聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師

第 6 章  鍍金の望み



「必ず戻ってくる。だから、帰ってきたら笑顔で迎えてくれ。そらまめのスープとサーモンのムニエルと、それから焼きたてのパンを用意して」
 アイカ、君を苦しめたかったんじゃない。
 あの時は、本当に君の笑顔を見るために身体をなくしたって帰ってくるつもりだったんだ。僕がいないのに君だけを永遠の牢獄に繋いでおくわけにもいかない。アイカのこと、ちゃんと考えていたよ。それが僕のわがままにつき合わせてしまったことへのせめてもの誠意の見せ方だと思っていた。
 アイカ、愛してる。
 それだけは、分かってくれ。
 ――どんなに言い訳しても、死んでしまったなら同じだろうに。思いだけじゃ他人には何も伝わらない。言葉にして説明しなきゃ、一緒にいれば分かるなんてそんなのは甘えだ。
 僕が死んだということは、つまり、僕が君よりも優先してしまったものがあったということ。
「エルメノ……」
 赴いた神界北端の戦地、羅流伽。平原にはまだ若干の雪が残り、緩んだ大地にはすでに数千の神界と闇獄界の兵士たちの死体が沈みはじめていた。
 日が西に落ちかけている。北の昼間はそうでなくても短いというのに、この日はあっという間に一日が過ぎ去っていっていたように思う。神界に侵入してきた闇獄界軍との激突は、西方将軍ヴェルド率いる西楔周方からの援軍を待たずしてすでに終盤に入り、僕とカルーラ、禦霊までもが戦列に加わり、戦陣切って闇獄軍を押し戻しているところだった。
 再会するなら、ここしかなかったのだろう。
 黒毛の馬に跨り相対した敵将は、稚い少女の体を持っていた。
 その小さな少女を見た瞬間、僕は彼女が黒銀の冑を脱ぐまでもなく分かってしまっていた。
 冑からこぼれでた夕焼け色の髪が北風に棚引く。顔から冑の影が引くと、棚引く夕焼け色の髪の合間から心臓を射抜くような強さを秘めたエメラルド色の瞳が現れた。珊瑚色の唇には、笑み。
 思ってたんだ。
 もし、闇獄界で掴めなかった君の手を、もう一度掴む機会が与えられたなら、僕は何にも優先して君を助けよう、と。でも、アイカに時の実を飲ませてからは、努めてエルメノのことは考えないようにしていた。僕の会いたかったエルメノは、もう遠い昔に闇獄界に置き去りにしてきてしまったから。いくら〈予言書〉で、僕らが敵将同士として相間見えることが記されていたとしても、僕は〈予言書〉の未来ではなく、自らの手で作り上げる未来を望んでいたから。
「やぁ、久しぶりだね、麗。また君に会えて嬉しいよ」
 僕は、幼い頃、かくれんぼで父の書斎に隠れたときに見てしまった〈予言書〉の文章を思い出す。僕がめくった自分に関する記述は兄弟たちの記述に混じって飛び飛びで、僕が覚えていた内容も衝撃が強かったことが中心で、最後には神代ごと僕らは滅ぶというところまで。僕は第三次神闇戦争で死ぬ。その事実は知っているけれど、さあ、どうして死ぬ羽目になったんだ?
『いい? けして彼女に殺されては駄目よ』
 耳元に海姉上の囁きが蘇る。
『もし最悪の場合は自ら命を絶ちなさい。もしくは、カルーラに頼みなさい。禦霊は駄目。貴方が頼りにしていいのはカルーラだけよ。あの子なら決して貴方のことを裏切らないわ』
 僕は左に人型のまま黒馬に乗って侍る禦霊を見、右に白馬に乗ってエルメノを睨みすえるカルーラを見た。
 禦霊は今まで僕を裏切ったことはなかった。それどころか頼りない僕に代わって立派に国を治めてきてくれた。どうして禦霊が駄目なのか、今でも僕は分からない。だけど、ずっと僕を気にかけてきてくれた人の言葉だ。禦霊への信頼度は横において置くとして、カルーラのことを考えれば、過去、あそこまで僕と共に堕ちるところまで堕ちてくれた奴もいない。そして、僕のためにあいつは僕から離れた。カルーラの僕への気持ちは無償の愛に等しい。たとえ今までの行為が、闇獄界でエルメノと分離されて混乱するがままに僕を傷つけたことに対する代償行為だったとして、それがエルメノを前にした今も継続されるとは限らないけれど。
 はは。
 溜息と共に乾いた笑いが小さく漏れでる。
 結局、両横に精霊王の片割れと守護獣を侍らせておきながら、僕にとってはどちらも信頼性の決定打を欠くのだ。信じられるのは己だけだなんて、この期に及んで、まだエルメノを求めているだなんて、あまりの進歩のなさに笑ってしまう。
「エルメノ」
「麗」
 慎重に呼びかけた僕に、エルメノは苦笑する。
「そうだよ、ぼくだよ」
 胸にこみ上げた哀切なものを押し鎮めて、僕は彼女の全身をもう一度観察した。
「あの時のままなんだ……?」
「一、二歳くらいは歳をとったかな。でも、ほとんど変わってないだろう? 懐かしい?」
 背後に七等の輝くライオンと闇獄界の上級クラスの騎馬隊を従え、それでもエルメノは旧交でも温めようというかのように僕に親しげに話しかける。そんな彼女に僕は思ってもみなかったことに、少なからず動揺していた。
「ぼくは、この歳で〈欺瞞〉と交わったから。そう、ちょうど君と離れ離れになって一年か二年ってところだ。名乗りが遅くなって悪かったね。ぼくは闇獄十二獄主が一人、〈欺瞞〉のエルメノ」
 彼女はすっと僕の首元に紫の槍の切っ先を突きつけた。表情は笑顔のまま変わらない。
「それ、は……」
「君の〈紫精〉だよ」
「そんなわけ、ない」
 盗られたのかと不安になって、僕は胸に持っていた魔法石を紫精に変化させる。
「あはは、盗れるわけがないじゃないか。君の紫精は君の魂とぼくの血とカルーラの血からできている。ああ、元は精霊王の魂だったっけ。いずれにせよ君からその石が離れることはない」
「じゃあ、それは」
「言ったじゃないか。だからこれは君の紫精だと」
「でも本物の紫精はここにある」
 僕の言葉が気に触ったのだろうか。エルメノは夕日を浴びながら意地悪げに目を眇めた。
「闇獄界に堕ちた時、君は僕に言ってくれたよね。麗になってくれないか、と。今なら二つ返事で引き受けるのに、どうしてかな。あの時は麗である君を何とかしなきゃならないとしか思えなかったんだ。でも、ぼくは闇獄界を彷徨って思ったんだ。いつ、また君が弱音を吐くかも分からない。今度はぼくが側にいないから、きっと君はそのままだめになっちゃうんじゃないかって。だから、その時のためにぼくが麗になる準備をしておかなくちゃって」
「だからそれは何なんだって聞いてるんだよ!」
「身体が大きくなった分、物分りも悪くなったんじゃない? 知りたいなら、知る方法があるだろう?」
 下から窺うようにエルメノは僕を見上げ、馬の腹を蹴った。
 槍の先が迫ってくる。
 僕はそれを自分の紫精の柄で振り払った。それでも尚、一瞬で馬首を返したエルメノのエメラルド色の瞳が間近に迫る。
 速い。
 息を呑むまもなく、僕は加減も忘れてエルメノに紫精を繰り出していた。
 すれ違いざま、バランスを崩したエルメノがなぜかにやりと笑った。
 僕は過ぎて言ったエルメノの姿を追おうと先に自分の首をめぐらせながら馬首を返す。その僕の目の前で、エルメノは自分の身長の倍はあろうかという黒毛の馬から落ちていく。左手を天に向けたまま。
 僕は馬腹を蹴っていた。
 あの手をとることができれば、まだ間に合うかもしれない。
「エルメノーーーーーっ」
 右に重心を落としながらエルメノの手を掬おうと右手を伸ばす。しかし、その手は思いも寄らない方向――空中から掬い上げられていた。
「禦、霊?」
 翼の影が黒く大地を覆う。
 見上げた僕を、漆黒の巨鳥の姿となった禦霊が黒紫の瞳で見下ろしていた。その黄金の爪に大切に抓まれたエルメノが空中でけたけたと笑う。
「僕が許すと思った? どう? 少しは昔のこと思い出した? 心は痛んだ?」
 僕は無意識に胸の辺りを掴もうとしたが、硬い鎧の前に爪が滑っただけだった。
「麗ちゃん」
 カルーラが僕の脇に馬を寄せる。
「カルーラ、お前、どうして止めなかった? 禦霊が変身する前に、いや、後だってよかったはずだ。飛び立つ前に、どうして止めなかった?」
 心がぐらぐらと揺れる。
 まさかこいつまで僕を裏切るんじゃないだろうか。こんなに近くに寄り添って、そのまま僕を刺し殺す気じゃないだろうか。
「よ、寄るな!」
 もう一歩踏み込んできたカルーラを見て、僕は軽く、しかし力をこめて馬腹を足先でつついた。馬は僕の気持ちを汲むように、そろそろと警戒しながらカルーラから離れていく。
「カルーラ、ほら、ご主人様がお尋ねだよ。答えてあげたら?」
 上空のエルメノは地上まで聞こえる含み笑いを漏らす。
 カルーラは上を見上げ、それから怯むことなく、悪びれることなく、まっすぐに僕を見つめた。
「禦霊は、僕じゃなくエルメノと契約した精霊獣なんだ」
 風向きは北風。もしかしたら風に乗って、ぐるりと遠巻きに僕らの戦いの行方を見守る生き残った兵士たちにもその声は聞こえていたかもしれない。瞬時にその意味を理解したかどうかはおいておいて、僕は臍を噛む思いでカルーラを睨み見た。
「でも、禦霊はエルメノがいなくなってかなり経ったあと、麗ちゃんに仕えはじめた。もしかしたらエルメノが寄越したのかもしれないって怪しまなかったわけじゃなかったけど、禦霊は麗ちゃんに献身的だったから。国を治める才も存分に発揮してくれて……」
「なぜ排除しておかなかったかを聞いたんじゃない。なぜ、さっきエルメノの元に行く禦霊お前は許したんだ、と聞いたんだ」
 僕はもう、カルーラの顔さえまともに見られなくなっていた。
「どうせ裏切るなら、麗ちゃんの側で裏切られるよりも、離れてからのほうがいいと思ったんだ。麗ちゃんから離れてくれれば、僕が全力で麗ちゃんを守れる」
「何……だよ、それ。そんなこと言ってカルーラだって……」
 不安になると思い浮かぶのはエルメノの顔ばかりだった。今は思い出さなくても頭上にいるというのに、目を瞑ってもエルメノの姿が目裏に浮かぶ。こういうときこそ側にいてほしいアイカの笑顔は遠く白く霞んでしまって思い出せない。
 いや、思い出せなくていい。思い出せないから、ちゃんと帰って彼女の笑顔を確かめなくちゃだめなんだ。
 帰らなくちゃ、だめだ。
 未来を見なくちゃ。一人アイカをこの世界に残して僕がいなくなるわけにはいかないんだ。
 紫精を握りなおす。周方からの援軍を待っている暇はなかった。一人でだって切り抜けられる。考えてもみろ。これ以上闇獄軍の侵攻を許したら、セロのアイカのいる城も落とされることになる。
 クワトに先に逃げていろとなぜ言わなかったのか、悔いる必要はない。必ず、止める。
『万物を震わせる精霊達よ
 大気より熱を奪い取り 吹き荒れろ
 雪よ 氷よ
 嵐の如く 舞い踊れ
 その身 融け狂うまで』
「〈雪氷嵐〉」
 紫精の柄を大地に着く。それを合図に、僕が睨んだ上空、禦霊の周りに氷の粒が渦巻きはじめる。
「愚かな。麗、私を誰だと思っているんです? 〈熱〉を司る精霊獣ですよ?」
 余裕げ名声もすぐに嵐の風音にかき消された。
「伸びろ、紫精」
 僕は間髪いれず上空で吹き荒れる嵐の白雲の中に伸ばした紫精を突き入れ、掻き回した。一度、二度、三度の手ごたえの後、集まった白雲から翼をたたんだ黒い塊が闇獄軍の方へと飛ばされていった。
「凍りつかせたかったんじゃないよ。風を使いたかったんだ。翼を持つものは風に乗れなければ重力には逆らえないから」
「さすが麗ちゃん」
 僕の独り言にカルーラが安心したように追従する。そんなカルーラを僕は無視して、元の長さに戻した紫精を水平に持って頭上に掲げあげた。
「かかれ」
 僕の合図に従って銅鑼と法螺貝が吹き鳴らされ、僕とカルーラの両脇を歩兵が駆け抜け、続いて騎馬隊が過ぎていく。エルメノの連れていたライオンたちの獰猛な咆哮が大地を揺らす足音に混じりはじめる。
「こんな寒いところでも動けるんだな、あのライオン」
 吐き出した白い息に、僕はさっき見たライオンの姿を重ね、首を傾げる。
「あれは、きっとライオンじゃないよ。ライオンの姿をした別の何かだ」
 もつれ合うライオンと馬、それから人。馬と人のほうが圧倒的に数で勝っているというのに、ライオンは勇猛だった。次々と剥き出した牙で魔麗軍の兵士たちを噛み殺していく。
「嫌な光景」
 大地には魂の抜け殻が転がり、上空は次々と抜けていく魂ですでにいっぱいになっている。あまりに数が多すぎて、育命の国になかなか引き寄せられないのだろう。それとも、ここが転生を促す神界の秘所から遠く離れているからだろうか。漂う魂たちは不意に、闇獄軍の方へと逆流を始めた。引き寄せるために差し伸べられているのは漆黒の翼。禦霊の翼。
「なんだよ、あれ」
 茫然とつぶやいた僕は、カルーラが止めるのも聞かずに馬の腹を蹴った。
「だめだ! 行っちゃだめ、麗ちゃん! 麗ーっ」
 禦霊がいたらこんな時、上空から一っ飛びなのに。戦況だってすぐに把握できただろうし、あれが何であるかもすぐに分かっただろうに。
 禦霊――!
 歯噛みした思いは僕を死地へと招き寄せていた。
「禦霊、やめろ! 死者の魂を冒涜することは何人であっても許されない」
 禦霊の上にはエルメノの姿があった。彼女は両手で自分よりも大きい鏡を支えて立ち、その鏡に魂は吸い込まれていっているのだった。
「麗ちゃん。僕たちの軍は絶対に勝つよ」
 上空を睨みつけていた僕の背後、いつの間にかカルーラがいた。
 奇妙な笑みを浮かべて。
「僕たちの、軍?」
 眉をしかめた僕に、カルーラは頷いた。
「そう、僕たちの軍、闇獄軍がね」
 カルーラの口から出たその言葉は、もう誰も信じるまいと思った僕の心なのに、抉られたかと思うほど深く僕の心を凍りつかせた。
「カ、ルゥラァァァァァっっっ」
 氷を解くために噴出した怒りを紫精にこめて僕はカルーラに向けて紫精を突き出す。カルーラはそれを馬上ながら紙一重で交わし、隙あらば剣で切りかかってくる。
「ああやって〈聚映〉で集めた神界軍の魂を、ほら、そっちこっちに〈聚映〉が立っているだろう? そら、もう出て来た。六枚の〈聚映〉から戦場に送り出すんだ。格好は魔麗兵だけど、理性の箍が外れた闇獄兵の出来上がりだ」
 剣と槍の柄との拮抗状態で顔を近づけたカルーラは僕に囁いた。
 首をめぐらせるまでもない。視界の端にも大きな鏡が立っており、次々にそこから魔麗兵の紫を基調とした武装をした兵士たちが出て来、ついさっきまで互いを守りあっていた魔麗軍に向かいはじめたのだった。あっという間に魂を闇に染められたの魔麗兵たちは魔麗群の中に混ざりこみ、混戦状態に陥っていく。闇に染められた魔麗兵たちは見境なく、迷いなく同じ紫の武装をした兵士たちを倒していく。生き残った者たちはある者は知った顔に怯み、ある者は向かってきたものの死を知るがゆえに疑問を持った瞬間に大地に倒され、魂を空に吸い上げられていた。
 あれでは確実に魔麗兵全員が闇獄兵にされてしまう。それも闇獄兵となった魔麗兵も、何度倒されても鏡を経由して戦場に送り出されてくる。
 七箇所の鏡を破壊してしまわなければ。
 いつの間にか地上には魔麗軍と六頭のライオンしかいなくなっていた。闇獄軍は丘から僕たちを完全に包囲し、同士討ちを見下ろしている。
「憎い? 僕が」
 無邪気にカルーラは笑ってみせる。
「ぅあああああああっ」
 僕の全力の攻撃を、カルーラは笑いながら受け止めた。一合、二合、三合。柄の長い僕の方がカルーラの剣よりも消耗が激しいのは明らかだった。四合目、カルーラの剣が僕の紫精を叩き落した。剣はそのまま僕の甲冑に切りかかり、傷は負わずとも僕は馬から払い落とされる。
 しっかり受身を取ったつもりでも、白くスパークする視界は一瞬では元に戻らなかった。
「麗ちゃんっ!!!」
 視界が戻ったとき、なぜか僕に覆いかぶさるようにしてカルーラが荒い息をついていた。
「麗、ちゃん……、大、丈夫?」
 くぐもった音を立ててカルーラの口から血が吐き出される。
 僕はそのカルーラの背に突き立っているものに目を瞠った。
 紫精。
 その柄を握っているのは、やはりカルーラ。
 いや――。
「いやん、なっちゃう、ね。身体なんかあるから、命に終わりが来て、しまう。でも、麗ちゃん、お願い、信じて。僕……」
「喋るな。喋るな、カルーラ」
 僕はカルーラの肩を抱きしめ、上を睨み上げた。
「エルメノ、だったのか」
「ぼくの姿よりもカルーラの方がやりやすいかと思ってさ」
 カルーラの姿でそういったかと思うと、カルーラの影は消え、エルメノの小さな姿が現れた。
「我が弟ながらかわいそうに。これほど尽くしてるのに、はじめから忠義のかけらもない姉よりも愛されてないなんて」
 エルメノは慈悲もなく一息に紫精を抜き取った。
「ああああああっ」
 痛みを堪えきれずにカルーラが叫ぶ。
「〈凍結〉」
 応急処置にしかならないが、背中と腹の傷口を一時的に凍らせて固める。しかし、カルーラの血はこんな時に限って熱を奪われることを拒み、だらだらと血が流れ続ける。
「足掻けよ! 僕が大切なら、もっと生きたいって足掻けよ!! 足掻いてみせろよ!! 生き物はみんなそうだ。どんなに最新の医術を施したって、死にたがってる奴はあっさり死ぬんだ。死にたくないって思ってる奴ほど、どんなに重症だってしぶとく生き残るもんなんだよ! カルーラ、お前は僕が大切なんだろう!? 守るって言っただろう?! 失えないのなら、最後まで僕を守り通してみせろよ。信じてほしいんだろう? それなら信じさせてくれよ。お前はエルメノじゃない。アイカじゃない。僕は決してお前を愛してなんかやらない。僕の大切なエルメノを奪ったお前なんか……誰が愛せるものか、信じられるものか……。だから、僕を裏切るな」
「麗、ちゃん、信じ、て。好きじゃなくて、いいから。愛してなくて、いいから、だから……おねが……ぃ……」
 縋るような目でカルーラは僕を見つめ、ふと焦点が合わなくなったかと思うと瞳孔が開き、虚空を見つめたままになった。
 僕の身体からは全身の血が一気にどこか見えない空間へと引き去っていった。気づかぬうちに身体中に漲っていた力が煙のように消え去っていた。
「カルーラ、なんか……だけど、これからもお前がいないと困るんだ。だから逝くな、カルーラ。信じて、いる、から……」
 思い出に付随する幼い想いをねじ伏せて音にした言葉に、もはやカルーラは反応しなかった。
「エルメノ、最初から忠義がなかった、って、どういうこと?」
 尋ねつつ、僕はカルーラの瞼を掌で撫でて閉じてやり、数千年ぶりのキスを噛み締めた唇で額に落としてやった。こんなことしたって、何にもならないって分かってるけれど。
 カルーラを大地に横たえてよろりと立ち上がった僕は、すでに周りの戦況など何も見えなくなっていた。見えるのはカルーラをはじめ、その辺に転がる死体ばかり。
「死体は……醜いね。みんな消えちゃえばいいのに。命がなくなったものはみんな、僕の目の前から消えてしまえばいい」
 と、エルメノの手の中にあった紫精が眩い輝きを放ち瞬時に氷と霜を纏った。
「あつっ」
 冷たさに耐えられなかったのか、エルメノが紫精から手を離す。倒れてきた紫精を僕はしっかりと掴み取った。
 僕の手には、叫ぶほどの熱さは感じられなかった。生き物のように脈動すら感じる。
 驚きを隠せないでいる僕を、いや、正確には紫精にこもって僕を守ろうとしたカルーラをエルメノは嗤った。
「精霊は所詮肉体を持っても魂は魔法石の中。魄だけで動いていたから聚映に捕まらないですんだのかな。僕を拒むなんて、成長したものだよ」
「本物の紫精に拒まれた。ということは、エルメノの魂はこの魔法石にはない」
「ご名答。統仲王と愛優妃に捕まった時、ぼくはとっさにカルーラの魂を差し出した。だから、君と一緒に成長したエルメノの中にはエルメノの魂魄とカルーラの魄だけが入っていたわけだ。当然完全な魂を持つ僕の方が強かったのは分かるよね? でも、それゆえに僕は君と一緒にいられなくなってしまった。それだけは、今でも後悔が残る」
 自嘲したエルメノに、僕はまだ、早く嘘だといって笑ってくれないかとどこかで期待していた。だけど、いつまで待ってもエルメノは嘘だとは言わなかった。
 どうして愛優妃は本当のことを言ってくれなかったのだろう。エルメノはそもそも〈影〉となりうる条件を満たしていないのだと、なぜ、言ってくれなかったのだろう。それどころかエルメノ人格の〈影〉を僕の幼馴染として一緒に育てるだなんて、幼い僕はカルーラの存在さえも知らなかったというのに。
「僕も、いまだに君を失った日のことを鮮明に夢に見るよ。覚えていたよ、ちゃんと」
「もしもがあったら、よかったのにね――〈紫精〉」
 もしもの世界。エルメノが僕の〈影〉として正式に仕え、敵将としてではなく、僕の参謀として第三次神闇戦争に挑む世界。
「ごめん、カルーラ。力を貸してくれ」
 魔麗兵はいまや全滅し、全員が僕とエルメノとを囲んで次のエルメノからの指示を待っていた。ライオンはエルメノの真後ろに六頭控える。その外周には取り囲む形で六枚の鏡が立ち、空の禦霊の背の上にもう一枚がもう一人のエルメノに支えられる形で立っている。
 僕は息を深く吸い込み、カルーラの宿った紫精の切っ先を両手で大地に突き立てた。
「〈凍結〉」
 全てが凍ればいいと思った。時間さえも凍りついてしまえばいいのに、と。
 願いどおり、紫精の切っ先から疾く駆け走っていった氷の手は僕を取り囲む全ての魔麗兵の身体を凍りつかせ、六枚の鏡を氷で覆いつくし、さらに丘に控える闇獄軍、禦霊の背にある七枚目の鏡をも凍りつかせていた。
「はは、そうやって凍りつかせてどうするつもり? まさか……」
 僕は脂汗のにじむ手で紫精を握りなおす。
「〈壊〉」
 ガラスの像が砕け散る音が一斉に大地から天へと昇っていった。
「ははっ、これは傑作だ。この知らせがもたらされることがあれば、きっと神界中がひっくり返るだろうね。自国の軍の兵士の命を、法王自らが握りつぶしただなんて」
 エルメノの言葉はもはや僕には届いていなかった。
 空を見上げた僕は、魂の流れを見つめて呟く。
「そうだ。そっちだ。南だ。冷たかっただろう。寒かっただろう。申し訳ないことをしたね。次の世では、安らかな生を営めますように」
 地上と空にあった七枚の鏡も割れ砕け散っている。
「天宮にもたらされる知らせは、きっと魔麗軍全滅、だね」
「いや、魔麗法王生還、だよ」
 大地から紫精を引き抜き、僕は一気にエルメノとの間合いを詰めた。同じく同色同名の槍が寸でのところで僕の紫精を弾き返す。僕はすぐに体勢を立て直し、喉元、腹部、肩周りの冑の隙間、あらゆるところを息もつかせず狙い突く。ちょうど十合目、エルメノは槍を両手で水平に持ち、切りかかった僕の槍を受け止め、弾き上げようと上半身を伸ばした。がら空きになったその腹部を、僕は思い切り蹴り倒した。
 エルメノがもんどりうって後ろに転がる。さっきの〈凍結〉で凍らされることなくぴんぴんしていた六頭の獅子が、倒れたエルメノを守るように半ば取り囲む。だが、僕の目には六頭の獅子は入っていなかった。
「エルメノぉぉぉぉっっっ」
 切っ先を下に、僕はエルメノの首筋に紫精を突きたてた。
 あがったのは少女らしい甲高い断末魔の悲鳴ではなく、猛獣の咆哮だった。
「う……そだろ……」
 あとに転がったのは、太い首を一突きされた一頭のライオンだった。
「嘘じゃない。気づけよ、麗。もし本当にエルメノ様が追い詰められていたら、俺が黙ってない」
 本物か偽者かは分からないがエルメノを抱きかかえて、上空から嗤いながら禦霊が舞降りてくる。
 もう、僕はどれが本物でどれが偽者なのか分からなくなっていた。いや、どうでもいいじゃないか。本物も偽者も、もう、どうでもいい。
 守るべきものはもうここにはないのだから、全て滅してしまえばいい。
 心が決まれば身体は軽かった。
 何があっても僕は魔麗城に帰る。アイカの待つ魔麗城に。
 僕はまず、エルメノを地に下ろしたばかりの禦霊に紫精で斬りかかった。浅い傷を腕に負わせ、よろめいた隙に見えた脇腹を紫精で突いた。
「お前は許さない、禦霊」
 禦霊に喋る間も与えず、僕は一息に呪文を唱える。生きた者にかけるには最も残酷で、しかし最も美しい魔法を。
『汝が身に流るる血よ 凍りつけ
 巡りを止めて 命の吐息を握りつぶせ』
 吸熱の精霊も僕の気持ちを分かっているらしい。紫精を突き刺した脇腹からゆっくりと這うように氷が禦霊を蝕んでいく。
「世話してやったのに、ひどい仕打ちだ」
 命を削り取られているというのに、禦霊の軽口は相変わらずだった。
「感謝してるよ、政に関しては。でも、お前を側においていたことで、僕の情報は全てエルメノに筒抜けだったってわけだ」
「俺がエルメノ様と関係あるって気づいてたくせに。それでも側においてたのは、『貴方ですよ、麗サマ』」
 わざとらしく魔麗国宰相・禦霊の口調で笑った声が最後になった。
「咲け、〈紅氷華〉」
 全身に完全に氷が回らないうちに、僕は禦霊の脇腹から紫精を引き抜いた。鈍い音とともに、禦霊の身体は砕け散り、あたりには文字通り紅い華が咲き乱れた。
 一息間をおいて、ぱちぱちぱち、と単調な拍手が鳴り響いた。
「その残酷さ、本当に法王? 氷が回りきる前に全身の氷をはじけさせるなんて、さ。喉は凍りついてるから悲鳴は上げられない。でも、脳にはしっかり痛みがこびりつく。最低だね。いや、最高、か。闇獄界では、残酷、残忍でないと生きていけないから」
 拍手の主は当然、禦霊から降ろされた今度こそ本物のエルメノのはずだった。それなのに、汗が目に入ったのだろうか。それとも疲労が限界に来ていたのだろうか。
 僕にはアイカにしか見えなかった。
「やめてよ。もう、いい加減にしてよ。いい加減、僕を本物のエルメノに会わせてくれよ!!!」
 躊躇うことはない。ここにいるのはみんな偽者だ。
 振りおろした紫精が、アイカの姿をしたエルメノの前に現れた鏡に弾かれた。
「いいの? 本物かもしれないよ」
「アイカはそんな卑屈な笑い方しないんだよっ」
 斬りつけた一撃を、エルメノはまた鏡の盾で弾き飛ばす。
「こんな笑い方しかできなくしたのは、麗じゃないか」
 聞いてはいけない。耳を貸してはいけない。姿を見てはいけない。
「どうして僕の手を離したの? 怖くなった? 僕のことが、ほんとは怖くなったんでしょう?」
 冷や汗が一気に全身に噴出した。紫精を握る手が汗で滑りはじめる。それだけじゃない。目の前になぜか展開された底の見えない暗い穴の映像に、僕の手は情けないほどに震えだす。
「なぜ躊躇したの? なぜ、ぼくを選んでくれなかったの? なぜ、カルーラだったの?」
 暗い穴の中に光の手が伸びていく。それは一人の子供の手を掴み、張りつく子供と、手だけでつながっている子供とを一緒に引き上げていく。
 なんて客観的な映像。
「その映像は僕の記憶でもエルメノの記憶でもないね。一体誰の?」
「気づいたのか。変なところで観察力があるんだから。そうだよ。これは〈欺瞞〉が僕を見つけた時の記憶だ」
 エルメノがそういった瞬間、鏡の中だけのものだと思っていた闇が溢れ出し、僕を煙に巻いた。あっという間もなかった。両足に何かが噛み付き、引きちぎっていく。
「ぅぐぁぁぁぁぁぁ」
「ドルチェ、リート、そうがっつくんじゃないよ」
 僕の悲鳴をよそに、闇の向こうに白い自身の顔を現したエルメノはいかにも邪気のない顔で、両足の肉を奪われて立っていられずに紫精伝いにくず折れた僕の身体を支えた。
「なんてあっけないんだろ。ねぇ、麗もそう思わない? こんなの、つまんないよね。ほんと、こんなの、つまらない」
 エメラルド・グリーンの瞳が異様な光とともに僕の瞳の中を覗きこみ、口付ける。
「キス、何回もしたよね。意味なんて分からずに、ただ鏡の中のお互いの顔を見比べて確認しあうために」
 足から伝わってくる激痛は、エルメノの言葉とキスがなければとうに僕から意識を弾き飛ばしていたことだろう。
「ねぇ、君の目には今のぼくはどんな風に映ってる?」
 言葉を返している暇はなかった。
 氷で傷口を塞いで足を作るか、手に握る紫精をエルメノの腹部に突き刺すか。
 どうせ死ぬのなら、消えないで済む道を選びたい。せめて来世、アイカに逢いに行けるように。
 来世に思いをはせた時点で、僕の負けは確定していた。
 再び、足を襲った衝撃と激痛が今度は両の脇腹に走る。
 紫精に縋ってもいられずに、完全に腹筋を失った僕はエルメノの薄く小さな胸の中に倒れこんだ。
「ちゃんと答えてくれないからだよ」
 僕を抱きしめてエルメノは囁く。
「僕はずっと、麗がほしかった。ずっと、ずっと、ずっと、麗のことが忘れられなかった。アイカになんてなびかないでよ。僕たちはずっと二人で一緒だ。そう約束したじゃないか。約束は守らなきゃだめだよって、愛優妃にも教えられたでしょう?」
 あんなに逢いたかったエルメノ。あんなに触れ合いたかったエルメノ。でも、途切れそうになる意識の中で輝くのはようやく思い出せたアイカの笑顔だけだった。
 紫精を握った右手に力をこめる。肩と、頭と顎に力を入れて身体を支えて、心の中で縮め、と唱える。
「そうだった。約束は守らなきゃだめだって、愛優妃に教えられたんだった」
 右手を前に突き出した。それだけでよかった。
「あ……あああっ……」
 エルメノの顔が苦痛に歪む。
「紫精が伸縮自在で助かっ……た……」
 黒い炎がエルメノの脇腹から噴出しはじめる。そう、脇腹から。少し、甘かったかもしれない。
 でも、いいんだ。
「もう、いいんだ……」
 紫精は、右手から離れてもエルメノの腹部からは抜けなかった。何も抱えるもののなくなった両腕で、僕はエルメノの小さな身体を抱きしめた。
「行こう、エルメノ。今度は一緒に……」
「一緒に、か」
 エルメノの溜息に呼応するように、耳の側近くでライオンの唸り声が聞こえ、僕は首に激痛を感じた。
「来世で待っているよ、麗。この傷じゃ、僕は死ねそうもない」
 諦めの入ったエルメノの声は意識のはるか上層部へと昇りたっていき、僕はどんどん暗いトンネルの中を進んでいく。
 ああ、どっちにいけばいいんだっけ。そうだ、アイカだ。セロに帰らなきゃ。セロに――。
 月明かりのない夜だった。門番のいない城壁の門をくぐり、まだ多少雪の残る庭を足早に僕は横断していく。目の前には一ヶ所、厨房にだけ明かりの灯った城が夜闇に白く浮き出している。厨房では、一人の少女がいつものように煮込んだスープの味見をしようと、お玉で掬ったスープを小皿に移して啜っているところだった。
「うん、完璧。そら豆もたくさん入れておいたし、これならきっと麗様もお喜びくださるでしょう。早く帰ってこないかな。毎日そら豆のスープじゃ、わたしも飽きてしまいますよー、だ」
 ああ、アイカ。帰ってきたよ。僕は、ここにいるよ。
 アイカ。
 さあ、出迎えてくれ。君のそのとびっきり田舎くさくて幸福そうな笑顔で。君の笑顔見たさに、僕はここまで帰ってきたんだよ。アイカ、君の笑顔さえ見られれば、きっと僕は戦場の辛い記憶も全て忘れられるから。
 だから、アイカ、こっちを向いて。僕に気づいて。
「麗、様?」
 ようやく気づいてくれたのか、アイカがお玉と小皿を置いて近くの窓を少し開けた。
 そう、それでいい。さあ、あとはとびっきりの笑顔を僕に見せてくれ。
『ただいま、アイカ』











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