聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 6 章  鍍金の望み



「あ……」
 瞼から透かし入ってくる光が眩しくて、僕はうっすらと目を開いた。
 四角い天井。四方を白く囲む壁。ちゃちな本棚。三段ボックス。丈高い妙な形をした机。
「おはよう、光」
 覗きこんでいるのはエルメノでもアイカでもなく……
「カルーラ……」
「何、泣いてんの? ほら、ティッシュ」
 渡されたティッシュ一枚を受け取りはしたものの、僕は目にそれを押し当てたまま動けなくなっていた。
「光?」
「こ……う……」
「? そうだよ。それが君の今の名前でしょ?」
「光……木沢、光」
「そう、君は今は木沢光。ついでに僕はカルーラでもウエンツでもなくクリス」
「ママっ!」
 僕ははっと思い出して飛び起きた。
「うわっ。び、びっくりさせないでよ」
「カルーラ、ママは? ママは、無事?」
「だからカルーラじゃなくて僕は……」
「いいからママはどうなったかって聞いてるの!」
 胸倉を掴んで揺らすと、カルーラはかくんと頭を垂れた。
「木沢先生なら、今病院でお産がんばってるところだよ」
「まだなの? まだ生まれてないの?」
「うん、まだ生まれたって知らせは入ってきてないよ。一応生まれたら光の携帯と家の電話とに知らせいれてくれるって、パパさん言ってたんだけど、まだなんだ」
「そう」
 僕はカルーラから手を離してほっと一息ついた。
「ん? カルーラ?」
「いやぁ、だからさ、僕、カルーラじゃなくてクリス。クリス・マクスウェル」
 しつこくクリス、クリスと名乗る少年に向かって、僕はベッドの上だったけど正座して向き合った。
「ど、どうしたの、いきなり」
「カルーラ、伝えられなくてごめん。僕、カルーラのこと信じてたよ。いろいろ意地悪言ったけど、すごい、信じてたから。最期、最悪カルーラに僕の命刈り取ってもらおうって。海姉上に言われたからっていうのもあったけど、結局僕にはカルーラしかいないんだ。だから、だから……助けられなくてごめん。庇ってくれてありがとう。これからもよろしく」
 深々と頭を下げた僕のことを、カルーラは、いや、今は転生してクリス・マクスウェルとなった少年は、まじまじと見つめていた。
「あ、これからもよろしくっていうのは、また身を挺して守れって意味じゃなくて……」
 あまりに長い無言に、僕は顔をあげて慌てて言葉を付け加える。そんな僕を見て、クリスは一瞬、頬を赤らめたような気が、した。
「あ、やば。おっかしいな。今生ではそんな修羅な道歩むつもりないんだけど……」
「え? 何赤くなってんの?」
「いや、ね、これは、さ、ちょっと、照れたっていうか、照れだよ、照れ」
「何で照れるんだよ?」
「麗様にお仕えして数千億年。光と知り合って数年。こんな面と向かって仲良くしてくれっていわれる日が来るなんて……」
「今、微妙に話しすりかえようとしただろう?」
「してない、してない。あははははー」
 何考えてんだ? この外人。何年付き合っても得体が知れない。
 自分のことは棚に上げてそう思ったときだった。
 ずん、とマンションが縦に揺れたような気がした。
「何、今の揺れ?」
「来たか」
 僕はまだ眠気さめやらない目をこすってレースカーテン越しに窓の外を覗く。
 日は思ったよりもだいぶ落ちていた。朱金色の光の中、大勢の人々がこのマンションを囲んで見上げているのが分かった。
「何、あれ」
「おそらく、クワトの魔麗城の地下に入れられていたオリジナルたちだよ」
「ああ……」
 おぼろげながら木沢光の記憶が帰ってくる。
「でも、確かクワトの城の地下にいた人たちは全員連れ帰ってきたと思ったけれど」
「昨日の夜もサーカスやったみたいだよ。どんどん呼び込んでいるから、先にサーカスのほう止めなきゃまずかったんだよ」
「ふーん、そっか。でも、いまさらだけどどうしてクワトの城の地下にあんな巨大なもの作れたんだろうね」
「クワトを治めていたのは禦霊だったからね。毎日暮らしていた城だし、人夫雇うなり闇獄界から呼び込むなりして城の地下にああいう場所作るくらい朝飯前だったんじゃないの?」
「ずいぶんと遠大な計画だったわけだ」
 溜息をついた僕はもう一度窓の外を見下ろした。
 同時に、ピンポーン、とマンションのチャイムが鳴る。間を空けてもう一度、それからまもなくもう一度、さらに連打。
「うわぁぁぁぁっ、うるさいっ。カルーラ、じゃない、クリス、ちょっと出てきてよ」
「光、お前ね、僕はクリスである限りもう君の僕じゃないんだからね。その辺ちゃんと」
 ピンポン、ピンポン、ピンポン。
「ほら、早くでろって」
「でもいいの? チェーンかけてても、開けたら入ってくるかもよ?」
「クリスがその場で取り押さえちゃえばいいじゃん」
「……当たり前のように言わないでくれる? さっきの愛に溢れた言葉はどうしたの」
「だから言ったじゃん。これからもよろしく、って」
 呆れ果てたクリスは溜息をついて頭を振りつつ、僕の部屋を出て行った。
 周りの喧騒は変わらなかったが、一人になった空間で僕は深く息を吐き出す。
「アイカ……ただいまって言ったけど、気づいてなかったよね」
 気づくも何も、あの情景そのものが麗が最後に望んでみた夢だったかもしれないのだ。
「僕はまだ、君にただいまを言ってない、か」
 玄関のほうのクリスの声が険しさを増す。
「よっ、と」
 僕はベッドから起き出して、軽くストレッチした。
「光ーっ、そっち行った!」
 緊迫した声でクリスが叫ぶ。同時に、ノックもなく僕の部屋の扉が開かれる。
「伸びろ、〈紫精〉」
 完全に開ききる前に、僕は紫精を出し、扉に向けて伸延した。一人がまず引っかかり、二人目、三人目が玄関へと押し出されていく。
「あーあ、土足で入ったな。ママが帰ってきたら叱られるじゃないか」
 廊下に無遠慮についた足跡に溜息をついて、僕は玄関先のクリスに並んだ。
「クリス、お腹空いた」
「……はいはい、じゃあコンビニにでも行きましょうねー」
「お金ない」
「おんのれはどこまで付け上がれば気が済むんじゃ、こら」
「春だねぇ」
 開いた玄関から流れ行ってくる空気を胸いっぱい吸い込んで、僕は最後に言った。
「春といえば、お花見と桜餅。僕、道明寺が好きだからよろしくね」
 靴を履いて外に出て、紫精をマンションの廊下の両端に水平に突っ張り棒のように渡しかける。五メートル先では警戒しはじめた闇獄界からの使者たち。僕はその紫精を押しながら少しずつ非常階段のほうへと進んでいく。
 全員無事に帰すのがゲームのルールだったけど、四の五の言ってる場合じゃない。せめて、第三次神闇戦争で全滅した魔麗軍のようにならなければいい。一度取り込まれれば、何度でも奴らの断りの中で循環しつづけるなんてことだけにはならないように。
「それにしても、どうして紫色の簡易武装つけてるんだろうね」
 さっき押し入ってきた人たちといい、僕たちが進むに連れて後ずさっていく人々はみんな、紫色に染められた胸当てとひじ当て、ひざ当てをつけていた。目はうつろだからまだ操られている状況にあるのだろうが、動きだけは命令に対する反射だけで行っているのかやけに俊敏だった。
「魔麗の国の地下から来たからでしょう?」
「当たり前に言うけどね、クリス、あれを着てるってことは、わざと目立つようにさせられてるってことだよ? エルメノがそんなことするかな。エルメノはさ、こっそりこっちの世界に混ぜて偽者の世界を作りたいだけなんだよ? わざわざこんな見分けつくようなこと……」
「わざとかもね」
 考えるまもなくクリスは言った。
「エルメノが?」
「いや、エルメノはそんなことしても何のメリットもないでしょ」
「じゃあ……」
 僕は一昨日、アルト・カルナッスル城で出会ったひ弱な中年男――魔麗王の顔を思い出した。一方では完全にエルメノと禦霊に圧倒されていたが、アイカ・ルーチェスという老婆を使って巧妙に僕たちを助けてくれたり、昨日だって人界に帰るための鏡を持ってこさせたりしていた。
「つまり、紫の胸当てとか着ているほうが本物です、ってこと?」
「混ざって混戦状態になったときに、実に見分けやすくていいね」
「本物はまずこんなもの着てみたいと思わないだろうから、着替えて反対になるってことも考えにくいし、操られているオリジナルなら大人しく着て色といえば脱ぐこともない。なるほどねぇ」
 感心した僕に対して、クリスは現代のマンションの廊下に現れた中世西洋風の簡易兵装の日本人の姿に苦笑気味だ。
「目立つけどね」
「目立ってくれなきゃ困るでしょ。紛れ込まれたら鏡の前に連れてもいけない」
 階段の乗降口まで彼らを追い詰めたら、〈氷面鏡〉で正気に戻そうと思っていた。階段側とこっち側と向こう側、それに天地を氷で覆いつくしてしまえればいいと思っていた。しかし、邪魔は思わぬ方向から入ってきた。
「あら、光君、帰ってたの? 今朝救急車来てたみたいだけど、お母さん、大丈夫? 臨月なんでしょう? 無事に生まれそう?」
 すぐ目の前の玄関の扉が開いて、僕のうちの隣の隣の隣の奥さんが、ひょっこり玄関から顔を出して話しかけてきたのだ。紫精を隠す暇もない。幸いだったのは、開いた扉に隠れて目の前に対峙している人たちが見えていないことだろうけれど、向こうから何かアクションがあったら、もしくは噂好きな奥さんが買い物にでも行こうと出てきたら、知らぬ存ぜぬではすまないに違いない。だって、何せここは僕だけで住むような場所じゃないんだ。ママと、パパと、それからまもなく生まれる弟か妹と一緒に、おそらくこれからも住みつづける場所なのだ。うっかり「あそのこの息子さんたらね」なんて妙な噂をたてられたらたまったものじゃない。
 同様を悟られないようにこっそり深呼吸して、僕は外行きの笑顔を作った。
「ご心配ありがとうございます。今から病院に様子見に行くところなんです。あ、こっちは友達のクリスです」
「どうも、こんにちは」
 息を合わせていかにも日本人的な挨拶をしたクリスに、隣の隣の隣の奥さんの目は釘付けになった。
「まぁ、ウエンツ君そっくりね!」
 感嘆の叫びを上げたあと、目がハートになったままクリスを見つめている。そういえば、ここの奥さん美少年系に目がないとか、この間ママが言ってたっけ。光も気をつけなさいよ、なんていらぬことを言いながら。
「まぁ、まぁ、よかったら中に入ってお茶でも飲んでいかない? お菓子もあるわよ? どう、どう? 光君も一緒に」
 クリスは困ったように僕を見下ろした。僕は内心ほくそ笑む。
「すみません、篠崎さん。僕、ママのこと気になっちゃって。クリスもせっかく遊びに来てくれたんですけど、あまりもてなせずに帰すところだったんです。な、よかったらクリスだけでも上がってったら?」
「ああ、そうだったわね。光君は早くママのところに行ってあげなきゃね。それならクリス君だけでも、ね? いいでしょ?」
「こ、光……」
 情けない声を出したって無駄だ。ここでクリスが足止めしてくれれば、マンション一の噂好きの動向を、少なくともあの人たちを元に戻してやるまでは止められる。
「それじゃ、そういうわけで」
 僕はクリスを篠崎さんちの中に押し込むと、一方的にドアを閉めた。ベージュ色の扉がなくなったことで、向こうには律儀に構えている人々が見える。
「なんて命令されたんだろうね、ほんとに」
 篠崎さんちのドア向こうに聞こえないように小さな声で呟いて、僕は壁の両端に渡された紫精を両手で握ってマンションの廊下に集まった人々を一気に隅っこに押しやった。彼らは悲鳴とも唸りともつかない声を上げて思いのほか素直に後退していく。
『清らなる大気よ 凍りつけ
 天地四方 隙間なく固め
 偽りに満ちた闇を弾き 真実を映しだせ』
「〈六面氷面鏡〉」
 分厚い氷の壁が僕と彼らとの間を阻む。さらに彼らの足元、頭上、背後、左右も外すら見えないほど厚い氷が彼らを文字通り氷室の中に閉じ込めた。
 待つことなく、中からくぐもったうめき声、叫び声が聞こえはじめ、やがてぱたん、とそれらの声は途切れた。
「〈解〉」
 十分に時間を見計らって、僕は魔法を解く。中の人々は座り込み、ぼんやりと辺りを見回している。
 逃げるなら今だ。
 そう思ってぼんやりしている人々の間を縫って非常階段に足を踏み入れかけた時、断末魔のような悲鳴とともにクリスが篠崎家から飛び出してきた。
「あれ、早かったじゃないか」
 長い足で四歩、五歩、跳躍するように逃げてきたクリスは、真っ青になって僕の後ろに隠れた。追ってくるのはさっきの篠崎さんの奥さん。
「クリス、せっかく女性からのお誘いだったのに、もう少し場をもたせる方法を学んだほうがいいよ」
「そうは言うけど、光、あのおばさん、普通じゃない」
「そりゃ普通じゃないだろうさ。東京一の面食いかもしれないんだから」
「そういう意味じゃなくて!!」
 クリスのあと、追ってくる篠崎さんはもはやちょっといっちゃった目をしていた。口元にはにやりといやな笑みを浮かべている。
「光、篠崎さんちの奥さん、本人確認必要なんじゃない? 玄関の下駄箱の上に昨日見たらしいイグレシアン・サーカスの半券が三枚おいてあったよ」
「は? それって家族全員じゃん」
 素っ頓狂な声を上げて、僕は一度胸に収めた魔法石を紫精にして手に握り締め、非常階段の先に向けていたつま先をくるりと返して遠慮なく向かってきた篠崎さんに紫精を突き出す。突き飛ばされた篠崎さんは、もんどりうって転がると黒い丸太に姿を変えた。
「ぼく、さっきあれにキスされたんだ……」
「ぼさっとしてると、他の家族が出てくるかもしれない。行くよ」
 茫然としているクリスの手を引いて、僕は非常階段を下りだす。
「クリス、桔梗はどこ?」
「ぼくの……ぼくの……」
 僕が尋ねているのに、クリスは唇の辺りをしきりに気にしながらまだ茫然としている。
「ったく。ファーストキスなんてどの道そのうちいつだったかなんて忘れるって」
「ちがうよ! ファーストキスなんてとっくに四歳の時に済ましているよ。そうじゃなくて、そうじゃなくて……ぼく、ようやく本当の恋を見つけたと思ったのに」
「はっ?!」
 思わず後ろを振り返ろうとスピードを落とすと、背中にクリスがぶつかってきた。その衝撃で僕の足は非常階段から離れる。迫るのは踊り場のコンクリート塀。思わず紫精を突き出して顔面からの衝突は逃れたものの、さらに衝撃を柔らげるために癖で身体を宙にうかせてしまっていた。
 僕の身体はゆうに踊り場の塀を飛び越えて空中に飛び出した。
 さすがの僕も再び地上に紫精を着きたてて棒高跳びの要領でどこかに着地、なんてところまで即座に考えが及ばなかった。やばいなーとか、さっき何階まで下りてたんだっけとか、この下に植え込みあったかなとか、いろいろさまざまなことが頭をよぎるのに結局僕は自らを生かす策が思いつかなくて、ジェットコースターのように重力に引っ張られていくのを感じながらつぶやいた。
「あー、春だなぁ」
 冬よりも青みを増した明るい水色の空には、どこかからか飛ばされてきたピンクの桜の花びらが何枚か舞っている。白い雲さえもかわいらしい丸い形をしていて、ファンシーな世界を演出している。
 なのに、その空を黒く翳らせて、桜の花びらを弾き飛ばしながら巨大な鳥が僕の下へと滑り込んでいった。
「なぁにが、春だなぁ、ですか。あなたの頭のほうが春ですよ」
 ふかふかの黒い羽毛の中でワンバウンドして落ち着いた僕の耳に入ってきたのは、もう二度とこの位置では聞くことがないと思っていた禦霊の声だった。
「何考えてんだよ、禦霊。エルメノに叱られるんじゃない?」
 いまさらながらこみ上げてくる全身の震えを堪えきれずに声が震えてしまったことは忘れることにして、僕は身体を丸くする。
「事故にしても笑えない。こんなゲームオーバーはエルメノ様は望んでいません」
「エルメノ様、ねぇ」
「カルーラもこの状況であんな馬鹿なことを口走れるんだから見上げた根性ですね」
 マンションの下に下ろしてくれるのかと思いきや、禦霊は茫然と空を見上げるクリスのいる階の横に翼を渡した。クリスは躊躇うことなく踊り場の塀を飛び越えて禦霊の翼を渡り、僕の脇に座り込んだ。
「よかったぁ」
 心底ほっとした顔をして僕を見下ろす。
 その一言を合図とでも思っていたのか、禦霊は僕に断りもなく再び翼をはためかせはじめた。
「ちょっと禦霊、どこ行くつもり?」
 咎めたのは僕ではなく、クリス。
「何が本当の恋ですか。主従揃って頭が常春とは羨ましい」
「そうだよ、クリス。何もあんなところでギャグかまさなくたっていいだろ? それも出来がいいならともかく、笑えもしない。って、主従って僕も入ってんの?」
「他に誰がいるって言うんです」
 きっぱり断言しつつも禦霊は翼を休めようとはしない。僕はそんな禦霊の背に寝転んだまま、空を見上げる。
「なんだか懐かしいね。こうやって三人で空飛んでるとさ、魔麗の国にいた時のこと思い出す」
「光、くつろぎすぎだよ」
 ん~っと伸びた僕にクリスは顔をしかめる。クリスときたらしっかり禦霊の羽毛を握ったまま、何が起きてもいいようにしがみつく体制を整えている。
「そもそも禦霊はカルーラが連れてきたんじゃないか。カルーラが信じなくてどうするの」
「さっきの夢、最期の夢だったんでしょう?」
 安心させようと笑顔を作ったものの、カルーラの曇った表情は晴れなかった。
「禦霊が最期にエルメノについたことも、ちゃんとその目で見てきたんでしょう?」
 僕を見ながら言っているクリスの言葉は、その実、僕たちを運んでいる禦霊にそのまま向けられたものだったに違いない。
「ああ、見てきたよ。僕が最後の最後に会いたかったのがアイカだったこともちゃんと思い出した」
「光、話そらさないでよ」
「禦霊ははじめからエルメノに仕えてた。エルメノが僕に力を貸せと言ったから、魔麗の国の宰相としてクワトを治めていただけだ。そうやって僕らの信頼を培って、最期に裏切らせることで精神的な打撃を与えようとか……」
「そう言い出したのはかなり末期のことでしたよ」
 僕の落とした沈黙をさらうように禦霊が言った。
「獄炎の一つ、〈欺瞞〉。人界の人口が増えるにつれ、悲しいことに人々はお互いを欺きあい、騙しあい、エルメノ様の体内に治めた獄炎の威力も膨れ上がり、エルメノ様の精神を抉りつづける。獄炎を治める苦しみは、身体のみならず魂さえも内側から焼き炙られるほどのものなのだとか。何人もの者が永遠の命ほしさに試みたといいますが、エルメノ様が試みるまで全員が〈欺瞞〉の獄炎に呑み込まれたとか。獄炎はどれもこれも気性が荒いようでしてね、治めた主をいつでも焼き食い殺してやろうと内側で暴れまわるんだそうです」
「エルメノは今でもそいつと戦ってる、って?」
 禦霊は返事をしなかった。代わりに僕が呟く。
「馬鹿だな、お前も」
 馬鹿だな、と。
「お前も僕も、カルーラも、みんな大馬鹿だよ」
 昨日エルメノに噛まれた肩を抑えて僕は呟いた。
「でも一番馬鹿なのは、エルメノだ」
『ごめん、麗ちゃん。ぼく、幸せになれないんだ。ぼくは、自分の幸せを素直に受け取ったら滅びてしまう。だから君を麗に閉じ込めて一緒にいようと思ったのに……』
 僕を麗に閉じ込めたって、僕はもう麗ではないのに。どんなに人格に影響を受けて育ったといっても、僕は麗ではなく光と呼ばれて育ってきたんだ。戻れようもない。僕もエルメノもジレンマを抱えたまま、一緒にいる時間にうんざりする時が来るだろう。満たされたら滅びてしまうからとはいえ、常に空腹でいなければならないなんて、これ以上の生き地獄があるだろうか。
 僕は西日に煌く紫精の先端に映る自分を見つめた。
「これしかないの? 本当に方法はこれしかないの?」
 やはり禦霊は答えなかった。「何を勘違いしているんですか」という言葉を期待していたのに。
 思い出すのは海姉上の言葉。
『もし殺されてしまったら、貴方は永遠に転生できなくなってしまう』
 ねぇ、姉上、本当にこれしか方法はないんですか?
 法王と闇獄主がともに生き延びる方法はないんですか?
 どちらかがどちらかの魂を魂で制さなければ悪循環を断てないなんて、そんなこと言わないでください。
「桔梗に、会いたい」
 覗きこんだ地上は、幕を引きたがっている日差しに赤く染められて東から暮れなずんでいた。その方々で、暴動とまではいかなくても小さいとはいえない騒ぎが勃発しているようだった。帰り着いたオリジナルと偽者とが自分の居場所をめぐって争っているのかもしれない。
「かわいそうに。生み出された偽者は行き場がない」
「そうかな」
 独り言だったのに、クリスはついうっかり口を挟んでしまったとでもいうように口元を押さえた。
「そうかなって、どういう意味だよ」
「生まれた偽者は、身体こそ二つになっちゃってるから見掛けは偽者にされざるを得ないけれど、ほんとは偽者といわれている方も本物なんじゃないかって。むしろ、より本物に近いかもしれない」
「偽者がより本物に近いって?」
「彼らはオリジナルが心の奥底に封印した欲望を行動原理にしているみたいだったから。だから、誰かを憎んでいて殺してやりたいと思っていればそのとおりのことをはじめるだろうし、誰かが好きで好きでたまらないけど勇気がなくて告白できなかったという場合は告白しちゃってカップルになってるかもしれない。遠慮とか建前とかを取っ払った世界になるよね。善悪関係なく実行されてしまうから無法遅滞になってしまうだろうけど、言いたいこと言えずに、やりたいことやれずにうだうだとストレスためる人はいなくなる」
「オリジナルだけの世界に戻ったら、きっと大変だろうな。知らないうちにカップルになってたりさ、知らないうちに留置所入れられてたりさ。殺人なんて一例に挙げられたって聞きたかないけど」
「実行できるくらい思いが強くなっていたら、遅かれ早かれオリジナルも犯す罪だよ」
 夕焼けに赤く染められた白いドームが見えてくる。イグレシアン・サーカスの会場だ。
「そんな悲しい事件を起こさないようにするための、闇獄主は人柱なんだね」
 たとえ闇獄主が一人いなくなったとしても、この世から負の感情はなくならないだろう。今まで蓄積したものがゼロになるだけだ。根本的な解決にはならない。
「でも、幸せの味は不幸の味を知らないと分からないんだよ。幸せにはほんとは味なんてないんだから」
 罪と呼ばれるものを寛容していいことにはならないけれど。クリスがそう付け加えた時、禦霊は人気のない林に囲まれた広場に僕たちを下ろした。
「入り口はあっちだから」
 人型に戻った禦霊はそっけなく僕らに一般入り口の方向を指し示し、背を向けた。
 その背に、クリスは呼びかけた。
「禦霊、」
 と。とても切羽詰った感じで、走って引き戻しそうな勢いで。
 そんなクリスの腕を、僕は引っ張って引き止めた。
 禦霊は今はエルメノのものなんだよ、と、目で説き伏せる。いくら三人のつかの間の時間が懐かしかったからといって、過去に返ることがいいことじゃない。
 戻ってきなよ。
 僕だって、今乗せてもらって何度口にしかけたかわからない。ともすれば僕らを乗せてサーカスに連れてくるどころか、僕を助けることさえエルメノの命令ではないかもしれなかったかもしれない。ただ僕らを見張ることだけが禦霊の役目だったかもしれないのに。
 それでも口にしなかったのは、禦霊がエルメノに「様」をつけて呼びつづけていたから。あくまで自分はエルメノ側の者なのだと線を引き続けていたから。
「ありがとう、禦霊」
 だから、かけられる言葉は、今はそれしかなかった。
「助けてくれてありがとう、禦霊」
 禦霊は振り返りもせずに裏口からドームへと入っていった。
 その背を見送ったまま、僕は顔だけを茜色の空に向ける。エルメノの髪と同じ色の空に。
「終わりにしようか、エルメノ。約束どおり待っていてくれた君の願いに応えるよ」











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