聖封神儀伝 3.砂 剣

第6章  愛、一考。



 「役立たずの姫」なんて言われていた。
 俺様はそのことを知っていた。
 でも、魔法が使えなくても、メル――お前はいるだけで俺様たち家族の太陽だった。
 役立たずなんかじゃない。
 俺たち家族にとって、メルほどなくてはならない姫はいなかったんだ。


 ――愛、一考。


 開かれた扉の向こう、照りつける日差しは金砂の多面体に反射し、地上からも激しく照り返してくる。こっちが薄暗い地下にいる分、向こうの世界はやけに眩しく感じられた。
「今度はどうしてこんな場所に出るんだ?」
 昨日は鉱土の国の別邸の地下室だったはずだが。
「ああ、この扉気まぐれなんですよ」
「え」
 地下扉の鍵をしまいながら、朝早く叩き起こされた錬は疎ましげに俺様を振り返る。
「それで、父さん、いい作戦は思いついたんですか?」
 くぐろうかくぐるまいか、砂漠の向こうを見晴るかしながら扉の前を行ったり来たりしている俺様に苦笑して錬は尋ねる。
「ああ。聞いてくれ。名付けて当たって砕けろ大作戦!」
 胸を張って俺様が答えると、錬はぱかっと下顎を引いて口を開けたまま蔑むような視線を送ってきた。錬だけじゃない。誠と秀稟まで冷たい視線を俺様に注ぎ込む。
「よし、つっこめ。許す」
「何も考えてこなかったんですね」
「それはつっこみじゃないだろう。ただの事実言い当ててどうすんだよ」
「まったく。朝早くから門を開けろとご近所迷惑もいいところの大声で叫ぶもんだから、きっと起死回生の妙案が思い浮かんだんだろうと期待して門も開けたのに、何もなしですか」
「何もなしってわけじゃねぇよ」
「じゃあどうするんですか」
「話し、あってみたり……しちゃったりして」
「返り討ちにあいますよ」
「メルの前に先に錬にメンタル返り討ちにされたから、俺様もう帰ろうかな」
「何のために来たんですかっ、あなたは」
 帰ろうと開いた門に背を向けると、錬は問答無用で俺様の首根っこをひっつかんで扉の前にまっすぐ立たせた。
「いってぇな。俺様よりでかいからって身長と腕力濫用しやがって」
「濫用の使い方がおかしいですよ。それで、実際のところどうするつもりです? 姉さんが聞く耳持ってないのは昨日分かったでしょう? それもこっちが手加減して勝てる相手でもなし」
 心配そうに錬は聞いてくる。
 そう、なんだよな。こいつ、昨日から聞いてばっかなんだよな。自分からどうしてほしいとかどうしたいとかそういうのは言ってこないんだよな。まあ、昔っからだけど。
「なぁ、錬。お前はどうしたらいいと思う?」
 見上げると、錬はぐっと詰まった顔をしていた。
 素直な奴。
「正解じゃなくていいから言ってみろ。てか、正解なんてないんだからよ」
 錬は一、二度瞬きを繰り返すと、じっくりと目を閉じた。
「もし私がまだ鉱土の国王だったなら……問答無用で藺柳鐶を斃してくれと懇願したでしょうね。あれが姉さんだと分かっていたとしても、神界の平和とひいては人界の平和も守るためです。この世に溜まった〈怨恨〉の数々をもろともに消せるのであればこれほどのチャンスはありません。王ならば、迷わず藺柳鐶を斬ってくれと頼みます」
 こいつもやっぱ愛優妃の血が流れてんのかなぁ。鏡に王位を譲っていなければ、言ったんだろうな、本当に。いや、こいつのことだ。懇願なんて回りくどいこともせず、藺柳鐶がメルだってばれないように細工しながら俺様に藺柳鐶を斬らせる方向に持っていくことだろう。
 でも、錬はそれをやらなかった。
 俺様があの藺柳鐶はメルだって気づくのを許した。
「もし国王じゃなかったなら?」
「もし国王じゃなかったなら、私は藺柳鐶を姉さんと呼ぶこともあるでしょう。父さんに子殺しの罪をかぶってほしくはないし、姉さんに親殺しの罪をかぶってほしくもない。何とか父さんと姉さんが幸せになれる方法を模索します。しかしその結果、そんな方法が見つからなかったら……」
「見つからなかったら?」
「父さんに任せようと思ってました」
 錬は間髪入れず俺様の目を見てきっぱりと言い切ってみせた。
 だけど。
「嘘だな」
 錬の目が揺れたわけでもない。嘘を吐く時の癖が出たわけでもない。奴の嘘は完璧だ。俺様がいなくなった後、どんだけ苦労したんだろうな。要領ばかりはいいから国を維持する国王には向いてただろうが、逆にそれが仇となって嫌な思いもしたことだろう。
「誠、秀稟」
「なんだ?」
「なんでしょう、親方様!」
「錬に魔法石を譲ることは可能か?」
 誠と秀稟は勢いよく返事をした割にはすぐに口を噤んでしまった。
「砂剣はサヨリでも、俺様の血を継いでる者でも持てたよな。誠、玄武はどうなんだ?」
「それは、俺に錬に従う気があるのかどうかを聞いているのか? それなら答えはノーだ」
「んなこた分かってるよ。そうじゃなくて、〈法王〉を子が継げるのかって聞いてんだよ」
 誠は一瞬押し黙った後、唾でも吐き捨てるように答えた。
「鉱土法王の名前なんていくらでも騙れるだろうが、そいつは本当の意味で〈法王〉にはなれない。徹、お前の魂は法王になるべくして選ばれ、俺と契約することによって楔が打たれたものだ。魂に代わりはきかない。もっというなら、錬の魂は他の奴らの魂と同じものだ。俺との契約には耐えられない。〈法王〉は血では継げない。一つの魂一世代だけのものだ」
 なんだかまだまだ色々隠してることがありそうな言い方だな。ま、それでもかなりギリギリのところは明かしてくれたと思っていいのかな。
「シャルゼスの時に軽~く契約しない? ってナンパしてくれた割に、ずいぶんへヴィな契約させてくれたもんだぜ。んじゃ、もう一つ聞くぜ? 錬が砂剣で藺柳鐶を斬っても藺柳鐶は消滅するのか?」
 腕組みをして難しい顔をした誠と、はらはらしているのが丸わかりの秀稟は顔を見合わせる。この問いも何かの核心に繋がってるってことだ。当然、核心が何かなど教えてはくれないだろうし、今はそんなことはどうでもいい。
「消滅はしない。藺柳鐶は獄炎を纏ったまま大怪我を負うだろうが、死ぬことはない。獄炎に食い尽くされない限り」
「それはつまり、〈怨恨〉の獄炎を消滅させられるのは、魔法石じゃなく、〈法王〉の魂だってことだな? 〈怨恨〉の器を傷つけることには何の意味もない。〈怨恨〉が巣食った魂を壊すことが肝要だってわけだ。玄武も砂剣も、魂の何らかの力を〈怨恨〉の魂にぶつけやすくするための道具に過ぎない、と」
「何らかの力じゃない。想いだ。意志だ。相手の魂に作用する力は自分の魂に宿った想いだけだ」
 想い、か。
 だから光の奴はなんだかんだと因縁づいた相手とやらされたってわけだ。
 いや、俺様たちに因縁づいてる奴が獄炎の器に選ばれてるってことかもな。
「ってわけだ、錬。だから、俺様から玄武と砂剣奪ってお前が泥かぶろうとしても無駄だ」
 とんっと錬の胸を突いてやると、錬は軽くよろめくふりをした。
「ばれてましたか」
「ばれてたってより、考えられるだけの選択肢の中にお前が主人公になった場合もあったから釘刺しといただけだよ。だけど、なぁ、錬。お前、いざとなったらできるか?」
 錬はちょっと宙に視線を彷徨わせて考えを整理している。
「できたかもしれないし、できないかもしれませんね。でも……私では何の役にも立てないと今教えていただかなければ……もし父さんが躊躇ったらかわりに玄武と砂剣を手にしようとしたかもしれません。私の場合、剣は握ってみなければ心が決まりませんので」
「そっか。そうだよなぁ。……そうだよな。剣は握ってみなきゃわからねぇよな。ぎりぎりの状況で玄武と砂剣を握って藺柳鐶と対峙した時じゃないと、な」
 何かを考えている風に見えたんだろう。誠と秀稟が探るように俺様を見つめる。
「土壇場で答えを出すとさ、一生後悔するんじゃないかって思ってさんざん考えてきたけどさ、こればっかりは、な」
 軽く準備体操をして、鉱土の国の砂漠が見える扉へと一歩を踏み出そうとした時だった。
「徹様!」
 俺様の背中を、まばゆいばかりの明るさを湛えた力強い佳杜菜ちゃんの声が追いかけてきた。
「なんだ、もう来ちゃったのか」
 肩をすくめて振り返った俺様は、佳杜菜ちゃんの横にいる守景をじろっと見た。
 そんな俺様の目の前に、佳杜菜ちゃんはこびりついたような笑顔を湛えたままつかつかと歩み寄ってくると、パァンと勢いよく弾ける音を立てて俺様のほっぺたを平手打ちした。
 さすがの俺様も二、三歩よろめく。
 佳杜菜ちゃんは顔から笑みを消し、燃えるような怒りの色で瞳を染めて俺様を睨みつけていた。
「よくもわたくしのことを偽物扱いしてくださいましたわね。残念ながらわたくしは本物ですわ。記憶だって樒さんに魔法を解いてもらったのではございません。自分で思い出したのですわ」
 守景は珍しくにやにやと笑って満足そうだ。
 ったく、魔法で魔法を解かなかっただけで、思い出すための手掛かりやヒントは与えたんだろう、どうせ。でもそれで戻ったくらいなのだから、佳杜菜ちゃんの思いもよっぽど強かったって言いたいんだろう?
 もう少しだけ時間稼いでくれりゃあよかったのに。
「そのお顔はちっとも反省していらっしゃらないみたいですわね。わたくし、守られるのは昔から性に合いませんの」
 知ってるよ。サヨリもそうだったんだから。だからもう、関わらせたくなかったのに。
「徹様、わたくしがいても邪魔にしかなりませんか? わたくしでは何のお役にも立てませんか? お会いしたらそこから始めようかとも思いましたけれど、それではわたくしのこの煮えくり返ったはらわた、ご理解いただけないでしょう?」
 あろうことか佳杜菜ちゃんはぐいっと俺様の胸ぐらをつかみ、自分の方に引き寄せた。
「よろしくて? これは貴方だけの問題ではございません。わたくしの問題でもあるのです。メルーチェはわたくしがお腹を痛めて産んだ子です。わたくしたちはあの子をこの世に存在させた親として、あの子の命に責任があるのです。わたくしにもその責任、きっちり果たさせてくださいませ」
 強いなぁ。ほんと、この子は強いや。まっすぐな気性も何もかも受け入れてみせようっていう心意気も、ほんと、まっすぐ育てられたんだろうな。
 でも、佳杜菜ちゃんはまだ気づいてないんだ。
 君も、両親から見れば愛すべき子供だってことに。
「君の名前は?」
 あまりにも唐突な俺様の問いに、佳杜菜ちゃんは「は?」と一瞬毒気を抜かれた。
 もちろん、毒気を抜くことが目的じゃあないんだが。
 こうやって素に戻った顔を見ると、ただのかわいい十四歳のお嬢さんにしか見えないんだけどな。
 だけどその顔はすぐに侮辱に歪んだものになった。
「今度は貴方がわたくしをお忘れになったとでもおっしゃるつもりですの?」
「俺様じゃない。君が忘れてるんだ。自分の名前を」
「わたくしが? わたくしは稀良佳杜菜ですわ。忘れるわけがございません」
「それなら君が産んだの? あのメルーチェを? 一体君は何歳なの」
「ふざけないでくださいまし! メルを生んだのはサヨリですわ。サヨリはわたくしですわ!」
「だから、稀良佳杜菜ちゃんはどこ行っちゃったの?」
「っ……ここに、ここにおりますわ!」
「じゃあサヨリは?」
「サヨリもここにおります!」
「じゃあ、君はどっちなの?」
 佳杜菜ちゃんは顔をくしゃっと歪めた。
 守景が何か言いたそうに俺様を見ている。どうせ意地悪が過ぎるとでも言いたいんだろ? だけどな、口出すんじゃねぇぞ。佳杜菜ちゃんの気持ちが痛いほどよく分かるだろう守景が口を出したら、俺様の気持ちが佳杜菜ちゃんに伝わらなくなっちまう。
「佳杜菜ちゃん、ここに来る前に、ちゃんとご両親に会ってきた? 別荘に一緒に来てたんだろう? ちゃんと行ってきますって言ってきたか? どこに行くか言ってきたか?」
「い、言えませんわ、そんなこと。樒さんに助けられた時に寝間着だったので、それを取り替えてこっそり別荘を抜け出してきたのですわ」
 助けられたって、何やってんだよ。ったく、手元から離しても危なっかしいな。
「俺様はちゃんと家に電話してきたぜ。親父もおふくろもばあちゃんも、みんな早く帰って来いって言ってくれた。誠連れて、一刻も早くこんな危険なところから帰って来いって言ってくれたんだよ。だから、俺様は……無事にこっちに帰ってくることに決めた」
 揺らいでいた心が、自分の言葉に定められた一瞬だった。
 帰ってくる。無事にここに帰ってくる。誠連れて、ちゃんと家に帰るんだ。家族の待ってる東京の家に。
 だけどそのためには……。
「それは……それは、メルを殺すということですの? そう決意なさったということですの!?」
 この子はほんとに頭の回転が速くて嫌になる。
 俺様だってさっきの決意の裏側にあるもんがそれだって、今突きつけられてるところだってのに。
「一番いいのはメルと俺様、二人とも生き残る方法を模索することだ。何も今すぐ決着つけなきゃならないわけじゃない。メルを説得して、藺柳鐶を名乗らせるのはやめさせる。闇獄主とか悪の使徒風情気取らせるのもやめさせる。時間を作れれば、何か策があるはずだ。今すぐ何とかしようとするから焦るんだ。だけど、何にも焦る必要なんかなかったんだよ」
「そんなのは問題の先送りですわ!」
「老い先短い年寄りのようなこと言うなよ。こっちが焦れば焦るほど、泥沼にはまるってことがわかんねぇのかよ」
「いいえ! いいえ! わたくしは今すぐ助けたいのです。一刻も早くあの子を助けたいのです! 貴方が生きるというのなら、わたくしに魔法石をお渡しくださいませ! わたくしが身代わりに……」
「藺柳鐶に斃されるって? んなことしたって何の意味もねぇよ。あいつが魔法石を叩き割ったところで、あいつは獄炎の呪縛からは逃れられない。俺様とシャルゼスの因縁が切れるだけだ。佳杜菜ちゃんも消えない。ちなみに佳杜菜ちゃんが玄武と砂剣で藺柳鐶に斬りつけても、あいつは大怪我するだけらしい」
「わかりました。ならばわたくしがあの子を獄炎の呪縛から解き放ちます。あの子の受け入れた獄炎をすべてこの身に受け入れます!」
「佳杜菜ちゃんが食われて消えちまうよ」
「それであの子が救われるなら本望です!」
「で、君のご両親は? 家族は? 天涯孤独ってわけじゃないんだろう? 別荘に来たら大事な箱入り娘が家出して、行き先が分からなくなりました。どこへ行ったのかもわからない。なぜ出て行ったのかもわからない。自分たちは娘に何か悪いことでもしてしまったのか? 娘は生きているのか、死んでいるのか? 何の情報もない。最後に見かけられたのはこの錬の別荘近くでした、って? 誘拐監禁で間違いなくこの家は捜索されるだろうな。ま、錬のことだからうまく逃げるだろうけど。で? 娘救うために息子にそんな濡れ衣着せていいの? それにな、佳杜菜ちゃんが食われちまったら獄炎はまた新しい器を探すだけだよ。近くにメルが残ってれば、間違いなくまたメルに戻るだろ」
 佳杜菜ちゃんの表情が絶望に打ちひしがれたように蒼白になっていた。
「じゃあ、どうしろと……わたくしにどうしろと……わたくしではあの子を助けられないとおっしゃるのでしょう? ならば、わたくしには何ができるんですの!?」
「君はサヨリの時の家族と、佳杜菜ちゃんの家族と、どっちが大事?」
 佳杜菜ちゃんの目が見開かれていく。
「気づいただろ? それともはっきり言われないと分からない? 今の君は両親のいる子供でもあるんだよ」
 へなへなと佳杜菜ちゃんは膝から崩れ落ちていった。俯いて床の一点を見つめたまま、なかなか顔を上げようとしない。
「君がいなくなった後の君のご両親の気持ち、メルのことをこんなに思いやってる君のことだ、痛いほどよく分かるだろう?」
 大粒の涙が床石に丸く暗いしみを描いていく。
「佳杜菜ちゃん、一緒に帰ってこよう? な?」
 佳杜菜ちゃんはゆっくりと顔を上げる。俺様は頬を伝い続ける涙を拭ってやる。
「一緒に……? わたくしも行ってよろしいんですの?」
「思い出しちまったからにゃあしょうがないだろ。このまま追い帰したってどうせまた来るんだろ? そうだよな。そりゃぁ気になって仕方ないよな。俺様だってその状態で帰されたら、気になって何も手につかないわ。だから約束してくれ。何があっても必ずみんなで無事に帰ってくる。な?」
 そのための覚悟も必要になるんだけど、な。
 もし、最悪の選択肢を俺様が採った時、君はどんな反応をするんだろうな。止めに入るのか、終わった後で一生俺様のことを詰り続けるのか。
「みんなの中には、もちろんメルーチェも入っているんですのよね?」
「もちろん」
 俺様は嘘をついた。
 メルはだめかもしれない。
 俺様のすべき覚悟は、メルの命も志も想いも子殺しの罪も、全て背負う覚悟だ。
 その上で、三井徹として生きる。
「行こう、佳杜菜ちゃん」
 もし、そうなった時。君はその目にしっかりと俺様とメルーチェの姿を映して、一生、俺様のことを許さないでほしい。一生、責め続けてほしい。詰り続けてほしい。恨み続けて……ほしい。
「はい」
 佳杜菜ちゃんは俺様の差し出した手を取って立ち上がる。
 何も知らずに。
 ひどい奴だな、俺様は。
 本当、最低だ。
 今度は佳杜菜ちゃんが〈怨恨〉に魅入られちまったらどうするんだ。
 いや、そうならないように完全に消し去っちまわないとならねぇんだ。
 完全に?
 なぁ、愛優妃。
 メルーチェごと〈怨恨〉の獄炎を消し去っても、この世から怨みなんかなくならないだろ? そんなの、実はただの一時凌ぎにしかならねぇだろ?
 現に〈欺瞞〉は消滅しても嘘はなくならない。〈欲望〉が消滅しても、世界はたくさんの欲望で塗りたくられている。みんながみんな、綺麗になるってわけじゃないんだ。ただ単に、今まで溜まりに溜まったものが消えるだけ。今ある分、これから出る分は何も考慮されてないじゃないか。
 それに、だ。
 人界のごみだって燃やせば二酸化炭素と燃えかすが出る。物は姿形を変えただけで、存在する質量が減るわけじゃないんだ。魔法の基礎として世界の全ては循環しているっていう話をはじめに習うが、もしそれが獄炎にも当てはまるんなら、獄炎が消滅した穴は何が埋めるんだ?
 新たな〈怨恨〉が誕生するだけじゃないのか?
 ああ、駄目だ。やっぱり連れて行きたくなんかない。
 俺様のことを責め続けるために連れて行くっていうなら、それは彼女に、少なくとも俺様の前ではサヨリでいることを強制するってことだ。それはだめだ。それだけは、避けなくては。
 じゃあ、俺様はどうしたらいい?
 やっぱりまた守景に佳杜菜ちゃんの記憶を消してくれって頼むか?
 俺様が守景を振り返ろうとした時だった。
 佳杜菜ちゃんが俺様の手をぎゅっと強く握った。
「徹様、佳杜菜がついております」
 ごめんな、佳杜菜ちゃん……。俺様、やっぱり一人で背負いきれそうにないや。
 俺様はもう片方の手の甲で両目を強くこすった。視界がぼやけたのはきっとそのせいだ。
 佳杜菜ちゃんの手を握り返す。
「俺様に力、貸して」
 握った彼女の手を引き寄せ、額に当てる。
 それだけで何でもできるような気がしてきた。
 どうか、全てがうまく運びますように。
「よし、メルを助けに行くぞ」
 一歩踏み出した鉱土の国の砂は靴の裏ごしでもすでに熱く熱をはらんでいた。













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