニあル。それが神界だモンナぁ」
「シャルゼス、どういうことだ」
誠は答えない。
「どういうことだと聞いている!」
鉤爪を手に一歩ずつ近づいてきていた藺柳鐶の歩が止まる。それでも誠は答えない。
「聞いたことがあったはずだ。なぜ俺様の魔法石だけ割れているのか、と。なぜ玄武だけじゃない、砂剣なんてもんまでついているのか、と。お前は言ったはずだ。精霊王と精霊獣、二人が貴方に忠誠を誓ったからです、と。現に俺様はお前と秀稟と二人からそれぞれ差し出された割れた魔法石で契約を結んだ。それがシャルゼス、お前と秀稟の二人と契約する方法だとお前に言われたからだ。だが、本来精霊獣は法王とは契約しないもんだ。精霊獣は精霊王に従う。精霊王が法王と契約すればそれについていく、それだけだ。俺が秀稟としたあの契約は、一体何だったんだ? 答えろ、シャルゼス」
俺様の声に秀稟が気だるげにひびの入った瞼を押し上げる。
「いいんじゃないのか、もう」
それは、まるで秀稟の口から出たとは思えないほど低くハスキーな女の声だった。だが、動いた桜色の唇から欠片が落ちて土に還るのを見て、秀稟の中にいるものが喋ったのだと悟る。
「充分だろう、お前も」
お前。それが誰を指しているのかは明白だった。秀稟はじっとシャルゼスを見つめている。
「父娘ごっこは終わりだ」
その一言が決定打だった。
ぱらり、とひび割れた秀稟の足先が欠片となって落ちていく。落ちた破片は砂混じりの大地の上に落ちて砂となってぱらぱらとなじんでいく。両足から抜け落ちた靴がぱたりぱたりと音を立てて砂の上に転がる。足首は大地にたどり着く前に風に吹かれて槐の花びらとともに舞いだした。桃色の中華風のズボンが風にはためきだし、次第に大きく弧を描きだす。
「シャルゼス!」
「秀稟!」
何かを断ち切るようにシャルゼスは叫んだ。それは俺様の呼びかけを拒んだのかもしれないし、秀稟の台詞を打ち消したかったのかもしれない。あるいは、崩れていく秀稟の身体の変化を止めたかったのかもしれない。
「秀稟」
シャルゼスだった誠の手は、秀稟の身体を抱きしめながら震えていた。
「鉱土法王、私とお前は契約なんかしていないよ。お前が契約したのはどちらもこの男の魔法石だ。私から流れ出たと思った血も涙も、すべてこの男のものだよ」
秀稟は笑う。妖艶に。
ずいぶん大人な女性が入ってたもんじゃねぇか。なんだよ、今までの乳臭いガキは全部演技だったっていうのかよ。
「この男は、自分の娘かわいさに、本来お前と契約するための魔法石で死んだ娘を蘇らせようとしたんだよ」
「どう、やって……?」
秀稟の中のものはにやりと笑う。
「娘の遺体を還元した砂土で娘の身体を象り、己の魔法石を半分に割って核となし……」
「やめろ」
「輪生環に向かおうとしていた娘の魂を絡め取ってこの身体の中に閉じ込めた」
「やめろ」
「なんだ、そりゃ……」
「やめろ、やめろ、やめろ! あいつがやれって言ったんだ。あの悪魔が……!!!」
うわぁっと叫んで誠は頭を抱えた。
あの、いつでもどこでも冷静で偉ぶってて狼狽えることなんて一度もなかったシャルゼスが、今俺様の目の前で恐怖に怯えていた。
「お前が……っ、お前が入り込むと分かっていたら、俺は絶対にやらなかった。そうだ、たとえ娘の魂をあの悪魔にとられたとしても、俺はやらなかった!」
「嫌われたもんだなぁ。なぁ、鉱土法王。ひどいと思わないか? 今まで散々私の背の上に乗って楽をしていたというに」
桃色のズボンが風に吹き飛んで空に舞い上がっていく。今度は手の指先が本格的に崩れはじめる。
「お前は、誰だ」
誰何した俺様を女は嗤う。
「秀稟だよ」
「違う。秀稟はもっと小さくてあどけなくて……」
「土の精霊獣、秀稟だ。改めましてよろしく」
女は残っていた肘先を差し出したが、それもすぐに崩れて、あら、と声を漏らした。
「私は初めから秀稟だったよ。ただ、死んで思い出しただけだ。自分が土の精霊獣であったことを。この男が気付かなかったのも無理はない。他の精霊王や精霊獣たちが当初そうであったように、私は何も知らず己を神界人だと思い込み、普通に暮らし、お前に恋をし、そして十歳の歳に流行り病で死んだ」
ふふふ、と懐かしそうに女は笑う。
「ん? 今お前って言ったか? お前って……」
「鉱土法王だよ。八つの時にいじめられている私を、当時はまだ同じくらいの歳だった鉱土法王が助けてくれたことがあった。お前は言ったな。『いじめられて何も言い返さないからお前は弱いと思われてさらにいじめられるんだ。思ってることがあるならちゃんと言え。仕返したいと思ってんなら一発でも殴り返せ。逃げたいなら屁ぇひっかけてでも一目散に逃げろ、この弱虫!』って」
くっくっくっくっと笑う女の顔が、忘れ果てていた記憶の底の幼い少女の泣いた後の笑い顔と重なった。
あれは、たまたま海姉貴に呼ばれて水海の国を訪れていた時の話だ。姉貴の小言も儀式めいた祭典も何もかも反吐が出るって、下町に逃げだした時のこと。俺様も海姉貴からの追手を気にしてとっとと騒ぎになったその場から離れたから、思い出にすらなっていなかった。
「お前に仕えることは秀稟の望みでもあった。だから、私も蘇った後もこいつの娘らしく振舞っていたんだよ」
「言うな。言うな、秀稟――」
誠の身体は震え、泣き崩れた。
あのシャルゼスが、泣き崩れた。
「全ク、いイ迷惑ダったヨ。鉱土法王、オ前サえこノ精霊獣の心まデ捕エていナケレば、メるーちェは魔法ヲ使えテイたかモシレなイのに」
ガシャン、と藺柳鐶の夢滅が残った秀稟の胸を砕いた。
一気に秀稟の身体は砕け散り、ひびの入った頭部が誠の腕の中に残る。
「ああ、お前に謝っておかなきゃならないことが、あった。あの時、私はお前の妻の危機を知らせることができたのに、しなかった。そうすることが与えられた命であったし、……私は自分の心に逆らえなかった。鉱土法王、お前は恨んでいい。私を、秀稟を恨んでいい」
読まれていた。
サヨリの墓に秀稟を生き埋めにしてしまった時の鉱の気持ちを、こいつはずっと気づいていたんだ。
俺様は何も言えなかった。すまないとも、なんとも。
そんな俺様の目の前でいよいよ秀稟の頭部にも首から頬へと亀裂が入る。
「秀稟!!!」
誠が叫ぶ。
「ばか……だな。私のことを、毛嫌い、していたくせに、いつだって気にかけて……娘を気にかけているんだと、分かってはい、ても……私は少し、お前に親しみを覚えるように……なって、いた、よ……とと、様……」
頭部のひびは微笑んだ口元から広がっていったかと思うと、あっという間に全てが粉々になった。さらさらと流れ落ちる砂土とともに、誠の手には金色の半分の魔法石が残る。
「とと様と呼ぶなと……言っただろう。くそっ。くそっ、くそっ、くそっ」
誠は残された半分の魔法石を握りしめると、次の瞬間その手に砂剣を握っていた。ぎりという歯噛みとともに悠然と見下ろしていた藺柳鐶を見上げ、声を上げて藺柳鐶に襲い掛かる。
待て。
そう止める間もなかった。
藺柳鐶の肩が斜めに斬られ、はらりと薄汚れた白衣の切れ端が垂れ下がる。
古びた蝋燭のような色をしたしなびた皮が角ばった肩の骨に張り付いていた。
俺様は顔を背ける。
ミイラのようだと思った。本当にもう、ただの魂の器なのだと思わずにはいられなかった。
斬られた肌からは血が流れ出していた。赤い血だった。
良かった、と安堵した自分が、なんだか信じられなかった。
「くックっクっクッくッ」
藺柳鐶は二撃目を左手の鉤爪で受け流し、がらあきになった誠の胸をざっくりと五本の爪で抉った。誠の手からは砂剣が転がり落ちて半分の魔法石に戻り、誠はその場に仰向けに倒れる。藺柳鐶はその誠の胸の上に足をのせ、ぐりぐりと傷を抉るように踏みにじる。
「オ前モかわいそうにナ。私ヲ生み出すタメに、アりとアらゆルものを犠牲にシて。満足か? 幼馴染の姫をジジイに差し出し母上を産ませ、父上と引き会わせて私を産まセ、錬ヲ産マセ。そレモこれモ私トイウ怨恨ノ器を作リ出すたメダッタのだろウ? ソの上、人形トはイエ束ノ間の幸セで生まレタ娘マデ私ニ殺サレてハ、浴ビせる言葉モ浮かブまい? それともどうする? 褒めてみるか? よくぞここまで立派な怨恨の器と成り果てたと」
クッくッくっクっクッ。
あっはッハっハっ。
藺柳鐶は晴れ晴れと笑っていた。夢滅を嵌めて爪の伸びた手をガチャガチャと打ち合わせながら髪を振り乱し、のけぞりながら笑っていた。
俺様は足元に転がってきた砂剣の魔法石を拾い上げた。
魔法石は半分ながらきらきらと金色に輝いていた。
メルの血を吸ったっていうのに、そんな不気味さはおくびにも出さず、ただ純粋に輝いている。
いやになった。
なんなんだよ、この石は。たくさんの人々の運命を狂わせるほどのもんなのかよ。
たくさんの怨みや憎しみを生み出してきたくせに、自分は何も知らないとばかりに綺麗に輝きやがって。
なんなんだよ。
俺様は自分の中にある玄武の魔法石を取り出した。
馬鹿だなぁ、俺様。この複雑な割れ目、どうして今まで合わせてみる気にならなかったんだろうな。不格好な魔法石が二つ来たと思って疑わなかったんだよな。
割れ目を合わせてみる。一度目は合わなくて、二度目、ひっくり返して少しずらしてやると輪郭が一つの線を描いた。
光を放つ。
まばゆいばかりの黄金の光。
腕で目を覆っても尚目に飛び込んでくる砂漠の太陽の色光。
身体の内側がじりじりと灼かれていく。腹の底から胸、足、指先、頭、髪の毛の先まできらきらとした金色の光が流れていく。
なんだか不思議な感覚だった。今まで全力だと思っていた力がどれだけ薄められたものだったのかを思い知らされるくらい、底知れないエネルギーが身体の中心から湧き出してくる。腹の底にある魔法石に呼応する核の部分をしっかりと据えつけておかなければ、遠心力に振り回されて自分自身がどこかに吹飛ばされてしまいそうだった。
「とんでもねぇ力だな、おい」
呆然とひとりごちた。
これは人間の身体じゃ厳しいかもしれない。法王の身体でなければ受け入れきれないほどの力だ。
内側から灼き尽くされるんじゃないかという恐怖心を抑え込みつつ、俺様は一歩踏み出す。
これだけの力を傾けてようやく、藺柳鐶はその身から解き放たれるというわけか。そりゃあ根深いだろうよ。これと対等な力を封じ込めているっていうなら、そりゃあ辛いだろうさ。ひでぇ話だよな。こんなの、人に耐えられるわけがない。
それでも課したか。統仲王よ――愛優妃よ。
ぐおっと音を立てて藺柳鐶の身体から生々しい瘴気が噴き出した。
「恨ムか? 己ノ父を、母ヲ」
藺柳鐶は誠の身体を蹴り転がし、俺様を見た。
「そうだな。ひでぇよな」
溢れ出した瘴気は漆黒の炎となり、嬉々としながら藺柳鐶の全身を嘗め回す。
俺様の気持ちすら糧にして、一体どこまで行くつもりだよ。
藺柳鐶から目を離さずに、咳き込む誠の傍らにしゃがみこむ。
「誠、契約しろ。今度こそお前と俺様と一対一の契約だ。秀稟は精霊獣だ。お前と契約すればいずれ俺様たちのところに戻ってくるんだろ? どっからか人の身体見つけて」
「言わないのか? 俺が秀稟を作ったりしなければ、お前は、鉱は初めからそれくらいの力を持ちえたんだぞ? そうすれば、あの時サヨリを助けられたかもしれない。メルーチェを……」
「言ってどうなる。時が巻き戻るか? 過去が変わるか? 変わらないだろう? 巻き戻らないだろう? そもそも、お前は何度でも自分の愛娘を蘇らせただろう? そうできる力があるのなら、俺様だってそうしてる」
俺様だって、できることならそうしてる。砂の器にメルの魂を移し替えて救えるのなら、そう……
「あ」
「あ?」
「それだ。誠。メルの魂を土人形に移し替えるんだ。そうすれば……」
「愚かダナ。獄炎はとウにコノ魂に深ク根を張ッてイる。こノ器は外ニ炎を漏ラさナイように封ジテおくタメだけにアる」
「なら根っこ解いてやるよ。恨み辛みも全部忘れるくらい幸せな気分になれれば、獄炎だってお前の魂なんかに取りついていられなくなるだろう? そうなったところを織笠にでも頼んで魂移し替えてもらうよ。何回でも移し替えて、その度にちょっとずつきれいにしていけばいい。獄炎だって土人形の器に閉じ込めて消していけばいいだろう?」
藺柳鐶の身体から獄炎が一気に噴き出した。
呻き声が上がる。
獄炎が舐めた頬が、腕が黒く焼け爛れていた。
口元に笑みが浮かんでいる。
「ばかだな。父親というのは本当に、ばかだな。秀稟が秀稟でいた気持ちがよく分かる。それでも私は――」
藺柳鐶はぼろぼろの白衣に手をかけた。風に吹かれた白い槐の花びらが吹き去った時、藺柳鐶は白衣を開き、身体中に埋め込まれた黒い小型爆弾の数々を見せつけた。
「なんだ、その身体は……」
思わず言ってしまってから、傷ついてやしないかと顔色をうかがう。
藺柳鐶は嗤う。
「ひとーつ」
夢滅の爪で抉りだした小型爆弾を後ろに放る。
爆音とともに地面が揺らいだ。
「ふたーつ」
今度は槐の木に向けて拳程度の爆弾が放り投げられ、空中で爆発して火の粉が槐の木に燃え移ったと思った瞬間、木の根元でも爆発が起こった。
爆風と衝撃波に俺様たちは吹き飛ばされる。
槐の木は根こそぎ吹き飛ばされて、大量の花びらが木端とともに青い空に舞っていた。
佳杜菜ちゃんが悲鳴を上げる。
構わず藺柳鐶は三つ目の爆弾を放った。
「みーっつ」
ことり。
それは落ちて誠の胸の上に転がる。
「〈土壁〉」
とっさに蹴飛ばし、土壁を築く。
爆音とともに地面が揺れ、震動が土壁を揺らしながら粉々に崩壊させる。
藺柳鐶の背後では、抉られた山頂の一部が土煙と石のつぶてを吐き出していた。
「あーア、勿体なイ。今ノは結構出来がよかっタノに」
いかにも残念そうな藺柳鐶の声が、俺様の中で保ってきた何かを断ち切った。
「誠、生きてんな?」
「一、応」
「血ぃ寄越せ」
「こっからだらだら出てんだろ。もってけ」
自分で治癒をかけていた誠の胸から血を一掬い、爆発で傷ついた自分の腕から血を一滴。それだけで魔法石は周り一面空すらも金色の光に呑みこみ、やがて収束した。
「ああ、こういうことか。俺様と誠の血で魔法石の威力を封じ込めたわけだ。精霊王と法王の契約ってのも、そもそもは力を分けっこするためか。法王以外、神界で魔法使える奴らがここまでめんどくさい契約を結んだなんて話は聞いたことがなかったからな」
じりじりと灼けるような痛みが治まり、心地よい流れが身体の中を循環している。
「〈玄武〉」
魔法石を一振りして得た剣は、砂剣と合わさった分刀身が厚く重くなっていた。見た目もなんだか豪奢になっている。
「徹様!」
後ろで見ていた佳杜菜ちゃんが悲鳴を上げた。
俺様は振り返らない。
予想通り駆け寄ってきて、佳杜菜ちゃんは玄武を構える俺様の両手に掴まる。
「おやめください、徹様。あの子に剣を向けるなんて、やめてくださいまし。槐の木も失われてこれ以上何を失うというのです!?」
「失うさ。俺様の弟にできたての可愛い彼女に、昔の息子にかわいい後輩、城下で戦ってる仲間たち。下手すりゃもっと多くのものを失うことになる」
「ですが!」
藺柳鐶が爪を開いて佳杜菜ちゃんの背中に襲い掛かる。
俺様はひょいと佳杜菜ちゃんを抱き寄せて玄武で爪を受け止めた。
にやぁと藺柳鐶は嗤う。
「弾けろ」
そう言った途端、小指の鉤爪が音と煙を伴って弾けた。その衝撃は砂剣から伝わり、俺様を佳杜菜ちゃんごと弾き飛ばす。間髪を入れず藺柳鐶は追ってきて俺様に馬乗りになる。
「弾けろ、弾けろ、弾けろ」
右手、左手、右手。小指から順番に鉤爪の先は爆発して、抉れた大地から飛び散った岩石で俺様は傷つけられていく。だがそのどれもが俺様には命中しない。否、俺様を避けて振り下ろされていく。
「当てろよ。当ててみせろよ」
「キヒヒヒヒヒ」
もっとも太い親指の鉤爪が首元に振り下ろされ、俺様はそれを玄武で受け止めた。
「ぐ……ぎ、ぎ……」
体重ごと重さをかけられて爪の先が首の皮を切っていく。足掻くように動かされた指先が胸をひっかく。二本は浅く、一本は深く。皮膚を食い破って差し込まれた親指の爪は中でぐるりと円を描く。
何かが埋め込まれたような感触がした。吐き気がするほど冷たい感触。
「や……めろ……っ」
腹を蹴りあげて藺柳鐶を弾き飛ばし、俺様は飛び起きる。自分の胸に埋め込まれたものを確認する間もなく玄武を握り直し、腹を抱えてよろめいていた藺柳鐶に斬りかかる。
「〈分解〉」
ガリガリガリガリと刃こぼれを起こしそうな音を立てて玄武で藺柳鐶の身体に埋め込まれた小型爆弾を断ち切るとカチリという音がし、、藺柳鐶はにやりと嗤って吹き飛ばされていった。
『大地よ 全てを受け入れし母なる大地よ
哀れなるこの者の怨恨を受け止めよ
その身に抱き 眠りに誘え』
「〈石化〉」
ぴしりと音を立てて黒い石が体勢を立て直そうともがいていた藺柳鐶の両手足と腰を呑み込みはじめる。
「徹様! おやめください、徹様!」
佳杜菜ちゃんは藺柳鐶に走り寄り、庇うように前に立つと俺様を睨みあげた。
「錬」
俺様が呼ぶと、それまで静観していた錬が大人しく佳杜菜ちゃんを藺柳鐶の前から引きはがした。
「何をするのです。離しなさい、錬。離しなさい! 貴方の姉上ですよ? どうして庇わないのです! どうして! 離して! 殺すならわたくしも一緒に……」
錬の腕を振り払った佳杜菜ちゃんはひしりと藺柳鐶を抱きしめた。
「魔法を解いてくださいませ、徹様!」
「解かない」
俺様は答えた。
「どうしてですか! このままでは窒息して死んでしまいます!」
「佳杜菜ちゃん、そいつから離れるんだ」
「嫌です!」
「離れろっ!」
俺様の声に驚いて佳杜菜ちゃんはびくりと身を震わせる。
「助けるんじゃございませんでしたの? メルーチェを助けるためにここに来たのではございませんでしたの?」
「じゃあ、どうすることがメルを助けることになる? さんざん考えただろ。でも答えは出なかった。正解なんてないんだって、いい加減気づけよ!」
「いいえ。いいえ、いいえ。これは諦めてよいことではございません! 諦めなければ必ず……」
「必ズ、何が報ワレるっテ?」
キヒヒ、と藺柳鐶が嗤った。
「貴女ハいツも正シかッタよ、母上。そシテ立派ダった。反吐が、出ル」
「メル……」
「離セ。聞こえルだロウ、時を刻む心臓の音ガ」
はっとしたように佳杜菜ちゃんは身をこわばらせる。
「アイつは気ヅイたヨウダけどナ。私ノ生命活動が停止すレば、頭に埋め込ンだ爆弾が爆発スる。こノ身体につイてイタ爆弾よリももっトモっと威力ノ高い爆弾ダ。この山ひとツ、いヤ、コの鉱土の国ヒとツ、爆発ニ巻き込めるホドのな」
高笑いを始める藺柳鐶の頭を、佳杜菜ちゃんは両手で覆いこんだ。
「なら今すぐ外しなさい。今すぐそんなもの取り出しなさい。早く! 早く!」
「アッははハハハはハハ、どうやって? 手も足モ封じらレテイるとイウのニ?」
「徹様! 解いてくださいませ! 自由にしてやってくださいませ!」
佳杜菜ちゃんの必死の願いが空しく響くのは、俺様が採りあわないからじゃない。藺柳鐶がさらさら聞く気がないからだ。
藺柳鐶はさっきから楽しげに俺様だけを見ている。
「胸ノ中のモノは確認シタか?」
言われて俺様は胸に抉られた傷をまさぐる。熱い血肉の合間に冷たい金属が呑み込まれていた。素手で取り出すのはかなりの勇気が必要そうだ。が、俺様には便利な魔法ってもんがあるんだ。爆弾を構成する金属の類ならいくらだって分解できる。
「〈分解〉」
だけどしかし、銀色の金属の部分はぽろぽろと砂のように落ちていったものの、黒光りする半透明の器が残った。中では心音に連動するかのように赤い光が明滅している。
「そレハ金属じゃナイ。〈夢滅〉の欠片。〈分解〉ジャ解けナイ。スイッチは、ココ」
べろりと藺柳鐶が舌を出す。その舌先に、俺様に埋め込んだ爆弾と同じタイミングで赤い光を明滅させる突起があった。
「サあ、鉱土法王。究極の命ノ選択ダ。娘ノ命ト己の命、ドちラを優先スる?」
もし手足と胴を失っても、最後の最後で相打ちに持ち込めるように舌にあのスイッチを仕込み、それを噛み切れるように心臓じゃなく頭部に自爆用の爆弾を仕込んでおいたっていうのか?
ふざけんな。はじめっから死ぬ気じゃねぇか。
守景はメルはほめてほしいのだと言っていたが、誰がほめてなどやるもんか。誰が、誰がっ……!!
「鉱土法王、気づいテイルか? ソれが〈夢滅〉ノ欠片デアルといウことハ、ソレの爆発にヨッテお前の命ガ断タれレバ、二度ト生マレ変わリはナイといウコとだ。オ前ハ消滅スルとイうコトだ」
どくん。
俺様の心臓が大きく波打つ。続いて小刻みにいくつもの波が押し寄せるように脈が速くなっていく。
俺様が、消える。
佳杜菜ちゃんとも、錬とも、誠とも洋海とも、星や他の奴らとだって、二度と出会うことがなくなる?
改めて考えてみる。
それは……恐ろしいことなのか? 死ぬ時、次生まれ変わったら何しようなんて。普通考えるか? んなこと考えてる暇あったら、今何とかして助かる方法に頭を巡らせないか?
死んだあとのこと。何度でも生まれ変われれば、何度でもやり直しできるっていうわけじゃない。全てがリセットされ、全てが新しく一から始められる。本当なら過去も前世も何も関係ないはずなんだ。輪生環を潜って真っ白の状態から始まるんだから。なあ、そう言われてみれば、過去からの記憶を持って生まれてきちまった俺様たち法王は、永遠の命を持っているって言えるのかもしれねぇな。結局、一度も生まれ変われてねぇってことじゃねぇか、それって。
メルの魂がなくなっちまったら、もう二度と会えないと悲しくなった。だけど、どこにメルの生まれ変わりを正しく見分けられる奴がいる? そんなの、閻魔帳持ってる育兄貴くらいだろ。どこで誰が生まれ変わって、またどんな間柄で出会って、どんな関係を築いていくのかなんて、未知数なのが普通だろ。
己の死の恐怖と、来世が閉ざされる恐怖とをごちゃまぜにして感じているだけなんだ。
でも、なぁ。
自分のことだったらそう思えもするけれど、娘のことはそうもできないだろう?
なぁ、鉱。お前が生きてたら、どうするよ。お前なら喜んで自爆させられる道選んでんじゃねぇのか? それとも、びしっと行くか? びしっと不良娘叱りつけられるか?
来世でも会おうね、なんてそんな生ぬるいこと、言えるか?
いつまでも閉じた人間関係の中でぐるぐる回ってるだけじゃねぇか、そんなの。
「〈玄武〉」
手に重くなった玄武を握る。
藺柳鐶の石化は胸を避けつつ首元まで達していた。
「石化で窒息死したら、獄炎は宿したまま転生するのか? もしそうなら、それもありだと思った。俺様が玄武でとどめさえ刺さなければ、お前はいつまでも何回でも生まれかわれる。違うか?」
「ソウダナ。そうイウ例もアル。だが、私ハいツマでも何回デもお前をつケ狙うゾ」
「それならそれで探す手間も省けて何回も出会えていいかなとも思ったんだ。そのうちお前を助ける方法が見つかるかもしれないし。でも、それは俺様が何度でもお前を中途半端に殺していくってことだよな?」
「ソノ方がお前の苦痛モ増シてヨカッタかモしれナイな」
ククク、と嗤う。その顔が酸素不足のせいで青紫色になってきていた。舌の上では小さなスイッチが踊っている。
「アあ、ソウそウこのスイッチは舌が乾燥しタ場合自動的ニ作動スるコトにナッてイるンダ。私ガ舌を噛み切れズに石化シタとシテも、コノ舌が石ニなッタ瞬間、オ前は消えル。ヨク出来てイルだロう?」
「いずれ俺様かお前かどっちかってことじゃねぇか。それなら俺様は、こうしてやる!」
玄武の持ち手を逆さにし、俺様は勢いをつけて自分の胸に埋め込まれた〈夢滅〉の欠片に突きこんだ。
パ……キ、ン……
プラスチックが割れるような乾いた音がした。
ずんっと胸から鈍い衝撃波が身体中に広がっていく。胸の傷口からはもうもうと黒い瘴気が溢れ出し、血とともにドロドロとした黒い液体が零れだした。
「うおお……おおおおおおお……っ」
藺柳鐶がおどろおどろしい呻き声を上げはじめる。
「おおおおお、おおおおお、ぅおおおおおおおおっっっ」
俺様から漏れ出る瘴気などとは比べ物にならないくらい大量の瘴気が、藺柳鐶の石になった身体を溶かしながら溢れ出していく。
佳杜菜ちゃんは藺柳鐶に駆けより、融けていくその身体を抱きしめていた。
「メル、メル、メル!」
「姉上」
錬まで残った肩らしき山に額を乗せる。
流れ出したタールのようにどろどろとした黒い液体は、槐の花びらを黒く染めながら勾配を下っていく。
藺柳鐶は天を仰ぎ叫びながらも、目は俺様を見ていた。
俺様も藺柳鐶を見つめながら、一歩一歩玄武を杖にふらつく足を励まして近づいていく。
抑えきれなくなったこの黒いどろどろの川は、喜びを覚えて身の内の〈怨恨〉を抱えきれなくなったから。さっき吹き出した瘴気も、束の間メルーチェとしての幸せを味わってしまったから。
悲しくなるじゃねぇか。もう二度と、心から喜びを感じられないなんて。もう二度と、何の憂いもなく幸せに浸ることができないなんて。お前たち闇獄主の背負った業は、まさにそれなんだな。闇に食らい尽くされないように、己が幸せになるのを必死で押さえつけて生きていかなきゃならねぇんだ。
なら、お前たちが本当に幸せになれるときってのはいつなんだ?
もう二度と訪れないのか?
いや、そうじゃないだろう。
お前たちの選んだ使命を全うした瞬間、魂が闇に囚われたその身体から解放された瞬間、意識も連綿たる記憶の蓄積も消滅してしまう本当に直前の刹那。
その一瞬だけのために、お前たちは生きているんじゃないのか?
その刹那がお前たちにとっての本当の幸福。未来に約束された本当の幸福。
「俺様が消えるのか、お前が消えるのか、賭けだったんだ。だが、お前が俺様の中に残した〈夢滅〉の欠片はお前の核が入ってたんだろう? 俺様が絶対にお前に玄武を向けないと踏んで、向けるなら俺様自身に向けるだろうと踏んで、だからこんなところにお前の魂を込めたんだろう?」
「おおおおお、おおおおお」
「なんてぇ軽い音だよ。ちっとも守る気なんかなかったんじゃねぇか、自分の魂。パキンなんて、劣化したプラスチックよりも安い音立てやがって」
胸から埋め込まれた〈夢滅〉の残った欠片をほじくり出す。だが、それも見せつけようと掲げた途端、さらさらと黒い砂となって風に流されていった。
「メルーチェ、しっかり! メルーチェ! 逝かないで、お願い、逝かないで!」
「姉上……姉上、姉上、姉上……!」
錬まで背中を丸めてすすり泣きだす。
だが俺様は歯を食いしばって背筋を伸ばした。藺柳鐶を真っ直ぐ睨み下ろしながら、玄武を構える。
真黒くなった藺柳鐶の目元に一粒、透明な液体が丸く寄り添っていた。
「何をなさる気です、徹様!」
もはや抱きしめる腕さえも呑み込んでしまうほど形の保てなくなっている元娘を力いっぱい抱きしめて、佳杜菜ちゃんは金切声をあげる。
視線を佳杜菜ちゃんにくれてやる余裕はなかった。俺様は奥歯が折れるかと思うほど噛みしめて、震える口唇を開いた。
「藺柳鐶」
佳杜菜ちゃんも錬も肩をそびやかす。この期に及んでまだそう呼ぶのかと、言葉にしなくても抗議しているのがよく分かった。
「藺柳鐶!」
瞬いた藺柳鐶の目からさっきの透明な丸い液体が零れ落ち、二度目に瞬いて俺様を見た時、その目はまたあの嫌な野郎の目になっていた。
「そうだ、その目だ」
身体から溶け出すタールの流れが止まり石化した身体の上にへばりつく。噴きだす瘴気もぴたりと止まる。
目の前の藺柳鐶は手負いの野獣のように目に怨恨を宿した黒い石像となっていた。
「闇獄十二獄主〈獄炎〉の藺柳鐶。お役目、御苦労だった」
俺様は石化した藺柳鐶の胸に上から〈玄武〉を突き通した。
ぴしり、ぴしりぴしりぴしり……全身に亀裂が入り、中から玄武の黄金の光が溢れ出す。
「メルーチェェェェェェっっっっっ」
佳杜菜ちゃんの悲鳴が天にこだまする。
青い空に風が吹く。
風は空に吹き流されていた槐の白い花びらを寄せ集め、吹き降りてきて佳杜菜ちゃんを包み込んだ。佳杜菜ちゃんはぽかんと放心する。続いて錬の耳元に流れ、俺様に向かってくる。
力尽きて大地に両膝をついていた俺様は、顔を上げ両腕を開いた。
「お帰り、メルーチェ」
槐の花びらを胸いっぱいに抱きしめ、囁く。
「こんな方法でしかお前のことを救えなかった。すまない」
いや、救えたのかどうかさえも分からないな。最期まで俺様を恨んでいったかもしれない。
「謝罪なド無意味。受ケ取ル心はトうニ捨テタ。……ダか、ラ……モう、……気ニ病んデ、クれル、な、――父、上……」
メルーチェの声だった。あの鉱の記憶の中にある若く張りのあるそれでいて可憐で知的な娘の声だった。
「メルーチェ!」
涙が溢れ出した。
どっ、と前も見えないほど一気に目が霞んで、その中にメルの幻影が見えた気がした。
「よくやった、メルーチェ。よくやった、よくやった……本当によく、がんばったな」
「父上!」
メルーチェが首元に抱きついてくる。
「ありがとうございます、父上。メルは、幸せ者です。父上と母上と錬と同じ家族に生まれることができて、本当に幸せ者でございました」
飛び切りの笑顔を残して、槐の花びらはトルコブルーの空高く舞い上がっていった。
その花びらの後を追うように空に呑みこまれていった白い影の男の名を、俺様は知らない。
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