聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師

◆幕 間◆

「もーいいかーい?」
「まぁだだよー」
 ふふふ、今日隠れる場所はもう決めてあるんだ。
 統仲王――父上の書斎。
 ここなら、いくら見つけ上手なエルメノだっておいそれと入っては来れまい。
 息を殺して辺りを窺い、エルメノだけでなく他にも誰か見ている人がいないか確かめてから、僕は金色のドアノブをぎゅっと回した。茶色くて、そこにあるだけで入室を拒んでいるかのような扉は、押すにしても引くにしても片手だけではびくともしなくて、身体ごと体重をかけてようやく内側に開いた。
 僕は扉が内側に引き込まれるがままに中に招き入れられた。そして転がった僕の後ろで、がっちゃん、とびっくりするような音を立てて扉が閉まった。
 室内は耳鳴りが聞こえそうなほど静かだった。
 白い天井、白い壁。その壁伝いにずらりと書棚が並んでいる。そこに並びきれない本は床に積まれ、応接テーブルに積まれ、窓際のどっしりとした執務机に何列にもなって積まれていた。
 まさに、本のためだけの空間。
 部屋中に立ちこめる印刷物とカビが混ざり合った匂いは、読書以外の理由で入室した者を拒む謹厳な空気となっていた。
 しかし、こんなところでぼんやり立ち尽くしているわけにもいかない。僕は今まさに、エルメノと二人っきりでかくれんぼをしている最中なのだ。エルメノと一対一でかくれんぼをすると、エルメノは百回探せば百回僕を見つけられるのに、僕ときたらこれまで百戦百敗だった。今日こそこの悔しさ、情けなさを晴らそうと思って隠れる場所に選んだのが、この統仲王の書斎。
 絶対に入ってはいけない、と常日頃から父上が厳しく僕たちに言っているところ。でも、なぜ入ってはいけないのかと聞いても、絶対に理由を教えてはもらえないところ。
 気にならないわけがない。
 規則や教えに忠実なエルメノなら、絶対にここは開けないから見つかる心配もない。しかも、かくれんぼをしていて迷い込んだといえば、統仲王も大目に見てくれることだろう。僕がここですべきことは二つ。隠れることと、入室を禁じられている理由を探ること。
 息を潜めて、僕は書斎の中を歩きはじめた。床にまで置かれた本の合間を崩さないように気を使いながら、自分の背丈よりも倍は高い本棚を見上げ、何か目ぼしい本はないかと探して歩く。しかし、書棚に納まっている本も、床に積んである本も、これといって見るのを禁じられそうな内容でもなかった。誰かの日記だったり、昆虫の観察日記だったり、精霊界に関しての著作だったり、料理の本だったり、ロマンス小説だったり。めくってみても何も面白いことは書いていない。あれほどいかめしい扉の向こうにある書物だというのに、大して重要そうなものもない。
「なぁんだ」
 小さく僕は一人ごちた。その時。
「もーいーかーい?」
 すぐ近くからエルメノの声が聞こえてきた。
 そうだった、「もういいよ」と言うのを忘れていた。でも、この距離でこの場所からもういいよと言ってしまったら、すぐに僕がここにいるってばれてしまう。
 何か方法はないかと辺りを見回すと、大きな机とその後ろにレースの引かれたカーテンが見えた。僕は窓辺に駆け寄り、細心の注意を払って窓を小さく開ける。その隙間に向かって、できるだけ小さな声で答えた。
「もーいいよー」
 そしてすぐに窓を閉め、大きな机のどっしりとした椅子を引いて机と椅子の隙間に入り込み、椅子を引っ張り寄せた。
 エルメノのことだから、たとえ僕がここにいたとしても入っては来られないだろうけど、万が一ということもある。しばらくはここで息を詰めているしかないだろう。
 椅子と机の間から差し込む光の中で、僕はとりあえず今自分が入り込んでいる場所を確認してみた。頭上には引き出し。横は板。後ろは段が設けられてちょっとした棚になっているが、特に何かが置かれているわけでもない。
「つまんないの」
 唇を尖らせて窓の方を見たとき、椅子の向こう、窓との間に一つの鍵が落ちているのが見えた。玄関の鍵や部屋の鍵にしては小さく、小箱の鍵にしてはちょっと大きいその鍵は。最小限の意匠が凝らされているごくごくありふれた、しかし時が金属にしみこんでいるかのように古さだけはぴか一の鍵だった。
 エルメノの足音が近づいてこないのを確かめて、僕は椅子を押しのけ、四足で鍵を拾いに行った。
「何の鍵だろう」
 鍵に一本通された紐もずいぶんと黒ずんでいる。その紐を摘み上げ、僕はさらに辺りを見回す。この中途半端な大きさの鍵が入りそうな場所といったら――膝立ちになったところで、ちょうど机の引き出しの鍵穴が目の前に飛び込んできた。一段目の引き出しだ。大して深くもない引き出しだけれど、鍵がついているくらいだから何か大切なものが入っている可能性もある。
 まるで鍵穴に誘われるように、僕は拾った鍵を机の鍵穴に差し込んだ。
「入った!」
 ちいさいながらも喜びの声を上げてしまって、慌てて僕は左右を窺う。そして、誰もいないことを確認して、右に、左に回してみる。かちり、と音がしたのは、右に二回回したときだった。
 心臓が高鳴りはじめる。同時に周りの音が遠ざかっていく。
 僕はそっと引き出しを引きあけた。
「あった」
 中に入っていたのは、引き出しの深さいっぱいの厚さがある茶色い革表紙の本。金で装飾が施されてはいるが、表紙にも背表紙にも題名は書いていない。
 怪しい。
 思わずにんまりとしてしまった僕は、立ち上がって本を手に取り、机に寄りかかって一ページ目を開いた。
「〈予言書〉?」
 聞きなれない言葉に、僕は思わず音を口に出してしまう。
「なんだろう、〈予言書〉って」
 ほんとは、本を開いた瞬間にざわざわと背中に粟立つものを感じていたんだ。これ以上ページをめくってはいけないと、警告を発する声も聞こえていたような気がする。だけど、僕は自分の感覚の全てを無視して、好奇心だけを優先してページを繰りはじめた。
「『無は無でありて有にあらず。しかし無は無より生じ、無と名を与えられ有となった。有は無より出でた有。有は無に非ず。しかして、無の世界は有を得て形を成し、世界を成した』? なんだそれ」
 意味が分からないままに次のページをめくる。
「『序章。全ては我が望みが裏切られしことに帰す。我が意を汲まぬ者たちよ、永劫の地獄の中でのたうつがいい? 変えられぬ未来と終わりの見えぬ苦しみに。そしてやがて来たる絶望に、己が犯した過ちを悔いるがいい』……?」
   口に出すのもはばかられるようなどす黒い感情がこめられた文に中てられて、僕は思わずのけぞった。が、本を手から離すことはできない。ぱらぱらとページを飛ばし、斜めに読んでいくうちに僕はついに自分の名前をその中に発見した。
「『第五子、麗。熱の精霊と契約を結びし者。かの者、幼少時に己と遊び、禁じられた本を手に取る。それすなわちこの〈予言書〉なり』」
 ぞくり、と〈予言書〉を持つ手が血の気を失っていった。
「『かの者、定められし未来に絶望し、闇に引かれん。即ち、鏡と戯れし一羽の小鳥、遊びなれし庭より闇に堕ちん。漆黒に染まりし鏡面、両翼を隔て、片翼は闇に染まりて他者を欺き、片翼は光に惑いて己を欺く』」
 凍えた手で、僕はさらに〈予言書〉の後ろの方を開いてみる。
「……闇の炎に愛されし咎人アイカ……第三次神闇戦争……神代の終焉……人界への、転生……」
 文字に載せられた以上の情報が、直接頭の中に入ってくる。それは映像であり、音であり、胸を締付ける感情であり……
「ぁ……ぁ、ぁ……」
 手が震える。胸が酸素を求めて上下に揺れる。
「そこで何をしている」
 全ての情景が立ち消えたのは、声に驚いた僕が本を取り落としたからだった。それでも僕はまだパニックの中にいた。刻み込まれた内容が、何度も何度も頭の中で繰り返される。
 父は、無言で僕の足元に落ちた〈予言書〉を拾った。そして、裏切り者でも見るかのように蔑んだ目で僕を見た。
「あ、あ、あ、あの、ごめん、なさい……」
 涙が無尽蔵に溢れ出す。鼻水も啜る間もなく垂れていく。身体中が震える。誰か――エルメノ、母上、お願い、僕を抱きしめて。父上でもいい。寒いよ。凍えてしまいそうだ。凍えて、死んでしまいそうだ。
 死?
 永遠の命を持っていると教えられて育ってきた僕たちに、「死」が訪れるの?
 僕は、統仲王を見た。金色の冷酷な瞳。
 ねぇ、お願い。教えてください。真実は、どちらですか? 僕たちは死なないんですよね? 死も老いも僕たちには関係ない、そう、父上はおっしゃいましたよね?
 なのにどうして、ここには僕たちの死が当然のこととして記されているのですか? なぜ、人界に転生する話までが記されているのですか? 僕たちは、嘘を教えられて生きてきたのですか?
 なぜ、神界の長たる貴方が、嘘を吐いたのですか?
 貴方の言葉を信じてもいいのですか?
「ぁ、あ、ぁ……」
 教えてください、父上。そんな蔑むような目で僕を見てないで、助けて、父上。
「他言するな。兄姉にも、エルメノにも」
 突き放さないでください、父上――。
 何一つ伝えたい言葉は声にならなかった。まるで言葉を奪われたように、僕は呻き声しか上げられなかった。統仲王は僕などここに存在していないかのように僕の横の引き出しを開け、本を戻し、また鍵をかけて今度はその鍵を自らの懐にしまいこみ、何も言わずに書斎を出て行った。
「父、上――……」
 縋りつくものもなく、僕は床にがくんと膝をついた。
 もうあんなものは見たくない。そう思うのに、未来つづきが知りたくてたまらない。衝動に駆られるままに、机の引き出しの一段目の取っ手を引いてみるけど、どんなに力をかけても引き出しはもう二度と開きはしなかった。
「あ、みーつけた」
 とことこと、躊躇いなくエルメノが入ってくる。
「エル、メノ……」
「どうしたの?! 麗ちゃん、真っ青だよ?」
 エルメノの目に映った僕は、ひどい顔をしていた。この世の果てを見てきたかのような、憔悴した顔。とても、今までの無邪気な子供の顔には見えなかった。
「エルメノ……!!!」
 手が届くがままに、僕はエルメノの腰に抱きついた。お腹に顔をうずめた。体温が少しずつ僕の元に届きはじめる。周りの音が規則的な脈拍に整理されはじめる。
「助けて、エルメノ。助けて」
 僕は、一体これから何を信じていけばいい? 誰を信じて生きていけばいい?
 力のままに抱きしめているのに呻き声一つあげず、エルメノは僕の頭を胸に抱きしめた。
「大丈夫だよ。麗ちゃんには僕がずっと側にいてあげる。ずっと、ずっとだよ? 何があっても、僕だけは麗ちゃんを裏切らない。ね、約束するから」
「ああ、エルメノ、エルメノ――!!」
 泣きじゃくる僕は、このときから彼女の世界の虜になった。











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