聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 6 章  鍍金の望み



 僕は、一体誰と戦ってきたんだ?
 一体、誰を友と思い、誰を愛してきた?
 誰に復讐し、誰に甘え、誰に笑いかけ、誰に――!!
「クリス……カルーラ……」
 ステージに膝をつき、手をついた僕は彼らの名前を呟いた。
 一体、何を真実と思えばいい? もう、何を言われても真実とは思わないかもしれない。いや、何も真実でなくていい。これなら、僕がエルメノの偽者だったと告げられた方がまだましだった。
 そうだ、もし僕のことであるならば、僕は己の心にある真実に従うまでだった。答えが己の中にあるだけまだましだった。
「もう……もう、たくさんだ! どうせそのアイカもまた偽者なんだろう? そうさ、偽者でいてくれた方がこっちはいくらかでも気が休まる。時の実が効かなかったってことだもんね? いいよ、もう。もう、やめてくれ……!!」
 一人だったんだ。ずっと。
 傍らにいると思っていた友は友じゃなかった。契約を結んだ影は味方じゃなかった。
 僕は何を浮かれてたんだろう。いつもそうだったじゃないか。いつも、いつも、期待すればしただけ裏切られるのが僕の人生だったじゃないか。努力なんて届かないところで運命の歯車は回っているんだ。僕の知らないところで。僕の手の届かないところで。
「一人、だったんだ……」
「一人じゃなかったよ。いつもぼくが側にいた。君と一緒にいた」
「違う! お前は違う! 違う、違う、違う!」
「何が? どこが違うの? 君は僕と一緒にいたいと願って契約をしたんじゃなかったの? 僕はその契約を履行するために、こうやって姿を変えながら君の側にいたっていうのに」
「クリスはどこへやった? アイカは? アイカはどこへやった?」
 僕は、クリスの姿をしたエルメノに掴みかかっていた。
「光。光はエルメノとクリス、どっちが大切? エルメノとアイカ、どっちが大切?」
「……え……」
 まっすぐに見つめられて、どうして僕は言葉を失ってしまったのだろう。すぐさま答えればよかったじゃないか。闇獄十二獄主になってしまったエルメノではなく、馬鹿なことを言い合えるクリスの方だと。アイカだと。少なくとも麗は、最後にはエルメノではなく彼らを選んできたじゃないか。
「大切なのは誰?」
 鏡の中にいたアイカそっくりな少女が鏡をすり抜けて姿を現す。
「木沢君にとって一番大切なのは、誰?」
 もう一人、エルメノそっくりな少女が別の鏡から抜け出してくる。
 幽霊にでも囲まれている気分だった。実体がよく分からないものと向き合わされているからだろうか。胸の奥底から沸きあがる恐怖心に、クリスの胸倉を掴む僕の手は震えはじめる。
「偽者なのか、本物なのか。そんなことは意味を持たない。分かっただろう? 僕を見なよ。僕は本物のクリスだ。姿も借り物ではなく、生まれつきのこの身体だ。でも、僕の魂はエルメノなんだよ」
「エルメノは死んでない。転生するわけがない」
「でもカルーラは麗を庇って死んだ。覚えてるだろう? さっき見たばかりだもんね?」
 思わず僕はクリスを見上げた。
 応えるようにクリスは頷く。
「ぼくはカルーラだった」
「違う! そんなわけあるか!」
「ほんとだよ」
「ああ、そうか。分かったぞ。また正体はエルメノの取り巻きのライオンだったりするんだろう? お前も、お前も、お前も!!!」
 クリスとアイカ、それにエルメノそっくりな少女――おそらく安藤朝来とを指差して、僕は不敵に笑った。
「もうその手にはまるものか。信じないぞ。僕は信じない!」
「アイカも安藤朝来も、エルメノだった」
 揺らがない口調でクリスは言う。
 僕は一息吸い込んで嘲るがままに笑ってやった。
「ああ、ほら、矛盾してるじゃないか。麗の時代、カルーラとアイカは僕の目の前に一緒に存在していたんだぞ? 今だってそうだ。鏡に映った偽者かもしれないけれど、もともとエルメノだったというなら、一度に現れられるわけがない!」
 なのにクリスは悲しげに首を振り、両手の中に一枚の飾り鏡を現した。
 その瞬間、僕は本能のままにクリスから手を離して後ずさった。
「闇獄十二獄主〈欺瞞〉に与えられた意思の檻、〈聚映〉。この鏡は持ち主の魂を複製することができる。いくらでも、持ち主の魂が失われない限り」
 鏡面には幼いエルメノ、クリス、アイカ、安藤朝来が順に映し出されていく。
「だってエルメノとカルーラは魂の双子だって」
「二重人格だよ。僕は精霊界に生まれながら、善と悪、二つの性格を有していた。とてつもない破壊衝動と、全てを慈しみたがる心と。どっちも自分なんだ。だけど、どちらかになっているとき僕は自分で自分を受け入れることができない。許せないんだ。自分を。善がエルメノで悪がカルーラ。闇獄界に堕ちて〈欺瞞〉と契約したのは、カルーラに耐えかねたエルメノだった。君の側にはいたかったけど、カルーラの破壊衝動を抑えきれなくなったんだ。闇獄界への扉を求めたのも、エルメノだった。愛優妃様から〈欺瞞〉と契約すれば聚映が得られ、その力を使えば魂を切り離せると聞いたから」
「愛優妃が、唆したのか?」
 クリスは曖昧に微笑んだまま頷きもしなければ首を振りもしなかった。ただ、淡々と続ける。その身体からは、わずかずつではあったが黒い炎がちらちらと見え隠れしはじめている。
「契約して、見事僕はカルーラを切り離すことができた。だけどカルーラは闇獄界の瘴気に触れて気狂いのままに君を傷つけた。そして、愛優妃様は僕ではなくカルーラを神界に連れて行った。聚映は魂を複製しても、オリジナルと意識のそこでは連動してるんだよ。結局偽者は偽者なんだ。僕は一人にはなれなかった。愛優妃様からしてみれば、都合がよかったんだよね。理性の働いているエルメノを闇獄界に置いといて、神界で抜け殻のようになったカルーラを操縦させる。麗の影の魂を綺麗にできる上に、〈欺瞞〉の檻も手に入れたというわけだ」
 クリスを覆う黒い炎は今や全身からゆらゆらと昇り立つようだった。僕はさらに後退したが、その肩を安藤朝来が掴んだ。
「今の話、本当だと思う?」
 うつろな目で僕を見つめ、彼女は問う。
「安藤さんは? アイカは? 彼女たちもエルメノだったというの?」
「そうだよ。彼女たちも僕だったものだ。僕がまだ全部汚れないうちに切り分けた僕の魂」
「でも、結局操っているのは闇獄主のエルメノだったんでしょ?」
「違う。彼女たちは僕じゃない。僕のように汚れてはいない」
 クリスから発されていた黒い炎が爆発したように一気にクリスの体を取り巻いた。クリスは呻いて仰け反る。僕の肩を掴んでいた安藤さんの手から力が抜ける。
「あ、れ……君は……木沢君?」
 空ろだった目に意志が戻っている。
「ぼくは……」
「朝来!」
 僕から一歩はなれてあたりを見回したところで、安藤さんの兄の声がステージ下から聞こえ、もみ合いの中を漕ぎ分けてステージに上ってくる影があった。
「お兄、ちゃん」
 茫然と安藤さんが呟く。
 僕は、安藤さんとクリスとを見比べた。クリスは笑っていた。
「行きなよ。もう他人任せなんかにしちゃだめだよ」
 安藤さんは驚いたように僕を見つめ、やがて深く頷いて迎えに来た兄の元へと走っていった。兄の後ろからは弱音ばかり吐く魔麗王やら綺麗な奥さんやら、アイカの面影を宿した老婆が娘との再会を涙ながらに喜んでいた。
 クリスを取り巻く黒煙はさらに勢いを増している。
 間に正気に返ったのかどうか分からない若いアイカを挟んで、僕たちは見つめあった。
「クリス」
 僕は呼びかけた。
「クリスじゃないよ。エルメノだよ」
 見極めなきゃならない。彼がどちらなのかを。そもそも存在していたのはエルメノだったのか、カルーラだったのか。二重人格だったのか、魂が初めから二つあったのか。
「たくさん造ったよ。たくさん、たくさん。なのに、君だけは生まれなかった。君だけは僕とは別だった。どんなに鏡を覗き込んでも、君は生まれなかった」
 切なそうにクリスは語る。
「当たり前だよ。僕はここに一人しかいない」
「そう、完璧な君はそこにしかいない。複製することに意味なんかなかったんだ。何人いても、僕のほしい君はオリジナルの君一人。所詮は似木に鏡で写し取った姿を貼り付けた鍍金も同じ。僕もそうだ。僕もエルメノを取り戻したくてたくさん、たくさん造ったけれど、どれも僕じゃなかった。エルメノじゃなかった。僕は、いつまでもエルメノの皮をかぶった偽者のままだった。同時にいくつもの意識が流れ込んできて、僕はさらに自分が何か分からなくなった」
 取り巻く炎が火柱となってドームの天井を突いた。
 僕は紫精を手に握り締めた。
「光くん!」
 はたと聞こえてきたのは桔梗の声。視界の脇には葵おねえちゃん、樒おねえちゃんの姿も見えた。
「来るな!」
 叫んだ時には彼女たちはもう、何を言っているのか口元を見ればわかるほど近くに来ていて、声が僕のところに届く前に渦巻いた黒炎が吐き出した熱風に弾き飛ばされた。その中から黒い炎は一頭のライオンの姿となり、倒れた樒お姉ちゃんを引きずってくる。
「君が望むなら、僕はクリスにだってなりたかったよ。でも、嘘はもう終わりだ。僕はもう、自分を欺き疲れてしまったのだから。今度こそ、光、お別れだ」
 一瞬にして炎がクリスの中に収束し、クリスは樒お姉ちゃんを抱えあげた。
「え、あれ、クリス君?」
 すぐに目を開けた樒おねえちゃんはぱちぱちと目の前の顔に何度も瞼をしばたかせる。
「樒お姉ちゃん、早く逃げて! 早くこっちに……」
 僕の言葉など無視して、クリスはにっこり微笑んで会場の一点を指差した。
「あれ、見えます?」
 すり鉢状になった客席の一番上、ピンスポットが当たる。現れたのは、両手足を柱にくくりつけられた守景洋海。さっと樒おねえちゃんの顔色が変わった。
「洋海っ!」
「そう、あなたの弟の守景洋海さんです。足元でうろうろしているのは何か分かりますか?」
「ライ、オン?」
「そう、僕の命令があれば今すぐにでも弟さんを食い殺すことができます」
 客席の喧騒を黙らせる猛獣の唸り声が一声上がった。身近にライオンの存在を感じ取った人々は一瞬にしてパニックに陥り、出口を求めて扉に殺到する。
 樒おねえちゃんは、視線をクリスに戻していた。
「過去に連れて行け、時を戻せって言うなら、お断りだよ」
 莞爾とクリスは微笑む。
「弟さんが人質になっているのに?」
「過去に行っても、時を戻しても、真実は何も変わらないよ。やり直すって言うのは、過去の出来事があるからこそはじめて成り立つの。全てを忘れてやり直すなんて都合のいいことはできない。一度生まれた時間を消去することはできない。たとえ表面的に消すことができたとしても、魂は全てを覚えている」
 樒おねえちゃんが言い終わるや否や、クリスは指を鳴らした。ライオンが応えて一つ咆哮をあげ、柱に縛りつけられた守景洋海に襲いかかる。
 僕でさえ目をそらし、茫然とする光景に、しかし、樒おねえちゃんは落ち着いた様子でクリスの顔と腕を押しのけ、立ち上がった。
「樒おねえちゃん、本物?」
 思わず呟いた僕に、起き上がってきた桔梗は「ええ」とだけ答える。
「クリス君、ううん、エルメノ・ガルシェビチ。聚映に映されて具現化してしまった偽者の自分――もう一人の自分の取り戻し方、知ってる?」
 必要以上に離れもせず、いつでも手を差し伸べられる位置で樒おねえちゃんはクリスを見下ろした。
「あなたはちゃんと分かってる。どうやってフェイクが増えていったか。自分の魂、記憶を切り離して別な器に入れていってたんだよね? 自分の望みをかなえるために。でも、切り離しすぎて、あなた自身が何者だったかわからなくなってしまった。あなた自身、望みがなんだったかわからなくなってしまった」
 物怖じしない樒おねえちゃんを、クリスは目を瞠って見上げていた。救いをほしがっているようだった。誰でもいいから、自分を元に戻してくれ、と。
 そうか。そうだったんだ。エルメノの望みは、エルメノとしてカルーラの代わりに麗の側にいることじゃない。エルメノとカルーラ、二人に分かたれる前の一人に戻ることだったんだ。
「どんな状態の自分でも、受け入れることだって教えてくれたのは他でもない、あなただよ」
 樒おねえちゃんは、不意に目の前のクリスではなく、安藤一家に守られるようにしてこちらの様子を窺っていた安藤朝来の方を振り返った。
「姉ちゃん、見つけたよ。安藤さんの妹」
 タイミングを見計らったかのように、さっき食い殺されたはずの守景洋海の声がステージに響き、夏城お兄ちゃんがぐったりとした妹を抱え、袖からステージに上ってきた。
「お疲れ、洋海、夏城君」
 樒おねえちゃんは驚きもせずに二人を労う。
「あなたの魂の欠片はアイカさんと安藤朝来さん。それから、エルメノ・ガルシェビチ、あなた自身。さあ、あなたの望みは?」
 安藤一家の輪の中から安藤朝来がゆっくりと抜け出してくる。
「ぼくはそこの間抜けとは違うんだよ。ぼくの望みは残念ながら元の記憶をかき集めてぼくを取り戻すことじゃない。ぼくの望みは……」
 安藤朝来に引き寄せられるようにクリスが僕の横をすり抜けていき、安藤朝来と向かい合った。
「ぼくの望みは、偽者だけの世界を創ること」
 クリスの手に掲げられた聚映が黒い瘴気を吹いた。瘴気はドーム中に広がり、あれほど眩しかったライトさえも黒く塗りこめていく。
「安心してぼくらが暮らせる世界を創ること。ぼくがオリジナルかフェイクかは関係ない。その世界では誰もがフェイク。誰もが誰かの写し物。フェイクは何人いたっていいんだ。だからぼくもフェイクになれる」
 安藤朝来の声に闇が深まる。
「そんなの、欺瞞だよ。それは周りと同じになりたいだけだよ。でもオリジナルであるあなたは、最後までフェイクにはなれない。たとえ自らをフェイクだと名乗ったとしても、あなたは自分がフェイクではないことを知っているから。――〈白矢〉」
 樒おねえちゃんの声のするほうから白い光が闇ににじみ、一筋の光跡が天へと昇っていった。煌きながら散り落ちていく白い光は触れた先から闇を光に変えていく。光の粉はそのまま安藤朝来とクリスの上にも降り注ぐ。二人とも腕で頭を隠したものの光の粉が触れた先から白い煙が上がる。それは、彼ら二人だけではなかった。ドーム中に存在する全ての片割れたちが、光をかぶった瞬間から同じように悲鳴やうめき声を上げながら白い煙に包まれ始めていた。
 黒い影が再びぼくらの頭上を覆ったのはその時だった。さして高度は高くない。むしろ大人が手を伸ばせば届いてしまいそうなほど低い高度で、禦霊が必死に翼を伸ばして安藤朝来とクリスの二人を光の粉から守っているようだった。
 さらに辺りを見回す。さっきまで僕の視界に入っていたはずのアイカの姿が見当たらなくなっていた。
「アイカ? アイカ?」
 桔梗が側にいるにもかかわらず、僕は大声で彼女の名前を呼んでいた。
「光くん、あそこ」
 桔梗に肩を叩かれて指し示された方向を見ると、アイカは安藤一家の元で、誰かを庇うように抱きしめていた。
「アイカ?」
 僕は彼女の元に駆け出していた。エルメノやクリスや禦霊に背を向けている場合でないとは思っていたけど、消えてしまうような気がして、僕は走っていた。
「アイカ!」
 ここでも白い煙が二つ上がっていた。今まさに浄化の光に焼かれていたのは、少女のアイカではなく、自分ひとりでは何もできない魔麗王を支えていた乳母の方だった。そしてもう一人は、安藤の兄。
「どういう、ことだ?」
 僕の独り言に白い煙を上げながらも穏やかな表情で答えたのは、安藤の兄。
「フェイクだから仕方ないんだよ。闇獄界の物質で身体を作られているから、あの光は強すぎる」
「そういえば、安藤さん、昨日のサーカスで鏡潜ったとき、唯一偽者が現れなかったけど」
「フェイクからフェイクは生まれない、ってことだったのかな」
 安藤の兄は苦笑するとがくんとステージに膝をついた。
「陽色!? 陽色!?」
 慌てて両親が手を添えるが、立ち上がる力はもうないらしい。
「安藤君、ごめんなさい」
 こうなると分かっていたのだろうか。安藤朝来たちを桔梗に任せて樒おねえちゃんが安藤の兄の側に駆け寄ってきた。
 安藤の兄はゆっくりと樒おねえちゃんに首を振って見せる。
「守景さん、ありがとう。言うとおりにしてくれて。いいんだよ。オリジナルが死んでいるのにフェイクが生きているって言うのもおかしな話だったんだから」
 オリジナルが、死んでいる?
「お兄ちゃん!」
 さらに目を覚ました安藤朝来が駆け寄って来、安藤兄の手を握った。
「だめ、だめ、だめ、だめ! 朝来、まだちっともお兄ちゃんとお話してないのに、死んじゃだめぇ」
 幼い声で安藤朝来は叫ぶ。
「ねぇ、光。僕は願いを叶えてあげたかっただけなんだ」
 背後からゆっくりともう一人の安藤朝来の声がした。
「君の愛した魔麗の国でさ、ちょうど一年前、流行り病が発生してたくさん人が死んだんだ。でも、魔麗の国は悲しみに喘ぐことはなかった。どうしてか、分かる?」
 僕は、消えかけている安藤の兄と安藤朝来とを見比べた。
 思い出せ。魔麗の国の地下からこのでくの坊の王に引き合わされた時、この王はなんと言っていた?
『ちょうど一年前、魔麗法王だという方が現れ、……それだけではございません。流行り病で苦しんだ者たちも元通りの生活に戻ることができたのです』
「第十三代魔麗王、ロシュフォーリオ・サースティン」
 僕は振り返らず、もう一人の安藤朝来だけを見つめて尋ねた。
「一年前、魔麗法王の偽者が流行り病で苦しんでた人たちを元通りの生活に戻してくれたって言ってたよね」
「はい」
 その返事は、声が震えてはいたが躊躇いはなかった。
「流行り病にかかった人たちは、みんな鏡の前に立ったんじゃない? そして、次の日にはみんな回復してたんじゃない?」
「そう……です」
「あんたの息子もその一人だった」
「はい」
 背後で、消えかける息子の身体をより強く抱きしめる気配がした。
「回復してたんじゃない。フェイクに摩り替わってただけじゃないか!! オリジナルの死には誰も気づかなかったのかよ!」
「気づいてたよ。魔麗の国の人々は、みんな大切な人たちの魂が育命の国に旅立ったのを見送ってくれたよ。でも、僕らはフェイクだったけれど、オリジナルの生きたいという望みを受け継いで生きてきたんだ。それが分かっていたから、誰も、父さんも母さんも朝来も、アイカさんも、ね、誰もおれのことを偽者扱いしなかった。本物と同じだけ大切にしてもらったよ。だから、朝来に成りすましたことは許せないけど、彼らが深い悲しみに沈まなくて済んで、本当にぼくたちは感謝しているんだ」
 不意に安藤の兄の声が小さくなり、両親と妹の悲鳴が聞こえた。
 僕は言いかけた言葉を飲み込んで、後ろを振り返る。少女のアイカに抱きしめられた老婆のアイカも、ちょうど消えていくところだった。
「聖刻法王様」
「……うん」
 黒い丸太一つ残さず消えてしまったために、空を抱きしめたアイカは、俯きながら樒おねえちゃんの昔の名を呼んだ。
「わたしは嘘をつきました」
「……うん……」
 躊躇いがちに頷いた樒おねえちゃんは、その嘘に気づいていたのだろう。沈黙を以って続きを促す。
「約束の人らしい人生を歩んだのは、今しがたわたしの元に戻ってまいりましたこのアイカ・ルーチェスの方でございます」
「……うん」
「初代の魔麗王と結婚をしたのも、子供を生んだのも、このアイカ・ルーチェスでございました。麗様を亡くしてしばらくした頃、エルメノ様が現れ、もう一人わたしを作ってくださったのでございます」
「だからあなたはエルメノに頭が上がらなかった。聖のせいだね。聖のせいで……」
「いいえ、いいえ! あなたはわたしに希望をくださいました。生きる道を示してくださいました。嘘をついて、申し訳ございませんでした」
 アイカは樒おねえちゃんに深く頭を垂れた。
「一つだけ聞いてもいい? エルメノは麗兄様とアイカさんの娘さんが魔麗王のサースティン家に嫁いだと言っていたけど、それは嘘?」
 それは一瞬耳を疑う話だった。僕は樒お姉ちゃんを見、アイカを見た。そこでアイカは初めて、僕と視線を合わせた。そして、意を決したように僕から視線をそらし、樒お姉ちゃんを見上げる。
「アイカ・ルーチェスの身体は、闇獄界の樹木ではなく、わたしの……流れた娘の身体を元にしてございました」
 声が震えていた。僕は、身体中が戦慄するのが分かった。心が麗に戻っていくのが分かった。
「アイカ、それ……」
 本当かと問うのもばかげている。本当でなかったら、あの気丈がとりえのアイカが泣いているわけがない。
 なのに、禦霊の翼の庇護下、もう一人の安藤朝来――エルメノは声を立てて笑いはじめた。
「ね、言ったでしょう。嘘じゃなかったでしょう? 僕の生まれはサースティン家。その魔麗王の家は元はといえば魔麗法王の〈影〉を生んだから取り立てられた家なんだよ。その僕の魂の欠片である彼女と麗の娘なんだから……」
「黙れ」
 紫精を握り締めて、僕は彼らに近づいていった。クリスはさっきから口を噤んだまま僕のことは見ようともしない。ただ黒い炎を纏わりつかせて苦しそうに立っているだけだった。
「黙れ? 僕はさ、君を失ってさらに忘れ形見まで亡くしてしまった彼女に生きる希望をあげたんだよ? 感謝されこそすれ、罵られる覚えはないね」
「そりゃ、そんな状態で娘を復活させてあげましょうなんて言われたら、誰だって飛びつくよね。帰るって言ったのに死んじゃった僕も悪いし。でもさ、こんな終わり方、誰も望んじゃいなかったよ。というか、やっちゃいけないことだったんだよ。命を弄ぶなんてこと、やっちゃいけなかったんだ。フェイクを作っていたずらに魂を弄ぶようなこと、しちゃいけなかったんだよ。誰にでも分かることだ。子供だって、知ってなきゃいけないことだ」
 ステージに紫精を突き立てた。その切っ先から氷の橋がエルメノの元へと渡っていく。
「まして、フェイクを作りたいがために魔麗の国に病を流行させたな? いつか聖刻の国にやったように」
「だから?」
 くすりと笑うと、エルメノは傍らに立っていたクリスを自分の方に向かせ、クリスの手に握られていた聚映を奪うとその鏡面をクリスに向けた。瞬間、黒い光が鏡から放たれる。
「光……」
 泣きたそうなクリスの声が聞こえた気がした。事実、悲しげなクリスと目が合い、僕はクリスと呼びかけそうになり、その名を口にする前にクリスは鏡の中に取り込まれていた。
 クリスを取り巻いていた黒い炎は、今やエルメノの周りに渦巻いていた。
「お帰り、カルーラ」
 誰も飛び込んでは来ない手を広げ、エルメノは聚映を覗き込み、嬉しそうに笑う。
「さあ、次は君の番だ。僕たちも元に戻ろう? たとえ過去を変えられなくても、そうだね、君が手に入るなら僕は何を捨ててもいい」
 僕たちは見つめあった。そして、僕は紫精を手に、エルメノは縁にがのこぎり状の刃になった聚映を手に同時にステージを蹴った。
 一合。
「僕は君じゃない。もう、君になりたいとも思わない」
 二合、三合。
 聚映の刃と紫精の柄が音を立てる。にごりない氷を爪弾いたかのような音。その音に聞き入暇なく、隙を突いてはかわされて離れ、再び紫精と聚映の刃とを絡ませる。
「僕は君と同じじゃない。僕は君のものにはならない」
 言いながら、まるで自分に言い聞かせているかのようだった。
「ぼくは君から生まれた。ぼくは君と一緒に育った。僕の心はいつでも君に寄り添ってきた。君はぼくなしでは生きられなかった。ぼくも君なしでは生きられなかった。ね? ぼくたちは同じでしょう?」
 エメラルド色の瞳が真摯に僕を見つめる。嘘偽りなく、彼女はそう思っている。
『集え 宙に咲く花たちよ
 冷たき息吹の導くままに
 大地に雪の花を咲かせよ』
「〈六花杖牢〉」
 僕の命によって巨大な白い氷の花弁が六枚、隙間なく宙から降ってきてエルメノを取り囲む。最後に中央にもう一枚、先の研ぎ澄まされた氷の花弁が降り落ちる。が、最後の花弁が完全に牢となった六枚の花弁に埋もれる前に、氷の花びらは内側から粉々に砕かれた。
「走れ、〈融線〉ってね」
 中から飛び出してきたエルメノは楽しげに降り落ちる氷の欠片に手を伸ばす。
 つい昨日まで願っていたはずだった。闇獄主と僕らがともに生きていける世界があったらいいのに、と。でも、そんな世界は存在しない。闇獄主となった者は、もう幸せなんて手にすることはできないんだ。むしろ手にさせちゃだめなんだ。彼らが元人であったならば、なおさら、許してはいけないんだ。
 闇獄主になるにあたって、どんな理由があったとしても。
 たとえ、僕の責任でエルメノを〈欺瞞〉にしてしまったとしても、だからこそ僕は彼女を人に戻さなければならない。
「罪は僕に。功は君に。君の心に巣食う悪夢を、僕は取り除いてあげたかっただけだったんだ。〈予言書〉を見てしまった君の不安を、僕は少しでも取り除いてあげたかった」
 台詞はエルメノの口から出つつも、聚映の鏡面にクリスの顔が浮かぶ。
「僕は約束を果たしたいだけだった。君と一緒にいるという約束を。なのに君はもう、僕をいらないというんだね」
 聚映の鏡面には今度はエルメノの姿が映し出される。
 僕はエルメノではなく、盾のように前に突き出された聚映の鏡面に紫精を突き立てた。その切っ先は、聚映で止まることなく、エルメノの胸にも到達していたようだった。
 手に、鈍い衝撃と拒む弾力とが紫精越しに伝わってくる。
 エルメノの動きが止まった。
 聚映の鏡面はひび割れ、ばらばらと鏡が剥がれ落ちていく。同時に、顔が見えなくなるほど深い漆黒の炎がエルメノを包み込み、天を突いた。
 僕は吹き飛ばされそうになりながらも、紫精から手を離さなかった。
 それを見て、エルメノははじめてほっとしたように微笑んだ。
「光、約束、覚えてる?」
 その約束が、いつの約束をさすものなのか、僕はすぐに分かってしまった。
「一緒に、って言ったけど、僕はもう守れない」
 麗の最期のとき、本当はエルメノと一緒に消えてなくなってしまおうとしていたんだ。だけど、結局は麗だけが死んで、エルメノは生き残った。
「そうじゃないよ。来世で待ってるって約束の方だよ。僕が、一方的に君に取り付けた、約束」
 屈託なく笑うたびに、炎の勢いは増していく。エルメノの表情に苦しそうなものが混ざりこむ。
「エルメノ様!!」
 それまで黙って静観していた禦霊が、痩せた道化に姿を変えて駆け寄ってきた。
「禦霊。ようやく言える。今までありがとう。それから、これからは禦霊がぼくのかわりだ。意味、分かるね?」
 禦霊はエルメノの言葉に不服そうにぼくをちらりと見、見るからに仕方なさげを装って「御意」と頷いた。
 エルメノは安心したように微笑み、比例して獄炎は勢いを増した。暑さにか、熱風にか、あえなく禦霊はエルメノの元から後ずさっていく。黒い炎の壁の中で僕だけが二人きり、エルメノと向き合っていた。
「光、アイカはね、ぼくが闇獄主になった後、まだ綺麗だったぼくの魂を愛優妃様に切り離してもらって生まれたんだ。聚映は通してないから、アイカはぼくのフェイクじゃない。自分で言うのもなんだけど、なかなか骨のあるいい子だったろう? ぼくはそれで十分だったつもりだったのに……欲ってのは尽きるところを知らないもんだね。でも、それももう終わりだ。ぼくが消えてもアイカの魂は君とともに輪廻しつづける。アイカならいつも君の傍らにいてくれる」
 いたずらっぽく笑ってエルメノは深く息を吐き出した。
「あー、すっきりした。ぼくは〈欺瞞〉となってから、己に都合のいい真実は触れられなくなってしまったんだ。喜んだら食われてしまうから。だからぼくは嘘を重ねるしかなかった。嘘を重ねるために、たくさんの人の命を弄んできた。光のせいじゃないよ。麗のせいでもない。カルーラのせいでも愛優妃様のせいでもない。全部、ぼくが選んできた道だった。だから業は全てぼくが背負っていく。――ねぇ、光、僕の名を呼んで?」
 すがすがしいくらいにさっぱりとした顔でそう言って、彼女はお願い、と小首を傾げて見せた。
「エルメノ」
 僕は、躊躇いながらも真実の意味を持つ彼女の真名を呼んだ。
 エルメノはその響きを堪能するかのように目を閉じ、ゆっくり開くと、遠く未来に思い馳せるように僕を見た。
「光、雪を降らせるよ。ぼくがきれいになれたら、その時は真っ白い雪を降らせる。何よりも白い、純白の花を」
「……うん」
 頷く以外、僕は返す言葉を見つけられなかった。微笑んだエルメノの瞼はゆっくりと閉じられていき、僕は深く息を吸い込んで、紫精を引き抜いた。
「おやすみ、エルメノ」
 僕は忘れないだろう。僕の背負うべき業を背負って消えていった真実という名のもう一人の自分がいたことを。
 一歩、二歩とエルメノから離れると、漆黒の獄炎は勢いよく天へと放たれたが、次の瞬間、エルメノの身体の中に全てが収束し、鏡が割れるようにエルメノの身体は粉々になって消えていった。









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