聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 6 章 鍍金の望み◇ 4 ◇
「で? 自分の偽者倒さなきゃ入れないなんて聞いてないんだ、け、ど?」
紫精を繰り出し、時にそれでジャンプしながら、僕はクリスに八つ当たり紛れに言う。
「それは僕も同じだから。早いとこフェイク探して中入ろうよ」
「僕はもう自分の偽者と和解したからね。クリスだけだよ、まだ自分の偽者のさばらせてるの。てか、早く来たのに入り口がどこにもないって詐欺だろ」
「欺くことが仕事だからねー」
「やることが小さいっ」
「ぼくじゃなくてエルメノに言ってよ」
「ちっ」
ほんとはクリスの目を通じてエルメノにもこの光景が見えているんじゃないかと思うんだけど、これ以上問い詰めるのはやめておいた。転生して身体が変わっても目となっている可能性があるなんて、本人だって考えたくないに決まってる。
「あ。僕自分のフェイクみぃつけた。ちょっと行ってくるね」
なぜか足取り軽く楽しげに、クリスは僕から離れていく。
「あの明るさ、違うんじゃないか?」
まるで遠く離れていた友人にでも会いに行くみたいじゃないか。
溜息をついたところで、僕の視界に入ってきたのは、今まさにママの側に付き添っているはずのパパの姿だった。
「パパ? パパ?」
罠かなーと思いつつ、僕は声をかけてみる。パパはすぐに僕に気づいて手を振った。
「おお、光も来てたのか」
「来てたのかじゃないよ。何やってるんだよ。ママの側離れていいの?」
「よくないんだけど、俺の偽者がいてさ、午後六時にサーカスに来たらいなくなってやるって言うんだよな」
「いなくなってやる? そんなパパに都合のいいこと言う訳ないじゃないか」
「それが言ったんだから仕方ないだろ。ママも今ちょっと落ち着いてたし、洋子だって俺が二人いたら混乱するだろ?」
僕はじーっとパパを見つめる。パパはぱちぱちと目をしばたかせながら僕を見つめ返す。にぃっと僕の口元は上がった。
「今朝、ママ救急車で病院運ばれたんだよね。パパも一緒に乗ってってさ。落ち着いたならママの着替えや必要なもの取りに行くのなら分かるけどさ、うちのパパ、あれで人使い荒いんだよ。僕の携帯にまだ着替え持って来い、はおろか、ママは無事だとも連絡入ってないんだよね。そんな状況なのに僕はこんなところにいるわけだけど。パパはさ、昨日帰ってきて、もうママから離れないって言ったばかりなんだよ。あの男はさ、ストーカーのように家の中でも台所にでもぴったりくっついていくくらいの男なんだよ。アメリカ行ったときなんて、トイレにまでくっついて行こうとしてママに叱られてたもん。ばかだよねぇ。そんなパパがさ、いくら自分の偽者消すためとはいえ、ママのこと病院に一人にしてここに来るかなぁ」
パパは言い訳しようと口を開いたが、その時にはもう、後方に弾き飛ばされていた。
僕は突き出した紫精を引き戻し、人工の地面を軽く叩いてパパのほうにゆっくりと歩み寄った。腹部を押さえて僕を見上げるパパは、恨みがましそうに僕を見ながらも苦笑していた。
「お前、本物だったらどうするんだ」
「本物? 本物でもかまわないね。ママを一人にしてきたことにはかわりないんだから、当然だよ」
「容赦ない息子だなぁ」
むせながらも偽者のパパはけらけらと笑った。嬉しそうに。
「何で笑ってるの? お前、パパの偽者なんだろ?」
「そうだよ。俺はお前のパパの偽者だ。だから嬉しいんだよ、きっと。お前がママの側にいてくれたから、俺は安心してアメリカ行ってこれた。ありがとな」
僕は眉間に力を入れていた。
「偽者なんだろ? いい奴ぶるなよ」
「空港に降り立った時の俺の望みは、洋子と光と新しく生まれてくる子と幸せに暮らすこと。それは俺のオリジナルが手に入れてくれる。俺は必要ない。ここに集められさえしなければ、俺だって洋子の側に付き添っていたかったところだが、所詮は偽者。創造主の命令には逆らえない。もどかしいよな。自由になるために生まれたのに、この身体はこの世の摂理とは別のものに支配されてるんだ」
偽者のパパは立ち上がる気配もない。それどころかどんどん影が薄くなっていく。
「本物の俺が今も洋子の側にいるなら、それが一番だ。俺はいなくてもいい。――なぁ、光、俺のことは洋子にも本物の俺にも言うなよ。いいな?」
僕は口元をへの字に曲げて偽者のパパを観察したあと、注意深く目は奴から離さないようにして頷いてみせた。その途端。
「いい子だ」
偽者のパパは笑って消えてしまった。黒い丸太を残すこともなく、何一つ残さずに。
「生まれてしまったことを恥じていたのかもしれないね」
いささか茫然と偽者のパパが消えた後を見つめていた僕に、背後からクリスが言った。
「みんな悪い奴だと思ってた。邪悪な、どうしようもない奴だって」
どうしてだろう。胸に隙間風が吹くくらい寂しい気持ちになるなんて。あれは本物じゃなかったのに。いずれ消えるべきものだったのに。
「パパさんが裏の顔持てないくらいいい人だってことの証拠なんじゃない?」
他人事だと思ってクリスは揶揄をこめて笑う。
「知ってるよ、そんなこと」
僕だって、麗の記憶さえなければもっと純粋に育ってたかもしれないのに。
「それより、クリス、偽者は倒せたの?」
「もちろん。ばっちりこの中に」
クリスは親指で自分の胸を指してみせた。
「ふぅん。ずいぶんと早かったじゃないか」
「望んでも仕方がないってことを分からせただけだよ」
若干遠い目でクリスは僕を見た。まるで僕の内側に誰かの影を探すように。
「一応聞いておこうか? 望みは?」
クリスはすぐ正気に返って手を振った。
「カルーラはさ、今でも麗ちゃんのこと愛しくて愛しくて仕方ないらしいよ。そんなこと言われても困るでしょ? 僕も光も。前世の人格って、ほんっと厄介」
ぞっと背筋があわ立って、僕はクリスから数メートルばかり飛び退った。
「だから僕も困ってるって言ってるじゃん」
笑えない。笑えないぞ、これは。今後はクリスの手が届く範囲にはいないようにしよう。向こうの方が今は背も大きいし、何されるか分かったもんじゃない。
「でもその中にってことは、和解したってことだよね? 受け入れたってことだよね?」
「他にどうしろと」
「笑ってるけどクリス、そいつは切り捨てたほうがよかったんじゃないか? 何なら今僕がこの手で……」
本気で紫精を握り締めた僕に、クリスはノン、ノン、ノン、ノンと首を振った。
「そうそう、整理券向こうで配ってたよ。もう時間ないし、早く行こうよ」
さらりと背を向けてクリスは僕の前を歩いていく。絶対に僕が攻撃しないと思っているんだ。
しないけど。
読まれて信頼されているのはちょっと悔しい。
のっぽのピエロから整理券を受け取って中に入ると、場内はもうほぼ満席だった。誰もいないステージには見覚えのある配置で整然とセットが並べられ、薄い青いライトに照らされて静かに本番の時を待っている。
整理券に「席はご自由にどうぞ」と書いてあるのを確かめて、僕とクリスは出入り口近くのちょうど二つ空いている席に座った。周りには、いつの間に、それもほんとに自分の偽者の屍を乗り越えてきたのか疑問に思うほどたくさんの人々が所狭しと座席を埋め尽くしていた。この中に桔梗たちも来ているはずだとクリスは言うが、残念ながらさっきから桔梗の携帯とは連絡が取れていなかった。
桔梗のことだから心配はないはずだ。何があったって、彼女は生き延びる。根拠は彼女の聡明さ以外には勘しかないけれど、彼女の運命はこんなところでは止まらないはずだ。そう何度も自分を説き伏せてはみても、圏外でもないのに桔梗が電話に出てくれないのは何か理由があるのだろうと逆に不安になるのだ。もしかしたら、避けられているのかもしれない、と。そんな小さな女じゃないと思うけど、抗いがたい眠りに落ちる前、僕が桔梗を困らせてしまったのは確かなのだ。座席を知らせるメールにも何の返信も返ってこない。
「レディース、エーン、ジェントルメーン!」
張りのあるバリトンの声がして、一瞬にして場内の照明が全て落とされた。暗闇の空間、人々は息を詰めてステージに見入る。
「今宵はイグレシアン・サーカスへようこそ。ここは現実から解き放たれた世界。今隣に誰がいようと関係はありません。楽しむのは貴方自身です。貴方の心で、今宵繰り広げられる世界を感じていただければ幸いです。さあ、それでは参りましょう。光と鏡が織り成す幻想の世界へ」
昨日とすっかり同じ展開だった。腹の突き出た燕尾服のおやじがピンスポットを浴びてシルクハットを取って胸の前にあて、薄くなったバーコードの頭を観客に向けて下げる。撫でつけていた髪がはらりと落ちて観客は心得ているように笑い、おやじは慌てて帽子をかぶって舞台裏へと引き下がっていく。
そして、ステージに光が溢れる。
影はどこにもなかった。燦然と輝く光の中で一人の少女が現れた時も、彼女の笑顔にも彼女自身の背後にも、どこにも影はなかった。影を消し去ってしまうほどの眩い光に目を眇めることなく、少女は両腕を上げ、大きなふりで深々と一礼した。そして顔をあげた瞬間、彼女はそのビリジアンの瞳でまっすぐに僕を射抜く。
来たよ。
僕の唇は彼女に言葉を送る。
彼女は見かけの年齢に似合わぬほど艶とした笑みを浮かべ、振り上げた両腕で顔を覆い隠した。
ステージは暗転し、爆発音とともに背後の五枚の鏡に炎が走る。赤々と燃える光を映し出しながら、五枚の鏡はやがて輪郭に炎を押しのけ、透明な鏡面を晒す。
すでに昨日とは違う展開になっていた。空中ブランコや一輪車の綱渡りなんていうサーカスらしい出し物が出る気配は一切なかった。流れる痛切なBGMはそんなことを考える余裕すら奪い、五枚の何も写さない鏡だけを見つめさせる。
「今日は特別なお話を聞かせてあげよう」
どこからかエルメノの声が響く。
「これは昔々のお話。まだ地球が生まれるずっと昔。神様の箱庭では髪と目の色は違えど、双子のようにそっくりな子供が毎日手を取り合って遊んでいた」
中央左側の鏡に夕焼け色の髪とビリジアンの瞳を持つ子供。右側の鏡に白金色の髪と紫の瞳を持つ子供が向かい合わせに映し出される。
「二人は互いに二人で一人だと信じて疑わなかった。引き離される時が来るなんて、夢にも思わなかった」
二人はお互いを覗き込むように手を鏡越しに合わせ、見詰め合った、その瞬間、夕焼け色の髪の子供の背後は真っ黒く染まり、白金色の髪の子供の背後は真っ白に塗りつぶされた。
「『鏡と戯れし一羽の小鳥、遊びなれし庭より闇に堕ちん。漆黒に染まりし鏡面、両翼を隔て、片翼は闇に染まりて他者を欺き、片翼は光に惑いて己を欺く』。その言葉のとおり、僕たちは闇獄界と神界、世界をはさんで隔てられてしまった」
中央で向かい合っていた二人の子供は左と右、両端の鏡へと引きずられながら引き離されていく。
「僕たちは初めて、自分が一人だったことを思い知らされたんだ」
重なる記憶。そう、確かにこのときまでは僕たちは二人で一人だった。名前など何の意味も持っていなかった。エルメノは麗の名前。麗はエルメノの名前。身体など意味を持たないほど僕たちは溶け合っていた。
脳裏にくっきりと蘇るのは、手を滑りぬけていくもう一人の自分のぬくもり。掴み損ねたあとの空虚な感触。
握り締めた自分の手は、まだ彼女の手を求めて空を掴んでいた。
「ねぇ、どうして? どうして僕が闇に落ちなければならなかったの? どうして? どうして彼が光に救い上げられたの?」
左端に引きずられていった子供は闇の波に溺れ揉まれ、右端に引きずられていった子供は光の中で身動き一つせず、膝を抱え続ける。
「僕たちは一つのものだったのに。二人で一人。二人が一緒にいて僕たちは初めて本物の麗だったのに」
ぴくり、と僕は顔をあげた。
暗闇の中、エルメノの姿を探す。
二人で一人。それに異議はない。麗はずっとそうだと思っていた。だけど、二人揃って本物の麗だったっていうのはどういう意味だ? 麗は僕の名前だ。正確には僕の前世の名前だ。麗は一人しかいない。エルメノはエルメノで麗じゃないんだから、僕一人でも麗という存在は成立するはずだ。
「真実を告白するよ。麗、僕も本物の麗なんだ。僕は君の一部だった。君は歪みだらけの魂だったから、そこから理性と狂気、両方をより分けられて僕が生まれた。僕も麗なんだ。認めてよ。僕も本物だって、認めてよ!」
エルメノは、ピンスポットを浴びて僕の真正面に立っていた。
「な、にを……勘違いしてるんだ?」
僕はエルメノを見上げて呟いた。
「いい加減にしてくれよ。僕が麗だったんだ。君は麗じゃない。確かに麗は君に魔麗法王になってくれと懇願したこともあったけど、だからといって君が麗になったわけじゃない。僕がどうあってもエルメノになれないのとおんなじだ。ただ名乗るだけなら誰にでもできるけど、それは自ら偽者と認めてるようなものだろう? やめてよ、もう。そんな自分を薄っぺらにするようなこと、もうやめようよ」
立ち上がり、彼女の両肩に手を添えて訴えた僕の頬を、エルメノは遠慮なく無表情でひっぱたいた。
僕は背後のプラスチックの椅子に倒れこみ、したたかに背中を打った。
「どうして気づいてくれないの? 君が認めてくれないから僕はいつまでも偽者扱いされるんだ。もしかしたら君こそが偽者かもしれなかったのに。僕は自分を切り売りした覚えは一つもない。薄っぺらになった覚えなんて一つもない。君がいる限り、僕はいつでも本物に戻れるんだ。悲しいね。どうして気づいてくれないの? どうして認めてくれないの? どうして受け入れてくれないの? この僕を!」
見上げたエルメノは張り詰めた瞳で僕を見下ろし、だんまりと僕の切り返しを待っている。その割には、どこか演技めいたものを感じてしまったのは、僕の不徳ゆえか。
口元をぬらしたものを手の甲で拭って、僕はエルメノから視線はそらさずにゆっくりと立ち上がる。
視線を交えても交わすものは何もなかった。互いに拒みあうことが正しいことに思えた。
何故か。
「君は、麗かもしれないね」
僕たちはもう同じものにはなりえないから。
「そうだ、君は麗だ」
紫精を取り出した僕に、一瞬認められて嬉しそうな顔をしたエルメノは血相を変える。
「何をする気?」
「何って、本物を決めるんだよ。同じなんだろ? 入り口でやったことと。自分のフェイクを倒せば次のステージに進める。そうでしょ?」
突き出した紫精の先を受けて、エルメノは客席の階段を何バウンドかしながら転がり落ちていった。回転が止まった場所で、無残に横たわる獅子の姿となる。
僕はゆっくりと客席の階段を下り、誰もいない、鏡の縁だけが炎を上げているステージへと上った。後ろからはしっかりクリスがついてきている。
「おかしい、おかしいとは思ってたんだけどさ、ね、クリス、聞こえてる?」
騒ぎ出す観客席のざわめきに負けない声で僕は隣のクリスに話しかける。
「僕たち、禦霊に違う場所に連れてこられたんじゃないの? あの観客たち、たぶん全部サクラだよ」
「次元もちょっとずれてるかもね。さしずめ、鏡に映し出されたドームの中とか? でも、よかったじゃん。桔梗さんに無視されてるわけじゃなかったんだから。きっと」
「最後のは余計なお世話だよ」
電波は入ってることになってるんだから、まだわかんないじゃないか。
「でも、位置的には近いってことだよね」
僕とクリスは客席に背を向けて、五枚並んだ鏡に向き直った。
「鏡の国は全てがあべこべ正反対。その鏡の国で鏡を見たら、真実が見える――かもしれないよね?」
誰へともなしに僕は声を大きくして言ってみた。
鏡は再び炎に覆い尽くされる。やがて曇りを払うようにひいていった炎の向こうに現れたのは、膝を抱えて目を閉じるエルメノそっくりな少女だった。
「どっちだと思う?」
ためしに僕はクリスに聞いてみる。
「さすがにそろそろ本物じゃない?」
「鏡なのに僕が映らないで女の子が映るなんてね。まるで僕が女の子だったとでも言いたそうじゃないか」
「言ってない、言ってない。それほど女顔ってわけでもないから安心してよ」
笑ってるクリスの顔は、どう見ても否定しているようには見えない。むしろ、遠まわしに女顔といわれたような気さえしてくる。気にしたことさえなかったってのに。
舌打ちして、僕はそっと鏡に触れてみた。
指は鏡の表面をなぞっただけだ。中に入れるんじゃないかと思ったけど、違ったらしい。はずれだといわんばかりに炎が鏡を覆いこみ、僕たちは二、三歩後退した。その背後には殺気が山と湧き上がっていた。
「クリス。一、二の三で振り向こうか?」
「その前に、この人たちどっちだと思う? オリジナル? フェイク?」
「振り向いてみないとわかんないよ。ほら、一、二、の、三」
迫り来る殺気に煽られて、僕は振り向きざま紫精で周りを薙いだ。背後に迫ってきていた五、六人がなぎ倒されて、背後で受け止めた第一波の動きを鈍らせる。がすぐにその脇から第二波が攻め寄せてきた。それらも薙ぎ払い、僕はまた舌打ちする。
「オリジナルだ」
手に残る重い生身の感触。誰かに操られていると一目で分かるうつろな瞳。フェイクはよほど実態を持てたことが嬉しいのか、命令に従わざるを得ない時でも目の輝きはしっかりしていた。ちゃんと望みを叶えようとする自我が残っていた。オリジナルと比較すれば、どっちがオリジナルであるべきなのか分からなくなるくらいフェイクの方が生き生きとしている。悲しいことだ。もしかしたら、オリジナルの幸せを望むフェイクがいるくらいだ、自分の本来の望みに忠実なフェイクの幸せを望むオリジナルもいるかもしれない。オリジナルを正気に戻すことが正しいとは、一概には言えないのかもしれない。
それでも。
『清らなる水面よ 凍りつけ
偽りに満ちた闇を弾き 真実を映しだせ』
逃げていても何も答えは出ないんだ。僕が彼らに答えを出すことを強制する権利があるかと問われれば、僕は首を振るしかないだろうけど、もし、正気に戻った上でフェイクの幸せを望むというのなら、それはオリジナルが自分で決めたことだ。僕はもう二度と口も手も出さない。
「〈氷面鏡〉」
立ち込める冷気に人々の動きが鈍る。気温の異変に人々はあちこちを見回し、天井、床、壁に映る自分の姿と対面する。
それは、ふと後ろの五枚の鏡を振り返った僕も例外ではなく。
「麗」
二十歳前後の青年がまっすぐ僕を見つめていた。
「知ってるよ。僕が麗だってことは。逃れられないことも知ってる。ああ、そうか。もしかしたら君から見れば、麗がオリジナルで光 がフェイクか。僕も君と同じ麗のフェイク。そう、言いたいの? エルメノ」
返事は聞こえなかったが、その代わり、ドーム中に張り巡らせた氷が軋みをあげながら剥げ落ちはじめた。それは次第に大量の水滴となり、雨となって降り注ぐ。同時に白い水蒸気が視界いっぱいに広がり、僕たちを包み込んだ。
そして、立ち上る湯気を貫いて、斜め上から眩しい光が僕にあてられる。
「お見事。ご覧ください。先ほどまではいなかった人々が一瞬にしてこのとおり、皆さんの目の前に現れました。もちろん、舞台装置は一切動かしてはおりません」
メタボなおじさんの声に続いておお、という感嘆の声とともに拍手が鳴り出す。ずぶぬれの僕には、その拍手は耳障り以外の何者でもない。
「クリス。元の世界に戻ってこれたとは思うんだけど、何だろうね、この腹立たしさは」
「そりゃもちろん、見世物にされてるからでしょ」
「何でクリスはそんなに冷静なんだよ」
「……雨で頭冷やされたから、かな」
クリスは濡れて縮れた前髪を引っ張ってみせた。その先から雫が零れ落ちる。
「うまくないよ、ちっとも」
呆れて僕は溜息をつき、眩しさに慣れた目であたりを見渡す。
観衆というのは、どうも苦手だ。特にこうやってステージに立たされている時に浴びる不特定多数の視線ほど嫌なものはない。
『麗兄様も演劇祭、協力してくれない? 領主様役、みんなが麗兄様が適役だって言うの。見た目とか、声とか、(冷たいけどほんとは優しい)性格とか』
『僕は見世物になるなんて真っ平ごめんだね。あんな衆人環視の前で歌えるお前の気が知れないよ』
『どうして? みんなが私の歌で喜んでくれるのよ? それに、ここだけの話だけど、すごく気持ちいいのよ? ライトを浴びるのって』
お願いと両手を組んで、きらきらと輝く青と黒の瞳で覗き込む聖に、一体麗はなんと返事を返したのだったか。今でも嫌いなんだから、オファーを受けたにしろなんにしろ、いい思いはしなかったんだろうけど。
そうだな。何が嫌かって、言うなれば闇の向こう、観客がどんな表情で僕を見ているか見えないのが嫌なんだ。自信の問題なのかもしれない。聖は自分の歌は必ず受け入れられると信じてやまなかった。僕は、誰かがなりそこないの僕を笑っているんじゃないかと不安で仕方なかった。
でも、今ライトを浴びているのは僕一人だけじゃなかった。催眠をとかれた人々が強烈な光を浴びて我に返りはじめている。そのうちの一人が、ステージ下を指差して叫んだ。
「あ、俺だ!」
叫んだのはその一人だけではなかった。「わたしだ!」「僕?」「何でおれが……?」混乱の入り混じった呟きが聞こえたかと思うと、人々はわっとステージから客席に飛び降りはじめた。場内に流れていた華やかな音楽はいつの間にか激しさを増し、人々が上げる唸り声、罵声がBGMさえもかき消しはじめる。場内の空気は誇りがライトに照らし出されて白く濁る。
「なんとか、しないと……」
妙な正義感を起こして呟いた時だった。
「余計なことはしない方がいいよ。光は取りこぼしなくオリジナルの魂を拾ってきた。フェイクをどうするかは彼らに任せればいい」
クリスが言った。
僕の背にはぞっと、今まで感じたことのない寒気が走った。嫌な記憶がまた蘇ってくるようだった。つい数時間前に夢で見たばかりだろうか。海姉上の声が聞こえる。
『貴方が頼りにしていいのはカルーラだけよ。あの子なら決して貴方のことを裏切らないわ』
そう言われていたのに、僕は偽者のカルーラに殺意を抱きさえした。たまたま偽者だったからよかったようなものの、もし、あの時のカルーラがずっと麗の側にいた本物だったら?
「さっき、自分の偽者を見つけたって飛んでいったとき?」
僕はできるだけ声のトーンをおさえて尋ねた。目は、見られなかった。できることならしっかりと見つめて判断すればいいのに、怖かった。
「何が?」
クリスはとぼける。さも、とぼけるのが正しいとでも言うように。
「それとも……はじめから? はじめから、君は僕の側にいた?」
クリスは、艶と微笑んだ。
「いつも側にいたじゃないか。光の側に。光を助けるために」
「エルメノ!!!」
叫んでいた。
ついさっきまで積み重ねられてきたクリスとの記憶が、カルーラとの記憶が、あっという間にフラッシュバックしてひび割れて崩れていった。
「あ、ああ、あああああああっっっっ」
頭が痛い。おかしい。記憶を引き継いでいるのは魂のはずなのに、ちっとも胸は痛くない。どうして頭ばかりこんなに割れそうになるんだ。
「それは、君が麗としてじゃなく、光として考え、生きているからだよ」
クリスが悲しそうに微笑みながら、頭を抱えて蹲った僕を見下ろしている。
「そして、今君が求めているのもエルメノじゃない。目が訴えてるよ。クリスはどこへやった、って」
笑いながらもクリスは僕から離れ、鏡へと近づいていく。クリスが鏡に触れると、中に見覚えのある少女の姿が映し出された。
「アイ、カ……?」
黒い長髪、青い瞳。それに黒地に白いレースをあしらった変わらないメイド服。歳はとっていなかった。分かってたはずなのに、驚くくらい僕は、それが悲しくて腹立たしくて、クリスのことと相俟って二重にショックで、二人を前にただ茫然と立ち尽くすしかなかった。