聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師

◇終 章◇

 エルメノとアイカが旅立った翌朝。僕の目に映る世界はいつもとかわりはなかったけれど、どことなく大切なものが欠けてしまったかのように味気ないものになってしまっていた。それでも、クリスが『眠いなら学校で寝ればいいよ。来れば欠席にはならないし。それに、安藤さんのことも気になるでしょ?』などというものだから、仕方なく誰もいない家に戻って制服に身を包み、鞄を持って電車に乗って校門の前まで来ていた。
 登校前、ようやく電話で捕まえた父さんは、ママはがんばってるけどまだまだ生まれそうにないと言っていた。だから安心して学校に行ってこい、と。もし生まれそうになったら早退してきていいから、って。
「あの、お、お、お、おはよう! ござい、ま、す……」
 校門を潜ろうとした瞬間、ほんとに待ち伏せていたんじゃないかというタイミングで、僕は夕焼け色の髪とエメラルド色の瞳を持つ少女に上ずった声で呼び止められていた。
 桜が風に吹き散らされて、花びらが舞ってくる。
 僕は一度目を見開き、それからゆっくりと息を吸い込んで、吐き出した。
「おはよう、安藤さん」
 うまく微笑めたか、気にする間もないほどあっという間に、安藤さんは顔を赤らめて校舎へと走り去っていってしまった。
「クラスでもまた会うのに」
 思わず小さく笑っては見たものの、僕の心に茫漠と広がっていた不安は強固なものとなりはじめているような気がした。エルメノがいなくなって、安藤さん本人が学校に来た。それはとてもいいことだ。めでたいといってもいいかもしれない。だけど。
 そう、だけど、僕は落胆したのだ。彼女の姿を見て。これから毎日、あのエルメノと顔は同じなのに中身が全く違う子と一緒に、一日の大半をあの狭い教室の中で過ごしていかなければならないのか、と。彼女の顔のつくりはエルメノそっくりだったけど、でも、どんなに目を凝らしてももう彼女をエルメノと間違えることはないだろう。彼女にはエルメノを感じない。引っ込み思案でどこかおどおどとした彼女からはエルメノの片鱗さえも感じない。同じ顔なのに、中身が違うだけでああも変わるものなのかと、愕然とするほどだった。
 それでも。
「よ、おはよ、光!」
「おはよう、クリス。って、何笑ってんだよ」
「何って、だって微笑ましい光景だなって。きっと彼女、惚れたよ、光に」
「え゛っ」
「何いやそうな顔してんの。まんざらでもないくせに」
「いや、まんざらも何も、ないって。僕には桔梗という運命の人がいるんだから」
 つるりと口から桔梗の名前が出てきて、僕の心は何故か一瞬凍ったのだけれど、クリスには大ウケだったらしい。
「運命の人! 桔梗さんが! あっはははははは、振られたのにしつこいね、光も!」
「あー、うるさい。振られた、振られたいうなってば」
「ねー。光くんまだまだ発展途上だもの。もしかしたら大逆転もあるかもしれないわよねー」
 いつの間にか一緒に横で頷いていたのは――
「桔梗!!」
 思わず、僕は飛び跳ねていた。
 何でだろう。心臓まで高鳴りだす。桔梗が隣にいるだけで。
「あ、光くん、昨日たくさん電話くれたみたいだったのに、出られなくてごめんなさいね。私、昨日うっかり携帯家に忘れてきてしまってたのよ」
「あー、桔梗、よくやるよなー。携帯不携帯」
 一緒に登校してきていた葵さんが困ったように頷く。
「許して、ね?」
 小首を傾けてお願いをされて、僕は思わず勢いよく頷いていた。
「うん、もちろん気にしてないよ、桔梗!」
 何も、苦手なことを得意気に見せることはない。無理に他人の期待する木沢光を演じる必要もない。麗の記憶を抱えながら、子どもの振りをし続ける必要もない。他人の望みや常識を映す鏡になる必要なんかどこにもないんだ。
 一秒先の未来が見えなくて足掻くこの今一瞬は、僕だけのもの。
 己に素直に。
 それだけで、僕の視界にも鮮明な色彩が蘇ってくる。
 ようやく、僕はちゃんと麗を受け止めるための準備が出来てきたのかもしれない。
 生きよう、麗。
 君が経験したことのない年齢まで、共に寄り添って生きていこう。
 あと七年たって、僕が成人した時。そこから先は麗の知らない時間になる。その時からようやく、僕は君を理解できるようになるんだろう。そんな日が来ることを祈って、とりあえず僕は見ず知らずの一秒先へと足を踏み出す。薄紅色の桜の花弁が見事に風に吹き散らされて降り注ぐ、そのトンネルの向こうへと踏み込んでいく。
 真っ白な未来。
 ふと、頬に冷たいものが触れた。
『光、雪を降らせるよ。ぼくがきれいになれたら、その時は真っ白い雪を降らせる。何よりも白い、純白の花を』
 ふわふわと、花弁の中に綿帽子のような小さな雪の欠片が混ざっていた。
 真っ白い雪花。
「エルメノ――」
 僕はしゃがみこんで、道端に降り積もった桜の花弁を両手いっぱいに抱え込み、立ち上がるなり青い空へと向けて放った。
「受け取れ。僕からの餞だ」
 二度と会えないと分かってはいても、本当はどこかで生きているんじゃないかって思うんだ。
 そう、たとえば――。
「もしもし、僕だけど」
 校門から校舎への短いような長いような道のり。割り込んできた着信音。
「女の子、生まれちゃった」
 ついさっき家から電話した時はそんなそぶりもなかったのに、受話器越しに聞こえてきたのは一仕事終えた達成感に満ちたあっけらかんとしたママの声だった。
 ていうか、どれだけ早かったんだ。父さんめ、もう少しならもう少しって言ってくれればよかったのに。早退する間もないじゃないか。
 父さんへの不満はとりあえず胸の中に押し込めて、僕は心のまま、喜びの声を上げる。
「ほんと!? うわ、どうしよ。僕、すぐ今から行くから! 病院だよねっ?」
 携帯を握りしめて回れ右をすると、クリスと桔梗、葵さん、それに樒おねえちゃんと守景洋海が笑いながら立っていた。
「クリス、僕、今日早退!! 妹が産まれたんだ! ちょっと病院行ってくるから、先生によろしく言っといて!!!」
「早退って、まだ教室にも入ってないんだから欠席だろ」
「クリスも放課後来いよ! 場所とかあとで連絡するから」
 後ろも振り返らずに言葉だけ残して僕は駆け出す。
 そうさ。そんなわけはない。分かってはいるけど、この雪花は君が戻ってきた証だ。
 僕らの元に。
「お帰り、エルメノ。お帰り――アイカ」
 僕は降り注ぐ朝日の中、校舎へと向かう生徒達の間をすり抜けて校門を飛び出した。
 名前はとうに決めている。
 澄み切った心で凛と顔をあげて生きていってほしい。アイカのように。そう、願いをこめて。
「待ってろよ、凛。今、逢いに行くからさ」





〈了〉











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200905101518