聖封神儀伝　２．砂　剣
第３章　 親と子

◇ ４ ◇

「うへぇ……冷てぇ……。おい、生きてっか、藤坂」
　暗い行動の中を駆け抜け重力から解放されたと思った瞬間、俺様たちはまっさかさまにやたら透明度の高い青い水の上に打ち付けられた。やけどを冷やす氷水かと思うくらいの冷たさに心臓が縮み上がり、あえなく止まるかと思ったんだが、どうにかこうにか手近に落ちたトロッコに掴まって上半身だけは水から上げとくことができた。それでも足腰からどんどん体熱は奪われ、冷たさにしびれてくる。
「藤坂？　おい、藤坂？」
　どうせ水なら藤坂の十八番だろうと思っていたのだが、ばしゃりとも「ここよ」という高飛車な声も聞こえてこない。
「あ、れ？」
　周りを見回してみる。後ろも二回ほど確認する。
「いない」
　いやいや、嘘だろう？　さっきまで俺様たち一緒にいたじゃないか。ここに落っこちるときだって盛大に悲鳴あげてたじゃないか。
　もう一度周りを見回す。水面に浮いているのは俺様とトロッコだけだ。
「まさか、沈んだ？　水を司る法王が？」
　足はがちがちと震えはじめている。あまり長くこの中にいるわけにもいかない。かといって、岸が見えるかといわれると、周りは丸ーく滑らかな岩肌で囲まれていて、天井もドーム型に盛り上がっていて手を伸ばしてもとっつきようがない。さっき落ちてきた穴は手を伸ばしても届かない高さにあるし、どうせ急勾配で登れやしない。登ったところで宝石ゴーレムの餌食だ。
「うお、寒ぃ。どこだよ藤坂。返事しろー！」
　そういやこの地底湖、底に足つかねぇんだよな。トロッコに掴まってるからまだ体力消耗抑えられてるけど、このトロッコだっていつまで浮いててくれるかわかんねぇし。ったく、どれくらい深いんだよ、ここ。
　トロッコに掴まる両手の間から下を見ると、そこの岩石の凸凹が青緑色の中にはっきりと見えた。足だって今にもつきそうに見えるが、これは錯覚だ。水が綺麗すぎるからすぐそこに底があるような気がするだけだ。
　昔行った洞窟の地底湖は九十九メートルだっていうのに飛び込めばすぐ触れそうなところに底の岩石があったっけ。だけど深度計は数字を読み取れる限り二十メートルにはなっていた。あれを見て、俺様はしばらく風呂の湯船につかるのも怖くなったね。いつ底が抜けて九十九メートルの水底におっこちるか気が気じゃなかったんだ。
　恐ろしいことに、今はその想像を地で行ってるわけだ。
　いやいや、子供の頃のことなんか思い出してる場合じゃない。
「藤坂の奴、まさか一人で泳いでうまいこと逃げたんじゃねぇだろうな」
　さらに水の中を目を凝らして探していると、
「あ……」
　ありえないことに水海法王の転生は俺様の右手の下あたりで静かに沈んでいた。二本の三つ編みが水の中でゆらゆらと揺れながらちょっとずつ遠ざかっていく。
「まじかよ」
　俺様は一息息を吸い込んでトロッコから手を放し、水の中に潜り込んだ。手の届くところにいるかに見えた藤坂は、意外と深く沈んでいる。
　一度浮き上がって酸素を確保し、鼻をつまんで今度は水を蹴って一気に深く潜り込んだ。
　水が冷たくて心臓が悲鳴を上げている。手足だってそうだ。特に足なんてもう感覚がほとんどない。だけどここで藤坂を見捨てていったら、あとで末代まで祟られるのは目に見えている。それ以前に科野にどやされ、泣かれ、喚かれ、酷い目に遭うだろう。
　というか、たぶん俺様が気にして眠れなくなる。
　藤坂は死んだように目を閉じていた。鼻からも口からも気泡は出てこない。顔色が悪いのは水の色のせいだけではないだろう。
　水底はサファイアの輝きで青くさざめいている。その中に包まれている藤坂の様は、お似合いっちゃお似合いだったがなんのことはない、つまらない飾り物のようだ。
　水をもう一蹴りしてようやく藤坂の三つ編みを掴む。そして肩を掴み、ようやく腕を掴む。
　反応は、ない。
　おいおい、まさか本当に死んじまったんじゃないだろうな。
　焦りがじわりと胃のあたりを蝕む。
　いや、ここで焦ったら俺様まで溺れちまう。
　冷静に、冷静に藤坂を引っ張り上げるんだ。
　水の中だというのに意識のない人間の身体はやたら重い。
　どうにかこうにか俺様は水面から顔を出し、がちがちふるえる歯を食いしばって藤坂の顔も水面に出してやった。
「藤坂！　藤坂！」
　ぺちぺちとほっぺたをたたくが、それでも反応はない。
　下半身の感覚がほとんどなくなり、全身に気怠さが襲ってくる。
「うぉぉ、死ぬなよ、藤坂！　生きろ、俺様！」
　俺様は片手で藤坂の首元を抱え、もう片手でトロッコに掴まって、あらんかぎりの力を振り絞って水の中を蹴った。
　とりあえず一番近くの岩壁までたどり着ければ、あとは魔法でそこをくりぬいて一時しのぎの場所を作れればいい。
　左に左に泳いで行って、ようやく触れた岩壁の水面よりも少し上の部分を人一人寝せられるくらい深く削り取る。削り取った岩石の破片で階段を作って、先に俺様が這い上り、最後の力で藤坂を引き上げる。
　息は上がっているが、体は一向にあったかくならねぇ。
　このままじゃ凍え死んじまうぜ。
　はっ。こういう時ってほら、人肌で温めあうとか……
「いや、藤坂脱がせたら殺されるだろ。いくら生死がかかってても藤坂とはちょっと、な」
　何とか洞窟をくりぬいた奥に藤坂を運んだが、藤坂は一向に目を覚ます気配がない。
「あれ、もしかしてシンパイ停止状態？」
　おそるおそる鼻の前に掌を向けてみるが、俺様の手がもはや麻痺してるのかなんなのか、呼吸のコの字も感じられない。
「やっべ。これまじやっべ。えっと、こういう時は保体で習ったあれだ。心肺蘇生法！　まずは周りにいる人に救急車を呼んでもらう。すみまっせーん、だれか１１９番お願いしまーす！　って、誰もいねぇよ。救急車これねぇよ。えっと、次！　あれだ、胸押すやつ！　の前に、顎を上げて気道を確保」
　藤坂の小さな顎をつまんで上げてやると、藤坂の全身が震えてしゃくりのような呼吸をゆっくりとはじめた。
「藤坂！　大丈夫か？　聞こえるか？」
　呼吸……してるように見えっけど、明らかにさっきより顔色が悪い。もはや死者の領域だ。
「なんだっけ……騙されちゃいけない呼吸……死戦期呼吸!?　やべぇ！　これはもっとやばい！　心臓止まってるよ！　ＡＥＤ……なんてねぇし、星（電流係）もいねぇし、織笠（蘇生係）もいねぇし、ここは人力でいくしかねぇ」
　とりあえず藤坂の胸の真ん中あたりに手の付け根を置いて両手を重ねてみる。
　場所はここでいいんだっけ？　もっと左か？　保体のテストにこの間出てたじゃねぇか。思い出せ。思い出せ。思い出せ。
「――いや、ここは一度冷静になろう。教科書通りの人体なんてありゃしねぇんだ。焦って変なとこ押したって意味ねぇよ」
　一度手をおろし、パニクった頭に隅々まで酸素を補給してやる。
「藤坂、今助けてやるからな」
　心臓の位置。一番下の肋骨からなぞって胸の真ん中にある胸骨を探す。
「あった」
　この部分に手の付け根を置いて両手を重ねる。指は肋骨を折っちまわないように丸めて、と。心臓は真上から、両腕を曲げないようにして圧迫する。
「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十……」
　一分間に八十回から百回って、どれくらいの速さだ？　一分間が六十秒なんだから、一秒よりも早く押してかなきゃなんねぇってことだよな？
　でも百回なんて到底続けらんねぇぞ。それに水飲んでることも考えれば人工呼吸も有効なはずだ。確か実習では何回か心臓マッサージしてから二回くらい人形のクラリスちゃんに息吹き込んだっけ。
「……人工呼吸って……キ……え、佳杜菜ちゃんともまだなのに……え……」
　あ、確かクラリスちゃんとはガーゼ越しだったな。ハンカチとかでもいいんだろ？
「って、ぜんぶ濡れとるわ！　しゃーねー。これは人命救助だ。人命救助。悪く思うなよ、藤坂。これはノーカウントだからな」
　リズミカルに動かしていた手を止めて、藤坂の顔の側に移動する。鼻をつまんで顔を近づけて……
「ヒューッ……げぇっほっ……げほごほげほがほげほ……」
　もう少しで唇が触れるという直前だった。
　藤坂の体が海老ぞりになり、藤坂は激しく咳き込みだした。
　俺様は急いで水を吐き出しやすいように体を横に向けてやる。
　そのあとのことは藤坂も女の子だ。詳しいことは避ける。
　藤坂の荒かった呼吸が正常に戻るまで何分かかったのか。残念ながら時計を見ていなかったから分からないが、俺様は背中をさすってやりながら我慢強く回復するのを見守った。
「どうだ、藤坂。少しは楽になったか？」
　まだ辛そうに呼吸をしながらも、藤坂は律儀にうなずく。
「ぁ……りが……と……」
　珍しいことに藤坂の口から俺様への感謝の言葉が漏れた。
　これは天災の前触れかもしれない。
　って、もう十分天災のような目に遭ってるよな。
「さ……む……ぃ」
　どうにかこうにか呼吸を軌道に乗せた藤坂が次に言ったのはその言葉だった。
　俺様も忘れていた寒さを思い出してぶるりと震える。
「こんな時科野がいてくれたらなぁ」
「マグマ」
「え？」
「マグマ。あったかい」
「おいおいおいおい、ちょっと脳みそやられたか？　マグマなんてあったかいどころじゃないだろ」
「地熱……」
　ぽつりと言った言葉に「ああ」と俺様は手を打つ。
　ちょっとばかし火山活動を活性化させてやれれば、この辺は結構地下深くだからすぐにあったまってくれるかもしれない。
『地下に横たわりし地脈に眠る岩漿よ
　目覚めて我が側近くまで巡りこよ』
「〈岩漿巡回〉」
「……相変わらず魔法名のセンスないわねぇ」
「なんだよ、せっかく人があっためてやろうってのに、元気じゃねぇか」
　言い返すと、わざとじゃないんだろうが藤坂は咳き込んでまた水を吐き出した。
「大丈夫か？」
「大丈夫よ。これで大体全部喉に詰まっていたのは出たと思うわ。助けてくれたのね。ありがとう、三井君」
　ようやく身を起こしたと思うと、藤坂は両手をそろえて俺様に深々と頭を下げた。
　す、素直じゃねぇか。
「どうってことねぇよ。当り前のことをしただけだ。当り前のことをな」
　心臓マッサージとか人工呼吸とか、結構ギリギリだったけどな。
　気恥ずかしさにそっぽを向くと、藤坂はいつも通り柔らかな声でふふふと笑った。
「三井君はお医者様に向いてるかもしれないわねぇ。普通だったらパニックで何もできないわよ、きっと。私、結構危なかったんでしょう？」
　医者？　俺様が？
　いやいやいやいや。そりゃ小さい頃の夢は小児科医だったけどよ。むかーし一回入院した時の担当のお医者さんがめっちゃかっこよかったんだ。前髪がつっとあげてよ、患者の俺様が小さいからって隠したり遠慮したりせずに一人前の人間として扱ってくれた上に丁寧に説明もしてくれてよ。かと思えば空いてる時間で絵本読みにきてくれたりとかさ。ほんと、ああいうのを医者の鑑っていうんだよな。って、それは置いといてだ。
「危なかったどころじゃねぇよ。たぶん、ちょっと死んでたぜ？」
「うん。そうだと思う。死んだお兄ちゃんに会えたから」
　お兄ちゃん？
　思わず振り向くと、藤坂は気恥ずかしそうに横を向いてしまった。
　珍しいな、この反応。
「兄貴いたのか？」
「ええ。十歳年の離れた兄だったわ。七歳の時に行った海で私が溺れて、兄が助けに来てくれたんだけど結局二人とも流されて……兄は結局遺体も上がらなかった」
「だからお前、水だめなのか」
　こくんとうなずいた藤坂の眼は、地底湖の湖面を見つめながら遠く十年前の海の様子を見ているようだった。
　ああ、だから昨日も守景たちの髪が濡れていたのに、藤坂は髪どころか体からも海の匂いがしなかったのか。初等部の時も転校してきてから一度もプールの授業の時いなかったもんな。優等生のくせに終わった頃合を見計らって保健室から出てきたりとかしてさ。
「これ、葵ちゃんや樒ちゃんたちには秘密ね。詩音でさえ知らないことだから」
「えっ、そんな重大なこと俺様に漏らしちゃっていいのかよ？」
「どうでしょう。私が後悔するかしないかは三井君次第ね」
「ずっり。そりゃねぇだろう。なんか裏があるのかと思っちまうぜ？」
「聞いてほしかったのよ。久しぶりに会えたから、つい口が滑ったの。忘れて？」
　藤坂に正面から見つめこまれて、俺様はうっと息を飲み込んだ。本性知らなきゃ十二分にかわいいんだよな。本性知らなきゃさ。それに今は弱ってるからかわいさ十倍増しだ。
「わーったよ。誰にも言わねぇし、言う気もねぇ。とっとと忘れとく」
「ありがとう」
　ほっとしたように藤坂は微笑んだ。珍しく、年相応の少女の微笑だ。いつもは堅物気取って悪魔のような微笑しか浮かべてねぇってのに。それだけでもどんだけ弱ってるかわかるってもんだよな。
「それにしても」
「ん？」
「三井君、前髪おろしてる方がかっこいいわよ」
「え？　う、あ……」
　地底湖の湖面を覗き込むと、せっかく向こうを出てくる前にオールバックにがつっとセットしてきた前髪が水に濡れて全部額に落ちてきてしまっていた。
「うぉぉぉ、見るな！　見るな！」
「なんでよ？　かっこいいのに。わざわざオールバックなんておじさんくさい髪形しなくてもいいじゃない」
「違う！　この髪型はな、俺様の憧れの先生の髪型なんだよ！」
「憧れ？」
「ガキの頃に入院した時の主治医の先生！」
「まあ、三井君でも入院なんてするのね」
「小一の頃の話だよ。肺炎で二週間程度だけどな。熱でだるいしつらいし動けねぇし注射痛いし、よくなっても絶対安静でまっずい薬飲まなきゃなんないしでもう最悪だったんだけどよ、佐久田先生は子供心のホントよくわかる先生で、俺様を一人前に扱ってくれた先生なんだ」
「もしかして今のポジティブシンキングな三井君があるのもその先生のおかげかしら？」
「かもな。なーんて、俺様なんてまだまだよ」
　よしよし、地べたも少しずつあったかくなってきたし、藤坂の顔色もよくなってきたじゃないか。これで喰いもんがありゃいいんだけど、ここじゃそうも言ってらんねぇよな。
「藤坂、動けそうか？」
　さっきまで死にかけていた奴に動けというのも酷なのはわかっていたが、いつまでもここでのんびりしているわけにもいかない。
「ここから出る策はあるの？　私、泳げないわよ？」
　藤坂は元来た道を帰ることを考えているんだろうが。
「いや、黄玉の間には戻らない。このまま突き進んで金剛石の間に突っ込む」
「このまま突き進んで？　奥は壁しかないようだけど？」
「俺様がどうやってこの空間を作ったと思う？　掘削だよ、掘削。このまま掘り進んでいけば、五分もしないうちに金剛石の間に合流できるはずだ」
「本当に？」
「本当。鉱の記憶にインプットされたキルヒース鉱山マップがそう言っている」
「それってあてになるのかしら」
「大丈夫。鉱が迷いに迷って作り上げた地図で、後年もその地図に基づいて鉱山開発がすすめられたくらいだから、位置関係くらいはあってるはずだ」
「はず、ねぇ」
「いいだろう。さっきだって俺様の勘で黄玉の間にたどり着けたんだから」
「まあ、そうね。任せるわ」
　不満げながらも藤坂は頷き、よいしょと立ち上がろうとした。
　が、やっぱりまだ無理だったらしい。
　しゃがんだ時点で重心を定めきれずにぐらぐらと揺れ、ごろんと横に転がってしまった。
「あら……」
　だよなぁ。やっぱり無理だよなぁ。
「よし、藤坂。乗れ。俺様がおんぶしてやる」
「え゛」
「え゛、じゃねぇよ。さっきまで死にかけてたんだ。ほんとはしゃべるのだって辛いんじゃねぇの？　でも藤坂をここに一人置いていくわけにもいかねぇからな。おぶさってるのも大変かもしんねぇが、そこは我慢して一緒に来てくれ。科野に会えばまた元気になるだろう？」
　藤坂は目を見開いて俺様を見つめている。
「映画の時のジャイアンってすごくいい人になるっていうけど……」
「ちっがーう！　俺様はいつもいい人だからね！　普段俺様いじめてんのはそっちだろ。いいから乗れ。足痺れてきた」
　そういって急かすと、ためらいがちに藤坂は俺様の肩に手を置いた。
「お願いするわ。光くんがいなくてよかったわね」
　確かにあのちびがいたらややこしいことになっていたに違いない。
「だな。藤坂は実際のとこ、ちびのことどう思ってんの？」
　ゆっくりと体重を乗せてきた藤坂を背負いあげて、俺様はためしに一歩歩いてみた。
　思ったより軽い。
「かわいいお隣さんよ」
「恋愛感情に変わる可能性は？」
「ないわね」
　うわ、即答かよ。
「ほんと、光がここにいなくてよかったな」
「光くんのは一時の気の迷いよ。小さい時から麗の記憶と一緒だったみたいだし、私が海だから気になるだけなのよ。ぜんぶ片付けば、私のことなど思い出しもしなくなるわ」
「ぜんぶ片付けば？　不穏なこと言うなよ。それっていつになるんだよ」
「いつかしら。工藤君なら知っていると思うけど」
「親父とお袋が見てた預言書って、今の工藤でも見られんの？」
「そうみたいね。だから樒ちゃんも私も葵ちゃんも、別荘に呼ばれたんだと思うわ。三井君のサポートをするために」
「俺様のために？　って、今回相当被害出てんじゃねぇか。先がわかってんならあらかじめ被害抑えることくらいできんじゃねぇの？」
　同じことは、神界時代にも言えることだけど。
「変えられないのよ。予言書の未来は変えられない。全てがそこに記された結果につながるように進んでいくの。未来を変えるために策を弄しても、結局はその策のせいでその未来を引き寄せることになる。あれはそういうものなの。未来を知ることはできても、変えることはできないのよ」
「なんだよそれ。何の意味もねぇじゃねぇか。一体何のために書いたんだよ」
「そうね」
「もし悪い未来ばっかり書いてあったら、それこそ絶望させるために書かれたようなもんじゃねぇか。って、あれ、その予言書って誰が書いたんだ？　藤坂、知ってる？」
　藤坂からは返事がない。
「おい、藤坂。生きてっか？」
　ふーっと長い溜息が首元にかかる。
「三井君は本当に勘が鋭いのね」
「なんだよ、それ。知らないことがいいこともある、とか煙に巻く気じゃねぇだろうな？」
「ねぇ三井君」
「なんだよ」
「この先もし、何かが起こって、誰かが許され難い過ちを犯しつづけたとしても、どうかその子の味方でいて。その子を信じてあげて。他の誰が背を向けてしまおうとも、三井君はわかってあげて。受け入れてあげて。そうせざるを得なかったのだと」
　藤坂の声は消え入るようにか細く、泣きそうな色をしていた。
「なんだよ、それ」
「予言書は間もなく終わるわ。終わったページから、ようやくあなたたちの真っ白い未来が動き出す。絶望に沈むのか、希望の未来に飛び立つのか」
「おいおい、臨死体験中に中学校の卒業式でも見てきたのか？　なんだよ、さっきから聞いてれば卒業式の生徒じゃなくて先生みたいな言いかたしやがって。まるで藤坂は当事者じゃないみたいじゃないか。その子を信じてあげて？　まずは藤坂が信じてやればいいじゃないか。藤坂さえ信じてやれば、俺様が信じて見せるよりよっぽど周りの奴らも信じるぜ？　その子だって藤坂が信じてやるのが一番ありがたいんじゃないのか？」
　心なしか肩に回されている両手に力が込められたような気がした。
「私はきっといないから。だから、お願い。三井君の為人を見込んでお願いするのよ」
「為人って……」
　気のせいか藤坂は泣いているようだった。
　首筋にあったかいもんが伝い落ちる。
「言って。任せろって。俺様に任せろって言って」
「んな、安易に言えるかよ。内容もよくわからないのに」
　ふふっと藤坂は笑ったようだった。
「だから任せられるのよ。実は慎重な三井君だから。いい？　何があっても三井君は絶望してはだめよ？　誰を疑ってもいけない。みんな自分の信念に基づいて動いているだけだから。わからなくなったらその人の考え方をトレースしてみるの。何故かがわかれば、疑いも晴れ、次の策も立てやすくなる」
「軍師様かよ」
「そうよ。あなたは今のままでは憧れの小児科医にはなれない」
「うっ、なんで進路希望医学部って書いたこと知ってんだよ」
「ふふふ。いいこと？　絶望の淵に投げ込まれても、必ず目は覚めるわ。そこでは一度あなたは政治家を務めなければならない。統仲王の補佐役としてね。そしてばらばらになったみんなをまとめあげるの。調整役だもの。きっと一番辛くて難しくてバランス感覚が必要な役どころよ。でも絶対に投げ出さないで。それができるのはあなただけ。そうやって作った未来の向こうで、あなたはようやく夢を叶えられるかもしれない」
「……スミマセン。愚考するに、藤坂が今すぐ俺様を絶望の淵に落とし込もうとしているとしか思えないんですが」
「今は忘れてもいいわ。目の前に果さなきゃならないことがあるんだから。でも、いつか思い出す日が来るわ。必ずね」
　藤坂、お前臨死体験で兄貴に会った以外に一体何見てきたんだよ。
　突っ込んでやろうかと思ったが、藤坂がそれしか口に出せないのであれば、それ以上何も引き出せやしないのだろう。
　絶望の未来？　希望の未来？
　二者択一だって言われたって、そんなの選ぶ方は決まってる。
　希望の未来だ。
「藤坂の話を聞くに、最善を尽くせば最善の結果が返ってくるってことでいいんだよな？　それなら俺様に任せろ。俺様はいつでも最善を尽くす男だ」
　ぷっ、と藤坂は笑った。
　吹き出しながら俺様の背中で笑ってるのに、何やら切なそうだった。いくつか涙が俺様の首筋におっこってきたせいかもしれないけど。
「あなたは私の希望よ、三井君」
「!?　え、えぇ～っ？　いやー、褒めすぎでしょう」
「だからさっさと前、進みましょうか。いつまでも負ぶわれてるの、誰も見てなくても恥ずかしいのよ」
「あ、はい。ただいま。――〈掘削〉！」
　大きめの爆発音が洞内に轟き、もうもうと上がった土煙がおさまった先には、まっくらではあるが新たな道ができていた。
　俺様は藤坂を背負い、もう片方の手で壁に触れながら歩き出す。
「なぁ、藤坂。現在ってのはこうやって真っ暗闇歩くのと変わりないよな。一寸先は闇ってこういうことだろ？　わかんねぇだろ、未来がどう転がるかなんて。だからさ、藤坂も自分はいないかもじゃなくて、いられる未来になるように頑張れよ」
　答えはなかなか返ってこなかった。
　何度かの掘削ののち、結構あてずっぽうだったにもかかわらず金剛石の間のダイヤのきらびやかな輝きが闇の向こうに見えたとき、藤坂はようやくひそめていた息を吐き出してこう言った。
「そうね。そうかもしれないわね」
　希望を信じられる人間と、信じられない人間と。
　二つのパターンがあることを、俺様はまだ知らなかった。
　心が強いか弱いかで、信じられるものも信じられなくなるなど、俺様はまだ知らなかった。
　藤坂はきっと、俺様が心が強い人間だと思ったんだろうな。だからあんなことを言って俺様に託し事をしたんだ。
　ダイヤモンドは鉱石の中でも一番硬い物質だって言うが、強い心を持つ人間ってのもさ、それこそダイヤモンドのような心を持ってるんだと思うぜ？　透明でキラキラ輝いていて混じりけがなくて。あれは純粋だから強いんだろうな。心もそうだろ？　疑うことを知らない純粋な心だからこそ、強くいられるんだよ。
　俺様は残念ながらそうじゃない。
　無垢な心のままでいられる年はとっくに過ぎたし、晩年最悪だった鉱の記憶まで抱えている。
　俺様の心は混じりけだらけだ。
　そんな俺様でもさ、一度約束したことは守れたらと思うんだ。
　何があるんだかは知らないけどさ。
「あ、桔梗ーっ！　三井ーっ！」
　金剛石の間では約束通り、錬、誠、科野、河山が先について首を長くして待っていた。
「ほらな。大人しく待ってて正解だったじゃないか。ここで二手に分かれて探しに出たら、永久に合流できないとこだったぞ」
　得意満面に科野が言い、俺様の背中から降ろされた藤坂に肩を貸した。
「桔梗、三井に変なことされなかったか？　襲われなかったか？　どうしてこんなに弱ってるんだ？」
「心外な。俺様は何にもしてないぞ。ただ心臓マッサージと人工呼吸を……」
　はっと口が滑った時にはみんなの冷たい視線が俺様の全身に千本の矢となって突き刺さっていた。
「口の軽い男」
　藤坂は明らかにさっき俺様に話したことはすべて無駄だったという目で俺様を見ている。
「いや、ご、誤解だ！　心臓マッサージはしたが、人工呼吸はできなかった。じゃない、しなかった」
「やだぁ、今できなかったって言ったぁ」
「ま、間違えたんだよ！　人たる者誰しも間違いくらい犯すだろう」
「父さん、今の、母さんに会えたらしっかり伝えてあげますね」
「や、やめて、錬」
「エロ徹。わざわざ後に残ったのはそういう魂胆だったか」
「ちがっ。誠までそんな」
「科野連れてきといてよかった」
「ちょっ、河山、お前今思いっきり個人的な意見だったな」
「行こ、桔梗。こいつにこれ以上近づいたら妊娠する」
「さーせーるーかーっ！　もうほんとっ、みんな誤解だから！　お願い、わーすーれーてーっ！」
「あー、行こ行こ」
「おう、行こう行こう。こんな奴おいて先行こう」
「父さん、母さんは私たちだけで無事に救い出して見せますからね」
　なぁ、藤坂。
　これほど人望のない俺様に、いったい何を調整しろと？　いったい何を信じろと？
「てゆうか藤坂、頼む！　俺様の誤解を解いてくれ！」
　誰もいなくなった金剛石の間に、俺様の叫びは虚しく響いただけだった。

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