聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師

第 1 章  歪みゆく時



 また……まただ。
 また僕は掴み損ねてしまった。
 何度見ても、見た回数だけ僕は彼女を裏切り続けている。
「エルメノ……」
 闇獄界に残してきてしまった僕の愛すべき友。いや、僕の初恋の子。
 僕の運命は全てあの時、〈予言書〉どおりに捻じ曲げられてしまった。
 もしあの時、手を離さなかったらと思う。あの時、手を引っ込めなければと思う。垣間見えた彼女の負の部分に恐怖しなければと。それが、僕にも内在するものであったとあの時、とうに理解できていたなら、そう、僕はエルメノがどんな罪を犯していたって彼女の手を力強く掴み、身体に穿たれた傷など物ともせずに彼女を光の世界に引き上げたことだろう。
 もし、あの後もずっと彼女と一緒にいられたなら。変わらぬ毎日を変わらぬ自己愛で満たし続けることが出来ていたなら、僕は幸せだったことだろう。無知という名の偽りの幸せの中で、知らず他者を傷つけながらもぬくぬくと生きていくことが出来ただろうから。
「光、もう起きたー? ママ、先に学校行くからね」
 扉越し、急ぐ母の声が聞こえた。
 もうお腹が大きいんだから、そろそろ産休とればいいのに。ぼんやりとそんなことを思うが、口にはしない。休むべきときは多分、あの人自身一番よくわかっている。それまではがんばるわと言っているのだから、僕が口を挟むことはない。
「はーい、行ってらっしゃーい。僕もすぐ行くからー」
 ベッドに上体を起こし、僕は叫ぶ。
「入学式なんだから遅刻しないでね。戸締りしっかりするのよ? じゃ、行ってきまーす」
 ばたばたと慌しい足音が玄関の重い金属扉を押し開けて駆け去っていく。
「走っちゃ駄目だっていわれてるのに」
 僕の独り言だけが静寂を取り戻した部屋にころりと落ちた。
 麗の夢を見た朝は、母とは顔を合わせたくはない。木沢光の服を着るまで、しばし夢うつつの間をさまよう時間が必要になるから。本当なら母の声も聞きたくないし、返事もしたくない。でも、今の僕にはこっちが現実で、返事をしなければ心配した母が部屋の前まで来てあけろとせがみだすのは目に見えていたから。木沢光として返事をするだけで会わずにすむならその方がいい。
 一つ不安なのは、さっきの返事がちゃんと木沢光のものであったかどうか。
 怪しまれていないならいいのだけど、あの様子じゃ気にも留めなかったことだろう。
 ああ、でも勘違いしないでほしい。僕はちゃんとママのことを愛しているんだ。ママのことが大切だから、麗のことで余計な心配をかけたくないんだ。
 壁には真新しい紺のブレザーと臙脂のネクタイ、白いシャツがかかっている。
 木沢光は、今日から岩城学園中等部に入学する。
 と言っても、生徒は初等部からの持ち上がりが大半だから大した感慨もない。初等部お決まりの冬でも半ズボンの制服から解放された喜びのほうがまだでかい。
 布団を押しのけてカーテンを開け、東窓から入る朝の光に目を眇め、視線を転じてもう活動を始めた都内の風景を眼下におさめる。
 中世で歩みを止めた神界とは違う。
 乱立する高層マンション、縦横無尽に走る交通網、似たような建物に大地の肌は覆いつくされ、どこまでも脆い文明の香りが漂っている。
 ここは人界。統仲王と愛優妃が戯れに作った箱庭。
 そして僕ら人間は、その箱の中で彼ら二人の目を楽しませるための土人形。
 そんなことにも気づかず、今日も人間たちはせっせと自分のために生きている。
 僕、木沢光もその一体。
 開けた窓から吹き込んできた風はまだ冷たかった。
 ふと、魔麗の国の空気を思い出した。あそこは、四月でも暗雲と氷に閉ざされ、絶え間なく雪が降り続く。窓から素手を出そうものならものの一瞬で皮膚が凍りつく。空気は雪もあられも抱かずとも鋭い棘を孕み、常に頬や口を小刻みに刺し続ける。
「いい青空だ」
 思わずつぶやいた自分の声音に、僕は苦笑した。
 今のは麗だ。声変わりが始まっているとはいえ、どうやら今日はまだ僕に戻りきっていないらしい。
 あのときの夢を見てしまったんだから仕方がない、か。
 制服に袖を通し、誰もいないダイニングに置き去られたパンとスクランブルエッグを流し込みながらテレビでニュースをチェックする。最も、この時間になると小難しい政治ネタはとうに終っていて、各地のレポートや飼い主の犬自慢なんかの他愛ないコーナーが続く。
『それでは次のコーナーでは大人気! 異国情緒たっぷりのイグレシアン・サーカスの特集です』
 ブツリ。
 リモコンの一番上の端っこを一押しして、僕は鞄を抱えて家を出た。
 ママの言いつけどおり鍵をかけて踵を返すと、エレベーターホールに消える長い髪が見えた。
「桔梗!」
 ご近所の目など気にせず僕は呼んだ。
 酸素を求めるように僕は彼女の元に走り寄る。
「おはよう、光くん」
「おはよう、桔梗!」
 あやふやだった木沢光の足元がしっかり固められていく。抱きつきたいのを中学生なんだからと言い聞かせて我慢して、僕はにっこりと桔梗を見上げた。(そう、見上げたんだ。僕はまだ彼女の身長に追いついていない……)
「どう、僕も今日から中学生なんだよ。中等部の制服、似合う?」
 今のうちだから使える上目遣いで可愛らしく桔梗を見つめると、桔梗は微笑を崩さず頷いた。
「毎日のように会ってるのに、そうやって制服を着ているのを見るとなんだか一気に大きくなったような気がするわね。背、また伸びたんじゃない?」
「えへへ。分かる? 昨日測ったら一五九センチだったよ。桔梗はえっと……」
「一六三」
「そう、だからあと四センチで並べるよ!」
 木沢光はいい子。大人の手を煩わせず、目のきく奴らにはちょっと生意気なガキと思わせとけばいい。
 今なら、エルメノの気持ちが分かる。
 いい子でいようとしたエルメノの気持ちが。
 抱える秘密をばれないように隠し通し続けようとすると、どうしても罪悪感が先に立つ。たとえそれがその人たちのためだと信じていても。馴れ合っては秘密がばれてしまうかもしれない。それでも、愛して欲しい。
 そんな葛藤があると、人はたちまち嘘つきになる。どんなに幼くても。いや、幼いからこそ、安易にどんな嘘でもつけるようになってしまうんだ、きっと。
 そして、それらが皆嘘だったと告白するには年をとるほど勇気が必要になっていく。いや、本当はみんな、告白なんかせずに隠しとおしているものなんじゃないだろうか。年齢を重ねれば年相応の狡さが身につくものなのだと、己の狡さを一般常識に仕立て上げて自己弁護して。
 誰もがみな、自分がかわいい。
 自分を守るためならどんなことだってする。
 たとえば、親友であり初めて恋心を抱いた子を闇に一人だけ突き放すことだって、自分の命が守られるのならしてのけるものなんだ。
「光くん、光くん」
「え? ああ、なんでもないよ。あ、信号変わりそう。急ごう、桔梗!」
 手を、とってみた。
 自分はまだ小学校を卒業したばかりのガキだから。一人っ子で四つも上の桔梗にとっては弟のようなものだろうから。きっと、手を握られたって桔梗はさして気にも留めないだろう。
 心の中でそんな言い訳をして、手入れの行き届いた女の人の手の柔らかさにこっそり感動している自分はとうに――いや、きっと元から子供なんかじゃない。
 まだ中学生のガキだから。そう自分に言い聞かせなかったのは、まだ子供でいたいから。中学生という響きは、ちょっとだけ未知の大人の入り口のにおいがする。こういうときは小学生の方が自分を甘やかしやすい気がするんだ。
 結局、制服が変わろうが、桜の花びらがひらひら舞っていようが、紅葉がくるくる踊っていようが、僕に見える景色は変わらない。
 全ての中心に自分がいて、自分はそこから動くことなど出来ない。己を取り巻く景色を、ただ中心で見ているだけ。自ら見たい場所へと動くことが出来なければ、それは死んでいるのと変わらない。
 物心ついたときにはすでに麗の記憶を抱えていたせいか、そんな大切な物の見方ほど歪んだ麗の思想に染められていて、気がついたときには僕の見る景色は麗と大差ないものになっていた。
 桔梗との登校をからかいながら自転車で追い越していく同級生たち。ちらちらと横目で見ている女子の先輩二人組。彼らにはきっと、この世界がもっとヴィヴィッドに見えているに違いない。
 一瞬先のこと全てが未知である彼らには。
 桔梗は握った手を解くことなく、軽く握り返してくれていた。
 きっと仕方のない子だと思っているのだろう。
 それでも、突き放されないのは素直に嬉しい。
 ちらりと見上げれば、笑顔でどうしたの、と聞いてくれる。
 その笑顔がたとえ作り物だとしても、僕だけに今は向けてくれていると思うと、それだけで僕の心は満たされる。癒される。
 そして、その度に僕は謝りたくなってしまうんだ。
 偽りで固めた木沢光のお遊びに付き合ってくれてありがとう、ごめんなさいと。
 君は僕を罵る権利がある。殺されたって、僕は文句が言えない。
 むしろこうして手を握りながらも、いつかこの手が僕の胸元にナイフを突き立ててくれやしないかと待ち望んでいる。憎まれるよりも、そうやって微笑まれ続けることの方が何倍もつらいから。
 その昔、僕には離してしまった手があった。
 だから、もう二度と放すまいと。一度掴んだ手は何があっても放すまいと握り続けたら、その人は自分の手首を切って僕の目の前からいなくなってしまった。
 加減というものを知らなかった僕は、目に見える全てが全て真実だと信じこんでいた。表があれば裏があることなど、幼いころに闇獄界に落ちたにもかかわらず、麗は学習していなかった。
 時々、麗の記憶を抱えたまま生まれてきたのは未消化な麗の神生をちゃんと終らせてやるためなんじゃないかと思う。本当の神様なんていないと知ってはいても、つい、現実的に理由がつけられないとそんな運命的な理由でもこじつけたくなってしまうものなんだ。だけどどうやれば決着がつけられるのかなんて、誰も教えちゃくれない。勿論僕自身分かっちゃいない。分かっていたら当の昔にケリをつけて、今頃ちゃんと僕だけになっていただろうから。
 でも、その選択肢の一つとして、きっとこの手が挙げられる。
 桔梗のしなやかな手。
 僕を救えるのは彼女しかいない。
 かっこつけて罰を欲していても、その罰こそが僕に終わりを突きつけてくれる。そして僕はその終わりにようやく安寧を見出すことが出来る。
 けれど、けして桔梗はそんなことはしてくれないだろう。彼女は誰よりも強く、冷たく、繊細だから。
「光くん、」
「ん?」
「おば様はいらっしゃるの? 今日の入学式」
「うん、来てくれるって。ママの代わりに入ってくれる産休の人もちょっと早いけど引継ぎできてくれるから、高等部の保健室は大丈夫みたいだよ」
「そう。お腹、もうすごく大きいでしょ? 予定日ももうすぐだって聞いてるし。あまり無理しなきゃいいなとは思ってたんだけど」
「大丈夫だよ。ママは働いてるのが好きなんだ。くるくる身体動かしていつも何かやってないと落ち着かないの」
 ふと、誰かの面影が目の前を横切っていった。
「お腹の中の赤ちゃんも、きっと働き者になるよ。お腹の中の赤ちゃんに影響されてるのか、僕のときよりも働くのが楽しいんだって」
 そう話していたときのママはすごくきらきらと輝いていた。僕が怠け者の部類に入るのは間違いないから、きっと僕がお腹の中にいたときは歯がゆい思いをしてたんじゃないだろうか。
「そういえば、赤ちゃん、女の子? 男の子? もう分かっているのよね?」
「時期的には分かるらしいんだけど、生まれた時のお楽しみだって。どんなにエコーとかで確認しても、生まれてみると違うこともあるって言うし、変な期待してがっかりしたら赤ちゃんにも申し訳ないじゃん?」
「そう。光くんなら知ってるのかと思ったんだけど」
 桔梗は曖昧な笑みを落として、僕の手から自分の手を引き抜いた。
 するりと大切なものが抜けていく。その軽い喪失感のような切なさに、僕はしばし、自分の空になった拳に視線を落とした。
「よぉ、桔梗、坊主。朝っぱらから仲いいなー、お前ら」
「おはよう、葵ちゃん」
 僕の頭の上少し上では、いつの間にかそんな会話が交わされている。
 科野葵。
 桔梗の友人。いや、親友か。
 小学校三年生の時に京都から東京に転校してきた桔梗と、一番初めに仲良くなった奴。まぁ、この人なら誰とでも仲良くなるんだろうけど、それにしたっておしとやかな桔梗とは正反対な性格なんだ。桔梗もよく八年も付き合ってるものだ。
 その頃、僕はまだ四歳になるかならないか。それでも、桔梗がマンションの隣に引っ越してきた日のことは覚えてる。桔梗は一人で僕らの家に挨拶に来た。両親は忙しいから、自分が代わりに挨拶をしにきたのだと。そのとき、ママもまだ日本にいたパパも、まだ九つになるやならずの子供を一人で隣に挨拶に来させるなんて、なんて親だと憤慨していた。一方で、桔梗をわが子のように面倒を見るようになり、ご飯を一緒に食べたり、掃除をしたり洗濯をしたり、家族の一員といってもいいくらい熱心に接していた。僕は一目で彼女が海だと分かり、すぐになついた。体が小さかった分、今よりもっと無邪気にじゃれついていたと思う。だけど、実は僕らは一度も桔梗の両親に会ったこともなければ、誰かが桔梗の家に入っていくのを見たこともない。勿論、僕らは入ったことがあるけれど、それでも最近は桔梗が遊びに来るくらいで、あまり家に入れたがってもいない。
 今生でも彼女は姉のような人だけど、謎は以前よりも多いかもしれない。
 そんなところがまたいいんだけど。だけど、どこか危うさは増しているような気がして、僕は目が離せない。
「坊主、何桔梗に見とれてんだ?」
 ひらひら舞ういくつかの桜の花びらが僕と桔梗の間を隔て、それらを吹き散らすようにからからと笑って葵お姉ちゃんがからかった。
「桔梗って名前こそ秋の花だけど、はかない感じが桜に似てるなって……」
 ざぁっと風が吹く。
 南から運ばれてきた百花の香りが、うっすらとした奥ゆかしさを想起させる香りをかき混ぜ、己に内包し、あるいは蹴散らして過ぎ去っていく。散りゆく花びらは薄紅に色づいているともいえぬほど青白く、朝の日に透けてあわれに偽物の大地の上に降り積もっていく。
 どこかで見たことのある風景だった。
 神界のあれは……そう、次兄の国の異質な空間――ルガルダの森。そこに根付き、百年に一度だけ花盛りを迎えるユジラスカの花。桜はあの木に咲く花によく似ている。八重桜を木蓮ほどに大きくしたような花がユジラスカだから。
 だけど、きっと花だけのせいじゃない。
 その木の下に、彼女はいたんだ。
 ――思い出したくなど、ない。
 あなたのそんな姿は、思い出したくなどない。花盛る木の陰で顔を背け、唇をかみ締めて堪えているあなたの姿など、僕は思い出したくもない。
「って、僕ったら何言ってんだろうね。おはよ、葵お姉ちゃん。あ、今日からは科野先輩って呼んだ方がいいのかな?」
 記憶から転がりだし、現実と重なり合いながら僕を搦めとろうとした麗の記憶を視界の端に消えていく桜の木に置き去りにして、僕は頭に手をやりながら笑い、葵お姉ちゃんを見上げた。
「はんっ、どっちにしろ愛情も尊敬もこもってないんだろ、坊主のことだから」
 からりと笑ってこの人が言うと、とりあえず嫌味に聞こえないのがまぁ不思議だ。まったくその通りだと見抜かれている心地よさの方が大きいからなのかもしれない。
「僕だって今日から中学生だからね。尊敬とか愛情とかは置いといて、かっこつけてみたかったんだよ。先輩とかって小学生じゃあんまり使う気にならないじゃん?」
「かっこつけるねぇ。坊主は背伸びしてないときのほうがよっぽど無理して見えるけどな」
 葵お姉ちゃんの言葉に僕は思わず顔を上げそうになって、視線に錘をつけてつま先を見つめた。
「あん? どうした、坊主。悔しいなら言い返してみろよ」
 粗雑な挑発を左から右へと聞き流し、僕はそっと息をつく。
 やっぱりこの人にもかなわない、と。
 この人が覚えているかどうかは僕は知らない。だけど、この人も麗の姉だった。我儘だった僕を真っ向から叱り飛ばし、多分すぐ下の弟だったから何かあると一番心配してくれていた。おそらく、海よりも。
 認識としては、麗にとって姉と思えるただ一人の人。
 何も今生でまで姉貴風を吹かせなくてもよいものを、それもこれもきっと僕の姿が幼い――いや、他のみんなより生まれが遅かったためだろう。
「その通りだと、思ってさ」
 麗の兄弟は他にもいる。みんな、桔梗と同じ歳に生まれ変わってきている。おかしなことに、父親だった統仲王さえも普通に高校生をしているんだからこれはもはや笑えない。
 なのに、僕だけは生まれてくるのが四年も遅くなってしまった。
 もっと大きくなれば、それこそ僕が大学生くらいにでもなれば、四歳の年の差なんて大したことなくなるのかもしれない。だけど、僕は今桔梗が好きなんだ。桔梗に、ちゃんと恋愛対象として見てもらいたいって思ってるんだ。
 思ってはいるけど、見上げなきゃ彼女の顔を見られないこのもどかしさは、繋いでいた手を離されてもまた掴みにいけない劣等感に直結していて、傷つきたくなくて、僕は彼女を憧れという高嶺から、引き下ろそうとしては何度となく据えなおしている。
「なんだよ、らしくねーなー。中学生になったからって急に生意気じゃないふりなんかすることないんだぞ? こっちはとうに坊主の性格分かってんだからさ」
「そうやって現状に甘んじているから葵お姉ちゃんはいつまでたっても彼氏が出来ないんだよ。意識改革って知ってる? 葵お姉ちゃんたちくらいの年だとダイエットのためによく使う言葉だと思うけど?」
「ああ? あたしにダイエットが必要だって言いたいのか?」
「春休み、しばらく見ない間にちょっと丸くなったんじゃないの?」
「なっ、なっ、なっ……」
 握った拳が震えている。自覚症状はあるらしい。
 まぁ、丸みを帯びたのは確かだけど、それはきっと太ったんじゃなくてそういう年頃なんだろう。そう医者としての麗の知識が言っているけど、フォローしてやる義理はない。けんかを吹っかけたくてたまらなかったんだろうから。
「それはそうと葵ちゃん。イグレシアン・サーカスって知ってる?」
 僕が臨戦態勢に入ろうとしたのを見て取ったのか、桔梗が話を強引に変えた。
「イグレシアン・サーカス?」
 葵お姉ちゃんはつい今まで僕に殴りかかろうとしていたのも忘れて可愛らしく小首を傾げた。後ろで結い上げた髪が豊かに波打っている。
「あ、僕ちょっとだけ知ってるよ! 今朝のニュースで特集やってたよ。異国情緒あふれる雰囲気で大人気だって」
「そう、それよ、それ。実はね、私、そのサーカスの無料招待券に応募してたんだけど、東京公演のチケットが当たったの。ペアが二枚」
 らしからぬテンションで桔梗が言った。
「ペアが二枚? そんなことってあるのか?」
「ふふふ、応募したときくじ運よかったのかもしれないわね。それでね、よかったら葵ちゃん、一緒に行かない? 樒ちゃんも誘って。あと、光くんも行こう?」
 僕はつけたしですか……。
 がっくりと肩を落とした僕の心中を察したのか、桔梗が慌てて言い添える。
「葵ちゃんと樒ちゃんでペア券一枚。私と光くんでペア一枚。ね、いいでしょう?」
 見上げなくても分かる。きっと今桔梗は極上の微笑を浮かべている。女神のように美しい清らかな微笑を。
「桔梗と一緒に行けるなら、僕はどこだって喜んで行くよ。それで、いつ行くの?」
「明日の夜なんかどう? 土曜日だから次の日はお休みだし、ちょっと遅くなっても困らないでしょう? でも、光くんは中学校入学したてで疲れているかしらね」
「いいよ、大丈夫。どうせ中学校って言ってもメンツがらりと変わるわけじゃないし。それに、言ったでしょ? 桔梗と行けるなら僕はどこだって喜んで行くって」
 断れるわけ、ないじゃないか。桔梗からどこかに誘ってくれるなんてとっても珍しいことなんだから。たとえそれが何かの罠だったとしても、僕は喜んで行くと思うよ。
 君が来てほしいと言うのなら。
「それじゃ、学校終ったらまた連絡するわね」
 中等部と高等部の校舎への分かれ道、桔梗は満足げに手を振って葵お姉ちゃんと歩いていった。
 その後姿を桜吹雪がかき消していく。まるでどこか異世界にでも連れ込むように。
 いや、連れ込まれていたのは僕の方だったのかもしれない。
 煙る桜霞が乳白色の世界に僕を閉じ込めていく。
 遠ざかる校舎の影、春の朝の透明な光、登校する生徒達の紺色のブレザー、明るく交わされる挨拶の声――全てが遠くなったと思った瞬間、音も何もかもが周りから消えた。
 ただ、乳白色の影の中、前方に見える夕焼け色の髪だけが肩口でふわりふわりと揺れながら遠ざかっていく。
 言い知れない懐かしさと、切なさ、苦しさが胸の中に押し寄せてくる。
「行か……ないで……。行かないで……エルメノ!!」
 胸いっぱいにこみ上げてきた混沌とした想いを吐き出すように、僕は彼女の名を叫んでいた。あの子が本当にエルメノかどうかも分からないのに。
 夕焼け色の髪を持つ少女は、何も聞こえなかったかのようにどんどん僕から離れていく。
「待ってよ! 待って、エルメノ! 僕だ、麗だよ!!」
 光なのに。
 心の片隅で聞こえた声など、この衝動の中では一秒先まで覚えていられるものじゃない。
 振り向いてくれ。
 ただそれだけを願って、僕は立ち尽くす。駆け出せないのは、靴の裏が偽物の大地に張りついてしまっているから。踏みしめた桜の花びらが僕をここから離してくれないから。
 ちがう。そうじゃなくて。
 追いかけられなかった。
 彼女の手がすり抜けていった左手を握る。
 また、彼女の手がすり抜けてしまったら? また、拒まれてしまったら?
 一度掴んでいたものを失うと、人はもう一度それを手にするまでどこまでも臆病になる。予想する未来は再び巡る過去の情景。成功する未来など、二度と思い描けなくなってしまう。
 失うくらいなら、手を伸ばさなければいい。
 彼女はきっと、エルメノじゃない。
 そうだよ。そんなわけがないじゃないか。彼女が人界ここにいるわけがない。僕と同じ真新しい紺色のブレザーを身に纏っているわけがないじゃないか。
 だって、彼女は闇獄界に堕ちてしまったんだ。
 もう一度伸ばしたぼくの手を、拒んだんだ。あの時。
 しまいこんで思い出さないようにさえしていた苦い記憶の片鱗が、僕の心を雪のように掠めて消えていった。
 だけど記憶は雪とは違う。一度生まれれば、二度と消し去ることなど出来ない。自ら消えていくこともない。苦々しい記憶ばかりが、いなくなったふりをしながら大地にしみこんで、新たな記憶の芽に苦い栄養ばかりを送りつづける。
 せめて振り向いてくれ。
 君が彼女じゃないと僕に思い知らせてくれ。
 こんな白昼夢に、二度と煩わされなくて済むように。
「エルメノ」
 願うように、祈るように、僕は彼女の名を呟いた。
 何を願ったのなんか知らない。何を祈りたかったのなんか、わからない。
 少女は、振り向いた。
 薄紅色に色づいた桜吹雪の中、歩を止めてくるりと振り返る。夕焼け色の髪に少しの風を孕ませて。
 明緑色の瞳が真っ直ぐに僕を捉える。
 距離なんか関係ない。真っ直ぐに見つめてくる少女の瞳の色は、髪の色の次にこの空間内でヴィヴィッドだった。
 少女は笑んだ。
 どこか悪戯っぽく、口元に力が込められる。
 その瞬間、僕は胸の奥を衝かれていた。
 激しい鼓動が早鐘のように胸を打ち叩く。
 強い期待にあの頃の熱がぶり返してくる。それは苦い過去を思い出してもとても相殺できるものじゃない。
 いつの間にこんなに育っていたのだろう。数えることも億劫なほど大昔に芽生えた幼い想い。
 あれは、自己愛となんら変わりないものだと結論づけたはずだ。なのに、麗とは違う身体、違う名前、違う人生を与えられ、年齢だってあの頃より少しは大人になったっていうのに、この痺れるような同一感ときたら同だろう!
 エルメノ!!
 思いが高じ過ぎて、声は音を失っていた。
 それでも、僕は彼女の名前を呼びつづけた。
 冷静に微笑み続ける彼女。狂ったような僕。
「光、光」
 桜吹雪の視界は急速に閉じていった。
 蘇る眩しい光の世界。
 あまりに光が眩しすぎて、すべての色が飛ばされて、僕に見えるのは黒白の陰影だけ。
 灰色の空間。
 彼女が見えなくなった後は、余計にこの世界は色が褪せて見える。
「おはよう、光」
 迷い込んだ過去という名の異世界。どうせなら、そのまま迷子になってしまいたかった。
 肩に手を掛けて引き戻したのは、顎を上げて見上げなきゃならないくらい背の高い端正な外人顔の少年。
「おはよう、クリス」
 おそらく、僕が親友と呼んでも嫌な顔をしないだろう初等部からの同級生だった。













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