聖封神儀伝 3.砂 剣
第1章 真夏の異変
○ 3 ○
「わぁ、大きいねぇ」
詩音さんに招待されて来た湘南の工藤君の別荘を見上げて、わたしは開口一番呟いた。
「金持ちの別荘ってかんじだよな」
「ここはペンションとして一般の宿泊の人も来ているっていうから、これくらいの大きさは当たり前でしょう」
木立に囲まれたログハウス風の瀟洒な作りの洋館は、湘南の青い海もバッチリ見渡せそうなロケーションに建っている。葵はお金持ちの別荘なんて表現をしたけど、成金ぽいぎらぎらな感じではなく、それなりの風格を備えているという感じだ。
「今日は何人くらい泊まりに来てるのかな」
桔梗と一緒に来た光くんがわくわくに目を輝かせてペンションを見上げている。
「今日は他には十四人ほど泊まっているらしいわよ。これから四日間、大体それくらいの人たちがいるみたい。確か最大収容人数は二十人だったかしら」
「そうそう。ごめんねぇ、貸し切りに出来なくて。ちょっとバタバタしてるかもしれないけど、気にせずゆっくりくつろいでくれていいから」
駅まで迎えに来てくれた詩音さんが申し訳なさそうに頭をかく。
「工藤君も先に来てるんだっけ?」
「そうなの。夏の間実質このペンションの管理運営任されちゃって。社会実習だって言って本人は張り切ってるんだけどね」
詩音さんは苦笑しながら言葉を濁す。
「何か問題でも?」
「調子に乗りすぎっていうか、なんていうかすっかり経営者ぶっちゃってて」
すーっと詩音さんが視線を投げかけた先、テニスコート二つ分はある芝生の庭に水を撒いている背の高い男の子がいた。男の子はゴールデンレトリバーに戯れられて不機嫌そうにしながらも、黙々とホースを持って方々に水やりを続けている。
「ん? あれ? あれってまさか……」
その男の子は遠目にしか見えてないけど、もしかして。
「そう、夏城君。サッカー部の合宿でこっちに来たんだけど、その間バイトができないのは不憫だって言って維斗がペンションでのバイトを持ちかけたらしいの。合宿の合間を縫ってこられる時に来てくれればいいとか言って、合宿前日の昨日の夕方からしっかりこき使ってるんだから」
夏城君が……同じペンションに……。
「ああ、でも宿泊場所はそこの林抜けてすぐのところにある学校の合宿所の方だから。夏城君がいるのは朝と夕方から夜にかけて。ああ、今いるのは多分合宿の方が昼休憩だからね。近いからって割とまめに雑務こなしに来るのよねぇ。こっちが夏休みしてるのが申し訳なくなっちゃうわ」
「工藤君たら相変わらずひどいわねぇ。どうせ本人は夏城君のこと見ながらバカンス楽しんでるんでしょ?」
何が相変わらずなのかはよく分からなかったけど、詩音さんが呆れたように頷いて芝生の手前を指さしてみせる。そこには大きなパラソルの下、長いロッキングチェアに足までのばして、本を片手にうとうととしている工藤君がいた。
「わぁ、趣味悪ぃ。働いてる同級生監視中かよ」
「それもバカンスモードで」
「聞こえてますよ。経営者の特権と言ってください」
「んな特権、労働組合に潰されるだろ」
葵と光くんが勇んでからかいに行くと、工藤君は椅子から起き上がり、本を閉じてこちらに向かってゆっくりと歩いてきた。
「こんにちは、みなさん。よくいらっしゃいました。お疲れでしょう? 荷物をおろしたらまずは食堂で甘いものでも食べてください」
工藤君は爽やかな笑顔で私たちを迎えてくれた。
「その後はプライベートビーチにご案内しますから。案内って言ってもすぐそこなんですけどね」
「うわぁ、金持ちくさー」
「守景さん、荷物お持ちしますよ」
「え、あ……、ありがとう」
自分で持てるから大丈夫という前に、さりげなく工藤君はわたしの荷物を持ってしまった。なんかこういうところ、ちょっと王子サマっぽい。
「あ、工藤、あたしのも部屋運んどいてー」
「僕のもー」
葵と光くんは夏城君に軽く挨拶すると、庭を走り回っていたゴールデンレトリバーと一緒に遊びはじめた。夏城君は若干迷惑そうに水の出るホースの先の方向を変える。
「全く、容赦ないお客様ですね」
苦笑しながらも工藤君は葵と光くんの分の荷物も軽く持ってしまった。
「じゃあ桔梗のはわたし運ぶね」
「いいわよ、無理しなくて」
「いいっていいって。今日から桔梗たちはゲストなんだから、キャストは心をこめておもてなししなくっちゃ。ね、維斗」
「詩音、この間ディズニーに行ってからディズニーの経営学の本にはまってしまって」
「維斗の部屋にあったのをちょっと読んだだけだもーん」
「何でもかんでもすぐにかぶれるんですから」
「それでいて忘れるのは結構早いのよね」
「忘れてるんじゃないの。次の新しいモノを見つけているだけなの」
「ものは言いようですねぇ。飽き性のくせに」
「何か言った? さ、どうぞ、中にお入りください」
詩音さんが両開きの扉を開けると、中から涼しい空気が流れ出してきた。
わたしは中庭にいる夏城君をちらりと視界の端に納めて中に入る。
本当は何でもいいから話しかけたかったのだけど、仕方がない。きっと夜になったらまたどこかで見かけられるだろう。
玄関ホールは三階までの吹き抜けになっていた。左右には意匠の施された手すり階段があり、玄関側のステンドグラスから差し込む色とりどりの光の中にたゆたっている。
「一階の右側に食堂が、左側に露天風呂があります。個室にも浴室はついていますから、お好きな方をお使いください。タオルなどのアメニティも部屋に置いてあります。掃除や交換に関しては普通のホテルと同じように考えていただいて結構です」
「素敵なペンションだね」
「ありがとうございます。ではお客様、お部屋にご案内いたしましょう」
執事のように胸の前に手を当てて工藤君は言うと、目の前の階段を軽い足取りで上りだした。
「お部屋は三階のツインを二部屋ご用意しております。守景様と科野様がタイム、藤坂様と木沢様がラベンダー」
「お部屋に名前が付いているの?」
「ええ、各部屋にハーブの仲間の名前が付いているんですよ。お部屋の中にはその部屋の名前のハーブの写真が飾られています。お好みであればアロマもご用意していますから遠慮なく言ってくださいね」
「へえぇ」
わたしが感心している後ろで、詩音さんはちょっと声を低めて桔梗に話しかけている。
「ねぇ、よかったの? 光くんと一緒で」
「いいのよ。光くんもご機嫌だったし。昔はよく家で遊び疲れて寝ちゃったこともあったし」
「昔って、まだあの子が小学校低学年だった時のことでしょう? 今は中学生とはいえ、もう十三歳よ? 今からでも別のお部屋用意しようか? それとも樒ちゃんたちのお部屋にエクストラベッド入れようか?」
「詩音たら心配症ねぇ。大丈夫、光くんなんてまだまだ子供よ」
今の、光くんが聞いたらショックだろうなぁ。
うっかりついてきてないか後ろを振り返ったけど、幸いまだ外で遊んでいるらしい。
「さあ、お部屋に着きました。こちらです」
工藤君が開けてくれたタイムのお部屋は、二つのベッドと窓際にソファとミニテーブルが置かれていた。窓際まで進むと、窓からは湘南の青い海が遮るものなく広がっている。
「うわぁ、きれーい」
月並みな言葉しか出ないのは仕方ない。だって綺麗なんだもの。
「本当、素敵なお部屋ね。シンプルだけどとても居心地がよさそうだわ」
桔梗も手放しで褒めている。
「それじゃあ、ビーチに行く準備ができたら食堂に来てね」
詩音さんと工藤君は桔梗を案内するために部屋から出ていく。
一人になったわたしは荷物を片づけると、窓を開けてバルコニーに出てみた。
「うーん、いい匂い」
日差しは結構強いけど海からの風が気持ちいい。下を見下ろすと夏城君が散水を終えてホースをしまっているところだった。
「夏城くーん」
聞こえないだろうと思って小さく呼びかけてみると、意外に届いてしまったんだろうか。夏城君がふとこちらを見上げた。
あ、どうしよう。目があった。
わたしはぎこちなく手を振ってみる。
夏城君は眩しそうに額に手をかざし、軽く会釈をするとホースを持って中に入っていってしまった。
「つれないなぁ」
「ねー。って、葵、いつの間に!」
背後から下を覗き込んでいた葵が「あーあ」と言いながら一足早く中に入っていく。
「もう、入ってきたなら一言かけてくれれば」
「ノックもしたし樒って呼びかけもしたけど、樒すっかりバルコニーで解放モードだったから」
「か、解放モードって何っ」
「夏だよなぁ。いいじゃん、せっかく同じペンションにいるんだから、襲っちゃえ」
「なっ、ちょっ、何言ってるの! 夏城君は泊まるのは合宿所の方でしょうっ?」
「そういえば昔同じようなことを聖に言ったことがあったようななかったような……」
思案顔の葵ははぐらかしているかのように見えるけど、あれは完璧に思い出してる。
「確かー、本当に龍に夜這かけたんだっけ?」
にやにやと煽るように葵はわたしを見つめる。
「そうだそうだ、〈渡り〉使えば簡単だって。よし、行け。あたしが許す」
「あたしが許すって……」
「ちゃんと樒は隣で寝といたことにしてやるから」
「んもうっ、余計なお世話ですっ。そんなことしませんからねっ」
わたしは怒って部屋を出ていこうとしたけど、ふと思い出して葵を振り返った。
「葵の方はどうなのよ? 河山君とか」
強気だった葵の笑みが崩れ、あからさまに視線がそらされる。
鎌をかけたつもりだったんだけど、これは……地雷だったかな。
「あ、あたしのことはどうだっていいだろ。それより喉乾いたなぁ。下行こ、下」
葵はそそくさと着替えの入ったバッグを持って廊下に出て行ってしまった。
「あっ、待ってよ、葵ー!」
あわててバタバタとわたしも部屋を後にする。
食堂に行くとすでに桔梗と光くんがグラスにハイビスカスの花がついたオレンジ色のジュースを飲んでいた。
「守景さんは何にします?」
「桔梗たちと同じので」
「トロピカルジュースですね。かしこまりました」
「工藤、あたしはジンジャーエールで」
あとから追いかけてきた葵がすかさず工藤君に注文する。
工藤君は律義に笑顔で「かしこまりました」といって厨房へ入っていく。
食堂にはわたしたちの他には誰もいなかった。
「お客さんたち、みんなビーチかな」
「かもしれないわね。今日来る人たちはチェックインが三時以降だからまだ来ていないのかもしれないし」
「ねぇねぇ桔梗、今日の夕飯なにかなっ」
「今夜はスズキのムニエル特製ソースがけがメインディッシュですよ。ここのシェフは腕がとてもいいんです。楽しみにしていてください」
おおーっとわたしたちはジュースを運んできてくれた工藤君の言葉に期待いっぱいになってどよめく。
「すごいね、桔梗。来てよかったね」
「そうね」
「樒はほんと食い気だなぁ」
「えー、そんなことないよ。おいしいもの食べてる時は幸せなだけ」
「それが食い気っていうんだよ」
「いいんだもーん」
ジュースを飲みながらちらちらとあたりを見回したけど、すでに夏城君の姿はどこにもない。
「さ、じゃあビーチにでも行ってみましょうか」
わたしがジュースを飲み終わるのを見計らって、桔梗が席を立つ。わたしも荷物を持って立ちあがると、工藤君が近づいてきてそっと耳打ちした。
「夏城君なら午後は練習試合ですよ。応援に行ってあげると喜ぶかもしれません」
「そっ、そんなっ」
「では詩音、案内よろしくお願いしますね。ああ、それから夕食は五時半から八時半までの間にお願いしますね」
「はーい」
元気よくお返事をして、わたしたちはペンションから五分もかからないビーチに出てきた。
「わぁ、桔梗、蟹! 蟹がいるよ!」
光くんは早速浜辺の水たまりに蟹を見つけてはしゃいでいる。
林を隔てた向こうからは練習試合が始まったのだろうか。選手たちの熱気が伝わってくる。
「試合、気になるわね」
「うん。あ……」
「いいのよ、隠さなくても。少しここで遊んだら、ちょっと覗きに行ってみましょうか」
「いいの?」
「せっかく夏城君の雄姿が見られるんですもの。楽しみね」
桔梗の優しさに感激しながら、わたしは荷物を置いて波打つ海へ向けて歩きはじめた。だけど、桔梗がついてくる気配はない。
「桔梗?」
振り返ると、桔梗はさっき工藤君が使ってたビーチパラソルの下でにこにこと手を振っていた。よく見ると水着すら着てきていない。
「気にしないで遊んでらっしゃい」
「でも」
「桔梗ー、蟹捕まえたよー。今度は砂のお城作ろうよ」
わたしが誘おうかどうしようかためらっている隙に、光くんがべったり桔梗の側に寄り添って砂の城造りを手伝わせはじめてしまった。
「樒ー、来いよ。浮輪あると楽しいぞ」
すっかり海満喫モードの葵と詩音さんが、海の上で波に揺られながら浮き輪から顔を出して手を振っている。
わたしは桔梗たちを振り返りながらも、浮き輪を頼りに葵たちの元まで泳いでいった。
「やっぱ海は気持ちいいな」
「水温がちょうどいいよね。冷たくて気持ちいい。桔梗も来ればいいのに」
砂浜では結構いい大きさまでお城が出来上がっている。
「あれ、樒ちゃん知らなかったっけ。桔梗、水だめなんだよ」
「え? 水がだめ? 桔梗が?」
「そうそう。笑っちゃうだろう? 水の魔法使うくせに泳げないなんてさ。泳げないどころか、水際に近付きもしないんだぜ?」
「プールとかは?」
「全部女の子の日ってことにして見学してたっけな」
桔梗が、プールの授業をずる休みしてた? もしかしてこの間のプールの授業見学していたのも、本当はサボり?
「意外」
「だろ? 藤坂桔梗様の唯一無二といってもいい欠点だな。あいつも人間だったわけだ」
へぇえ、桔梗が水がダメだったなんて。
魔法で使うのはいいのに、プールとか海とか、自分が浸かるのはダメなんだ。
「お風呂は?」
「さすがに風呂はなぁ。でもきっと露天風呂には来ないぜ? 個室でさっさとシャワー浴びておしまいだろ」
「なんかもったいない」
「な。光もそれ分かってるから海には誘わないわけだ」
一通りお城を完成させた光くんは、桔梗に手を振って別れを告げ、海に駆け込んでくる。
「気っ持ちいいーっ」
波に乗りながら光くんはどんどんこちらに近づいてくる。
「海はいいねぇ。心が洗われるよ」
「やっぱり桔梗は来ないって?」
ざぶんと海面に顔を出した光くんに、一応わたしは聞いてみる。
「来ないも何も、海に入る気ないよ、桔梗は。格好見れば分かるじゃん。時間つぶしに読みかけの本まで持ってきてたし」
見ると桔梗は本を開いて読みはじめている。まるで子供たちを海に連れてきた保護者みたいだ。
「何か理由があるの?」
わたしの質問に光くんと葵と詩音さんは顔を見合わせる。
「隣に引っ越してきた頃からプールに誘っても絶対来なかったな」
「そういや小学校に転校してきてから、桔梗が泳いでるとこ一度も見たことないな。風邪引いたとか言って見学してたのかな」
「そうそう、頭痛や腹痛や果てはプールの時間前に早退しちゃうとか、小学生ながらかなり周到にプールの授業避けていたわね」
光くんと葵と詩音さんは記憶の引き出しを引っ張り出してきては首を傾げていた。
「なにかあったのかな」
「なにかってなんだよ」
「溺れた……とか?」
「どうだろうなぁ。桔梗の性格からして一度溺れたなら二度と溺れないように、むしろ積極的に水泳訓練しそうだけどな」
「あー、それ言える。桔梗、欠点あるの嫌いだもんね」
「それを甘受して避けまくってるってことは」
「よっぽどの何かがあった、ってことだね」
「そうそ。そういうこと。聞かないが吉、だ」
葵と光くんは頷きあって、一斉に海に潜ってしまった。
「そういうことみたいね」
詩音さんも苦笑して波に乗っていってしまう。
空は青くてところどころに白い雲がもくもくと水平線から湧き上がっている。海はどこまでも青くて、その先を眺めると、わずかに歪曲した空と海の境が見える。こうやって浮き輪を頼りに浮かんでいると、なんだか揺りかごの中にいるみたいだ。
「気持ちいいのにな」
わたしはちらりと桔梗を見てから、波にまどろむように目を閉じた。
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