聖封神儀伝 2.砂 剣
第2章 捜し物、二つ。
○ 6 ○
物音がしたような気がしてわたしは目を覚ました。
部屋はまだ薄暗い。遠くから夜啼き鳥の声が聞こえるのも相変わらず。それほど時間が経っていないのだろうか。目の前には集中して絵を描いていたはずの夏城君のお父さんの姿はなかった。キャンバスはイーゼルにかけられたまま。
静かだ。
その中で、やはり衣擦れのような物音がする。
ふっと視線を夏城君の眠るソファの方に向けると、そこには見覚えのある洋服を着た髪の短い少女の背中があった。
少女はソファに片膝をのせ、すっかり夏城君に覆いかぶさっている。
「幽霊!?」
どことなく白く見えたからそう叫んだのだが、わたしの声に振り返った少女の顔はだれあろう、わたしだった。
わたしが夏城君を襲ってる!?
無表情でわたしを振り返ったわたしは、害なしとでも判断したのか、また夏城君に向き直る。
「えっ、ちょっ、ちょっと」
夢なの? これは夢の続きなの? わたし、もしかしてさっきからずっと寝ぼけてただけ? ほんとのわたしはあっちのわたしで? いやいやいやいや、でもほんとのわたしなら絶対あんなことしないって。出来ないって。
向こうのわたしは夏城君の頬に手を添える。
「起きて。ね、龍兄」
龍、兄?
え、あれってもしかして……
「守……景……?」
まだ眠りの醒めやらない夏城君の声が聞こえてくる。
違うよ! あれはわたしじゃないよ!
「違うわ。わたしよ、聖よ」
なぜか声が上手く出せなくて、わたしは一所懸命違ーうと手を振る。
夏城君は聖inわたしからちょっと顔を覗かせてわたしの姿を確認する。
そうだよ! わたしはここだよ!
「聖、俺は龍じゃない」
夏城君の声が聖を呼んだ。
「うそ」
「嘘じゃない。龍はここにはいない」
「じゃあどこ?」
聖から殺気だったものが溢れる。
「はぐらかさないで。分からないはずないわ。その身体には龍兄の魔法石が入ってる。貴方が龍兄だわ」
「じゃあ、お前は守景なのか?」
聖は息を呑んだようだった。
「違う。わたしは聖よ」
「でも、その身体は守景のだろ? お前の身体はもうない。そうだろう? 龍から教えられたのか? 他人の身体奪ってでも俺に会いに来いって」
「違っ! 龍兄はそんなこと言わない!!」
「その顔で龍兄とか呼ぶなよ」
切なそうな夏城君の声が聞こえた。聖の動きが止まる。
「起きて、龍兄……お願い。逢いたいよ、龍兄……」
聖inわたしはそのまま夏城君の胸にもたれかかって気を失ってしまったようだった。
夏城君はわたしの姿のまま自分の胸に身体を預けた聖の姿を見つめている。
わたしは、何の言葉も出なかった。
「守景、身体の方から会いに来てくれたぞ。これで戻れるんじゃないか?」
軽い感じで夏城君は言ったけど、わたしの頭はそんなことは考えていなかった。
「ねぇ……揺れた?」
「え?」
「聖に迫られて、身体がわたしでも揺れた?」
何、言ってるんだろう。
馬鹿なこと、言ってる。
「そんなこと……」
ほら、夏城君困ってる。やめようよ。こんなこと言うの。
「夏城君、龍兄は? 龍兄はどこ? 本当に夏城君の中にはいないの?」
「なんで守景までそんなこと言いだすんだよ」
ほら、呆れてる。
「揺れたでしょう? 本当は……いるんでしょう、その中に」
どうしてわたし、こんなこと言ってるんだろう。
「お前と同じだよ。もし俺が気を失ったら、その間にあいつは俺の身体のっとってお前を探しに来るかもしれない」
夏城君は聖の入ったわたしの身体をソファに寝かせると、一歩一歩わたしの前まで確かめるように踏みしめて歩いてきた。
大きな手がわたしの頬に添えられる。
「聖」
溜息と共に囁かれて、わたしの全身からさぁーっと血の気が引いた。
「やめてっ!」
どんっと夏城君を突き飛ばす。つもりで胸を押したけど、わたしの手はすり抜けただけだった。勢い、わたしは夏城君の胸に顔をうずめるような格好になる。
顔を上げると、夏城君は目を閉じてわたしのおでこに自分のおでこをあてた。
「さっきの俺の気持ち、分かった?」
「……ごめん……なさい」
間近から見つめられて、気恥ずかしさにわたしは目を閉じた。
何かが唇に触れたかもしれない。
触れあえるはずもないのに、それはとても温かかった。
「それにしても」
目を開けると夏城君は何事もなかったかのようにソファに寝かせたわたしの身体を見ていた。
「危険だな」
「え?」
「あの中に聖が入ったままってことは、何度でも〈渡り〉で龍会いたさに俺のところに来るんじゃないかと思って。毎晩通われたらちょっとな……」
牡丹燈篭を思い出しちゃったのはこの際仕方ない。
「あ……ごめんね。迷惑かけちゃって。怖いよね。安心して眠れないよね」
「怖くはねぇけど……ああのしかかられると理性が……」
「りせい?」
「なんでもない。それより守景、試してみろよ。身体に戻れるか」
そう言われて、わたしは何度か自分の身体に戻ろうとお風呂に入るような感じでそっと足からうつぶせている背中に入ろうとしてみたり、手から入ろうとしてみたりしたんだけど、どう試してみてもわたしは自分の身体をすり抜けるだけだった。
「戻れない……」
散々思いつく限りのことをやりつくして、茫然とわたしは眠るわたしの顔を見つめた。
「なんでだろうな」
「なんでだろうね」
うーんと二人して首を傾げても、答えは出ない。
いつの間にか夜啼き鳥の声は消えて、朝を告げる鳥が元気よく囀っていた。カーテン越しにも明るくなっているのが分かる。
「とりあえず、いなくなったのがばれる前に病院に返してきた方がいいな」
「そうだね」
「〈渡り〉は使えそうか?」
「やってみる」
そう言うと、夏城君はわたしの身体を抱え上げ、眠るわたしの顔にちょっとだけ視線を落とした。
「なぁ、守景。覚えているか?」
「何を?」
「……聖とお前が別々に動ける理由」
「聖とわたしが? あれ、そうだよね。考えてみたらおかしいよね。聖ってわたしの前世なんだから、聖がわたしとは別に動けるなんておかしいよね」
夏城君はしばしわたしの顔を見つめる。
「覚えてないか」
消え入るように一人ごちて、夏城君はもう一度わたしの身体を抱え直した。
わたしは首を傾げただけだった。
何か、あるのかな。
そうは思ったけど追求はしなかった。しても、教えてはくれなそうだったから。
「〈渡り〉」
わたしは呪文を唱え、わたしの身体が寝かされていたであろう病室に辿りついた。夏城君とわたしの身体もちゃんとついてきている。
小さな個室にもうっすらと朝の光が差し込みはじめていた。抜け殻になったベッドの上にははぎ取られたらしい心電図の電極や、その他いろいろなチューブが散乱していた。
そのベッドに両肘をついて作った拳の上に頭をのせて洋海が眠っていた。
わたしは夏城君と顔を見合わせる。
と、洋海は人の気配に気づいたのか起きてこちらを振り返った。
「夏城さん……と、姉ちゃん……?」
洋海ははっきりとわたしを見て「姉ちゃん」と言った。
「見えるの? 洋海」
じっと洋海はわたしを見つめる。それから夏城君が抱えているわたしの身体の方に目を向けた。
「なんだ。そっか」
がっかりしたように呟く。
「あの、洋海。わたしね、戻ろうとしたんだけどどうしてか戻れなくて……」
「夏城さん、姉ちゃん重いでしょ。早くおろして。ほら、この上」
洋海は端に避けてぽんぽんっと空になったベッドを叩く。
「姉ちゃんたら休みの間中毎日三食アイス食べちゃってて、弟の俺から見てもお腹のあたりに贅肉が……」
「洋海!」
「なのに、たった一晩で元に戻っちゃった」
洋海はわたしの身体の腕を持ち上げると手首を握る。
わたしの手首までぎゅっと締めつけられるようだった。
「おまけにちょっと目を離した隙にいなくなるし。母さんパニックで別室で鎮痛剤打って眠ってもらったし、父さんも朝にはつくはずだよ。……なに、やってるんだよ。あんまり心配かけんなよ!」
立ち上がり振り向くなり、洋海はぎろりとわたしを睨む。
「ごめん」
「ごめんで済むなら警察はいらない!」
「警察は関係ないでしょ」
「大ありだよ。どんだけあそこにいた人たち事情聴取されたと思ってんの? 俺だってあれやこれや聞かれて……誤魔化すの大変だったんだぞ!」
「ごまかすってあんた……」
「だって明らかにおかしいじゃないか。爆弾放ってたやつも、姉ちゃんも三井さんも、夏城さんたちも。おかしいだろ。なんでみんなと一緒に逃げないんだよ!」
「それは……」
「姉ちゃん、義務感とか責任とか、それってほんとに姉ちゃんが尻拭いしなきゃならないことなわけ?」
何も言ってないのに洋海はぐさぐさと核心をついてくる。
「違うだろ。姉ちゃんはそんなことのために生まれてきたわけじゃないはずだ。姉ちゃんは姉ちゃんが生きるために生まれてきたはずなんだ。決して……」
洋海は眠るわたしの顔に視線を落とす。
「決して、そんなことのために生まれてきたわけじゃないはずだ」
洋海、あんた何か知ってるの?
それは怖くて聞けなかった。
佳杜菜さんを守ろうと昨日手にしていた剣のことも。
「ごめんね」
わたしは謝るだけ謝って部屋から飛び出した。
扉を開けることもできず、幽霊みたいに扉をすり抜けて廊下を走るうちに身体は外に出ていて、眩しい朝の光に灼き殺されそうになった。
空と森と海が見える高台の病院だった。
「どうしよう。戻れ……ないよ」
洋海が何か知っているというのなら、なおさら。
高台の病院への道を一台のタクシーが登っていく。
あれにお父さんが乗っているんだろうか。
「心配かけて、ごめんね……」
眩しい景色は涙で見えなくなった。
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