聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 6 章 鍍金の望み○ 3 ○
満たされたお腹を抱えて、わたしたちは安藤君と安藤君のお母さんが工藤邸の庭に描いた魔法陣の中央に立っていた。
「綺麗な花みたいだね」
足元に描かれた精密で歪みのない図形に、わたしはこれから危険な場所に向かうことも忘れて見とれて溜息をつく。
「本当にいいんですか?」
「あまり役に立たないことは分かってるんだけど、やっぱり朝来さんとアイカさんをほっといたまま、ここでぬくぬくしていることはできないよ。あ、別に工藤君と詩音さんがそうだって言うんじゃなくて、二人だっていろいろこっちでやることがあるんだろうし……」
「僕たちのことは気にしなくていいんですよ。有名なサーカスの公演を見てみたい気はしますが、下手に踏み込んで偽者を増やして皆さんのお手を煩わせるのも申し訳ありませんから」
「そうそう。わたしたちは行ってもどうせ何もできないから。樒ちゃんは光くんに時の実、渡さなきゃでしょ?」
詩音さんに言われて、わたしはポケットの中の時の実を軽く握ってちゃんとそこにあることを確認して頷いた。
「準備はいいですか?」
人数が多いから、安藤君一家はわたしたちを送ってから別便で来ることになっていて、魔法陣の中にはわたし、桔梗、葵、洋海、夏城君が立っていた。
安藤君と安藤君のお母さんはそれぞれ魔法陣の外側の両端にしゃがみこんで手をつく準備をする。
普通なら電車を乗り継いでいくところだけど、外はさっき襲撃してきたオリジナルの人たちや、なりかわった偽者たちが歩き回っていて危険だからという理由で、魔法陣なんて洋海がやっているゲームでしか見たことのない方法で移動することになっていた。わたしが〈渡り〉なり何なりで移動しようかとも言ったのだけど、行く前から疲れちゃったら光くんに時の実を渡せないでしょう、と桔梗に止められて、結局安藤君と安藤君のお母さんに送ってもらうことにしたのだ。
「では、行きます。できるだけ近くにつけるようにしますから」
安藤君の声がかかった瞬間、思わず目を瞑ってしまうほどの白い光が魔法陣を象る白線から放たれ、瞼すらも貫く閃光が止んで目を開けると、わたしたちは日暮れの薄紫色の空の下、大歓声を集める白いドームの前にいた。
人目につかない場所から一歩、ドームへと向かう道へと踏み出すと、ごった返す人の波に、わたしは桔梗たちとはぐれそうになる。
「樒、はぐれんなよ」
差し出された葵の手を握って、きょろきょろとわたしはあたりを見渡す。人々はみな一様にドームを目指して歩いている。誰も向こうから来る人がいない。気がついてしまうと、これほど異様な光景もない。みんな定められているように同じ動きで一点へと向かっているのだから。
「ねぇ、今日サーカス見に行く人たちって、なんかもうすでに様子おかしくない?」
友人や恋人と連れ立って歩いているように見えたって、その実、親しげに会話をしている人は一人もいない。前にあるドームだけを見つめて歩いている。だから、そう、聞こえるのはドームから流れ出す華やかな音楽と雑踏の足音だけ。
いまさらながらぞっと肩が震える。この中には、今朝襲ってきたわたしの偽者もいるかもしれない。
「いいんじゃないの? どうせあたしらなんて今日の公演チケット持ってるわけじゃないもん」
「そういえば。どうしよう。葵、どうやって入ろうか? やっぱり当日券かな」
「そりゃもちろん、正面から堂々と……」
正面から堂々と? 当日券じゃ、なくて?
「ああ、今日の最終公演は六時から整理券渡すみたいよ。チラシの端っこに書いてあったわ」
思い出したように桔梗が差し出したチラシには、確かに六時から整理券配布と書いてあった。
「ってことは、あそこの人がずらっと並んでるところが整理券配布場所?」
しれっと前方を指差す葵に悪びれる様子はない。この際、葵がどうやって正面から堂々と入ろうとしていたのかは聞かないでおくことにしよう(きっと正面突破とか言うんだろうから)。
「ようし、腕がなるなぁ」
なのに、葵はわたしの手を離してぽきぽきと準備を始めた。
「葵、整理券なんだからちゃんと並んで……」
「んなこと言ってる場合かよ。ほしいもんは力づくで奪い取らなきゃ。そうだろ、桔梗、洋海、それから夏城」
ふっふっふっと挑むような笑いを浮かべた葵は、いつの間にかわたしたちを取り囲んでいた群衆をぐるりと見渡しながら桔梗たちの準備が整うのを待っていたようだった。
「ただで入れてくれるわきゃないと思ってたんだよね」
洋海までが乗り気で葵に応える。
「ひ、洋海、あんたは怪我するから大人しく……」
そうよ。洋海は魔法が使えるわけでもなんでもないんだもの。どうしてわたし、ここに来るの止めなかったんだろう。そりゃ桔梗が連れてくる気満々だったから言いにくかったけど、それにしたって洋海は武器も何も持っていないのだ。お姉ちゃんならちゃんと来ちゃだめって言って工藤君のところに残してくればよかったのに。
「言っただろ。姉ちゃんは俺が守るって」
わたしの心配など微塵も慮らずに、洋海はにっこりと笑って見せると、囲みを狭めてくる人々に素手で向かっていった。
「洋海っ」
叫び声は張られた水のシールドに阻まれて洋海には届かなかったに違いない。よしんば届いていたとしても、洋海が戻ってくるわけなどなかったんだけど。
『さあ、イグレシアン・サーカス、本日最終公演となっておりますが、開演前の待ち時間、大人しくお待たせしては申し訳ないとちょっとしたアトラクションを用意させていただきました。テーマはオリジナルとフェイクの競演。フェイクの自分を倒した人から整理券をさし上げます。果たして開演の十八時半までに整理券を取って席にたどり着くことができるのか。ああ、怪我にはなにとぞお気をつけください。フェイクは理性飛んでることもありますから。それでは、はじまり、はじまり~』
陽気というよりもどこかいかれた感じの口調でおじさんの声がアナウンスした。その声を合図に、円を狭めるだけだった人々が一斉にわたしたちに向かってきた。
「さ、ここは葵ちゃんと夏城君と洋海君に任せて、私たちは先に整理券確保しにいきましょうか」
水のシールドに突撃しては気絶して倒れていく人々を横目に見ながら、桔梗は堂々と整理券配布場所のほうへ一直線に歩きはじめた。
「待って。洋海をおいていくの? 洋海は魔法も何も使えないんだよ?」
歩もうとしないわたしがシールドから外れそうになった場所で桔梗は立ち止まった。
「守るっていったんでしょ? 樒ちゃんのこと」
「言ったけど、それはただの正義感から出た言葉でしょ? 本当なら工藤君とこに残してくればよかったのに、わたし……」
「樒ちゃんが責任感じることじゃないわ。洋海君が望んできたんだから」
「責任があるんだよ。わたし、お姉ちゃんだもん。一人っ子の桔梗には分からないかもしれないけど、上は下のことちゃんと面倒見なきゃ……」
小さい頃からずっとお母さんにそう言われて育ってきたのに。そりゃ洋海ばっかりずるいって思うこともいっぱいあったけど、でもやっぱり洋海は姉であるわたしが守らなきゃ……。
「上とか下とか、たった二年違うだけでしょ?」
振り向かずに言った桔梗の声は、凍えるほど冷たかった。
「力もないくせにそんなものに縛られて命落とされたら、力あるのに守られた方は何も言えないわよ? ありがとうなんて、口が裂けたって言えないんだから」
「桔、梗?」
何かを思い出すように落ちている桔梗の肩を見て、わたしは謝ることもできなければ、このシールドを飛び出して洋海のところに行くこともできなかった。
「なんてね。いやだわ、私ったら。ちょうど今時期イライラする時期なのかしらね。ほら、あそこ。洋海君なら大丈夫よ。ピンチの時は葵ちゃんと夏城君が守ってくれるわ。私たちは信じて、私たちにできることをしましょう」
洋海は戦っていた。ゲームで敵と出会ったときにスティックを操るよりも厳しい顔で、体育で覚えたのであろう柔道を応用しながら 危なげなく組み合っては投げ倒していく。
「それに、整理券を確保したら、私たちにはやることがあるのよ」
「やること?」
「そう。さっき司会のおじさんがオリジナルとフェイクの競演って言ったでしょう? ここにいるのはおそらくみんなフェイクの方よ。それも作られたフェイク全員が集められているはず。このフェイクを消すにはオリジナルが受け入れるしかない」
「片山先生のところからオリジナルの人たちを連れてこなきゃならないんだね?」
「今朝、魔麗城から帰してしまった人たちもね。ああ、でも、その人たちに関しては心配ないみたいね」
「え?」
騒ぎは何も洋海たちの周りだけで起こっているものでもないようだった。わたしたちのすぐ横でも、瓜二つの二人が組み合っている。
「元の居場所に戻ったら自分がいるんですもの。そりゃあ驚くわよね。その場で受け入れられた人もいたかもしれないけれど、もしその機会を逸した人は、サーカスにもう一度ご来場くださいって、ほら、チラシのこっち側に書いてあるわ。偽者もそう言ってたし」
チラシを見せつつ、桔梗はつと別な方向を眺めたようだった。
「偽者もそう言ってたしって、桔梗も?」
桔梗は右の方を眺めたまま不敵な笑みを浮かべた。その桔梗の視線の先、もう一人の桔梗が歩み寄ってくる。
思わずわたしは目の前にいる桔梗と向かってくる桔梗とを見比べた。ぎょっとするほど、よく似ている。ついさっきも同じ顔で組み合ってる人見たし自分だって同じ顔と今朝向き合ったから初めてってわけじゃないけど、でも、知っている人と同じ顔が二人いる状態っていうのは、それとはまた違った違和感があった。
「受け入れるって言っても、向こうは抱きしめさせてもくれなそうね。どうしようかしら。ああ、樒ちゃんはそこで大人しくしていてね。何があってもこれからでちゃダメよ」
にこにこしながら桔梗はシールドの外へと出て行く。
「こんばんは」
「こんばんは」
お互いに友人にでもするように二人は挨拶しあった次の瞬間、こっちから出て行った桔梗はもう一人の背後にすっと背筋を伸ばして立っていた。こちらに向かってきたほうの桔梗はがくんと膝をつくと、ぼんやりわたしを視界におさめて前に倒れながら消えていった。
それを確認して、桔梗は何事もなかったかのようにシールドの中に戻ってきた。
「一体、どうやったの?」
「簡単よ。魂を抜き取って自分に戻したのよ」
「……簡単には思えないんだけど、それ、冗談だよね?」
なんとなく寒気がして、腰が引き気味になった。
桔梗はふふふと笑う。
「冗談よ。何のことはない。触れればいいだけよ」
いや、絶対ただ触れるだけじゃ消えないって。それだけで消えるなら、今朝だってあんな痛い思いする前に消えていたはずだもん。
「拒絶しちゃだめなのよ。受け入れないとね」
何メートルか進んだところで、桔梗は前方を見つめながら歩みを止めた。
「わたし、だ」
桔梗のフェイクに続いて、今度はわたしのフェイクが整理券の配布場所の前でこっちを向いて立っていた。明らかにわたしが来るのを待っている。
目が合った瞬間、前進に戦慄が走っていった。
痛い、怖い記憶が蘇ってくる。お腹がきゅっと締めつけられるように痛くなってくる。
「樒ちゃん、酷なこと言うけど、あの顔自分の顔でしょ? 乗り越えられなきゃ二度と鏡見られなくなるわよ? おしゃれもショッピングもできなくなっちゃうわよ?」
「分かって、るよ。分かってるけど」
でも怖いんだよ。
「自分なのに?」
「あんなことできるのなんて、わたしじゃない」
「エルメノの命令か何かに縛られていたかもしれないけど、多かれ少なかれ人には破壊衝動や負の心が宿っているものよ。どんなに汚いものでも、綺麗なままでは生きていけないから」
わたしの足は無意識のうちに後ずさっていた。
「それでも、認めたくない。あんなのがわたしの中にいたなんて……」
わたしの身体はいつの間にか水のシールドから抜け出していて、肩と背中が誰かにぶつかった。
「そう、いいんだよ。認めてくれなくたって。オリジナルに認められれば本物になれるわけじゃないもの。本物になりたかったら、オリジナルを消すしかないんだもの」
わたしと似た声を持つ少女が背後からわたしを抱きしめた。きつく、肩と肋骨が折れるのではないかというほど、強く。
事実、胸が軋む音が聞こえた気がした。
「離して!」
わたしは彼女の腕を振りほどこうともがくが、彼女の腕力はわたしと同じからだとは思えないほど強かった。
「何が不満なの? 何が望みなの?」
「望み? それはここにいるみんな同じよ。わたしたちは本物になりたい。気持ちを押し隠し続けることには疲れちゃっているのよ」
「何の気持ちを押し隠してるの?」
彼女はふと力を緩め、優しくわたしの耳に囁いた。
「去年の夏、夏城君とほんとはいいところまでいってたって、知ってる?」
血が引いていったわけでもないのに、わたしの意識は遠のきかけた。
「貴女はこの世界の時間を一日ほど戻した。それで全ては終わると思って。同時に、戻ってしまった一日分の記憶も貴女の中ではなかったことになってしまった」
「何、それ。知らない。知らない、そんなこと、知らない。時を戻したって? そんなことできるわけ……」
「時空を渡れるんでしょう?」
「い、今だけだよ。この変なのに巻き込まれている今だけ」
「都合のいいことを言っていられるのも今のうち。もう、二度と時は戻らない。ねぇ、ほんとに真由は自殺したと思ってるの? ほんとはわたしが殺したようなものなのに、忘れていいと思ってるの?」
身体中が冷たくなっていく気がした。
悪いのは彼女じゃない。忘れているわたしだ。そんな気がしてきた。
「いいんだよ? 無理に思い出そうとしなくったって。その記憶はしっかりわたしが持っているから。貴女が持っていたって、なかったことになっている記憶だもの。知ったところで、いまさら夏城君に言えないよね。サッカーの試合、応援に行くって約束したのももう一年近く前のことになってしまったし。とっくに試合も終わっちゃった。なにより、夏城君が今でもわたしのこと好きとも限らないもんね?」
甘い囁き声にわたしは振り返る。
きっと真っ赤になっていることだろう。
「いい加減なこと言わないで!」
自分の頬を思い切り張り倒して、わたしは叫んだ。
「そんなことわかっていたよ! 分かってて時間を戻したのよ。本当に好きなら、何度だって好きになれるから。あんな非常事態で前世の記憶に流されるまま両思いになるなんていやだったから、ちゃんとわたしがわたしでいられるときに仕切りなおそうとしたんじゃない! 結果、時間がかかったからって何だって言うの? この気持ちは焦るようなことじゃない」
「もったいないって思わないの?」
「思うよ。そりゃ思うけど、でも、わたし一人が覚えていたって仕方がないことなんだよ。でも、真由のことは別だよね。記憶、返してもらうよ」
もう一人のわたしは、脅えたようにわたしを見た。
「そうだよね。わたしが受け入れたら、あなたはいなくなってしまうものね。でも、わたしはあなたが生まれたことを忘れない」
顔を両手で挟みこんで、わたしは彼女の額に自分の額を当てた。流れ込んでくる映像は、どれも見たことがあるような気がした。ほんの二十四時間分の記憶なのに、別な人間を形成してしまうのも頷けるほど濃い記憶。
でも、本当は存在しない時間の記憶。
記憶を明け渡して消えていく彼女の身体はもう黒い丸太には戻らなかった。跡形もなく消え去っていく。
彼女のことは忘れない。だけど、取り戻した記憶は忘れることにしたものだった。真由の死の真相も夏城君のことも。
わたしは真由の笑顔だけを拾い上げて、残りの記憶は心の奥に閉じ込めた。見なければ済むものとは別だということは分かっていたけれど、見たらもっと、戻れなくなる気がした。
どこに? ――現実に。
「お疲れさま、樒ちゃん」
ぼんやりと立ちすくんでいると、桔梗がシールドごと移動してきてわたしを中に入れた。
「桔梗」
「なぁに?」
「わたし、変わりたくない」
急に湧き上がり、押し寄せてくる不安につぶされそうになって、わたしは助けを求めるように呟いた。
「それは成長したくないということ?」
「成長することが、わたしがわたしじゃなくなることなら、わたしは成長なんかしたくない」
黒と青の瞳が闇の中からわたしを見ている気がした。外に出たい、外に出たい、と。物理の授業の時には思い出さないでって言ったくせに、出たい、出たいって!!
「ぅわぁあぁぁぁぁぁっっっ」
こみ上げてくるものにわたしは恐れをなして叫び声をあげ、頭を抱えて蹲った。
「いや、来ないで! いや、いや、いや!!」
「樒ちゃん」
「桔梗、わたし怖いよ。怖いよ、桔梗ー!」
一緒にしゃがみこんで抱きしめてくれた桔梗に、わたしはしがみついた。このままじゃ連れて行かれると思った。暗い闇の深淵に引きずり込まれると思った。
「目を開けて。大丈夫。怖いことなんて何もないわ。彼女は何も悪いことはしない。樒ちゃんは樒ちゃんのままでいていいのよ。無理にその記憶を引き継がなくてもいいの。そのために、私たちが側にいるのだから。思い出さなくていいのよ。記憶を検索しなくてもいい。樒ちゃんが今受け取ったものはしっかりと蓋を閉じてしまいこんでいればいいの」
「でも、わたしは、わたしは……罪を、何かとんでもないものを……」
閉じ込めた箱の蓋が半透明になっていって、うっすらと中身が見えてくるような気がした。やっぱり渡したままにしておけばよかった、なんて、いまさら後悔したってどうしようもない。野放しにしておけば、彼女がいつかそれこそ〈本物〉になっていたかもしれない。
本物。わたしの、本物。
どうして、あっちのほうが本物になれるというの? あの異色両瞳の少女のことを受け入れているから? 罪って何? とんでもないものって、何? それらを全て知っているから?
「樒ちゃん!」
強く呼ばれて、わたしは桔梗に視点をあわせた。険しい表情でわたしを見つめている桔梗に。
「引きずられないで。大丈夫。私はいつでも樒ちゃんの味方だから。いつでも側にいてあげるから、いなくならないで」
いなくならないで。
その一言に、思いのほか重みを感じて、わたしは桔梗の胸に顔をうずめた。
心配かけちゃいけない。これ以上、心配かけちゃだめ。
「うん、ありがとう。大丈夫。もう、大丈夫だから」
どこが?
問いかけた自分の言葉を封じて、わたしは顔をあげる。笑顔を作る。
「甘えちゃってごめんね」
桔梗は友達なんだから。母代わりのお姉さんじゃないんだから、いつまでも甘えてはいられない。そんなのは、今はおかしい関係なんだから。
自分から桔梗を押しやるようにして離れて、わたしは整理券を配っている場所に目を向けた。
「急ごう。葵たちに先越されちゃう」
まだ心配そうな桔梗の顔は見なかったことにして、わたしはさかさか歩きはじめた。
ほんとはもう一人の自分が消えたその場所から早く逃れたかったのかもしれない。そうでなければ早く早く、とこんなにも気持ちが急くわけがないのだから。
「整理券ですね。どうぞー」
整理券は拍子抜けするほどあっさりともらえた。背の高いやせたピエロが風船と一緒に言った人数分を渡してくれたのだった。
「い、いいんですか?」
「この混戦模様じゃ、何人が開演に間に合うかわからないですからねー」
思わず聞き返したわたしに、のっぽのピエロは暢気に答えた。
なんとなく罠にはめられているような気さえする中で、桔梗を振り返ると、桔梗はちょうど誰かと電話しているようだった。
「ええ、それじゃあ今からお迎えにあがります。はい、はい」
何度か頷いて携帯を切った桔梗にわたしは尋ねる。
「片山先生?」
「そう。無事で何よりだわ」
桔梗はあっけらかんと笑って、さて、と続けた。
「樒ちゃん、お願いしていい?」
整理券を手にしたわたしたちのところには、もう誰も襲い掛かっては来なかった。それとわかって桔梗はシールドを解く。
「いいよ」
頷いて、わたしは唱えた。
『この世に存在する全ての時空に通じる時の精霊よ
命有るもの 無きもの全てを一つにつなぐ時の精霊よ
我が声聞こえるならば ここと学校のバレエ室との時空をつなげ』
「開け、時空の扉」
人の身長の一.五倍くらいはありそうな鉄の扉が現れると、錆ついた金具を軋ませるような音をたてながら観音開きに扉が向こうから押し開かれた。
「『ここと学校のバレエ室』でも立派につながるものなのね」
呆れたような桔梗の声に、わたしもちょっと苦笑する。
「たぶんイメージの問題なんだと思うよ。言葉はイメージをより明確にするために使っているだけだから。って、何だろね、この解説」
知らない知識をすらすら答えた自分がちょっと怖くなって、私はすぐさま笑い飛ばした。桔梗の目が眇められていたかどうかなんて、ちゃんと見てもいなかった。もう一度桔梗の顔を見る前に、扉からは大勢の人が飛び出してきたから。
「いやぁ、助かったぁ。ぎゅうぎゅうでみんなストレスたまっちゃっててさぁ」
一番最後に出てきたのは片山先生。ストレスがたまったといいつつ、その表情には険しさの一つもない。それでこそ片山先生なんだろうけど。
「どうします? 先生もイグレシアン・サーカスの最終公演、見ていきます?」
「そうだなぁ。せっかくだから見ていこうかな」
わたしが扉を閉じたのを確認してから桔梗が尋ねると、片山先生は楽しげにのっぽのピエロから整理券を受け取った。
「そういえば、先生もこの間見に来ていたんなら、偽者がいたんですよね? 整理券もらえたってことは、もう倒してきたんですか?」
「ん? ああ、俺の偽者? あいつならとっくの昔にばたんきゅーさせちゃったよ。今朝学校行ったら何食わぬ顔して美術室いるんだもんなー。参ったよー」
どこが? と問いたくなるくらい明るく笑い飛ばして、片山先生は整理券で扇ぐ真似をした。
「桔梗ー、樒ー」
そうこうしているうちに開演十分前のベルが鳴って、葵と夏城君と洋海が合流してきた。
「桔梗、光くんの姿が見えないけど」
「もう中にいるんじゃないかしら」
「安藤君たちは?」
「心配ないわよ。あれでも一国の王と名がつく人たちですもの。そのうち合流するわよ、目的地は同じなんだもの。さあ、行きましょう」
桔梗は本当に心配するそぶりも見せず、整理券を持って中に入っていった。片山先生と夏城君もそのあとに続き、さらに洋海も続こうとする。
「洋海、怪我はない? 無理しなくていいんだよ?」
思わずわたしは自分よりも太くなってしまった弟の腕を掴んで呼び止めていた。
洋海は一瞬わたしを見つめ、照れくさそうに笑った。
「心配されすぎると、信頼されてないのかなって思っちゃうんだけど」
「えっ。違っ。そうじゃなくて、だって洋海はただの人間でしょう? 偽者だってもう倒してるんだし、無理して付き合うことないんだよ?」
悲しそうに洋海の目が眇められたことに、わたしは残念ながらあまりの時の短さから気がつかなかった。
「姉ちゃんも、俺と姉弟なんだからただの人間だろ?」
「そうだけど、でもわたしは……」
「何も違わないよ。父さんも母さんも同じなんだから。いいから姉ちゃんは大船に乗ったつもりでいろって」
「大船が泥舟にならないようになー」
どんと胸まで叩いて見せた洋海に、葵が笑いながら忠告して追い越していく。
「葵さんもお人が悪い」
恨めしそうに葵の背中を見やって、再び洋海はわたしに笑いかけた。
「俺だってできることなら姉ちゃんのことこんなとこに連れてきたくなかったんだよ。姉ちゃんが帰るって言うなら、俺も帰るけど?」
「……それは、だめ」
わたしはポケットの中の時の実を握り締めて首を振った。
「なら、行こう」
洋海は、わたしの腕を力強く引っ張って中へと進みはじめた。
「ごめん」
「次、謝ったら強制送還な」
明るい洋海の笑い声に口を封じられて、わたしは薄暗いドームの中に入っていった。