聖封神儀伝 2.砂 剣
第4章  叫び


 おっかしいな。
 夏城君目指して〈渡り〉を唱えてきたはずなのに、夏城君もいなければここは鉱土宮ですらないんですけど。
「ここはどこ~っ」
 叫んでみたところで辺りでは風に吹かれた砂がざざざと音を立てるだけ。三百六十度辺りを見回してみても、見えるのは黄金の砂漠とトルコ石色のどこか閉塞感のある青い空だけだった。
 砂漠に一人ぼっちがこんなに怖いとは思わなかった。
 砂と風と空と。ここにはそれしかない。旅行で訪れたのならそれはもうはっとするほど心に残る景色なんだろうけど、一人で迷い込んでしまったという今の状況ではとても楽しむ余裕はない。
 風は砂の表面を撫でてゆらゆらと波打つ紋を刻んだり、旋風を巻いて砂を巻き上げたりしながら、自在に砂のアートを楽しんでいる。その一つ一つを踏み壊すことなくわたしは歩いていた。
 砂面からは陽炎が立ち上っている。もうこれ以上ないくらい乾燥しているだろうに、わずかばかりの水分が蒸発していく。きっと生身の体でこんなところに放り出されたら一日ともたずに干からびてしまうだろう。それ以前にこの熱い砂の上を靴もない素足でまともに歩けるかどうか。
 しかし、行けども行けども鉱土宮はおろか目印になるようなものにすら出会わない。もちろん歩いている人もいない。あの砂丘を超えればきっと、と期待して頂きに登っても、見渡す限り黄金の砂漠というパノラマが待っているだけだった。
「お手上げだよ~」
 泣き言を呟いて砂の上に身体を投げ出す。
 どうせ衣服に砂がつくわけでもない。仰向けに寝転がると、頭上高く差し掛かった白い太陽が見えた。
「神界にも太陽ってあったんだ」
 太陽があるならこの空の向こうには宇宙も広がってるのかな。そんな話聞いたこともなかったけれど。そういえば月もあったっけ。人界は神界を真似て造られたっていうけど、こうやって空を見上げていると地続きになっているって言われたって信じてしまいそう。
 もし神界と人界が本当に地続きになっているなら、闇獄界もくるんと同じ丸い大地の上にあるってことかな。神界と闇獄界の争いも四次元なんて絡んでこなくて三次元でのことだったりして。
「わっかんないや」
 世界のことなんてわたしが考えたって仕方がない。私が今考えなきゃいけないことは、聖に連れて行かれた夏城君をどうやって助けるかってこと。
 夏城君に助けなんていらないかもしれないけど、相手はあの聖だ。何をしでかすかわからない。
 どうしよう。ためしにもう一度〈渡り〉で飛んでみようか。
 身体の制限がない今なら、どれだけ魔法を使っても胸が痛むことはないだろう。
 わたしは立ち上がり、ついてもいない砂を払う。
 もう一度夏城君の面影を思い浮かべて――途端に気恥ずかしくなって面影を打ち消しちゃったけど、口はもう〈渡り〉と唱えた後だった。
「……ぐっ」
 不意に胸にずきりと痛みが走った。
 聖だった時、何度となく襲われたあの発作の痛み。ギュッと心臓を掴まれたかのような痛みに、息もできずにわたしは倒れこんだ。
 倒れた先で視界に映ったものもまた金の砂だった。
 場所、変わってないのかな。
 なんて余計なことを考えると胸の痛みが主張しだす。
 身体がないのに胸が痛むなんておかしな話。痛んでいたのは身体の胸でも心臓でもなく、魂の芯の方だったんだろうか。
 身体を丸め、息を詰めて痛みをやり過ごす。
 大丈夫、この痛みなら慣れている。けして死んだりはしない痛み。だけど、死んだ方がましだと思えるほどの痛み。
 自分が真っ二つに裂かれていきそうな痛みだった。
「おめはん、大丈夫か?」
 ふとぎらぎらとした直射日光に晒されていた視界が暗く陰った。
 若い男の人の声。いい声なんだけど、どことなく言葉が訛っている。
「大丈夫でねぇな。待ってろ、今医者さ連れでってやる」
 いやいや、いいって。動かさないでお願い。
 なんてテレパシーも使えないのに伝わるわけがない。親切な声の人は問答無用でわたしのことを抱き上げた。
「っつっ」
 漏れたうめき声に、ようやく動かしてはいけないことをわかってくれたんだろう。「ああ、済まねがった」と言ってその人はゆっくりとわたしを砂の上に下した。
 ん? わたしに触れられる人がここにもいたんだ。
 痛みは氷が解けるようにゆっくりと遠ざかっていく。
 ちょっとずつ浅く息を吸っては吐き出しながら、徐々にその量を増やしていく。
 そしてようやく、わたしはわたしを助けてくれようとした男の人の顔を見上げることができた。
 外国人?
 鉱土の国に多いのはアラブ系の濃い顔の人たちだけど、この人はどっちかというとギリシアかローマあたりにいそうな顔だちをしている。優しそうなエメラルドグリーンの瞳にこんがり日に焼けた小麦色の肌。太陽を受けてキラキラと輝くのは黄金のさらさらヘア。まるで見た目は太陽の化身のような眩いばかりに輝かしい姿だった。
「水っこ飲むが?」
 なのに、なぜこんなに日本語が訛ってるんだろう……。これだけきれいな顔かたちをしていて、どうして。
「ん? 何がついてるが?」
 ううん、とわたしは首を振る。
 そういえば、前にも同じことを思ったことがあったような……。
「初対面、ですよね?」
 ようやく出た言葉は心配してくれたお礼でも心配をかけてしまったお詫びでもなく、自分でも驚くくらい不躾な言葉だった。
 だけどその人は一つも気にした風もなく、くしゃっと相好を崩して笑った。
「んだな。初対面、だな」
 なんだろう。頭の中がもやもやしている。会ったことあるような気がするのに、何も思い出せない。でもこの人も初対面だと言っているんだし、わたしにこんなきれいな外人さんの知り合いがいるはずもない。
「ご心配おかけしました。わたしあの……水は飲めないと思います」
「水っこが飲めねのが?」
「多分」
 答えると、きれいな外人さんは残念そうな顔をして水の入ったペットボトルをウェストポーチの留め具に繋ぎなおした。
「飲みたくなったらいつでも言ってけで」
「ありがとうございます」
 いつでもって、この後もついてくるつもりかな。
「おらはクレフティス。クレフって呼んでけで。改めましてよろしく、樒」
 差し出された手を一瞬見つめてから握ると、温かいぬくもりが伝わってきてじんと胸を打った。
「あれ、名前、名乗りましたっけ?」
「ん? ああ、まだだったっけ? フライングしちまったな」
 フライング?
「そったな恐ぇ顔すんな。別嬪さんが台無しだ。おめはん、よく迷子さなってらからな、今回もそうじゃないかと思ってたんだ」
 やっぱり初対面じゃないんじゃ……。
「あの、本当に一度もお会いしたことありませんでしたか?」
 エメラルドグリーンの瞳がじぃっとわたしの記憶を見透かすように見つめてくる。恥ずかしくなってわたしは顔ごと伏せる。
「どこさ行く予定だったの?」
 クレフはさっきのわたしの質問はスルーして、にっこりと笑いかけた。
 この人、信じても大丈夫かな。大丈夫だとは思うんだけど、何か胡散臭いというか怪しい気がする。調子がいいからかな。
「鉱土宮」
「鉱土宮かぁ。そりゃちょっとここから歩いていくにゃあ遠いかもしれねぇな。ラクダか何かがあれば別だけど……おお、あんなところにラクダが一頭!」
 クレフが指差したのはわたしの後ろだった。つられて振り返ると、さっきまで絶対いなかったはずのあのテレビで見るようなフタコブラクダが悠々と砂漠の中を歩いていた。
 クレフ、この人マジシャンか何かなんだろうか。今の、明らかにわざとらしかったよね。
「ラクダさーん、ちょっと乗せてけれ~」
 クレフはもう足取りも軽やかにラクダを追いかけ、首に縄をかけて引っ張ってきた。ラクダはラクダでおとなしく首のロープを引かれるがままになっている。
 クレフのラクダ?
 いやいや、そんなくだらないことはこの際口を噤んでおくに限る。
「さ、乗りなされ」
 クレフはわたしを抱え上げるとラクダのこぶとこぶの間に横座りに座らせた。
「わぁ、高ーい」
「んだえん? 高いえん?」
 ディテールの怪しいところを突っ込むのを忘れて、わたしはしばし自分よりも高い視界というものを堪能した。と言ってもあるものは遠くまで広がる金の砂漠と青空だからさして印象は変わらなかったんだけど、それでも、下を見下ろせば高いことには変わりない。
 クレフはひらりとこぶ一つあけてわたしの前に飛び乗った。
「んだば行くべかな」
 そういってクレフはラクダが歩き出す前から「月の砂漠」を歌いはじめる。
「ぷっ、はははははは」
 堪えきれずにわたしは吹き出す。
 だってそうでしょう? ギリシア人ぽい彫りの深い顔で日本語で渋く「月の砂漠」って、それもやたら沁みるいい声なんだよ?
「そったに笑うことねぇでねぇか」
「だっておかしいんだもん。本当に月の砂漠に来たみたい。夜だったらお月様も見えたかもしれないのにね」
「お月さんならほれ、あそこさ浮かんでるべ。真っ白いけんどな」
 クレフの指差した先、左前方にはいつの間にか地平線からぽっかりと白い半月が現れていた。
「太陽があって、月まであるなんて……人界みたい」
 笑いはおへその中にしまいこんで、わたしはひとしきり白い月に見入る。クレーターの形がうさぎの形をしているかまではわからなかったけれど、本当にここが神界なのかうっすらと不安な気持ちが湧き上がってくる。
 聖の時に見ていた神界の空って、どんなだったっけ。
 ロガトノープルの灰色がかった色の薄い蒼い空ならよく覚えているのに、いつも雲ばかり浮かんでいるのを見てきたせいだろうか。太陽があったのか、月があったのか、それすらも思い出せない。
「今は神界も人界と同じだな。神を失った代わりに太陽もあれば月もある。今はそんな時代だ。神界人だって昔のようにひとっこのいい奴らばかりじゃねぇ。人界の人間よりも寿命が長いだけで、考えてることもやることも人間たちと大差なくなってしまったんだよ」
「魔法は?」
「魔法。んだな、それが決定的な違いだったな。神界では技術革新が止められている代わりに魔法が生活を支えていた。だけんどな、魔法を使える奴らも昔に比べればぐっと減ったのす。かといって技術が進むかといえば、それも天宮王たちの監視があってままならね。生活のしにくさに人々の不満は募るばかりなのす。だから、一国の王でも簡単に闇獄界の奴らに付け入られたり、最悪、臣下に王位を簒奪されたりしているのす」
「王位を簒奪? そんなことにまでなってるの?」
「ここ最近の話じゃね。もう二、三代くらい前からの話なのす。神代が終わって世界は神々から人の手に委ねられ、人の力で歴史を切り開いていく時代になった。永遠と言ったり恒久と言ったものは、神様たちと一緒に滅んでしまったのす。形式を支えていたのは所詮身を以て永遠を体現して見せていた神や法王に名を刻んだ者だけ。その神と法王がいなくなった今、昔と同じ状況などあり得ないのす」
 幾重にも砂に刻まれた波模様が、一陣の風によって一瞬にして何もない状態に戻ってしまう。あとに残されたのは風が引っ掻きまわしたような痕跡だけ。かと思えば、別の場所では今まさに小さな竜巻が沸き起こって、渦を巻きながら移動し、その後に芸術的な螺旋模様を残している。
 時が流れる限り、状況は刻一刻と移り変わっていく。いくら美しい模様と愛でていても、奪われるときは一瞬で奪われるし、偶然によって新たに目を引くものが生まれることもある。
 歴史はどんどん刷新されている。
 時が止まっていたと思っていた神界でさえ。
「ん? あれ、今何か踏まなかった?」
 こなれたリズムで歩んでいたラクダさんのリズムが、一瞬崩れたような気がして、わたしは後ろを振り返った。
「そうだか?」
 クレフは知らぬふりを決め込もうとしたらしかったけど、後ろには確かにぽっこりと砂の一部が盛り上がっている部分がある。
「止まって、クレフ。引き返して」
「なんで? 鉱土宮はまだまだ先だぞ? 寄り道してっと日が暮れんぞ」
 おや? 柔軟な人なのかと思いきや、意外と頑固にクレフはラクダを歩き続けさせる。
「もういい」
 わたしはひょいっとラクダから飛び降りた。
 元から体重など関係のない今の身体。ふわりとわたしの体はラクダを離れ、砂で覆われた大地にほど近くなる。
 その勢いで後ろへ戻ると、ぽっこりと膨らんだ部分は、ふるふると頭を振るように動いていた。
「んー、んー、んー、んー、んー」
「人!?」
 明らかに人が呻いている声がしている。
「ごめんなさい! 今、もしかしてぶつかりましたよね? 痛かったですよね? 怪我してませんか?」
 その人の前にしゃがみ込んだわたしは、慌てて頭のてっぺんらしきところにかかった砂を払ってあげる。それでも顔が出てくる気配がないと思ったら、麻の袋が上からかぶせられていたらしい。
「なんてひどい」
 首もとで結わえられた紐を解こうとしたが、そっちはわたしの存在を受け入れてはくれなかった。
 途方に暮れてわたしは今来た方を振り返る。
 わかっていたように戻ってきてくれていたクレフはラクダから降りて、その人の頭から麻の袋を外してくれた。
 現れたのは、今度こそこの国の人らしいアラビアンな雰囲気の漂う浅黒い肌の青年だった。どことなく見たことがある気がするのは、テレビの影響か、緑の瞳と相まって鉱兄様と見分けがつかなくなっているからなのか。
 クレフが口にかまされた猿轡も外してあげると、アラビアンな青年はひとまず初めに下々のものを見下すような視線でわたしたちを交互に見上げた。
 なんだろ、この人感じ悪い。
 助けるんじゃなかったかな、とすでに後悔が軽く押し寄せてくる。
「その方ら、名はなんと申す?」
 喋り方が時代劇がかっているというか、高貴な人を気取っているようで、どうも親しみが湧いてこない。
 その方ら、と言っているってことは多分わたしのことも見えているんだと思うんだけど、この人は見えてくれなくてよかったかな、なんてすでに思っている。
「おめ、助けてもらったらまずは先にお礼だべ? 名乗るのだっておめが先に決まってるべ」
 のほほんとしているように見えるクレフが、表情にこそ出さないけどややきつい調子でそう返す。
 と、見る間にアラビアンな青年は片眉を吊り上げ、唇を歪めた。
「私が誰か分からぬと申すのか?」
 苛立った調子で青年は詰問してくるけど、わたしたちは顔を見合わせるだけだ。
「んなこと言ったってなぁ、こったな砂漠のど真ん中に生き埋めにされてるような奴にろくな奴がいるとは思わねもんな」
「言われてみればそうだよね」
「愚か者! 私は畏れ多くも鉱土法王の血を引く鉱土王であるぞ。頭が高い、控えろぅ!」
『……』
 水戸のご老公様だって自分ではそんなこと言わないのにね。自分で言っちゃったよね。
「地べたに顎乗せてる方よりも頭を低くしろというのは、砂の中に頭を突っ込めってことでしょうか?」
 あれ? あれだけ訛っていたクレフが普通の言葉づかいで尋ねている。怒りに我を忘れたのかな? となると、訛りは本来の自分を隠すため?
「それ以外に方法がないのであればそうすることもやぶさかではないだろうと申しておるのだ」
 鉱兄様の血筋を名乗る青年は、相も変わらず傲慢な物言いを続けている。
 これが本当に鉱兄様の子孫だったら、三井君、会った瞬間に平手打ちをかましてくれるんじゃないだろうか。
「クレフ、わたし、引き返したこと反省してるよ」
「んだべ? こういうのは関わるとろくなことさならねがらな。行くべ行くべ」
 クレフと一緒に立ち上がって、自称鉱土法王の子孫に背を向ける。確かに顔立ちや緑の目は似ていないこともないけれど、さすがにあれはないだろう。
「待て! 待てと言うておるに! 私を助けなければ後悔するぞ!」
「うわー、脅してきた」
「無視だ、無視」
「ええい、私を助けてくれた暁には、金でも宝石でも、欲しいものを欲しいだけ授けてくれるぞ!」
「成金てやぁね」
「ほんとに。親の光を嵩にきてるのも最低よね」
「何が欲しい!? 金か? ダイヤか? それとも女か?」
 追いすがってくる声のあまりの下品さに、思わずわたしは立ち止まる。そしてつかつかと歩み戻った。
「あなたねぇ、女性をお金やダイヤと同じものみたいに並べて言わないでくれる? そもそもわたし女性だし、女なんてもらっても嬉しくないわ。あなたもね、鉱土法王だっていうなら、土の魔法でも使ってぱぱっと土の中から出てきなさいよ。誰かに手を貸してもらわなきゃ何も一人じゃできないわけ?」
 うっ、今自分で言った言葉が自分で自分にも突き刺さった気がする。
 だけど、自称鉱土法王の孫にはわたし以上に深くどっぷりとわたしの言葉が突き刺さったらしい。
 目を白黒させながら、顔色は赤くなったりこの炎天下なのに蒼を通り越して白くなったりした挙句、わななく唇からはわたしを詰る言葉ではなく言葉にならない呻き声が迸った。
 思わずわたしは一歩後ずさる。
「そなたも私を王に相応しくないと申すか! 土の精霊と契約も結べぬこの私が、鉱土の名を背負うには相応しくないと申すか!」
 ようやく吐き出された悔し紛れの慟哭は、青年を見た目通りのやや幼さの残った二十歳前後の姿に見せていた。
 本物、か。
「あなたも魔法が使えないのね」
 わたしがそう言うと、鉱兄様の子孫は多少拍子抜けしたようにわたしを見上げた。
「クレフ、お願い。この人のこと引っ張り出してあげて。多分、本物だから」
 クレフははじめ明らかに嫌そうな顔をしたけれど、ラクダのおなかに備え付けていたらしいスコップを外してきて、それで鉱兄様の子孫の周りを掘り起こしはじめた。
 それでも掘っても掘っても砂はさらさらと高いところから低いところへと形を崩しながら流れていく。なかなか掘り進めるのは容易じゃない。
 ようやく肩が見え、腕を引っ張り上げた時には、左に見えていた白い月はだいぶ上に位置を上げてきていた。
「よし、んだばひっぱるがらな。腕外れても文句言うなよ」
 終いには大根を抜く要領で、やっとのことで鉱兄様の孫は砂の中から引っ張り出された。
 手足を縛っていた縄を切ってあげると、一番初めに何をするかと思えば、両膝を折り曲げて正座し、両手を砂の上について深々と頭を下げたのだった。
「助けていただいて、ありがとうございました」
 それはさっきまでの態度とは打って変わって姿勢のかなり低いものだった。
「いやいや、それほどでも~」
 じっとりと汗をかいたクレフは、ペットボトルに口をつけながら照れ笑いする。
 わたしは、というと、そんなにすぐにこの人の態度の豹変を受け入れる気にはならなかった。
「どうしてお礼を言う気になったの?」
 しゃがみこんで同じ目線で緑の瞳を覗き込む。
 一瞬明らかに動揺が走る。
「伯母のことを……ご存知の方とお見受けしたからです」
 答えを探るように一言絞り出す。
「今の時代、伯母のことを知っているのは、祖父と血を分けた方々しかおりません。ですから……」
「法王の誰かだと思って礼を尽くしてみたのね」
 そんな身分や位じゃなく、素直に今のわたしにお礼を言ってくれる心があればよかったのに。
 なんて、わたしも大概偉そうか。
「どうしてこんなところに埋まっていたの? まさか自分で潜ったんじゃないでしょう?」
「あの、あなたのお名前は……」
「わたしは守景樒。あなたは?」
「私は鏡と申します。父の名は錬。二代目の鉱土王です」
 すっかり改まってしまった鏡は、ただの女子高生(今は幽霊だけど)として名乗ったわたしに対しても対応を変える気はないらしい。
「私がここに埋められましたのは昨夜のことです。鉱土宮は今、恥ずかしながら藺柳鐶という名の闇獄主に取りつかれておりまして、私は奴の言うがままの傀儡と成り果てておりました。昨夜は奴が一人の少女を人界から攫ってきたのを見まして、さすがにそれは人界と神界の界域を乱すこと。鉱土王としても法王の子孫としても見過ごすわけにはいかないと思い、勇気を振り絞り少女を解放しようとしたのですが……」
「あえなく失敗して、邪魔をするなら邪魔できないようにしてやると言われて、長年臣下として仕えてきた者たちにここまで連れてこられて埋められた、と。そったなところだべ?」
 少女というのは三井君の彼女さんのことだろうか。むしろ自ら進んで藺柳鐶に連れられて行ったって夏城君から聞いたけど、もしかして鏡のやったことは空回りだったんじゃ……。
 クレフの言葉が的を得ていたことを示すように、鏡はすっかりしょげかえって項垂れている。
 これじゃあ、臣たちの信頼も薄れようし、身分が低いとみればここぞとばかりに威張り散らしたくもなるものなのかもしれない。
 そこがかっこ悪いところなんだけど。
 ついてしまった溜息は撤回できない。鏡は見捨てられたようにさらに首の角度を落としてしまった。
「鉱土宮に戻る気はある?」
 鏡ははたと顔を上げる。でもなかなか返事を返さない。
「それなら鉱土宮の方向だけ教えて。あっちの方向であってるの?」
 わたしはえっちらおっちらラクダに乗って向かってきた方向を指す。と、鏡はふるふると首を振った。
「そっちは逆です。鉱土宮はあっちです。あなたたちがあっちから来たから私はてっきり臣下どもが心を入れ替えてきてくれたのかと思ったのですが……」
 鏡が指していたのは、わたしがさっきクレフにラクダに乗せられた方向だった。じろりと見ると、クレフは知らぬ顔をしている。
「クレフ、方向音痴だったの? それともわざと?」
 鏡を助けるためにこっちに向かってきてたの?
「わざわざこったなお荷物背負いに来るわけねがべ。さぁさ、臆病な王様はほっといて、行ぐべ行ぐべ」
 クレフはわたしの手を引いて再びラクダの上に押し上げる。
 鏡は砂の上に座ったままぼんやりとわたしを見上げている。
「んだば行くべかな。あー、砂漠の夜ってすごく寒いんだってな。サソリとか恐い虫もいっぱい出るんだべ? まぁせーぜーがんばるこったな。ほれ、餞別だ」
 クレフは容赦なく見捨てるようなことを言いながら飲みかけの水が入ったペットボトルを鏡に向けて放り投げた。鏡はぼんやりとしていたかに見えたが、すかさずペットボトルをキャッチして、キャップを開けて中身を一気に飲み干す。
 と、よろよろと立ち上がってわたしたちを追いかけてきた。
「なんだぁ、動けねがっただけかぁ。水っこ飲みてぇならほれ、まだまだあるぞ」
 クレフはほいほいほいっと四次元ポケットのようなウェストポーチの中から五百ミリリットルのペットボトルを取り出し、追いすがる鏡に投げていく。鏡はそれを全部拾い集めながらあっという間にわたしたちに追いついてきた。足元ももうしっかりしている。
「私も行く。いや、私が行く。私が行かねば鉱土宮は治まらぬ」
 砂の上を小走りに進みながら、やや息は切れていたがしっかりとした調子で前を見据えて鉱土の国を預かる王様は言った。
 わたしはラクダの上から飛び降りた。当然、砂が舞い上がることもなければ自分の重みでかっこ悪く転がることもない。
「乗って。わたしは疲れないから平気なの」
「こりゃ、樒! おらとこのよわっちいのとを一緒にラクダに乗せる気が?」
「だってどう考えたって王様の方が生身だもの。一晩埋まってたらそりゃ弱ってるよ」
「生身? え?」
 今更ながら王様は驚いた顔でわたしを見返す。
「ふふ、今頃気づいた? わたしこう見えても今幽霊なの。自分の身体が鉱土宮に行っちゃったみたいだから追いかけてるところなんだけど、案内、してくれる?」
 法王の孫を名乗る人でも、幽霊を見るのは初めてらしい。小走りで赤くなっていた顔から一気に血の気が引いた。
「ぎょ、御意!」
 言葉遣いがまた恭しくなっちゃったのはこの際仕方ないとして、嫌がるクレフを説き伏せて乗せたラクダの上から王様は、ラクダの手綱につかまって凧のようにすぅーっとついてくるわたしの姿を見て、再び青ざめて胸と口のあたりを押さえていた。













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