聖封神儀伝 2.砂 剣
第3章  親と子


『そんなにさみしいなら、龍に会いに行けばいい。夜這いなんて方法じゃなく、ちゃんとドアからこんばんはするんだ』
 炎姉さまの言葉が何度も何度も頭の中でぐるぐるとまわっている。
 会いに行けばいいって。会いに行っていいって。
 でも――ユジラスカの愛人さんって……そんな人がいるの、本当に? 龍兄は何も言ってくれないし、お城の人たちだってそう。みんな仲良しだと思ってたのにずっと隠し事してたなんて。
 龍兄、今夜はお城にいるかなぁ。
「聖様、まだ寝ていらっしゃらなかったのですか? もう遅い時間ですから灯を消しますよ。さ、お布団に入ってください」
 目くじらを立てはじめたパドゥヌに大人しくしたがって、聖はお布団の中にもぐりこんだ。
「いかがなさいました?」
 大人しくお布団をかぶったつもりだったのに、こういう時にやたら勘の働くパドゥヌは何かに気づいたらしい。
「なんでもない」
 ごろんと反対側に体を向けて丸くなる。
「本当ですか?」
 パドゥヌはわざわざ反対側に回り込んできて聖の顔を覗き込む。
「ほんとうだよ」
 聖はまた反対側に体を転がす。
 パドゥヌは一つため息をついたようだった。
「聖様、今日は炎様と鉱様がおいでになってさぞかし楽しかったことでしょう。はしゃぐ気持ちはわかりますが、明日はまたお勉強があるのですから、しっかりと眠って体力を回復しなければいけませんよ?」
「はーい」
 適当にお返事を返すと、パドゥヌはまたため息を一つこぼした。
「おやすみなさいませ、聖様。よい夢を」
 耳元で優しくささやかれて、胸がぽっとあたたかくなるのと同時にちょっと痛んだ。
 発作じゃない。ざいあくかん。
 灯が消され、パドゥヌが出て行って扉が閉まり、足跡が遠ざかっていく。ずっと耳を澄ましつづけて確実に聞こえなくなったところで、聖はそっとお布団から抜け出した。
 隠しておいた外出着に袖を通す。
 髪はこの暗いところじゃきれいに結えないからこのままでいいや。
「炎姉さま、パドゥヌ、ごめんなさい」
 小さくつぶやいて、聖は〈渡り〉を唱えた。
 幸い、体には何の負荷もかかることなく、そこは天龍城でいつも聖が使っているお部屋になっていた。
 カーテン越しからうっすらと外の灯が入り込んできている。カーテンをくぐって窓から外を見ると、龍兄のお部屋にはまだ灯がついていた。
「いる」
 そうとなれば正面からこんばんはするまで。
 扉を静かにあけて誰もいないことを確認し、廊下に出る。
 あとは誰かに会ったとしても、さっき普通に来たのだと思ってもらえるように堂々としていればいい。現にすれ違う者は皆一様に「こんばんは」と笑顔で挨拶をして通り過ぎていく。誰も聖がここにいて変だなんて思う人はいない。
 自信がついてきたところだった。
「あれ、聖様」
 向かいから来たのは龍兄の守護獣の翡瑞だった。
 まずいのが来ちゃったなぁ。小っちゃく見えて、あれでいろいろと鋭いんだよなぁ。
 思わず顔をそむけると、翡瑞は特に気にした様子もなく近づいてきた。
「いらっしゃってたんですね。次にいらっしゃるのはもう少し先のことだと思っていましたよ」
「え、ああ、そうね。もう少し先の予定だったんだけど……ちょっと龍兄にお話があって」
「どのような?」
「翡瑞にも言えないことだよ」
「それはまた……。ですが、今宵龍様はお忙しいですよ。今夜も徹夜でお仕事のご予定です」
 灯がついていたからもしやとは思っていたけど、やっぱり忙しいのかぁ。
 ううん、でもまだわかんないよ。そう言っててユジラスカの愛人さんのところに行く気かもしれないし。
「じゃあ翡瑞、眠れるようになるまで一緒に遊んで?」
 誘うと翡瑞は明らかにぎくっとした顔をした。
「いえ、聖様とままごとごっこなどとんでもない。それは未来の旦那様となさるべきことでございますゆえ、僕にはそんな大役は務まらないというか……」
 翡瑞ったら何を勘違いしてるんだろう。ままごとごっこはさすがにもう卒業したのに。
「そっかぁ、残念だなぁ。お仕事?」
「はい。ちょっと頼まれていることがございまして」
 そういうと翡瑞はそそくさと聖から離れていった。
 翡瑞がお仕事っていうことは、龍兄は外に出るんだ。それも歩いてだけではたどり着けないところまで。例えば、天龍城の上空に浮かぶユジラスカの森とか。
 翡瑞の痕をこっそりつけてみると、予想通り翡瑞は龍兄のお部屋の中に入っていった。
 物音も話し声も聞こえてはこない。そりゃそうだよね。壁も扉も分厚いもの。
 しばらくすると、部屋の灯を消して龍兄と翡瑞が部屋から出てきた。
「夜はまだ寒いですからね、そんな薄着で大丈夫ですか?」
「かまわん」
 カツカツカツカツと龍兄の靴音が廊下に響きながら聖の前を通り過ぎていく。
「そういえば、聖様がいらっしゃってましたよ。そうだ、龍様にお話があるっておっしゃっていましたけど……あれ、いらっしゃいませんでしたね。すれ違いになっちゃったかな」
「聖が?」
 カツコツコツ……カツ。
 靴音が止まる。
「ほかに聖刻の国の者は来ているのか?」
「いえ、それは……確認はいたしませんでしたが……僕が下にいたときは誰も来客なんてありませんでしたね」
「あいつ、使ったな」
 龍兄はくるりと踵を返すとお部屋の方に戻りだす。と思いきや、聖の隠れている柱の前で止まった。
「聖、出てきなさい」
 うわぁ、恐い声。
 怒ってるな。
「聖!」
 うまく隠れて気配も押し殺したつもりだったんだけど……
「影がこっちまで伸びてるぞ」
「あ」
 後ろから照らされた灯が伸びて龍兄の足元にたどり着いてしまっている。
 声も漏らしちゃったし、これじゃあ逃れようはない。
 こそっと聖は柱から顔を出した。
「こんばんは、龍兄」
 笑顔を作ってみるけど、龍兄はしかつめしい表情を崩す気はないらしい。
「話とはなんだ?」
 うわぁ。挨拶もなしでいきなり本題に入っちゃった。
 これは相当怒ってるなぁ。
「えっとー、お話っていうのは、その……」
「〈渡り〉を使ったのか」
「は……い……」
「具合は?」
「大丈、夫」
「顔色が悪いが」
「灯が背になってるせい、かな」
 えへへ、と笑ってみせるが龍兄が追従する気配はない。
 これじゃあ、ただ龍兄の顔が見たくて、なんて言えないよ。
 龍兄はこれ見よがしにため息を一つつく。
「翡瑞、聖を送ってやれ」
「えっ」
「えっ!?」
 翡瑞と聖と同時に驚いた声を上げたんだけど、龍兄は翡瑞の方だけを振り返ってじろりとにらんだ。
「で、でも龍様、今日は……」
 さらに続けようとした翡瑞をもう一度にらんで、龍兄は聖の前から身を翻して自室へと戻っていく。
「待って!」
 聖は慌てて追いかけて龍兄の背に抱きついた。
「勝手に来てごめんなさい」
「それだけか」
「〈渡り〉を使ってごめんなさい。あのね、でもね、今日炎姉さまと鉱兄さまがいらっしゃって、どうっしても龍兄にも会いたくなっちゃって」
 龍兄はふーっ吐息を長く吐き出した。それからおもむろに振り返って聖の前に片膝をついてしゃがみこむ。
「聖刻の国はさみしいか?」
「……」
 そんなんじゃないよっていう声と、ぎくりという胸の音が同時に聞こえた。
 さみしい。
 そう言おうとして開いた口が何も言わずに閉じた。
 さみしくないよ。
 強がろうとして開いた口が、やっぱり息だけを飲み込んで閉じてしまった。
 正解なんてわからなかった。
 この気持ちが言葉で表現できるものなのかどうかも分からなかった。
 だから、聖は龍兄の胸に飛び込んで、首に両腕を回して抱きついた。
 これで分かってくれるでしょう?
 龍兄も聖の背に軽く腕を回してぽんぽんとしてくれた。
「聖、甘えたいのはわかるが、お前も法王という立場をそろそろわきまえなければならないよ。城にいるはずの法王がいつの間にかいなくなっていたら、城の者は皆びっくりして混乱するだろう? お前はここに来る前にパドゥヌの気持ちは推し量ったかい? 自分が何も言わずにいなくなったらパドゥヌがどれほど心配するか、少しでも考えてみたかい?」
「……」
「〈渡り〉を使ったと聞いて、私がどれだけ聖のことを心配したかわかるかい?」
「ごめん……なさい」
 聖はようやく謝りの言葉を絞り出す。
「わかったらもう二度とこんな勝手なことをしてきてはいけないよ」
 ずきりと龍兄のその言葉が胸に刺さった。
「でも会いたかったの。どうしても、どうしても龍兄に……」
 声が詰まったかと思うと涙がぽろぽろこぼれだしていた。
 龍兄は困ったように聖を見ている。
「龍兄、今夜はどこに行くつもりだったの? お仕事? こんな夜遅くから? 翡瑞だけ連れて?」
 ようやく聞きたかったことを口にした瞬間、龍兄の顔色はさーっと変わった。
「炎と鉱に何か言われたのか?」
「違うよ。炎姉さまと鉱兄さまは何にも言ってないよ」
「じゃあどうしてお前がそんなに不安になる必要がある? それとも城の者か?」
「違うよ! 全部違う! ねぇ、どうして仕事だよってすぐに言ってくれないの? 今夜もお仕事なんでしょう? 今まで夜徹夜するって言ってたのも忙しいって言って聖と一緒に寝てくれなかったのも、全部お仕事だったからなんでしょう?」
 吐き出して、途端に恥ずかしくなった。
 何言ってるんだろうって我に返ってしまった。
 全部お仕事だなんて、そんなわけ、ないのに。
 ユジラスカの愛人さんって、誰?
 かろうじてその言葉だけは飲み込んだ。飲み下した。胃が真っ赤に焼けた気がした。
「龍兄、大きくなったら聖のことお嫁さんにしてくれるんだよね?」
 龍兄の蒼氷色の瞳が揺れた。
「嘘でもそうだよって、言ってくれればいいのに」
 聖は龍兄の腕を振り払って目の前で〈渡り〉と唱えてやった。
 身体はすぐに聖刻の国の聖の部屋に戻ってきていた。
 でも、息が苦しい。胸が押しつぶされている。
 ゼー、ゼー……ヒュー、ヒュー……
 ベッドに腕をかけて背中を丸めて何とか痛みと苦しみを凌ぐ。
 これくらい、なんてこと、ないんだから。
 なんてこと……
 また涙があふれ出してきた。
 どうして聖、こんな身体に生まれちゃったんだろう。
 法王なのにどうして健康な体で生まれなかったんだろう。
 きっと、愛優妃のせいだよね。
 この身体が脆弱なのも、聖が龍兄の妹なのも、いつまでも小さいままなのも、ぜんぶ愛優妃のせい!
 龍兄なんか嫌い。嫌い、嫌い、嫌い……大好き……。
 どうしたんだろう。矛盾してる。すごく好きなのに、すごく嫌いだなんて。
 やっぱりもっとちゃんとお話ししたかったよ。
 でもお話して……ユジラスカの愛人の所に行くとわかったら?
 行かないでって、言える?
 もう二度と行かないで、なんて、言える?
 言って、聞いてもらえる?
 聞いてなんか、もらえないよね。聖、子供だもん。大人は子供の言うことなんて何も聞いちゃくれないんだ。きっと龍兄も同じだね。
『聖、夜這いだよ。龍兄貴に夜這いをかけるんだ』
 不意に鉱兄さまの声が聞こえた気がした。
『まずは聖も大人になる。聖は時を操れるだろう? 一晩だけ成長を早めるんだよ』
「大人に……なる……聖も、大人に……」
 二十歳くらいがいいって言ってたっけ。
 発作は鎮まりはじめている。
 聖は床を這って鏡の前にたどり着いた。
 色の悪いあどけない顔。小さな身体。ぺったんこの胸。
「二十歳って、何百年分かな。あと十歳上だから……」
『わが体内に宿りし時の精霊よ 目覚めよ
 先立ちて我が身 望みの歳月まで導きたまえ』
「〈成長〉」
 ずんっ、と胸に重い大きなボールをぶつけられたような思いがした。肺が押しつぶされて、手足の関節が高熱にうなされたときのように軋みを上げる。
「う……ぐ……っ……」
 それに耐えると今度は顔や頭やお腹の中までがぐちゃぐちゃと引っ掻き回されるような痛みが走った。
 あまりの痛みに一瞬意識が遠のく。
 ふ、と意識を取り戻した時、鏡の前には知らない女性がいた。
 だけど床に長く伸びた髪は右と左で濃さが違う。瞳の濃淡の色も左右で違う。
「これが……二十歳の聖……」
 破れた衣服の合間から垣間見える胸は、残念ながら洗濯板とあまり変わらなかったけど、手足が伸び、鏡伝いに立ち上がってみると視界もかなり高くなっている。
「これが、二十歳の“私”」
 鏡に映ったふっくらとした唇をなぞってみる。
 色っぽいかどうかはわからなかった。
 でも、もう一度〈渡り〉で龍兄の所に行く覚悟はできていた。
「これなら私を選んでくれるかな、龍兄……」













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