聖封神儀伝

1.鏡幻の魔術師


 欺かれしは 己かなれ
 紡がれゆくは 泡沫の記憶
 我こそ真と欲すなら
 背負いて辿れ 偽者の業









◆序 章◆

 見たいものは何もなかった。
 もう、何も見たくないと思った。
 どんなに探しても光は見えない。
 どんなに歩いても、出口に辿りつかない。
 見えるものは。出くわすものは――この世の生き物とは思えぬほど醜悪な姿をした負の感情が凝った化け物たち。
 それでも、僕らは手をつないで歩き続けていた。
 このぬくもりだけが、僕をこの世につなぎとめている。
 何もないならその方がよかったんだ。
 そう、もういっそ出口も何も見えなくてよかった。
 僕ら、二人でいられればどこだってよかったんだ。
 神界でも、闇獄界でも――。






 暗い。
 もはやそうとしか形容しようがない。
 それは僕が幼くて言葉を知らないからとかそういうわけじゃなくて、一面、それこそ天がどれほど高みにあるかもわからないほど真っ暗だった。
 とはいえ、光など一条もさしこんでいないくせに物は見える。
 全てが粘つく瘴気の薄い膜を通してだったけれど、僕らは何度も互いの顔を確かめ合いながらここまで歩いてきた。いや、歩くというのは正確じゃないかもしれない。漕ぐ、というのがきっと正しい。
 八歳児程度の身体うつわの胸元まで迫る澱の液面は、粘つきも強力なら臭いもひどかった。息を吸うたびに頭が鈍器で殴られたように星が飛ぶ。せめて袖を通して息をしようとしたが、その袖すらすっかり瘴気を吸ってこの世界のものになっていた。
 こうなってはもはや、身体の内側までが黒く染まっているに違いない。胃に溜まっていくものは母の作るおいしいご飯などではなく、悲しみや怒りの塊。それらを抱えている限り、僕は一生この抑鬱とした気分から抜け出せないだろう。
 僕たちは、ただ遊んでいただけだったんだ。エルメノと二人、天宮の日差しがさんさんと降り注ぐ春の庭で花を摘んだり蝶を追いかけたりして。それが、突然目の前に現れた真っ黒な穴の中に吸い込まれて、僕らは今、ここにいる。
 こんな――こんなはずじゃなかったんだ。
 春の庭で遊んでいれば安全なはずだった。僕らを飲み込み闇獄界へ吐き出す次元の穴が現れるのは、僕らがいつも遊んでいる庭――冬の庭の方だったはずだ。だから僕はわざと、今日は冬の庭ではなく春の庭で遊ぼうとエルメノを誘ったのに。
「麗、止まっちゃだめだよ。止まったら、もう二度と歩き出せなくなる」
 気丈に励まし、エルメノが僕の手を引く。
 見えるものが真っ黒なものばかりだと、この先続いていく僕の時間すらも真っ黒く塗りたくられているような気さえしてくるものだ。そんないつ出られるとも知れないトンネルの中でひたすら光を探し続けられるほど、僕は強くない。
 諦めるということを僕は知っているんだ。
 僕だってあの優秀な兄、姉たちの中で育ってきて、それこそ僕にも同じように輝かしい道が開かれているんだと思ってた。
 だからこそ、〈予言書〉に定められた運命も変えられると信じていたのに――だけどやっぱり、僕は彼らとは違かったらしい。
 彼らは、真に神の子なんだ。神界の草創期から生きてきた紛れもない神の子。
 僕だって、確かに統仲王と愛優妃、あの二人から生まれてきたんだと言われるよ。でもさ、二人の神と称される者の血を引いていて、おまけに予め己の運命まで知っていたというのに、結局僕は何も変えられやしなかったんだ。
「エルメノ、もうやめよう。もう無理だよ。どう歩いたって出られないに決まってる。気まぐれで僕らを吸いこんだんだ。奇跡でもおきなきゃ神界になんか帰れないよ」
 ここに落ちてからずっと握っていた手を、僕は緩めた。
 まどろむように、僕はゆっくりとヘドロの中に腰を沈める。
「麗! 駄目だよ! 手を離すんじゃない!!」
 はたくようにエルメノは僕の手をつかみ、引き上げた。
「ぼくから手を離しちゃ駄目だって、あんなに言っただろう? 大丈夫、ぼくといれば絶対にここから出られるから。諦めないで」
 僕はエルメノに手を引っ張られ、ヘドロの水面に顔だけ出していた。
「どうして? もういいよ。僕はもう、ここでいい。エルメノが一緒なら、僕は神界でも闇獄界でも、どこでも……」
「ぼくはやだね。こんな真っ暗くて気持ち悪いものしかない場所、いくら麗と一緒でも、ぼくはごめんだ。だって、ここじゃかくれんぼも鬼ごっこも、花摘みも何も出来ないじゃないか。せっかく麗といるのにつまらなすぎるよ」
 ぐい、とエルメノは両手で僕を引き上げる。
 引っ張られる力と、引きずり込もうとする力。相反する二つの力に僕の身体は引き裂かれそうになって、思わず僕は呻き声を上げていた。
「麗!! 君が負けたら終わりなんだよ。しっかりしろ! ちゃんと神界に帰るんだって強く願え!! そうすればその闇は絡みつくこともなくなるから」
 そんなこと言われたって、身体は重い。
 いいじゃないか。もう、ここで眠ったって。
 これまでどれくらい歩いてきたと思う? もうどれくらい眠ってないと思う?
「エルメノ、僕のことは置いてっていいよ。そんなに帰りたいなら、僕のことは置いてって……」
 諦めることを決意すると、身体を包む黒いものたちはとたんに柔らかく受け入れてくれるようになる。寝なれたベッドのように優しい夢を見せてくれるような気がしてくる。
「麗。ぼくのことが嫌いになった?」
 哀しげにエルメノは腰をかがめて僕を覗きこんだ。
 美しい明緑色の瞳。それが、今は瘴気に黒く曇っている。
「違うよ。君が麗なんだ。君こそが、神の子に相応しい。だってそうだろう? 君が闇を払いのける輝きを纏っているのは、君こそが麗だからだよ。顔も形も、僕らは鏡を見るように何もかもそっくりだ。でも、ひとつだけ違うことがある。君は闇に馴染まない。僕は、もうここが居心地いいとすら思いはじめている。――エルメノ、君に僕の名前をあげるよ。僕の家族も、運命も、何もかもエルメノにあげる。だからさ、もう僕のことは放っておいてよ。僕はこのままでいい……」
 何もいらないと思った。
 神と崇められる父も母も、神の子と讃えられる優秀な兄も姉も。そんな彼らの家族とみなされて嫉妬しかできない自分も。
 全部いらないと思った。
 捨ててしまえ。せっかく廃棄物が流れ込む吹き溜まりにいるのだから。
 ここは神界にあってはならない負の感情を流し込んで封じ込めた闇色の世界。見てはならない秘密の世界。
 それならいっそ、その秘密を覗いてしまった僕もこの世の澱に融けてしまえばいい。
 澱の中に沈む身体。
 僕は、永遠にこの身体の中に囚われつづける。
 神の子だから。
 神の子だから、永遠という退屈な時間を蜿蜒とやり過ごさなければならない。
 もし、名前を捨ててしまえたら、そんな時間も一緒になくなってくれるんじゃないだろうか。もし、神界ではなくこのごみための中に廃棄物とともに身体を埋めたなら、僕はこの身体から解放されることができるんじゃないだろうか。なにしろ、ここは闇獄界だ。神界の定理は働かない。普遍すらも歪めてくれそうな気がする。
 そうだ。僕が望んでいるのは退屈しない毎日。普遍と永遠というものが存在しない流動的で刹那的な世界。
 だってそうだろう?
 同じ毎日が続く中を生きて何になる? そんなのは棺の中で眠り続けるのと同じことだ。
 そう。例えば僕の時間の感じ方は人間たちと同じなんだ。日が昇り、日が沈んで真夜中に一日を終える――一日、一日が人間たちと同じ感覚で僕の中にも流れてくる。それなのに、僕だけはいつまでたっても子供の姿のまま、遊び相手が年老いて五百年の寿命を終えても、成長は人間の年齢にして五歳分。いつまでこんな長い時間を無為に過ごさなければならないというのだろう。
「いらない」
 エルメノの声は僕の心を代弁しているかのようだった。
「君の名前なんて、いらない」
 それなのに、あっさり次の句で僕を裏切った。
「どうして」
 責める気はない。もはや声に力はない。
 いいんだ。このまま飲み込んでくれ。
 別に、神の子が一人いなくなったところで上には目立つ兄と姉たちが四人もいる。統仲王と愛優妃だって年老いることなどないのだから、これからいくらでも神の子と呼ばれるものは増え続けることだろう。
 僕なんて存在は、あの世で最も矮小で皮肉に満ちたものだったんだ。それは、そう、だから僕は誤ってあの二人の間に生まれてきてしまったようなもの。いや、きっと慈悲深い愛優妃がどこかから捨てられている僕を拾ってきたのだろう。そして、統仲王と二人で永遠という時の魔法で僕の魂を縛りつけたんだ。エルメノにそうしたように。
「ぼくにはエルメノって名前があるから。だから、麗の名前はいらない」
 エルメノの拒絶は、即ち僕自身の拒絶。
「あは……ははは」
 僕は、ついに僕自身からもいらないと言われた。
「あはははははは」
 僕は、ついにいらないと認められた。あの世に必要ないと、そう、僕自身から!!
「麗!」
 眉をしかめ、心配半分、叱り半分にエルメノは叫ぶ。そんなエルメノとは関係なしに、僕は僕で陶酔半ばに呟き、叫んでいた。
「いらない。僕は、いらない。もう、僕はあの世にはいらない……!!」
「麗っ」
 手を伸ばした。
 エルメノのすべすべとした陶器のような頬が少し紅く高潮しはじめていたから。
「ありがとう」
 触れた頬は熱かった。熱くて、さらさらとした涙で濡れていた。
 僕が泣いている、と、僕は思った。
「泣かないで。君は、僕の心を代弁してくれたのだから」
 そう言いたかったけれど、僕の口はすでに黒く粘つく澱の中に沈んでしまっていた。
 僕だって、「麗」なんて名前はいらない。
 僕が欲しかったのは、神の子に与えられる名なんかじゃなく、人間の子供に与えられる名前。もっと一般的で、名前を聞いた瞬間に息をのまれることなんかなくて、ちっぽけな僕にぴったりのありふれた名前が、僕は欲しかったんだ。
 大それた力もない僕に、「魔」などという文字も相応しくない。
 いらない。
 全てを捨てて、僕はこの澱の中から生まれ変わろう。
 本能のみに任せて生き物を襲い、時に仲間すら食う闇の魔物どもの一部となろうとも、「魔麗法王」が僕でなくなるのならば、それはそれで本望なのだ。
 退屈な時間も何もかもをその名が背負っているのだから、僕はこの名を捨てて麗とは違うものになりたかった。
 神の子の責務を誰かになすりつけてでも。
 でもそれは、僕が法王であることを捨て切れていない証拠。正確には、法王の責務の重さから逃れられないでいる証拠。
 誰かが僕になりかわってくれたなら、僕は安心して僕をやり直せるような気がしたんだ。
 そう。僕にそっくりなエルメノが、僕よりも神の子に相応しい資質を持つエルメノが僕になってくれたなら、僕にとってこれほど嬉しいことはない。
 魔麗法王は、身体を変えることなく生まれ変わることが出来るんだ。
 だけど、そうだね。言葉で託すだけじゃ君の心までは縛れないよね。
 一体、どうすれば君は僕になってくれるのだろう。
 エルメノ。
 そんな目で見ないで。
 そんな哀れみと苦しみをない混ぜにしたような目で僕を見ないでよ。
 偽者になれと、僕は言っているわけじゃない。
 そもそも僕が偽者になればいいのだから。どこにも麗の本物なんかいなかったんだ。だから、君が本物になればいい。君こそ魔麗法王の名に相応しいんだから、きっと僕なんかよりも本物らしい麗になれる。
 そのかわり、僕が偽者になるから。
 だから頷いてくれよ。せめて、あの人たちから「麗」を奪うような真似を僕にさせないでおくれ。
「麗。君はいつかこの日を悔いることになるよ」
 だけど、エルメノは僕の願いを聞き入れてはくれなかった。
 エルメノの声をかき消すように耳障りな濁流の音が耳の中に流れ込んでくる。次いで、エルメノに握られたままの僕の指先にかすかに灼けつくような痛みが走った。
 焦燥感と表裏一体の安堵感が痛みに苛立ち、僕の意識を揺さぶり起こす。その揺れは意識のみにとどまらず、僕の全身をも鞭打った。
「魔麗法王!」
 引き上げた僕を睨みつけるエルメノの目は強い意思に満ち溢れていて、とてもさっきまで泣きそうな顔をした八歳の子供だったとは思えないほど遥か先を見通すように年経りていた。そして、闇しかなかったはずのこの世界で、その顔は強烈な紫色の光を浴びて異様な影を顔中に彷徨わせていた。
「エルメノ……」
「魔麗法王、ぼくは君になることは出来ない。なぜなら、ぼくは君の影になるべくして君の元に降りてきたのだから。影が主を差し置いて主に成り代わることは、決して許されない。何より、ぼくらにとってそれほど無意味なこともない」
「な、何言ってるんだ。影とか、主とか……そんなこと今まで一度も口にしたことなかったじゃないか……」
「しなかったよ。君が影がいないことにコンプレックスを持っていることを知っていても、ぼくは自分が君の影になる者だとは絶対に名乗り出なかった」
「い、いらないよ! 今更影なんかいらない! 僕は何もいらない!! 魔麗法王になんかなる気ないんだ。僕は、独りでいい。あるいはエルメノ、君といられれば僕は……」
「一緒にいるためにぼくたちは契約したんだよ、麗」
 すっとエルメノは自分の指先で傷つけた僕の指先からあふれ出す血を拭った。その手に握られているのは紫色の光の発光源――魔法石。
「契約を、した……? 嘘だ! 僕は同意なんかしてない!!」
「同意なんかいらない。君の血だけあればいい。それだけで、ぼくの〈熱〉の精霊王としての力は君の魂とともに息づきはじめる」
 エルメノは握っていた紫色の魔法石をそっと僕の汚れた胸元に押し当てた。
「麗。ぼくは君を助けたい。君とともに神界に帰りたい」
「エルメノ、君と僕は同等だ。いや、理想の僕である君は僕なんかよりずっと高みにいるべきなんだ。影なんて、そんなもので君を縛りたくはない」
「それは自分が自由でいたいから?」
 瞬時に切り返された言葉に、僕は詰まった。
「……エルメノ……」
 息も切れ切れにそう呼ぶのがやっとだった。
 エルメノはかまわず魔法石を僕の胸元に埋めていく。
 僕がどんなに心で拒絶しようとも、魔法石は僕の身体に受け入れられていく。
「どうして……? どうして今更そんなこと言い出すんだ……」
 他の兄や姉たちは、わりと幼い頃から影と契約を結び、影とともに生きてきたという。だけど、僕にはいつまでたっても影となりそうな奴は現れなかった。きっとそれは僕が神の子に相応しくないからなのだと、僕は自分で自分に言いきかせていた。
 統仲王と愛優妃がただの遊び相手だったエルメノに永遠を与えたとき、本当は気づくべきだったのかもしれない。なぜ、たくさん城に上げられてきた遊び相手の中からエルメノだけが永遠を与えられたのか。単に僕が気に入ったのがエルメノだけだったからだと僕はずっと思っていたけれど、あの二人がそんな単純な理由だけで人の運命を枉げるようなことをするわけはなかったのだ。
「君と同じだよ、麗。ぼくも君と対等でありたかった。ぼくらはほら、髪や目の色は違えど鏡を覗いているかのように見た目がそっくりじゃないか。考え方だってそんなに変わりゃしない。双子のようにお互いが考えてることがよくわかる。君が影がいないことでどんなに苦しんでいたかも知っていたけど、それ以上にぼくは君と対等でありたかったんだ。そのことの方が君とぼくにとっては重要だと思っていたから」
「じゃあ……っ」
「でも、それよりも優先されるべきはぼくと君がいつまでも共にあること。違うかい、麗?」
 魔法石から放たれる紫の光は次第に僕の中に収束していく。その残滓のような明かりに照らされて、エルメノは艶やかに笑んだ。
 その微笑だけで、僕の思考と心臓は止まりそうになる。
 それは、ごくごく最近のことだ。病の発作のようなもので、時々、エルメノの何かに触発されて僕の心は締めつけられながら膨れ上がる。
「エルメノ」
 好きなんだ、僕は。
 自分と頭の天辺から足のつま先までサイズも形も何もかも同じこの子が、僕はどうしようもなく好きなんだ。僕に似ているから好きなんじゃない。僕と瓜二つなのに、僕よりも強いから惹かれるんだ。
 僕は、エルメノになりたかった。
 憧れが好きという気持ちに変わって、浅ましい所有欲をすりかえるために、僕はエルメノになりかわりたいなどと思っている。違うんだ、本当は。本当は僕がエルメノになるんじゃなくて、エルメノを僕にしてしまいたいんだ。こんなに似てるんだもの。元は一つだったに違いない。僕の願いは分かたれたものを一つに戻したい、それだけ。
 ぐちゃぐちゃと心の中はこの世界に満ち溢れる澱のように形を持たないさまざまなものが渦巻き、僕の心を翻弄する。
 一人、この闇の中に同化してしまいたい。
 だけどそれ以上に、エルメノが望んでくれるならば、僕はエルメノとともにありたい。出来れば神界以外のどこかで。この世界でだって僕はかまわなかったけれど、エルメノが神界で僕とともにありたいというならば……そう、今なら――影を手に入れた今なら、神界に帰ってもいいかもしれない。
「は……っ」
 思考が自分の本音に触れた瞬間、僕はエルメノの手を振り切り、その本音を漏らした自分を嘲笑ってやった。
 結局そうなのだ、僕という奴は。
 影がいなかったからじゃない。
 兄、姉たちが優秀だったからじゃない。
 人々が神の子と持ち上げるからじゃない。
 僕が僕自身を卑小と感じるのはそんな外面的なことが原因なんじゃなくて、自分のこの無駄に高すぎるプライドを守るための愚劣な思考回路に触れたとき。
 いっそ、この考えが卑しいものだと気づかずに、そのまま寄り添っていければよかったのに。いや、いつも寄り添いはするのだ。卑しいと分かっていながら、僕は自分を守るために愚劣な思考回路に従って誰かを裏切るのだ。
 手を振り払われたエルメノは、僕の思考の軌跡になど気づきもせずに、ただ僕の背後だけを見つめて何事かを呟いた。
「〈氷矢〉」
 冷気が頬を掠め、背後へと飛び去っていく。
 間髪をいれず、思わず肩をすくめてしまうような恐ろしい咆哮が轟き、何か巨大で重い物が崩れ、倒れる音が響いた。
「逃げよう、麗。絶対にここから抜け出すんだ」
 望んだんだろう、と言われれば、そうなのかもしれない。
 僕は確かに〈予言書〉に定められた運命を変えようとした。
 曰く、『鏡と戯れし一羽の小鳥、遊びなれし庭より闇に堕ちん。漆黒に染まりし鏡面、両翼を隔て、片翼は闇に染まりて他者を欺き、片翼は光に惑いて己を欺く』と。
 僕らに定められていたのは、世界という壁に隔てられる未来。
 僕が一番恐れていたのは、二人が一緒にいられなくなる未来。
 エルメノと一緒ならどこでもよかった。これは嘘じゃない。闇獄界で眠ることになったって、傍らにエルメノがいるならそれでよかった。むしろ、影を持たない僕にとっては、その方が都合がよかった。
 そこまでなら、考えていた。本当は。
 だけどいっそ、運命とやらが闇獄界という名の異世界に僕らを連れ出してくれるなら、それでもいいと、僕は心のどこかで思ってた。いや、願っていたのかもしれない。〈予言書〉に定められた離れ離れにされる未来を変えようと、異次元に通じるうつろいの庭を避けようとしながらも、実は僕自身が呼び寄せていたのかもしれない。
 エルメノが僕の影だと知っていたら――知っていたら、僕はきっとそんなことは望みもしなかったろうに。
 狡い自分。
 自分に都合のいいことばかりを想像して、結局墓穴を掘っているというのに、僕はまだ、あくまで自分の都合のいいように想像を繰り返す。
 だけど、結局〈予言書〉は決定的な答えをくれなかったじゃないか。どちらが闇に残り、どちらが神界に帰れるのか。いや、僕は、違う。決して一人エルメノを置いて神界に帰りたいと望んでいるわけじゃない。違うんだ、だから僕は、そんなこと望んでいない!!
 腕に全身の力を込めて、僕は己の卑しい思考を打ち払った。
 形のない想念は、しかし、腕に相応の重みを与えて僕の前から消えていく。
 同時に、僕そっくりなエルメノの姿も僕の目の前から消えていた。
「エル……メノ……?」
 腕に残る柔らかくも鈍く重い感触。
 僕は自分の腕を見た。黒い瘴気が蛇のように絡みついている腕。それは僕の卑しい思考だけじゃなく、エルメノの身体までも打ち払い、突き飛ばしていた。
「麗ーっ!」
 エルメノの悲鳴が僕の耳朶を打つ。
 僕は即座に日の下でなら明るい金橙色にふわふわと揺れ輝く髪を捜した。しかし闇の中では、いかに目立つ髪の色をしていても全てが黒くくすみ、靄がかって見える。
「エルメノ! エルメノ! エルメノ!」
 いやだ。いやだ、いやだ、いやだ。
 エルメノと離れるのだけはいやだ。
 置いていかれるなんて、いやだ。
「エルメノ!」
 僕は必死にもがいた。エルメノの悲鳴が聞こえた方へと一身に闇を掻く。
 胸の奥に埋められた魔法石が痺れるような波動を身体中に広げていく。それが胸騒ぎと同じものなのか、冷静さを欠いた僕にはもはや分からなくなっていた。
「麗……麗、麗!」
 微かに聞こえてくる呼び声は、だけどさっきよりも確実に僕から遠ざかっている。そのかわり、僕らの焦り恐れる心に共鳴するように数多のそら恐ろしい咆哮が僕らの間に沸き起こりはじめていた。それらは僕らを隔てるようにそそり立ち、大人ひとり分はありそうな腕を僕に向かって振り下ろしてくる。
 僕はただそれが迫ってくるのを見上げているしかなかった。咆哮に身は竦み、足は固まりゆく澱にがっちりと噛まれている。
 逃げられるものか。
 いや、別に逃げなくてもいいじゃないか。
 このまま潰されてしまったって、さっき、一度は覚悟したことじゃないか。この世界の澱に身を沈めてしまおうと。
 なのに、今感じているこの焦燥感は一体なんなんだろう。
 何を、恐れているのだろう。
「麗」
 突如、闇は切り裂かれた。
 光とともに闇を侵食したのは、柔らかく甘い母の声。
「母……上」
 伸ばされた白い光の手。光に垣間見える懐かしい母の顔。その顔は珍しく険しさに満ちていたけれど、美しさは息子から見ても相変わらず女神そのものだった。
 僕は無意識のうちに伸ばされた母の手に自分の手を伸ばしていた。
 母はしっかりと僕の小さな手を掴む。そして、あの優美な手のどこにそんな力があったのかと思うほど力強く、僕を光の泉の中へと引き上げていった。
 心の底に吹き溜まっていた澱は一掃され、かわりに母の手の温もりと安堵感だけが降り積もっていく。今度こそ、このまま眠ってしまいそうになるほどに、伝わってくるのは約束された安寧。
「駄目!!」
 眠りかけた自分を叱咤して、僕は母の手を振り払おうともがいた。
「麗?」
 不思議そうな母の声が聞こえる。
「駄目だよ、母上! エルメノがどこかに呑まれちゃったんだ。僕はエルメノと一緒じゃなきゃここから出ない!」
「麗」
 今度は宥めるように母は僕の名を呼んだ。
「とりあえず、貴方だけでも助かりなさい」
「母……上?」
 降ってきた冷たい言葉に、僕は一瞬自分の耳を疑った。
 それが慈愛深い神界の女神の言葉か?
「駄目だよ! エルメノは僕なんだ! 僕はエルメノを失うわけにはいかない! 母上だって知ってるでしょ? 僕がどんなにエルメノが好きか。エルメノが現れてから、僕がどんなに生きやすくなったか! それに、それにエルメノは僕の影なんだよ! 影は一人だけだ。失うわけにはいかない。そうでしょ?!」
 掴まれた手から温もりが逃げていくような気がして、僕は必死に言い募った。
 闇は絡みつく。僕が母の理解を得られないと感じれば感じるほど、母の手をよけて僕にばかりそれはねっとりと絡みついてくる。闇獄界に根を張る宿業深き大木のようにその枝に僕を抱きこもうとする。
「エルメノーッ!! 僕はここだよ! エルメノッ!」
 母に掴まれた手は解けなかった。
 仕方なく僕はもう片方の手を最大限下方に伸ばし、引き上げられながら目を凝らし、闇の大海にエルメノを探す。
「麗っ」
 しかし、幼くも力に満ちたその声は思いの外近くから聞こえてきた。僕を搦めとろうとする闇の大木の幹から、澱に汚された金橙色の髪が浮かび沈みしながら漂い近づいてくる。
「エルメノッ」
 母よりも白い華奢な腕が幹から持ち上げられる。間髪を入れず、僕はその手を掴んだ。
 氷のようにその手は冷たかった。火傷しそうな痛みがじわじわと手のひらを焦がす。思わず放したくなるのをこらえて、僕はその手を引き上げる。焼け爛れてくっついてしまうならくっついてしまえばいい。二度とこの手が離れなくなったって構うものか。それこそが僕の望むところなのだから。
 再び、黒い幹からエルメノの頭が浮かび上がってくる。明るい緑の瞳が、今は恐怖と戦いながら僕を見あげた。桜色の唇が僕の名を呼ぶ。
「麗」
 と。
 その声は懇願するように震えていた。
「安心して。絶対に放したりなんかしないから」
 僕は微笑んだ。最大限口元に力を込めて唇を引き上げ、腹の底からそう叫んだ。
 だけど異変はもう始まっていた。
 エルメノの手を掴む僕の手の指先からは、冷やされてどんどん感覚がなくなっていった。同時に、エルメノを抱きこむように腰の辺りを抱きかかえたまま離さない闇の大木の幹が俄かに白い煙を上げて動きを止めつつあったのだ。
「麗!」
 上から母の心配そうな声がした。その声すらも凍りついて響きが途切れるかと思うほど、急激に気温は下がり、僕からは体温が奪われていく。
 僕の口から吐き出された白い息を見、厚い氷に覆われ赤紫色になっていく僕の腕を見て、エルメノは泣きそうなほど顔を歪めた。
 守らなくちゃ。
 僕はそう思ったんだ。
 この子を僕が守ってあげなくちゃって。
 プライドとか、ひねくれた心とか、そんなくだらないものを潜り抜けて、その思いだけが浮かび上がり、一番星のように強く僕の中で光り輝いていた。エルメノのためなら、僕はいくらでも強くなれる気がした。いくらでも弱い自分を律することが出来るような気がした。
 この子のためなら。
「エルメノ、どうすればいい? 僕は魔麗法王なんだろう? 君と契約をして、本当に僕は法王になれたんだろう? 落ち着いて教えてくれ。僕はどうすれば君と一緒に神界に帰れる?」
「麗」
 ほっとしたようにエルメノの頬から緊張が消えた。暗く灯火が消えそうになっていた明緑色の瞳が、再び息を吹き返すように意志に満ち溢れていく。
 大丈夫だ。僕らは必ず帰れる。
 〈予言書〉など、帰ったら燃やして灰にしてくれる。
 父に叱られたら、こんなもの当たらなかったとエルメノと二人で言ってやる。この世の神と名乗る者に、出来合いの未来など必要ないだろう、と。
 覆してやる。
 エルメノとのことも、これから起こる終焉へと向かう未来も、全て僕が覆して本当の未来を白紙の本に刻み込んでやる。何冊でも永遠に。
「麗、治めるんだ。ぼくの力を君の意志で包みこめ。精霊たちに君を主と認めさせるんだ」
 具体的にどうすればいいのかなんて分からなかった。ただ、思考が赴くままに僕は言葉を音にした。
『我が名は魔麗法王。熱の精霊王と契約を結びし者なり。
 世界の全てに宿る熱の精霊たちよ、聞け。
 我に逆らいし者は汝が王に逆らいし者なり。
 我を傷つけし者は汝が王を傷つけし者なり。
 汝が王に忠実を誓う者たちよ、我が血によりて束縛されし者たちよ、怒りをおさめよ。
 汝らが敵は暗き闇に棲まいし者なり』
 堅いものにひびが入るような甲高い音が、僕とエルメノとを繋ぐ手から聞こえた。
 空気中の水分が凝った透明な氷の欠片が、上方からの光を受けてはらはらと光り輝きながら剥がれ落ちていく。同時に、エルメノを捕らえる大木からも氷は剥がれ落ち、エルメノの体が自由になるどころか、すかさず長く伸びた枝が僕の身体を掴み、締め上げた。
「な……どう……して……?」
「なぞなぞをしようか、麗」
 母の手から離れた僕を、エルメノは大木に身を任せたまま後ろから抱きすくめた。
「精霊王が闇に魅入られた場合、この瘴気に散在する熱の精霊たちはどちらの言うことを聞くでしょうか?」
 冷たいエルメノの息が耳元を凍りつかせた。
「どう……したの、エルメノ。僕は君の言うとおりにしたつもりだったよ。君は望んだだろう? 僕と一緒に神界に帰りたいと」
「ブッブー、はずれ」
 その声は、いつもと同じおどけたエルメノの調子だった。なのに、どうしてこんなに遠くに感じるんだろう。
「精霊は自らの王を傷つけられない。だから、闇に染まった精霊王も傷つけられない。瘴気に宿る精霊ならば尚更、ぼくを傷つけることは出来ない」
「闇に染まった精霊王……?」
「麗! 騙されるな! そいつはぼくじゃない!!」
 どこからかエルメノの甲高い叫び声が聞こえた瞬間、僕の身体は背後から五箇所、細長い何かに貫かれていた。
 胸元、左右の胸、左右の腹、それらを貫通して僕の目の前に現れたのは、氷に覆われた細く先端の尖った指先だった。白いその指先からは赤い血が緩やかに伝い落ち、冷たくなって僕へと流れ込んでくる。
「何を言ってるんだろうね、あれは。ぼくは確かにエルメノ。エルメノ・ガルシェヴィチ。何から何まで同じものだ。だから精霊たちもぼくを攻撃しなかったんじゃないか」
 ガラスを鳴らすように涼やかな声が子守唄でも聞かせるように優しく歌った。
「エルメノ」
 すでに身体に痛みは感じなくなっていた。目の前にある鋭い爪だけが痛みを想起させそうになるけど、目をそらしてしまえばもはや僕の頭と指に貫かれた身体とは別のものだった。
「なーに?」
 甘えた声で後ろの奴が返事する。
「違う。お前じゃない」
 目をそらした先には、澱を泳ぎ渡ってくるもう一人のエルメノ。
 僕は、頭の中で彼女に手を伸ばす自分を想像した。
 目の前でぎこちなく持ち上げられる自分の手。
「麗……麗っ、逃げろ。ぼくになんかかまわず早くそいつから離れろ!」
 離れろって言われたって、抱きすくめられた上に五本の指に貫かれているんだ。もう自分では身動き一つ取れない。
「エルメノこそ逃げろ。母上が上に迎えに来ているから」
 手にしたばかりの熱の精霊王の力を、僕は法王としてそれ以上使いこなせずにいた。どうしたらいいかももう分からなかった。だって、否定はしたものの後ろの奴は確かにエルメノなのだ。邪なものに染められていようと、気配はエルメノと全く同じものだった。偽りなく、これはエルメノだ。
 どうしてそんなおかしなことが信じられるのか、聞かれても僕はきっと答えられはしない。それでも、触れ合いなれた身体が全身でそう言うのだ。
 意識は白濁しはじめる。
 母の伸べた手にまとわりつく光だけが闇を圧倒していく。
『鏡と戯れし一羽の小鳥、遊びなれた庭より闇に堕ちん。漆黒に染まりし鏡面、両翼を隔て、片翼は闇に染まり他者を欺き、片翼は光に惑い己を欺く』
 一体、どちらが苦しいのだろう。生れ落ちた世界の光に惑い、己を欺き続けねばならないのと、誰もいないこの暗闇の中で罪を重ね続けるのと。
「エルメノ」
 背後のエルメノが、ゆっくりと僕の身体から貫いていた手を引き抜いていく。
「麗、一緒にいよう。ここで、永遠に一緒にいよう」
 華奢な腕がぎゅっとしなだれた僕の身体を抱きしめる。
「さっき、ぼくのことを突き飛ばしたことなんて気にしてないから。ねぇ、麗。ぼくのこと、嫌いじゃないよね? だってぼくは君だもの。君はぼくだもの。そう言ったよね?」
 後ろのエルメノは、さっきまでぼくがエルメノに言っていたことを繰り返した。
「言ったよ。言ったけど、君は否定した。僕は君じゃない。君は僕じゃないって。どうして今更、君がそんなこと言うんだよ」
「どうしてって、それがぼくの本音だったから」
 自嘲混じりに背後のエルメノはそう囁いた。
「さっき、麗がずっと一緒にいようって言ってくれたとき、どんなに嬉しかったか分かる? 麗とぼくは一つだって言ってくれたとき、どんなにぼくが嬉しかったか分かる? 麗がぼくと同じことを思ってくれていた。それだけでぼくは天にも昇る心地がしたよ」
 じゃあ、どうして否定したんだ――僕がそんなことを訊ねることはなかった。たとえどんなに僕の言ったことが嬉しいことだったって、エルメノは同意するわけにはいかなかったんだ。魔麗法王の影として、僕を無事に神界に帰すことを優先しようとした。そのときにはもう、君は僕との間に境界を引くことを覚悟していた。
 二人のエルメノがいた。僕の後ろで僕を闇に引きずろうとするエルメノ。息を弾ませ澱の海を渡りきり、正面から僕の手を引っ張って後ろのエルメノから引き剥がし、神界へ返そうとするエルメノ。
 どちらが本物でどちらが偽者なのか、僕には決められなかった。
 どちらも偽者なのかもしれないけれど、どちらも本物のような気がした。
「麗! ぼくを信じて」
 手を引くエルメノが言った。
 後ろのエルメノは僕を放すまいと抱きしめる腕に力をこめる。くらつく頭。外れそうになる右肩。
 そんな僕の視界を、再び光が切り裂いていく。
「母……上……」
 光に包まれた手は僕を抱きしめるエルメノごと胴に巻きつき、有無を言わせず上に引っ張りあげはじめた。抱きしめるエルメノも手を引くエルメノも、三人一緒に。
「エルメノ、助かるよ。帰れるよ、僕ら一緒に」
「何暢気なこと言ってるんだ! 後ろにしがみついているそいつを早く振り落とせ。瘴気に感染してとち狂ったそいつまで神界に連れて行くことはない!」
 闇に開いた光の穴は、さっき見あげたときよりも明らかに狭くなっていた。僕を抱きしめているエルメノはともかく、腕一本でつながっているもう一人のエルメノはちゃんと神界への門を潜り抜けられるか非常に怪しい。
「母上、急いで! このままじゃエルメノと引き離されちゃう」
 〈予言書〉と同じになってしまう。
 じり、じりと僕の腕を引こうとする形から僕の腕にぶら下がる形になっていたエルメノの手は、僕の腕を滑り落ちていく。
 僕はもう片方の手をエルメノに伸ばした。
「掴まって」
「麗っ、麗っ」
 さっきまで気丈に振舞っていたエルメノは、青ざめて恐怖に目を潤ませていた。必死に僕の伸ばしたもう片方の手に掴まろうと手を伸ばす。
「麗、まだ気づかないの? まともなことを言ってるあいつの方が偽者かもしれないよ」
 さらりと後ろのエルメノが疑念の種を僕の頭に植え込んだ。
 反射的に、僕は一瞬伸ばしていた自分の手を引っ込めた。
 掴もうとしていたエルメノの手は空を掴んで流れ落ち、その勢いで僕の腕を掴んでいた手も一気に滑り落ちた。
「エルメノ!」
 我に返った僕は泣き叫んだ。
 人差し指と人差し指が絡まっているだけの僕とエルメノ。指の骨が折れてもいい。皮膚さえつながってさえいれば、僕らはまだ繋がっていられる。
 どうして後ろの奴の言うことを一瞬信じてしまったのか、責めあがる後悔の念を今はねじ伏せて僕はもう一度あいている片手をエルメノに伸ばす。
 周りからは闇が消え、はるか下方に深い井戸底のように暗い穴が見えた。
 もう少し。きっともう少しで神界に入れる。
 後ろの奴はきっと神界に帰れば母上か父上が何とかしてくれるはず。もうあいつの言うことになんか惑わされるものか。
「がんばれ、エルメノ。もう絶対離さないから!」
「……どうして……どうして……」
 エルメノは顔も腕も上げなかった。呪詛のような呟きを低く漏らしたあと、涙に濡れそぼちながらも輝きのない瞳を僕に向けた。
「麗。どうしてぼくを信じてくれなかったの? どうしてそっちの方を信じたの? 君とずっと一緒にいたのはぼくの方だったのに。そいつはただの囮だったのに!!」
「囮?」
 訊ね返すと、エルメノははっと口をつぐんだ。かわりに背後のエルメノが憎悪を煽るように静かに囁く。
「そうだよ。ぼくも本物だよ。熱の精霊は吸熱と加熱、二つの魂を併せ持つ。彼女はさっき麗に突き飛ばされたとき、襲い掛かる化け物から逃れようともう一人の自分――加熱のぼくに身体を与えて囮にしようとしたんだ。ひどいよね。いきなり起こされたと思ったら、ぼくは化け物の腹の中に入れられちゃったんだから」
「意味が……分からない。エルメノが二つの魂を持ってたって? 自分が助かるためにもう一人の自分を囮にしたって?」
「そう」
「違うっ!」
 背後のエルメノは艶のこもった低音で頷き、僕の腕に掴まるエルメノは髪を振り乱して叫んだ。
「違うっ。違うんだ、麗っ」
「どこが違うの? それが君のしたことだよ、エルメノ。自分だけ正しいよい子でいようったってそうはいかない。こういうときに化けの皮ってのは剥がれるものだよね。僕から自由を奪い取ったことの報いだよ」
「カルーラ」
 暗い瞳で、エルメノは僕の背後を見上げた。
 カルーラ。その名を聞いたのは、それが初めてのことだったと思う。
 闇の井戸からは、引きあげられるように一気に瘴気が湧き上がり、足から腰からエルメノに絡みついた。
「それでも、麗を傷つけたのはお前だよ、カルーラ。神界で正気に返って悔やむがいい。お前は自分の主を傷つけた。文字通り、その身体うつわを」
 そのときエルメノが浮かべた微笑に、僕がぞっとしなかったといったら嘘になる。
 手を引っ込めようとしなかったかといったら、嘘になる。
 だって、現に僕の指先からエルメノの手はすり抜けていったのだから。
 光の手に包まれた身体は、カルーラと呼ばれたエルメノの偽者ともども狭まる光の門をぎりぎり潜り抜けていた。僕に掴まっていたエルメノだけが、未だ光の門を潜りきらない。
「麗。もう絶対離さないって、言ったのに……」
 指が離れあう瞬間、エルメノは口元に静かに自嘲を浮かべ、諦めと安堵に調和された明緑色の瞳を僕に向けた。
「あ……」
 エルメノが遠ざかる。
 永遠に癒されることない傷を僕に残して。
「エルメノーーーーーッッッッッ」
 どんなに伸ばしても、もう届かない手。
 あげた叫びすら意識の彼方に消えはてた。












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