聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 6 章  鍍金の望み

6‐1

『守景さん』
 安藤君に呼び止められたのは、自分の偽者を受け入れて洋海と喧嘩しながら何とか定刻ぎりぎりにサーカス会場に入場した直後のことだった。ずっと入り口で待っていたらしい安藤君は、わたしを見つけてほっとした表情を浮かべた。
『早かったんだね。わたしなんか入るのに結構苦労しちゃった』
 真実を知らなかったとはいえ、安藤君はどんな思いでわたしの言葉を聞いていたのだろう。
『あのさ、こんなところで難だけど、お願いしたいことがあるんだ』
『お願い?』
 お願いだの望みだのという言葉にちょっと敏感になっていたわたしは、警戒しながら尋ね返した。後ろから来る人は、もう誰もいない。
『姉ちゃん、先行ってようか?』
 少し前を歩いていた洋海は引き返してきて、気を利かせようとしてそんなことを言ったらしいけれど、安藤君は洋海も引き止めた。
『洋海君も聞いて。って、そんなに警戒しないでよ』
 神妙な表情を作ったわたしたち姉弟に、安藤君は困ったように笑って手まで振って見せたけれど、目は真剣なままだった。
『姉をください、ということなら父に……』
『違う、違う』
『洋海、大切な時間をそんなくだらないギャグで潰さないの。それで、聞けるかどうかは別として、お願いって?』
 息を詰めていた安藤君はふっと息を吐き出して白いちょっと薄汚れた天井を見上げ、わたしをまっすぐに見つめた。
『この先、いる観客は偽者だけだ。出し物の進行によっては途中からオリジナルも混ざって混戦状態になるかもしれないけれど、もし、もしだよ? 欺瞞のエルメノが現れて少しでも瘴気を発しはじめたら、僕たちを浄化してくれないか? 闇獄界に近い環境になればなるほど、フェイクを縛るエルメノの力は大きくなる。何か大それたことをさせられる前に、僕たちをきれいにしてほしいんだ』
 ゆっくり噛み砕くようにとはいえ、一度では意味を理解できなくて、わたしはもう一度安藤君の言葉を頭の中で復唱した。
『僕たちを、浄化してほしい?』
『そう。僕が早くここに着けたのは、オリジナルを早く倒せたからでも和解したからでもなんでもない。僕がフェイクだからだよ』
 『いつから?』その問いに、安藤君は『一年位前から』と答えた。そして、魔麗王と一緒に現れたアイカという名前の乳母も、大昔からいるけど実はフェイクなのだ、と。
 迷わなかったわけじゃなかった。むしろ、絶対に使わないと決めていたつもりだった。なのに、わたしは安藤朝来に扮したエルメノの身体から獄炎が噴出すのを見た瞬間、繊月を手に白矢を番え、上へと向けて放っていた。
 エルメノを見ていて、安藤君の切なさを痛いほど感じてしまったからかもしれない。この会場にひしめいていたフェイクたち、みんなが同じ思いを抱えていたわけではなかったろうに、わたしは等しく同じ最期を与えてしまった。
「返して」
 自分のフェイクが消える様に直面して、オリジナルの人々は誰一人わたしたちに興味を示すこともなく、魔法を解かれたように、言葉少なに各々の帰り道についていった。
 そして、安藤君の妹は、わたしの前でまだ泣きじゃくっていた。
「返して。お兄ちゃんを返して。アイカを返して」
 壁にでも投げつけるように静かにぶつけられた言葉に、心が冷える。
「十分幸せだったのに。偽者でもかまわなかったのに」
 だけど、その次の言葉は看過することができなくて。
「偽者と本物は、やっぱり同じじゃないんだよ」
 わたしはつい、言ってしまっていた。
「でもぼくは……ぼくのお兄ちゃんは、偽者でも本物のお兄ちゃんだった。知ってたもん。知っててぼくはお兄ちゃんのことが大好きだったんだ。偽者だって知らなかったけど、アイカのことだって大好きだった」
 落ちた肩を父親の魔麗王がそっと掴んだ。
「朝来、それは私達のエゴだったんだよ。そもそも、フェイクであっても誰かを誰かの身代わりにしようとしたこと自体、私たちは間違っていたんだ」
「違うよ。ぼくは身代わりだなんて思ってなかった。お兄ちゃんはずっと一人だけだった。おばあちゃんはずっとアイカ一人だけだった」
 頑として聞かない娘に、魔麗王は済まなそうな顔でわたしを見てそっと面を伏せた。代わりに、ようやくアイカさんが立ち上がって言った。
「そうですね。朝来様の言うとおり、陽色様ももう一人のアイカも、一人だけのかけがえのない存在でございました。ですが、朝来様、これは陽色様がお望みになったことでございます」
 安藤君が望んだこと。
 その一言に、朝来さんは口を噤んだ。
「帰ろう。魔麗の国でも今宵は泣いている人がたくさんいるだろうから、私たちが慰めてあげなくては」
 魔麗王は無言のまままだ泣いている奥さんを振り返り、目配せした。
「アイカさん、貴女もともに帰りませんか? アイカを失って、私たちでさえ辛いのだから、貴女はいかばかりか」
「いいえ。私には帰るところがございますから。お心遣い、ありがとうございます」
 思いのほかきっぱりと言ったアイカさんは、浮き立つような笑顔でわたしを振り返った。
「お願いばかりで申し訳ございません。私をセロの魔麗城に帰していただけませんでしょうか?」
「え? 光君に会っていかないの?」
 まるで恋人にでも逢いに行くかのような笑顔に気おされて、思わずわたしは視線を泳がせて光くんを探す。アイカさんはそんなわたしの様子にちょっと声を立てて笑ったかと思うと、茶目っ気たっぷりにウィンクしてみせた。
「私、ソラマメのスープとサーモンのムニエル、それから焼きたてのパンを用意して主の帰りを待たなきゃならないんです」
「主……」
 それが光くん――麗兄さまであることは、まだエルメノの消えた場所に立ち尽くしている光くんの背中に注がれるアイカさんの視線を見れば一目瞭然だった。
 それにしても、何度、麗兄さまの好物を並べたその台詞を自分に言い聞かせてきたというのだろう。一千年間ずっと、アイカさんは諦めることなく、他の人に心傾くことなく麗兄さまだけを想いつづけてきたんだ。一人生きつづけるには神の子ですら音を上げる永遠にも等しい時を。
『この世に存在する全ての時空に通じる時の精霊よ
 命有るもの 無きもの全てを一つに維ぐ時の精霊よ
 我が声聞こえるならば ここに
 古の首都セロへの扉を開け』
「開け、〈時空扉〉」
 開いた扉からは肌を差すような風が流れ込みはじめていた。わたしは思わず顔をしかめたけれど、アイカさんは嬉しそうに、懐かしそうに扉の向こうを見た。
「ありがとうございました」
 深々と頭を下げたアイカさんは、一度視界に光くんの背中を捉えると、いそいそと扉を潜っていった。
「あれ、アイカは?」
 エルメノへの思いに決着をつけられたのだろうか。時空扉が閉じてここからも消えてしまった後、禦霊に付き添われるようにして光くんがけろっとした表情で尋ねてきた。
「アイカさんなら帰ったよ」
「帰った?!」
 素っ頓狂な声を上げた後、光くんは明らかに落胆の表情を浮かべた。
「セロの魔麗城に。ご主人様をお迎えする準備しなきゃいけないんだって」
「ご主人様……」
 さらに暗くなった光くんに、わたしは仕方がないから教えてあげる。
「麗兄さまのことだよ」
「……あ……」
 光くんはこれ以上ないくらいぱっと明るい表情で顔をあげた。
「約束してたんでしょう?」
 わたしの言葉に、光くんは何度も頷く。それも、目を潤ませながら。
 その姿を桔梗が笑いながら見守っていた。忍び笑いに気づいて、はたと光くんは表情を硬くして桔梗を見上げる。
「いいのよ。気にしないで」
 何があったのかは問い詰めても桔梗のことだ、絶対に口は割らないだろうけど、桔梗の横で葵もニヤニヤしながら光くんを見ている。たとえヒントさえくれなくても、葵のあの表情は後で絶対桔梗を問い詰めるつもりだ。またやりすぎて喧嘩にならなきゃいいんだけど。
「お願い、樒お姉ちゃん! 僕のこと、セロの魔麗城に連れて行って」
「セロになら私が……」
 口を挟んだ禦霊を、光くんはぎょろりと睨んだ。
「邪魔すんな」
「……はぁ。守景様も疲れていらっしゃるでしょうに、全ては信頼されていない私の不徳ゆえ。どうかお許しくださいませ」
 溜息をついた禦霊は道化の姿に似合いのわざとらしさでわたしに頭を下げた。
「いいんだよ、わたしは。時空扉くらいちっとも疲れないから大丈夫」
「わーい、ありがとう、樒おねえちゃん」
 無邪気にはしゃいで光くんはわたしの手をとった。が、すぐに雰囲気を改めて禦霊に向き直った。
「禦霊。いいんだよ? 僕に剣を向けても」
 氷のような冷たさを孕んだ光くんの声に、禦霊は表情を強張らせ、息を呑む。
「エルメノの最期の命令だからって、いやいや頭を下げられるのも気を使われるのも迷惑だ。お前がいてもクリスが戻ってくるわけじゃない。エルメノが生き返るわけでもない」
 禦霊の喉元には紫精の切っ先が突きつけられていた。
「一体、私は何度あなたに紫精を向けられたことでしょうね。その度に首の薄皮が切れて痛いんですが」
「泣き言言う前に剣を抜けば?」
 禦霊は光くんの挑発にのることなく、紫精の研ぎ澄まされた穂を握った。その掌からは赤い血液が滴りはじめる。
「精霊王の魂と法王の魂から成る魔法石。紫精が健在ということは私の魂を捧げる必要はないようですね」
 紫精を握る光くんの手が一瞬震えた。
「まさか、生きているのか? カルーラが? クリス、が?」
「主の一大事に何をやっていたのかはわかりませんがね」
 禦霊のわざとらしい溜息につづいて、「おーい」と客席のほうから少年の声がした。びくりと光くんの方は強張る。
「どうだったー? 僕の陽炎」
「どうだった? 俺の作った即席人形」
 まだ若干甲高さを残した少年の声に続いたのは、洋海と等身大で髪型まではそっくりだけど、目鼻は適当に書かれた人形を抱えた我らが美術担当の2-A担任、片山先生。
 光くんは当然ながら、呆気に取られた表情でステージに上ってくる二人を見ていた。
「なんで?」
 呆けている様を、もしエルメノが見ていたら大いににやりとほくそ笑んだのではないだろうか。してやったり、と。
「なんで、なんで、なんで? だって、お前、エルメノだったんでしょ? エルメノに吸収されてたじゃないか」
「ああ、吸収されてたのは僕のフェイク。カルーラの部分さ。僕は片山先生と共同でライオンに襲われる守景先輩の幻影を、熱を使って演出してました!」
 へらへらと笑っているクリス君の頬を、光くんがグーで思い切り殴ったのはその直後のことだった。吹き飛ばされたクリス君はステージの縁まで転がって、ぎりぎりのところで頬を押さえて身体を丸め、留まった。
「痛ってぇ」
 呟いても、クリス君はなかなか身体を起こそうとしない。思わず駆け寄ろうとしたわたしを、桔梗が微笑ましそうに二人を見ながら押しとどめた。
 クリス君は頭でもぶつけたのか、押し殺した笑い声を上げはじめる。
「ふ、ふくくくくくく、くくく、ははは、あはははははは」
 しまいには大の字になってお腹を手で押さえ、足をばたつかせながら笑いだす。光くんは無表情のまま、禦霊に向けていた紫精を今度はクリス君の首元に突きつけ、ゆっくりとわたしたちを見渡した。
「みんなも、グル?」
 その目には完全に人間不信のぎらついた光が宿っていた。目が合った瞬間、思わず生唾を飲み込んだのはわたしだけではないはずだ。
「樒お姉ちゃん、守景先輩が客席の後ろで人質に取られた時に悲鳴上げてたよね。あれ、演技だったの?」
「う……っ」
 怒りの矛先は目立った行動をしてしまったわたしに向けられてしまったらしい。腰を引かしていつでも逃げられるように準備しながら、わたしは真実を答える。
「演技じゃないよ。一度はほんとに洋海だと思ったもん。でも、ステージの袖でニヤニヤ手を振る洋海がいたから。後ろに夏城君と朝来さんもいたし、そっちが本物だって信じようって」
 光君は口を引き結んだまま今度は洋海に顔を向ける。
「じゃあ、守景先輩は? 知ってたんだよね? 自分の人形使われるって」
「ま、ね。場内に入ってから姉ちゃんと桔梗さんと葵さん、それから安藤さんとご両親たちは観客席でステージの動向を見張っててもらって、俺と夏城さんと片山先生で朝来さんを探しに楽屋裏に入り込んだんだ。安藤さんもほんとは探しに楽屋裏にはいりたかったと思うんだけどね、自分はフェイクだから何か危害加えてしまったらいやだからって観客席に留まることを選んだんだ。で、楽屋裏に忍び込んだ俺たちはクリスと合流したと思ったらあっさりエルメノに見つかって、というか、クリスにエルメノのところに連れて行かれて、本物の安藤朝来さんを返してもらう代わりに一芝居打つのに協力させられたってわけ」
「協力って言っても、頼まれたこと以外何もしないってことだけだったんだけどな」
 洋海と、洋海の言葉を補足した夏城君を、光くんは呆れ果てた顔で眺め渡す。
「散々騙されて遊ばれたくせに、よくもエルメノの言葉を信じる気になったもんだね」
「本物の自分を取り戻したい、って言われたんだよ。君と別々に存在していた頃の自分を取り戻したい、って」
 穏やかな片山先生の言葉に、光くんは立ち向かうように視線を据える。
「僕と別々に存在していた頃? 今までだってそうだったじゃないか。エルメノが闇獄界に落ちて、僕が神界に残って、引き離された時から僕たちは別々になってしまった」
「違うよ」
 頬を押さえつつも、クリスはクールに光くんを否定した。
「エルメノは君と離れてから、離れる前に君にかけられた言葉を支えに生きてきたんだ。君も手を離した罪悪感からそれまで以上にエルメノに執着するようになってしまった。二人とも、離れてからの方が精神的な依存が強くなっていたんだよ」
 光くんは視線を落とし、記憶を噛み締めるように唇を噛み締めた。
「『僕は君、君は僕』……」
「エルメノは君の影として、最後に君を自分に執着する麗から自由にしたかったんだよ。最大限、君に自分を憎ませることで。きっとだけどね」
「……欺瞞だ」
 クリスの言葉に、光くんはやっとの思いでそう呟いたようだった。
「そうだよ。これは彼女のただの自己満足だ」
 クリスは天井に穴が開いたドーム中を見渡す。
「こんなことをしたって君が本当にエルメノを永遠に憎みつづけられるわけがない。生まれたときから記憶を共有してきた麗から自由になれるわけがない。君のため、というのはエルメノの完全な言い訳だ。だから、彼女は僕たちには自分のためだと言ったんだ。自分が自分を取り戻せれば、依存関係は崩れる。自分も苦しまなくて済むし、言外に、君への接触がなくなる分、光も楽になるだろう、と」
「……結局僕のためじゃないか」
 光くんはエルメノが消えた場所を眺め、深く肩を落とした。何か呟くように唇が震えていたが、ここまで声は聞こえなかった。彼女だけに届けばいい言葉だったのだろう。
 やがて空を仰いだ光くんは、すっきりとした顔で禦霊とクリスを振り返った。
「それなら僕は、エルメノの残してくれたものを大切にしよう」
 そう二人に囁いて紫精を魔法石に戻し、安藤一家の前――それも朝来さんの前に立った。
「直接話すのははじめて、だよね。同級生の木沢光だよ。知ってると思うけど」
 朝来さんは父親の背に隠れるようにしながら光くんを窺った。光くんはそれでも手加減しないでまっすぐに彼女を見つめた。
「誰かのためには結局自分のために。自分のためには誰かのために。めんどくさいね。どっちを口にしても欺瞞と思われる。君の代わりのエルメノはもういない。明日から学校の安藤朝来の席は空席だ。安藤さんが来なきゃ、ね。それとも、魔麗の国に帰って家族三人で暮らすか。学校に戻っても、昨日までの安藤朝来との違いに周りは驚くかもしれない。でも、それは安藤さんに与えられたリセットの機会だよ。もう一度安藤朝来をやり直す、ね。ま、僕はどっちでもいいんだけどさ。確かにこの世の中生きにくし、いろいろ面倒なことも多いし。でも、エルメノ・サースティンの名を持つのなら、君は逃げちゃいけない。君だけが知っている真実を投げ出してはいけない」
 朝来さんは父親の影に隠れながらも、目はしっかり光くんを見つめ、何かを受け取ったようだった。
「禦霊、この人たちを魔麗の国へ。ついでに、今回のことでフェイクだったとはいえ家族を失った人もいるだろうから、国が混乱しないようにしっかり王をサポートしてこい」
 禦霊をお目付け役に任命した光くんに、魔麗王たちは一瞬不安げな視線を向ける。光くんはそれを意にも介さず、意地悪げに禦霊を振り返った。
「信頼回復くらい自分でできるだろ?」
 禦霊はむっとしたのも束の間、すぐににやりと、おそらく彼本来の地の笑みを浮かべて「御意」と答え、黒い大きな鳥に姿を変えた。
「魔麗法王、ありがとうございました。皆さんも、ありがとうございました」
 魔麗王と奥さんは、深々とわたしたちに頭を下げた。わたしたちはただ軽く面を伏せて彼らの出発を見送った。
「さて、と。樒お姉ちゃん、お願い! 僕のためにアイカのところに行ける時空の扉を開いて」
 光くんは元気よくわたしに飛びついて、目をきらきらさせて訴えた。後ろからクリスも調子に乗って手を上げる。
「あ、僕も行く! 僕もアイカに会いたい!」
「何言ってんだよ。お前なんか連れてくもんか。さっきはよくも僕のこと騙してくれたな。いつから入れ替わってたんだよ」
「んー、アルト・カルナッスル城の地下からこっちに来る時? 僕、人界じゃなくてこのドームサーカス団の控え室っていうか、エルメノの部屋に強制連行されたんだよね」
「なるほど。ってことは、篠崎さんの奥さんに襲われた記憶はないわけだ」
「篠崎さんの奥さん?」
「お前の顔は人妻ウケするって話だよ。そんなやつをアイカに会わせるわけにはいかないね」
「関係ないじゃん! アイカだって人妻ってわけじゃないんだから」
「人妻だよ。麗の、ね」
 自信満々に言った光くんに、思わず葵が口笛を吹く。
「ほら、さっさと逢わせてやれよ。恋女房にさ」
「はいはい。でも、その前に渡しておくものがあるの」
「渡して、おくもの?」
 若干不安げに見返した光くんの前に、わたしは上着のポケットに入れていた時解きの実を差し出した。
「これは……」
 見覚えがあったのだろう。光くんは受け取ろうと伸ばした手を直前で止めた。
「時解きの実だよ」
 アイカさんに時間を返してあげて。その言葉を飲み込んで、わたしは光くんを見つめた。光くんは真意を探るようにわたしを見つめ返していたが、深く溜息をついた。
「アイカの望みなんだね?」
「聖との約束でもあるから。人らしく生きるということが」
 たとえそのほとんどを娘に託していたとしても、彼女は娘を通じて疑似体験してきたのだろう。しかし、生と死だけは本人でなければわからない。
「この実を食べたら、アイカは……?」
「一千年間止められてた時間が一気に押し寄せる形になるのか、それとも少しずつ歳をとっていくのかは、食べてみないと分からない」
 光君は気難しげに眉根を寄せた。
「嫌だ、といっても今の僕はこんなに小さい」
 俯いてつぶやく。
「どうしてあげることもできない」
 無力を嘆いて、しかし、顔をあげたときにはしっかりとした顔でわたしの手から時の実を受け取っていた。
「行ってくるよ」
「うん。行ってらっしゃい」
 どうするかは、二人で決めればいい。
 わたしはまだ迷っているのだろう光くんの前に、セロへの時空扉を開き、その背を見送った。
「さ、それじゃここのドームを直して私たちは帰りましょうか。片山先生、やっぱり明日も学校、あるんですよね?」
 桔梗がさっぱりとした顔で先生を覗き込むと、先生は腕時計にちょっと目を落とし、一瞬考え込む振りをしたもののすぐに腕組みをして頷いた。
「当たり前だ。金曜日だからな。遅刻するなよ」
「えー、もう夜の九時だよ? 帰ったら十時すぎるし、明日くらいさー」
「そうそう、せめて午前中くらい……」
 葵と洋海が諦め悪く先生に取り入るが、先生は頑として首を縦には振らなかった。まぁ、担任の一存で遅刻が許されるわけがない。それは仕方がないとして、だ。
「桔梗、ドームの修復って誰がやるの?」
 恐る恐る尋ねたわたしに、桔梗はにっこりと笑いかけた。
「待っててあげるから、ちゃっちゃとお願いね」
「ちゃっちゃと、ですか……。人使い荒いなぁ、もう」
「何か言った?」
「いいえー、滅相もございませんー」
 そうは言ったものの、見上げた天井はくっきりはっきり満月にちょっと満たないお月様が見えている。
「すみません、エルメノの奴派手にやってっちゃって。何か手伝えることがあれば言って下さい」
 さっきまでの光くんへの態度とは百八十度変わって、クリス君が低姿勢でわたしを覗き込む。
「ああ、いいの、いいの。ちゃっちゃと〈修復〉かけちゃうから」
 手を振って愛想笑いを返して。でも、どうしてわたしは〈修復〉なんて魔法を知っているのだろう。使えると思っているのだろう。魔法を使えば使うほど、聖という人の過去を受け入れることになりはしないだろうか。
 そんなのは本懐じゃないのに。
「無理、しなくていいんだぞ」
 しばし考え込んでしまっていたわたしに、夏城君が低く囁くように言った。その声に、わたしの思考回路は一瞬ストップし、オーバーヒート気味のまま首を振って笑顔をつくった。
「いいの。大丈夫。早く片付けて早く帰ろう。明日も学校だし、放課後はお花見だし」
「え、お花見? 姉ちゃん、それ誰と? 俺も行っていい?」
「お花見かぁ。先生も混ぜてくれないかな」
 やる気を出そうと明日の予定を口にしたのがまずかったのだろうか。洋海と片山先生が乗り気で桔梗や葵に詳細を聞き出しはじめる。
「早くやっちゃおっと……」
 上空にヘリとかが飛んでなければいいんだけど。
『定められし道を外れ 彷徨うものよ
 欠け落ちた時の欠片よ
 汝 司る時の精霊の力を借り
 あるべき場所へと回帰せよ』
「〈修復〉」











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