聖封神儀伝 2.砂 剣
第5章  親愛なる君へ


 小さい頃、結婚してまだ間もないサヨリさんに聞いたことがある。
「おうちに帰れなくてさみしくないの?」と。
 どうして唐突にそんなことを聞いてしまったのか覚えていないけど、なんとなく、結婚式で見た幸せ絶頂のサヨリさんの表情に比べて、影が差しているように見えたからかもしれない。
 鉱土宮の中庭の泉が見えるテラスで、サヨリさんは不在だった鉱兄様の代わりに聖をもてなしてくれていた。こぽこぽと音を立ててお湯が注がれるカップからはちょっと変わったハーブのさっぱりした香気と砂糖の甘い匂いが漂ってくる。
「ハーブティー?」
「ハーブだけでなく刻んだ緑茶の葉も混ぜているんですのよ。お砂糖もちょっと入れて、熱いこの国にぴったりの香りも味もさっぱりとしたお茶ですわ。鉱様直伝ですのよ」
 鉱兄様は近頃不穏な西方の情勢を、西方将軍のヴェルドとともに天宮の統仲王に報告しに行ったのだとか。私も前もって知らせたわけでなく、思い立って突然来てしまったから不在なのはしょうがない。
 どうして鉱兄様に会いに行こうと思ったのかって?
 たぶんきっと、会いたかったから。
 鉱兄様は龍兄と違って会いたいときに素直に会いに行ける存在だったんだと思う。結婚してからはそうそう押しかけて駄々をこねることも甘えることもできなくなってしまったけれど、それでも、サヨリさんは快く私を迎え入れてくれた。
 考えてみれば、龍兄に会いたいと思ったときは最終的に龍兄の国とは天宮を挟んで正反対にあるこの鉱土の国に来てることが多いような気がする。龍兄に会いたいと思うときは疾しさが先に立っていろいろと考えてしまうけど、鉱兄様のところなら気軽に〈渡り〉で飛ぶことができた。鉱兄様の太陽のような笑顔に癒されておバカな話をしていると、日が暮れる頃には何をそんなに悩んでいたんだろうと笑いがこみあげてくるくらいだった。
 今日も鉱兄様に会ってさっさとこの得体のしれない不安を笑い飛ばしてもらおうと思ったんだけど……サヨリさんと二人っきりでお茶をするのは初めてかもしれない。
「メルと錬は?」
「二人とも今は勉強の時間ですわ」
「勉強……」
 その言葉を聞いただけでぞわっと背中が粟立つのは、別に私だけではないはずだ。肩を竦めた私を見てサヨリさんは笑っている。
「そういえばメルは優秀なんでしょう? 家庭教師の先生方も舌を巻くくらいだとか」
「いいえ、まだまだですわ。あの子は確かに頭のよい子ですけれど、まだ前しか見えていませんもの」
「前しか見えていない?」
「自分の考えが全て正しいと思っているのです。子供の頃はわたくしもそうでしたけれど、まだまだ視野が狭いことに気づいていないのですわ。議論をすれば相手を打ち負かすことばかり考えて議論を組み立てていて、相手の意見を聞いて自らの糧にしようとする余裕がまだ足りないのです。この世で自分が一番賢いなどと勘違いしていなければいいのですけれど。本当、わたくしに似て困った子ですわ」
 穏やかに語るサヨリさんからは、到底そんながつがつした感じは受けないのだけれど、それは大人になって丸くなったということだろうか。
「錬は?」
「あの子は大丈夫だと思いますわ。出来すぎるメルを見て育っていますから、周りを見て協調する能力には秀でているようです。メルのことも慕ってくれていますし、錬がいるからメルもやたらめったら無茶なことはしないでいてくれるのではないかしら。本当、母親のわたくしが申しあげるのも恥ずかしいですけれど、とてもよい姉弟だと思いますわ」
 巷ではメルーチェは魔法が使えないのではないかなどといううわさがまことしやかに流れていたが、サヨリさんはそのことには触れなかった。
 注がれた緑茶ハーブティーは砂糖の甘さをベースに緑茶の渋さとハーブの爽やかな香気が絶妙にマッチしていて、熱いお茶なのにとてもさっぱりとした飲み心地だった。
「意外な組み合わせ」
「でしょう? わたくしも初めて鉱様に淹れていただいた時はびっくりいたしました。一見合わなそうに見えても、それぞれの長所を最大限に生かせる割合を見つけられれば、単品よりも個性的でいながら薫り高いものになるのだそうです」
「なるほど」
 感心してもう一口すすると、サヨリさんはふふふと笑った。
「鉱様の受け売りです」
「鉱兄様の? ぷっ、きっといいこと言ったと思って得意になってるんじゃないかしら」
「ええ、それはもう得意満面で」
 サヨリさんは何かを思い出したように懐かしげに目を細める。
「実は、まだメルも錬も生まれる前に、鉱様と喧嘩してここを出ていこうとしたことがありましたの」
「え?」
 初耳なんだけど。結婚式でもうこれ以上ないくらいに完成された仲睦まじさを披露していた二人が、喧嘩?
「きっかけはもう何だったか思い出せないくらい今となっては些細なことなのですけれど、とにかくわたくしは頭にかぁーっと血が上って、『貴方とはもう一緒に暮せません。周方に帰らせていただきます』と啖呵を切ったんですけれど、鉱様は急にむっすりと口を噤んでしまって。わたくしは止めてくれるものだと思ったのに、おもむろにこうやってティーセットを取り出してお茶を入れる準備なんか始めるものですから、わたくしはさらに怒り出してしまったんですけれど、今思えば、本気ならとうに飛び出していますわよね。とにかく、並べられるくらいの悪態をついて鉱様がわたくしを見てくれるのを待ったんですけれど、鉱様は黙ってハーブと緑茶を揉み刻んだものと砂糖とをカップに入れて、沸かしたてのお湯を注いでじっと頃合を見計らった後、私の方にカップの一つを差し出したのです。わたくし、鉱様がハーブと緑茶の葉を一緒にカップに入れたときに、それはもうバカにいたしましたの。それは単品で飲むものでしょう? 何でもかんでも混ぜればいいなんて子供の発想ですわ、って。でも鉱様は何もおっしゃらなくて。ただ目で飲んでみろと言うのですわ。わたくし、飲んだらもっとバカにしてやろうと思って一息に飲み干そうとしたんですけれど、半分くらい一息に飲みこんだところでハッと気づいたんです。あれ、これはもしかして美味しいんじゃないかしらって。カッカしてた自分がだんだん恥ずかしくなってきて、二口目はゆっくりと味わってみましたわ。『おいしい』って、つい言ってしまったんです。そうしたら鉱様はにやりとお笑いになって、緑茶とハーブは俺様とサヨリだっておっしゃったんですの。すっかり忘れていましたけれど、わたくしたち出会った時は元々犬猿の仲だったんですわ。色々あって全部お互いのことを分かり合えた気がしていましたけれど、それはわたくしだけで、全部受け止めてくれるはずと甘えて我儘になっていたのもわたくしだけだったのですわ。鉱様はちゃんとわきまえてらっしゃったんです。二人の関係における自分の割合を。二人の結婚生活を末永く続けていくためには、そのお茶のように俺様もサヨリも最大限長所を引き出せる割合があるはずだ。すぐには見つからないだろうけれど、少しずつすり合わせながら作り上げるものじゃないのかって。だから、周方に帰るなんて言うな。サヨリの家はここなんだから、と」
 サヨリさんはポットを置くと、背後の鉱土宮をぐるりと見渡した。
「聖様、昔わたくしにお尋ねになったことがございましたわね。おうちに帰れなくてさみしくないのか、と。あの時、わたくしは確か答えられなかったと記憶しております。何せ、その些細な理由が積み重なっている最中でしたから。わたくし、周方の皇女でありながら兄のように魔法が使えるわけでもありませんし、優れた武将だったわけでもありませんでしたから、小賢しく知識だけはつけようと励んできたつもりでしたの。でも、やはり鉱土法王の妻ともなると魔法の一つや二つ使えるんだろうという目で見る方が多いような気がして。コンプレックスでノイローゼ気味になっていたのかもしれませんわね。周方とは違って親しい友も父も母も兄もいないこの鉱土宮で、わたくしはたった一人なのだと思い詰めていっていたのですわ。辛い、辛いと思っていたところに、聖様の無邪気な質問でございましたでしょう? わたくし、その質問を聞いて、ああ、わたくしは今周方に帰りたいんだ、って気づきましたの。だからあの日、鉱様に向かって周方に帰らせていただきます、なんて言ってしまったのですわ」
「ごめんなさい。私、いくら小さいからとはいえ無神経なことを……」
「いいえ、わたくしのもやもやしていた気持ちの正体を聖様が教えてくださったのですわ。あの時、わたくしはそれほど帰りたそうにしていましたか?」
 あれは、聖刻の国はじめじめとした雨季の時期だったと思う。湿気は身体に悪いから、と湿気払いに訪ねた鉱土宮は雲一つない濃い青空が広がっていて、それはもうからっとしたいい天気だったのに、一人ぼんやりとミラリスの泉を見つめていたサヨリさんの横顔はどんよりと曇っていて、今にも雨が降り出してしまいそうだった。
「慰めなきゃと思ったの、多分。帰りたがっているかどうかまでは考えなかったけど、さみしそうに見えたからおうちが恋しいのかなって」
「おかげでわたくし救われましたわ。鉱様に溜まっていた気持ちを言葉にしてぶつけることができたんですもの。そして、鉱様からはわたくしの家はここなのだとおっしゃっていただけた。どこにも帰る場所なんかないのではなく、鉱様のいらっしゃるこの鉱土の国こそがわたくしの帰るべき場所なのだと、ようやく覚悟を決めることができましたの。周りから見れば鉱様とわたくしは意外な組み合わせかもしれませんけれど、それぞれの長所を最大限に発揮できる割合を見つけられれば、最高のパートナーになれるはずだって、わたくしもそう思いましたの。それぞれの良さを引き出してくれるお砂糖の存在も忘れてはいけませんけど」
 そこでぽっと顔を赤らめたのは、きっと子供のことを想起したからだろう。
 かわいらしい人。
 子供のころは素敵なお姉さんだと思っていた。すごく大人なできる女性。
 それは今も変わらない印象だけど、今はそれだけじゃないことにも気づいてる。女性らしさっていうのは、こういうかわいらしさや素直さも含めていうのだろうか。
 私には欠けているもの。
 強がって、抗って、否定して、背を向けてばかりの私では、たとえ龍兄が実兄でなくても振り向いてくれるはずがない。龍兄もきっとこういう素直でかわいらしい人が好きなのだろう。龍兄だけじゃない、男の人はきっとみんなそう。ああ、男の人だけじゃないか。人ならば、後ろ向きな人よりも前向きな人の方が誰だって好きなはずだわ。
 だからサヨリさんは誰からも好かれるのね。誰からも憧れられ、誰からも慕われ、誰からも愛される。
 ちりっと胸が灼けた。
「ですからわたくし、今は自信を持って言えますわ。わたくしの帰るべき場所はここであると。鉱様とメルーチェと煉のいるここが、わたくしの家なのだと」
 サヨリさんがにっこりと微笑んだ時だった。
「母上ー、おやつの時間ですー!」
「錬、待ちなさい。まだ最後の問題が終わっていないわよ!」
「よいのです。問題はいつまでもそこにありますが、おやつの時間は待っててはくれませんから」
 元気な錬とメルの声が近づいてきて、まずはじめに錬がテラスに駆け込んでくる。
「あっ、聖様! これは失礼いたしました。聖様におかれましてはご機嫌麗しう」
 すっかり母親に甘えモードだった錬が、私を見た瞬間にびしっと踵を揃えて一礼する。型通りに優雅さが加わった綺麗な礼だ。
「ありがとう。勉強は進んだ?」
「あっ、えっと、それは……」
「聖様、こんにちは。おくつろぎのところお邪魔して申し訳ございません」
 メルも一人前の淑女のようにスカートの裾を抓んで膝を曲げる。流れるような一連の動きに無駄は一つもない。
「わたくしこそ、おやつの時間にお母様をお借りしていてごめんなさい。そろそろお暇しようと思っていたところだから気にしないで」
「あら、先ほどいらしたばかりですのに。遠慮なさらないで。夫ももう少しすれば戻ってまいりますわ。それとも、わたくしの昔話が長すぎましたかしら……」
「違うのよ。サヨリさんのお話、とても為になったわ」
「為になるだなんて、そんな。ただののろけ話をだらだらとお聞かせしてしまって」
「そんなことないわ。鉱兄様によろしく伝えて」
 席を立つと、錬が名残惜しがって纏わりついてきた。
「もう行ってしまわれるのですか? 一緒にお茶を楽しみましょうよ。僕、最近淑女の皆さんのおもてなし方を勉強したんですよ。姉上ではとてもその気にはなれませんけれど、聖様なら最上級のおもてなしをさせていただきますから」
 鉱兄様そっくりの顔立ちで、台詞はどちらかというと風兄様寄りというのがなんだか面白いけれど、今日のところは楽しみは先にとっておこう。
「ありがとう。次回、またゆっくり来るからそのときにね」
 錬の頭を一撫でして、メルに微笑み、もてなしてくれたサヨリさんにもう一度礼を言い、〈渡り〉を唱える。
 一瞬で切り替わった自室は薄暗くじめじめとしていて、冷たく肌にしみ込んでくる静けさに満ちていた。
 胸に宿ったちりりとした痛みは、いつのまにか胃のあたりまで拡がっていた。
 そのまま寝台に倒れこむ。
 いつもは嫌いなはずの自室が、今はとても居心地良く思えた。
 そんな自分が、とても嫌いだった。




 さっきから葵がじろじろとわたしを見ていた。
「なぁ、本当にここに樒がいるのか?」
 疑いの視線を桔梗に向け、さらに葵はわたしをじろじろと見る。
「そんなに見られると恥ずかしいよ」
 通訳を頼もうと桔梗に訴えかけると、
「葵ちゃん、樒ちゃんが恥ずかしいからあんまり見ないでって」
「恥ずかしいって、まさか、はだか……?」
「んもうっ、何言ってるの、葵っ」
 じろっと夏城君や河山君や光くんの視線まで集まっちゃったじゃない。
 男子たちは何事もなかったかのように、それぞれの情報交換を再開したけど、かすかに顔にがっかりした様子が浮かんでいるのは、気のせい?
 もうっ、わたしの裸なんか見たってしょうがないんだからねっ。どうせ胸はぺったんこだし、まな板だし、洗濯板だし……。
「ふぅん、本当にいるんだ。なんであたしには見えないんだよ」
「どうしてかしらね。やっぱり日頃の行いかしら」
「あたしほど品行方正な女子高生がいるもんか」
「葵ちゃんが品行方正な女子高生なら世の女子高生はみんな品行方正よ」
「桔梗ーっ、そんなこと言わないで」
「そうだぞ。科野が品行方正なら世の女性はみんな……」
「わかったからっ! 河山までひどいんだから。ったく。いいんですよー。見えないのはあたしの日頃の行いが悪いせいですよーっだ」
 すっかりひねくれちゃった葵を楽しげに河山君がいじり倒し慰めている。
 桔梗はそんな二人を眩しげに見つめて、わたしに向き直った。
「さっきは立てこんでいて確認できなかったけど、生きてはいるのよね?」
「うん。入院先に身体はあるの。さっきまでは聖が勝手に使ってて大変だったんだけど、夏城君に諭されたみたいで今はまじめに病院で寝ててくれてると思う」
「まぁ、聖が? だって聖は樒ちゃんの前世でしょう? 本来なら一つの魂だもの、樒ちゃんが身体を離れたら聖も身体には残れないはずなのに」
「ね。その辺が不思議なんだけど、とにかく今はもう大丈夫だし、あとはわたしが戻ればいいだけなんだけど、明日三井君を闇獄界に送るって約束しちゃったから、わたしもう少しこのままでいようかと思って」
「あまり長く体から離れていたら、戻れなくなるなんてことはないのかしら?」
「怖いこと言わないでよ、桔梗。でも、どうなんだろう」
 わたしが不安な視線を巡らせると、近くにいた工藤君が落ち着いたいつもの笑顔で答えてくれた。
「大丈夫ですよ。身体が生命活動を行っていて、身体と魂を繋ぐ糸が切れない限り、いつでも戻ることはできますよ」
「身体と魂をつなぐ糸?」
「縁といえばいいのでしょうか。一度宿ったことのある身体であれば、イレギュラーなことさえ起らなければまた戻れるということです」
 イレギュラーって何? って聞こうかと思ったけど、これ以上突っ込んで聞いても訳が分からなくなりそうだったのでやめておいた。元に戻れるとわかっていれば十分だ。
「守景、帰るぞ」
 情報交換が済んだのか、当たり前のように夏城君がわたしを呼んだ。
 再び一斉にみんなの視点がわたしに集まる。
 は、恥ずかしい……。
「樒ちゃん、こっちに泊まるんじゃないの?」
 きっと誰もが知りたいだろうことをさらっと桔梗が尋ねる。
「あ、うん、えっとね、実は今、夏城君のお父さんの絵のモデルをしてて、あともう少しで完成するから、描きあがるまで見守りたいなぁなんて」
 ――いうのは今考えた口からのでまかせで、本当はむしろ夏城君に聞いてほしいんだけどっていうか、誰か夏城君に真相を確かめてみてくれないかなぁなんて。
「そういうわけだから、藤坂、科野、守景借りるぞ。それとも、明日の朝早いならやっぱりこっちに泊まるか?」
「ううん、行く! それじゃあ、また明日ね、桔梗、葵、詩音さんも」
 先に立ってずんずん行ってしまう夏城君の後にくっついて、わたしは工藤君のペンションを出た。そのまま無言でついていくこと五分少々。
「あの、夏城君、こっち夏城君のお父さんの別荘と方向違くない?」
 山道の分かれ道から上に上るのかと思いきや、夏城君は下りはじめていた。はじめは別の道があるのかとも思ったけど、とうとう海沿いの道路に出てしまった。道路を持ち上げる岸壁に打ち寄せる波の音は静かだけれど、真っ暗な道路のすぐ真下に砂浜もはさまず暗い海が広がっているのかと思うと、そこはかとなく足が地から離れてしまいそうな気がした。(いや、実際今はちょっと離れてるけど)
「いいんだよ、こっちで」
「でも……」
「あれ、病院」
 立ち止まって夏城君が指差した先に、いつの間にか病院入口の夜間照明が青い夜闇の中に浮かび上がっていた。
「どうして……工藤君のペンションとわたしの入院先、結構離れてたよね?」
「さっき山道上るか下るかの分かれ道があっただろう? あの時にちょっと飛び越えた」
「飛び? なんでそんなこと……」
「なんでそんなことしたのかって? それとも、できるのかって?」
「え……」
 振り返った夏城君の表情は照明のせいで逆光になってよく読み取れない。
「守景。明日になる前に身体に戻れ。みんな心配している」
「そりゃ、みんなに心配はかけてるけど、でも明日三井君を闇獄界に送って、その後はきっとまた鉱土の国に送ることになるよね? 忙しいもの。今身体に戻っちゃったら病院のベッドから動けなくなっちゃうよ」
「みんなってのは藤坂たちのことじゃねぇよ。守景の家族のことだ」
 夏城君が指さすまでもなく、わたしは自分の病室のカーテン越しに映るお母さんとお父さんの影を見つけた。
「洋海は大体のことは察しがついてるかもしれないが、ご両親は違うだろう? 徹なら明日になればケロッと闇獄界行くことなんか忘れて、とっとと錬の別荘から鉱土の国に直行してるだろうさ。あいつはお前が面倒見なくても自分で何とかできる奴だ。あるいはあいつが本当に闇獄界に行きたいって言うなら、俺が連れてってやってもいい。だから守景、自分の身体に戻るんだ」
 ずんっと胸に重いものが詰まった。
 でも、と小さく呟く。
「約束しちゃったし、それに、佳杜菜さんのことだって……」
「もし稀良佳杜菜が徹のことを思い出したとして、鉱土の国に行きたいと思ったなら、あの子はおとなしく誰かが手を差し伸べてくれるのを待っているようなタイプじゃない。さっさと工藤のペンションを見つけ出して、工藤を脅すなりなんなりして錬の別荘からでも徹のことを追いかけるだろう。わかっただろう? お前が今一番に考えるべきは徹たちのことじゃない。自分のことだ。明日の朝、藤坂たちに約束を破ったって後ろ指差されるのが怖いっていうかもしれないが、そんなことしない奴らだって、親友の守景が一番よく分かってるだろう?」
 わたしは俯く。
「ああ、親父の絵ももうデッサンは終わってたからな。お前がいなくても後はあいつの羽ばたくような想像力がいいように補完してくれる。何も心配はいらない」
 思いつく限りの言い訳を全部封じられて、わたしは夏城君を見つめて開きかけた口をパクつかせるしかない。
「目で訴えても駄目だ。戻るんだ、自分の身体に。工藤は長時間離れていても問題はないなんて言ってたが、お前の身体には聖がいるんだぞ? 聞いたようなふりをして、いつまた勝手なことをしだすかわからないだろう? そうしたら今度こそお前は元の身体に戻れなくなるぞ」
「それは……そうかもしれないけれど……」
「なら、戻りたくない理由はなんだ?」
 戻りたくない理由?
 そう言われるとこれというものは挙げられないんだけど……強いて言うなら、こうやって夏城君の側にいられなくなってしまうことだろうか。
 なんて、本人目の前に言えるわけないよ。
「わかった、戻る」
 しぶしぶわたしは頷いて見せる。そうだ、これはみせるだけ。面会時間は終わってるみたいだし、夏城君だってわたしのお父さんとお母さんがいる病院の中には到底入れないだろう。ちょっと病院に入ってみせて、あとからこっそり抜け出せばいい。
「起きたかどうか、十分後にちゃんと洋海に電話で確認するからな」
 うわ、そう来ましたか。
 じろりと夏城君が睨みつけてくる。
 わたしの考えなんてお見通しかぁ。
「わたし、いない方がいい?」
「は? いきなり何言ってんだ。いない方がいいわけないだろう? ちゃんとこの世界にいてほしいから早く身体に戻れって言ってんだ。お前が身体に戻ってくれないと……」
 夏城君は軽く両腕を広げて、わたしの身体を包み込むように抱きしめた。
 触れた感触はない。
 こんなに近いのに。
「な? ちゃんと抱きしめられないだろう?」
 耳元で囁かれた声に、心臓が爆発しそうになる。
「それに、俺も徹に同感だよ。今度のは相手が悪い。爆弾なんて広範囲を傷つけるものを使う奴が相手だ。お前にはいてほしくない。だから守景、身体に戻れても絶対にこっちには戻ってくるなよ? 明日は大人しく病院で検査でもされて、一日も早く退院してこい。東京でまた会おう、な? もう、俺にこんな思いをさせるな」
 期待とか想いとか願いとか、そんな不安定なものが消えてなくなってしまうくらい、それは確かな言葉となってわたしに届いた。
「約束だよ?」
 言葉が現実味をもってここにあるのに、今更ながら触れ合えない切なさに心が焼き焦げた。
「ああ、約束だ」
 絡みあわせられない小指を絡めあって、わたしは夏城君を外に残して自分の病室へと向かった。













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