聖封神儀伝
2.砂 剣
恨むがいい
捏造されし愛情に 縋りし者よ
己の過ちに 目をつぶり
形にならぬ剣を手に
道化の如く 踊るがいい
『この木が、わたくしの墓標となるのですね』◆序 章◆
君が死んだら墓標にしてほしいと言っていた槐の木は、今が盛りと山頂に真っ白い大粒の雪を降らせていた。悪戯な風が一吹きすると、雲ひとつないターコイズブルーの空に白い花びらの雪が翻る。
君はこんな静かなところで眠るつもりなのか?
ここには音も何もない。ただ空と風と山の地面と、槐の木が一本生えているだけだ。
君と結婚した時に一緒に植えた槐の木。
掌から少し枝の先が出る程度だった苗木が、今は俺様でさえ見上げなければならないほど大きく育っていた。
君と一緒にいられる時間は限られていると分かっていた。この木を植えた時、果たしてその時が来たとき、どこまでこの木が育っているものかと案じた覚えがある。この槐の年輪は君と過ごした時間の証。太ければ太いほどいいと、いや、いっそ二度とこの木を見ることなどなければいいと、あの時願った。俺様たちの知らないところでこの槐は呼吸を繰り返し、成長し、その体に時を刻んでいく。それでいいと思っていた。
君が人らしく天寿を全うしたいと、年齢を固定する時の実を食べることを拒んだ時、俺様はいかにも君らしいと思ったんだ。摂理を枉げることを嫌う君らしい考えだと。巡り合えたからにはできるだけ長く一緒にいたい。そんな欲に人は目がくらむものだと思っていたけど、君は違った。永遠の命がほしいから俺様と結婚したんだ、なんていう心ない誹謗中傷を恐れたんじゃない。君は人として生まれて、人として死ぬことを選んだんだ。 そんな君が好きだった。だから、俺様も君に合わせて見た目の年齢を増やし……きっと統仲王や兄貴、姉貴たちなんか想像もつかないようなおじいちゃんの姿になるもんだと思っていた。真っ白い髪と真っ白い髭を蓄えて、君と一緒に杖でもつきながらこの国を散歩しているものだと思っていた。そして、君は最期に俺様と数えきれない年月を共にしたベッドで安らかに俺様に手を取られて逝くものだと思っていた。
君は知らないだろうけど、何度も何度も君の最期を想像していたよ。そうすることで、本当にその時が来たときにとりみださないよう訓練していたつもりだった。
君は安らかな最期を迎える。
この俺様の妻となったからには、約束されたも同然だったはずだ。でも、もしかしたら君はそうは思っていなかったのかもしれないな。君は、俺様と出会ったときからずっと戦場と隣り合わせの場所にいた。闇獄界との戦でなくても、鉱土法王の妻として鉱土宮を取り仕切るというのも、また一つの戦いだったに違いない。そして自身の手で二人の子を育てたのも大変だったに違いないのだ。
俺様は君に大変なことばかりを押しつけてきてしまったのかな。俺様の妻となったばかりに、君はいらぬ試練を背負わされたのかもしれない。
それでも君と一緒になりたいと願った。出来る限り一緒にいたいと願った。君は本当に、よく応えてくれた。鉱土法王の妻として、二人の子の母として、一人の女性として。
『めったなことを言うな』
『いいえ、いずれ訪れる真実ですわ。その時は鉱様、わたくしをここに埋めてくださいませね。わたくしはここから鉱様と子供たちのいる鉱土の国を見守りますわ』
晴れ晴れとした顔で山頂まで登ってきてかいた額の汗を拭った君と、いま目を閉じてすっかり冷たくなってしまった君とは、悲しくなるほど何も変わってはいなかった。君の髪はまだオレンジ色がかった金髪のままだし、肌だってまだ皺もできていない滑らかなままだ。表情は可憐だった少女時代に比べれば貫禄が付いているが、それもまた貴婦人と呼ぶにふさわしいものだ。今俺様の腕の中で眠る君は、何度も想像した君の姿などではなく、恐ろしいほどに若いままだった。まるでこっそり時の実を食べたのではないかと疑ってしまうほどに。
こんなことなら無理やりにでも時の実を食べさせておけばよかった。そうすれば、多少の傷に対しては強力な治癒力が働く。これくらいの傷で死ぬことなんてなかったんだ。
それでも君は言うのか?
『恨まないでくださいましね。誰も、恨まないでくださいまし。闇獄界の人たちも、鉱土の国の人たちも、貴方自身も。恨めば貴方自身が傷つきます。だから、どうか……誰も恨まないでくださいまし……』
無理だった。
そんなことは無理だった。
恨んだ。悔んだ。
数えきれないほどの呪詛を呑みこんで、俺様は今、ようやく君をここに連れてくる決心がついたんだ。
「すまない、サヨリ」
俺様の力が足りないばかりに、君をこんなに若いまま逝かせてしまった。闇獄兵に攫われた娘のメルーチェの行方も依然知れない。
なんて不甲斐ない。
君がいないと俺様はただの木偶の坊だ。
いつの間にか一人では生きられなくなっていたんだ。
「早く君の元に行きたいよ」
生まれ変わりなど待てるものか。俺様はもう、自分で自分が許せないんだ。たとえ生まれ変わった君に出会えたとして、どうしてまた君の手をとることができるだろう。どうしてまた一緒にいたいなどと言えるだろう。全てを投げうって、君を幸せにできる男に俺様も生まれ変わってやり直したいよ。
「サヨリ、目を開けてくれないか。サヨリ、俺様のことを呼んでくれないか。鉱様、と」
幻聴ばかりが聞こえるんだ。最期の君の涙に濡れた声ばかりが聞こえてくる。俺様が聞きたいのは今にも消え入りそうなそんな声じゃない。明るく笑顔ではっきりと俺様の名を呼ぶ君の声。
もう、思い出せない。
なにもかも、もう思い出せない。
過去の記憶なんて、思い出そうとしたことなんて今までなかったかもしれない。過去など必要なかった。未来永劫続いていく今だけで満足だった。過去まで抱えていたら、俺様たち法王はどうにかなっちまう。だから思い出し方なんて分からないんだ。
俺様はまだ生きるんだろうか。
君との過去の思い出の中に沈んだまま、永遠に生きつづけるんだろうか。
君の顔も、声も、肌も、何もかもどんどんぼんやりとして輪郭を失っていくのに?
「誰か……俺様を……殺して……くれ……」
耐えられない。
とても、このままじゃ、俺様は未来に耐えられない。流れていく時に耐えられない。
『鉱様』
ああ、そうだったな。君を埋めに来たんだった。
君の体を白い花びらの雪の中に横たえ、俺様は焦点の合わぬ目で槐の木の根元を掘りはじめる。両の掌のなんとちっぽけなことか。浅黒い肌のなんと脆いことか。いくらも掘り進まぬうちに指先は血に塗れだす。
痛い。
たったこれだけなのに、痛い。
君はこの何倍もの痛みを負って死んだのか。
「親方様……」
後ろから洟たれ子供の声が聞こえる。
今まで放っておいてくれたんだ。長い付き合いなんだ。話しかけられたくなどないことくらい分かっているだろうに。
「秀稟、邪魔をするな」
「わだすも、一緒に掘っていいでずが」
白い子供の手が掘り返した土の上に伸びてくる。
「……魔法は使うなよ。それから、洟もたらすな」
「わがっでいまず」
ずずーっと洟をすすると、秀稟は無言で手を土まみれにしながら俺様と一緒に土を掘りはじめた。
どれくらいかかったのか、覚えてはいない。
一晩中掘っていたのかもしれない。
朝日が澄んだ光を纏いはじめた頃、ようやく槐の木の根元に女性が一人横たわれるほどの広さの穴ができていた。
両手の感覚はとっくに失われている。どれだけ血と土が一緒になっていようとも、痛いとはもう思わなかった。
穴の中に槐の花びらを敷き詰め、そっとサヨリを横たえる。その上からもさらに槐の花びらを散らし、胸にも散らしたところで、俺様はふと、傍らで同じように花びらを散らしていた秀稟を見上げた。
「秀稟、お前、サヨリが好きか?」
「もちろんです。奥方様にはたいそう可愛がっていただきました。髪をいつもお団子に結って下さいましたし、かわいらしい服もいくつも作ってくださいました。形を持たぬわたしを、奥方様は人として扱ってくれました」
俺様は無言で片手に魔法石の片割れをのせた。
「親方様?」
それは、砂を集めて思い通りの形に変えることのできる力を持っていた。俺様はそれを砂剣と呼び、若い頃はもう片方の魔法石の変化である玄武と共に二刀を持って戦場を駆け抜け、サヨリと結婚してからはサヨリを守るためにサヨリの手に託してきた。
あの時、せめて秀稟がサヨリの危機を知らせてくれていたら――
「魔法石はお前たちの魂のよりどころであり、俺様の分身みたいなもの」
玄武は俺様の影であるシャルゼスの血が、砂剣には俺様の守護獣である秀稟の血と魂の楔が穿たれている。
ほかの兄弟たちがどういう契約を結んだかは知らない。だが、俺様の魔法石は二つで一つだった。
「なあ、秀稟。お前俺様の代わりにここでサヨリを守ってくれないか。サヨリがさみしくないように、ずっと側にいてくれないか」
秀稟は大きな黒い瞳を見張って俺様を見つめていた。
俺様はその目から顔ごと視線を背ける。
恨んでいないと言えば、嘘だった。
「親方様は、ご自分も一緒に埋めてしまいたいのですね」
ひどいことを言っている自覚はあった。
生きている年月こそ長いとはいえ、秀稟の精神年齢は出会った時から見た目同様十歳くらいの少女のままで止まっている。いや、それよりもこいつの場合はもっと幼いかもしれない。
そんな子供を、こんな誰も来ないところに死体とともに埋めようというんだ。
――死体……。
自分で出てきた言葉に俺様は愕然とする。
サヨリの死がまだ受け入れられていないと思っていたのに、俺様は目の前にあるサヨリの身体を死体だと認識している。
サヨリの死体。亡骸。
そうだな。いくら好きでも慕っていたも嫌だよな。気味が悪いよな。それも俺様は秀稟に生きながら死ねといったのだ。サヨリとともに。
でも俺様は残酷なことに、秀稟の純粋さに期待したのだ。母のように女神のようにサヨリを慕っていた秀稟なら、俺様動揺悲しみに打ちひしがれている秀稟なら、単純に頷くのではないかと。
「俺様にはもう力は必要ない。俺様はもう、半分死んだようなものなんだ」
そんな言葉で追い詰めて、抗えないようにして。
「親方様、奥方様のことはわたしが責任を持ってお守りいたします」
秀稟は姿を消し、砂剣の魔法石が金色に輝いた。
責任を持って。
子供のくせにやけに責任感の強い奴だった。いや、子供だからか? 子供だからまっすぐに見えていることだけを信じて突き進む奴だった。
ああ、何か子供の時の俺様に似てるな。恐いもの知らずだった頃の俺様に。
「サヨリ、俺様も連れてってくれ」
守るものも何もない純粋無垢だった俺様の心と共に、安らかに眠ってくれ。
俺様はサヨリの胸に魔法石の半分を埋めると、さらに白い槐の花びらをかけて最期のキスをした。額に、唇に、頬に。
「サヨリ、愛しているよ」
さよならとは言いたくなかった。
心の半分はもう、君と共に旅だった。
これはさよならじゃない。
いつまでも、いつまでも一緒に――
「サヨリ」
別れなど自分で踏み切れるものではない。散らしかけた花びらが飛び散るのも構わず、俺様はサヨリを抱き上げ抱きしめていた。
ようやく喉から漏れる慟哭の嗚咽。
それでも涙だけは溢れてこなかった。
唸るような叫びしか、この身体からは出てこなかった。
空は変わらずからりと晴れている。俺様だけが果てることのない闇の中で押し潰されそうになっていた。