聖封神儀伝 2.砂 剣
第6章  愛、一考。


 どうして助けられなかったんだろう。
 どうしてあとを追いかけられなかったんだろう。
 メルが連れていかれる様はしっかりと視界の中に刻まれているのに、どうして俺様は追いかけなかったのか――
 西楔周方を守る西方将軍ヴェルド・アミルから周方北西部に時空の歪みが現れたと報告があったのは、豊穣祭も終わった九月も末日のことだった。今年も神界全土が豊作の喜びに湧きかえり、歌い、踊り、飲み疲れてベッドに突っ伏していたところを俺様はサヨリに叩き起こされたのだった。
 ヴェルドからの使者の話では、時空の歪みは大した大きさではなく、闇獄界軍が侵入してきたとしても大した規模にはならないだろうという見立てだった。歪みが生じた場所は鉱土の国よりも風環の国の方に近いことから、応援要請も風の方に多くを割いてもらう予定だと言っていた。鉱土の国には、多少手薄になる南方の守備にあたってほしいとのことで、俺様は二つ返事でこれを了承した。
「父上、周方に赴かれるのですか?」
 使者が退室した後、十五を迎えようという錬が珍しく目を輝かせて俺様の前にやってきた。
 不謹慎だということは、錬が一番よく分かっているはずだ。それでも訊かずにはいられなかったのは、今度こそ実戦で己の力を試してみたかったのだろう。
 勇ましいのは悪いことじゃない。錬は己の力を過信して向う見ずに突っ走るようなタイプじゃない。俺様とサヨリの息子にしては、どんな時だって冷静に一歩引いたところから物を見られる奴だ。剣や体術の腕だって同い年の兵士たちよりは優れている。才能もあるかもしれないが、錬の場合はどちらかというと努力という才能に恵まれたんだろう。
 そんな錬をこれまで戦場に連れて行かなかったのは、他でもない。我が子を戦場になんて出したくなかったからだ。いくら武芸に秀でていようが、年に似合わぬ冷静さに恵まれていようが、戦場はまじめな奴ほど価値観がひっくり返りやすい。成人もしていない子供を連れていくにはあまりに過酷な場所だった。だが、十五歳ともなれば成人とみなされる歳。これまでのように年齢を盾にのらりくらりとかわすわけにもいかなくなる。何より、鉱土法王の息子が戦場を見ずに生きていけるはずはないのだ。百パーセントありえないが、もし俺様に何かあったら、錬がこの鉱土の国を背負っていかなきゃならない。その時、経験が足りず、戦場が怖くて闇獄界から守れませんでしたなんてことになったら、いい笑い草だ。
 この辺が潮時かもしれない。
 俺様は傍らに控えているサヨリをちらりと振り返る。
「よろしいのではございませんか?」
 心得ていたようで、サヨリはすぐに顔色一つ変えずそう返事をした。
 俺様は一度天井を仰ぐ。丸くて高い天井がどこまでも俺様の意識を連れてってしまいそうだ。
 ゆっくりと長く息を吐き出す。
 頭ではもう決めたこととはいえ、口に出して確定するにはやはりもう一つまみの覚悟がいる。
 主戦場は周方の北方。今回任された南方は闇獄軍と見える機会があるかどうかすらも怪しいところ。ただ注意したいのは、北方の時空の歪みが南方をがら空きにさせるための囮だったときだ。俺様たちはもちろん万全の準備を整えて行くし、何かあればすぐに援軍を送ってもらえるように風やヴェルドとの連絡も密にとるつもりだ。当初に遡って額面通りの見方をするなら、今回の戦は俺様たちにはさして危険は少ない。錬の初陣としては願ってもない条件がそろっている。
 吐き切った息を吸い込むと、俺様は錬に視線を合わせた。
「錬、一緒に来るか?」
 目に見えてそわそわしていた錬の表情がぱっと明るくなる。こいつにも好戦的なところがあったらしい。ったく、誰に似たのやら。
「はい! お供いたします、父上!」
 あーあー、そんなに喜んじまって。分かってんだろうな、本当に。
「出発は明後日早朝。それまでに支度をしておけ」
「かしこまりました!」
 錬は今にも踊りだしそうなほど軽やかな足取りで広間を出ていく。
「サヨリ、いいよな?」
 錬の背中を見送って、俺様は再びサヨリを振り返った。
「経験は鍛錬では積めません。臆して嫌がっているのならともかく、年齢的にも頃合でございましょう」
 サヨリは何の迷いもなくそう答える。
「母親的には息子を戦場に出すなんて、って言うところじゃないのか?」
 冗談交じりにからかうと、サヨリは見る間に眉を吊り上げた。
「わたくしが錬の心配をしていないとでもおっしゃいますの? わたくしは錬の母親として、今回のことに賛同いたしましたのよ? 錬は鉱土法王の息子です。魔法も勉学も武術も人並み以上にこなしてみせているのは、貴方も認めているところでしょう? ただ、これで実践には向かないと分かれば……それはまた別の道を探してあげなければならないでしょう。そればかりは実際に経験させてみなければわかりません」
「親とは子にとって導くものでありたい、か」
「子供たちもまた、わたくし達を導いてくれていますわ」
 子供たちの失敗と成長は、俺様たちの失敗と成長でもある。導き手なんて言ってみても、俺様たちだってその道が正しいかなんて確信はない。ただ、踏み外さないように道しるべを立ててやるだけだ。
 メルに関しては導くというよりも振り回されるというか、学ばせられることばかりだったが、時間ならまだまだある。これからメルの自由を少しずつでも取り戻してやりたい。今のあいつはただの魂の抜け殻になっちまっているから。
「それに、ですわよ。天下の鉱土法王様が一緒なんですもの。無事が保証されているようなものですわ」
「おわっ、そこでプレッシャーかけるのかよ」
「プレッシャー? 違いますわ。確認ですわ。無事に帰してくださいますわよね? わたくし達の錬を」
 ビリジアンの瞳が真剣に詰め寄る。
 美しい瞳だ。
「勿論だよ。当たり前だ。傷一つつけて帰すものか」
「まあ。でも傷をつけたくないがために結局後方に匿ったままだったなんてことはなさりませんよう」
「分かってるって。――サヨリ、留守の間、鉱土宮を……鉱土の国を頼む」
 サヨリはふっと口元を緩め、それからさっと俺様の前に跪いた。
「お任せくださいませ。闇獄界の輩にこの美しい都を蹂躙などさせるものですか。むしろ鉱様、いざとなりましたならばわたくしが援軍を率いてお助けに参りますわよ?」
 茶目っ気たっぷりに、顔を上げたサヨリは微笑んでみせる。
 それはつまり、何があっても錬を無事に帰せということだよな。
「鉱土の国を託せるのはサヨリしかいない。サヨリがいるから、俺様は安心して周方に出かけられるんだよ」
「まぁ。ではわたくしも最近身体が鈍っておりますので、ちょっと訓練してまいりますわね」
 冗談なのか本気なのか。さっきの錬と同じような足取りでサヨリは広間を出て行った。
 ったく、どいつもこいつも血の気が多いったらありゃしない。
 肘掛けにもたれて、ぼんやりと錬とサヨリが出て行った扉を見つめる。
 もしあの背中が二度と戻ってこなかったら。
 ふと、今まで感じたことのなかった不安が胸をよぎった。
 そんな、あるわけがない。帰ってこないなんて。
 だが、一度気になりはじめたものはそう簡単には心の裡から出ていってはくれない。
「父上、父上」
 いつの間にか、傍らからメルに呼ばれていることにも気づかないくらい俺様はぼんやりとしながら不安の海の中を泳いでいた。
「あ、ああ、メルか」
 リドニア鉱山での一件で鉱土宮から一歩も出られないせいか、メルの顔色は日に日に青ざめていくようだった。身体の方は大丈夫なんだろうが、心の方がきっと萎んじまってるんだろうな。生き生きとしたサヨリによく見た太陽みたいな笑顔は見られなくなっていた。それでも気遣わしげに深窓の令嬢を装ってたまには口元に微笑を浮かべて見せもするが、本心からじゃないのは一目見ればわかることだった。
「そんな怯えないでくださいませ」
 ふふっとからかうようにメルは笑う。
 俺様の心臓はきゅっと縮み、全身からはうっすらと脂汗がにじみ出る。
「何も父上のことは恨んでなどおりませんから」
 なら誰のことを恨んでいるというんだ、この娘は。
 そう思ったが、そんなことは聞くに聞けない。統仲王と言うのか、藍鐘和と言うのか、俺様は確かめるのが怖かったんだ。何より、本当は一番に俺様のことを恨んでるんじゃないかって気が、どこかでいつも纏わりついていた。
 人を恨んじゃいけない。
 昔から俺様とサヨリはメルと錬にそう教えてきた。
 子供たちを導くなんて偉そうなことは言っていたが、俺様たちにできることは道徳とこの世界の常識を教えてやることくらいだ。俺様たちの理想の形に子供たちをはめ込むようなことはしたくなかった。それでも、子供たちは俺様たちの胸に描く理想の形を汲み取って努力しようとしてくれている。それがいいのか悪いのか、俺様たちにはまだ分からない。いい子には育ってくれているんだろう。特に錬に関してはそう思う。だが、メルに関しては……正直、一度躓いちまった。少なくとも俺様はそう思ってしまっている。敏いメルが俺様の内心を推し量れないわけがない。だから、実はこうやってメルと二人きりになるのは、俺様の中のいろんなものが見透かされそうで恐いのだ。
「周方に出陣なさるのですね」
「ああ」
「錬もお連れになるとか」
「ああ」
 自然、言葉少なになるのは仕方がない。
「そう緊張なさらないでくださいませ。私もお連れ下さいなんて無茶なことを申し上げに来たわけではないのですから」
 ちょっと驚いて顔を上げると、メルーチェはにっこりと仮面の微笑を浮かべた。
 我が子ながら底知れない何かに呑みこまれそうになる。
 そんな思いが表情に表れてしまっていたのだろう。メルは困ったようにどこか悲しげに言った。
「そんなに構えないでくださいませ。これは父上の責任ではありません。私のことで思い煩うのはやめてくださいませ、父上」
「だけど、な」
 思わず言ってしまってから慌てて口を噤む。
 こんな腫れ物に触るような相手の仕方してたら、そりゃメルだって悲しいよな。
 分かってんだけど、どうしても壁一枚作ってしまう。
 メルーチェは困ったように微笑んだ。これはきっと本心からの微笑みだ。
「父上、以前に統仲王から頂いていたお話ですけれど」
「統仲王!?」
 メルの口から思いがけない名前が飛び出してきて、思わず俺様の声はひっくり返る。
 てっきり周方の戦いについて何か言いに来たのかと思ったんだが。錬を連れて行くのはやめた方がいいとか、今回は鉱土の国の守りを優先した方がいいとか……。
「東方将軍、藍鐘和様との婚約のお話です」
「え゛……」
 思いがけない話を持ち出してきたメルに、この年にもなって俺様は動揺を隠しきれない。
「いや、駄目だぞ。藍鐘和はだめだ。あんな冷血漢のところにお前なんかをやるものか。あんな目に遭わせておいて、大切にできるはずがない。それに、藍鐘和の件はとっくに断っている。何度か親父のところから使者も立てられてきたが、その度に丁重に怒鳴り返している。
 親父の野郎、人の心を逆撫でして何が楽しいんだ、と。
「ああそうだ。駄目だ駄目だ。藍鐘和なんかとんでもないぞ。親父の言うことなんか真に受ける必要なんかない。結婚なんてしたい奴とすればいいんだ」
「周方からお帰りになったら、このお話、進めていただけませんでしょうか」
「……」
 メルは俺様の言葉などまるで無視して自分の言葉を続けてくれた。
 俺様は開いた口がふさがらないまま、メルを見る。
 メルが結婚? 冗談だろう。まだ十七歳だぞ。早い。早すぎる。頭ばかりはいいが、そんなのは頭でっかちなだけで、メル自身はまだ子供だ。冗談じゃない。
「なんてお顔をなさるんですか」
 ぷぷっとメルは笑いだす。
 こいつと話していると、俺様だけが置き去りになる。
「藍鐘和様との結婚が問題というより、そのお顔は私が結婚すること自体に異議がおありのように見受けられますけれど?」
「当たり前だ。まだ十七歳だろう。早すぎる」
「何をおっしゃいます。母上が父上と出会った歳と同じ頃合ですわ」
「う゛っ。昔は昔、今は今だ。結婚なんてとんでもない。それもよりによってリドニア鉱山で一度会っただけの、それも嫌な目に遭わされただけの男だろう?」
「一目惚れいたしました」
「嘘を吐くな。そんなわけないだろう」
「天宮に幽閉されている時も、足繁く通ってくださいました」
「統仲王に言われて監視しに行ってただけだろう」
「藍鐘和様の洗練された容姿の美しさと知見の広さに、私もうすっかり虜に……」
「なんで今頃言い出すんだ?」
 わざとらしく甘い声でしなを作っていたメルの口元が苦く歪む。
「おそらく周方の戦いで錬は名実ともに鉱土法王の嫡子として名を上げることでしょう。あの子は着実にそして地道に努力しながらここまで来た。帰還後はどこかに領地を得て法王に準じる称号を名乗り、長く人々に慕われる存在になることになるでしょう。その姉が問題ばかりを起こしたこの私では、錬の未来に傷がつきます。私をいつまでも鉱土宮の中で匿っているとなれば、父上たちの沽券にも関わりましょう。私が藍鐘和様の元に嫁げば、話を持ってきた統仲王もお相手の藍鐘和様も、私を養う父上も錬も、皆面子が保たれます」
「面子のために娘を嫁に出す親がどこにいる。大体な、俺様にとっちゃ面子なんかよりも気持ちの方が大切なんだよ! お前を嫌な目に遭わせた奴のところに嫁がせる? とんでもない。んなことするくらいなら一生結婚なんかさせるもんか。ずっと俺様の側に置いて、いずれ……そう、いずれお前が生きやすい世の中になるように変えてやるつもりだから、だからそれまで、もう少しの間辛抱してくれないか」
 メルはゆっくりと首を振った。
「錬の成長は待ってはくれません。私は錬にとって邪魔者なのです。自分の身の処遇は自分で決めます。藍鐘和様とのお話はよい機会なのです」
「冗談じゃないぞ。駄目だぞ。大体藍鐘和なんてな、今まで女との浮いた話ひとつないんだぞ」
「よろしいではございませんか。真面目な方で」
「んなわけあるか。あんな生真面目一本で融通の利かない奴……」
「錬そっくりですわね」
「錬はまだ茶目っ気があるってもんだ。藍鐘和――あいつはな、小さい頃に姉貴を闇獄界に攫われてな、以来一つも笑わなくなったって話だ」
「そうですか? 天宮にいらっしゃった折、風様と楽しげに談笑しておられましたけれど」
「ちっ。風とは仲がいいんだよ」
「あら、風様と仲がよろしいのなら安心ではございませんか」
「何が安心だ。風だぞ? あの風だぞ? 何考えてるか分からないあいつと楽しげに話ができるってだけでどっかネジ緩んでるぞ?」
「うわぁ、ひどいなぁ。それ、僕もネジが一本どっか飛んでるって意味ですか?」
「そうだよ。いちいち聞きなおすな。って、うわぁっ、風、本物っ!」
 いつの間にかメルーチェの後ろから顔をのぞかせていた風に気が付いて、俺様は玉座の上で思いっきりのけぞる。
「残念でしたねぇ、のけぞっても逃げようがなくって」
「ちっ。なんでいるんだよ。入ってきていいなんて一言も言ってないぞ。大体、メルと大事な話してんのに割り込んでくる奴があるか」
「すみません。僕の名前が出たのでつい」
「つい、じゃねぇよ」
「それでは父上、先ほどのお話よろしくお進め下さいますよう。ご帰還なさってからで結構ですので」
 メルーチェはにっこりと仮面の笑顔で一礼すると、風にも愛想を振りまいて出て行ってしまった。
「はぁ~っ……」
 俺様は額に手を当てて深々と溜息をつく。
「老けましたね、兄さん」
「老けたんじゃねぇよ。容姿が老けて見えるだけだよ」
「いいや、老けましたよ。そうでなきゃそんなに眉間に皺が寄ってるわけがない」
「お前は相変わらずつるっとした肌してんな。年も十七歳のままか」
「羨ましいですか?」
「ケンカ売りに来たのか、お前は。言っとくけどな、俺様は羨ましくないぞ。永遠なんてもん、こっちから願い下げだ。俺様はサヨリと一緒に時を進められて幸せなんだ。子供たちがいてくれるお蔭でいろんなもんに麻痺しないで済んでいる」
「苦労も幸せのうちですか。いいですね、そういうのも」
 こいつはどう足掻いても叶わない相手と恋してるからな。うっかり子供なんかできた日にゃ、世界がひっくり返ることになるだろう。いや、むしろ開き直ってこいつが神界をひっくり返してくれるかもしれねぇな。それで俺様たち家族が危うくされるなら考えなきゃならねぇが、いっそ手を組んじまうのもありかもしれねぇ。
 いつもへらへら笑ってて何を考えてるか分からない奴だけどな。
「何をしに来た」
「何をしに来たとはずいぶんですね。別にメルーチェに求婚しに来たわけじゃありませんよ、お義父さん」
「お義父さん言うな、虫唾が走る」
「じゃあ、兄さん」
「なんだ」
「周方から使者が来たでしょう?」
「ああ、さっきな」
「うちの方にも同規模の穴が開いているのが見つかったんです。ついさっき」
「まるでお前が開けたかのような言いっぷりだな」
「いやですよ、僕にそんな力あるわけがないじゃないですか。まあ、それで、風環の国としては周方に肩入れしている場合でもなくなりそうなんで、ちょっとこのまま一緒に周方のヴェルドのところ行ってくれませんか?」
 広間の入り口からひょっこりと風の守護獣の逢綬が顔をのぞかせる。
「カインに麗兄さんも迎えに行ってもらってるところです」
「麗兄貴が来るかよ」
「多分禦霊が来るでしょうね」
「はぁ~っ」
 俺様は再びため息をつき、腹の底から吐き出すものがなくなったところで玉座から腰を上げた。
「んじゃ、行こうか」
 周方で行われた会議は、情報交換と時空の歪みから進軍してくるであろう闇獄軍への対応について大枠を決めるものだった。風と麗兄貴のところで風環の国北方にできた時空の歪みへの対応を、周方の時空の歪みへの対応はヴェルドと俺様のところとでやることになった。周方の国の南方から俺様のところに関しては、炎姉貴が出張ってくることになった。
 うまくいかないことなんてありはしないと思っていた。
 事実、周方で闇獄界軍と激突した時も、事前に立てた作戦通り兵を動かし、被害を最小限に抑えて闇獄界軍を押し返し、時空の歪みを閉じることに成功した。
 錬も鋭い観察眼と推理力で作戦の立案に貢献したかと思うと、戦場では日ごろの鍛錬の成果をいかんなく発揮して敵を蹂躙し、数多の鉱土兵たちを守った。
 帰途は凱歌に湧きかえり、帰ったらメルの婚約話をどうしようかなんて悩みも吹き飛ぶほどの惜しみない沿道の拍手は、このまま鉱土宮まで続くものと思われた。
 異変に気付いたのは錬だった。
「おかしいですね。ぱったりとカールターンからの人の流れが途絶えました」
 鉱土の国の都カールターンの城門が見晴らせる丘の上で錬が馬を止める。
「昼飯時だからだろ。よし、俺様たちも飯に……」
「いいえ……いいえ! 城門から次々に人が出てきているみたいです! あれは……逃げている……?」
 錬の言葉に周りにいた男たちも額に手を当て、カールターンを見晴るかす。俺様も多分に漏れず目を細めた。
 錬の言ったとおりだった。普段は馬車荷台くらい軽くすれ違えるくらい幅広い城門から、人が中から押し出されるように所狭しと転がりだしているのだった。
 何があった?
 いや、何かあったんだ。
 このところ折を見ては日々育っていた不安が急速に実体化して胸を圧迫していく。
 ついに、大気を低く轟かす爆音が響き渡った。
 天候は晴れ。雷雲などどこにもない。ならばどこから聞こえた?
「父上、あれ……」
 錬が指差したのはカールターンの街を抜けてキルヒース山に背面を預けた鉱土宮だった。黄金色のドームの一つが崩れ落ち、黒い煙が立ち上がる。
 ずきりと胸に痛みが走る。嫌な予感が満を持して心臓を鷲掴みにしてきたようだった。
「イットゥンヒット、後のことは頼む!」
 俺様は馬の腹を蹴る。
「父上、僕も行きます!」
 すかさず錬も俺様の後について丘を降り、すぐに俺様の横に馬を並べた。
 俺様は、一瞬迷った。
 来るな、というべきか、何も言わないべきか。
 周方の戦場は事前に情報をかき集め、危険は最小限に抑えられた。だが今回は……周方からずっと馬に乗ってきて疲労だって頂点に達している。そんな錬を連れて行って、俺様は錬のことも、サヨリもメルも守り切れるのか? それだけじゃない。あの鉱土宮には近衛兵たちも残っているんだ。街にはたくさんの人々も暮らしている。全てこの俺様の腕の中に抱えきれるのか?
「鉱、何を心配している」
 ちっ、シャルゼスまでくっついてきやがった。
 まぁ、こいつは俺様の守る対象外だ。何があったって俺様の手を煩わせるような奴じゃない。俺様が守るなんて言ったら、百年早いわ小童がと笑われて終わりだ。
「うっせぇよ」
 自分の不安ごとシャルゼスの一言を一蹴する。
 城門から転げ出てくる人々の間を何とか掻き分けて街に入ると、びしゃりと馬の脚が黒い水を跳ねあげた。
 頬についた飛沫を手の甲で拭うと、思いがけずぬめりと重い感触、独特の鼻を刺す臭いが残った。
「なんだ、この水は」
 見下ろせば街路に敷いた石畳の模様が見えなくなるほど黒くドロドロし、それでいながら光の反射によってはオーロラのマーブル模様を浮かべた水がゆっくりと街路を埋め尽くしていた。
「原油だな。色といい粘りといい臭いといい」
「原油!? なんでそんなもんがこんな街中流れてんだよ!」
 シャルゼスの視線は鉱土宮の背後、キルヒース山に投げかけられる。
「狙いはウチだったんだよ」
「は?」
「周方の戦い、楽勝すぎだと思わなかったか?」
「そりゃできすぎだと思った。北の方が厳しくなるって予想されてたが、もしかしたら北に神界軍を誘導しておいて、がら空きになった南に来るんじゃねぇかって、そんなこたぁ予想済みだったことだろ。でも、南には大して来なかった。北も大したことなかったって風が……」
「そこだ。北も囮。南も囮。狙われたのは周方じゃなかったんだ。狙われたのは、鉱土法王のいなくなったこの鉱土の都」
「なんだ……と……?」
 シャルゼスの言葉に頭が真っ白になりかけた時だった。すぐ近くで爆発音が轟いた。驚いた馬が嘶き前足を掲げる。落っこちないように必死に鬣に顔を埋めながら視界の端に見えたのは、燃え上がる民家と、火の粉を運びながら青白い炎を育てていく黒い川だった。
「やばい! 水! 雨! 海姉貴!」
「慌てるな、鉱。息子の前だってのに恰好悪ぃな。あれくらいの炎、大地ひっくり返して地下深くに埋めてしまえ」
 爆発音など全く意に介していない馬上から、俺様の馬の手綱を引いてシャルゼスが諌める。もう片方には錬の馬の手綱も握られている。
「父上、僕もお手伝いいたします」
 照れたように笑いながら錬が申し出る。
 俺様は深く息を吐き出し、思い切り頭を左右に振った。
「あー、情けね。よし、行くぞ」
『この世の全てを胸に抱く 偉大なる大地よ
 汝の器は火をも恐れず呑み込まん
 ならばその身削りて天へと集い
 炎とともに地へ還れ』
「〈土砂降り〉!」
 石畳ごと周りの地面が抉れて天に集まり、燃え立つ炎の上に降り積もっていく。その範囲はカールターンの街中に及んでいた。
 さすがに範囲が広すぎたのか、軽く息が切れている。
「お前、本当にネーミングセンスないな。錬は〈砂雨〉なんてつけてたぞ」
 苦笑いしたシャルゼスの額から一筋汗が流れ落ちる。錬など俺様よりも線の細い小さい身体で肩を上下させながら息をしていた。土砂はまだまだ降り積もり、もうもうと立ち上る土埃で鉱土宮が見えなくなっていたが、土埃の向こうではさっきよりも頻繁に大小さまざまな爆音が聞こえていた。
 掘り起こされた土の上に一直線に平たい石を敷きなおし、馬を走らせる。近づくにつれて爆発音以外にも兵士たちの喚声や魔物たちの咆哮が聞こえはじめる。それらは一様なようでいて、よく耳を澄ませていると爆発音の後に雄々しい兵士たちの鬨の声が盛り上がっていた。
「もしかしてあの爆発音はメルの仕業か? メルがみんなを守ろうとしてくれてるのか?」
 思わず口元に笑みが浮かんだ。
 禁忌の技術だろうがなんだろうが、メルが鉱土宮を守ろうとしてくれている。
 統仲王がなんだ。あいつは今頃天宮の玉座にふんぞり返っているだけで、うちでこんなことが起こってることすら知らないに違いない。
 言わせるものか。あの力が禁忌の力だなんて言わせるもんか。俺様だってやろうと思えば魔法であれくらいの爆発簡単に引き起こせるんだ。どうして今この緊急時に魔法以外の力を借りてはいけないなんて言える? 爆弾は己が身を滅ぼす力も持っている。だけど魔力を持たない者にとっては大切なものを守ることのできる貴重な力でもあるんだ。
『土の力は生産と破壊、両極端の力を持っている。使う者の心加減匙加減で、人を生かしもし殺しもする。さあ、お前は俺の力をどう使う?』
「なぁ、シャルゼス。破壊の力もまた、守る力になり得るんだな」
 シャルゼスは何も言わなかった。
 天宮の上空、爆発音は幾度も天を轟かし、たなびく煙は青空を曇天へと変えていく。
 人々を守ったという功績があれば、メルを救えるかもしれない。いや、きっと救ってみせる。その前に、今、目の前のこの混乱状態から助けてやらねぇと。
 馬たちは爆発音に慣れたのか土煙の中を怯まず進み、崩れ落ちた壁を飛び越え屋根の落ちた大広間の前で止まった。遮るものを失った大広間は今まで見たどんな戦場よりも激戦区となっていた。理性無き闇の魔物と最近増えてきた人型の闇獄兵、それから鉱土宮の近衛兵とが入り乱れもつれ合い、吐き出された血飛沫と黒い瘴気とが混然一体となって空中に飛散していく。
 その渦中、甲冑を纏う余裕もなかったのか薄手のドレスのまま砂剣で応戦するサヨリと、周囲に小型の爆弾を撒き散らしながらサヨリを守るメルの姿があった。
「サヨリーッ! メルーッ!」
 俺様は玄武を握り、駆った馬から飛び降りざま二人に襲いかかろうとしていた闇獄兵を斬り散らした。
「鉱様!」
「父上!」
 サヨリとメルの声からは明らかに安堵の色が滲みだす。が、その背後から新手が襲いかかる。
「母上、姉上!」
 抜かりなく錬があっさりと新手のそいつらを土で固めて動けなくした。
「ご無事で何よりです、母上、姉上」
 錬はそう言い残してさっそく闇獄兵と魔物を蹴散らしにかかる。
「頼もしいな」
「本当に」
 俺様とサヨリは久方ぶりの再会に、軽く視線を絡ませ抱きしめあった。
「無事でよかった」
「鉱様もご無事で何よりですわ」
 抱きしめたサヨリは珍しく身体をこわばらせ緊張に震えていた。
「申し訳ございません、こんなことになって。留守の間鉱土宮はわたくしがお守りすると約束いたしましたのに」
「立派に守ってくれてたじゃないか。メルの爆弾だってこんなに役に立って。こいつら全員追い払ったら改めて統仲王に申し立てに行こう。メル、お前は結婚なんかに逃げる必要なんかない。これからも人の役に立つ研究を続ければいい」
「父上――ありがとうございます、父上!」
 久しぶりにメルの表情に赤みが差した。声に力が戻っていた。本人もそれを一番望んでいたんだ。自分らしい生き方ができることを。
 メルはサヨリを俺様に預け、押されている兵たちの方へ向かっていく。魔物を蹴散らすための小さな爆発も心なしかさっきよりも元気に聞こえる。
「鉱様、わたくしからも御礼申し上げますわ。ありがとうございます」
「なんだ、そんな他人行儀なこと言うな。俺様とサヨリの娘のことじゃないか」
 ぎゅっと強く抱きしめるとようやくサヨリは身体の力を抜いた。
「わたくし、鉱様と添えて本当に幸せですわ」
 顔を上げたサヨリは涙まで流している。よほど心細い思いをさせてしまったんだろう。
「終わったら祝宴を開くぞ」
「はい!」
 サヨリを傍らに庇いながら俺様は挑んでくる魔物や闇獄兵を玄武で斬り裂く。シャルゼスも秀稟も降りてきて魔法で加勢してくれるお蔭で、だだっ広いばかりの大広間に身を隠すための塀がいくつも作られていく。前線ではメルが時限式の爆弾を放り投げて敵を怯ませ、あるいはダメージを与え、至近距離からメルに攻撃を加えようとする輩には錬が斬り払う。ファウシード率いる近衛兵たちも選りすぐりなだけはある。シャルゼスたちが造る土塀にうまく身を隠しながら土塀と土塀の隙間に誘い込んだ敵を斬っていく。
「サヨリ、奥に逃げろ」
 土塀に守られた奥から闇獄兵がいなくなったのを見計らって俺様はサヨリを腕から放す。
「でも……」
 ためらったサヨリの目は俺様の肩を越して子供たちに注がれる。その目が俄かに見開かれた。
「メルーチェ!!」
 両腕を前に伸ばして駆けだすと同時にサヨリの口から悲鳴が迸った。
 振り返った俺様が見たのは、闇獄兵たちに担ぎ上げられたメルーチェの姿だった。
「メル! 錬! 錬はどこだ!」
 錬はいつの間にかメルーチェから離れ、壁際に追い詰められた近衛兵を助けていた。俺様の叫びに気づいて慌ててメルを頭上に担ぎ上げた闇獄兵たちの足元を石化させるが、メルは物のように軽々と放り投げられて別の闇獄兵たちの手に渡る。
「ええい、ちまちま倒していられっか」
『崩れ落ちし石材の欠片よ
 寄り集まりて闇に染まりし者を覆い尽くせ』
「〈石化〉」
 大広間に崩れ落ちた屋根、壁の欠片が渦巻きながら闇獄兵たちを覆っていく。妨げられる視界の向こうで、一度大きな爆発音が聞こえた。きっとメルが爆弾を使ったんだろう。大丈夫だ。これでみんな助かるはずだ。
「ぐ……っ……」
 腹に殴られたような鈍い衝撃が走った。さっきも今も魔法のレベル自体は高くないはずだが、範囲が広かったり対象が多かったりしたせいだろうか。
 腹を抑えて僅かに顔を下げた時だった。
 殺気が背中に走った。
「危ない、鉱様!」
 顔を上げた俺様が肩越しに見たのは、ふわりと波打つ橙金色のサヨリの髪とぐらりと揺れながら倒れてくるサヨリから迸る赤い血だった。
「サヨリ……? サヨリ!? サヨリーーーーーっ」
 メルを助けに駆けだして行ったはずのサヨリが、どうして再び俺様の背後に回り込んだのか。俺様が魔法を使ったからか? それで安心してメルのところに行くのをやめたのか?
 俺様を斬ろうとしてサヨリを斬った闇獄兵は足元から始まったはずの石化が今は肩を覆い尽くし、表情だけで不気味に笑ったまま頭も石の中に呑みこまれていった。
 ぎり、と俺様は奥歯を噛む。近くの敵がまだ動けることに気づかずに気を緩めた俺様の失態だ。
 抱き留めたサヨリは、肩から胸、腹まで深く傷を負わされていた。ごぼごぼと泉のように血が溢れ出してくる。
「サヨリ! サヨリ! 今治してやるからな! ――〈治癒〉」
 傷口に手をかざしていくが、どうしたことかなかなかすぐには塞がってくれない。
「シャルゼス! シャルゼス! どこだ、シャルゼス! 力をくれ! もっと俺様に力を……!」
 傷にかざす俺様の手首をサヨリが掴んだ。
「恨まないでくださいましね。誰も、恨まないでくださいまし。闇獄界の人たちも、鉱土の国の人たちも、貴方自身も。恨めば貴方自身が傷つきます。だから、どうか……誰も恨まないでくださいまし……」
「なんでだ? なんで間に合わない? どうして止まらないんだ! シャルゼス、力だ! 俺様に力を寄越せ!!」
 叫べば叫ぶほど体から力が抜けていくようだった。治癒の光は弱々しくなっていく。
「なんでだ、なんでだよぉぉ」
「鉱様、メルを、錬を……どうか……」
「待て! 逝くな! 逝くな、サヨリ!」
 俺様の手を掴んでいたサヨリの手がずるりと下に落ちる。その手からことりと光を失った魔法石の片割れが転がりだした。
「サヨリィーーーーーッ」
 治癒の光が途切れる。
「父上! 母上! 錬! 助けて! 誰か、助けてーっ!」
「母上、母上、母上……!」
 メルは運ばれていた。石化しながらも大広間の入り口に開けられた時空の歪みに殺到する闇獄兵の腕に抱えられて時空の歪みの向こうに呑みこまれていく。
「メル……? え、嘘だろ……メル……? メルーーーーーッ」
 錬は肩と足をやられて床に這いつくばりながらサヨリのことを呼んでいた。
 喧騒が、遠ざかっていく。
 視界が白く霞み、狭まっていく。
 どうして、錬が怪我をしている? さっき聞こえた爆発か? あれはメルの投げた爆弾じゃなかったのか? 闇獄兵は一度も爆弾を使わなかった。じゃあやっぱりメルの爆弾か? あの傷は、爆発で飛散した欠片にやられたのか?
「なんで……どうして……」
 俺様は何も守れなかった?
 守れたはずだろう? 守れると思ったんだ。
 だって俺様には砂剣がある。大切なものを守るための剣が。
 だって俺様は鉱土法王だ。土の精霊王の力を借りて、自在に土を操る神の息子。
「なんだ……それ……」
 ただの肩書じゃねぇか。
 俺様が今までよりどころとしてきたものは、そんなもん、全部、実体のないただの肩書じゃねぇか。そんなもんで何が守れるってんだ。何も……守れなかったじゃねぇか。
「守れなかったじぇねぇかぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ……あああああっ、あああっ……」
 もう、何もいらない。
 何も見たくない。
 何も、聞きたくない。
 俺様は無力だ。
 ガキの頃と何も変わらねぇ。俺様は、ただの無力な……無力で傲慢な、ガキのままだった。













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