聖封神儀伝 2.砂 剣
第5章  親愛なる君へ


 病室に忍び込んで(実際は扉を通り抜けただけだけど)一番に洋海と目が合った。
「ね……っ……」
「どうしたの、洋海」
 目の下にクマを作って幾分やつれたお母さんが咎める視線を洋海に向ける。洋海はわたしから目をそらさない。わたしは気まずさを無理やり笑顔で打ち消して軽く手を振ってみせた。
 洋海はお母さんの視線を気にしながらもぱくぱくと口を開閉させて首を振る。
 曰く「どこ行ってたんだよ。身体あるうちに早く戻れよ! いつまたふらっといなくなるかわからないだろう?」と。
 分かってる分かってる、と手を振ってわたしは自分の身体の前に立つ。
「ほんと、どうしたの。変な子ねぇ」
「いや、何でもないよ」
「それにしても、樒、目を覚まさないわね。いつになったら起きてくれるのかしら。ちゃんと起きてくれるのかしら。まさかこのまま寝たきりなんて……」
 お母さんの弱った涙腺があっという間に緩む。洋海はちらちらわたしを見ながらお母さんの背を撫でさする。
「大丈夫だって。外傷は大したことはないってお医者さんも言ってただろ? 姉ちゃん寝坊助だからさ、ちょっと惰眠貪ってるだけだって」
「いくら樒が朝寝坊でも、これじゃあ親不孝もいいところだわ」
 う。
 今のはざっくり心に響いたなぁ。
「だよなぁ。姉ちゃんも親不孝者だよなぁ。母さんもこんなに心配してるのに。父さんだって仕事が終わったらまた来るって言ってたし。明日の朝までに目を覚まさなかったら東京の方に転院の手続きだろう? ほんと、早く戻ってきてほしいよなぁ」
 明日転院。
 そんな話になってたんだ。
 これは夏城君に言われるまでもなく、早く身体に戻って目を覚ましてお母さんたちのこと安心させてあげないと。
 わたしの身体は度重なる聖の逃亡のせいで、もう逃げ出せないようにきっちりと拘束具でベッドに縛り付けられていた。まるで罪人か何かだ。いや、悪魔祓いの映画にこんなシーンがあったかも。さながらわたしは悪魔に取り憑かれた一般人か。一目でわかるほど細くなった腕には点滴のチューブが差しこまれていたけど、腕同様、顔も身体も一回り細くなり、土気色で肌のハリはなくなっている。まるで病人だった。聖だった時の晩年を思い出す。鏡を見るのが億劫になるほど生気を感じられない顔になってしまった時のことを。
 戻らなきゃ。早く戻らなきゃ。お母さんやお父さん、洋海、夏城君だけじゃない。自分のために、早く戻らなきゃ。
 聖、お願い。邪魔しないでね。
 祈りながら、自分の首筋に手を当てる。どくどくと生きている感触が伝わってくる。だけど、手はそれ以上吸い込まれることはなかった。
「……」
 ちらりと洋海を振り返る。
 洋海は「早くしろよ」と口をパクつかせる。
「分かってるよ。だけど……どうやって戻ればいいんだっけ?」
「……」
 今度は洋海があんぐりと口を開けて沈黙した。それからようやく「ぐっとだよ。ぐっと押し入るような感じでもっと積極的に!」と拳を握って訴えかけてくるので、その通り、ぐっと入ろうと自分の胸の上に両手をあててジャンプまでしてみたんだけど、逆にわたしは跳ね返されてぐんと後ろに弾き飛ばされた。
「う……そ……戻れない……?」
 呆然とわたしは呟く。
「あ、母さん、俺リンゴ食べたいなぁ。ちょっと剥いてきてくれない?」
 業を煮やした洋海がすっかりふさぎ込んでいるお母さんにリンゴと果物ナイフの入った籠を渡して病室の外に無理やり追い出す。
「姉ちゃん」
「はいっ」
 二人きりになった病室で洋海はぎろりとわたしを見た。
「どこ行ってたの?」
「どこって……」
 洋海は聖が入ってる身体の顔の方に視線を落とす。
「砂漠の匂いがする。姉ちゃんの身体、戻ってきたとき泣いてたよ」
「泣いてた……?」
「嬉しいような悲しいような顔で」
「え……」
 洋海は言葉に詰まるわたしの前まで来ると、いともやすやすとわたしの手を引っ張り上げ、わたしの身体のところまで連れて行き、ぐいぐいと背中を押しはじめた。
「痛い、痛い、痛い、痛い! 無理だって。入れないよ!」
「姉ちゃんがまだ本気で戻りたいって思ってないからじゃないの? ほら、早く戻らないとほんとに戻れなくなるぞ。聖様にいいように動かれちゃうぞ。戻れよ。戻れってば」
「ちょっとちょっとちょっとっ」
 今聖って言った?
 いや、まさかね。聞き間違いよ、聞き間違い。
「わたしだって戻りたいけど、だって無理なんだもん。こういうのって自然に吸い込まれたりとかどうかするようなイメージあったけど、全然違うんだもん。扉が開いてないっていうか、拒まれてるっていうか」
「わかった! じゃあ、テレビの再現ドラマとかでよくやってるように体の上に同じような体勢で仰向けに寝てみたら?」
 言われた通り自分の身体の上に体を横たえてみたけれど、一向に何も起こらない。自分の身体の上に寝るっていう貴重な体験をしただけで終わってしまった。
「じゃあ次は……そうだ! 口から入ってみるっていうのは?」
「口から? それってまさか自分にキスしろっていうんじゃないでしょうね?」
「キスじゃない。おばけみたいに足からはちょっと無理だろ? だからちょっと口と口を繋ぐだけ……」
「無理!」
「四の五の言ってる場合か! やれ! やるんだ!」
 洋海の目が頑として自分同士のキスを強要してくる。
 気圧されるままに自分の顔に向き合ってみるけれど、う゛……とてもそんな気にはなれないよ。
「ちっ、根性なしが」
 洋海が毒づいた時、洋海の電話が鳴った。
「はい、あ、夏城さん? うん、うん、いるんだけど戻れなくって……色々試してみてるんだけど……あ、そうだ。こういうときって眠り姫の話ってあるじゃないですか。ちょっと夏城さんひとっ走り姉の病室まで……」
 ブツッ。ツーッ、ツーッ……
 取り上げて通話を切った洋海の電話から、相手のいなくなった後の単調な音が聞こえてくる。
「夏城君まで巻き込まないで! 眠り姫の話なんて持ち出して何させようとしたのよ!」
「何って、分かってるから電話切ったんじゃないの? 眠り姫の目を覚ますには王子様のキスって相場が決まってるだろ」
「だから夏城君を巻き込まないでっ!」
「なら俺でもいいの?」
 電話を取り返した洋海がぎろりとわたしを睨む。
 わたしは何を言われたのかとっさには意味が分からずぽかんと洋海を見返す。
「俺で姉ちゃんが戻ってくるなら、俺がするよ。それが一番早いし、姉ちゃんのこと、目の前で夏城さんに渡さなくて済む」
「な、何言ってるの」
 わたしははぐらかすように曖昧に笑う。
「この顔、姉ちゃんの顔じゃないよ。聖様のお顔だ。そんでもってこんな顔させるのは龍様ただ一人」
 洋海は真剣だった。わたしは固く唇を噛んで出そうになる言葉を飲み込み、次の洋海の言葉を待つ。
「嫌なんだよ。姉ちゃんがこんな顔してるの。中身が聖様で姉ちゃんとは別だって言われても、やっぱり嫌なんだよ。それに! 姉ちゃんが意識不明になってこんなことになっちまったのだって、元はと言えば俺を助けようとして無理したからだろ?」
 洋海の目からは怒ったような色が消えない。
 ああ、そういえば洋海、あんた両手に包帯巻いてたのね。昨日の爆発で怪我したのかな。ごめんね、守ってあげられなくて。
「そんなのもっと嫌なんだよ、俺のために姉ちゃんが傷つくの。俺、姉ちゃんに守ってもらうために弟に生まれてきたんじゃないよ。姉ちゃん護るために一番近くに生まれてきたんだよ」
 洋海はまっすぐにわたしを見ている。
 こんな視線を、わたしは知っている気がする。ずっとずっと、いつもひたむきに聖に向けられてきた視線。叶わないとわかっていて、叶えるつもりがなくなっても、ずっと真摯に見守ってくれる目。
 この人だけは、たとえ聖がどんな浅ましい姿になろうと変わらず愛してくれるのではないかと、そんな自分勝手な確信までさせてくれた人。
「ヴェル……」
「洋海、リンゴ剥いてきたわよ」
 思わず口にしかけたその名は、お母さんのちょっと疲れた声にかき消された。
 洋海ははっと我に返ったように病室に入ってきたお母さんを振り返る。
「あ、ああ、ありがとう」
 洋海がわたしから目を離した一瞬に、わたしはまた病室から、ううん、洋海から逃げ出した。
 正直、問うて確認するのが怖かった。
 三井君が自分の弟が影だったと知って居心地悪そうにしてたけど、これはそれ以上に、なんていうか、居心地が悪いだけじゃなく、確認しちゃったらこの後どんどんぎくしゃくしていきそうな気がするんだもの。知らない方が幸せってこともあるって、世の中にはそんな言葉もあるじゃない? これがそれなのよ。
 まさか洋海がヴェルドなんてこと、ないよね?
 病室の壁を通り抜けて一歩で出てきたのは病院の駐車場。二歩目で街灯下に佇んで携帯の明かりを見つめる夏城君の横を通り過ぎる。三歩目で、海の波が打ち上げる道路に出た。
 はあ、はあ、はあ、はあ……
 息が切れる。
 身体を折り曲げてわたしは浅く呼吸を繰り返す。何度も繰り返してようやく、耳に海の音が入ってくる。ちょっと上半身を持ち上げてようやく、海上に映る月の姿が目に入る。
 白い月だった。形はちょっといびつに膨らんでいる。うさぎの形は半分くらいしか見えない。
 さやさやと光が降ってくる。静けさに静けさを重ねるように透き通った光が流れてついてくる。
 見ているだけで心洗われるような、それでいて淋しくなる光だった。
 身体が溶けてなくなってしまいそう。
「人界の月はきれいだね。空が夜なのに青く見える」
 突然声をかけられてわたしはびくっと震えたけれど、振り返ればそこにいたのは昨日の朝出会った方の藺柳鐶だった。
「こんばんは」
 穏やかに彼は微笑む。ついさっきまで、同じ格好をした人が自分を騙って三井君にひどいことをしていたというのに、表情も声音も本当に別人なんだと思い知らされる。
「身体には戻らないの?」
 しげしげとわたしを見つめて本物の藺柳鐶は言った。
「戻れなかったんです」
「不思議なものだよね。魂って存在は、いまだ闇獄界の科学でも解き明かせない」
「愛優妃に聞けば済むことじゃないんですか?」
「それじゃあ探究心が満たされないだろう? それに、たぶん愛優妃様は科学的な見地から魂という存在を解き明かしてはくれないよ。あの方がご存知なのは概念として魂というものがあるということ。神界の育命の国にあるという輪生環を潜って魂は過去を浄化され、新しい生へと送り出されるということ。魂がそもそもなんという物質でできているのか、どのような反応を示すのか、どのように生成され何によって消滅するのか、あの方はたぶん全てをご存知というわけではないのだと思うよ」
「神様なのに?」
「愛優妃様は自分のことを創世の神だと闇獄界で言ったことはないよ」
 不思議な感じがした。神界を創ったのも闇獄界を創ったのも人界を創ったのも、統仲王と愛優妃じゃないの?
「確かに人界と闇獄界は造ったようだけどね。神界はどうだったんだろう。でも、これらを聞くのは実際のところ闇獄界ではタブーなんだ。探究心がどうのなんていう奴は俺くらいでさ、実際には数多の科学者たちが愛優妃様を質問攻めにしようとしたらしいが、何の答えも返ってこなかったって話だ」
「ふぅん……そういうものなんだ」
「そういうものみたいだね。他の科学者たちはそこで終了してしまうんだが、俺はね、実は神界は別の存在が創ったんじゃないかと考えているんだよ。そして、その存在は月にいる」
 どくん、と心臓がはねた気がした。
 ざわざわと胸のあたりで何かが落ち着きなく左右に行ったり来たりする。
「愛優妃様はことに月を恐がられるんだよ。月が出ているときは決まって窓のカーテンを閉めて光を遮る。あれは月にある何かを恐れてのことじゃないかと俺は思うんだ」
「闇獄界にも月はあるんだっけ」
「そう。愛優妃様がぽろっと呟いたことがあるんだ。『月は監視している』って。意味深だろう?」
 フフフ、と笑った表情は弟子の藺柳鐶そっくりだった。
 わたしは月を見上げた。
「さみしいところですよ、きっと」
「まるで行ったことがあるみたいだね。人界ではもうあの月には行けるようになっているんだっけ」
「闇獄界では月に行かないの?」
「行けないんだよ。闇獄界の月は見えてはいるけれど、物理的に手を伸ばせば触れられるところにはないんだ。おそらくあれは次元が違う。だから四六時中白くまぁるく浮かんでるんだ。ま、いない時もあるけどね」
「次元……そんなこと考えもしなかった」
「人界にも人間の行ける月と行けない月があるはずだよ。宇宙飛行士たちが辿りついた月は物理的に同じ空間に存在する地球の衛星。でも、重なるように監視する月がいるんじゃないかな」
「月に創世神がいるとしたら、どうしてその人は月にいるんでしょう。下に降りては来ないのかしら。一人で淋しくないのかしら」
 藺柳鐶は面白いものでも見るようにわたしを覗き込んだ。
「愛優妃様でも恐れる存在を、淋しがっていないかどうか心配するなんて、面白い子だね」
「そう、ですか?」
 わたしには彼女が淋しくて淋しくて仕方ないようにしか思えないのに。
 彼女?
 長い後ろ髪と六枚の翼。
 誰?
「そういえば、俺の弟子は息災にしていた?」
 藺柳鐶に話しかけられて、わたしは我に返る。
 眉間を抑えて首を振る。
 ああ、もう思い出せなくなってしまった。わたし、何を見たんだっけ。ぼんやりと灰色くかすんだ細長いいびつな影だけが瞼の裏に残っていたけれど、それも目を開けたとたんに消えてしまった。
 ただ、胸に淋しさだけが残っていた。
「息災というかなんというか……もうだれも止められない感じです。悪を謳歌しているというか」
「あいつらしいなぁ。なりきっちまうともう脇目も振らずに突き進むからなぁ」
「笑い事じゃありません。三井君がどれだけ苦しんでるかと思うと……」
「そっか、ばれたか」
「ばれたかじゃないですよ。そんな気楽なものじゃありませんでした!」
 藺柳鐶は苦笑する。
「それで、彼どうするって?」
「明日の朝、闇獄界の愛優妃のところに助ける方法を聞きに行くことになってます」
 藺柳鐶は腕組みをして難しげに考え込む。
「ないって言われなかった? 統仲王に」
「言われましたけど、でも愛優妃なら闇獄界にずっといるし、獄炎の管理者でもあるし、きっと何か……」
「統仲王が知らないなら、なおさら愛優妃様が知ってることなんてないと思うけどな」
「……二人は対等じゃないんですか?」
「さあ? 神界における地位がどうなってるかは知らないけれど、愛優妃様は統仲王より後に生まれたもの。性質も理性ではなく感情を司っている方だから、そういう情報には疎いんじゃないかな。それに……」
「それに?」
 藺柳鐶はグーッと空に向かって背伸びをすると、ぷはぁーっと手を解いて脱力した。
「聞かなかった? 獄炎の器は生贄だって。この世を平和にするために負の感情を体内に閉じ込め、その身ごと斬られて浄化するための器に過ぎないって」
「でも、より強い負の感情を持っていればその人の方に移るケースもあるし」
「へぇ、そんなケースもあるんだ。でも、それはまだ獄炎の根が器に張り切っていなければの話だろう? あいつらは根を張るよ。がっちりとその身体の足の指の先から頭のてっぺん、一本一本の髪の毛先までがんじがらめにして寄生するんだ」
 藺柳鐶はわたしの身体を足のつま先から頭のてっぺんまで舐めるように視線を這わせた。
 居心地の悪さにわたしは身じろぎする。
「でもあの藺柳鐶の身体には何も巻き付いてなかった」
「身体はあくまで容れ物だよ。絡みついて身動きできないほどに根を張るのはその魂。今の生身の君の状態にあの獄炎がくまなく張りついていると思えばいい。張りつくだけじゃない。寄生しているんだからその身の肌を突き破って奴らはさらに深淵にまで根を伸ばしているはずだ。きっと不快さは身体を拘束されるよりもひどいだろうね。そして魂に規制されては容れ物の身体ではもう振り払えない」
 ぞっと血の気が引いた。
 今のこの状態に獄炎が絡みついてくる? この肌も突き破って中にあの黒い獄炎が手を伸ばしてくる?
 気持ちが悪い!
「そうだ。君のその反応が正しい」
 両手で腕を抱いて身震いしたわたしを見て、藺柳鐶は頷いた。
「逆に言うとね、それくらい根を張っていなければ器ごと斬っても逃げられる恐れがあるんだ。獄炎が逃げてくれれば魂も消滅しなくて済むけれど……あの子はもう無理だろうね」
 藺柳鐶の溜息を波が攫って行く。
「諦めるんですか? 諦めちゃってもいいんですか?」
「魂が何でできているのか。どうやって生み出されるのか。それさえ分かれば助けようがあるかもしれない。でも、それは闇獄界ですらわかっていないし、統仲王も愛優妃様も知らない。そもそも魂の組成が分かっていれば、それに寄生できる獄炎の組成もわかるはず。それが分かっているならわざわざ闇獄界などという負の感情の集積場を作らなくても効率的に処理できたはずなんだ。――お手上げだよ」
 お手上げ……三井君が聞いたらがっかりするだろうか。それとも「いや、やっぱもっと方法があるはずだ!」って先を模索するんだろうか。
「今の俺に現実のものに触れられる力があれば、君を実験台に魂の組成についていろいろ実験して探れたのにねぇ」
「えぇっ!?」
「冗談だよ」
 びくっと震えて後ずさったわたしに、藺柳鐶は軽く笑って流した。でも、その眼はどうも生来のマッドサイエンティストの色に染まっているように見える。
 わたしはもう一歩後ずさる。
「俺が生きていて、生霊の君の姿が見えればなおよかったんだけどねぇ。君、うちの弟子のために実験台になってくれる気は?」
 わたしはふるふるふると首を振る。
「だよねぇ。いやだよねぇ。ああ、残念だな。これほどの逸材が目の前にいるっていうのに。惜しいなぁ」
 やっぱりちょっとこの人本気で危ないかもしれない。
 逃げようかと思った時だった。
 波打ち際を足を濡らしながらふらふらと歩いてくる人影が、藺柳鐶の向こうに見えた。
 わたしの視線に気が付いて藺柳鐶も振り返る。
「記憶を消したんだね」
 抜け殻のようにうつろな目で歩いてくるのは佳杜菜さんだった。その姿は眠れずに気晴らしに散歩に出てきたというよりは、夢遊病者のように何かを探し求めて出てきたかのようだった。裸足の足を、何度も波が洗っていく。その感触に気を向けることなく、佳杜菜さんは一人で歩いてくる。後ろには追いかけてくる家の人もいない。
 普通に考えて夜の海なんて、いくら夏休みでも女の子が一人で出歩いて安全な場所じゃない。現実にもこっちの世界にも恐い人はたくさんいるんだから。
「佳杜菜さん!」
 わたしはつい、自分の姿が見えないかもしれないなんてことも、さっき三井君の意志を組んで記憶を消したことも忘れて、彼女に声をかけてしまっていた。
 佳杜菜さんはふぅっと顔を上げる。
 視線が絡み合った。
「貴女……は……? ……ごめんなさい。今ちょっと頭が混乱しているみたいで、いろいろと思いだせないんですの。確かにお会いしたことがあるような気がするのですけれど……ごめんなさいね」
 ううん、とわたしは首を振る。
「こんなところ、真夜中に一人で歩いていたら危ないですよ」
 肩を掴んで引きとめられて、佳杜菜さんはあら、という顔をして辺りを見回した。
「ここは……まぁ、ここはどこでしょう。わたくし、探し物をしていたらついうっかりこのようなところまで……」
「探し物?」
「ええ、とても大切なものなんですわ。でも、何を探しているかも思い出せなくて……もやもやと影だけが頭の中にあるのですけれど、はっきりとした形になってくれませんの」
 やっぱり、完全に忘れきることはできなかったんだ。
 人の思いは強いね。理に則った魔法さえも乗り越えるんだから。
「それは物だった? 人だった?」
 わたしの問いに、近くで見ていた藺柳鐶は咎めるような視線を向けてくる。
 それには気づかず、佳杜菜さんは両手で形を宙に描く。
 横に細長い四角い形だった。
「人じゃないの? 物なの?」
 意外だった。きっと佳杜菜さんは三井君のことを探すと思っていたのに。
「物、ですわ。わたくしを守ってくれる、とても由緒正しい……」
 そこまで呟くと、佳杜菜さんは眩暈に見舞われたのかふらりと上半身を揺らがせて膝から砂浜に頽れた。
 砂についた掌。
 ゆっくりと砂をかくように指を曲げる。
「そう、この感触……」
 両手で砂を掬い上げ、指の間からこぼれる砂に目を凝らす。
「ああ、違うの。お願い、崩れないで。わたくしは本物よ。わたくしは本物なのよ。分かるでしょう? 知っているでしょう? ――しゅう、りん、……秀稟……?」
 ふっと佳杜菜さんの目に正気が戻る。
 わたしと目が合ったかと思うと、佳杜菜さんは砂の上を這ってわたしに飛びかかってきた。
「貴女ね。返して! わたくしの記憶を返して! 返しなさい!」
 わたしは佳杜菜さんに押し倒されるがままに仰向けに砂の上に倒れていた。上には佳杜菜さんが四つん這いになってわたしを睨み下ろしている。
「何の記憶を返せばいい?」
 意地悪くわたしは問う。
「全てよ。わたくしの昨日からついさっきまでの記憶全てを返しなさい!」
「何故? そこに何があるというの? 忘れる程度のものだったんでしょう?」
 パァンと耳元で音が弾けた。
 顔が右を向くほど強く頬をはたかれていた。
 ああ、痛いな。
 痛いや。
 身体じゃなくても痛みを感じるよ。
 想いの強さでわたしに触れられる人もいるんだね。身体なんかなくても、魂に直接訴えかけてくるんだね、きっと。
 身体なんて器がなくても、感じ方は同じなんだ。
 それなら獄炎に魂を捕らわれた人々は、どんなにか気持ちの悪い思いをしてきたことだろう。身の内から養分を吸い取られながら、どんなにか恐ろしい思いをしていることだろう。
「何故、なくなってると思うの? 貴女は眠っていただけかもしれない。ただ一日を寝過ごしてしまっただけなんじゃない? どうしてわたしが貴女の記憶を奪ったというの?」
「眠ってなどいないわ。わたくしは起きていました。起きて、大切な人に出会って、子供たちを……家族を……そう、ああ、そうだわ。守らなければ。わたくしが守らなければならないのです。メルも、錬も、鉱様も」
 上を向いたままのほっぺたにぼろぼろと涙が落ちてきた。
「取り戻さなきゃ……」
 それだけじゃまだサヨリさんのままね。
「大切な人って誰?」
「大切な人? もちろんそれは……あら、鉱様、じゃない? よく似てらっしゃるけど、違うわ。あの方は……徹、様」
 ねぇ、三井君。
 言ったでしょう。魔法の力なんて、人の心に及ばないこともあるんだよ。
 苦しんで、苦しんで。もがいて転がって、それでも諦めなければ手にできるものがあるんだよ。
「あ……まぁ、わたくしったら樒さんになんてひどいことを。ごめんなさいましね。ごめんなさいまし」
 全てが繋がったらしい佳杜菜さんは、慌ててわたしの上から降りて、わたしの腫れた頬に触れようとしたけれど、今度はその手はわたしの頬をすり抜けてしまった。
 佳杜菜さんは素直に驚いた顔をしている。
 わたしはちょっと笑って藺柳鐶の方を見た。
「不思議ね、この姿って」
「思いが強ければ触れられる。実態あるものが貴女に触れている時、身体は触れていないのでしょうね。思いだけが身体から迸って貴女に届いたのでしょう。それであるならば、貴女という魂は想念の塊でもあるわけだ。ああ、そうか。だから獄炎も絡みつけるっていうことか」
 藺柳鐶は方法と満足げにひとり相槌を打つ。
 その姿が佳杜菜さんにも見えたようだ。
 再び佳杜菜さんは驚きに目を見張る。
「貴方は、誰?」
 不用意にメルと呼ばなかったところも、藺柳鐶と呼ばなかったところも、さすがというべきか。
 藺柳鐶は口元に微笑を浮かべた。
「藺柳鐶と申します」
 佳杜菜さんは立ち上がり、藺柳鐶の前まで歩み寄るとしげしげとその姿を眺めた。
「貴方が本物の藺柳鐶さん。失礼ですけど、メルとの関係は?」
「あの子は俺の弟子です」
「弟子。ということは、神界にもいらっしゃったことがおありになるんですね」
「ええ」
「貴方がメルーチェに爆弾の作り方を教えた」
「そうです」
「もしかして……闇獄界にあの子が連れ去られた後、助けてくださったのも貴方ですか?」
「ええ。やや遅くなってはしまいましたが」
「そう、でしたか。メルーチェが大変お世話になりました」
 佳杜菜さんは深々とお辞儀した。
 意外だったのだろう。藺柳鐶は珍しく狼狽えている。
 わたしも意外だった。メルに爆弾の作り方を教えた張本人ということは、メルに神界で生きていくうえでの道を踏み外させた張本人ということだ。それに闇獄界に行った後も、メルは彼に心酔し、爆弾の研究に励み、彼が亡き後は姿まで似せて今に至るのだ。母親であるサヨリさんならば、本物の藺柳鐶を恨み、怒りをぶつけるものだと思っていた。
「怒らないのですか? 恨まないのですか? 俺が彼女に爆弾の作り方さえ教えなければ、彼女は道を踏み外さなかったかもしれない」
「いいえ。あの子は貴方という師を得て幸せだったのです。貴方は魔法を使えないあの子に希望を与えてくれた。あの子は道を踏み外したのではありませんわ。神界という世界が、あの子にとっては狭すぎたのです。親の欲目だなどと笑わないでくださいませね。メルを弟子と呼んで下さる貴方ならば、お分かりになるでしょう?」
「――ええ」
 藺柳鐶は少し緊張を解いたらしい。
 佳杜菜さんも肩から少し力を抜いたようだった。
「教えてくださいますか? メルは闇獄界で貴方とどれだけの時を過ごせたのでしょう。貴方ならば、何を思ってメルが〈怨恨〉の獄炎になど手を出してしまったのか、お分かりになりますか?」
 藺柳鐶は佳杜菜さんを見つめたまましばらく口を開かなかった。
「力が欲しかったのでしょうか? それとも研究を続けるための寿命? あの子は〈怨恨〉に身を委ねたこと、後悔していないのでしょうか」
「俺から見れば、うちの弟子は後悔するようなことにははじめから手を出しませんよ。先の読める子ですからね」
「貴方を失って錯乱していたとしても?」
「それでも、あの弟子は信ずるところは枉げません。決して。それはお母さんが一番よく分かってらっしゃるでしょう。どうも、あの子は貴女似のようだから」
 藺柳鐶と佳杜菜さんは見詰め合ったすえに二人して気恥ずかしげな笑い声を漏らした。
「闇獄界に行っても、メルーチェは忘れなかったのですね。鉱土法王の娘の矜持を」
「闇獄界に連れてこられた時に剥ぎ取れるものは全て剥ぎ取られてしまったから、決して折れることのない固い芯の部分だけが残ったのでしょう」
 ふーっと佳杜菜さんは長い溜息をついた。
「代われるなら代わってやりたい。自分だけが転生して幸せな人生を享受しているのが申し訳ない。それならばいっそ、全てを投げうってでもメルーチェとともに消えてしまいたい。――まだ、そう思いますか?」
 藺柳鐶の問いに佳杜菜さんは答えない。
「それとも、記憶など戻らない方がよかったと思っていますか?」
「それはないわ! それは、ありえませんわ」
「お母さん。メルーチェはお母さんによく似てらっしゃる。もし貴女がメルーチェと同じ道を歩んできたなら、どうですか?」
 佳杜菜さんは唇を噛んだ。
「邪魔をしないで。これは私の選んだ道なの。私の身を最大限に生かして、たくさんの人を幸せにできるのよ。何もできなかった私が、唯一この世界の人々のために為せることなのよ――でも、でもわたくしも徹様も、あの子の親なのですわ。メルは若い頃のわたくしにそっくりなところもございますけれど、でもわたくしはメルとは違うのです。親は子にはなれません。子は親にはなれません。気持ちなど、相いれられないものなのです!」
 勢い込んだ佳杜菜さんを前に、藺柳鐶はふっと微笑んだ。
「俺は親のことなど何も覚えちゃいませんが、一つだけ分かったことがあります。メルーチェは貴女方を両親に持てて幸せだ。貴女方を両親に持てたからこそ、安心してこの道を選んだのかもしれませんね」
「それはわたくしたちならあの子を助けられるから?」
「いいえ。貴女方ならきっと、自分の気持ちを一番よく分かってくれると思うから、です」
「ああ――」
 藺柳鐶の言葉に、佳杜菜さんは泣き崩れた。
 いつの間にかわたしもじわりと涙腺が緩くなっていた。
 波が幾度も寄せては返し、月は天頂を過ぎていく。
 やがて空はゆっくりと白みはじめる。
「徹様にお会いしに行きましょう」
 泣き疲れ、少しばかりの睡眠をとった佳杜菜さんは夢の中で心を決してきたようだった。













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