聖封神儀伝 2.砂 剣
第3章  親と子


「あ? キルヒース山の裏っ側に硝石の鉱床ができてたぁ?」
 バルド奪還のための資料に目を通してた俺様は、シャルゼスの報告に顔を上げた。
「長年海からの潮風が吹きあがってくる場所だったからな。それでできたんだろ」
「はぁ? 初耳なんだけど。お前知ってたの? 硝石の鉱床できてたこと。もしくは、できる可能性があったこと」
「そうだな。火種はあちこちに蒔かれているもんだからな」
「物騒な」
「鉱、サヨリの持ってきた爆弾の組成を覚えているか?」
 サヨリ? って今呼び捨てにしたか? したよな。
「なんだ? サヨリのことを呼び捨てにしたのがそんなに羨ましいか」
「うっ!? 羨ましくなんかないやい! だれがあんな……」
 メスゴリラ、と言おうとして口が閉じた。
「そうか? サヨリの顔でも思い出したか? 顔が赤いぞ」
「なっ、馬っ鹿野郎。んなわけねぇだろ! それより、爆弾の組成? あれだろ。木炭をつぶした黒い粉と硫黄と硝石」
「合格。硝石は今言った通り鉱土の国のキルヒース鉱山から。硫黄は例のターン鉱山から産出される。木炭はバルドの周りが森だったな。炭焼き小屋もさぞかしたくさんあることだろう」
「うちの裏山からこっそり硝石剥ぎ取って海伝いにバルドに運んで、ターン鉱山の硫黄とバルドの炭焼き小屋の炭と混ぜて危険な物の出来上がりってか。てことは偽造金貨の話はフェイクか?」
「バルドの人々を囲い込んで働かせるにしても、少なくとも食費で金がかかるからな。偽造金貨で市場を混乱ってのは副次的な話で、実際はてっとり早く安く大量に食料を買い込むための金がほしかっただけじゃないのか? 農業で自給自足させるより鉱山掘らせたいんだろ」
「そんなもんか? それで正確な偽造金貨の構成比は?」
「金が六、銅が一.五、亜鉛が二.五。銅も亜鉛もターン鉱山で採れるから原材料には苦労しないな」
 今神界で流通させている金貨は金が九、銅が一。金は柔らかいからそもそも百パーセント金で作ってるわけじゃないが、それにしても金の比率落としすぎだろう。
 ためしに町遊び用の小銭入れの中身を机の上にひっくり返してみると、微妙に金の色合いがくすんだ金貨が何枚か見つかった。
「うわ、俺様の財布にも入ってら。これ、よっぽど神界中に広まっちゃってんじゃねぇの?」
「今回収を急がせている。だが、商人連中には偽造金貨と気づいて黙っていた奴もいるらしくてな。そういう奴らは本物の金貨を金庫に入れて、普段は偽造金貨で商売していたらしい。こっちが回収しようとしてもなかなか手放さないのさ」
「なんだよそれ。市中に出回る金貨が粗悪な方が手元の金貨の価値が上がるとかそういうことか?」
「まあな。質の悪い方で取引できるなら、質のいいもんは手元に残して資産を増やした方がいいだろ。だが、みんながみんな粗悪な金貨の存在に気づけば、粗悪な金貨の価値に見合うくらい物の値段を吊り上げだす。商人の多い都市部から次第に物価が高騰し、蓄えのない奴らから生活が困窮しはじめる」
 俺様はため息交じりに背もたれ深く体を預けて背伸びした。
「なぁ、ここって神界なんだよな? いつからそんな悪どい考え起こすような奴が住みはじめたんだよ。気づいてたんならいち早く教えてくれたっていいだろうによ。偽造金貨使ってた商人には何かゆるくても罰則つけるか?」
「知ってて使ってた奴と知らずに使ってた奴、どう見極める? 金貨を金庫で蓄えとくのも商人なら当たり前のことだぞ」
「う゛。嘘発見器?」
「そんなもん、使い出したら神界の根幹が揺らぐだろ」
 神界どころじゃねぇ。世界全部が揺らいじまう。ちょっとくらいの嘘、隠し事。当り前のように俺様だってやっている。そうやってどんどん素直じゃなくなっていってる。でもそれが円滑に人間関係進めていくためのもんだってことも知っている。言わないだけってこともあるしな。真っ正直に当たって砕けてこじれるくらいなら、多少のことにも目をつぶる。そんなもんだ。
「世界が変われば人も変わる。人が変われば世界も変わる」
 独り言のようにシャルゼスは呟いた。
「ニワトリが先か卵が先か、みたいだな」
「時だ。時が流れているということは常に変化しているということだ。変わらないものなど何一つない。良きにつけ、悪しきにつけ」
 変化か。
 俺様が小さい頃はまだお袋もいて、神界ももう少しこじんまりとしていた気がするんだけどな。その時はまだ神界としてまとまりがあったし、闇獄界を生活の中で身近に感じることもなかったのにな。
 大きくなりすぎちまったのかな、この世界も。
 増える人口。広がる居住域。俺様たちの手綱が行き届かなくたって仕方ないって言えんのかな、これ。ほんとうはさ、手綱なんてとらなくたって、一人一人が善良な生活を営んでいたはずなんだよな。
「そんな顔をするな。お前らしくない」
「らしくないってどういうことだよ。俺様だって神界の未来を憂えることだってあるんだよ」
「それだ。過去にこだわって未来を憂えるなんてお前らしくない。明るい未来を希望し、今を脇目も振らず突き進んでいく方がお前らしい」
「ばかみたいじゃないか、それ」
「ばかみたいじゃない。意外に難しいんだよ。お前らのように普通の精神で長く生きなきゃならんような奴らにとってはな」
「普通なのか? 俺様たち」
「俺たち精霊王から見ればな。お前らは普通の人の魂とほとんど変わらんよ。それで永遠の命なんて言われたって哀れにしか見えない」
「哀れ、なのか? 俺様たち」
 シャルゼスは答えない。
「ほとんどって、ちょっとは違うのか?」
 やっぱりシャルゼスは答えない。だが、自分の発言を取り消そうと慌てる様子もない。
 精霊王って言ったな。法王の〈影〉じゃなく。
 法王の〈影〉は俺様たちにつき従う者としての呼称。精霊王は神界創造時から存在する力を司るものとしての独立した呼称。普段はめったに見せない王としての矜持。
 シャルゼス、こいつも俺様なんかよりずっと前から存在してるんだよな。俺様の魂がどこから来たものなのかも知ってるのかもしれないな。
 考えたこともなかったけど、俺様って人界に人がだいぶ増えてから生まれたんだよな。ってことは、俺様になる前に別の誰か――ただの人としてこの世界に生きてたこともあるのかもしれないな。何度も何度も転生して、たまたまこの身体に入っちまった。そんなことだって有り得るわけだ。
 だからなのかな。兄貴、姉貴たちがやたらできる奴らに見えるのは。俺様にはあんな神々しさないもんな。庶民派なんて言われてもさ、劣等感っていうの? 小さい頃から見えない壁を感じないこともなかったようなあったような。
「バルド奪還の見通しは立ったのか?」
 シャルゼスは脱線した話を元に戻した。
 俺様はちらりと机に投げ出した資料に目をやる。
「明後日の会議で出発日を決める」
「そうか。てことは今頃サヨリたちはこっちに向かってる最中だな」
「ああ。俺様一人なら秀稟で周方に向かった方が早いんだけどな。ま、周方の軍をこっちに呼びつけておいた方がまた周方に戻って軍を率いてくるよりよほど段取りはいいからな」
 バルドは北にターン鉱山、西に白海、東に森、南にカルタソ湾という陸続きにありながら孤島のような場所だ。少人数ならば森を抜けて往来することも可能だが、ターン鉱山の鉱石を仕入れたりする時などは商人たちは鉱土の国側にあるフェルドースからカルタソ湾を船で渡ってバルドの街に入る。一軍を率いて行くならカルタソ湾を船で渡り、南側から上陸するしかない。周方の首都ワルソはバルドの北にあるから、いずれ鉱土の国側で落ち合う必要がある。
 と、目の前にバルド周辺の地図を思い描いた時だった。降ったように慌ただしいノックが繰り返されて、フェルドースに周方遠征軍を迎えに行かせたはずのナヴィドが転がり込んできた。
「おーい、まだどうぞって言ってないぞ」
「周方皇女サヨリ様率いる周方遠征軍が、ターン鉱山東方のマルジュ平原を通過中に何者かに襲われました。皇女も現在行方不明です」
 ナヴィドは冗談に応える間もなくそれだけ早口に言うとばったりと床に倒れた。
「おい、しっかりしろ。どういうことだ、詳しく説明しろ」
 〈渡り〉で一足飛びにここまで来て力尽きるのも分かるが、まだ意識を手放されちゃ困る。がくがくと揺らすとナヴィドはうっすらと目を開けた。
「予定では今日の午前中には到着のご予定と伺っていましたが、正午を過ぎても先触れもございませんでしたので偵察に出ましたところ、マルジュ平原南端のあちこちに大地が抉れた跡がございました。さらに重傷を負った多数の兵士がバルドの森付近におり、現在収容を図っているところです」
「だがその中に皇女はいなかった、ってか?」
 こっくりとナヴィドは頷く。
 俺様はナヴィドを放すとドア口に掛けていた外套に腕を通した。
「どこへ行く?」
「先に行く。シャルゼスは大至急サイードたちに知らせて軍を編成し、追いかけてきてくれ」
「待て。まだ詳細な情報が入っていない。ヴェルドはどうした。あいつも一緒じゃないのか?」
「西方将軍の軍はあとから追いかけてくる予定になっていたそうです」
 俺様はナヴィドの言葉を半分も聞かないうちに空いたドアから廊下に出、秀稟を探した。
「秀稟! 秀稟はどこだ! 行くぞ!」
「作戦も何も決まってないのに、ここでお前が突っ走ってどうする。まずはヴェルドたちの軍の無事を確認して連絡を取り、周方軍を回収して手当てを受けさせ……」
「全部任せた。秀稟! 秀稟はいないのか!」
「親方様! お呼びですか?」
 お団子頭を結っている途中だったのだろう。片方が未完成のまま秀稟は息せき切って駆けてきてくれた。
「バルドに行く。連れて行ってくれるか?」
「はい、もちろんです!」
 役目を任じられて秀稟は嬉しそうに返事をする。だが、シャルゼスは俺様の前までつかつかと歩いてくると、一発平手打ちをかましてくれた。
「目を覚ませ。寝ぼけたこと言ってんじゃねぇぞ。お前は誰だ? 鉱土法王だろう? 法王が自軍の統率そっちのけで女追いかけてんじゃねぇよ」
「目なら十分覚めてる。悪い夢なら覚めてほしいくらいだ」
「お前が今見てる夢は男の見る夢だ。法王が見る夢じゃない」
「男の見る夢? 法王が見る夢じゃない? なんだそれ。俺様は男だ。男が男の夢見て何が悪い。惚れた女ひとり助けられなくて何が法王だ」
 シャルゼスは青い目を見開き、にやりと人の悪い笑みを浮かべた。
「ちっ」
 舌打ちをしたのは俺様だ。言う気もなかったことまでうっかり口走らされた。
「明朝、バルドに軍を届ける。三日かけなくても時の精霊の加護を受けてる奴らを呼び集めれば、一千人くらいわけないだろう」
「持つべきもんはシャルゼス様だぜ。頼んだぞ」
 俺様は外套にだけは袖を通したものの、とるものもとりあえず宝亀に姿を変えた秀稟に乗って鉱土宮を飛び出した。
 日は大きく西に傾き、朱色の空が行く先に広がる。後方は秀稟を追い越す勢いで青く染まっていく。
 ナヴィドの奴、怪我した周方の兵士たちを収容させているって言ってたが、その辺の配慮ちゃんとやってんだろうな。でなきゃうちの軍まで大損害だ。
 臍を噛みたくなる思いってのはこういう思いのことを言うんだろうな。秀稟の砂漠越えの速さは折り紙つきだ。砂嵐が来ようがこの硬くて重い甲羅があればひっくり返されることもない。だが、今はもっと早く、もっと早くと気ばかりが急いて秀稟を焚き付けてしまう。
「急いでくれ。早く、もっと早く」
「らしくありませんよ、親方様」
 見るからに影に染まっていく金の砂漠を闇に追いつかれまいと速度を上げて渡っていく秀稟は、口調こそわざとらしくのんびりとして言った。
「そんなことはない」
「いいえ。らしくありませんてば。いつもの親方様はもっとこうどーんと構えておいでです。こんな風に自らせせこましく動くのはお嫌いだったのでは?」
「そんなことを言ってる場合か。俺様が動くのが一番早いんだ」
「皇女様が心配ですか?」
 うっ。こいつまで生意気な。
「いつもの親方様ならまず、現地の情報をお集めになります。それから手勢を率いてフェルドースに向かい、そこにいる生き残った兵士たちから当時の様子を聞き出し、味方の損害が最小限になる方法を考えながら行方不明者の捜索をするでしょう。親方様、行方不明なのは何も皇女様だけとは限りませんよ」
 ……耳が痛いな。
 だよな。皇女だけじゃなく他にも行方不明者が出ているって考えるのが普通だよな。
「親方様は皇女様だけを助けに行かれるのですか? それとも、周方遠征軍を助けに行かれるのですか?」
 ぐっ。
 普段は紅顔の小娘に諭されてんのにぐうの音も出ねぇ。
「周方遠征軍を助けに行くなら、俺様一人じゃ力不足だな」
 俺様は法王だ。土の魔法だって一番使えることになっている。俺様一人で鉱土軍百人力くらいの力は発揮できることにもなっている。だけど、今から向かうのは目の前に敵兵がたくさんいる戦場じゃない。どこに敵が潜んでいるかわからない場所なんだ。それも助けなきゃならないのは一人だけじゃない。
「親方様は皇女様お一人を助けられればいいと思って現場に向かっているかもしれませんが、親方様のお姿を見た人たちはそうとは思わないでしょう。自分たちを助けに来てくれたと思うはずです。その期待に応える心づもりはできていますか?」
 秀稟め。今日はやけに痛いところをついてくるじゃないか。
 いや、違うか。俺様が今それだけ周りが見えなくなってるってことか。
「親方様はシャルゼス様が援軍を届けられる明朝まで、お一人でその期待を背負わなければなりません。秀稟もできる限りお手伝いいたしますが、まずは、西方将軍ヴェルド・アミル様と合流なさるのがよろしいかと思います」
「ああ、そういえば……」
 ほらみろ。自分で言うのもなんだがヴェルドのことさえ頭からすっ飛んでやがる。
「ヴェルドは周方遠征軍の後から来ることになっていたな。もう着いているかな。まさか二度目の攻撃にさらされていたりしないだろうな」
 ナヴィドは大地のあちこちに抉れた跡があったと言っていた。おそらく、あの爆弾が使われたに違いない。上空から撒いたにしろ、魔物に持たせて自爆させたにしろ、いずれこの戦いは一筋縄じゃいかなくなってしまった。向こうの新しい兵器はもう実用段階に入っちまったってことか。
「お知らせするのが先ですね。急ぎます」
 秀稟の一言でぐんと速さが増した。見渡す限り砂漠と朱色と紫色の空だった景色が、あっという間に砂漠を超え、平原となる。
 フェルドース上空に差し掛かると、今だ次々に怪我人たちが町の中に運び込まれている様子が見えた。朱色に染まるカルタソ湾の向こうには、鬱蒼とした森と山に抱かれたバルドの街が見える。いつもなら早々に松明を灯し、夜になろうとも飽かず商人たちを迎え入れているはずの門扉は固く閉ざされ、暗い闇を抱きこんだ森よりもなお一層深い闇の中に沈黙とともに沈み込んでいた。よく見ればその森さえも暗闇のせいだけではない。暗闇に染まり枯れはじめている。
「ひどいな」
 こんなになるまで俺様は気付かなかったのか。
「見えました。白地に獅子と交差する金と緑の剣の紋章、西方将軍の軍勢です」
 秀稟が見つけた西方将軍率いる一軍はバルドの森付近に差し掛かったところで進軍を停止し、天幕を張って今夜はここで夜営を決め込んだらしい。兵たちは手に手に松明を持ち、先に進んでいた周方遠征軍の兵士たちの収容に余念がない。
 それにしてもわざわざこんなところで夜営をするなんてな。今朝方奇襲をかけられた場所だぞ? 確かに西にあるバルドへの森以外北、東、南の見通しはすこぶる良好な場所ではあるが、ある意味これでは逃げ場がない。狙ってくれと言っているようなものだ。
 俺様と秀稟は一番大きな天幕の側に降りると、急いで衛兵に頼んでヴェルドの天幕に案内してもらった。
「入るぞ、ヴェルド」
 二重になった幕を跳ね上げて中に入ると、円形の室内には簡易なベッドが設置され、その上に包帯を体中に巻きつけられた周方の皇女が横たえられていた。
「鉱土法王。どうしてここに?」
 驚くヴェルドの前を素通りして、気が付くと俺様は周方の皇女の枕元に走り寄っていた。
「サヨリ殿!」
 周方の皇女は服こそ着替えさせられていたが、袖からのぞく手や首、頬には包帯や白いガーゼが当てられ、顔色も青白い。とてもいつものあの嫌味な男勝りの女と同じ人物には見えなかい。
「騒々しい……ですわね……」
 赤い薔薇に霜が降りたような唇がわずかに震えてため息を漏らした。
「サヨリ殿! サヨリ殿! しっかりしろ! サヨリ殿!」
 冷たい手を両手で握りしめ、俺様は必死に周方の皇女の名を呼ぶ。
「らしく……ありませんわよ。これは、わたくしの失策です。完全に、油断していました。バルドに引きこもっているだけだと、思っていたのです。なのに、森から突然たくさんの狼たちが現れて、縦横無尽に走り回るうちにあちこちで爆発が……っうっ」
 声を押し出すのさえ辛かったのだろう。眉根を寄せ、ぎゅっと目を閉じて痛みをこらえる姿は健気というよりももはや皇女としての誇りだけで意識を保っているようだった。
「爆風で肺も火傷したらしいのです。手足や体もだいぶまずかったのですが、とりあえず治癒でここまで持ち直しました」
「これで治癒したっていうのか?」
「これが限界だったんです。治癒できる者は二十人ほどしか連れてきていませんが、怪我人は数え切れぬほどおりました。私がここに差し掛かった時にはこの辺は一面血の海でした。即死だった者、助けきれなかった者が数え切れぬほどおります。骸すらまだ弔ってやれない状況だったんです。とりあえず命が保てる最低限までの回復だけを依頼して、あとは他の重症者の治癒に向かわせました」
「血の海……」
 薄暗くてさっきはそこまで見えなかったが、そんなにひどいありさまだったのか。闇獄界め。どこかでバルド奪還の日が近いと知って奇襲をかけてきたわけだ。おそらくは狼の腹にでもあの爆弾を括り付け、導火線に火をつけて森から平原へ向かって放ったんだ。動物の動きは読みにくい。逃げようとしたって多数の狼が隊列の中に紛れ込んで来れば右往左往しているうちにドカンだ。狼を平原に放つにしても、あらぬ方向に向かわれては意味がない。その辺は狼を空腹にさせておくことで、意図的に人に向かっていくように仕向けたんだろう。
 ずいぶん凝ったことをしてくれたじゃねぇか。
 狼だってバルドの森にいた奴らを捕えて使ったんだろう。爆弾の原料も神界産で? 自分たちの国を支えるものが自分たちを苦しめるような構図にしてくれるなんて、本当、憎らしくて……懲らしめてやりたくなる。
『あまねく大地に宿りし母なる精霊たちよ
 命あるものを慈しみ育む者たちよ
 その息吹を以て
 この傷つきし者の傷を癒したまえ』
「〈治癒〉」
 大地から黄金色の光が湧き上がり、天幕の中が眩いばかりの光でいっぱいになる。
 我ながらあまりの眩しさに目を閉じていると、やがて皇女の手を握っていた手がちょっとずつ握り返されてきた。
「女性には平等がモットー、ではございませんでしたの?」
 さっきまで息も絶え絶えだったのが演技だったのではないかと思うほど、張りのある声で嫌味が聞こえてきた。と思ったら、周方の皇女はもう体を起こしていた。
「傷は?」
「もうすっかり大丈夫のようですわ。不思議ですわね。さっきまではあんなに重くてだるくて仕方なかった身体があっという間に軽くなっている。さすが、法王様の魔法の力は違いますわ」
「そりゃあよかった」
 よそ行きの笑顔でも、苦しんでいる顔を見るよりは数百倍もましだ。思わず俺の頬は緩む。
 だが、次の瞬間、周方の皇女は戦に臨む女神のように表情を引き締め、俺様の視線をしっかりと絡めとった。
「鉱土法王。周方皇女、サヨリ・アミル、このご恩には必ず報いさせていただきますわ。――必ず」
 見た者を焦がすような視線。じり、と音を立てて胸が焼けるような思いがした。
 言うなればそれは危うさだ。俺様への恩に報いると言いながら、この目は失った自分の麾下の者たちの復讐を誓う目だ。けして濁ってなどはいない。ゆえに純粋すぎて全ての物を無に昇華してしまうような、そんな目だ。
 これが本当にミラリスの泉のほとりで鳥たちと戯れ歌っていたあの少女の目か?
 死線をくぐり抜けた強さと危うさ。この皇女は今その二つで身を支えている。いくら体が全快したといっても心までは癒せない。
 そんな目をするなよ。女の子だろ? 女の子なんて男に守られて家で大人しく編み物でもしててくれればいいんだ。なんて言ったら、きっと平手打ちじゃ済まないんだろうな。このままこの天幕に閉じ込めて、その間にバルド奪還を果たしたとしても、きっとこの女は喜ばない。自分の手で闇獄界に一矢報いてやらねば、きっと一生この日のことを思い煩うことだろう。
 手のかかる女。
 でも、嫌いじゃない。
 さっきはシャルゼスに勢いで惚れたのなんのと口走ったが、多分、嘘じゃない。
 このまっすぐな明緑色の瞳。見つめるたびに焼き尽くされそうになる。何度か作戦会議で顔を合わせてきたが、その都度思う。これが短い時を精一杯生きている者の目なんだと。自分にできる最大限のことを為そうとする者の目なんだと。
 眩しいよな。眩しすぎてこっちの目が見えなくなっちまいそうだ。
 少女特有のまっすぐさも、危うさも、全部ひっくるめて守りたくなっちまう。いや、彼女からすれば守られるなんてまっぴらなんだろうけど、この女は俺様にとって何よりの刺激なんだ。与えられた長い時にとっくに倦んじまってる俺様にとって、この女の生き方は忘れかけていた理想そのものなんだ。
「ヴェルド。奇襲をかける。夜目が利き、馬の扱いに長けた者を五十人集めろ。ターン鉱山の裏側から登り、一気に駆け下って坑道の入り口を制圧する。ヴェルドはバルドの門前に待機し、門が開いたら逃げ出してきた奴らを一網打尽にしろ。ネズミ一匹逃がすな」
「奇襲の指揮は誰が?」
「俺様に決まってんだろ。明朝、シャルゼスがバルド門前に一千人送り込んでくれることになっている。それまで持ちこたえろ。――いや、こんなところに天幕構えた西方将軍様だ。もともと今夜、やる気だったんだろう? ああ、妹をだしにナヴィドを使いに出したのもお前だな?」
「何のことでしょう」
「前言撤回。明朝までにバルド内に潜む諸悪の根源はすべて討伐完了する。いいな」
 飄々と受け流していたヴェルドの表情が妹同様にやりと生き返った。やっぱりこいつも同じ血だな。
「鉱土法王、わたくしは……」
 俺様の袖を掴んだ少女はひたむきな視線で俺様を見つめてくる。こんなときじゃなきゃあ、そりゃもういい気分なはずなんだが、まあ今はいい。
「馬は?」
「乗れます」
「夜目は?」
「利きます」
「勇気は?」
「あります!」
 勢い込んで答えた姿に、俺様は思わず吹き出す。
 上等だ。そう来なくっちゃ。
「んじゃあ、俺様と一緒に来い。相乗りじゃないぞ。ちゃんと馬一頭率いて山下ってもらうからな」
「望むところですわ」
 ふんっと胸を張った周方の皇女の目にはいつもの輝きがよみがえっていた。
「絶対俺様から離れんなよ。それから……」
 俺様は天幕の入り口で大人しく事を見守っていた秀稟を手招いた。人型に戻った秀稟の髪は、左片方だけ頭にお団子がくっついていて、右片方の髪はおろしたままになっている。
「髪結いは得意か?」
「え……ええ。簡単なものであればできますけれど」
「来るとき急がしちまってな。秀稟のお団子、一つ作ってやってくれ」
「え……あ、はい」
 お? なんだ、急に少女らしく赤面しやがって。
 できんじゃねぇか。そんなかわいらしい表情も。
「じゃ、秀稟、かわいく結ってもらえよ」
「はい、親方様!」
 明るく返事をした秀稟は早速周方の皇女と何やら話しはじめている。
「ヴェルド、俺様の分も馬を見繕う。付き合え」
「はい、鉱土法王」
 ちっ、ヴェルドの奴満足そうに笑いやがって。
 まあいいさ。こんな場所であんな目に遭った後でも男どもに囲まれたまんまじゃ気も休まらないだろ。少しばかり秀稟と話でもしてささくれだった心が落ち着けばいい。
 なーんて俺様の思惑なんてお見通しだって?
 ほんと、この兄妹かわいくねぇな。
「ヴェルド、俺様青毛のかっこいいのがいい」
「はいはい。まずは恰好から入るんですね。きっと気に入るのがいますよ」
 俺様のわがままもどこ吹く風。ヴェルドは元通り飄々とした様子で俺様を馬を繋いでいる場所に案内した。













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