聖封神儀伝 2.砂 剣
第4章 叫び
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龍兄の寝室は灯がすでに吹き消されて真っ暗だった。それでも、カーテンの布を通して月明かりが冴え冴えと室内に入り込んできている。私は大きくなった身体にシーツを一枚巻きつけただけの格好で冷たい床の上に裸足で立っていた。
やっぱりユジラスカの愛人の所に行ってしまったんだろうか。
そう思った時、ベッドのふくらみから軽い寝息が聞こえた。
「龍兄……起きて、龍兄……」
囁くような声になったのは、大きな声で眠りを妨げたくないから。でも、目を開けてほしくて。私を見てほしくて、私は一歩一歩龍兄の枕元に近づいていった。
寝息は相変わらず規則的に繰り返されている。
いつもならちょっとした物音でも目を覚ます人なのに、本当に私の気配に気づいていないんだろうか。
もしかして別の誰かが代わりに寝ているんだろうか。そんなことが頭をよぎりもしたけど、近づいてみてやっぱりそこに眠っていたのは龍兄だった。
行かないでいてくれたんだ。
それだけで、充分なような気もした。
だけど。
ベッドの端に腰を下ろし、横向きに丸くなっている龍兄の耳に上半身をひねってその名を囁く。
「龍兄」
ぴくりと龍兄の銀色の睫毛が震えた。それに見惚れている間に、私の左手首は龍兄に掴まれていた。
龍兄がゆっくりと目を開ける。
眠たげな蒼氷色の瞳が私を見上げ、それから何かに気が付いたように目を見開いた。
「泉明……神如……?」
それは、私が期待していた名前ではなかった。
ユジラスカの愛人の名前?
ううん、違う。そうじゃない。そんな名前知らないけど、「センメイシンニョ」じゃない。
だけど、どうしてだろう。胸の奥がわさわさする。何か、知っているのに思い出せない。そんな気分。
何を……知っているというのだろう。
センメイシンニョ?
誰、それ。
私知らないわ。知らないけど……涙が溢れた。
「放して」
龍兄の手を振りほどこうとしたけど、寝ぼけているくせに龍兄はしっかりと私の左手を掴んでしまっている。
「放してったら!」
乱暴になってしまったけど、身体ごとゆすって何とか龍兄の手を振りほどき、私はそのままベッドから立ち上がろうとした。なのに龍兄は私の肩を掴み、ベッドに押し倒すと両腕を掴んだまま私を上から見下ろした。
恐い。
本能のままに私は足をばたつかせる。だけどそれさえも抑え込まれてしまって、身動きが取れなくなってしまった。
あとはもうぎゅっと目を閉じて泣くことしかできない。
龍兄はしばらく私のことを見ていたようだった。ようやく、龍兄の口から私の名が出るまで、一体どれくらいの時を費やしたことだろう。それほど時は経っていなかったのかもしれないけど、私には永遠とも思えるほど凍えるような時間だった。
「聖、か?」
ぐすっ、ぐすっ、と鼻をすすることしか私にはできない。
「どういうことだ、この姿は。また魔法を使ったのか? それも自分に」
恐い。こわいよ。龍兄。
顔をそむけた私の顎をつまんで、龍兄は上を向かせようとする。
「聖!」
聞いたこともないくらい鋭い声が飛んできて、私の心臓は縮み上がりそうになった。時の魔法を使うより、よっぽど今の龍兄の方が心臓に悪い。
「ごめん……なさい……。でも私、どうしても龍兄の、お嫁さんに……」
ぐすっと鼻をすする。
これじゃあ全部台無しだ。ううん、台無しでよかったのかも。だって、こんな恐い龍兄見たことないもの。もう早く、元の姿に戻って帰りたい。
こんな入れ知恵をしたのは誰だって聞くのかな。聞くんだよね、きっと。それであとで鉱兄さまが怒られて、でも私……。
冷たくて鋭い目が私を見下ろしている。
「ごめ……なさい……本当にごめん……なさい……」
肩は抑えつけられているものの、何とか動く両腕で顔を覆う。その腕に深い溜息が吹き流れてきた。
「どうしてそこまでお嫁さんにこだわる?」
どうして?
どうしてって、だってそれは――
「特別だから」
恐る恐るずらした腕と腕の隙間から龍兄を見上げる。
「妹も特別だろう?」
「炎姉さまも龍兄の妹だもん。同じじゃいやなの」
龍兄はちょっと驚いた顔をしたけど、すぐに咳払いをした。
「妹じゃなくても聖は特別だよ」
「ただの特別でもいやなの。特別の特別の特別の……」
本当はどんなに特別をつけたって何か物足りない。
「聖」
気づくと龍兄がすぐ近くまで顔を近づけて私を覗き込んでいた。
「そんなに私が信じられないか?」
どきりと心臓が跳ねた。
信じられないかどうかなんかじゃないのに。私のこと子どもとしか思っていない龍兄の言葉の何を信じろというの?
そうだ、わたしは龍兄の何も信じていない。
鉱兄さまとサヨリさんの結婚式の時に大きくなったら結婚してくれると約束してくれたことも、私のことは特別だと言ってくれるその言葉も、私は何も信じてはいなかったんだ。だからこんなにも一人で聖刻城にいると淋しくて、いつも龍兄の側にいないと安心できなくて、何かちゃんと証になるようなものが欲しくて。
「言葉だけじゃ足りないの」
この身体が自然に大きくなるまでなんて待てなかった。一体後どれだけの時を経れば龍兄に追いつけるのか、私には見当もつかなかった。この姿が何年の時を超えたものなのかすら私には分かっていなかった。
中身が伴っていなければ、身体だけ大きくなったって何の意味もない。
相手のことを考えてあげられるようになることが、大人になるってことなんだよ。
龍兄も炎姉さまもそう言ってたけど、そうなれるまでにはまだまだ途方もない時を重ねないといけないというのでしょう?
龍兄の腕を掴む。
ふと、自分には何かが欠けているんだと思った。たとえばこの胸のどこかにぽっかりと穴が開いていて、だから、いくら龍兄が「聖は特別だ」と言ってくれても溜まらずにすり抜けていってしまう。だから底なし沼のように龍兄の気持ちが欲しくて欲しくて仕方がないんだ。
このままじゃきっと満たされない。ずっと一生、胸に風穴が開いたまま淋しいだけ。どうして穴が開いてしまったのかなんて、原因を辿ってもしようのないことだ。愛優妃から貰えなかった愛情をすり替えて龍兄にねだっているなど、そんなことは考えたくなかった。
「妹じゃ法王の責務の方が優先されてしまうのでしょう? でも、お嫁さんなら違う。龍兄のお嫁さんになれれば、いつでも一緒にいられる。ずっと龍兄と一緒にいられる。私には龍兄だけ。龍兄には私だけって、信じられる」
独占欲が丸出しでもいい。
なのに龍兄は眉根をしかめて冷たい声で言った。
「形だけのことに何の意味がある?」
「形、だけ?」
「そうだ、形だけだ。結婚など法的には夫と妻という肩書と義務が増えるだけだ。紙切れ一枚にサインさえしてしまえば、愛などなくても結婚は成立してしまう。妻という立場を手に入れたところで、必ずしも永久に愛されるなんて保証はないんだよ」
「そんなお勉強の話を聞きたいんじゃないわ。私はただ、鉱兄様とサヨリさんのようにずっと仲良く一緒にいるために龍兄のお嫁さんになりたいのよ。龍兄のことが好きなの。ただ好きなんじゃないっていう気持ちを分かってほしくて、私……」
龍兄の首に腕を回し、わたしは龍兄にキスをした。
いつもとは違う唇に。
触れたか触れないかも分からないほど、冷たい唇だった。
ずっと心臓の音が耳元で鐘を撞くように聞こえている。このままじゃ胸から飛び出していってしまいそうだ。
だけど龍兄の冷たい蒼氷色の瞳を見た瞬間、私の心臓は鼓動を止めてしまいそうなほど縮んでしまった。
「兄と妹じゃ結婚できないよ。お前は俺のお嫁さんにはなれない。永久に」
諭すのでも突っぱねるのでもなく、龍兄のその一言は溜息だった。
「家族ごっこは終わりだ。帰りなさい、聖。もう二度と、自分一人でここに来てはいけないよ」
龍兄は身体を起こし、私に背を向ける。
ずん、と空洞になっていた胸の穴をさらにこじ開けるように、昔感じたことのある衝撃が加わった。
「うっ」
思わず私は胸を抑えて横になり、背中を丸める。
手の届かない、遠いもの――龍兄の背中。
「どうした、聖!」
さっきまでの冷たい龍兄とは一変して、兄の顔になった龍兄は慌てて私を覗き込み、背中をさすろうと手を伸ばす。
私はその手を振り払った。
「発作じゃ、ない」
いつもの心臓の発作じゃない。確かに痛んでいるのは心臓だけど、これは心臓が悪いんじゃなくて、私が悪いの。
全身を悪寒が走って脂汗が額沿いに浮き上がっていく。目をぎゅっと閉じて背中を丸めていれば、大丈夫、きっとやり過ごせる。一人でも、大丈夫。龍兄なんかいなくたって、一人で、乗り切ってみせる。
痛みは時の魔法で大人になった時のように内臓を内側から蹴られるような重く鈍い痛みに変わり、関節が軋みを上げ、臓腑も組織も関係なく引っ掻き回されるような痛みに変わる。もんどりうつこともできず、私は身体をこわばらせ、息を詰めて痛みをやり過ごす。
「聖」
動くことも動かされることも辛い私の身体を、この時になってはじめて龍兄は膝の上に抱き上げた。
「どうしてこんなになってまで……」
ぎゅっと抱きしめられると龍兄の鼓動が聞こえた。焦っているのかいつもよりも鼓動は早い。
「龍兄のことが、好き、だから。……龍兄、私、大人に、なれるかな。その時まで、この身体、大丈夫、か、な……」
「当たり前だ。私たちが死ぬことはない。この身体が滅びることは永遠にない」
「それも……や、だな……」
「な……」
「龍兄、私知ってるよ。どんなに、龍兄のお嫁さんになりたいって、言っても……龍兄と聖は血がつながってるもの。なれない、ん、だよ、ね。形式、上、は。でも、それでも、諦めたく、なくて……いっそ、聖が死んだら、転生、して、今度は法王じゃなく、普通の人に生まれ変わって……ねぇ、そうしたら私、今度こそ龍兄のお嫁さんになれる……?」
龍兄は返事をしてくれなかった。そのかわりギュッと私の身体を抱きしめる腕に力を込めた。
壊れてしまうよ。そう言う前に、私の身体は魔法が解け、抱きしめる龍兄の腕はさらにかい抱くように力が強くなった。
痛みも苦しみも徐々に遠のいていく。引き換えに全身を倦怠感と眠気が支配していく。
龍兄は腕を緩めたようだった。
髪が一房掬い取られる。龍兄はそれに口づけを落としたようだった。
「聖、愛しているよ」
『言葉だけじゃ足りないの』。
勢いで言ったけど、本当だね。
本当に言葉だけじゃ足りない。
腕の温もりだけじゃ足りない。
髪の毛に口づけを落とされたって、何も感じられないの。
じゃあ、何なら足りるんだろう。
私が本当に欲しいものはなんだったんだろう。
求めるばかりでどんどん貪欲になっていって、足りない足りないと喚き散らして。
「今度、アップルパイを作ってくるね。炎姉さまに教えてもらう約束をしたの。龍兄の大好きな愛優妃のアップルパイ」
「聖……」
「心配しないで。今度はちゃんとパドゥヌと来るわ。ああ、そうだ。龍兄、本当は甘いの苦手だったって? アップルパイは甘すぎないようにするから、だから……また来ていい?」
求めるばかりだと、胸の穴はどんどん大きくなっていく気がした。だけど、私にも龍兄に何かあげられるなら……。
「ああ」
困惑したように龍兄はようやく頷いた。
ふふっと私は笑う。
「もう二度とこんなことしないから。ちゃんと妹でいられるように頑張るから。だから……」
だから?
そう、だから。
「嫌わないで、龍兄。ひとりに、しないで……」
すぅーっと意識が闇の中に落ちていく。
くらいくらい、真っ暗闇の中に。
そこは真っ暗で、白くて、何もなかった。
天地前後左右、どこを見回しても私は一人だった。
私は、泣いていた。
頭の上方を見上げて、わんわんと泣いていた。
『どうして私一人だけ残したのです! どうして私一人だけ……こんな、むごい……』
彼女は胸の中の袋が黒いものでいっぱいいっぱいになって、はち切れそうになっていた。その重さに引きずられ、のたうつ。
『どうして、私も、連れていって下さらなかったのですか……どうして、どうして……どうして、私一人を残すようなこと……私は神ではありません。貴方の代わりなど、とても私には務められません。お願いです。今からでも遅くはありません……お願い、殺して……私を……私も……連れていって……!!!』
慟哭が撒き散らされる。だけど周囲に響き渡ることはない。ここは永遠。彼女の心を受け取るものは、何もない。
どこまでも果てしなく空間は広がりつづける。
自分が端にいるのか真ん中にいるのか、上にいるのか下にいるのか、前を向いているのか後ろを向いているのか、宙に浮いているのか地に寝転んでいるのか。
噛み切った白い腕からいくつも血が浮き出ている。が、それは彼女の腕に巻きつくように流れ、滴り落ちることはない。
『私のことが嫌いになったのですか? それならどうして……口づけなどしたのです? 愛しているなどと言ったのです? 置いていくつもりならどうして……私の気持ちを揺らしたのですか? どうして……私は強くないのです。貴方のように強くはなれないのです。どうして諦めたりなさったのですか。あの世界はまだ、壊れるには早すぎた。そうでしょう? もっと早く教えてくださっていたら私が……私が何とかしたのに……できたかも、しれないのに……ああ、憎い。あいつら、なんで従わなかったんだ。どうして神を疎かにした? 蔑にした? 神が消えれば世界も消えると教えたのに、なぜ……!!!』
叫んだかと思うと、彼女は急に幸福そうに目を細め、笑い出す。
『ふふふ……約束だよ、泉明神如……はい……もう一度、貴方に出会えるのなら……何度でも私は……世界を……創ります……』
薬指に巻きつく薔薇を象った指輪に口づけ、お腹に手をあてがう。
どくりと内側から生命の鼓動が跳ねた。
いつものようにカーテン越しの薄日と鳥のさえずり声で目が覚めた。
頭の中はまだユガシャダにかかる霧よりも濃い霧に包まれている。
「寒い……」
一つ身を震わせて私は首元に毛布をかき集めた。
「あっ」
途端に意識がはっきりして飛び起き、カーテンを開けて爪立てをして窓の外の景色を確かめる。
聖刻城から見える朝の濃い霧に覆われたユガシャダの街並みだった。
大人の姿になって龍兄のところに行ったのは夢だったんだろうか。
ノックが三回聞こえて、返事をする前にパドゥヌが入ってきて驚いた顔をした。
「もう起きてらっしゃったんですね。失礼いたしました。さ、お着替えを手伝いましょうね」
いつもと変わらない調子でパドゥヌは着替えの準備を始める。
「パドゥヌ」
「はい、なんでしょう」
「私、昨日の夜……」
「ああ、それなら着替えと朝食を終えてからしっかりとお話を聞かなければならないと思っていたところです」
「やっぱり……」
大人になったことも何をしに行ったかもばれてしまったんだろうか。
「昨夜〈渡り〉で龍様のところへ行かれたんですって? それも私に内緒で。一言くらいご相談があれば、昨夜のうちは難しくても今日お連れすることはできましたのに。本当、ご無理をなさいます。私、龍様にこってりと叱られてしまいました」
「それは……ごめんなさい」
「〈渡り〉で来るなり発作を起こされたって言うじゃありませんか」
え?
「龍様、相当心配なさっていましたよ。それから譫言でアップルパイの味の好みを聞きに来たって、聖様おっしゃったんですって? もう、そんなこと伝令鳥を使えばいいのに、と呆れておられましたけど、甘さは普通でシナモンはちょっぴり控えめがいいそうです。龍様、シナモンの風味が苦手だったんですね。かわいらしいところもおありだわ」
くすくすくすとパドゥヌは笑っている。
パドゥヌの話は昨日のこととちょっと違うけど、昨日、私が龍兄のところに行ったのは、夢じゃ、ない?
「私、どうやってここに?」
「もちろん、龍様がお連れ下さったんですよ。あら、そういえば翡瑞はいなかったかしら。どうやっていらしたのだったかしら。一人だったみたいでしたけど……あら、おかしいわね……聖様を抱えて部屋の前の廊下を歩いていらして、私が聖様にお布団をかけている間に帰られてしまったようなのですけど……」
隠してくれたの? 私のしたこと。庇ってくれたの?
「今度改めてお礼にお伺いいたしましょうね。それにしてもアップルパイだなんて、どうしていきなり?」
「昨日、炎姉さまと約束したの。龍兄の大好きだった愛優妃のアップルパイの作り方を教えてもらうって」
「まあ、そうだったんですね。それでは、できるだけ早く炎様においしいアップルパイの作り方を教えていただいて、龍様にお礼に行かなければなりませんね」
「うん、そうだね」
私はにっこりと笑って見せた。
だけど、心はにっこりなんていう気分じゃなかった。
私は子供で、結局は龍兄に迷惑をかけただけだってことが痛く胸に突き刺さってきた。
いくら好きだ、愛していると言われても、どんなにキスをしてもらっても、満たされるわけがない。
私は龍兄にとって子供のままだから。妹のままだから。
女性になど、見えるはずがない。
「どうなさいました、聖様。どこか痛いのですか? また胸が苦しいのですか? もう少しベッドでお休みしましょうか?」
私が私を信じていなかったんだ。
龍兄にふさわしい大人の女性になれていると、昨夜、私が一番自分を信じていなかった。
それはやっぱりわたしがまだ知らない大人の未知の領域があるからで。
「大丈夫。何でもないわ」
私は子供用の寝間着を脱ぎ捨て、用意されたこの国の服に袖を通した。
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