聖封神儀伝 2.砂 剣
第6章  愛、一考。


 三井君と佳杜菜さんが手を繋いで鉱土の国へと一歩進みだす。その後に誠君と秀稟、錬が続く。
 わたしは物陰に隠れてこっそりこちらを窺っていた藺柳鐶を振り返った。
「あなたは行かないの?」
 周りに誰もいなくなったのを確認して、藺柳鐶はすぅーっとわたしの前に移動してくる。相変わらず幽霊みたいだ。いや、幽霊なんだけど。
「この扉を通らなくても、いつでも行こうと思えば行けるから」
 扉の向こうに広がる砂漠の青空を遠く見晴るかしながら藺柳鐶は答えた。
「任せちゃっていいの?」
「任せる以外にどうできる? 俺に弟子を救えないのは分かってるだろ?」
「確かに〈怨恨〉の獄炎を消し去るのはできないかもしれないけど、メルーチェの恨みの原因にあなたが関わっているなら、それを解してあげることはできるんじゃないかしら」
「その結果、器のキャパシティをなくして獄炎に食われてもいいっていうのかい?」
 わたしはちょっと小首を傾げた。
「そういえば、獄炎に食べられてしまっても消滅してしまうのかな」
「魂が焼き尽くされれば、あとに残るのは灰だけだろう」
「灰が残ればそこから再生なんて……」
 藺柳鐶は目を見開く。
「そうか、あんたは時の精霊を操れるんだもんな。物が残ればそこから時を巻き戻し、元の状態に戻せるかもしれない。ただ、あんたの時を戻す力ってのが、獄炎まで一緒に戻しちまう可能性はないか?」
「灰の中にメルの魂しか残っていないなら、可能かもしれない。獄炎は灰になってしまったものになんて興味はないでしょう? メルの魂が獄炎を作り出したわけでもない。それならできるかもしれない!」
 わたしと藺柳鐶は顔を見合わせる。
 だけどすぐに藺柳鐶は首を振った。
「だが、もしできなかったら? もし、失敗したら? 灰さえ残らなかったら?」
 何も残らなかったら、何も変えられない。無から有は生み出せない。
「そうだ! ならいっそ、弟子が獄炎を取り込まないようにできないか? 過去に遡って止めてくれないか、俺の代わりに」
「それは……」
 過去を変えることは禁忌。一つの過去を変えただけで、未来は大きく変わってしまう。メルの代わりに別の誰かが〈怨恨〉になるということでもある。
「姪だったんだろう? 全く関係ないわけじゃないんだろう?」
「だけど……」
 わたしが言いよどんだ時だった。
「いた! 姉ちゃん!」
 地下へと降りてくる階段の入り口にさっと光がさして、洋海の声が聞こえた。
「守景」
 逆光にもう一つ、夏城君の影が浮かび上がる。
 藺柳鐶はふらりと姿を消していた。
 ちょっと待ってよ、わたしも連れてって、と言いたいのを抑えてわたしは後ずさる。
「探したんだぞ。夏城さんにも連絡して、俺ら一睡もしないで探してたんだぞ!」
「……ごめん」
 わたしは洋海と目は合わせずに呟く。
 夏城君はそんなわたしの前につかつかと歩み寄ってきた。顔を上げていなくてもじっとわたしを見つめているのが前に落ちた髪の向こうからでもわかる。
「どうして逃げた?」
 逃げた?
 そりゃ逃げたけど、どうして夏城君が逃げたって知ってるの?
 わたしは夏城君越しにちらりと洋海を覗いたけど、洋海は恐い顔をしてわたしを見ているばかりだ。
「自分の身体には戻れなかったの。だから……何か他に方法はないかと思って」
 わたしはあくまで夏城君から顔を背けながら答える。
「戻れなかったのか。ならどうして洋海と一緒に俺のとこに来なかった?」
「夏城君に相談したところで戻り方わかるの? それなら初めから教えてよ! 教えてくれればさっさと戻って今頃病室でおはようって言いながら背伸びしてたよ!」
「聖の邪魔がなくなれば戻れると思ってたんだ。戻れないなら戻れないで三人で頭突き合わせて戻る方法考えた方がいいだろ?」
「どうして三人なの? どうしてそこに洋海が入っているの? 夏城君、知ってるの? 洋海がヴェルドだって! 知ってるからわたしのこと任せきりにしてるの?」
 夏城君は一瞬たじろいだようだった。それからおもむろに洋海を振り返る。
 洋海は何も言わなかった。夏城君の視線に後ずさる気配もない。
「姉ちゃん」
「姉ちゃんなんて言わないで! 思ってもいないくせに!」
「どういうことだ?」
 夏城君はわたしではなく洋海に尋ねた。その声はあくまで静かで、ちょっと龍兄を思い起こさせた。
 洋海は答える代りにこちらまで歩み来て、夏城君を脇に退かせる。
 わたしは恐る恐る洋海を見上げる。洋海は口を真一文字に引き結んでいる。
「ごめん、姉ちゃん。嫌な思いさせたのは俺の責任だ。記憶、封じてくれてかまわないよ。でも! それは姉ちゃんが無事に体に戻ってからだ。それまでは俺が必ず姉ちゃんのこと守る。そのためにもこの力は必要なんだ」
 洋海の手には白く輝く白虎の剣が握られていた。
 ヴェルド――。
 わたしは息を吐き出した。
 ヴェルド・アミル。西楔周方の皇子で西を守る要となる西方将軍。サヨリさんの実のお兄さんでもあり、一度は統仲王の計らいで聖の婚約者にも祭り上げられた人。性格は極めて実直で明るく、困ったちゃんだった聖のわがままも広い懐に受け入れてしまうような優しい人。きっとね、この人と結婚できたら幸せになれるんだろうなぁって思わせてくれるような人だった。
 聖も嫌いじゃなかったのよ。ただ、あまりに自分のわがままで振り回しすぎてしまうから、距離を置こうと思ったの。龍兄が好きな気持ちは変えられないし、この先も変わらないだろうし、そんな状態の自分を受け入れてもらおうだなんておこがましいこと、できないと思ったの。
 それでもいいから側にいたかったって、ヴェルドなら言うんでしょうね。自惚れでなく、多分そう言ってくれる。だから余計、もう関わっちゃだめだと思ったの。
 なのにこんな近くにいるなんて。
「わたしは……今のわたしなら自分のことは自分で守れるわ。危なくなったら〈渡り〉で逃げればいいんだもの。それにわたしが身体に戻れるのなんていつになるか分からない。今すぐ――」
 わたしは洋海の前に右手を差し出す。その手首を、夏城君が握って止めた。
「洋海、三井の彼女のことは心配じゃないのか?」
「佳杜菜? そりゃ心配だよ。せっかく記憶封じてもらって安全な場所にいさせられると思ったのに、結局一日ももたなかったじゃないか。あいつの強情なところは昔っからだけど、ほんとどうでもいいとこ引き継いじまって。行っちゃったんだろ? 三井さんと」
 ……ああ、本当にヴェルドが重なって見える。聖の前のヴェルドよりちょっと口は悪いけど。
 額を抑え込むわたしに夏城君は問いかけた。
「今は身体に戻れないとして、だ。これからどうするつもりだった?」
「これからって……そりゃ、三井君たちを追いかけて、何かお手伝いできそうなことがあればって思ってたけど」
 と言いながら、わたしはどこかに藺柳鐶がまだ息を潜めてやしないかと気を配る。もしいるなら一緒に連れて行こうと思ってたんだけどとうにどこにも気配もない。
「それなら洋海はこのまま連れて行こう」
 夏城君はぱっとわたしの手を放し、閉じかけた鉱土の国の扉へと歩きはじめる。
「あ、ちょっと……!」
「行くんだろ、鉱土の国。それとも残るか?」
「行く!」
 わたしは夏城君につられるような形で鉱土の国の砂の上に降り立った。後ろで洋海が盛大に溜息を吐く音が聞こえる。
「ほんと、敵わないんだから。だけど、」
 洋海は駆けてきて夏城君の横に並ぶ。
「俺、いい働きしますよ」
「期待している」
「んじゃ、姉ちゃんのことは夏城さんに預けますから、俺、ちょっと佳杜菜追いかけますね」
「え゛!? あ、ちょっと、行っちゃうの!?」
 わたしは手を伸ばすが、洋海は慣れているように砂の上を駆けて砂丘を登りはじめた集団を追っていく。
「すっきりしたみたいだな」
「全然すっきりなんかしてないよ」
「洋海の方だよ。これで堂々とお前のことを守れるって思ってる」
「でもわたしのこと放っといて行っちゃったよ?」
「先に待つ困難がお前に降りかからないようにするためだろ」
「どうだか。そんな殊勝な気持ち持ってるかしら」
 あたしが嘯くと夏城君は一拍間をおいて言った。
「信じてやれよ」
 わたしは頬を膨らませる。別にヴェルドが嫌いだったわけじゃないけど、なんかいろいろと複雑じゃない。
「そうだ、鉱土の国から戻れたらヴェルドの記憶は消しちゃおっかな」
 半分冗談のつもりで言ってみると、夏城君はあからさまに呆れた顔をした。
「三井の彼女の元兄だからな。その辺はしぶといんじゃないか」
 それは……わたしへの気持ちの強さということでしょうか?
 なんて、夏城君に答えられてもあまり嬉しくない質問を飲み込んだ時だった。
 砂丘の向こう側から爆音とともに鬨の声が聞こえた。
 三井君たちが上げた声じゃない。もっと大勢の、腹の底から命をかけて戦う時に発される声だ。砂丘の向こう側はあっという間に砂埃に包まれていく。
「大丈夫か?」
 爆音に耳を抑え、身をすくませたわたしを、夏城君は心配そうにのぞきこむ。
「ああ、うん、大丈夫」
 自分を励ますようにそう答えた時、さらに近くで一発、二発と重低音が響き渡った。
 身体がないのに縮こまった心を反映するようにわたしの手足は動かない。顔も上げられなかった。
「戻るか?」
 夏城君が手を差し出す。
 取ろうと思っても今は掴めない手。夏城君だってそれは分かっているのだろうけど、今は縋りたい一心でその手に手を伸ばした。
 すり抜ける。
 失望の色がわたしにも夏城君にも表れる。
「やっぱり戻らなきゃだめだね」
 わたしは笑って踵を返した。
「どこ行くんだ?」
「戻る。何としてでも身体に戻って、それからまた来る」
 夏城君の腕がわたしの鳩尾のあたりをすり抜けた。
「行くな! ここに戻ってくるくらいなら今すぐ身体になんて戻るな。三井たちの後を追うならせめてそのままで……」
 わたしは振り返る。
「心配してくれてありがとう。でも、これ以上わたし、夏城君にそんな顔させたくないの」
 笑って見せると夏城君は言葉を失ったようだった。
 わたしたちが鉱土の国の砂漠に足を踏み入れた直後にしまった扉のノブを、わたしはもう一度掴んで回す。向こう側は真っ暗だったけど、それは明るいところからさっきの地下室を見ているせいだと思った。
 ためらいなくわたしはひんやりとしているはずのその室内に足を踏み入れる。
 その直後、わたしは足を引き掴まれたかのようにあるはずの床下の向こうへと引きずり込まれた。
 ごうごうと炎が燃え盛る音が耳元で聞こえる。周りは真っ暗で何も見えない。
 重力にさえ逆らえるはずのわたしの身体は、まっさかさまに落ちていく。
 その炎のトンネルの中で、ちらっちらっと赤い炎が現れては上へ流れるように消えていった。何度か見るうちに、赤い炎の中には黒髪の少女と白髪の女性がのたうつ様が見えるようになっていた。
 のちに藺柳鐶と名乗るメルーチェだ。
 彼女たちはいずれのコマでも長い髪を振り乱し、凄い形相で喚き散らし、泣き叫び、見えない床や壁に爪を立て、全身でのたうちまわっていた。血走った目がこちらを見るとき、その眼は白目がやたらぎょろりと強調され心に捩じりこまれるようなインパクトがあった。
 一度合ってしまえば忘れられない目。
 怖くて思わず口元を覆う。
 やがて激しい動きは影を潜め、その代り俯いて白髪に隠れて見えない口元から長々と怨嗟を呟く様が増えはじめた。
 ぞっと背中に怖気が走る。
 これ以上みていられなくて目を閉じようと下を見ると、うっすらと青い光の中に一人の少女がうずくまっていた。
 わたしはその少女に引っ張られていたのだ。
 少女は顔を上げない。
 わたしが少女の前に立っても、彼女は顔を上げなかった。
 髪は青い光がそのまま映し出されている。なめらかな肌の色も青い光をそのまま反映している。
「メルーチェ」
 わたしは呼び掛けてみた。
 眠っているのかと思うほど身動き一つしなかった少女が、ゆっくりと髪を揺らす。
 灰色がかった翠色のはずの瞳も、いまは白目も含めて青く見える。
 わたしと同じくらいの見た目ということは、攫われた時のメルーチェの姿ということだろうか。
 彼女を芯に、黒い炎はうねりを伴って上へ上へと向かって噴出していく。そんな炎の動的な姿とは対照的に、彼女はあまりにも静的で疲れ果てているように見えた。
 そんな彼女を見て、わたしはふとさっき藺柳鐶に提案されたことを思い出した。
『ならいっそ、弟子が獄炎を取り込まないようにできないか? 過去に遡って止めてくれないか、俺の代わりに』
 過去に遡って?
 それはできない。大罪になってしまう。
『姪だったんだろう? 全く関係ないわけじゃないんだろう?』
 それは、そうだけど。
 わたしはしゃがみこみ、彼女に手を伸ばした。
 触れられないんじゃないかと思ったのに、指先には冷たい陶器のような感触が返ってきた。
「ビスクドールって知ってる? 陶器でできた人形のことよ。私は今そんな感じなの。焼かれに焼かれて水分を失って、形は保っていても転べば壊れてしまう。だからこうやって座っている」
 色を失った唇から漏れ出てきたのは、藺柳鐶のあの作られたロボットのような声ではなく、紛れもなくメルーチェの滑らかな少女の声だった。
「叔母様。どうしてこんなところに来たの」
 彼女はわたしのことを分かっているみたいだった。
「扉を開けたらここに引きずり込まれてしまって」
「それは、あの扉は想いを読み取り、ノブを回した人が一番気になっているところに連れて行くからよ。本人はそれと自覚していなくてもね」
 錬は気まぐれな扉だって言ってたけど、そう言われるとそんなような気もしてくる。錬がさっき開いた場所が鬨の声がこだまする砂漠に繋がっていたのは……
「鏡が天宮から援軍を連れて戻ってきたみたいね」
「分かるの?」
「私が今何を見ているか、分かるでしょう?」
 わたしはしばし考え込み、ようやく目の前の少女にあのエキセントリックな藺柳鐶の姿を重ねる。
「藺柳鐶の目に見えるもの?」
「そう。鏡ならちょうど今、鉱土の都カールターンの城壁前で鉱土軍と争っている。本当は味方同士なのにね」
「そうなるように仕向けたのは、もしかして貴女?」
 少女の口元に影が差した。
「錬もまだまだね。任せたといっても本心では息子のことが気になって仕方ないのよ。鏡も本当はいい年なんだけど、錬がいるからいつまでたっても甘えてしまう。いっそ錬を殺そうかとも思ったけど、それは最後の手段よね」
「錬を殺せるの? 実の弟でしょう?」
「洋海君の記憶を消せるの? 実の弟でしょう?」
 即座に言い返されてわたしは言葉を失った。
 なんでそんなついさっきのことまで知ってるのと口から出そうになったけど、その前にメルが口を開いてしまった。
「やりたいこととやれることは違う。実現できない原因は能力的な制約であったり、心理的な制約であったり。原因なんて言葉にしてあげ連ねる方が馬鹿げてるわね。それで、叔母様、どうしてわたしのところに来たの?」
 二度目のその問いは、無意識下にわたしがあの扉を押したとき何を意識していたのかを問う問いだった。
「藺柳鐶に、頼まれたからだと思う」
 少女は遠くを見たまま、師匠の名を聞いても身動き一つしなかった。
「ねぇ、過去に戻ってみる? もう一度選択をやり直せるなら、メルーチェには〈怨恨〉にならないという選択肢だってあるんだよ?」
 今度は少女の唇に影が差しただけでは済まなかった。歪み、ふふっと嘲った声が漏れる。
「それ、本気で言ってるの? 言ってないでしょ? やる気もないのに希望だけちらつかされるのって、いらいらするのよね」
 正直、メルの言い分が正しかった。わたしはやると決めてもいないのに口にしただけだった。それで変わってしまう未来に対して負わなければならない責任を、できるだけ考えないようにしたままだった。
 メルは嗤う。
「これを見て」
 差し出された滑らかな白い腕には、楕円形の焦げ目が広がっていた。続いてお腹を、足を、胸を、そして、白い髪を一房にまとめて顔を露わにする。
 およそ右半分。
 そこは闇に溶け込むように冥い空洞になっていた。
 わたしは口こそ大きくあけたけど、悲鳴の声は上げられなかった。何かに掴まれたわけでもないのに喉は引き絞られ、掠れ声さえも漏れ出ないほどだった。
 恐怖に逃げだそうとしたものの尻餅をつき、後ろに転がる。
 そのままの姿勢で、わたしは宙へと伸びていく黒い炎の柱を見上げた。
「役立たずの姫の話を知ってる?」
 しばし間をおいてメルは淡々とした声で尋ねた。
「役立たずの、姫?」
「そう。むかーしむかし、鉱土の国にいたという、法王の娘なのに魔法を使えないお姫様のお話」
 どうしてメルの口からそんな言葉が出るのだろう。鉱兄様の長女でありながら魔法が使えないメルーチェのことを、鉱土の国の人々は陰で役立たずの姫と呼んでいたとは、噂に聞いた話だ。でもメルーチェは優秀な女の子だった。そんな陰口に負けないほどたくさん勉強をして、ついにはダイナマイトまで発明してしまった。その結果の良しあしは別として、メルも自分にできる範囲で人々の役に立ちたいと常に願っていた子だった。
「魔法が使えない分勉強して、わたしのように魔法が使えなくても生きやすいようにと発明した技術も、神界にはそぐわないと罰せられ、結局は自分で自分の身も守れずに闇獄界に身を堕とし……本当、役に立たないお姫様って私のことよね」
「そんなこと……」
 ないって言おうとして、言葉が途切れた。
 今わたしが適当に慰めたって、メルの心には何も響かない。
 そう、適当なんだ。「そんなことない」なんていうのは。本当にそんなことなかったら、メルはこんな道は選んでいないはずだもの。
「どうして、〈怨恨〉になることを選んだの?」
 わたしの問いに、メルは空洞の部分を髪で覆い隠し、ふぅっと長くも短くもない息を吐き出した。その吐息に黒い炎が揺らめく。
「憎かったから。恨めしかったから。何もできない自分が、一番、嫌いだった」
 その答えは、思ってもみない意外な答えだった。
「恨んでいたのは統仲王や鉱兄様のことじゃないの?」
 メルは一度口を開きかけて閉じ、また開きなおす。
「単純に統仲王や父上をお怨み申し上げられれば良かったのに。そうすれば、あの二人を殺してしまえば済むだけだったのに。私はもっと馬鹿ならよかった。頭のまわらぬ、ただの小娘ならばよかった。叔母様、私にはわかるのです。分かってしまうのです。統仲王が神界のを治める者として何を主軸に据えているのか。統仲王は孫をかわいがる祖父である立場よりも古から全うしてきた神界の長たる立場を全うすることを選んできた。私には、それが正しい選択であることがわかるのです。父上も、そんな統仲王と出来損ないの私との間に挟まれてそれでも一生懸命私を守ろうとして下さった。心のどこかでは統仲王に反発心を持ち、私や母上のような魔法を使えない者が増えていることも鑑みて、いずれ技術力の解放も視野に長期的に統仲王に打診していくつもりだったことも知っていました。叔母様、父上は私が鉱土宮に蟄居を命じられた時、統仲王に反旗を翻すことまで考えていたのですよ」
「え……鉱兄様が?」
 わたしたち兄弟の中で一番神界という枠組みの中でその恩恵に預かっているように見えた人だったのに。
「止めたのは私です。父上は統仲王を斃すことしか考えていませんでした。たとえ統仲王を斃せたとして、その後の神界のことまで、父上が背負いきれるとは思いませんでした。だから、わたしは止めました。私さえ我慢すれば、私さえ普通の女の子のふりをしていれば、父上や母上、錬も統仲王も神界も、丸く収まるのです。どうせ初めから役立たずと謳われたこの私です。何も悔しく思うものはありませんでした。でも……思うのです。もしあそこで父上をけしかけていたらどうなっていただろう、と。もし父上が統仲王を斃し、伯父様伯母様方を牽制して神界の主となられていたら? 父上が周方戦役に助太刀に行くこともなく、鉱土宮で母が殺されることもなく、私が闇獄界に連れ去られることもなかった。……叔母様、私できたのです。私にはできたのです。父上を神界の王にすることが……私にはできたのに……!!」
 思いがけない告白にわたしは何も言葉が出てこない。
「私は……恨めしい。何もしなかった自分が、恨めしい。できなかったんじゃない、しなかったんだ。私はそれと分かっていて……今まで築かれてきた和を壊す勇気がなかった。そもそも私は規格外の姫。和を乱すも壊すも恐れてはいけないはずだったのに、その時の私は周りと相いれない自分が疎ましく、出来損ないに思えて、結局何もしなかった。変えられたかもしれないのに。たくさんのことを変えて、こんな獄炎に縛られた世界にいなくても済んだかもしれないのに……!! 何もしてくれなかった他者を恨んだところで仕方がありません。その人にはその人の考えがあった。しかし、自分は、自分だけは自分の意志でいくらでも動くことができたのに……」
 怨恨の炎は燃え盛る。
 彼女の忸怩たる思いはどちらかというと自らの悔恨を告白しているように聞こえるのに、炎は勢いをつけて天を灼く。
「人のせいにだけはするなと教えられました。自分ができないことを人のせいにだけはしてはいけない。自分で努力し、万全を尽くしてできないことなどこの世にはないのだから、と。でも、果たしてそれは本当でしょうか……叔母様、教えてください。父と母は私に、これだけは本に書いていないから覚えておくようにと言いました。自分ができないことを人のせいにするな。何かができなかったからといって人を恨むな。必ず、己のことを顧みるように、と。これは、本当なんでしょうか。私は、今の境遇を人のせいになんかしたくない。私は、役立たずの姫と呼ばれたことを父や母のせいになんかしたくない。してないつもりで、一所懸命自分を責めつづけて……自分が悪いのだと、自分があそこでああしていれば、こうしていれば……でも、それは本当に正しいのですか? 本当に、私だけが悪いんですか? 私だけが……? 統仲王の頭がもう少し柔らかかったら? 父上が統仲王の機嫌なんてとらずに私だけの味方になってくれていたら? 母上が魔法を使えたら? 錬が日和見なんかじゃなくもっと活発な子であったなら? 私がダイナマイトを鉱山の人々に教えた時、世界は、人々は私を受け入れた! 喜んでくれた! 私は、何一つ間違えたことはしていない! 私は、人の役に立てる姫だった! 私は、私は、私は……なぜ私が? なぜ私がこんな目に遭わなければならない? なぜ私だけ、こんな……暗く冷たく、痛く、気持ちが悪く、身を引き裂かれてなお、生きていなければならない? この身体に神の血が混じっているから? なぜ私は女などに生まれた? 錬などより私の方がよほど優秀だった。私が鉱土の王となっていれば、闇獄界に蹂躙などさせなかったものを。何故錬ではなく、私が攫われねばならなかった? なぜ、父上も錬も、シャルゼスも秀稟も母上も、誰も私のことを助けてくれない? なぜ統仲王は私を見捨てた? なぜ愛優妃は……私の前に〈怨恨〉の皿を出した……?」
 昂った気持ちは風船が萎むように途端に涙の中に沈んだ。
「世界が……私を拒絶したのだ……私は、生まれてきてはいけなかったんだ……私は、何の役にも立たぬ、私は……せめて、私は……キヒヒ……世界が、私を裏切った……私から、師匠を奪った……ヒヒヒ、キヒヒヒヒ、キヒ、ワタシ、ハ、ソウ、ワタシハ、藺柳鐶……」
「メル……」
「世界ハ私カラ、全てヲ、奪ッタ。ワタシ、ハ、世界、ガ、恨メ、シイ……」
 唇だけを動かし、身体は微動だにしなくなったメルーチェの左目からは涙が一筋零れ落ちた。
 わたしは、恐る恐るメルーチェに手を伸ばし、恐る恐る抱きしめた。
「恨まなければ生きていけなかった? そうだよね。ずっと、本当はずっと、押し殺してきたんだね、自分の気持ち。ずっとずっと、辛かったね」
「恨ミヲ、晴ラス、復、讐……」
「そうだよね。恨みを晴らしてすっきりするために復讐をしようとしたんだよね?」
「何ノ、意味モ、ナイ」
「え?」
「復讐、ハ、何ノ、意味モ、ナイ」
 メルの左目からもう一筋涙が零れ落ちていく。
 ごうごうと激しい音を立てて燃え盛っていた黒い炎が、次第に勢いを失っていく。その炎がメルの白くなった髪の端を焦がしだす。白い髪は焦げて茶色くなり、ぱらぱらと黒く脆い塊になって落ちていく。
「誰カノ、セイニシテハ、イケナイ。誰カヲ、恨ンデハ、イケナイ。……はい、父上、母上。メルは、それだけは、いたしません。メルは、誇り高い鉱土法王を父に持ち、周方皇女を母に持つ、娘でございます。必ずや、人々のお役に、立って……みせます……ですから父上、母上、その時は……どうか悲しまないでください。どうかよくやったと、褒めてやってください……メルはその時まで、父上と母上の子として誇り高く、責務を全ういたします……」
 メルの頭ががくんと垂れる。途端に抱きしめていた身体は重みを増し、冷たさと硬さも増したようだった。動かなくなったメルーチェの身体を、ちりちりと黒い炎が舐めている。背中を這い上り、腕に絡みつき、呑み込む機を窺う蛇のようだった。
 わたしはメルーチェから手を放し、一歩下がった。
 途端にわたしとメルーチェの間は獄炎で隔てられてしまった。
 獄炎はさらにわたしを突き飛ばす。
「守景! 守景!」
 とっさに両手と両膝をついたそこは、錬の別荘の地下室だった。
「どこに行ってたんだ?」
 よほど心配したのか夏城君は急き込んだように尋ねてくる。
 わたしはしばし言葉が出なかった。
「メルの、ところ」
 ようやくそう呟いた時、わたしは泣くことしかできていなかった。
「どうして、わたし何もできないんだろう。どうしてわたし、時を操れるのに何も……してあげられないんだろう。誰も助けられないんだろう?」
 いや、本当に?
 今からでも遅くはない。本当に助ける気があるのなら、今からでも時を戻せばいい。今からでも過去に遡り、メルの意思に関係なく〈怨恨〉の炎を取り込むのを阻んでくればいい。
 わたしにはそれができる。
 できるのに。
 どうしてやらない? どうしてできない?
 どうして。
「時を操れても、人の心は変えられない。器だけ変えても中身が変わらなければ、人は何回でも同じことを繰り返す。時を操ろうが、人の記憶を操作できようが、それだけでは人の心までは操れない。魔法は人の心は越えられない」
「恐いの。罪を犯すことが恐いの。メルを守るためだってわかっていても、過去を変えるに行くのは恐いの。メルを助けられるかもしれないのに。誰かが過去を変えた罪を裁くわけでもないのに、わたし、恐いの」
「時を操るなんて力を持ってるんだ。それくらいの恐れがなくてどうする。それでいいんだよ。過去は変えられない。たとえ何かを変えたとしても、どこかでその歪みが帳尻合わせにやってくる。そうだろう?」
「でも、わたしは、自分かわいさにメルを……助けられない……」
 自分の臆病さがやるせなかった。
「お前一人で抱えるような問題じゃねぇよ」
 気づくと、わたしは夏城君に抱きしめられていた。
 きつく、強く、あったかい。
 メルに触れた時の冷たさが融けていくようだった。
「人間って、弱いね。わたしって、ほんと弱いね」
「強い奴がどこにいる? いるんなら会って爪の垢でも何でも煎じて飲ませてもらいたいもんだ」
「三井君と佳杜菜さん、どうするんだろう……」
「策はないって言ってたけどな」
「メルは褒めてほしいって言ってた。でも、きっと褒められないよね。きっと、悲しいだけだ」
「……行くか?」
「うん、でももう少し、こうしてて……」
 わたしは夏城君の胸の中に顔をうずめた。













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