聖封神儀伝 2.砂 剣
第1章 真夏の異変
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 町はずれにある場末の酒場には絶え間なく人々の喋り声が溢れていた。時たま窓の外にまで酔っぱらいの怒声が響き渡ることもあるが、そのくらいじゃあこの喧騒は鎮められない。店内約二十ほどのテーブルには馴染みの客を中心に旅の途中のものも混ざり込み、馴染み客に旅路での話を聞かせたりしている。それが聞きたくて来る奴も結構いるし、女と待ち合わせるために来ている奴もいるし、秘密裏に盗んだ商品やなんかの情報交換が行われているのもこんな場所だったりする。
 まあ、俺様にはそんなことどうでもいいんだけど。
「なぁ、サキハちゃんー、いつになったら俺様とデートしてくれんの?」
 カウンターでウォッカをちびりちびりと呷りながら、店主自慢の看板娘をひとしきり視線で愛でる。娘はくせの強い黒髪をバンダナで纏めあげ、この町ではありふれた小麦色のワンピースを纏い、その上から黒いエプロンをつけている。年の頃はそうだな、十六、七ってところか。コーヒー色の肌は艶々として張りがよくって、何より俺様を射すくめるようなこの赤い瞳がたまらない。
「夜しか来ないくせに何言ってんですか。あたしを誘いたかったら真昼間、じいちゃんを倒してから来て下さいって言ってるじゃないですか。待てど暮らせど迎えに来てもくれないくせに、鉱サマは口ばかり達者なんだから」
「えー、ダリボア乗り越えて来いってのは酷だろ。そんなの無理だって分かってるくせに」
「天下の鉱サマが何をおっしゃいますやら」
「サキハちゃーん、コウでいいんだよ?」
「いやですよ。そんな呼び方したら、本当にお宮に呼ばれかねない。あー、くわばらくわばら」
 ああひどい。なんてひどい言い草だ。毎晩通い倒してようやく目の前のカウンター席に座る権利を得たっていうのに、このどこまでも突き放したような冷たい態度。
 まあ、そこがたまんないんだけど。
「なぁ、サキハちゃん。じゃあさ、誰か他のかわいー女の子紹介してよ。サキハちゃんが薦める子なら、俺様サキハちゃんのこと我慢するからさ」
「そんな人身御供に出すようなことができますか」
「人身御供って人聞き悪いな。俺様至ってノーマルよ? 大事にするよ?」
「その言葉、過去何人の女性が聞いたんでしょうかね」
 きゅっきゅといくつかのグラスを拭き終えると、サキハちゃんは手際よくそれらを後ろの棚に並べていく。
「グラスあきましたね。次は何にします?」
 酔っ払いに絡まれて辟易している店員から、本職のバーテンダーに戻った顔がきりっとしていて美しい。
「失恋をテーマにオリジナルのカクテルを」
「失恋? いつ失恋したんです?」
「今だよ。たった今」
「分かりました。ではゴーヤとモロヘイヤとセロリを中心にとびっきり苦いカクテルを作りましょう」
「え゛っ、嫌だよ、そんな苦いの。ほろ苦くほろ甘い感じがいいよ」
「いいえ、失恋の味というのはとてつもなく苦いものと決まっているんです。そして後味悪く甘いものだと……」
「やめて、その組み合わせに大量に砂糖入れるのは」
「お任せ下さるんでしょう? 鉱サマ」
 かわいい子に悪戯っぽくウィンクされると、俺様としては口を噤まざるを得ない。
 サキハちゃんは鼻歌を歌いながら本当にゴーヤをおろしにかかっている。
 人の人生は俺様たちからするとびっくりするほど短い。あまりにあっけないとでも言おうか。こうしてまばたきをしている間にも目の前の人物が孫やひ孫に代わっていたりする。まあそれはちょっと言いすぎだとしても、後から思い返そうとすればそれくらい瞬時の出来事で、ほとんどの場合名前すら思い返されることなく記憶の砂の中に埋もれていく。一度埋もれてしまった記憶は砂漠の中から一粒の砂を見つけるようなもので、百パーセントではないが、まず見つけられることはないし、見つけようと思うことすらないことがほとんどだ。
 長い神生、覚えていることが多すぎるとうまくないことが多すぎる。大切なことだけを記憶して、後はさっさと手放しちまった方がいい。どうせこの先も永遠に続いていくんだ。荷物は少ないに越したことはない。
 サキハちゃんという名前だって、百年後の俺様はきっと覚えていないことだろう。熱心にかき口説いているのだって今だけ。それも本気とはいえない。長く続ける気などないのだから。
 それが分かっているから、鉱土の国の女たちは一応お忍びで宮から出てきていることになっている俺様を見ても、言いよったり科を作ったりはしない。雲の上の人だと思われるのは癪だが、彼女たちは賢いからしっかりと弁え、自分の幸せを真に考えているのだ。
 だから俺様も無理強いはしない。あとあと面倒なことになっても嫌だから。女を抱くなら後腐れなくできる方がいい。
 それでもこうやってお気に入りの酒場や店を見つけては可愛い子やきれいな人を口説くのは、まあ俺様にとっての日課みたいなもの、毒抜きみたいなものだ。
「出来ましたよ、失恋ゴーヤスペシャル」
 どんっと目の前におかれたのはどろどろとした緑色の液体だった。申し訳程度にグラスに薄く切ったレモンが刺されているが、この程度でこの見た目の液体を何とか中和できるものとは思えない。
「うわっ、本当に作ってきやがった」
「お客様のご注文とあらば何でも作るのがあたしの仕事」
「そのプロ根性、大好きだよ。いっただっきまっす」
 レモンを絞って、俺様は一気にグラスの中身を喉の奥に流し込む。
「うーん、まずい。もう一杯。……今度はすっきりとした微炭酸で」
「かしこまり」
 あいたグラスを下げながら、サキハちゃんは俺様と一個席を空けて座っている客のグラスも回収した。
「お客様、次は何にいたしましょう」
「ファジーネーブル」
 濃い黒紫のローブの向こうから聞こえてきた声は、誰かに気取られたくないのか低く抑えられてはいたが、思いのほか可憐な少女の声だった。
「あっれれ~。思ったより若い~?」
 俺様は酔いに任せて空いていた席を一つ詰める。
 女性客は嫌がるようにひくりと肩を震わせ、あからさまに顔を背ける。
「なんだよー、出し惜しみしなくたっていいじゃーん。顔なんて減るもんじゃなし。えー、なに? かわいいブローチつけてんじゃん。鳥さんの模様? あー、隠した手も白くてかわいいね」
 オレンジ色の台座に白い鳥の姿が鮮やかにあしらわれたブローチを隠した白い華奢な手に手を伸ばす。
 その手に俺様の手が触れるか触れないか。
 少女はばっと俺様を振り返るなり伸ばしていた俺様の手をひねり上げ、「いだい、いだい、いだい」と悲鳴を上げる俺様の声も無視して、あろうことか席に座ったまま俺様のことを片手だけで床に引き転がしてしまった。
 さすがの俺様の頭も真っ白になる。
 辺りが静まり返っているのも俺様の頭が真っ白なせいだけではないらしかった。荒い息遣いをしている酔っぱらいでさえ固唾を呑んで俺様たちを見ているのが分かった。
 視界がはっきりしてくると、少女が勢いよく席から立ち上がったのが見えた。その拍子に緩やかに波打つ橙金色の髪がフードから溢れだし、怒りで朱に染まった予想以上に愛らしい顔が露わになり、濁りない翠色の瞳が断罪するように厳しく俺様を睨めつけていた。
「信じられませんわ! こんな方がこの国の主だったなんて。鉱土法王。貴方、ご自分の立場というものをきちんと認識していらっしゃるのですか? 神界の主、統仲王様と愛優妃様の御子でありながら、先ほどから聞いていればなんという体たらく。恥ずかしいとは思わないのですか! わたくしにあのような不埒な真似をなさろうとするとは……法王たるご自覚が足りなすぎますわ!」
 全身に雷が走ったかのような衝撃だった。
 翠に燃える目は、より一層怒りを濃くしていく。
「ちゃんと聞いていらっしゃるのですか!?」
 呆けたような俺様の表情に苛立ったらしい。少女は今にも地団太を踏みそうな勢いで俺様を睨みつけてくる。
 綺麗だな。
 なんて思ったのは一瞬だった。
 周りの視線を感じ、俺様はようやくこの小娘に大勢の前で恥をかかされたのだと気づく。
 ゆらゆらと起き上がると、俺様は娘の顎をくいっと持ち上げる。娘は不服そうに俺を睨みあげる。
「娘、名前は?」
「西楔周方第一皇女サヨリ・アミル。西方将軍ヴェルド・アミルの妹ですわ」
 臆することなく娘は名乗りを上げ、不敵な微笑みを口元に浮かべた。
 その直後だった。入り口近くにいた客の二人ががたたっと音を立てて椅子を引き倒し、逃げるように店を飛び出した。
「あっ、泥棒! 待ちなさい!」
 娘は顎を摘む俺様の手を振り払って外へ飛び出していく。
「あ……飲食代……エルガ風豚肉のソテーとラクダこぶのコリコリ炒めとラマダスのサラダと黒糖パンにコンソメスープ、占めて六千七百スート……。鉱サマ! 何をぼーっとしてるのっ。泥棒よ! 無銭飲食泥棒よ! 捕まえて! 早くっ!」
 サキハちゃんに言われて、俺様の体は反射的に出口へ向かう。
 酒場を飛び出すと、月光下に泥棒二人を追いかけるふわふわの橙金髪が見えた。その先に黒い二人の影も見え隠れしている。
「皇女サマが潜入捜査とは穏やかじゃないね」
「わたくし、こう見えましても周方の国の公安を預かっておりますの」
 無視されるかと思いきや、刺々しい答えが返ってくる。
「へぇ、それは大したものだ。さっきの技はヴェルド仕込み?」
「その通りですわ」
「聞いたことがあるよ。ヴェルドの妹君は小さい頃からヴェルドの相手をしていて、今や周方にも妹君とまともに組める人はヴェルドしかいないって。どんな巨漢かと思ったら、驚いたな。こんなにかわいらしい人だっただなんて」
「……貴方、頭のネジが緩いのですか? ついさっきわたくしに恥をかかされたばかりだというのに、こんな誰も見ていないところで余裕を見せても、恥辱は拭えませんわよ」
「永く生きてると記憶力なんて必要ないって気づくんだよ。今いまが大事なのさ。まあ、君に味わわされた辛酸は忘れないけどね」
「父にでも兄にでも、お好きに告げ口なさいませ。わたくしは自らの貞操を守っただけです」
 うーん、ヴェルドはまだ遊び心のある奴だが、この妹君は真面目一筋だな。見た目はかわいらしいのに、中身はまるで男だ。それも俺様のことを軽蔑対象に認定しちまってるから、言葉に容赦がなさすぎる。
「そんなんじゃお嫁に行けないぞ」
「嫁? わたくしを男性が守らなければならないか弱い女性だと思われているのなら、認識を改めることをお勧めいたしますわ。わたくしは誰にも守られません。政治の道具にもなるつもりはございません。わたくしより弱い男性に守られるふりをするなんて、まっぴらごめんですわ。先ほどからの鉱土法王の数々の発言、わたくしにとっては侮辱以外のなにものでもございませんわ」
 かわいくないな。
 もっと賢く生きれば、こんな危険なことしなくても済んだはずなのに。だってそうだろう? 女ってのはしたたかで、いつだって男に守られているふりをしながらしっかり男どもを支配しているんだ。賢い女ってのはそういうもんだろう? 自分が男と対等に渡り合えるなんて、思い違いも甚だしい。
「お待ちなさい! 待ちなさいと言っているのが聞こえないのですか! この……っ」
 待てと言って待つ奴がどこにいるものか。そう言ってやろうと思う間もなく、彼女は胸元から周方の紋章の入った短剣を引っ張り出し、駆ける速度はそのままに思いっきり腕を振り上げて逃げる男二人のうち一人に向かって投げつけた。
 風を切る音に続いて、狙いを定められた男の背中の衣服が上から下に真っ直ぐ裂けた。間髪をいれず、背中の黒い肌に赤い血が浮き上がる。
「ぎゃぁぁぁぁっ」
 背中を切られた男は溜まらずに立ち止まり、回らない手で何とか背中の傷に触れようとのたうちまわる。
 もう一人の男は相棒を気にしながらも走る足は止めようとしない。
『土の精霊よ
 道行く盗人の前途を隔てよ』
「〈土壁〉」
「うわあわぁわぁ」
 後ろをうかがいながら走っていた男は、俺様の目論見通り前方の壁に気づかず激突し、はじき返されて砂交じりの道の上に不様に転がる。
 娘は自分が短剣を投げつけた男の両手を後ろ手ひねり上げ、手際良く縄をかけている。その横を通り過ぎて、俺様はまだ額と鼻の頭を押さえている痩せぎすの男の両手をコンクリートの枷で固定した。
 遠慮なく胸もとを探り、人肌に温もった財布からサキハちゃんに言われた六千七百スートを抜き出す。
「お、追い剥ぎ……」
「あ? 俺様を捕まえて追い剥ぎだぁ? 無銭飲食のくせに偉そうに」
「だってそれは逃げなきゃならなかったから仕方なく……」
「つべこべ言うな。これで無銭飲食はチャラにしてやる」
「待て、あの場は割り勘ってことにしてたんだ。あっちから半分とって俺に半分返してくれ」
「みみっちいこと言うな。どうせしばらくは金なんて使わないんだ。そうだろ?」
 縄で縛った男を引きずってきた娘は、俺様の言葉にいかめしい顔で頷く。
「ギュスタン・ターク、トリブル・ヨンア、周方のターン鉱山から許可なく金を採掘し、他国で取引した罪で逮捕します。貴方達が夜な夜なあの酒場で金の流通ルートの情報交換をしていたことは、すでに調査済みです。規定量を超えた金を輸出すれば、いずれ大量の金が市場に出回って金の価格は下落し、経済が破綻します。貴方達がやろうとしていたことは金の無断採掘にかかる窃盗のみならず、国家転覆を図ろうとする反逆罪にも等しい罪です」
 年端もいかない小娘に言われたにもかかわらず、大の男二人は大人しくうなだれた。
「ずいぶん小難しいことで重い罪までかぶせるんだなぁ」
「こういう輩は何度でも同じ罪を犯します。厳罰を与えた方が世のためでもあり、再犯を防ぐ意味でもこの二人のためなのです」
「ふぅん……」
 なんかいけ好かない娘だなぁ。
 自分だけが正義だと思ってるんだろうか。
「鉱土の国をお騒がせいたしまして申し訳ございませんでした。事前にご連絡すると逃げられる恐れがあったもので。あとでお詫びの者を遣わせますわ」
 娘はコンクリートの手枷を嵌められた男の首根っこも掴むと、にぃっこりと笑って俺様の前から二人を引きずりながら夜闇の中に紛れ込んでいった。俄かにその先が騒がしくなったのは、待たせていた車の荷台にでも男たちを転がしはじめたからだろう。
「いっさましい、たっくましい……ありゃあ、ヴェルドも隠したがるの分かるわ」
 ヴェルドに同情しつつ、「まあすぐに手を出そうとした俺様も悪かったけど」と呟いて、俺様は長ーく溜息をついた。
「二度と、会いたくねぇな、あの女には」
 六千七百スートを握りしめて店に戻り、お礼に出された酒で飲み直しを図ったが、その晩、俺様の気が晴れることはなかった。











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