聖封神儀伝 2.砂 剣
第5章  親愛なる君へ


 荷物は昨日のうちに合宿所から工藤のペンションに移していた。あてがわれたのは泊まり込みでこのペンションにバイトに来ていた誠の部屋。バイトにツインルームあてがうなよ、なんて昨日は思ったもんだが、工藤はすべて見越して誠にベッドが二つあるこの部屋をあてがっていたってわけだ。
 誠の腕からなだれ落ちるようにベッドに倒れこむ。乾燥したリネンからはふんわりとお陽様の香りがした。それだけで疲れが報われるような気がする。
「靴くらい脱げよ」
 顔をしかめているのが分かるような声で言いながら、誠はかいがいしく俺様の靴を脱がせている。
 砂漠の埃まみれのままだけど、このまま寝ちゃいそー。寝ちゃっていいかな、もう。あー、歯も磨いてねぇけど、いいよな、寝ても。
 瞼を閉じて本格的に体から力を抜いた時だった。遠慮がちに三回、ノックの音が聞こえた。
 「どうする?」なんて聞かないまま、誠がドアを開ける。トコトコと入ってきたのは砂から人型に戻った秀稟だった。
 俺様は閉じかけていた眼をこすり、傷に響かないように誠の手を借りて慎重に起き上がる。
「秀稟、ありがとな」
 俺様が労ってやると、秀稟は泣きそうな顔でようやく口を開いた。
「親方様、あれでよろしかったのですか? 本当に……」
「いいんだよ。よく俺様の気持ち汲んでくれたな」
 頭を撫でてやっても一向に秀稟は顔を上げない。
「お団子、ちょっとほどけかけてるな」
 頭の左側のお団子が右よりもふわりと大きくなってしまっている。これじゃあ完全に解けちまうのも時間の問題だろう。
「ごめんな。男しかいねぇもんな」
 秀稟は首を振る。
「サヨリに会うの、楽しみにしてたのにな。ほんと、ごめんな」
 そう言うと、秀稟はこらえきれなくなったかのように俺様に飛びついた。
「うわわ、おい、秀稟!」
「こんなの、あまりにも奥方様がかわいそうですー! 秀稟はこんなのいやです。いやです、いやです、いやです、いやです!」
 引きはがそうとしても秀稟はがっちり俺様のシャツを両手で掴んじまっている。そのシャツ越しに涙が沁みてきて、完治してない傷にしみた。
「いだい。いだい、いだい、いだいってば」
 痛いと言うとるのにこの娘はっ。
「奥方様もきっと痛いです」
「佳杜菜ちゃんは大丈夫だよ。守景が全部忘れさせてくれたから。昨日今日のことも、サヨリのことも」
「秀稟のこともですか?」
 分かってて傷えぐりに来てるな、こいつ。
「ごめんな」
「秀稟はショックです。契約も守れなかった上に、人を騙す片棒を担がされて、非常に不愉快ですっ。おまけに親方様には簡単に人質に出されるし、長年土の中に放っとかれるしっ。もう秀稟は知りませんっ。知りませんったら知りませんっ」
 ようやく俺様から離れるが、部屋からは出ていこうとしない。それどころか誠のベッドにごろんと寝転がった。
「あっ、おい、そこ俺のベッドだぞ」
「秀稟は疲れたからもう寝ますっ」
「寝ますってお前、女の子だろう。別の部屋、用意してもらうから」
 あわあわと誠が部屋を出ていこうとする。
「待て、誠。まだ一緒に聞いてもらいたいことがある」
「なんだよ」
 誠が戻ってきたところで、俺様はまだ口に出して確認していなかったことを口にした。
「秀稟、藺柳鐶は本物か?」
 ごねてる姿を体現すようにごろんごろんとベッドを転がりまわっていた秀稟の動きが止まる。
「鉱様の血とサヨリ様の血を感じました。間違いありません」
「身体も、本物なんだな?」
「メルーチェ様の血が流れていることは確かです」
 秀稟はベッドにあおむけになったまま天井の一点を見つめている。
「崩れて見せようか、迷ったんです。本当は。でも、メルーチェ様が知らせたがっていたから……だからわたしが親方様を害することになっても、その時砂に戻ればいいやと思っていました」
「知らせたがっていた、か」
 助けてほしいとずっと思っていたんだろうか。人にとってはもうほとほと気を保つのが難しいほどの時間が経っているというのに。いや、復讐だと言っていたか。鉱への恨み辛みを支えに今まで生きてきた、と。
 守ると言って守れなかった。
 助けると言って助けられなかった。
 俺様が口にしたことは皆叶わないことばかり。
 いつの間にか俺様は嘘つきになっている。
 純粋な秀稟にまた片棒を担がせて。
 最低だな、ほんと、俺様。
「誠、秀稟、俺様、どうしたらいいと思う?」
 二人を見渡して問うてみる。
 聞いたところで答えなんて目に見えていたけど。
「らしくないぞ、バカ兄貴。お前はいつでも勝手に決めて勝手に進んでいく。そういう奴だろ」
「佳杜菜さんのこと、後悔しているなら今からでも遅くはないのでは? 記憶を戻してもらいましょうよ」
 想像通り、二人とも俺様の欲しい言葉をくれる。俺様が自分に望む姿を提示してくれる。
 でも、それじゃあ何の意味もないんだ。
 あえて二人に俺様のもう一つの望みを口にさせて、心の中でちゃんと否定できるか。それを、俺様は確かめたかった。
「悪ぃけど二人にはまだまだ力を借りるから、頼むな。じゃ、俺様は寝る」
 格好つけて勢いよくベッドに倒れこんだら傷が痛んだ。
 呻き声を噛みしめて、俺様は目を閉じる。
 この体の痛みは一時的なもの。自然治癒でだっていつかは癒える。だけど、癒えない痛みもこの世にはあるんだ。
 喪失感。
 二度と取り戻せない存在、時間、出来事。
 生が重なり続けると、失うものがどんどん増えていく。小さな失望が積み重ねられていくうちに、年のせいだと麻痺してくる。一日の些細な出来事でさえどこでどう動く歯車になっているかもわからないのに、見過ごしてしまう。そうやってどんどん痛みに鈍感になって、最後には自分を手放すことになる。それが死というものだ。
 そう考えると、人なんて毎日ちょっとずつ死んでいくもんなのかもしれない。ちょっとずつの死の積み重ねが生の積み重ねになっている。
 変な話。
 疲れてるんだ、俺様。
 寝よう。眠ろう。
 今夜ばかりはいい夢を見れればいいのにと思うのに、鉱土宮で泣き叫ぶ佳杜菜ちゃんとサヨリがかぶって見えた。
 そんなシーンなかったはずなのに、やめろよな。
 夢なんて、夢なんだから、夢らしく……俺様だけを罰してくれればいいんだ。
 目をつぶって顔を覆うと佳杜菜ちゃんとサヨリの姿は消えた。かわりに手の届かないほど遠くに小さくドレスを着た女性の後ろ姿が見えた。俺様はぐんぐんその人に近づいていく。
 背中に流れるのは波打つ金髪。背筋はすっと伸び、まっすぐに遠くを見つめているようだったが、やがて女性はゆっくりと振り向いた。
「おふくろ……」
 思わず呟いたのは俺様じゃない。鉱だ。
 愛優妃は俺様と目が合うと、ついてくるようにとでもいうようにゆっくりと前へ進みだした。
 言葉は発しない。こちらを見ていた表情も人形のように無表情だ。
 愛優妃の抜け殻か何かのようだった。
 罠か?
 一瞬そんな考えが浮かんだが、愛優妃がもう一度振り返ったのを見て、俺様はついていくことに決めた。
 周りは相変わらず暗い。前も後ろも上も下ももちろん左右も真っ暗だ。閉じ込められていると錯覚しそうになる中で、奥へと進む愛優妃の姿だけがぼうっと光を集めて見えている。きっと俺様一人じゃここから一歩も動けなかったことだろう。
 しずしずと歩く愛優妃の後ろ姿を視界の端に捉えながら、慣れてくると俺様はきょろきょろと左右を見渡しはじめた。やっぱり真っ暗なのかと思いきや、よぉく目を凝らすとかすかにテレビのように四角く青く切り取られた光がまばらに点在していた。それらは何を映し出しているかわからないくらい遠くにあったが、歩けば歩くほど近くにも画面は現れはじめる。はじめこそ何が映っているかよく分からないものばかりだったが、やがて見たことのあるような景色や光景が増えていく。
 何の気なしに見ていたはずなのに、不意に俺様は足を止めた。
 メルーチェ。
 それはメルが鉱土宮から闇獄兵に担がれて攫われていく姿だった。
 奥には複数の闇獄兵を前に奮戦する鉱の姿、そして背後から鉱を斬ろうと近づく闇獄兵と鉱を庇おうと飛び出してくるサヨリの姿。
 サヨリが斬られるシーンになって、俺様は思わず顔を背けた。
 音が聞こえてこなかったのがせめてもの救いだろう。
 でも、脳内では完全にあの時の音が、周りの喧騒が忠実に再現されていた。
 頭が真っ白になる。
 顔を上げると、もうその光景を映し出していたテレビはなくなっていた。
 よかったんだ。
 佳杜菜ちゃんを手放して。
 また彼女を同じ目に遭わせる気か?
 そんなわけにはいかないだろう。
 よかったんだよ。俺様の選択は間違えていない。
 前を向くと、こちらを振り返って待っていた愛優妃がまた前へと向かって歩き出した。俺様も小走りにそれについていく。
 テレビはそこに箱があるわけじゃないらしかった。闇の中に不意にびよんと電源がついて四角く青い光を漏らし、どこからか切り取ってきた映像を前後左右上下、脈絡なく流しはじめる。どれを見るかは俺様次第だ。
 テレビの映像はほとんどが鉱の記憶だった。だが、やがて鉱の記憶は途絶え、真っ暗な世界ばかりを映し出すようになっていた。
 真っ暗な世界? いや、ちょっと違うか。真っ暗なんだが周りの様子はわかるんだ。大勢の何かに取り囲まれたくさんの手が伸びてきたり、何もないところに放り出されたり、そこから白い月が見えたり、遠くの高架橋の街灯がぼんやりと暖かそうに見えたり。
 と、指紋のついた薄汚い眼鏡をかけてよれよれの白衣を着た鳥の巣頭の男が手を差し伸べている映像が出てきた。
 藺柳鐶。
 なんだと思う。
 藺柳鐶を名乗っていたメルと違うのは、髪の色が黒いということだけだった。
 あとは不精髭の濃さも、だぼだぼよれよれのグレーのズボンも折れちまいそうな華奢な手足もタートルネックの黒いインナーシャツも同じだった。あ、蝙蝠の翼がついていないところもメルとは違うか。
 よく見ればそれだけじゃない。感覚の問題だが、奴は男に見えた。不精ひげが生えてるからとかそういうのを差し引いても、メルがやってる藺柳鐶よりも男性の雰囲気を纏っていた。それと、とても好意的な人好きのする微笑というやつを口元に頬に目に浮かべていた。
 藺柳鐶は白い手を差し出しながらカメラ目線で何事かを話しかける。
「おいで」
 そう言っているように俺様には見えた。
 やがて藺柳鐶の伸ばす手にもう一つこちら側から白い手が重ねられる。
 その手は傷ついて赤い血が滲んだりかさだらけになったりしていたが、ほっそりとしたきれいな少女の手だった。
 少女は立ち上がったのか、カメラの視界が揺れて、画面の端に黒く長い髪がちらりと映った。
 メルだと思った。
 この白い手の持ち主、黒い髪の持ち主、このカメラの視界の持ち主は、メルなのだ。
 気づいた途端、そのテレビはがくんと落ちて闇の中に消えていく。
 次に視界に入ったテレビには科学研究所みたいな実験室が映し出されていた。別な画面では赤い爆発が映っている。黒い粉を乳鉢ですっているものもあった。そして随所随所に藺柳鐶の優男っぽい頼りない笑顔が焼きついている。
 好き、だったのかな。
 まさかと思いつつ俺様は苦笑する。
 面白くない、と急に不快感が募ったからだ。
 メルに好きな男がいるとわかるや面白くなくなるなんて、俺様もまだまだ鉱を引きずっている。
 真剣に実験に没頭する藺柳鐶の横顔、論文作成中に寝落ちした藺柳鐶の指紋だらけの眼鏡を拭いて自分の視界にかざしてみる女性の手、白く細かい文字が並ぶ黒のパソコン画面に反射して映る少し大人になったメルーチェの真剣な顔、藺柳鐶に意気揚々と何かを告げられ、怒りをぶつけるように殴りかかる女性の手。
 そして画面は切り替わる。
 青い空と白い太陽が眩しい。黄金の砂漠は照り返しの光がこれまた目を灼いてくれる。
 鉱土の砂漠だった。
 周りは砂埃が巻き上がり、時折砂埃の向こうに敵兵と斬り結ぶ兵士たちの姿が見える。音がなくとも喧騒にまみれているのがよくわかる。
 ついで視界の左と右と前方に相次いで砂の柱が突き立った。
 いや、上から砂の柱が落とされてきたんじゃない。何か別の重いものが投下されて、砂が勢い良く舞い上がって柱になって見えたんだ。
 砂から目を守るために視界の持ち主は腕で視界を覆う。
 左右を警戒していたようだが、やがて画面は真っ暗になってしまった。いや、うっすらと赤く光が広がっている。きっと目を瞑ったのだろう。瞼の血管を通して赤く見える光は揺れながら瞬き、やがて見ているこっちが目を覆いたくなるくらい眩しい青空を見出した。
 見上げた先、二本の曲刀が交差し、大上段から飛びぬけに振り下ろされた白刃を受け止めていた。
「玄武、砂剣……」
 視界のこちら側にあるのは紛れもなく玄武と砂剣、鉱の二本の剣だった。
 ということは、この視界の持ち主は俺様だ。
 だけどいつのだ?
 こんな戦い、あったっけ?
 太陽の光を背後に、俺様に切りかかってきた剣の持ち主はくるくるとサーカスの曲芸よろしく体を丸めて回転して、見事に砂地に着地する。もわぁっと砂が舞い上がるが、さっきのような砂柱にはならない。
 俺様は相手の顔を見極める。
 ぼさぼさの鳥頭に汚い眼鏡、不精髭。甲冑も何も着ていないそいつは、黒くて丸い手榴弾がくっついたベルトを幾重にも体に巻きつけていた。片手で剣は持っているが、すぐにもう片方の手で手榴弾を一つベルトから抜き出し、口でピンを外す。
 藺柳鐶だった。
 どうやら名乗ったらしいそいつの口も「藺柳鐶」と唇を動かしているのが見て取れる。
 まさか、俺様藺柳鐶と会ったことがあったのか?
 藺柳鐶はすかさずピンを外した手榴弾を俺様に投げつける。だけど、わざとだったのか、外したのか、爆発は鉱の背後で起きた。
 後ろの爆風で鉱はよろめく。そこにすかさず藺柳鐶の剣が突き出され、砂剣で払いのける。
『メルーチェ』
 目が合った途端、藺柳鐶はそう言った。
 俺様の手は足は、一気にスピードを失う。
『メルを、知っているか?』
 藺柳鐶は口元に笑みを浮かべる。
『知っている』
 そう聞いた途端、俺様はもう頭に血が上っていた。
『メルを返せ!』
 大音声で叫んで藺柳鐶に斬りかかっていた。
 藺柳鐶は巧みに身を避けてかわしながら時に剣で受け流し、次々に手榴弾のピンを外して投げ込んでくる。至近距離の爆発に鉱はどんどん血を流し、視界もぼやけはじめるが、なかなか距離を遠く取れない藺柳鐶もいくらか傷ついているようだった。藺柳鐶の手榴弾は鉱ばかりでなく、周りにも甚大な被害を与えていた。鉱に投げつけている、そう見せかけながら、鉱の周りで鉱を助けに来ようとする人々の動きを妨げていたのだ。
『戦争における爆発物の用い方っていうタイトルがいいかな』
『何を……言ってるんだ……メルを、返せ……』
『爆発の威力を加減することで、致命的なダメージを与えることも、残った者の戦意を削ぐことも、怪我人の介抱に人員を割かせて補給を混乱させることも可能、と』
『メルを……』
『でも残念だな。俺はこの結果を持ち帰ることができない。活字に表わすのは弟子に委ねるしかない。愛優妃様のご命令とあれば、俺は命さえも投げ出さなければならない』
『愛、優、妃?』
『命に代えても、鉱土法王、貴方を斃すようにとのご命令です』
 愛優妃がそんなことを?
 そう思う間もなかった。
 藺柳鐶は一息に糸を引っ張って体中の手榴弾のピンを引っこ抜くと、倒れかかった俺様を抱き留めて囁いた。
『ご安心ください、鉱土法王。メルは無事です。役立たずの姫と呼ばれた彼女は、神界にいるときよりもよほど生き生きと毎日を過ごしていますよ』
 爆発音が耳をつんざいた気がした。
 テレビの画面が目の前から消え去っていても、俺様はそこから動くことはできなかった。
 覚えていないと思ったのに、覚えていた。
 鉱土法王の最期。
 藺柳鐶の囁きに何か思いが廻った瞬間があっただろうか。
 あったような気がするしなかったような気もする。
 でも、もしあったとしたらそれは、安堵だった。
 そうか、メルは無事なのか。楽しく暮らしているのか。よかった、と。
 切ないような安堵が体中を弛緩させていったような気がする。
 身体がバラバラになるほどの重傷を負えば、さすがに法王といえども死ぬわな、そりゃ。
 そうは思いつつも、涙が出てきた。
 俺様の最期は、やっぱり鉱らしくないものだった。
 メルを失い、サヨリを失い、抜け殻になっていた鉱がどういういきさつで第三次神闇戦争の戦場に赴いて行ったのかはもう思い出せないが、いや、今まで見かけたテレビの中に何かは映っていたのかもしれないが、きっと、死に場所を求めていたのだろう。本来の鉱ならあんな軟弱野郎にもてあそばれるほど弱くはない。手榴弾なんて投げられたら半分に叩き斬り、あっという間に藺柳鐶だって斃せたはずなんだ。
 でもあの戦場で鉱は隙だらけだった。青空の眩しさに目を奪われたり、砂柱に目を奪われたり、一番初めに奇襲攻撃を食らってたじろぐくらいにはやる気がなかった。
 なんつー最期だ。やりきれないぜ、まったく。
 最後に与えられたメルが生きているという情報だけが、唯一の救いになったんだろうか。
 愛優妃はまた振り向いて俺様が歩き出すのを待っていた。
 ぐらぐらになりながら俺様は一歩踏み出す。
 両膝を手でつかんで交互に動かすと、視線は自然、下に俯く。そこにまたテレビが現れる。
 今度は誰の視点でもなかった。
 メルーチェが泣いていた。実験室の椅子に残されたよれよれの白衣と、遺品として送還されたひびの入った指紋だらけの眼鏡を胸に抱いて、大きな口を開けて天を仰いで泣き叫んでいた。髪の色は次第に黒から白へと変わっていく。
 ああ、ここで白髪になっちまったのか。
 そう、だよな。
 好きな男が死んだんだもんな。
 でも、巻き添え食ったのは実の父親なんだけどな。俺様のことは悲しんでくれてねぇのかな。それとも、巻き添え食ったなんて思っちゃいなくて、俺様が好きな男を殺したとでも思っているのかな。
 もしそうなら、メルにとっちゃ俺様は恋人の仇なわけだ。
 恨まれて当然、てか?
 顔を上げると目の前に新たなテレビが張り出してくる。見ろといわんばかりに登場したそのテレビには、泣き明かしてぼろぼろになったメルーチェが天井高く燃え上がる漆黒の獄炎の前に立つ姿だった。
「やめろ」
 間に合わないのはわかっていたが、俺様は呟いていた。
 メルは一息吸い込んで、ためらいなく炎の中に歩み行っていく。
「やめろ、行くな、行くんじゃない! やめろぉぉぉぉぉっっっ」
 メルの姿を飲み込むと、獄炎はごうっと一気に火力を強め、部屋中をうねりまわりだした。
 獄炎は画面を飛び越えて俺様を包み込み、締め上げていく。
「ぐっ……」
 天国が見えたかと思った瞬間、視界は真っ白に開けた。
 ぽくぽくと単調な木魚の音と、だみ声の坊さんのお経が聞こえてくる。
 明るくぽうっと現れたのは白木の祭壇。その中央に黒いリボンがかけられて飾られている写真は……
「冗談だろ?」
 誰あろう、この俺様のVサインで満面得意顔の写真だった。
 こいつ、屈託なく笑ってやがる。
 写真の中の俺様に、俺様はいじらしい思いを抱く。
 獄炎に飲みこまれたのはメルーチェなはずだったのに、いつのまにか俺様が死んだことになっていた。
 もしかして俺様、メルから獄炎を引き受けるのに失敗したのかな。
 身体は重いながらも、今度は自分の意志で前にも後ろにも左にも右にも歩くことができた。ん? 歩くっていうよりこれはさまようって言った方がいいかもしれねぇな。
 坊さんは祭壇の真ん前でありがたいんだかよく意味の分からない呪文を唱え続けている。とりあえずこの呪文に幽霊の俺様を払う力はなさそうだ。
 親族席には親父とお袋とばあちゃん、誠、それからなぜか普通に秀稟が並んでいる。参列者席には星や藤坂や守景をはじめとしてクラスの奴らやサッカー部の奴らが並んで座っていて、一様に皆目頭をハンカチでおさえて泣いていた。
 中でもおふくろの錯乱ぶりといったらなかった。普段あれだけ俺様にあれやこれやと説教を食らわせておきながら、誦経の途中で悲鳴を上げて席から立ち上がり、棺桶に縋りついてわーわー泣き出したのだ。
 お袋、みっともねぇよ。
 なんて言えなかった。
 嬉しいっちゃ嬉しかったが、それ以上に申し訳なさでいっぱいだった。
 俺様はおふくろの背中に触れようとしたけど、手は簡単にすり抜けてしまった。
 親父がお袋を宥めに来る。
 ふと棺桶を見ると、中には何も入っていなかった。
 黒焦げの俺様のなれの果ても入っちゃいない。からっぽだ。
 からっぽ。
 だからかもしれない。おふくろが余計に悲しんでいるのは。
 きっとまだ俺様が死んだかどうかも疑心暗鬼なんだ。
 獄炎に巻かれて、俺様は身体も何も残らなかったんだな。
「お袋、親父……俺様、忘れてたよ。俺様もお袋と親父の子供だった」
 呟いた途端あふれ出したのは、きっと後悔と名付けられるものだろう。
 〈怨恨〉の獄炎を受け入れるんじゃなかった、と。
 だけどそれ以外にどうやってメルを救えた?
 いや、でも結局俺様は失敗したんだ。メルは救われずきっと今も〈怨恨〉のままで、俺様は家族やみんなを悲しませちまった。
 ぐっと胸が詰まり、思いが涙となって溢れ出す。
「闇獄界の私に会っても、貴方は何も得るものはないわ。今、見せた以外には」
 気づくと愛優妃が優しく俺様の背中を撫でてくれていた。
 手からは温もりが伝わってくる。表情にも人らしさが宿っている。
 辺りは元の暗闇に戻っていた。
 夢、だったのか?
 いや、途中までは本当だ。メルが〈怨恨〉になってしまうくだりまでは現実だったはずだ。
 俺様は涙を手の甲で乱暴に拭って、愛優妃を正面から見据えた。
「どうしてメルを助けてくれなかったんだ?」
 愛優妃は哀しげに微笑んだ。
「メルーチェは自ら望んだのよ。そして、自ら勝ち取ってしまった。私が止めても、メルーチェは聞かなかったでしょう」
「望んだ? 嘘だ」
「嘘じゃないわ。『役立たずの姫』、神界ではそう呼ばれていたのでしょう?」
 愛優妃の口からそんな言葉は聞きたくなかった。
 だけど愛優妃は先を続ける。
「老人を前に、他の動物たちはいろんなことができるのに、何にもできなかったウサギが、わたしを食べてくださいって言って火の中に飛び込む話が人界にあるでしょう? メルーチェもそれしかないと思ったのよ」
 それは昔テレビの人形劇で見たことがある。ハラハラしながら先を見守っていたら結局ウサギの命が救われることはなくて、一発でトラウマ話になっちまった。
「それでもあんたはメルの祖母だ。会ったことがなかったとはいえ、かわいいとは思わなかったのかよ? メルはそれしかないと思い詰めたかもしれない。でも、ほかにも役に立てる方法を教えてやることくらい、神界、人界、闇獄界、三界の女神であるあんたにならできたはずだろう!!」
 メルにあのウサギと同じ末路を辿らせたくなんかない。分かるだろう、あんたも人の親なら。
 言外にそう言ったつもりだった。
 だけど、愛優妃は哀しげで優しげな微笑はそのままに、口からはとんでもなく開き直ったことを言ってくれた。
「あの子から聞いたのでしょう? 私たちがあなたたちの魂に何をしたか。何のためにあなたたちをこの世に産み落としたのか。私たちは目的のためなら子の命も顧みない、そういう存在だということも」
 あの子というのが工藤維斗であることに気づくのにちょっと頭は使ったが、それ以外は考えるまでもなかった。
「メルのことも予定通りだったと? 鉱はメルを〈怨恨〉にするためにサヨリと結婚してメルをこの世に誕生させ、育ててきたと? そのために親父は鉱に結婚なんて法王では初めてのことを勧めはじめたって? なんでだよ! なんでそんな誰かを犠牲にしなきゃならないような制度作ったんだよ! やめろよ! 今すぐやめ方教えてくれよ! あるんだろ? 本当はみんなが幸せになれる方法が、あるんだろう? 教えてくれよ! あんた、愛優妃だろう? すべての人を幸福に導く女神様だろう?」
「私は……人よ。神なんかじゃないわ。全ての人を幸福に導けるような存在でもない。私たちにできるのは、誰かを犠牲にしてこの世界を守ることだけ」
 あんぐりと口を開けたまま、俺様はしばらく何も言えなかった。
「なんだよ、それ。あんたたちは子供も含め神界も闇獄界も欺いてきたのかよ? あんたら神様じゃなかったのかよ? 俺様たちは神様の子供じゃなかったのかよ?」
「神が万能とは限らないわ」
「じゃあ、この世に神様なんていないってことだろう? なんで神なんて名乗ってたんだよ。なんで期待もたせるような存在気取ってたんだよ」
「ごめんなさい。私では貴方を救えない」
「違ぇよ。救ってほしいのは俺様じゃない。メルだ! メルを救ってほしいんだよ! 闇獄主なんてやめさせてやりてぇんだよ。もうこれ以上、辛い思いなんかしてほしくねぇんだよ。分かるだろ? なぁ、分かるって言ってくれよ!」
 つい肩を揺さぶりすぎちまったことに気づいて、俺様は気まずい思いで愛優妃から手を離す。
「俺様がメルに斬られてやれば確かにメルは生き残るかもしれない。でも、それは闇獄主としてだろう? 貪欲な炎はいつか俺様の命だけじゃ飽き足りなくなる。必ずメルも食っちまうだろう。それに、あんたさっき俺様に見せたじゃないか。俺様も人の子だって、気づかせてくれたじゃないか」
 愛優妃はじっと目を閉じて俺様の罵倒を聞いていた。そして漸く口を開く。
「貴方には辛い役目を担わせてしまうわね」
 違ぇよ。そんなこと聞きたかったんじゃないんだ。俺様が辛いかどうかなんて……ああ、そうか。俺様が鉱だからそんなことを言うのか。鉱が愛優妃の息子だから。鉱を苦しませることに関しては、愛優妃は気に病んでくれているのか。
 でも、やっぱそんな言葉聞いたって何の慰めにもならねぇんだよ。
「もう一度教えてくれ。メルを獄炎から救う方法は……俺様が〈怨恨〉を受け入れる以外にないんだな?」
 愛優妃はゆっくりと首を振る。
「〈怨恨〉はもうメルーチェの魂に根付いてしまっている。移したばかりならともかく、もう一千年近く共に在るのよ。分離など到底できないわ。メルーチェを〈怨恨〉から解放したいなら、鉱の魔法石で〈怨恨〉の獄炎を消すしかない。メルーチェの魂ごと」
 どうしても、俺様に殺させたいんだな。メルーチェを。
 この心にどう整理をつけろってんだよ。俺様が鉱とは全く無関係で、メルも娘なんかじゃなくて、どっかその辺の闇獄界の三下の魔物のような形をしていて意思も何も持っていない木偶の棒なら、遠慮なく叩っ斬れたかもしれねぇ。でも違うだろ。全然違うんだよ。ああ、そうさ。俺様もいい子ぶってないで藺柳鐶を倒すんだってことならいくらでも覚悟くらいつけられたさ。だけど俺様は鉱で、メルは鉱の娘なんだよ。
 親に子殺ししろってのかよ。
 できねぇよ。できねぇだろ?
「なぁ、あんたは俺様のこと殺せる?」
 愛優妃は俺様を見つめた。
「俺様の魂がこの世から消滅して二度と転生できなくなるってわかってて、あんたは俺様のこと殺せる? その手で」
 愛優妃の冷たい白い手を持ち上げ、俺様の首にあてがわせる。少しずつ指に力を込めて、動脈を圧迫する。
 指は抵抗していた。
 苦しげに呻く俺様を見つめたまま、愛優妃は目に涙をいっぱい浮かべていた。
 だけど、泣かなかった。手を振り払おうともしなかった。
 できるのだ、この人は。
 目的のためには非情になれる。統仲王はそうだ。あいつは親父だったけど、親父であることよりも神であることを貫いていた。
 愛優妃は違うと思ってたんだ。愛優妃はお袋だったから。いつまでも俺様たちのお袋でいてくれると思ってたんだ。工藤が魔法石の話をした時だって、愛優妃は統仲王にやらされてるんだろうって思ってたくらいだ。
 でも、違うんだな。
 愛優妃も統仲王と同じだ。同じ種類の生き物だ。
 愛優妃の手を放してやると、愛優妃はすかさず俺様を抱きしめた。
 きっとこれが本当にそんな場面だったら、愛優妃は俺様の息が途絶えたのを確認してからこうやって抱きしめ、すでに許しなど乞えない相手にごめんなさいという言葉を何度も並べるのだろう。
「なぁ、お袋」
 懐かしいふくよかな胸に抱きしめられたまま、俺様は暗い天を見上げたまま尋ねる。
「メルが獄炎の中にいた間、お袋は苦しくなかった? 何も感じなかった?」
 怒りと諦めがないまぜになった俺様の声に、愛優妃は一筋涙した。
 ようやく、溜めこんでいた涙を零し落とした。
 後になってからじゃないと、泣けないんだな、この人は。
 でも、この涙もメルが孫だからという理由だけじゃないんだろうな。須らく全ての人を平等に愛することをモットーにしている愛優妃だ、愛すべき者に業を背負わせる辛さでもあっただろう。おそらくメルじゃなくても全く血の繋がらない者であっても涙したことだろう。
「もういいよ」
 俺様は愛優妃の腕をほどき、遠ざけた。
 俺様が愛優妃に望んでいた愛は人類愛なんかじゃなくて、その人だけに特別に向けられた愛なんだ。
 自分は特別だという自信をくれる愛。
 愛優妃はわかってるのかな。そんな愛もあることを。それとも、愛優妃だから平等に愛して見せなきゃいけなかったのかな。統仲王はどう愛されてたんだろうな。
 だけど、もういいや。
 これが愛優妃の限界なのかもしれない。神としての、母としての、人としての、三つのバランスが取れる限界。
「鉱」
 愛優妃は初めて俺様を「鉱」と呼んだ。
 なぁ、俺様たちは一体誰の掌の上で踊らされてるんだ?
 統仲王と愛優妃、あんたらもそいつの掌の上で踊らされてるんだろう? だから、こんな酷いことできるんだよな?
「ごめんな。俺様、徹に戻るよ」
 愛優妃ははっと目を見張った後、昔のお袋のように微笑んで、すぅーっと消えていった。
 翌朝、早くに目を覚ました俺様は、実家に電話してみた。
 和菓子の仕込中だったお袋は作業場からすっ飛んできてくれたらしいが、電話口では相変わらずの説教調で、そっちで何やってるのだの、危ないんだから早く帰って来いだの、気を付けて帰って来いだの、何時に帰ってくるの? だの、こっちが答える間もなく言いたいことを言って親父に代わってしまった。
 昨日会議で帰りが遅かったらしい親父はまだ寝ていたらしい。ばあちゃんに叩き起こされて電話に出たが、「おはよう、せっかく早起きしたんだ、そのまま電車に乗って帰って来い。誠もいるんだろう? 一緒に帰ってくるんだぞ」と、寝ぼけた声をしてる割にはこっちも帰れコールに余念がなかった。
「朝っぱらからどこに電話かけてるかと思えば、家か」
「俺様の葬式やってる夢見たんだよ。まさか本当にやってないよなと思って」
「俺がここにいるんだからそれはないだろ。で、なんだって?」
 俺様は一つ息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出しながら答えた。
「早く帰って来いだって。誠と一緒に」
「それは……帰らないわけにはいかなくなったな」
 くくくと誠は笑っている。
「誠、俺様がメルにやられたら誠はどうなるんだ?」
「忘れたのか? 俺たちは契約した時からこの魂は一蓮托生だ。秀稟もな」
「です!」
「ぅおっと、起きてたのか、秀稟」
「そりゃあ、お母さんの雷がこっちまで聞こえてきてましたから」
 三台目の簡易ベッドから起き上がった秀稟は、俺様の頭をそっと撫でた。
「心配してるんですよ、みんな」
 いつもと立場が逆な気もしたが、実際年齢を考えるとこれが正しいのかもしれない。
 心配、か。
「もちろん、わたしとシャルゼスも」
 愛されてるんだなぁ、俺様。
 俺様、こいつら二人も巻き込めるのか? 魂の消滅に。
 俺様の心はとうにぐらぐらに揺らいでいた。情けないと思うかもしれない。だけど、俺様は、今の俺様は三井徹なんだ。鉱だけではもう、できていない。
「もう一度、メルに会いに行くぞ」
 俺様はまだ門も開いていない錬の屋敷に乗り込み、鉱土の国への入り口を開かせた。
 鏡は昨晩のうちに天宮に助けを求めに行ったらしい。
 守景には連絡しなかった。もう闇獄界に行く必要はなくなっていたから。













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