聖封神儀伝 2.砂 剣
第3章 親と子
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朝日が昇りゆく中、外の世界はいつもと変わらない朝になっていった。わたしは病室に帰る気にもなれなくて、外をふらふらとさまよっていた。
海辺沿いは昨日と変わらず波が寄せては返していくけど、砂浜にわたしの足跡は残らない。わたしの足は濡れることも冷たさを感じることもない。昨日より一層現実に対する影響力のようなものが少なくなっているのは気のせいだろうか。
海辺を歩いていくと昨日泳いだ工藤君のプライベートビーチにたどり着いた。さすがに今日は泳ぐ人もいなければ犬を散歩している人もいない。もう少し進むと昨日のサッカーコートが松林の向こうに見えた。
わたしは引き寄せられるようにそのサッカーコートに向かった。
サッカーコートは昨日の爆発の跡が生々しく焦げついて残っている。警察の人が張っていったのだろうか、黄色いテープが一面に張られている。
合宿所に向けて転々とついた焦げ跡は、昨日藺柳鐶が洋海と三井君の彼女を追いかけて付けた跡だ。海側のあの金属製ピラミッドがあった場所は派手に中心がえぐれている。
えぐれた中心に立ってみると、そこはわたし一人立っても頭が地上に出ないほど深くえぐれていた。まるで隕石でも落っこちたみたいだ。コート中には飛び散った黒い欠片がまだそのままになっていた。現場検証も途中なのだろう。
ふと、縁の上に誰かの影が揺らいだ気がした。
こんな朝早くから警察もお仕事か。犯人が捕まることはなさそうだけど。
人影は円周に沿って俯きながら歩いていく。まるで何か調査しているみたいだ。
「半径七.五ロガー。炸薬量はおよそ五トラム。爆圧四十七カルタン……キヒヒ、なかなか加減して作ってある。いい出来だ」
キヒヒ?
「藺柳鐶!?」
思わず叫んでしまってから、はっと身を隠す場所もないことに気が付く。いや、でもでもわたし今幽霊だから大丈夫! なんて自分を励ました途端に、猫背の男はじろりとわたしを見た。
「ひっ」
やっぱり昨日の藺柳鐶だ。すがすがしい朝のせいか昨日より余計陰気くささが際立って見えるけど、あの薄汚れた白衣に無精ひげ、ぼさぼさ頭に曇ったメガネ、間違いない。
それにしても、昨日のあのご本人様がこんな朝早くから現場検証?
見つかったからには仕方ない。聞いてみよう。どうせわたしに害は為せないんだし。
「何してるの?」
「お前こそ、何してる」
ん? なんか変だな。なんだろう。
「わたしは……ちょっと昨日の痕がどうなってるか見に来ただけよ」
「私もお前と同じだ」
やっぱりなんか変。調子が狂うっていうか、スムーズに進みすぎるというか。
そうだ、それだ。
しゃべり方がスムーズなんだ。
昨日の藺柳鐶はもっとこう抑揚がおかしいっていうか、壊れたロボットボイスっぽかったけど、今日の藺柳鐶は流暢なんだ。
「昨日の製作物の成果を検証している」
「製作物……成果……」
なんかずれてるような? これだけ周りに害をなしておきながら、その害を成果と呼んだり、爆弾のことを製作物なんて呼んだり。
気づくと、藺柳鐶はじっとわたしを見つめていた。
「お前、私が見えるんだな」
わたしは首を傾げた。
「あなたもわたしが見えるのね」
向こうも首を傾げる。
「お前も死んだのか?」
腕組みをして考え込んだ挙句、藺柳鐶が放ったその一言は別な意味でわたしを驚かせた。
「あなたも死んでたの? いつの間に? 昨日はあんなにぴんぴんしながら鉱土の国に帰ってったじゃない。三井君の彼女さん連れて。ああ、それとももしかしてもう三井君にやられたの?」
藺柳鐶は再び首を傾げる。
「あれは私ではない」
「私ではない? じゃあ、あなたは誰?」
「藺柳鐶だ」
わたしも再び首を傾げる。
「藺柳鐶じゃない。昨日の」
「いいや、昨日のあれは私ではない」
再度否定されてわたしの頭はこんがらかる。
「昨日のあれは私ではない。私はとうに死んでいる」
「死んでいる? とうにって、いつ?」
「一千年くらい前だろうか」
「それは随分と前……って、わたしたちとあまり変わりないじゃない!」
「第三次神闇戦争で西方に出撃し、鉱土法王と相打ちになって死んだ……はずだ」
「鉱兄様と?」
苦笑を浮かべる猫背の男の背筋はいつの間にか伸びている。
「聖様、だな」
そう呼ばれてわたしはちょっと視線をそらす。
聖は病室です。と呟きそうになって、あまりにもつまらなくて呑み込む。
「どうして知ってるの?」
「鉱土法王を兄様と呼ぶのは妹の聖刻法王くらいだろう?」
「え、あ、まあそうだけど」
「なんてね。メルからの受け売りだよ」
もう一人の藺柳鐶は懐かしそうに目を細めて微笑んだ。
あれ、なんか笑うとすごくいい人っぽく見える。意外と笑顔は爽やかかも? メガネは汚いけど。
なんだろ、朝陽のせいかな。
「メル? メルって?」
「おや、転生して忘れてしまったの? 君の姪っ子だろう?」
「やっぱり、メルーチェ? メルーチェのことを知ってるの?」
もう一人の藺柳鐶は苦みを含んだ微笑を浮かべて空を見上げた。
「どこ? どこにいるの? 生きてるの? 錬みたいにまだ生きてくれてるの? 闇獄界に攫われて行方知れずになっていたけど、あなたどこにいるか知ってるの?」
「鉱土法王に知らせなきゃって勢いだね」
「当り前よ! もし生きていてくれたら、三井君でもどんなにか喜ぶことか」
「でも、知らない方がいいこともある」
苦みを含んだ苦笑は変わらない。でもその言い方は一言一言噛んで言い含めるようだった。
「二人がそれと気づいてくれるならいい。でも、君の口から教えることはしない方がいい」
「どういうこと?」
「そのままの意味だ。君は、たとえ知っても二人に教えてはいけない。いや、知ったら教える気になるかどうか」
「謎かけって苦手なの」
「謎かけなんかじゃないよ。だから私も教えない」
思わずいじわる、といいかけて言葉を飲み込む。なじるような相手でもなければ、なじって教えてくれるわけもない。
「でも、生きていたのは確かなのね。闇獄界に攫われても」
「それは……私がメルと会ったのは神界でだよ。キルヒース鉱山にくさくさしながら迷い込んできた彼女に出会ったのが初めだ」
クククと思い出し笑いしているもう一人の藺柳鐶は、闇獄界人のくせに意外と幸せそうだ。
「たまに神界人が時空の歪に落ちて闇獄界に来てしまったり、闇獄界人が神界に迷い込んでしまう話は聞いたことがあるだろう? 私も闇獄界から時空の歪に落ちて神界に行ってしまったクチなのだよ。それもキルヒース鉱山の真っ暗闇の中だった。夜目が利くから怖いとは思わなかったがね、いかんせんかなり奥の方に落ちてしまったらしく、ほんとに誰も来ないんだ。だからそこが神界だと気付いたのは彼女が迷い込んできた時だった。――ああ、幽霊の昔語りは退屈かい?」
こうしてみると闇獄界の人だといわれても、ただの人にしか見えない。人間とも変わりない。話していることだっていたって普通だ。
わたしは首を横に振ってもう一人の藺柳鐶の方に向かっていった。
「どうしたらいいか途方に暮れていたの。退屈なんてとんでもない」
「どこか座るところでもあればいいんだけどね。ああ、あそこの観覧席がちょうどいいか」
観覧席は前方部分がちょっと崩れていたけど、後ろの方はまだ座席が残っている。プラスチックの椅子の上に座ると、一つあけてもう一人の藺柳鐶も腰かけた。
「嬉しいものだね。こうして話せる相手ができるっていうのは」
「ずっと話し相手がいなかったの?」
「見える人がいないみたいでね。弟子も私の姿が見えないときてる。でも私の心残りは弟子のことだけだったから、それからひたすら一千年間弟子のことを見守り続けてきたわけだ。弟子も人嫌いだったからずっと部屋にこもったままだろう? 余計に私のことが見える人は誰もいなくてね。本当、一千年ぶりに会話らしい会話をしているよ」
この人、一千年間も一人だったんだ。そう思ったら、時の遠大さを推し量るよりも早く自分のことのように胸が痛んだ。
「寂しくなかった?」
「そりゃ寂しかったさ。初めは何度も弟子に気づいてもらおうといろいろしてみたんだけどね、てんで無反応で。でも本当、もう見守るしかなくなってしまって。何もできないんだ。弟子が泣いてても、肩を抱いてやることはおろか慰めの言葉一つ届かない。いけないことに手を出そうとしていても、引き留めるために腕を捕まえることさえできなかったんだ。本当、虚しいことこの上なかった。今だって同じだけどね」
「お弟子さんのこと、大好きなんですね」
「大好き……そうなのかな。好き、というのとは違う気もするけれど。ほっとけないっていうのかな。小さいころから知ってたから。でも俺は本当に何もできなくて。何もしてやれなくて。本当に不甲斐ない……父親のようなものだったんだと思うよ」
「お父さん……」
「そう、そんな感じ。血なんか繋がっていないけどね。でも面倒見てやりたくて仕方ないんだ。闇獄界人なのに変だろう?」
龍兄の世話焼きっぷりを思い出して、わたしはぷぷっとひそかに笑った。
「闇獄界にもそんな人がいるんですね」
「ま、ね。でも俺は変わっている部類だったんだと思うよ。現に一人でいることの方が多かったし、科学者内でもそう仲のいい奴なんかいなかったし。ああいう世界ってさ、意外と他人との繋がりが物言うんだけど、俺の場合は研究で成果だして、存在を思い出させる感じだったかなぁ。自慢じゃないけど、その道じゃ俺、一番だったんだよ」
ふんっと胸を張って見せているあたり、人懐っこいというか、陽気というかなんというか。そんなところがどことなく鉱兄様と重なる。
コートに残されているのは昨日の爪痕。別な藺柳鐶が撒いていった爆弾の「成果」。
「その研究って、爆弾の研究ですか?」
もう一人の藺柳鐶はコートの遠くを見たまま答えなかった。
「その子は、法王の娘なのに精霊の加護が得られなくって魔法が使えないからって、いろんな人にばかにされるってイライラしながら泣いていたよ。自分も人の役に立ちたいのに、魔法が使えなければ闇獄界から守ることもできないし、人々の生活を楽にしてやることもできないって。だから俺、言ったんだ。自分が何かしてやるんじゃなく、人々が自分で何かをできるようにしてやることの方が、長い目で見れば大切なんじゃないかって」
「それって、メル……?」
「白衣のポケットにはちょうど研究途中の火薬が一握り。ライターが一つ。行き止まりの壁の前に一つまみ撒いて、火の粉を散らしただけで洞窟の壁は見事に人一人通れるくらい穴が開いたよ。手品みたいだって言ってたっけ。それとも闇獄界人も魔法が使えるのかって。闇獄界でも魔法が使える奴は使えるし、使えない奴は使えない。そう言ってやったらなんか安心したような顔してたっけ。それからこう言った。神界も闇獄界も人に変わりはないのかもしれないって。俺もそう思うよ。薄暗いところで生きるのと、これくらい眩しいところで生きるのじゃ考え方も何も変わってくるだろうけど、根本的なところは同じなんじゃないかってね。本当は争うことさえおかしなことなんだ、きっと。まあ、争うための道具作ってたのは俺だったんだけど。でも、争いに用いる以外にも火薬は使い道がある。あの鉱山にはその原料がたくさん埋まってた。俺は彼女に、火薬の作り方を教えた。爆発の威力を調整すれば、魔法が使えない人でも楽に鉱山の道を開けるから使ってみればいい、と」
「あなたが……メルに火薬を教えた人だったのね」
メル一人が火薬作りに夢中になっている間は、統仲王は何も言わなかった。でも、人々に火薬の作り方を教えだした途端、統仲王はいつもの好々爺ではなくなってしまった。聖はその場にはいなかったけど、メルーチェへの注意は注意だけにとどまらず、危うく闇獄界送りにまでされそうになったのだという。それを父親の鉱兄様が何とか宥めて鉱土宮への期限なしの蟄居で済んだんだけど。火薬の研究はもちろん禁止され、人々の間に伝わりかけた書物もすべて燃やされ。それはもう、火薬の研究が悪魔の所業のごとく流布され、かたく禁じられた。メルは失意のどん底だったみたいで、そこに持ち上がったのが東方将軍藍鐘和との結婚話だった。メルは乗り気じゃないって話だったけど、結局は藍鐘和とお見合いをする前に鉱土宮が闇獄軍に襲撃されて攫われていってしまった。
「へぇ、そんなことになってたのか……。統仲王って噂にたがわず頭固いんだな。よく愛優妃様が愛想尽かさなかったものだ」
「愛優妃、様? あなたたちでも様をつけるのね」
「そりゃね。うちの女神様だから」
「神界では愛優妃は闇獄界侵攻を食い止めに渡ったって言ってたけど、闇獄界では女神様扱いなのね。一体なんて言って女神にまで上り詰めたのやら」
「そんなの簡単さ。一言、闇獄界は神界のために存在しているのではありません、って言っただけだ。俺も生で聞いたけどね。幼心に心強い思いがしたもんだよ。ああ、この人のために働きたいって」
「愛優妃のために?」
みんながみんな、そう言う。愛優妃様のために働きたい、って。愛優妃ってそんなに偉大な女神だったのかしら。そんなに素晴らしい人だったのかしら。生まれたばかりの赤ん坊を置いて出て行って二度と戻ってこなかった人なのに。
ああ。それとも闇獄界の人の精神も操ってしまったのかしら。統仲王は物質、愛優妃は精神を司るって聞いたもの。
するともう一人の藺柳鐶は見抜いたようにこう言った。
「たとえ精神を支配されてのことだったとしても、恨む気なんてないね。支配しようとしなくたって、心を持っていかれることはあるだろう? お嬢さんくらいだと、例えば恋とか」
「こ……っ」
一瞬目の前に夏城君がよみがえってきたのは仕方ない。
「あなたも愛優妃に恋したクチなの?」
「男はみんな愛優妃様に一度は恋するんじゃないかな。そういえばメルも愛優妃様の孫なのになぁ。なんでああも手のかかる子だったんだか」
それは完全に子どもとしか思ってないからでしょ。などとは言わなかった。まるで自分自身につきつけるみたいで、今はもう関係なくてもどこか哀しかったから。
「ねぇ、あなたの弟子って……もしかして昨日の藺柳鐶?」
そう尋ねたとき、合宿所と工藤君の家のペンションとを隔てる森からひょこっと顔を出した織笠君が、わたしの姿を見つけて「おーい!」と手を振って駆けてきた。
「君はいろんな人に気づかってもらえていいね」
「え? 見えるってそういうことなの?」
「心が通じれば、ってことなんじゃないかな。死者はそれが断ち切られる。元科学者にはあるまじき発言だろうけど、結局心の謎は今の闇獄界でも解けちゃいない。俺は神秘の領域があってもいいと思ってるけどね。それじゃあ、楽しかったよ。またね」
もう一人の藺柳鐶は椅子から立ち上がったかと思うとすーっと幽霊ばりに前方の椅子をすり抜け、そのままコートの観覧席から姿を消してしまった。
「幽霊だ……」
今更ながら背筋がうすら寒くなったのは言うまでもない。
「守景さーん」
対して、自分は織笠君にも普通に守景さんとして認識されているらしい。
病室のベッドに横たわった自分の姿を見なければ、到底自分が幽体離脱してるなんて信じられない。
「こんなところにいたんだね。星が探してたよ」
織笠君はしっかりわたしの腕を捕まえると、急いで夏城君に連絡を取りはじめた。
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