聖封神儀伝 2.砂 剣
第1章 真夏の異変
◇ 1 ◇
波音が聞こえる。寄せては返す海の呼吸。当たり前に繰り返される日々の営み。単純な繰り返しの、なんと愛しいことか。
「ああ、海よ、お前はなぜ海なんだ……!!」
「馬鹿なこと言ってないでさっさと練習試合のコート行きますよ。見学に来た俺はともかく、部長の三井さんが行かないと試合はじめられないでしょ」
「洋海、お前名前に海が入っているからって醒めた目で海を見てんじゃねぇよ。海だぞ? 青い青い海だぞ? この向こうには竜宮城があるかもしれないんだぞ? いや、ニライカナイか?」
「あー、はいはい、きっと絶世の美女がいるんでしょうね」
「そうだ! 絶世の美女だ! どこかで亀いじめられてねぇかなぁ。なぁ、洋海、お前ちょっと亀拾ってきてその辺の棒でつついてみろ」
「はぁ? 馬っ鹿じゃないですか? どこにそんな時間と余裕があるっていうんです。大体このご時世、そんなことしたら竜宮城に案内される前に動物愛護団体に訴えられますよ」
ああ、なんて可愛げのない後輩だ。これで守景の血を分けた弟ってんだから、世の中何がどこでどう繋がってるのか分からない。
「いいですか、そもそも三井さんが乗る電車を一本間違えたからこんな遅くなっちゃったんですよ? せっかく湘南の海だと思って俺だって楽しみにしてたのに……」
「あ、あそこにビキニのお姉さんが!! おねっえさーん、僕とお茶しませんかー?」
さっきまでじりじりと足の裏を焦がしていた砂も、白いビキニのお姉さんの前には何の障害にもならない。
ああ、なんてスレンダーな体なんだ。胸はほどほど、引き締まった腹と腰のくびれ、丸く形の整った尻、適度に鍛えられた足のふくらはぎ、きゅっと締まった足首。
最高だ。
惜しげもなく陽の下に晒された肉体。何より、あの男を見下したような目がいい。近づけるもんなら近づいてみろというあの目が。
俺様の呼び声に気づいて彼女がこちらを振り返る。
目が合う。なんて切れ長な目だ。She is クールビューティー。
「何だ、ガキか」
突如投げつけられたダミ声に、俺様の浮足立った足は急停止を余儀なくされた。
「ガキに用なんかないよ。行きな」
ダミ声は確かにクールビューティーの赤い唇からほとばしり出ている。
ざわっと全身が粟立った。
「シツレイ……イタシマシタ……」
右足を軸に来るっと百八十度回れ右して、俺様は一目散に今来た足跡を辿りなおす。
「悪夢だ……」
「見た目だけに囚われてるからですよ。大体このご時世、いくら開放的な夏のビーチだって言ってもナンパなんて流行りませんよ。のこのこついてくるような女のどこがいいんですか」
「分からないのか、洋海。ナンパは男のロマンだ。偶然の出会いの究極の形だ! 夏の海ともなれば、成功率は格段に上がる。どうしてか分かるか? 女も運命を求めているからだ!」
「あー、はいはい、めんどくさ。一度もナンパに成功したことのない人が何を根拠に成功率の話をしてるんだか」
「初恋もまだのお前には俺様の気持ちなど分かるまい。幾多の失敗を乗り越え出会えた運命。それこそがこの世の宝石。ダイアモンド!」
「三井さん、頭大丈夫ですか? 暑さと日差しで脳みそ融けちゃったんじゃないですか?」
「失礼な! 俺様は正気だ!」
「え? 俺様は病気だ?」
「正気!」
「病気」
「正気だって言ってんだろっ」
「あ……」
つと洋海は言い争いの口をつぐみ、俺様の背後に視線をさまよわせた。
つられて俺様も振り返る。
海からは吹き上げるように風が吹いてきていた。さほど強くもないと思っていたが、一瞬、彼女に向けて風は強く吹いたのだろう。悪戯をしたかったのか、気を引きたかったのか。風の気持ちなど分からない。ただ、白いワンピースを着て波打ち際から飛ばされた白い帽子に向けて華奢な腕を伸ばす少女は、どんな絵よりも心を揺さぶるものがあった。
俺様は荷物を砂浜に投げ出し、波の中に飛び込んでいく。見た目よりも強く押してくる波をかき分けて泳ぎ、海面に乗った白い帽子に手を伸ばす。
白い帽子は柔らかく手になじんだ。海の上なのに、爽やかなシトラスの香りが鼻孔をくすぐった。俺様はその帽子をできるだけ形を崩さないように両手でつばを持って、頭上に掲げるようにして砂浜に持ち帰った。
少女は茫然と俺様を見上げていた。
かわいらしい子だった。
肩の少し下あたりで綺麗に切りそろえられたまっすぐな黒髪。それだけでもこの帽子の持ち主にふさわしい上品さを備えている。肌は白くきめ細かく、顔立ちはまだ幼さが残ってはいるが、将来の美は約束されたも同然だった。黒目がちの大きな目を縁取る睫毛は長く、ほんのりピンク色がかった頬と綺麗な珊瑚色をした唇とはもぎたての果実のように瑞々しい。
綺麗な人形のような子だった。
「君のだろう?」
少女の前に白い帽子を差し出す。出来るだけ海水を浴びないようにはしたつもりだったが、海水がぴたりぽたりと滴り落ち、帽子の細かい網目には胡椒のような黒い砂粒が無数についてしまっている。
少女はしばし帽子と俺様とを見比べた後、丁寧に両手で帽子を受け取り、濡れているにも構わず胸に当てた。
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げると、切りそろえられた黒髪が胸のあたりで揺れた。
見た目通りのガラスを弾いたような透きとおる声だった。かわいらしい。だけど落ち着きと上品さのある喋り方。
きっとこの辺の別荘にでも遊びに来た、いいとこのお嬢さんなんだろう。俺様とは住む世界が違う。
ていうか、このざわざわとした気持ちはなんだろう。すごく早く、今すぐにでも彼女の前からいなくなりたい。
強いて言うなら、嫌な予感がする。
「じゃ」
俺様はさっきよりも機敏に回れ右をして洋海のところに逃げ出した。
「あ、あの……」
可憐な声が遠慮がちに追いかけてきたが、俺様の本能が告げている。逃げろ、と。捕まったら終わりだぞ、と。
終わり? 何が終わりなんだ?
「せっかくかわいい子だったのに、何逃げかえってきてるんですか」
荷物を持ってゆっくり歩いてきていた洋海があきれ顔で俺様を見やる。
「年下は趣味じゃない」
「えーっ、でもあれはかなりのレベルですよ? 出会い方だってべたもいいところだけど、ナンパよりよっぽど自然ですよ?」
「口説きたくて帽子を拾ってきたんじゃないやい。いいから行くぞ。あー、もう試合始まってんだろうなぁ。いやいや、ヒーローは遅れて登場するものだ」
しらじらしいくらいにぶつくさ独り言を並べながら、まだ同じ場所に立っている少女の横を通り過ぎる。
「三井さん、今日はベンチ決定ですね」
「いーや、出る! 俺様が出なくて誰が出るんだ!」
「夏城さんがいれば十分でしょ。楽勝、楽勝」
「あの……」
「星なんかに任せてられっか。あいつのサッカーはどっかワンマンなんだよ。コートには他に十人もいるんだぜ? もっと仲間を信頼しないと」
「そうですかぁ? 夏城さんのサッカー、俺は好きだけどなぁ。ちゃんとパスだって回してるし、シュートのお膳立てだってうまいじゃないですか」
「あの、もし……」
「いやいや、あいつはクールぶってるが、コートでは一番の目立ちたがり屋だぞ。シュートを決められなくても、いかに自分がいい仕事をしているように見せるかを考えて動いている」
「だから上手いんじゃないですか。夏城さんのは見せかけなんかじゃありませんよ」
「ちっ、星の信奉者なんかと来るんじゃなかったぜ」
「お急ぎのところすみません、あの……」
「三井さん、さっきからなんかついてきてますけど」
「何がだ? 俺様には聞こえないな。お前、早速海の幽霊にでも気に入られたんじゃないのか?」
「三井様!!」
名前を叫ばれてぎくりとした俺様は、仕方なく、ようやく足を止めて振り返った。
後ろにはさっきの可憐な少女がいた。緊張に張りつめた目で俺様を見上げている。
「あの、お名前を……あ、あの、三井様、とおっしゃるということは分かりましたけど、よろしければ下のお名前も……あの、帽子を拾ってくださったお礼に、わたくしとお茶を……」
「わたくしと、お茶を……?」
何かに既視感を覚えて鸚鵡返しすると、少女はぱっと赤く頬を染めた。
「は、はしたないなどと思わないでくださいましね。先ほどあなたがそうやって女性の方にお声をかけていらしたのを拝見していたものですから、その……わたくしにはお声をかけてはいただけないのかと思いまして」
ガビン。
漫画みたいだが、その時の俺様の心や体のこわばりや動きや何やらを総合するとその擬態語の一語に尽きる。
一歩退こうとして退き損ねて踵を浮かせたままの左足と、軽くのけぞった上半身に支えられて、俺様は少女を見下ろす。
少女は恥じらいの真っ最中で、俯きながら「どうしましょう。言ってしまいましたわ。どうしましょう。恥ずかしいですわ」と小さな声でうわ言のように呟いている。今にも花びらを一枚一枚むしりだしそうな勢いだ。
情けないが助けを求めるように洋海に視線を移すと、奴は二歩ほど離れた所からにやにやと俺様を眺めていた。
だめだ。完全に面白がられている。ここで返事に失敗して逃げ出すようなことにでもなったら、洋海を通じて後世まで部の奴らに語り継がれてしまう。
落ち着け、三井徹。
確かに俺様は今まで数多の女性に声をかけてきたが、女性の方から、それもこんなかわいらしい女性から声をかけられたことなんて初めてだ。これは記念すべき椿事。いや、自分で珍しいって言ってどうする。いいか、今はモテを追求する俺様にとって最高の瞬間じゃあないか。
頷け、三井徹。そして彼女を安心させる最高の笑顔を浮かべるんだ。逃げるな、三井徹。こんなかわいい子から声をかけてもらえるなんて、一生に一度あるかどうかの一大事だぞ。これはチャンスなんだ。臆してどうする。男なら掴みに行け。このどうしようもなく逃げたい気持ちは、単に経験のないこと、想像もしなかったことに脳が戸惑っているだけだ。おかしいことじゃない。当たり前のことなんだ。
だから行け。行くんだ。
「これは大変失礼いたしました。俺様は三井徹と申します。可憐なお嬢さん、君の名前は?」
顔を上げるなりぱっと輝かせた彼女に、今の俺様はどう映っていることだろう。笑顔はひきつっていないか? 声は震えていないか?
だが、どうやら少女の方も舞い上がっていたらしい。俺様の様子などちっとも気にかけるそぶりも見せず、勢い込んで覗き込んでくる。
「わたくし、稀良佳杜菜(けらかずな)と申します。私立横神女学館中等部の三年生に籍を置いております。以後どうぞお見知りおきを」
横神女学館ってこの辺の超お嬢様学校じゃねぇか。それも中学生って……。
「俺様は岩城学園高等部の二年生」
「まあ、岩城学園の。どうりで輝いたお顔をなさっていると思いましたわ」
いやいやいや、それほどでもないっす。
ていうか、この子、すげぇ調子狂うんだけど。今時珍しいお嬢様言葉だからかな。生ではじめて聞い、た……。
「徹様、とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
ズキュン。
漫画みたいだが、以下略。
徹……様……。
一瞬魂が天国に飛びそうになっちまったぜ。
「ああ、もちろんだよ。俺様も佳杜菜ちゃんって呼んでいいかな」
「是非そう呼んでくださいませ。ああ、やっぱり素敵なお方ですのね。これから御用事がありますのよね? もしかして、サッカーの練習試合ですの?」
「その通り!」
「もしよろしかったら応援に行ってみたいのですけど」
なんて積極的な子なんだ。
「君みたいなかわいい子が応援してくれれば、俺様いつも以上の力を出せそうだよ!」
「嬉しいですわ! ああ、なんて今日は素晴らしい日なのかしら! 鉱様によく似た方にお会いできるなんて!!」
ん? なんだって?
「コウサマ?」
「ええ。最近夢によく現れるアラブ系の美丈夫の方なのです。鉱土法王、土を司る神様なのですよ。あら、嫌だわ、わたくしったら今お会いしたばかりの方にこんなお話をして。きっとお気を悪くなさったでしょうね。ごめんなさい」
「い、いや……」
なんだろう。やっぱりすごく嫌な予感がする。
「ああ、やっぱり変な子だとお思いになりましたわよね? 本当にごめんなさい。気味が悪いなんてお思いにならないでくださいましね。本当にこれはただの夢の中のお話で……あらまあどうしましょう。自分が見た夢のお話を口にするなんてはしたないことですわよね」
「いやそんなこと、ナイヨ……それで、君はその夢の中で……」
いや、聞くな。聞くんじゃない。
世の中には知らない方がいい真実というものだって山のように存在しているじゃないか。
「なんて……」
とまれ、口。閉じろ、唇。
「呼ばれているんだい?」
ああ、言っちまった。聞いちまった。
佳杜菜ちゃんの顔がまたぱっと輝いている。ずいぶんと表情に表れやすい子なんだな。
「馬鹿になさらないでくださいましね。サヨリ、と呼ばれておりますの」
どこか遠くで何も始まってもいないのに試合終了のホイッスルが聞こえたような気がした。
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