聖封神儀伝 2.砂 剣
第4章 叫び
◆ 5 ◆
一目見て気に入った青鹿毛に乗って五十人の小隊を率いてターン鉱山入口の真上に登ってきたとき、夕刻から昇りはじめた十三日の月はちょうど目の前、真南に差し掛かっていた。
月明かりが夜道を案内してくれる形にはなったが、身を隠そうにもこの明るさでは影が濃く伸びてしまう。その影にまで気を遣いながら、ようやくたどり着いたのがこの崖の上だった。
「うはー、鉱土法王、本当にここから駆け降りるんすか?」
夜目が利く奴らを集めたからヤマネコ連隊だなと早々に勝手に命名した隊長のイットゥンヒットが頭をぽりぽり掻きながら崖下を見下ろす。その馬の足元からはぽろぽろと小石が転がり落ちていく。
「気をつけなさい、イットゥン。気づかれるでしょう?」
すっかり元の負けん気を取り戻してしまった周方の皇女様が、小声で兄の部下をたしなめる。
「へいへーい」
たしなめられたイットゥンの方は大して反省もせずに下がっていく。
「イットゥンはあの通り身も軽ければ頭も軽いのですが、戦場では頼りになる者ですわ。きっと勘がよいのでしょうね。わたくしが保証いたします」
「ずいぶん仲いいんだなぁ」
「幼馴染ですから」
幼馴染。
なんて淫靡な響き。同時に失恋フラグでもあるよな。どっちが失恋するかは女の心次第だけど、大概こういう時は幼馴染が勝利するもんだ。俺様だってなにも人生短い奴から楽しみ奪おうなんて思わないし。
「ふふ、なんてお顔をなさってますの」
「あ?」
「暗いからといってお顔が見えないと思ったら大間違いですわよ? 今宵は月明かりも眩しうございますし、わたくし、先にもお答えいたしましたように夜目が結構利くんでございますの。何を考えておいでだったか当てて御覧に入れましょうか?」
夜目が利くのは俺様も同じだ。人の気も知らないで、皇女様は無邪気にどきりとするような表情で下から見上げてくる。
「じゃあ、何を考えていると思う?」
ここはひとつ大人の余裕を見せて正面から少女の視線を受け止めてやる。と、にわかに皇女様は頬を染めて顔を背けた。
なんだ?
「おいおい、当ててくれるんじゃなかったのかよ?」
「やめました」
そのまま馬首まで返して後方へと引き返していく。
「待てよ」
「嫌ですわ」
「なんで?」
「なんでもですわ」
「待てってば」
追いついて腕を引くと、馬は歩くのをやめた。
皇女様はそっと俺様の指を一本一本引きはがしていく。
「なんで急に機嫌悪くなるんだよ。俺様が見てきた女たちだって、こうも急にあからさまに機嫌が悪くなる奴なんていなかったぞ?」
「こんな時に他の女性の話なんて持ち出さないでくださいます? わたくし、そんなお話は聞きたくありません」
え?
「わかったよ。悪かったって。そうだよな。これから急襲かけようっていうのにそんな話してる場合じゃないよな」
「そうですわ。その通りですわ」
皇女様の声はいよいよもって苛立ちを含んでくる。
「なんだぁ? 痴話喧嘩かぁ?」
引き下がったはずのイットゥンヒットがふらふらとまた出てくる。
「おだまりなさい。全員心の準備は整いましたの?」
「見りゃあ分かんだろ。はじめっから俺たちには心の準備時間も給水時間もいらねぇぜ? な、みんな?」
イットゥンヒットが小声で囁きかけると、後ろに整列した五十人が目と歯を月光に白く光らせてにやぁと笑った。
不気味だ。
が、それは言うまい。ヤマネコ連隊? うまい名前を付けたもんじゃないか。本当にこいつらの目は爪は、闇夜のヤマネコのそれのように研ぎ澄まされている。まあ、今は何を勘違いしてんのかにやけているけど。
「心の準備が必要だったのは俺様たちの方だったみたいだな。んじゃ、いっちょ行くか。遅れんじゃねぇぞ」
馬首を巡らし、崖淵と向き合う。
この先に道はない。いや、あるとしてもここからでは見えない。重力に姿勢を奪われ、ぎりぎりにならなければ次の局面は見えてこない。
上等じゃねぇか。久しぶりにわくわくすんぜ。
「松明に明かりをつけろ!」
返事の代わりに背後が明るく輝く。
にわかに崖下が騒がしくなった。
「よし、行くぞ!」
「おぉーっ!」
鬨の声を率いて、俺様は青鹿毛の腹を蹴った。青鹿毛は走り出し、あっという間に崖淵から見えない次の着陸点を求めて足を繰り出す。
上体がぐっと前のめりになるのを歯を食いしばって堪え、次の衝撃に備える。
青鹿毛は見事に崖淵の陰で見えなくなっていた山の斜面を着地点として正確にとらえてくれた。
弾む馬上で必死に馬首にしがみつき、振り落とされないようにしながら俺様たちは一気に鉱山口への山肌を駆け下りる。
俺様たちの時の声に驚いて、鉱山の中から松明を持った者や手ぶらの者たちも悲鳴を上げて駆け出してくる。その中に俺様たちは突っ込んだ。興奮した馬たちは嘶きを上げ、それを宥めながら自分の息も落ち着かせようとするが、そんな暇もなく、混乱して逃げる人々の中に混じって槍を向けてくる奴らが現れた。
「うわっ、こら、何するんだよ!」
青鹿毛に向けられた槍の穂先を払って見ると、槍を握っていたのは神界ならどこにでもいそうな二十代の青年だった。目が座っているわけでもなく、闇獄界によくいる魔物よろしく不気味な見た目をしているわけでもない。皮をなめした胸当てをつけているところからすると、防衛の任を初めから与えられていたと思われるが、しかし、神界人なのに俺様たちが助けに来たって分からないのか?
攻撃を受けていたのは俺様だけじゃなかった。あちこちで起こる馬の嘶きは、崖を下りきった興奮のせいではなく、刺し貫かれて傷を負わされたことによる悲鳴に変わっていた。暴れる馬を御しきれずに落馬する者もまた悲鳴を上げる。
「攻撃をやめろ! 俺様は鉱土法王だ! みんなを助けに来たんだぞ!」
次々と向けられる剣や槍の切っ先を馬上から叩き落としながら、俺様は大音声で触れ回る。すると、人々は安心するどころかますます俺様に殺到しはじめた。
「おい! 味方だって言ってんのがわかんねぇのかよ!」
殺到する人々をむげに馬で蹴飛ばすわけにもいかない。説得しあぐねているうちに、俺様は前後左右三百六十度、ぎらつく獲物を向けた奴らに囲まれてしまった。
「どうなってんだよ、ったく」
ぼやいたところで包囲が解けるわけでもない。いたって普通の神界人の形をした奴らは剣や槍の穂先を俺様にひたと据えたまま一歩ずつ包囲を狭め、目配せをしあったかと思うと一気に喊声を上げて俺様に襲いかかった。
「〈土塀〉」
舌打ちしたいのを堪えて俺様は自分の周りに土の防御壁を張り巡らせる。だが、それも外側から激しく突かれてあっという間にひびが入った。
「おいおい」
これじゃあ助けに来たんだか、飛んで火にいる夏の虫になっちまったんだかわからねぇじゃねぇか。
もっと情報を集めてから策を立てればよかった、なんて後悔したってどうにもならねぇ。情報を待ってたんじゃこんなことになってることにも気づかないままだったかもしれねぇしな。
と、崩壊寸前の土塀の上端から、円筒形の物が一つ投げ込まれてきた。思わず受け取っちまって、先端から伸びている導線に火がついているのを見て青ざめる。
「これって、あれじゃねぇか!」
あれっていうか、あれな、あれ。周方の皇女が初めて出席した会議の時に持ってきて見せたあれな。火をつけて導火線が燃え尽きるとドカーンっていう……
「親方様!」
頭上にぽっかりと空いた穴の上空に姿を現したのは宝亀に姿を変えた秀稟だった。
「秀稟、どけろ! 爆発する!」
「それ、秀稟にお渡しください!」
「どうする気だ?」
「ここで爆発させたらみんなが巻き添えになってしまいますから、秀稟が空の上に持っていきます!」
「んなことお前ひとりに任せれられるか! 俺様も行く!」
「その土塀を崩さなきゃ親方様は乗せられませんよ。いいからその爆弾だけ秀稟の背中に放り上げてやってください」
秀稟が斜めに体を傾けて背中の岩のような甲羅を見せる。いくら固そうだからって、もし甲羅の上で爆発したら、秀稟は無事ではすむまい。
「その必要はありませんわ! 秀稟、これを鉱土法王に渡してください」
土塀の向こうから聞こえた凛々しい声は、紛れもなく周方の皇女のものだった。
言われるがままに秀稟は上空に放り投げられた何かを口でくわえ、俺様の頭上に落っことしてきた。
俺様は片手でそれを掴む。
「水筒?」
竹筒に小さな蓋がしてある。
「爆弾の導火線を踏み消して、水で全体を濡らしてください! 早く!」
「あ、なーる」
皇女様の言うとおり、短くなった導火線を踏み消して、筒状の爆弾全体に水筒の水をかけてやる。
こんな単純なことでこれ一本使えなくなるのか。便利なようでまだまだ不便だよな。
念のため筒をばらして火薬も水たまりの中にならしてやる。
おそらくこれで大丈夫なはずだ。
と思った瞬間、今度は土塀そのものが崩れ落ちた。
遠ざかっていた喊声が耳をつんざく。
「気を抜くのはまだ早いですわよ」
俺様に殺到しようとした民衆を悉く一掃して、周方の皇女殿はぴたりと俺様の背中に背中を向ける。
「俺様としたことが、味方とはいえ背後取られるなんてな」
「それだけボーっとしていたということですわ」
「うわ、手厳しい」
俺様は背中を預けたまま右手に玄武、左手に砂剣を握る。
「あら、二刀流でしたの?」
「ま、な。玄武は攻める剣、砂剣は守る剣なんだ。鏡は両方とも守る剣だけどな」
俺様は青鹿毛の腹を蹴る。
湾曲した二振りの剣を、刃がついた弧が上になるように握り直す。こうすれば刃でこいつらを切りつけることもない。
「甘いですわね」
「操られてるだけかもしんねぇのに手荒なことできるかよ」
「操られてなどいませんよ」
周方の皇女の苦言に答えた時だった。目の前に立つ青年の一人が言った。
「誰だ、お前?」
「先ほどダイナマイトを差し上げた者です。導火線を踏み潰して水をかけて消してしまうなんて、私の研究もまだまだですね」
溜息をついてはいるが言葉の割には悔しそうじゃない。ひょうひょうとしているそいつは、目の前にいる青年たちの中で唯一武器を携帯もしていなければ胸当てもつけていなかった。足なんかまっとうな靴じゃなく素足にサンダルというありさまで、ちょっとその辺の家から白い裾の長い上着をひっかけて様子を見に出てきただけのような格好だ。
「ずいぶんなめた格好してんじゃねぇか」
「本来ならうちもこれほど人員を割く気はなかったのですが、さすがにこの崖を下ってくるとは思いもしなかったので」
「バルドを乗っ取って爆弾作りにいそしんでたのはお前か?」
「ええ、そうですね。街を乗っ取ったのは私ではありませんが、ダイナマイトづくりの研究をしていたのは私です」
引っかかる言い方に俺様は眉を顰める。
「どういうことだよ」
「私はダイナマイトの作り方をバルドの皆さんにお教えしただけです。バルドの皆さんは喜んでターン鉱山の掘削に使ってくださいました。そのうちもっと威力の大きいものを、安全なものを、とご要望をいただきまして……私はただ皆さんのご要望にお応えしていただけなのです」
「じゃあ誰が街を閉鎖して、質の悪い金貨作ってたんだよ?」
「それは……」
青年は人を食ったような微笑を浮かべた口を閉じると、一歩退る。
「柳鐶様を悪く言うな!」
「柳鐶様は俺たちの生活を楽にする知恵をくださっただけだ!」
「たとえ鉱土法王であろうとも、俺様たちの生活を脅かす奴はゆるさねぇ!」
ずいっと前進して圧力をかけてきたのは、やはりどこからどう見てもバルドの民たちだった。
「柳鐶様は俺たちを辛い坑道堀の労役から解放してくれたんだ!」
「おまけに金に困っていると言ったら、金を増やすやり方まで教えてくれた。俺たちは藺柳鐶様のおかげで前よりも暮らしが楽になったんだ!」
「鉱土法王なんて名ばかりで、俺たちに何もしてくれなかったじゃねぇか」
「してくれたのは土の魔法が使える奴らを寄越してくれるだけだろ? そんなんじゃ俺たちの仕事ははかどらねぇんだよ。俺たちは魔法が使えねぇんだ。魔法が使える奴らばかりが仕事をしたら、俺たちはおまんま食い上げになっちまう」
口角に泡を乗せて人々は口々に藺柳鐶というさっきの男を讃え、俺様を貶める。
聞いていて耳が痛くて楽しいもんじゃねぇが、確かに一理ある。魔法が使えなければ鉱山で待ってる仕事は原石を掘り出す作業と運ぶ作業の体力勝負の肉体労働だ。魔法が使える者は魔法を使って坑道の掘削を進めるだけ。新たな坑道が生まれなければ鉱山資源は枯渇するだけだから、彼らの仕事は時間的な拘束は少ない割に賃金はいいはずだ。それに、魔法が使える者の方が重宝がられるのはどこに行っても同じ。魔法が使える者は使える者で、それを鼻にかけない者がいないわけがない。
「なぁ、一つ聞きたいんだが……街を閉鎖した後、何人か外に出したよな? 偽造金貨使い果たして宿に泊まるときは蝋燭代わりに使えって言って爆弾持たせてさ。そいつらって、まさか魔法が使える奴らじゃないよな……?」
俺様たちを取り囲む全員がにやりと口元に嫌な笑みを浮かべた。
俺様は背筋に冷たいものが一筋滑り落ちて、ざわりと肩を震わせた。
「あいつらが出たいって言ったんだよな?」
「なー」
「だからついでにさ、作った金貨が通用するか確認させて、最終的には……、な?」
目の前にいる人々の誰一人として悪びれる者はいなかった。
ぞっとした。こんな奴らが神界に普通にいただなんて。それも俺様が預かる西方に。
こいつらは本当に俺様が守る価値のある奴らなのか?
闇獄界の魔物が潜んでいたら容赦なく切りつけようと思っていた。幾分人の容姿に近い魔物が配された闇獄兵がいても、ためらいなく玄武と砂剣を揮うつもりだった。
だけど、こいつらは間違いなく神界のバルドの民なんだ。
言ってることもやったこともめちゃくちゃで、神界の民としてあるまじきことであるとともに、闇獄界の奴らだってやるかってくらい卑劣なことを街の者全員でやってのけた奴らなんだ。
じゃあ、そこまで追い詰めたのは誰だ?
「街を閉鎖したのはダイナマイトを使用しての鉱山の掘削が禁じられた技術を使用したものであるとわかっていたからですね? だからわたくしたちに知られないように街を閉鎖し、人の出入りを制限して話が外に漏れるのを恐れた。しかし金はしっかりと交易して街を潤さなければ意味がない。急に大量に出荷すると値崩れするとともに怪しまれるから、一年前から少しずつ交易量を増やしていましたね?」
こんな時でも周方の皇女は馬上で背筋をぴんと伸ばして、目の前のバルドの民相手にさらなる真実を解明しようとしている。
俺様なんてこれ以上聞きたくないと思っているのに。
「そういやテルアギルって組織はどうした?」
「テルアギルなんて存在しないのですわ」
「なんだって?」
「テルアギルは、もし捕まって口を割らせられた時にバルドの街の人たちが疑われないようにするための架空の悪の組織です。そうでしょう、バルドの皆さん!」
周方の皇女の一喝に、人々は静まり返る。その中でさっきまで人の輪の中に紛れ込んでいた爆弾を作ってバルドを混乱させた張本人の藺柳鐶がいなくなっていた。
ちっ、逃げられた。
だが、今はこのバルドの街全体をどうするかを決めることの方が先だ。
街ぐるみで悪の組織をでっち上げ、気に入らない魔法を使える者は騙して爆弾の実験台にして殺し、その火事に巻き添えを食った何人かも殺し、自分たちは金で儲ける。
いったい誰が考えたんだ?
そう問うたところで、おそらくすべてのことをただ一人のせいにするわけにはいかないだろう。誰か一人が藺柳鐶のダイナマイトの掘削を称賛し、皆が称賛するようになり、便利さを守るためにまた別の誰かが策を提案し、気に食わない奴らを処分するためにまた別の誰かが策を提案した。誰も止めなかったのかもしれないし、誰も止められなかったのかもしれない。人は集団になると思わぬ方向に舵を切り、悪いと知りつつ元に戻れなくなるものなんだな。
実行した者も、見ていただけの者も、バルドにおいては同罪だ。
「親方様~、鉱山の奥の洞窟に何人も閉じ込められている室がありますー! 助けますかー?」
働き者の秀稟は俺様に水筒を手渡した後、人型に戻って騒乱の中を潜り抜け、坑道の中を探ってくれてたらしい。
秀稟の報告にバルドの人々は一様にちっと舌打ちを打った。
「まだ出すな。なぁ、その中に閉じ込められているのは魔法を使って新規の行動を掘削してくれていた者たちか? それともお前らの街ぐるみの隠蔽工作に異を唱えた者たちか? あるいはその両方か!?」
地鳴りが起こる。足元が激しくぐらつきはじめる。
俺様は周方の皇女を馬上から抱き寄せた。
「砕けろ、大地! 罪人どもを地の底に呑み込め!」
俺様と周方の皇女を取り囲む奴らが一瞬にして割れた大地の底に落下した。阿鼻叫喚の渦が俺様たちを取り囲む。
泣きたいのは俺様の方だった。
情けねぇ。
情けなくて一滴の涙も出ねぇ。
「腐ってる……神界が腐ってる……」
「いいえ、まだですわ。まだやり直せますわ」
抱いた腕の中から周方の皇女の気丈な声が聞こえた。
「だってここは神界ですもの。導き方さえ誤らなければ皆が幸福になれる世界です。そのために鉱土法王、貴方はいるのですわ」
「そのために俺様が……?」
「そうですわ。微力ながらわたくしもお手伝いいたします。いいえ、今回のバルドの件は周方の失態です。鉱土法王、どうか今後とも西の平穏のためにお力をお貸しください」
腕を放してやると、周方の皇女は潤みもしないしっかりとした目で俺様を見上げてきた。
気丈で揺るがない翠の瞳。希望だけを信じて突き進める強い光。
「サヨリ殿」
「はい」
「手伝ってくれるか? みんなが幸せになれるように」
「ええ、もちろんですわ」
「俺様が挫けちまわないように見張っててくれるか?」
「法王ともあろう方がそんな意気地のないことでどうするのです? もちろん、お望みであればいくらでも叱咤いたしますわ。命が続く限り」
そうだよな。この女も人なのだった。四楔の宮出身とはいえ、いずれ尽きる命だった。
「なら、ずっと俺様の側にいてくれ。命が続く限り、俺様の側で未来を照らし出してくれ」
光が必要だった。この先の真っ暗闇を照らしてくれる光が。この女の目は裏切らない。この女の持ってる光は損なわれない。失われない。坑道の奥深く、どんな真っ暗闇でもひたと前方を照らし出しひるむことなく突き進む光だ。
思わず抱きしめた腕の中で彼女は身じろぎする。
駄目か?
「わたくしは周方の皇女です」
「知っている」
「周方で為すべきことがあると信じて生きてまいりました」
「周方は神界の西側を守るためにある。俺様だって鉱土の国だけじゃなく風とともに神界の西側を預かる身だ。周方だけじゃない、西側全体を視野に入れる気にはなれないか?」
「それは……わたくしでは力不足でございます」
「なぜそう思う?」
「わたくしは人でございます。人は永遠には生きられません。貴方と添うには……あまりにも時間が限られております」
西方将軍である兄ヴェルドのように、時の実でかりそめの永遠を手に入れることも可能だということを、妹の彼女が知らないわけがない。それでもそう言うってことは、人として一生を全うしたいと思っているということなのだろう。
「その短い時間を俺様と共に過ごしてほしい。後悔はさせない。もう二度とバルドのような例を作らないように、この国を、世界を導くから……君には一番近くでそれを見ていてほしい。一番近くで手伝ってほしい」
「……ですが……」
渋る彼女に、俺様はそういえば、と崖から降りる前のことを思い出す。
「ああ、そうか。イットゥンヒットか! それなら無理強いは……」
幼馴染で婚約者なら仕方ない。好きあっているのをわざわざ別れさせるような権力の権化になるつもりもさらさらないからな。ここは潔く……
「は? どうしてイットゥンの名前が出てきますの? イットゥンはとうに妻帯者ですわよ? わたくしが気にしているのは、わたくしにそれほど広い世界を見る目があるかどうかということと……法王と人の婚姻などこれまで聞いたことがないということですわ」
婚姻……? あ、そうか。俺様、プロポーズしてたのか。そうだよな。どっからどう聞いても結婚のプロポーズだよな。年頃の娘相手にただ側にいてほしいみたいな愛人契約というか公務もひっくるめての参謀契約、持ち出せるわけがないよな。それも相手は周方の皇女様だってのに。
俺様は腕を緩めて彼女の顔を覗き込んだ。
目があった瞬間に彼女の顔はぱっと赤らむ。
「サヨリ殿、俺様には君が必要なんだ。前例がないなら作ればいい。短い時間を気にしているなら俺様も一緒に年を重ねるから。だからサヨリ、俺様と結婚してほしい」
サヨリは一つ間を置いた後、笑顔で「はい」と頷いた。
が、その直後、眉根を寄せて足元の地割れの中に落ちた人々を見回した。
「いくら悪いことをしたといっても、ここに見捨てていくわけにはまいりませんわね。全員身柄を確保してしかるべき更生の機会を与えなければ」
そうですね。そうですよね。こんな雰囲気も何もあったもんじゃないどころか時も場所も場合も全部そっちのけで、自分の弱さに打ちひしがれて成り行き任せにプロポーズした俺様が間違ってたんですよね。
でも、どうやら君を妻に選んだ目に間違いはなかったみたいだ。溌剌とした表情からすでに次の策を考えているのがよくわかる。
「鉱様、わたくし恥ずかしながら魔法が使えませんの。申し訳ございませんが、ここから向こう側へ連れて行ってくださいますか?」
「……え……?」
「あ、今ヴェルドも使えるのに? ってお思いになりましたわね? こればっかりは才能と申しましょうか、わたくしには唯一努力のし甲斐のないものだったのでございますわ。……先ほどのお言葉、撤回いたします?」
法王の妻が、魔法を使えない?
んー、まあ、そう気にするもんでもないだろう。俺様がその分はいくらでも補えるし、彼女に期待したのは精霊の力を借りて魔法を使うことじゃない。彼女自身の心が俺様に魔法をかけるんだ。
「撤回はしない。そのまま俺様の側にいてくれればいい」
魔法を使える者と使えない者に身分差別の意識ができはじめているというのなら、俺様たちの結婚はそんな意識を払拭するいい例になるだろう。なんていうのはちらりと思いはしたものの、所詮副産物の理由に過ぎない。わざわざ口にすることじゃない。彼女だって気づいても口にはしないだろう。
「ありがとうございます。きっと、貴方のお役に立って見せますわ」
ほらな。たとえ気にしてても、彼女は心が弱くなりそうになると前向きな意思で自分を支えてるんだ。だから彼女は強い。どんな世間の風にだって負けずに前に進んでいくことだろう。もちろん、この俺様が彼女一人を矢面に立たせたりなんかしないけどな。
「秀稟!」
様子をうかがっていた秀稟は満面の笑顔で宝亀に姿を変え、俺様たちを馬ごと背に乗せ、地割れに落ちなかったバルドの残る人々を制圧し終えた急ごしらえのヤマネコ連隊のもとに運んでくれた。
イットゥンヒットをはじめとしてヤマネコたちは傷だらけのくせに俺様たちを見ると、再びにぃ~っと白い歯をむき出しにして笑った。
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