聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 6 章  鍍金の望み

6‐2

「ただいま、アイカ」
 この扉を前にした時、一番初めに言う言葉はもうずっと前から決めていた。
「お帰りなさいませ、……」
「麗でいいよ」
 呼び名を言いよどんだアイカにそう言うと、アイカは麗が見たくて仕方なかったあの田舎くさい、だけどとても幸せそうな心からの笑顔で僕を出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、麗様」
 僕らはしばし見つめあうと、お互い、どちらからともなく気恥ずかしさに笑った。この際、身長が微妙に僕の方が足りないとか、君の瞳に映る僕の目が紫水晶のように耽美な色をしていないとかいうのは気にしないように心がけて、僕はアイカの導くままに懐かしい廊下を食堂まで歩いていった。
「出来上がりが間にあってよかったです。今でもお好きですか? ソラマメのスープとサーモンのムニエル、それから焼きたてのパン」
 出来立てらしく、白い湯気が立ち上る食卓を前に、僕のお腹は正直に空腹を告げた。
「もちろんだよ!」
 心配そうなアイカに笑顔を返して、僕は食卓についた。
「アイカも一緒に食べよう」
 それから僕たちはいろんな話をした。ほとんどが麗が生きていた頃の思い出話で、麗がいなくなった後の千年に触れることは僕からはなかなかできなかった。遅い夕食を済ませた後も、ティータイムを楽しんだ後も、だ。
 僕はいつまでもここで麗になっているわけにはいかない。アイカもそれは分かっていたのだろう。そして、僕が樒おねえちゃんから時の実を預けられてきたことも気づいていたに違いない。
 時計の針が十一時半をさした時、麗が生きているときには麗が寝てしまうまで片付けなかったティーセットを、アイカはおもむろに片付けはじめた。
「アイカ、手伝うよ」
「いいから麗様は座っててください。これは私の仕事なんですから」
 厨房から追い出されて、僕は身体を預けても埃一つ舞い上がらないソファにごろ寝する。
「僕が死んだ後のことを聞いてもいい?」
 顔を合わせていないからこそ、ふとそんなことを言えたのかもしれない。
「いいですよ」
 アイカはカップやソーサーを洗う手は止めずにあっけらかんと返事をした。むしろ僕の方の思考が停止してしまう。聞こう、聞こうとは思っても、一体何を聞きたかったのか、と。
 だってそうだろう? この千年間、ほんとに誰にも浮気しなかったのか、とか、もう一人のアイカ・ルーチェスというあの老婆はあの時の子か、とか……自分で自分が重すぎていやになってくる。
 水音が止んで、布巾で食器を拭いて、アイカは丁寧に食器棚に食器を戻していく。それが終わると、白いエプロンをはずしていつもの椅子にかけ、僕の向かいのソファに浅く腰をかけた。
 ごろ寝していた僕も起き上がって姿勢を正す。
「聞かないんですか?」
 ふっとアイカが僕を見て笑った。
 僕は急に、自分がとても幼い子供のような気になってきて膝を抱えて顔を伏せた。
 おかしい。僕はずっと麗の記憶と生きてきたのに。お陰で実年齢よりも精神年齢はずっと高いと思っていたのに。
 どうしてアイカを前に気後れなんかしたのだろう。
「光様」
 なかなか顔をあげない僕に、アイカは優しく呼びかけた。
「約束を果たすために協力してくださって、ありがとうございました」
 けして他人行儀に言っているわけではないのに、何故か僕は悲しくて、同時にとても納得していた。
 麗が僕との共存を望んできたんじゃない。僕が麗でありたかっただけだったんだ、と。エルメノやクリスのことを言えやしない。僕も十分、自分の中のもう一人に依存してこの十二年間生きてきていたらしい。
「見抜かれてたんだ?」
 ふふふ、とアイカは意味ありげな笑みを漏らした。
「ずっと、お待ち申し上げておりました。麗様が羅流伽に旅立ってから、毎日毎日、ああこれが一日千秋というものなのか、と。ソラマメのスープも七日で飽きてしまいましたし、毎日サーモンのムニエルというのも、サーモンに脂が乗っている時期はいいのですが、夏はだめですね。ぱさっぱさになってしまって。毎日ご用意できたのは焼きたてのパンくらいなものでした」
 申し訳なさそうに言ってるけど、それが並大抵のことじゃないのは想像するだに難くない。
「ごめん。無茶な約束を取り付けてしまって」
「謝らないでください。無茶だとは思いたくなかったのでしょう? あの約束は、麗様がなんとしてでも帰ってくるという意思表示だった。それが嬉しかったから、私は毎日麗様のお帰りを待ちわびて同じメニューを作りつづけていた。それに……ああ、そうでした。一つ聞いておきたいことがあったのでした」
 アイカは遠い記憶を手繰るように目を眇め、僕に笑いかけた。
「私の勘違いかもしれませんが、もしかして麗様はもうとっくに私との約束を果たしてくださっていたのではありませんか?」
 僕の目の前に、一瞬にしてあの最期の夜、夢うつつに見た光景が蘇っていた。門番のいない城壁の門をくぐり、まだ多少雪の残る庭を足早に横断し、夜闇に白く浮き出した城で一ヶ所、厨房だけに灯りをともし、熱心に料理を作っている彼女を見つけた時の光景が。
「聞こえていた? 君はスープの味見をしていて、何かに気づいてようやく厨房の窓を少し開けてくれて」
「はい。麗様が帰ってきたような気がしたのです。だから窓を開けたら、――消えていく貴方の姿を見たような気がしたのです」
 僕たちは見つめあい、確認しあうように静かに笑いあった。そしてちらりとアイカが時計を見る。時計の針は短針と長針がだいぶ重なり合いはじめていた。
 僕は彼女の横に座りなおす。炊事洗濯、全ての雑用をこなす彼女の手は、当時がさがさに荒れ果てていたけれど、今は多少のささくれはあるもののきちんとケアをしてきたのだろう。柔らかくすべすべとしていた。
 その手に、僕は時解きの実を握らせた。
「謝らなきゃならないことがある」
 アイカが時の実を握ったのを確認して、僕は顔をあげ、彼女を覗き込んだ。「はい」とアイカは穏やかに続きを促す。
「僕は、君の同意も得ずに、自分の我侭のために、君の人としての人生を狂わせてしまった。君にかけた迷惑を謝るどころか正しもせずに先に逝ったことをずっと後悔していた。本当に申し訳ない」
 アイカの手を握ったまま、僕は深く、深く頭を下げた。彼女の手を握る僕の手は、取り返しのつかない時の重さに震えていた。
 そう、今更ながら。
 そんな僕の手に、アイカはもう一方の手を重ねた。
「迷惑をかけられたなんて思っていません。私は貴方に魔法をかけられたんです。貴方が無事にこの城に帰ってくるまで、変わらずに貴方を待っていられる魔法を」
「――アイカ」
 僕たちはそっと唇を重ねた。千年ぶりのキスだった。
 できることならこのまま離したくない。真面目くさって学校になど通うよりも、ここでアイカと二人きりで暮らしたい――わきあがる欲望に蓋をするように、アイカは唇を離し、時の実を握ったまま僕の手から自分の手を抜き取った。
 約束が果たされれば、もう僕のことなんかどうでもいいのか。そう詰りたくなるのを堪えて、顔をそらした僕は尋ねた。
「やっぱり、食べるの?」
 視界の端でアイカが時の実をしっかり両手で捧げ持っているのが見える。
「はい」
 満面の笑みで答えられて、ふてくされそうになる気持ちはもう、どうにもならない。
「そんな顔をなさらないでください」
「無理」
「我侭を……」
「まだ言ってない」
 アイカは困ったように小首を傾げる。
「アイカも人界に来ればいいんだ。その見かけなら十六歳くらいでしょ? 高校一年か二年に転入させてもらってさ、で、学校帰りには僕とミスドによって帰ったりとかしてさ。きっと楽しいよ。乗り物もここより便利だからうんと遠いところにも行けるし、世界中からいろんなものが集まってきているから食材には事欠かないし」
「それは、とても楽しそうな世界ですね」
 続きを見つけ出そうとして言葉を詰まらせた僕に、アイカはにっこりと笑いかけた。でも、その目はもう決して僕の言葉などに揺らぐことはなかった。すでに固めた決意とは別に、夢見るように同意してみせただけだった。
「麗様と出会う前、私は聖刻法王様と出会って、二度目の命をいただきました。この命は私の罪で死なせてしまった少女の命です。生まれたからには人としての人生を全うさせてやらなければなりません。我侭で、結婚や出産、家庭といったことは娘に任せてしまいましたが、その娘も今はここに還ってきております。あとは、この命を聖刻法王様にお返しするだけでございます」
 静かに語るアイカは、もうここを離れる準備をしているかのようだった。
「僕との未来よりも、聖との約束を優先するの?」
 僕は思うとおりにならない苛立たしさに、ついに口にするまいと決めていたことを口に出してしまっていた。
「僕との未来、というのは、麗様との未来ですか? それとも、光様との?」
 光と麗。いまだぶれつづける僕の心を定めようとするかのように、アイカはじっと僕を見つめ、やがて僕の動揺を読み取ったのだろう、ふっと息をついた。
「恥ずかしながら、アイカ・ロムスタンには麗様しか見えないのです。千年前も、今、麗様の転生である光様を目の前にしていても。お分かり、いただけますでしょうか?」
 今度息をつくのは僕の方だった。一体、僕は二十四時間もしないうちに二人の女性に振られたことになるじゃないか。なんだって麗ばっかりもてるんだろう。あんなわがままでいつまでも子供な男が。
「分かったよ」
 まだ心の中で渦巻く葛藤を口から喉、喉から胸、胸から腹に押し込んで、ようやく僕はそれだけを口にした。せめてぶっきらぼうにならないように気は使ってみたけれど、第三者から見ればそっけなく思ったかもしれない。それでもアイカはいやな顔一つしなかった。
「それでは一口、いただきますね」
 きゅっきゅと林檎のように光沢のある皮を磨いて、アイカは躊躇いなく時の実を一口口に入れた。
「あら、おいしい。そう、この味です。火事の後熱を出した時に麗様に飲ませていただいた解熱剤の味」
 しゃき、しゃき、と美味しそうにアイカはどんどん時の実にかぶりついていく。
「待ってよ、そんなに食べたら……」
 顔つきが、肌が、背丈が……年齢が一口ごとに上がっていっていた。
「やめてよ! やっぱりやだよ。そんな、アイカの老いる姿なんて見たくないよ!!」
 僕は、変容していくアイカから顔を背け、腕で頭と顔を覆った。
「光様、ちゃんと見てくださいまし。貴方も人間に生まれ変わったのだから、いずれ通る道でございます」
「いやだ! 僕は永遠がほしかったんだ。アイカとの永遠がほしかったんだ。老いたアイカなんか……見たくない」
 しわしわで骨と皮ばかりになった曾祖母のような手が、思わぬ力で僕の手首を掴んで開かせた。いやでも目の前にアイカ・ルーチェスよりも老いてしまったアイカの姿が晒される。
「こら、目を瞑るんじゃありません」
「うるさい」
「うるさい、うるさい、言うんじゃありません。もう、貴方は昔っから口答えばかり」
「ああ、もうっ。アイカは僕の母親じゃないだろっ」
「ええ、はい。麗様の母親ではありませんでしたが、貴方の世話を全般的に仰せつかったメイドでございました」
 誇り高く、朗々とアイカは言った。
「その称号にさ、麗の妻ってのも入れておいてよ。結婚式もお披露目も何もしてあげられなかったけど」
 老婆を前に言っているというのに、どうしてこうも心臓が高鳴るものなのだろう。照れて顔が火照っている間に、アイカはますます皺くちゃになって小さくなっていく。
「そのお言葉だけで、十分でございます」
 皺に埋もれていくアイカの目じりに、きらりと涙が光った気がした。
「私、またすぐに貴方の側にいける気がするんです。ただ一つだけ気がかりなのは、私がいなくなったこの空間に貴方を一人で残していかなくてはならないこと。――どうか、泣かないでくださいましね。光様」
 握っていた手がぱらぱらと砕け落ちていき、いとおしげな笑顔を残してアイカは僕の手の届くところからいなくなっていた。
 残された空を、腕に残った衣服ごと僕は抱きしめる。
「アイカ…………」
 泣かないなんて無理だった。なのに涙は目を潤ませ、鼻をじんじんさせるだけで頬を伝い落ちようとはせず、胸に詰まったものだけが、時計の長針と短針が再び離れてしまったあとも残りつづけた。
 どれくらいそうしていただろう。
「光、帰ろう?」
「クリ、ス……?」
 いつからそこにいたのか、そっと覗き込んだクリスが足音もたてずにゆっくりと部屋の中に入ってきた。
「今日も学校、休みにはしてくれないそうだからさ」
 おどけてそう言ったものの、クリスはアイカのいた場所に深く腰をかけた。
「アイカが……」
「うん、いっちゃったね」
「いっちゃったね、じゃないよ」
「エルメノの言葉、忘れちゃった?」
「エルメノの、言葉?」
 小さく顔をあげた僕に、クリスは諭すようにその言葉を繰り返した。
「『ぼくが消えてもアイカの魂は君とともに輪廻しつづける。アイカならいつも君の傍らにいてくれる』」
「どうしてクリスがそれ知ってるんだよ」
「それは……エルメノは僕だったから」
 僕はもう、深く考えることはやめにした。
 きっとエルメノは僕であり、麗であり、カルーラであり、クリスであり、安藤朝来であり、そして、アイカなのだろう。僕は彼女の作った多面鏡の世界でずっと息をしてきたのだ。
 その世界が崩れた。
 ただ、それだけのことなのだ。
 僕の世界は、初めて正常化される。いや、この異常事態を正常なものとして受け入れていかなければならないのか。
「朝まで側にいてよ、クリス」
 想像する未来の孤独に耐えられなくて、僕はクリスの腕にしがみついていた。
「今日だけ。あと数時間だけだから」
「仕方ないな」
 クリスは、いつかカルーラがそうしてくれたように、包み込むように僕をそっと抱きしめた。











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