聖封神儀伝 2.砂 剣
第6章 愛、一考。
○ 5 ●
「スハイル!」
鏡は大広間に駆け込むなり大声で幼馴染の名を叫んだ。
大広間にいたのは巨大な黒い熊だった。円天井じゃなければとっくに頭が閊えていただろうし、一歩横に踏み出せばもう壁にぶつかってしまいそうなほど幅も広い。だけど、さっきまで外に漏れ聞こえていた身の毛もよだつような恐ろしい咆哮は途切れ、足のつま先から首までを滑らかな黒曜石に覆われて身動きの取れないまま足元の三井君たちを睨みつけていた。
その巨大熊が鏡の呼び声に反応して鋭い金の視線を鏡に向ける。
鏡は怯むことなく三井君を押しのけ、巨大熊の正面に立った。
「スハイル」
もう一度幼馴染の宰相の名前を繰り返す。
声を封じられた巨大熊は鏡を見下ろす。憎しみと恨みと悲しみとやるせなさが入り混じった金の瞳で。顎をしゃくり上げ、威嚇しようと頭を動かそうとするが、首を固定されているため苦しげにもがくだけだ。
「そんなに力が欲しかったか? 闇獄界の魔物を身に宿してまで、力が欲しかったか」
鏡は黒曜石に覆われた熊の足に片手をあてる。
「藺柳鐶という者が現れた時、お前は一度はこの国から闇獄界へ追い帰したな。だが、二度目にあいつが現れた時、お前は拒まなかった。むしろ客人としてもてなし、言うがままになっていった。お前は力をもらったのだな。宰相という地位を越えてこの国を治めるための力が欲しかったのだろう? 私の存在が疎ましくてならなかったはずだ。無能で、魔法も学問も武道もからっきし駄目な私が自分の上に立っていること、全てにおいて劣る私に頭を下げ膝を折らなければならなかったこと、はらわたが煮えくり返って仕方がなかったはずだ。できないと分かっていて、それでも鉱土法王の血筋に縋り鉱土国王の座を譲らなかった私が、お前は憎くて仕方がなかったはずだ」
「ぐ……ぉ……お……」
開いた口から掠れた呻き声が漏れる。
「私が悪かった。だが、お前はなぜ闇獄界に屈した? 闇獄界の魔物の力など借りずとも、お前は十分に有能だった。私の無能を補って余りあるくらい、お前は持てるだけの力を尽くし、この国を支えてくれた。この国を治めるために、それほどの力が必要だったのか? なんだ、その姿は。とうに人の形も残していないじゃないか。ミルハが見たら泣くぞ」
「おぉぉ……おぉぉぉ……」
何とか振り上げた右腕を振り下ろそうと力を込めているのがわかる。ぴしり、と脆くはないはずの黒曜石に亀裂が走る。
三井君たちは洋海に押されるままに巨大熊の腕が及ばないこっちまで後退してくる。
「お前は、壊したかったんだなぁ。玉座なんてとうに諦めて、手に入らないのならこの国ごと、私もひっくるめて全て壊してしまいたかったんだなぁ。お前が闇獄界に望んだ力はそれだったんだろう?」
「う……あおおぉぉぉぉぉぉっっっ」
ぴしぴしぴしぴしぴしっ、と巨大熊の腕の黒曜石が剥落していく。首を覆う黒曜石にも太い亀裂が走り、巨大熊がぐるんと首をめぐらした瞬間、ばらばらばらと巨大な塊を足元に降らせた。
巨大熊の腕が振り下ろした場所は明確に鏡の頭の上だった。あの身体の大きさでよくも普通の大きさの人間の頭上に狙いが定められたものだと感心してしまうくらい正確に、見上げた鏡の上に黒い拳が振り下ろされていく。その拳の中に鏡の姿は消えていく。
わたしは思わず目をそらした。きっとみんな顔を伏せたと思う。片手で耳をふさぎ、片手で口元を抑え、次なるショッキングな映像に耐えようと心の準備をしたはずだ。だけど、耳には今日の悲鳴は聞こえてこなかった。想像したくはないけど、潰れる音も聞こえてはこなかった。
恐る恐る顔を上げると、拳はぎりぎりで少し開かれたのだろう。拳の中に、鏡は握られていた。
巨大熊は握った鏡をゆっくりと頭上の掲げる。
鏡は身動き一つせずに大人しく巨大熊に握られている。
気を失ったんだろうか? それとも――?
巨大熊は左手の黒曜石も払い落とし、両手で鏡を握りつぶしにかかる。でも、鏡は表情一つ変えずに憐れみを込めた目でスハイルを見下ろしている。焦るを象徴するように巨大熊の咆哮は大きくなっていき、やがて頂点に達した瞬間、腕は胸のあたりまで急降下し、巨大熊は大粒の涙とともに天を仰いだ。
解けた両手から鏡の身体が滑り落ち、無様に転がる。その上にスハイルの目から零れ落ちた涙がいくつも降り注ぎ、鏡は這いつくばりながら膝を折って座り込んだスハイルの前に立つ。
「スハイル、お前は神界人だよ。心までは完全に闇に落としていなかった。悔しいだろうが、お前は闇には棲めん。藺柳鐶に利用されていると分かっていながらも全てを壊す力を求めたのだろうが、お前には壊せないよ。長年潔癖なまでの心で宰相を勤め上げてきたお前が、この国を壊せるわけがないだろう。お前を追い詰めたのは私だな。お前が望むなら鉱土王の玉座でも何でもやろう。私は退位する。それでいいか?」
鏡の周りに数多のスハイルの拳が降り注ぎ、その全てがぎりぎりのところで外れていった。目はどんどん悔しさに燃えていく。悔し涙が溢れ出していく。
「ぉ、まぇは……っ、ぃつもそう、だ。ぃつも、肝心なところ、で……逃げ、る。ミルハのことだって、そうだ。あいつはお前、が、好き、だった、のに……ぉ前が、諦、め、て……不幸、に、な、った……お前、が、ミルハ、を、不幸に、し、た。今度は、王位、だ、と? ふざけ、るな。お前はいつも、私の欲しいものを、先に手にしておきながら、私が欲していると悟るや、投げ、出す。私、が、ほしい、の、は、王、だ。私、が、戴くにふさわしい、王。私、が、どれほど、の、辛酸を、舐め……て、お前に、膝を、屈してきたと、思、う。ぃつ、か、お前、の、目が、醒める、だろう、と、いつか、ぃつか……と、思っている、うち、に、私は、後戻りできないほど、老いて、しまっ、た。なの、に、ぉ前は、私が、まだ、現役だと、思って、いる。自分と同じく、若く、希望に溢れ、身体の自由も利き、心も柔軟だと、思って、いる。自分と、同じ、だと。俺、を、自分の代わりに立てたあの時と同じように、いつまでも俺と自分が同じだと、思っている。それとも、お前、は、気づかないふりをしていただけか。知らぬふりをしていただけ、か。目をそらし、自分よりも先に老いていく、私、を、見ぬように、見たくもないから、玉座から遠ざかろうとしたか。阿呆が。……阿呆、め、が……っ……!」
身体中の黒曜石が剥がれ落ち、振りかざす腕も拳も次第に小さくなっていく。黒い体毛が抜け落ち、背丈の縮んだ髪の真白い老人が一人、鏡の正面に現れる。
「見ろ、この老いぼれた身体を! 瞼をこじ開けてよく見ろ!!!」
威勢よく言い放ったものの、膝はがくがくと震え、やがて前のめりに倒れた。茫然としていた鏡がその老人の身体を抱き留め、脱いだ上衣でくるみこむ。
「私が、悪かっ……た」
声を絞り出した鏡は老人を抱きしめ、大声を上げて泣き出した。
「私が求めてきた王は、お前だ。若かりし日からずっと、私はお前に何一つ敵わなかった。お前が鉱土法王の血を引いているからじゃない。不老不死など望んだこともない。私がお前にずっと敵わなかったものはそんなものじゃない。鏡、お前は魔法が使えない。だが、キルヒース鉱山の鉱石の掘削量が増えたのは、お前がターム川に一本橋を増やせば運搬が楽になるんじゃないかと言った一言のお蔭だろう? 水を引いて砂地を緑化し食糧自給率を上げられたのも、お前が食料を輸入しなければもっと支出を抑えられるのにという一言がきっかけだ。お前は魔法が使えない分不便な者の気持ちがわかる。小難しいことをぐだぐだと考えない分、先入観なしで物が見られる。だから、こうだったらいいのにな、といつも気軽に俺に言う。お前は俺ならなんでも可能にしてくれると思っていたんだろう? そのとおりだ。俺はお前の一言を政治に活かしてきた。俺一人ができる政治は、本に書いてある基本的なことをなぞることくらいだ。だが、お前の視線は国民が真に望んでいることを常に捉えていた。お前は魔法は使えない、勉強はできない、剣も持てないと周りから言われて腐っていったかもしれないが、俺にとってはお前の視線が、気づきがとても新鮮で、何よりも大切だった。俺一人では国民に何の益ももたらせない。分かるか、鏡。お前は何もできない王じゃない。お前は、この国に欠かせない王だったんだ」
鏡が息を呑むのが遠目にもよく分かった。
スハイルは長々と喋ったのが身体に障ったのか、全身を縮めて咳き込みはじめ、やがて口元を押さえた手の平から黒い血が漏れだした。
「スハイル、いつから……。あんな姿になったからか? まだ瘴気が身体の中に残っているのか? ちょっと待ってろ、今治癒か浄化を頼むから……」
きょろきょろとした鏡はわたしに目星を付ける。
だけど、鏡がわたしを呼ぶ前に、スハイルは鏡の肩を強く掴んだ。
「魔法では国は治まらない。魔法だけではだめだ。分かったな、鏡」
友を諭すようにスハイルは言うと、細い身をよじって鏡を玉座の上に押し上げ、自分は二段下から鏡を見上げ、無駄のない所作で跪き、頭を垂れた。
「どうか、よい王とお成り下さい」
鏡は茫然と立ち尽くし、老いた親友を見下ろしている。狼狽えたまま何度か口を開閉し、それでも微動だにせず上げられない頭を見て、ようやく鏡は口の開閉をやめて薄く唇を開いたままになる。
「スハイル、よい王とは何だろうな。私はお前なしで王など務められるものか。なあ、そうだろう、スハイル!」
スハイルは頭を垂れたまま動かない。
鏡は再び口を閉じる。
鏡は信じたくなかったのだろう。すでにスハイルの魂が身体の中に残っていないなど。でもね、スハイルはまだそこにいるよ。身体に重なる形で、まだ鏡に跪いている。約束の一言を待っている。
鏡は額に手を当て、目を閉じ、一度かぶりを振って長い黒髪を揺らした後、真っ直ぐにスハイルを見下ろした。
「わかった、約束しよう。私はお前の望むよい王となろう。魔法に頼らずとも人々が生活を苦にしないような国を、私が作ろう。だから――」
スハイルを見る鏡の目に一瞬苦しみがよぎる。目を閉じてその苦しみをやり過ごした鏡は、努めて明るい表情を作って微笑んだ。
「いや、いつかまたお前がこの国に生まれ変わった時、笑って暮らせる国を作って待っているから、だからまた……私に会いに来い」
涙も有り余る気持ちも呑み込んで王として答えた鏡の言葉に頷くように、スハイルの身体は頭から静かに崩れ、砂となっていった。
ここに来るまでの間、鏡はひたすらスハイルが自分を殺さずに王宮から放逐したことを不思議がっていた。そして、あくまでも宰相の立場を貫き通し、決して王とは名乗ろうとしなかったことも。
闇獄界の魔物を身体に宿したくらいだ。積もり積もった恨みや憎しみ、怒りはあったのだろう。だけどそれは王としての鏡に期待し、それを裏切られ続けて失望させられてきたせいだったのだ。もしかしたら王である鏡を宰相である自分がうまく支え国を豊かにする夢を見ていたのかもしれない。それなのに鏡はどんどん王であることをやめはじめ、自分は老齢となり、寿命に影が差してきたことを知って歯がゆさに焦ってきたところを藺柳鐶に付け込まれた、と。
砂となって形を失った場所に、スハイルの魂はまだ跪いたまま鏡を見上げていた。肩が震えている。その肩を、見えているのかいないのか、壇上から降りてきた鏡が抱きしめた。
「約束だぞ」
鏡のその一言を噛みしめるように頷いたスハイルの魂は、煙のようにすーっと消えていった。
くしゃっと鏡の顔が歪む。大泣きを始めるかと思いきや、鏡は泣かなかった。しゃくりあげながらも涙も声も呑み込んで、何とか唇を引き結んでじっとスハイルのいた場所を睨みつけながら立っている。
つと、鏡とわたしたちをここまで案内してきてくれた近衛隊長のファウシードが足音を響かせ、スハイルがいた一人分を空けて鏡の前で気を付けをした。そのままきびきびした動作で床に片膝をつくと正面に剣を置き、斜め四十五度に頭を垂れた。
「お帰りなさいませ、鉱土王」
張りのあるバリトンに、大広間の入り口で恐る恐る中の様子を窺っていた大臣や貴族階級っぽい人たちが慌てて中に戻って来、ファウシードの左右両横や後ろに並び跪いていく。
「すまない、みんな。戻ってきてくれてありがとう。どうか私の拙き政に力を貸してくれ」
「ははーっ」
それは大広間の円天井までゆったりと満たす厳粛な応えだった。
「メルにもあんな友人が側にいたら違ってたのかな」
こっちに戻ってきていた三井君がぼそっと呟いた。
あるいはそうだったのかもしれないし、それでも運命はメルを闇獄主の一人〈怨恨〉へと導いたのかもしれない。それは、誰にもわからない。
三井君は佳杜菜さんに寄り添われたまま深く息を吐き出し、ぐっと気合の入った顔を上げた。
「これからって時にすまん。だれか藺柳鐶の居場所を知らないか」
三井君のよく通る声に、鏡に跪いていた人々が顔を上げた。
「藺柳鐶……たしかスハイル様が魔物と化して大きくなり始めたあたりから姿が見えなくなった気が……」
「ああ、私はここから出てキルヒース山の方に飛んでいくのを見たぞ」
「あの蝙蝠の羽か」
「そうだ、あのぞっとするような翼でそこの窓から出て行った」
指差した窓の向こうに見えるのはキルヒース山の尾根だった。
「わかった、ありがとな」
三井君は多くを聞かず、語らず、大広間を後にすると額に手を当ててキルヒース山の頂を見上げた。
「母親の墓参りたぁ、健気なもんだぜ。な?」
佳杜菜さんは三井君の横で苦笑する。
と、その時だった。
キルヒース山からいくつかの爆音が耳をつんざいたかと思うと、にわかに足下ががくがくと揺れながらお腹に低く響く地鳴りがはじまった。恐怖を掻きたてながら、地鳴りはやがて大きな振動となり、地面が波打つように揺れだす。壊れかけていた大広間の屋根や壁からはぱらぱらと欠片が落ちはじめ、中からは人々が慌てて逃げ出してきた。震動はなおも倍加しながら続き、ついにキルヒース鉱山の芯を突き上げるように地響きが走ったかと思うと、巨大な花火が弾けたような轟音が天蓋を震わせ、空は一瞬にして真っ赤に染まりあがった。
空を染めた真っ赤な火山礫はあたりかまわず落下し、怒号とともに建物や森に火をつける。それだけじゃない。山頂からはべろりと溶岩が赤い舌を出した。
「〈結界〉」
わたしは周りにいる二十人ほどを覆う結界を張る。でも、ここにいる人たちだけを守れても、城門前で戦っている桔梗や葵たちは? カールターンの都の人たちは?
ここでこうしていても駄目だ。
根本から何とかしないと。
「藺柳鐶め、爆弾で噴火を誘発したな」
三井君は舌なめずりするとパンッと両掌を打ち合わせて気合を入れ、長い呪文を詠唱するために深く息を吸い込んだ。
「待って」
わたしは三井君の腕を掴む。
「火山ならわたしがなんとかするわ。三井君はメルーチェのところに早く行ってあげて」
「何とかするって、守景ちゃん、どうするつもりよ。あれは俺様の領分だぜ?」
「一昨日もやったように噴火の中身を異空間に閉じ込める。同時に催眠で山の活動を抑える」
「何言ってんだよ。一昨日だってそれやって、さらに渡り使って倒れちまったんじゃねぇか。そもそも異空間につなげたって質量は変わらないんだからいっぱいいっぱいになるだけだろう? 催眠ったって山だぞ? そん所そこらの人間相手にするのとは違うんだ。そんな大技二段構えなんてやったらな、今度こそ守景ちゃん死んじゃうぞ。いいから、俺様なら土の精霊王様がついているからな。噴火なんてすぐすぐ治めてみせるって」
「やるのは俺だけどな」
「父さん、私も手伝いますよ」
「ほら、な。みんなこう言ってくれてっから安心して任せてくれって」
三井君が胸を叩いている間にも、頭上の結界には数多の火のついた火山礫がぶつかっては滑り落ちていく。建物は次第に炎に呑まれ、森は赤くなっていく。と、暗く赤かった空に今度は白い霧が混じりはじめた。霧は風に乗って辺り一帯を包み込み、やがて雨を呼ぶ。
山頂から降ってくる火山礫とそれを消そうとゲリラ豪雨のごとく降りしきる雨。霧は一層濃さを増し、結界を叩きつける音は耳を塞ぎたくなるほどだ。
「藤坂が本気だしてら」
頭上を見上げた三井君にわたしも激しく同意しながら、ちらりと夏城君を振り返った。夏城君はちょっと上を見上げてから口を開く。
「徹、お前昨日割と元気な状態であいつとやりあって完敗だったよな。錬のサポートがあって、誠の力最大限に引き出せたとしても、その力を使うのはお前自身だ。昨日よりもダメージでかいぞ」
「んなこたぁ分かってるよ。いいんだよ、今度は全力で斃しに行くわけじゃない」
「それならなおさらだ」
「あ?」
「止めるなら早い方がいい。爆弾で火山の噴火を誘発したくらいなんだ。今度は何をしでかすか分からないぞ。鉱土宮だけじゃない、鉱土の国全体に地雷やら時限爆弾やらばらまきに入ってるかもしれない。鉱土の国だけじゃない、神界ひとつ塵にするくらいの覚悟、とうにあいつは決めてるんじゃないのか?」
三井君は息を呑み込む。
「徹様、ここは樒さんたちにお願いしませんか? もっと大変なことになってしまう前に、わたくしたちはメルのところへ急ぎましょう」
佳杜菜さんに腕を引かれて、三井君は苦い顔で頷いた。
「分かった、頼む」
「三井君」
「ん?」
「佳杜菜さん」
「はい」
三井君と佳杜菜さん、二人の顔を見ながら、わたしはついさっき会ってきたメルーチェのことを思い出す。彼女の想い全てを伝えたかった。悲しい結末に、胸を張って挑もうとしていることも、自分を責めざるを得なくなっていることも、この世の全てを恨めしく思っていることも、全て伝えてしまいたかった。でも、できなかった。
メルーチェの狙いを外すことが正しいのか、それ以外に三井君たちが採れる方法があるのか、わたしにはわからなかった。全てを伝えたところでどうするかを委ねるなんて、無責任なようにも思えた。
だけどたった一つ、知っておいてほしいと思うことがあった。
「メルはほめられたいって言ってた。父と母に、よくやったとほめてほしいと。責めることも責められることも、もう疲れたんじゃないのかな」
三井君と佳杜菜さんは考えを共有するように顔を見合わせ、確信を込めて頷いた。
「それじゃあ、わたし行くね。あ、結界解けちゃうから、錬、わたしが出たらすぐに切り替えて」
「分かりました。キルヒース山のこと、お願いします」
「うん」
錬に頷いて見せ、わたしは〈渡り〉を唱えるために一度手を胸にあてる。
「待てよ、姉ちゃん」
それまで極力視線を合わせないようにするのは元より、できるだけ視界から外していた洋海が、抗議するようにわたしの前に進み出てきた。
「な、なぁに?」
やっぱり視線は泳いだままだ。
不機嫌と分かるオーラを出しながら洋海がわたしを睨みつけている。
「特に何もないなら……」
「戻ってこいよ?」
「……」
「鉱土の国から帰ったら、一番に姉ちゃんの病室に行くから、だからその時は、ちゃんと起きて待ってろよ。いいな?」
身体に戻っていろと。結局戻る方法も分からなかったのに?
おずおずとわたしは顔を上げる。
そこには洋海の真剣な顔があった。
「わかった」
約束した、と言えるんだろうか。でも、たとえ叶わないことであっても、その場凌ぎと言われても、洋海の顔を見たらそう答えるしかわたしにはなかった。
「それから、忘れ物」
大仰に頷いたかと思うと、洋海はぐいっと夏城君をわたしの方に押しやった。
「お守り代わりに持ってって」
「誰がお守りだ」
「夏城さん、」
「……ああ、分かってるって。無理はさせない」
わたしの視線より上で交わされた洋海と夏城君二人の無言の会話の中身を、わたしはうっすらと感じ取っていた。
「それじゃあ――〈渡り〉」
夏城君の服の裾を掴んで、わたしはキルヒース山山頂近くの火口へと移動した、つもりだった。
「え、嘘、ここ、どこ!?」
足下にはぱっくりと割れた火口が真っ赤な口を開き、煮えたぎったマグマでうがいしている。すぐ目の前を真っ白な蒸気が噴き抜けていき、ポンポンポンポンとお手玉のように人よりも大きい岩石が四方八方に飛び散っていく。
「火口の真上だな」
夏城君は冷静だ。
「お、落ちる……!」
「大丈夫だろ」
そういう夏城君の髪は下から吹き上げる風に吹かれている気配もない。結界に覆われているんだ。
「どうしてこんなところ……」
「ここの方がやりやすそうだったから」
「何、を……?」
尋ねて、ふと一昨日の記憶が脳裏をよぎる。
『守景、俺がサポートするからあれをこの空間から切り離せ』
サポートって、言ってた。
「一昨日やってみて分かっただろ? お前の〈時空断絶〉だけじゃ、中身を異空間に移動するだけだから、移動先が膨れ上がるだけだ。でも、場所さえ区切ってもらえれば俺ならその中身を無にすることができる」
「無に? 一昨日言ってたサポートって、もしかしてそういうこと?」
不意に夏城君が遠くなったような気がした。全然知らない人がそこにいるかのような不安に襲われる。
夏城君自身も、自嘲気味というかどこか心許なげだ。
どうして夏城君が異空間に映した中身を消してしまえるのか。ああ、それだけじゃない。昨夜、工藤君のペンションから帰るとき、結構距離があるはずの病院近くに「飛び越えた」って言ってた。
本当に龍兄なの?
口にしかけて呑み込んだ。
龍兄も、何か隠していることがあった。たとえば、ちび聖が龍兄の寝室に行った時、翡瑞もなしに聖を聖刻城に送ってきたとパドゥヌが言っていた。聖の記憶だって長らく封じられたままになっていた。
龍兄も時空魔法が使えた?
でも、聖の魔法では無にはできない。この世に存在する質量を変える魔法は、わたしたち法王でも使うことはできない。足し算や引き算はできても、掛け算や割り算はできないのが精霊王と契約して使う魔法なのだ。無にするということは、今あるものにゼロを掛けるということ。そんな魔法は聖ですら使えない。
『なあ、泉明神如という名に心当たりはあるか?」』
ううん、知らない。でも、すごくよく知っている気がする。聞いたことがある気がする。とても――とても、懐かしい名前。久しく呼ばれることのなかったとても大切な。
ドーンと火口が二度目の火を噴く。
吹き上げられたマグマはわたしたちの周りを丸く避けて天を塗りつぶしていく。
わたし、今結界なんて張っていないのに。
誰、なんだろう。
ああ、でもそんなこと聞いたら夏城君が一番困るよね。その表情は夏城君でさえ力の正体が掴めていないという顔だもの。
それでも揮える力。
「俺とお前の秘密だからな」
夏城君は念を押すようにわたしを見る。
「うん……」
戸惑いながらわたしは頷く。
「急ぐか」
「うん」
もう一度頷いたわたしは深く息を吸い込んだ。
『連結されし時空よ しばしその戒めを解け
内包されし悪の実を 我らから遠ざけよ』
「〈時空断絶〉」
火口も含めて噴きあがる溶岩の周りを切り取る。
と、その直後、切り取られた空間の中から一切が消え去った。
赤く燃えていた溶岩も、噴出していた水蒸気も煙も、火口の口の部分も見えなくなり、すっきりとした視界の中で切り取られなかった火口の中で煮えたぎるマグマが見えている。
本当に消した。
呪文も身振りも手ぶりもなしで、何の合図もなしに消してしまった。
思わずわたしは夏城君を見上げてしまう。
夏城君は哀しげな顔でわたしを見下ろした。
「そんな顔で見るな」
「ごめん」
慌てて顔を伏せる。
「恐いか?」
「う、ううん」
「俺は恐い。何の力か、誰の力か分からないんだからな。だが、使えるもんは使っとくに越したことはない」
「身体は? 身体に影響は出ないの? 息が切れたり、胸が苦しくなったり、意識が遠くなりそうになったり……」
実は全部、今わたしに出ている症状なんだけど。
「今のところ、ないな」
申し訳なさそうに夏城君はわたしの額に指を滑らせた。樒の身体だったら、きっと脂汗が浮かんでいたことだろう。それとも、この姿でも浮かんでいたんだろうか。
火口ではまたせりあがってきたマグマが、八割くらいのところでぐつぐつといっている。
「今更だけど、火山のマグマ全体を時空断絶で覆いこんで消してしまえばよかったのかも」
「それをやるとこの世界の大地が死ぬぞ。マグマは大地の血液みたいなもんだからな。火口から見えてるのは一部分だけで、根っこは神界の地下深くまで達しているはずだ。あれが対流することで、地震や火山の噴火は起きるが、資源となる鉱物もたくさん作られる」
「あ、そっか」
「大地が死んだら作物も実らなくなって、神界自体が滅んじまう」
「そうだよね。考えてみれば、地の精霊ってすごいんだね。母なる大地だもんね。破壊と再生を繰り返しながらたくさんのものを育んでいるんだね」
水かさが増すようにマグマは喉元九割くらいのところまでせりあがってくる。
「少し眠って落ち着いてもらおうか」
そう言っている自分が次第に瞼も上がらないほど眠くなってきていたのだけれど、わたしは渾身の力を込めて瞼を押し上げ、口を開いた。
『眠れ 眠れ 母なる大地よ
内に抱えし怒りとともに しばし安息の眠りにつかん
時は汝が上に翼を落とし 汝の怒りを持ち去らん
目覚めし時を心待ちて 今はただ 優しき過去の夢を見ん』
「〈催眠〉」
「龍兄、アップルパイ作ってきたよ!」
勢いよくバスケットからアップルパイを出したものの、聖刻の国からロガトノープルまで来る間に北の寒さにやられて思いのほか冷めてしまっていた。もはや湯気の一本も立ちやしない。
そりゃあね、距離が距離だし、冬だし、そもそもロガトノープルは寒冷な気候だからしょうがないかもしれないけれど、それでもちょっと、常温よりも固くなっているのは火を見るよりも明らかだった。
『時の精霊よ アップルパイをできたての時まで巻き戻……』
「こら、安易に時の魔法を使うんじゃない」
にゅっと龍兄の大きな手が伸びて、切り分けられたアップルパイを一切れ掴んでいく。
「あ……」
ぱくりと龍兄は大きな口を開けて半分くらいを一気に口の中に入れてしまった。
「あ~っ、冷たいのに、まだあっためてないのに!」
しゃりしゃりとリンゴを噛む音がする。
「そうか? おいしいぞ、シャリシャリしてて」
「それ半分凍ってるから! もうっ、魔法が駄目なら厨房であっためなおしてくるのに」
「うん、シナモンは控えめだし、表面のテカリも綺麗だし、リンゴも柔らかすぎず固すぎずでちょうどいい。甘さも控えめでちょうどいいし……」
賞味に夢中になっていた龍兄は、ようやく下から見上げる私の視線に気づいたらしい。
「おいしい?」
本当はちゃんとあっためて一番おいしい状態で出したかったんだけど、それでもつい、聞いてしまった。
龍兄は一瞬の沈黙ののち、破顔する。
「今までで一番おいしいよ」
「やった! で、愛優妃のとは……?」
恐る恐る尋ねると、龍兄は意地悪く微笑む。
「それはまだまだかな」
「ちぇ~。お世辞でも愛優妃のよりおいしいって言ってくれればいいのに~」
もちろん、お世辞で言われたって嬉しくないけど。でも、ちょっとは龍兄の好みの味に近づけたかなって思うじゃない?
「愛優妃の味は誰にも真似できないよ。このレシピ、炎から教わったのが元になっているんだろう?」
今よりもう少し小さいときに、炎姉さまから初めて教えてもらった愛優妃のアップルパイのレシピ。初めて作った時は炎姉さまも手取り足取り手伝ってくれたのに、ぐっちゃぐちゃになって見る影もなかった。そんなアップルパイでも龍兄は美味しいと言って食べてくれたんだけど、自分で食べた時には吐きそうまではいかなかったけど、人が食べれるぎりぎりのラインのものだったと思う。
その時よりはだいぶ上達して、今はパイ生地のパリパリ感も重層感も出せるようになったし、リンゴに火が通っていないなんて言うこともなくなったつもりなんだけど、どうしてだろう。炎姉さまが手本に作ってくれたアップルパイの味からどんどんそれていっているような気がする。
「それは聖の味覚の好みと炎の味覚の好みがそもそも違うからだよ」
「でも炎姉さまの味が愛優妃の味なんでしょう?」
「それはどうかな」
龍兄は二切れ目に手を伸ばしながら苦笑する。
「炎の味覚の好みと、愛優妃の好みもまた違うだろう。長らく口にしていなければなおさら、自分の好みに知らず知らずのうちに偏ってくるもんなんじゃないのか?」
リンゴは柔らかく、でもちょっと歯ごたえが残るように蜂蜜で煮込む。そうすると噛んだ時に静かな場所ならシャリシャリとかすかな音がする。
龍兄はどうやらそれくらいの硬さが好きらしい。そう気づいたのは何度もアップルパイを持って行っているからだ。甘さも普通がいいってパドゥヌは言ってたけど、やっぱり控えめの方が好きみたいだ。
炎姉さまから教わった愛優妃のアップルパイのレシピは、龍兄に食べてもらう度にちょっとずつ改良されている。
「愛優妃のアップルパイは甘かったよ。これでもかっていうくらい激甘だった」
「え゛。だって、龍兄甘いの苦手でしょう? なのに好きだったの?」
さっきの苦笑よりもよりほろ苦さが増したのは、ストレートのコーヒーを啜ったからという理由だけではなさそうだった。
「子供の頃と今と、同じ味覚なわけがないだろう?」
「そりゃそうだけど」
なんか、それだけじゃないような気がするのよね。
たとえて言うなら、綺瑪さんのお墓参りしていた龍兄の背中を見た時の気分というか、ユジラスカの愛人の話を立ち聞きしてしまった時の気持ちというか。それよりは心をつつくものはもっと柔らかくはあるんだけれど、気になってしまうじゃない。
「龍兄の初恋って、もしかして愛優妃?」
その日、私は初めて龍兄が勢いよく飲み物を吹き出す姿を目撃した。
過去の女、三人、か。
一人は母親で、一人は亡くなっていて、一人は今は現役だけどそのうち過去になる予定。
私が四人目になれるのかどうか。
「ねぇ、龍兄。私のこと、好き?」
二切れ目を平らげた龍兄は不思議そうに小首を傾げる。
「好きだよ」
照れる気配もなく龍兄は真顔で答える。
そうじゃ、ないんだけどな。やっぱりまだ、まだまだなんだな、私。
「よし、がんばろうっと」
「何をがんばるんだ、何を」
「そんなの、いろいろよ。アップルパイをもっと美味しくして龍兄の胃袋掴んで、早く大人になって、胸もおっきくなって腰のくびれも作って、それから……」
「お嫁さん、か?」
「……何よ、もう。悪い?」
龍兄のお嫁さんになりたい。
その口癖はもう封印したのに、龍兄は笑顔でからかってくるんだから。
「楽しみにしてるよ」
三切れ目に手を伸ばした龍兄は、何事もなかったかのようにそれを口に運ぶ。
でも、私は。
真っ赤になったまま固まっていた。
本気で期待しているわけじゃないって分かってる。小さな妹をからかっているだけだって。それでも、そんなこと言われたら私が期待したくなってしまう。
「あ、聖も食べるか? ほら、あーん」
口に運びかけた三切れ目を、龍兄は私の前に差し出した。
また子ども扱いする。
唇を尖らせはしたものの、私はそれにかじりついた。
パドゥヌが見たらお行儀が悪いって言われたかもしれないけれど、幸い、今はお湯のおかわりを取りに行っている。
「うん、これが私が今まで作った中で一番おいしい味ね。この間よりもリンゴはちょっと柔らかめで甘酸っぱいかしら。生地もぱりぱりよりはちょっと柔らかめが好きなの?」
龍兄は具体的にどこがどうなんて言ってはくれない。今までで一番おいしい、か、まあまあだね、か、おいしいよ、の三択だ。まあまあだねって言われた時は前の方がおいしかった時。おいしいよ、の時は前とどっこいどっこいの時。今までで一番おいしいよというときは、前よりもおいしい時。後は自分の舌で差異を見つけ、作った過程と照らし合わせて覚えるしかない。
だけどこの日はいつもより一言多かった。
「まだ気づかないのか?」
「ん?」
「俺が好きな味は聖が自信満々で持ってきてくれたときの味だよ」
「……」
またこの人は、妹殺しの台詞をさらりと言ってくれちゃって。
「持ってきたときの表情や声が明るいと分かるんだよ。あ、今日はうまくできたな、って。ちょっと暗かったり自信がなさそうだと、大体その通りになっている」
ちゃんと見られているんだって、今更ながら思う。見てくれているんだ、って。それが歯がゆいと思うのは、やっぱり私、贅沢なのかな。
「だから今日はとてもおいしいよ」
龍兄は私が一口かじった残りの部分を当たり前のように食べてしまった。
かぁ~っと頬が火照ったのは言うまでもない。
が。
「まあ、やっぱりちょっと凍ってるかな」
賞味しながらちょっと眉根を寄せた龍兄の前から、私は残り三切れを乗せたお皿を取り上げた。
「温めてきます!」
足音高く、私は龍兄の部屋を後にして厨房へ向かった。
「もうっ、デリカシーがないんだからっ」
「あら、聖様どちらへ?」
「厨房よ。アップルパイあっためてくるから先に行ってて」
ポットを持ったパドゥヌとすれ違って、階段を半ばまで降りたところでちょっと溜息をつく。
最近龍兄と一緒にいても、お嫁さんになりたいって言わないようにしている分、素直じゃなくなってしまった気がする。素直じゃないと、一喜一憂する心を隠すのも容易じゃなくて、昔よりも疲れてしまうような気がするのよね。
「大人、かぁ」
私、順調に大人になれているのかな。身体はまだ十二歳くらいなものだけど、あと三つ歳が増えれば成神して大人になるわけじゃない? 私、本当に大人になれるのかなぁ。素直だった小さい頃の方が、なんとなく今よりもましだった気がするんだけど。
「なんだ、聖、具合悪いのか?」
後ろから龍兄の声がして、私はびくりと肩をそびやかす。
「あ、えと、そんなんじゃないよ。それよりどうしたの? お部屋で待っててくれればいいのに」
「待ちきれなくて」
「待ちきれないって、そんなにおいしかった? このアップルパイ」
子供みたいなことを言う龍兄に思わず私は苦笑した。
「ああ、半分凍っている以外は」
口を尖らせる私を無視して、龍兄はさっと残り三切れのアップルパイの上に手のひらを滑らせた。
ふわりと温かなリンゴの香りが鼻孔に届く。
「秘密だぞ?」
いたずらっぽく笑って、龍兄は私の手からお皿を取って部屋へ戻る階段を上りはじめる。
お皿の底に添えていた手には、ほのかな温もりが残っていた。
リンゴの香りがする。
甘いリンゴの蜜の香り。
今日はこのリンゴを摘んで、あの方の大好きなアップルパイを作ろう。きっとお喜びになってくれるでしょう。この香りなら、きっと甘酸っぱくて、適度に歯ごたえのあるフィリングが作れるもの。
空を見上げるとほんわかとした雲がいくつか浮いた水色の空が見えた。日の光はそろそろ真上に差し掛かろうかというところ。庭の外はいつもの通り人々の生活音に溢れていて、外も内も関係なく飛び交う鳥たちはつがいを求めてピーピーと啼きあう。
今日も平和な一日になりますように。
願いを込めてリンゴを一つ摘む。
特定の方向にひねってやると、リンゴはころんと手のひらに落ちた。
「泉明神如ー? どこだーい、泉明神如ー?」
ああ、あの方が呼んでらっしゃる。
「ここです! 今参ります」
手早くもう一つリンゴをもぎ取ると、私は館へと急いだ。
このところあの方はどうも目の調子が良くないみたいで、ともするとふらふらと壁にぶつかったり、足下にあるものに躓いたりしてしまうのだ。
「泉明神如ー?」
私の声が聞こえなかったのだろうか。
もしかしたらお耳も遠くなられてきたのかもしれない。
かすかな不安が胸によぎる。
「ああ、いたいた、泉明神如。そろそろお昼の準備をしようと思ったんだが、パスタの鍋はどこだったかな」
予想通り、あの方はかごいっぱいのトマトを抱えながらふらふらとあらぬ方向へ向かっていた。
「もう、お昼の準備は私がいたします。どうせ一番食べるのは私なんですから」
「でもほら、アルト・バロンがさっき採れたてのトマトと玉ねぎを届けてくれたんだ。それからお肉も。折角だから腕によりをかけてミートソースを作ろうと思って」★
全く、自分はお肉食べられないくせに。
「はいはい、ではソース作り用の鍋を用意いたしますね。お肉は私が調理しますから玉ねぎを刻むところからお願いしますね」
「うっ、あれ目に染みるんだよなぁ」
「それならそれも私がやりますからトマトソースだけを……」
「いい、いい、私がやるから。それよりお前は腕によりをかけて午後のデザートを作っておくれ」
リンゴを見つめる青みがかった黒い瞳はきらきらと輝いている。
もう、全くしょうがないなぁ。
くすぐったいような、それでいて満たされた気分になりながら、私は大きく頷いた。
「お任せくださいませ、――帝空神様」
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