聖封神儀伝2.砂剣

◇終 章◇

 守景が目覚めたという知らせが入ったのは、鉱土の国から夜半、工藤のペンションに戻ってきてすぐのことだった。連絡を入れてきたのは星で、洋海は佳杜菜ちゃんのことを気遣いながらも病院に飛んで行った。
 錬は、大広間のほかにも城門周辺など被害を受けた鉱土宮再建のため動きはじめていた鏡の力になりたいと鉱土の国に残った。「鏡はまだまだお子様ですから」と苦笑していたが、錬自身、今回のことで何か思うところができたのだろう。
 俺様たちはこっちに戻ってきてすぐに東京に帰ることもできたが、こんな気持ちのまま帰ったって親を心配させるだけだ。工藤に頼み込むまでもなく、むしろすすめられるがままにここに一泊させてもらうことにした。佳杜菜ちゃんも同じだったらしい。家に一報を入れ、工藤のペンションに留まった。
 美味かったんだろうが何を食ったのかさえ思い出せない晩飯を腹に押し込んで、俺様と佳杜菜ちゃんは向かい合ったまま、もう小一時間ばかり口も利かずに食器の片付けられた食堂のテーブルに座っていた。
 遠くのテーブルから科野や藤坂に光、河山、織笠、工藤、そして誠がちらちらとこちらの様子を窺っている。城門前で思う存分暴れられたらしく、鉱土宮に戻った時科野はえらく上機嫌だった。城門前の闇獄兵や魔物たちは、藺柳鐶の気配が消えた途端、時空の歪みを造って逃げていったらしいが、その時にはもうほとんど科野にやられて壊滅状態だったらしく、逃げられたのは数えるほどだったそうだ。
「麦茶、どうぞ」
 草鈴寺が気を利かせて氷をひとつ浮かべた麦茶のコップを二つ置いていく。しかし、手を伸ばすのも憚られるほど、俺様たちのテーブルの空気は強張っていた。
 ずっとそうだ。メルが空に消えていった直後から、佳杜菜ちゃんは俺様と一言も口をきいてくれていない。「おつかれさま」なんて言葉期待してたわけじゃないけど、せめて「どうして!?」とか「私のメルを返して!」とか、「本当に他に方法はございませんでしたの?」とか、詰る言葉はたくさん胸に渦巻いていたはずだ。
 全部吐き出してくれればよかったのに。それで俺様たちの関係が終わっちゃおうが、こうして目の前にいるのに無視され続けるよりはよっぽどましだ。
 断罪してほしいわけじゃない。ただ、佳杜菜ちゃんに何か言ってほしかっただけだ。
 ずっとテーブルの一点を見つめたまま顔を上げようともしない佳杜菜ちゃんを前に、間もなく食堂に置かれた振り子時計が午前零時の鐘を鳴らそうとしていた。
「佳杜菜ちゃん」
 カチ コチ カチ コチ。
 ようやく思い切って名前を呼んでみたものの、食堂には秒針の乾いた音だけが規則的に響く。俺様、なんかこの音昔から嫌いなんだよな。息が詰まるっていうか、緊張しちまう。
「佳杜菜ちゃん」
 もう一度、呼んでみる。
 反応はない。
 顔を上げもしない。ずっと自分の思索の世界にこもったままだ。
 それでもいい。届かなくても仕方がない。
 俺様は先を続ける。
「メルは……なんて言ってた?」
 カチ コチ カチ コチ――ボーン ボーン ボーン ボーン ボーン ボーン ボーン ボーン ボーン ボーン ボーン ボーン……
 午前零時を告げる鐘が鳴る。
 十二回すべてを聞き終えてから、佳杜菜ちゃんは俯いたままゆっくりと瞼を閉じた。
 佳杜菜ちゃん。
 もう一度呼びかけようとする前に、彼女は小さく口を開いた。
「わたくしは、誰、だったんでしょうか」
 それは思わぬ自問の言葉だった。
「わたくしは稀良佳杜菜でしょうか。それともサヨリでしょうか」
 俺様は返す言葉もない。
「貴方に佳杜菜ちゃんと呼ばれるまで、わたくしは……サヨリだったように思います。まるで魔法にでもかかってしまったかのように、メルのことだけを心配していました。貴方を、心の中で酷い言葉で詰っていました。とてつもない喪失感に、打ちひしがれていました。わたくしは……サヨリは、メルを救えませんでした」
 ぼろり、とその時初めて佳杜菜ちゃんの目から涙が零れ落ちた。
 キルヒース山から下山し、鉱土宮で錬と鏡に別れを告げ、人界に戻ってからは工藤のペンションに泊まるからとご両親に電話をし、俯いたままとはいえ俺様の目の前で遅い晩御飯にもちゃんと口を付けていた彼女は、俺様と視線を合わせてくれない以外は極めてよくできた令嬢で、工藤のペンションに泊めてほしいと申し出たときは社交辞令的な笑顔さえ浮かべていたくらいだ。その仮面がようやく剥がれ落ちたらしい。
「救えなかった……助けてあげられなかった……あんなに苦しんでいたのに代わってあげられなかった……貴方を、止めることができなかった……」
 ぐすり、ぐすりと鼻を啜りながら手の甲で涙を拭う。差し出せるハンカチを俺様は持っていなかった。
「止められると思っていたのです。わたくし、そう、わたくしの言うことなら貴方は聞いてくださると、わたくしは高をくくっていたのです。ですが、貴方は父親としてではなく、鉱土法王としてあの子を断罪することを選んだ。わたくしは……悔しうございました。貴方にとってあの子は、メルは、結局長い時の中に置き忘れてきた幻のような存在ものだったのだと。今更消えても痛くもかゆくもない倒すべき敵だったのだと。あの子の存在が否定された時、わたくしの存在も否定されたようでした。あの子を産んだのはわたくしです。わたくしとの時間まで、貴方は否定されたかのようでした。貴方の永い神生において、わたくしもメルもとるに足らない存在だったのだと思い知らされました」
「それはっ、違っ……」
「分かっております! そんなのただのわたくしの被害妄想だと分かっております! 貴方が法王だから、わたくしはただの人だからと、今更そんな卑屈な思いが湧き上がってくるなんて思いもしませんでした。分かっているのです。貴方は、メルーチェを獄炎の器として止めを刺した。メルーチェに使命を成し遂げさせたのだと、言い聞かせてはいるのです。ですがっ、ですがですがっ……わたくしは何もできなかった! 何も、何も、何も、何もっ。持ち合わせていた誇りも見栄も何もかも振り払って、どうしてあの時、貴方があの子に止めを刺そうとした時、この身を差し出せなかったのか……!! 何故身が竦んだのか……!! わたくしは、自分に失望いたしました」
 テーブルの上に置かれた握りこぶしが白く血の気を失って震えている。
 佳杜菜ちゃんは何も悪くないよ。
 簡単な言葉が頭の中に浮かんだけど、そんな言葉は軽すぎて彼女には何の慰めにもならない。むしろ火に油を注ぐように怒らせてしまうことだろう。
 四日前、偶然この砂浜で俺様と出会っていなければこんな目に遭うこともなかったのにな。何も知らずに夢で見た鉱土法王とやらに憧れるちょっと変わった女の子で済んだはずだ。こうなるのは目に見えていたことだったよな。でも、最後二人で行けば何とかなるんじゃないかって、見通しの立たない甘い期待に唆されて彼女の手を取っちまったのは俺様だ。
「俺様は、君がいてくれてよかったと思っている」
 説得なんて無意味だ。本音をぶつけないと意味がない。あの時、本当に思ったことを口にするんだ。
「君がメルの名を呼び、メルの側についていてくれて、最後まで母親としてメルの味方でいてくれて、よかったと思っている。メルーチェは自分を甘やかさない子だ。だが、あのぎりぎりの場面、君の母親としての存在には助けられたんじゃないかと思う。俺様も、助けられた。君が何があってもメルを抱きしめていてくれたから、藺柳鐶にとどめを刺すことができた。一瞬だったけれど、メルを取り戻すことができた」
「メルを、取り戻すことができた、ですって!? 違うわ! あんなのは違うわ! 目の錯覚よ! 幻よ! 逃げたかったわたくしが見た、勝手な思い込みの産物よ! ずっとずっと痛い思いをしてきて、どうしてあんなふうに微笑めるっていうの!? あんなことを言えるっていうの!?」
 激昂する佳杜菜ちゃんはテーブルを叩いて立ち上がった。息が荒れて両肩が激しく上下している。
「メルはなんて言ってた?」
 俺様は座ったまま彼女を見上げた。彼女は泣いている顔をさらにぐしゃっと歪めて俺様を見下ろした。
「父上を……頼みます、と」
 憎しみのこもった眼だった。今までこれほど直接的に恨みのこもった視線を受けたことはなかった。
 目をそらしそうになる。心がくじけそうになる。彼女の視線に灼き尽くされて何も見えなくなってしまいそうだ。
「貴方を頼みますと、笑顔で囁いていったのです! もしあれが自分で作った幻なら、わたくしは自分で自分が信じられません。貴方のことをもうどう思ってよいか分からないというのに、わたくしにどうしろと言うのでしょう? あの子は、なぜあんなことを言ったのでしょう? 自分の代わりに貴方を殺してくれと言われていたら、わたくしは何の迷いもなく貴方を手にかけていたでしょうに、なぜあの子は貴方を守るようなことを……言ったの、でしょう……」
 言葉は怒りとともに思索の中に沈む。
 喋っているうちに答えを見つけることはままあることだ。きっとそれで、何も言えなくなってしまったのだろう。
「サヨリは、最期に鉱に言ったよな。誰も恨まないでくれと。誰かも自分自身も恨まないでくれと。恨めば恨んだ自分自身が傷つくからと」
『恨まないでくださいましね。誰も、恨まないでくださいまし。闇獄界の人たちも、鉱土の国の人たちも、貴方自身も。恨めば貴方自身が傷つきます。だから、どうか、誰も恨まないでくださいまし』
 サヨリの声が今でも耳元でよみがえる。
 「ああ」と声を立てて彼女はテーブルの上に泣き崩れた。
 俺様は席を立つ。
「メルが最期に守りたかったものは……」
「わたくし、ですわね……」
 恐る恐る彼女の肩に手をかけると、彼女は拒まなかった。俺様の手を掴み、胸に顔をうずめる。
「徹様、わたくし酷いことを申しました。一番辛い役回りだったのは徹様でしたのに、わたくし、本当に酷いことを申し上げました。ごめんなさい。……それから、守ってくださって……ありがとうございました」
 俺様はそっと彼女の背と肩に腕を回した。華奢な身体がそっと俺様の身体に寄り添う。室内は外の蒸し暑さを遮断してなお冷房が効いていたが、今まで寒いとも思っていなかったのに佳杜菜ちゃんの身体はとても温かかった。
 翌朝、俺様たちは車を出すと言ってくれた工藤の申し出を丁重に断って、最寄の駅で電車を待っていた。
「はぁ~、今回はなんっか疲れたよねぇ」
 荷物をホームにおいてその傍らにしゃがみ込んだ光がこれ見よがしにため息をつく。
「山登りとか洞窟探検とか、結構ハードだったわよねぇ。砂漠の国って日差しも強かったし」
 ちらっと藤坂が俺様を見る。
「そうかぁ? あたしは楽しかったけどなぁ」
「めいっぱい暴れられたからだろ」
「ま、それだけじゃないけどねっ」
 科野がにっこりと河山に微笑みかけ、河山は軽ーく視線をそらす。
 おいおい、そこ、何があったんだ、何が!
 ちっ、俺様が大変な思いをしている間によろしくしけこみやがって。あーあ、やだやだ、発情した思春期のガキってのは。ちゃんと青少年の枠内で清く正しいおつきあいしてんだろうな? まっ、んなこと聞きたくもねぇけど。
「彼女、遅いな」
 けっ、けっ、と心の中で唾を吐きかけていると、今日の朝食から何事もなかったかのように合流していた星が、俺様の心を勝手に代弁してくれていた。
「か、彼女っていうか、いや、まだそんなお付き合いとか、これからどうするかとか、そんなのが決まってるわけじゃなくって……」
「ああ、アヴァンチュール。ひと夏の恋ってやつだね。花火のようにぱっと華やかに咲いたかと思うとパッと消えてしまう、思い出の中でのみ咲きつづける永遠の華」
「おーりーかーさー、お前、なんてこと言ってくれてんだっ」
「だって本当じゃないか。昨夜、あの後何もなかったんでしょ?」
「う゛っ」
「『それじゃあもう夜も遅いので、わたくしこの辺で失礼いたしますわね。皆様にも大変ご迷惑をおかけいたしました。おやすみなさいませ~』って、するっと徹の腕から抜け出してそそくさと自分の部屋に戻ってったじゃないの」
「う゛っ」
「まさかあの後夜這いかけるような勇気が徹にあるわけでなし」
「いや、夜這いくらいっ!」
「その様子じゃキスもまだだな」
「ぐっ」
 しらっと星まで冷たい横目で俺様を見る。
 いやぁ、ああそうさ。そうともさ。でもな、みんなが寝静まったのを見計らって部屋を訪ねるくらいのことはしたんだぞ? だけどな、ドアも窓も厳重に鍵がかかっていてだな、俺様、あの時ほど〈渡り〉が使えたらって思ったことはなかったわ。
 気を取り直して、だ。
「星君? 君はどうだったのかな? キルヒース山の山頂からいきなり消えたと思ったら、こっちに戻ってきたら守景の目ぇ覚めたって電話してくるだけで、え? 一体消えてからこっちに戻るまで何をしていたのかな?」
「何って、何もしてねぇよ。守景と人界戻ってきたら、そのまま守景は消えちまったから、もしかしてと思って病院行ったら目が覚めてたんだ」
 このポーカーフェイスたるや、見習いたくなるじゃねぇの。
 ていうか、こいつも何かあったな。絶対あったな。でなきゃ星の口から「キス」なんて単語出てくるはずないからな。
 何だよぅ。みんなしていい思いしやがってよぉ。貧乏くじ引いたのは俺様だけかよ。佳杜菜ちゃん、朝食前に自分の別荘帰っちゃったもんな。そうだよな。彼女にとってはそれこそ、俺様の存在なんてひと夏のアヴァンチュールだったのかもしれねぇな。
 電車はまだかと線路の向こうを眺めると、陽炎の向こうにぼんやりと四角い影が見えはじめていた。汽笛の音が聞こえる。
 さて、と荷物を肩に掛けた時だった。
「徹様ーっ!」
 駅舎の向こう側からリムジンのドアが閉まる音と佳杜菜ちゃんの声が聞こえて俺様は振り返った。
「佳杜菜ちゃん!」
 おろしたての白いワンピースに着替えた佳杜菜ちゃんは、慣れない手つきで切符を買うと改札も飛び越しかねない勢いでホームに飛び込んできた。
 同時に電車もホームに入ってくる。
「徹様、連絡先を教えてくださいませ!」
 自分のスマホを差し出しながら、佳杜菜ちゃんは勢い込んで言う。
 俺様は圧倒されながらも、にやにや見守る奴らの前で自分の携帯を差し出した。
 うっ、お嬢様との格差が……。
 とか思っている間にみんなは荷物を持ってぞろぞろと電車に乗り込み、俺様が受信するだけの赤外線通信は終わっていた。
 電車の発車を予告するベルがホームに鳴り響く。
 やばい、俺様の連絡先を送っている暇がねぇじゃねぇか。
「連絡をくださいませ。佳杜菜はまた、徹様にお会いしとうございます!」
「あ、ああ」
 佳杜菜ちゃんに押されるようにして俺様も電車に乗り込む。
『ドアが閉まりまーす。黄色い線より……』
「あっ、徹様、忘れ物ですわ!」
「え?」
 駅員さんの放送に気を取られた一瞬、佳杜菜ちゃんは爪立てて俺様の唇を奪っていった。
 何も言えないまま目の前でドアが閉まり、驚いた顔をしている自分の顔が窓にうっすらと反射して映るその向こう、佳杜菜ちゃんが頬を真っ赤に染めて胸の前で小さく手を振っていた。
「あ、ああ」
 俺様も佳杜菜ちゃんに手を振りかえす。
 電車はホームを滑り出し、佳杜菜ちゃんの白いワンピース姿はどんどん遠ざかり、陽炎の中に消えていく。
 いや、消してなるものか!
 握っていた携帯のアドレス帳を開き、か行をたどると、果たして「稀良佳杜菜」という名前が出てきた。
「へぇ、こう書くんだ」
 新鮮な思いにとらわれながらも、電話番号とメールアドレスが入っていることを確認して、俺様はそのまま電話番号のところで発信ボタンを押した。
 トゥルルルルルルというお決まりの呼び出し音ではなく、小鳥の鳴き声やら波のさざめきやらリラックス音楽が少し流れ、ぷつりと途切れる。
『もしもし』
 番号だけの着信にちょっとおずおずとした佳杜菜ちゃんの声が聞こえてくる。
「あ、佳杜菜ちゃん? 俺様。さっそくだけどさぁ、今週の日曜日、どう? 返したいものがあるんだよね」
 一瞬の間は、きっとさすがの佳杜菜ちゃんも驚いていたんだろう。だが、すぐに電話口の向こうの空気は和らぎ、花開くような声で「はい」と返ってきた。
 そして、すべての雰囲気をぶち壊すように、ハンドマイクを持った車掌が俺様の前に立って俺様を凝視していた。
「え~、携帯電話はマナーモードに設定し、車内での通話はお控えくださいますよう、お願い申し上げまぁーっす」
 ギャッといたずらを見つかった子供のように心臓が縮み上がり、俺様は通話口に口をつけて囁く。
「じゃ、メールするから」
 素直な返事を耳の奥に記憶して携帯電話を閉じ、いかにもからかいたいのを怖い顔で取り繕っている車掌さんに愛想笑いを向けた。
「すみません、気を付けまっす」
 鷹揚に頷き、車掌さんは通り過ぎていく。
「馬っ鹿だな、お前」
「いやいや、徹らしいよ」
 星に小突かれ、織笠に小突かれ、俺様は照れ笑いを浮かべながらもう一度、通り過ぎてきた線路の向こうを振り返った。
 赤茶色に錆びた線路の向こう、陽炎の中で緑の茂みが揺らめいている。
 また会おう、佳杜菜ちゃん。
 今度こそゆっくり、都内でも見下ろしながらお茶をしよう。





〈了〉











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