聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 5 章 わがまま○ 6 ○
「安藤君、御両親と乳母がお迎えに来たみたいですよ」
窓から外の様子を窺っていた工藤君は、振り返ると揶揄するように安藤君に冷え冷えとした声を投げかけた。入り口に寄りかかって俯いていた安藤君は唇を噛んだかと思うと、両膝を床につき、工藤君に頭を下げた。
「邸内、お騒がせして大変申し訳ございません」
「闇獄界からの侵入に備えて一応この屋敷は結界張っているんですけどね。神界からにしても一度にあんなに人は入れられませんからね。呼び代になったのは真紀さんかな」
「父母の過ちはおれが雪ぎます。だから……」
「物、壊したらちゃんと復元しといてくださいね」
安藤君は深く頭をたれると、ベランダのついていない窓へと駆け出し、片手で窓枠をつかむと飛び降りた。
「あ、安藤君?!」
手を差し伸べる間も、足首を掴む間もない。安藤君の体は宙を下ったかと思うと、ふっと消えた。
「え……」
「守景さんも使えるでしょう。〈渡り〉。安藤君は魔麗の国の王子なのに、なぜか熱の精霊よりも時の精霊に愛されていましてね。同じく時の精霊に好かれている母親の真紀さんの血の方が強かったということでしょうか。本人もコンプレックスのようですが」
工藤君が解説を入れる間に、安藤君の姿は王様とお手伝いさんと老婆を取り囲む兵士たちの前に現れていた。
「安藤君の、お父さんとお母さん?」
「それから乳母ですね」
「安藤君、こっちの人じゃなかったの?」
「お父さんは魔麗王。お母さんは元からこちらの世界の人で、工藤家でお手伝いさんとしていろいろと尽くしてくださっています。しかし、二人揃って我が家に刃を向けるとは……」
下を見下ろす工藤君の目がやけに冷たい。
「工藤君、安藤君のご両親はきっとエルメノに朝来さんを人質に取られてるから……だからきっと仕方なく……」
思わずすがりつくように工藤君の制服の袖を握ったわたしの手を、工藤君はそっと押し戻した。
「そう心配そうな顔をしないでください。分かっていますよ。朝来さんが人質にとられてのことだということくらい。ですが、彼の父は一国の王です。王が私情にとらわれて神に刃向うことは許されない」
冷たく尖った空気が工藤君の周りに集まりはじめていた。
「維斗」
たしなめるように詩音さんが工藤君の名前を呼ぶ。
「ええ、僕らは高みの見物です。分かっていますよ。手は出しません」
口にいかにも作り物めいた微笑を浮かべた工藤君は、順に夏城君と桔梗、葵、それから洋海を見た。
「ですが、安藤君が下を治めるまで、わが身の安全は自分たちで確保しないといけませんね」
その言葉を待っていたかのように、入り口には先陣を切って三人の兵士が剣を携えて現れた。
「あれ、あの人たち……」
格好こそ中世のあまり装備の整っていない兵士のものだけど、顔は日本人。それも学生っぽかったり、毎朝電車に揺られて会社に通っていそうな疲労感があるおじさんだったり、小学生くらいの小さな女の子だ。
「サーカスを見に来て、帰りにマジックミラーで自分の過去に負けた人たちですね」
「自分の過去に、負けた人たち……」
それは、偽者を生み出されてしまったわたしもその一人だということだろうか。
「あの人たちは本物? 偽者?」
「オリジナルですよ。偽者は今頃、オリジナルの生きるべき場所で何食わぬ顔をして生活していることでしょう」
ということは――「傷つけちゃだめ」その言葉を発する前に、夏城君は青白い剣を手に、葵は赤い鞭を手に、洋海はその辺にあった高そうなアンティークの椅子を持ち上げてすでに三人を床に伏せさせた後だった。そして間髪をいれず人の波が押し寄せる。入り口は一つしかないから、まずはその狭い入り口で夏城君が侵入を防ぎ、漏れた分を葵と洋海が床にねじ伏せていく。桔梗はというと、倒れた人々を一箇所に引きずって集め、夏城君たちの足元を広くしていた。
自分も説明できないようなことをしてきたんだからこの際、夏城君と葵の手にあるものは見なかったことにして。
「工藤君、あの人たちどうするの? このままだとこの部屋いっぱいになっちゃうよ? オリジナルだし、目覚めさせなきゃだよね?」
わたしも桔梗を手伝えればいいんだけど、いかんせん運動神経が鈍いから、倒れた人を引きずって隅に寄せるだけといっても葵たちの邪魔をしてしまいそうだ。
「藤坂さん、アルト・カルナッスル城から何百人かオリジナルが戻ってきてますよね。一体どんな手を使ったんです?」
「鏡よ。天井と床と壁を薄い氷で覆って、オリジナルの人たちに自分の姿を見させたの。自分を認識すれば帰ってくるみたいよ」
体を動かしながら桔梗が答える。
「ふむ。鏡ですか。詩音、確か高等部のバレエ部の部室はぐるりと鏡で覆われていましたね」
「天井と床はついてないけど、見なかったら無理やり見てもらうまでよね」
高等部のバレエ部の部室。体育館に行く途中で扉が開いているときに何度か中を覗いたことがあったけど、確かにあそこなら壁が全て鏡に覆われている。
「だけどここから学校になんて、どうやって運ぶの?」
人数も人数だし、距離も距離だし、何より、道がないというのに。
そう口にしたわたしを、工藤君と詩音さんはにんまり笑って見つめた。
「あ、そっか、わたし? わたしだね。わたしが運べばいいんだよね」
〈渡り〉と唱えるだけで時空を超えられるようになっている今のわたしなら、学校に飛ぶことくらいたやすい。
「でもこの人数をどうやって? わたしが今までできたのは一人で移動することだけだよ」
「それなら今いる人たちのことは一まとめにするから」
聞いていたらしい桔梗がそう言った途端、一箇所に寄せられていた人々は巨大なシャボン玉の中に一まとめに入れられていた。
「さ、行きましょ」
シャボン玉の一部に手を触れながら、桔梗がわたしに手を差し伸べる。否応無くわたしはその手をとり、ちらりと工藤君を見た。
「お願いします」
大丈夫、とでも言うように工藤君は頷き、わたしはもう一度桔梗とその手の触れているものとを見て、目を瞑ってあの鏡張りのバレエ練習室を思い浮かべながら一言唱えた。
「〈渡り〉」
振動も何も感じなかった。ただ、百メートル全力疾走したかのような息苦しさと疲労感が一瞬にして襲ってきた。
目を開くとそこは鏡張りの部屋で、桔梗が作ったシャボン玉ははじけ、中にいた人たちが床に雑魚寝状態で散らばっていた。桔梗はすでにその人たちを片隅から順番に敷き詰めはじめている。
「バレエ部の部活、今日は無くてよかったわ。もしあったら大騒ぎだったもの」
「そう、だね」
言葉少なになってしまったのは、この際仕方ない。だって、桔梗までなんだかおかしな術を使っているんだもの。それもさも当たり前に。
わたしの過ごしていた世界は、こんなに不思議なことが普通な世界だっただろうか。
「驚いてるのね」
相変わらずてきぱきと働きながら、桔梗はくすくすと笑った。
「夏城君も葵も、何か手に持ってたよね」
「持ってたわね。洋海君も椅子持ってたわね。あの椅子、確か五十万はくだらなかったと思うけど」
「五十万っ?!」
洋海ー、おろしてー、その椅子は投げちゃだめ、傷つけちゃだめ、壊しちゃだめーっ。
「声、出てないわよ」
「出せないって。無理無理。だって、五十万だよ? って、話しそらした?」
「そらしてないわよ」
桔梗は顔色一つ変えずにしゃあしゃあと言う。その足元には深さは無いけど大きな水溜りが一つ、できていた。
「あのシャボン玉、水でできてたんだ?」
「そうよ。葵ちゃんのあの赤い鞭は火でできてるし、夏城君の青白い剣は、そうね、電気といったところかしら」
「火と、電気……」
底深くに沈んでいる記憶のかけらが一枚鮮やかに照らし出される。赤い火の鞭は炎姉様の〈紅蓮〉。青白い光を放つ剣は龍兄の〈蒼竜〉。
「蒼、竜?」
龍兄の持っていた蒼竜。間違いない。夏城君がさっき持っていたのと同じ形、同じ色だ。蒼竜は龍兄の魔法石が変化したもの。龍兄にしか扱えないもの。
龍兄の姿と夏城君の姿が重なった瞬間、わたしは口元を抑えて悲鳴にも似た声を上げていた。胸は今にも燃え上がりそうな想いで張り裂けんばかりに膨れ上がる。
それは、歓喜と言うに違いない。
誰のか、と問われれば、わたしは間違いなく聖のだと答えただろう。わたしが、夏城君イコール龍兄だからといって喜ぶ理由など一つも思い当たらなかったのだから。
でも、本当はわたしが喜んでいたのだ。聖を抱えるわたしが龍兄を抱える夏城君に惹かれるのは道理なのだ、と。
運命かもしれない、と。
「おい、誰かいるのか?」
どこまでも熱していきそうな心に冷や水が浴びせかけられたのは、その時だった。男性の声が外からしたのだった。
わたしは桔梗に視線を送る。桔梗は入り口をじっと見つめたまま、次の展開を待つ。
「気のせいかな。一応確かめとくか」
温和そうな男性の声はそう一人ごちると、ガチャガチャと鍵束らしき金属音をさせながらドアに鍵を差し込み、そっと引きあけた。
「おっ、うわっ、お、お前ら……!」
わたしたちの心臓のほうもかなりばくばくしていたけれど、開けた方はもっと驚いたらしい。わたしたちと目が合うなり、片山先生は呻きながら腰が砕けていった。
「片山先生、こんにちは。当番ですか? お疲れ様です」
桔梗はここにいるのがさも当たり前という顔をして先生に挨拶をしたが、片山先生のほうはそれど頃じゃないらしい。わたしたちを指差してぱくぱくと口を酸素不足の魚のように開閉している。
「お、お前たち、ど、ど、ど、どうして、ここに? 鍵、かかって、いたよ、な?」
「ああ、先生。ちょうどいいところにおいでくださいました」
桔梗は幽霊でも見たかのような顔をしている片山先生の腕を何食わぬ顔で部室内に引っ張り込み、スパンとドアを閉めて内側から鍵をかけてしまった。
「な、何するんだ、藤坂」
「私は先生に何もしませんよ。でも先生、お願いです。ちょっと手伝っていただけませんか? そこにいる人たち並べるの。あ、死体じゃないですよ。ちゃんと生きている人たちなんですけど、どうしても四方鏡張りの部屋が必要で。わかりますよね?」
まだ顔色が青くなっている片山先生を、桔梗は脅すように諭しつけた。
「分かりますよね、って、桔梗、いくら物分りいい片山先生でも……」
さすがに見かねてわたしは助け舟を出してみたが、合点したようにああ、と言ったのは片山先生だった。
「そうか、オリジナルの人たちか」
頷いた片山先生はよっこらしょ、と言いながら立ち上がった。
「アルト・カルナッスル城で迷ってる片山先生にも会ったのよ。だから、片山先生も鏡の有効性を直接目にして知っているの。ほんと、ちょうどよかったわ。女の子の細腕じゃ大人じゃなくても意識ない人たちの体って重くって」
「先生も、迷ってたんですか?」
「そうなんだ。サーカスに行って帰ろうと鏡くぐったら、窓の無い地下室にいてさ。見える限りぎっしり人が横たわってて。怖かったよ、あれは」
怖かったと表情もつけて言っている割には、なんだか飄々としているのがこの先生なんだろう。
「さあ、そろそろ第二弾が控えてる頃ね。樒ちゃん、一度さっきの場所に戻りましょう。先生、よろしくお願いしますね。すぐ戻ってきますから」
「おう、任せとけ」
嫌な顔一つせず手を振ってみせた片山先生を残して、わたしは桔梗に言われるままにもう一度工藤君たちのいた部屋に戻った。
部屋にはさっきよりも多くの人が気絶させられて倒れていた。わたしは桔梗がまた巨大なシャボン玉を出そうとしたのを見て、その手を止めた。
「桔梗、シャボン玉で包まなくても運べるかもしれない」
それは確信ではなく、なんとなく心に芽生えただけの気持ちだった。
「てか、きり無いんだけど。工藤、それか桔梗、もっと効率いい方法ないの? 気兼ねなく暴れられるようなさぁ」
イライラしはじめた葵が鞭を裁く手だけは止めずにぼやく。
「要は直接バレエ部の部室に送れればいいんですけどね」
ちらりと見た工藤君の視線を受けて、わたしはまず気絶している人々の前に立った。
「ちょっとやってみるね」
両手を胸の前で軽く組み、移すべき人々の姿を一さらい視界に収め、口を開く。
『出でよ、次元の扉
切り取られし空間の内に存在するものどもを
我が望む場所へと送り届けよ』
「〈転送〉」
人々の横たわる床から白い光が立ち上ったかと思った瞬間、彼らはこの部屋からいなくなっていた。
「うわっ、消えた! 姉ちゃんすげぇ!」
何もなくなった空間に、椅子を振り回していた洋海が手を止めて目を丸くする。
「問題はちゃんと届いているかだけど……」
何があってもぬか喜びをしないタイプの桔梗は、おもむろに携帯を取り出すとボタンを押した。
「あ、もしもし、片山先生ですか? ええ、はい、今送ったところでした」
さも当たり前に桔梗は片山先生と会話を始める。
「あいつ、いつの間に担任の携帯番号まで手に入れたんだろうな」
「さあ……」
唖然と桔梗を見ているのは葵も同じだ。
「ああ、届いてましたか。そうですか。では、この後は元気なままの人たちを送りますのでよろしくお願いします」
事務的に、もとい、一方的に要求だけ押し付けて電話を切ると、桔梗はにっこりわたしに笑いかけた。
「樒ちゃん、それじゃ今度はこの入り口にさっきの張って維持できる?」
その笑みはできようができまいが、有無を言わせないものがあった。床に扉を出せるなら、入り口にも張れるだろうというのだろう。
「やってみるのはいいけど、片山先生向こうで一人だよね? 大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫。あの先生、向こうで迷った時も一人だけ正気のまま逃げてたのよ。運だけはぴか一にいいみたいだから、安心してじゃんじゃん流しちゃいましょう」
はいじゃーんじゃん、とかわいく調子をつけて笑っている桔梗がちょっと悪魔に見えた。なんてことは言えるわけもなく、わたしは言われるがままに桔梗が指した場所――この部屋の入り口に、人々が途切れた一瞬を狙って〈転送〉の扉を開いた。
駆け上がってきた人々は、否応無く見えない扉の向こうに足を踏み入れ、消えていく。その様は、サーカスで鏡の中に消えていくライオンたちと同じだった。違うのは、ライオンたちがまたすぐに戻ってきたことくらい。残念ながら〈転送〉の扉は一方通行だ。返りたければ正気に戻って学校から歩いて帰ってもらうことになるだろう。
「あー、安藤君、どうやら苦戦しているみたいですね」
襲撃が止み、みんなが一息ついたところで窓の下を覗いていた工藤君がのんきな声で安藤君の窮地を告げた。
「他人ごとねぇ」
「高みの見物ですからねぇ」
詩音さんに呆れられても工藤君は悪びれない。
「でも、わざわざ状況を教えてくれるってことは、俺らに行って来いってことなんだろ?」
ため息をつくまもなく、言葉だけを置いて夏城君は部屋を飛び出していった。
「あ……〈転送〉の扉!!」
慌てて後を追いかけてみたが、〈転送〉の扉は一方向にしか開いていないらしい。こっちから進む分にはどこへも飛ばされなかったけれど、そのかわり駆け上がってくる最後の一群と鉢合わせる羽目になっていた。
明かりの無い薄暗い螺旋階段。横から下が見えるわけでもなく、壁にはさまれた狭い空間の中で、青白い光が右に左に蛍が舞ってでもいるように弧を描く。理性をそがれた獰猛な唸り声はその度に哀れな叫びに変わり、消えていく。敵を峰打ちにしながら駆け下りていく夏城君の背中を、わたしはぼんやりと見つめていた。
いつもそうだ。わたしが見られるのは背中だけ。それもわたしに追いかけられることを拒むかのように、どんどん遠ざかっていく。
くすり、とわたしは嗤いを漏らした。
一体わたしは何を考えているんだろう。追いかけられることを拒むかのように、って、そんな被害妄想抱く理由がわたしにはない。現に、夏城君はわたしから逃げようとしているのではなく、向かうべき場所に向かっているだけなのだから。
それでもあの両目と左右の髪の色の違う少女は置いていかれた、と思うのだろうか。
〈転送〉の呪文が形になって口から飛び出した時、開きすぎた記憶の扉から彼女の切ない、と言えば聞こえはいいが、昇華できずに残った片思いのかけらが同調するようにわたしの中に溶け込んできた。
置いて行かれたんじゃない。
わたしは記憶のかけらに抵抗する。
追いかければいい。どうせ下までこの階段を下りなければ安藤君のところにはたどり着けないのだから。
誇りっぽい空気を深く吸い込んで、わたしは壁に片手を這わせながら階段を下りはじめた。灰色いレンガを敷き詰めた階段は一段一段が高く、しかもわたしの足でも指先がはみ出るくらい幅は狭い。まるで上りやすさの反対を追求したかのような設計だ。上りはまだいいかもしれないが、下りとなると、階段の狭さ、高さから、なかなか思うように早足では駆け下りられない。
十段ほど下では、夏城君が下から駆け上がってきた五人と、一人交戦していた。正面切って二人通り過ぎることの難しいこの階段では、五人攻めてこようが夏城君の相手は一人だけだ。その点有利と言えば有利だが、一人倒れれば足場が一段無くなる。向こうは平気で一人目を踏みつけて夏城君に掴みかかる。だから二人目を倒した時、夏城君は倒れた人たちを飛び越して三人目に打ちかかった。着地した足場はそもそも狭い上に、夏城君の足では横でも向かなければ踏ん張ることもできない。体をひねって応戦する夏城君は、三人目の柔道でもやっていそうな筋骨たくましい男が蒼竜から体をかわしたことで勢い余って前に倒れこんだ。
「あっ」
悲鳴なんかじゃなく、何か助けられる魔法でも浮かべばいいのに、わたしの口はそれ以上何も紡げなかった。
前のめりに肩口に倒れこんできた夏城君の鳩尾に、三人目の男が容赦なく拳を入れる。夏城君の足が宙に浮く。
何とかしなきゃ。
そう思う間に、今度は三人目の男のほうが背中を軽くのけぞらせた。目がかっと開いてわたしを見る。
「ひっ」
小さく息を呑んだ次の瞬間、夏城君の体は男の肩を軸に前へと回転していき、男は前からどう、と倒れた。
「守景、送っとけ」
短い上に機嫌悪いのかと思うくらい無愛想な声だったけれど、あっさりと四人目と五人目を倒した夏城君の動きからは、さっきの鳩尾の一発の弊害は見られなかった。
「〈転送〉」
言われたとおり五人を学校のバレエ部の部室に送り届け、さらにわたしも夏城君の後を追って階段を駆け下りる。まもなく、わたしは入り口から差し込む光の下で立ち止まる夏城君の横に追いついた。
「行かないの?」
外にはまだ二十人ほどの人々が残っているが、みんなわたしたちには気づかないかのようにこちらに背を向けていた。
夏城君はちらりとわたしを見ると、人垣の向こうを顎でしゃくって見せた。その人垣の向こうでは、安藤君が魔麗王であるお父さんたちを守る兵士たちと対峙している。
「朝来が大切なら、なんで最っ初から一緒に暮らさないんだよ。そもそも別れ別れになってなきゃ朝来だって引きこもることも無かったんだ。後継げって言うなら継ぐからさ、神界に行くなら行くでいいだろ、母さんももう」
普段の安藤君からは考えられないほど、その声は激しく苛立っていた。
「だめよ」
安藤君の激しい声に水を差すかのように、魔麗王の横に佇む女性の声は静かだった。
「陽色は熱の魔法ぜんぜん使えないじゃない。魔麗王のあとを継ぐなら朝来の方よ。あのこの方がよっぽど才があるもの。ね、あなた?」
「うーん、陽色じゃなぁ」
お母さんに続いてお父さんの魔麗王までが容赦なく安藤君の提案を困ったように笑いながら切り捨てている。
「ひど……」
「静かに」
思わず呻いたわたしに、夏城君は押し殺した声で言った。
「まあ、そもそも、これだけ統仲王のお足元を騒がせておいて魔麗王の地位になどいられますかね」
お父さんもお母さんもどこか困ったように安藤君から顔をそらせ気味だったのに、一人だけ、魔麗王であるお父さんの横に控えていた年老いた女性だけがしゃんと背筋を伸ばして安藤君を見たのだった。
安藤君ははっとしたように明後日の方を向いている御両親の表情を窺う。
「まさか、わざと?」
「ざっと二百人。連れて人界に行けば魔麗の国には何もしないと約束してくれた。人界に出るには時空を案内できる真紀のいる工藤邸に出るのが一番都合がよかった。守景樒と言う少女を捕らえられれば、サーカスの開催時刻を待たずに朝来を返してくれると約束した」
「でも、明らかにやりすぎだ。これじゃあ王位返上だけじゃ許してもらえないかもしれない。場合によっては……」
安藤君は不安げに塔の最上階を見上げた。
「人界に連れ出すと、自動的に守景樒という少女を求めて探し出すように暗示か何かがかけられていたらしいね。まさかこんなに近くにいるとは思わなかったが」
魔麗王は明らかにわたしを見つめて言った。魔麗王たちを取り囲んで守護している兵士たちも一斉に振り返り、わたしを見つけ出す。
入り口越しに差し込む光が、ふと翳った。
「下がってろ」
顔は見えないながらも、低めた声ははっきりとわたしの耳に届いた。言われるがままに、わたしは半歩だけ、夏城君の陰に隠れるように後退する。
「父さん! 一体どっちの味方なんだよ?」
「魔麗法王だと名乗って魔法石まで見せられたんだ。昔話も古典と一致するだけでなく、禦霊様とも昵懇になさっていた。信じないわけにはいかなかった。だってそうだろう? 私は魔麗国の王なのだから。神より預かりし一国を治めるものとして、猜疑は唾棄すべきもの。何より、はじめは目を瞑っていれば国民には一切手を出さないと言われたんだ」
「要求がエスカレートしてるじゃないか。国民守ったり朝来連れ戻すためだったとしても、こんなことして、結果だけ見れば裏切り者ってそしられるのは父さんなんだぞ?」
泣きそうな安藤君の問いに、魔麗王は苦笑した。
「本物の魔麗法王にも言われたよ。裏切り者の王を国民に戴かせるつもりなのか、と」
「そのとおりじゃないか」
「それでも、私には守らなければならないものがあるから」
魔麗王のその言葉を合図に、二十人の兵士たちは安藤君の横は素通りして一斉にこちらに向かって襲い掛かってきた。目標はおそらくわたし。
蒼龍が明るい日差しに呑まれながらも青白い軌跡を描いた。後には三人が倒れる。すかさずわたしは倒れた彼らを〈転送〉する。後方では安藤君が素手で襲いかかろうとしている人たちの足を止め、地にひっくり返していく。
「お、やってるやってる」
夏城君一人では捌ききれなくなって、わたしに襲い掛かってきた女子大生を紅蓮の炎の連なりが弾き飛ばした。
「嬉しそうだね」
「火事と喧嘩は江戸の華ってね」
呆れたわたしが次の言葉を口にする前に、葵は朱雀連片手に外へと飛び出していった。朱雀連は葵の手の延長のように自在に人々を絡めとり、動きを封じていく。
いつの間に練習したんだろう。
そんな疑問は、自在に瞬間移動したりしてきた今のわたしに抱く権利はないのかもしれないけれど。わたしと同じなら、必要に迫られたから葵も夏城君も桔梗も魔法を使っているに過ぎないのだろうから。
でも、わたしはいつも守られてばかりだ。
いつ、も?
「ここまでして魔麗王を辞めたいんですかね、あの男は」
自問自答したとき、どこか現実離れした呆れた溜息が背後から聞こえた。
「あ、危ないですよ」
ぐい、と引き寄せられて、わたしの視界はさらに建物の中の闇に翳る。腕の主はすぐにわたしを放して微笑みかけた。
「こういうときは得意な方々に任せていればいいんですよ」
工藤君の言葉はまるでわたしの心を読み取ったかのようだった。
「でも……」
工藤君の微笑は無言のままわたしの言葉を遮り、一人、堂々と日の下へ出て行った。
「あ、ちょっ、工藤君も危ないんじゃ……?」
「大丈夫よ。むしろあいつ、一回くらい痛い目にあっといたほうがいいんだから」
呼び戻そうと飛び出しかけたわたしの手を、後からついてきたらしい詩音さんが引き掴んだ。
「まあ、見てて。要領のよさだけは一人前だから」
ひらりひらりと攻撃をかわしながら日の下を歩く工藤君の姿を詩音さんは眩しそうに見つめた。そして、工藤君が魔麗王たちの前に立った時には、最後の敵が夏城君の蒼竜に打たれて地に伏したところだった。
「目が覚める前に送ってあげて」
詩音さんに言われて、わたしは気を失った二十人ばかりの人々をあの鏡張りの部屋に〈転送〉する。
「さて、街中に出た分は後でサーカスに集まるでしょうからいいとして、捕らえられていた人々の一部も無事に帰していただきましたし、この屋敷に無断で足を踏み入れたことは不問に付しましょう。それで、魔麗王自ら城を空けてこちらにいらっしゃるとは、何か望みがあってのことでしょうか?」
魔麗王と横に控えていた二人の女性、それから安藤君が一斉に工藤君の前に膝を折る。なんだか見てはいけないものを見ている気がして、わたしは建物の暗闇の方に顔をそむけた。
「いいえ、望などございません。私はただ、娘を取り戻しに参っただけでございます」
魔麗王の声は存外穏やかだった。
「それを望みというんですよ。魔麗城の地下にはまだ人質が残っているんですか?」
「地下にいた人々に関しましては、これで最後かと。一度闇に堕ちた方々に関しましては私にはわかりません」
「まあ、いいでしょう。貴方は最終的には神界に来た人界の人間は人界に返すという魔麗王としての責務を果たしたのですから、どうぞこのままお帰りください」
鷹揚な工藤君の声に異議を唱えたのは、それまで口をつぐんでいた安藤君のお母さんだった。
「いいえ、娘を取り戻すまでは主人も私もこのまま大人しく帰るわけには参りません」
きっぱりとした声に、思わずわたしは振り返る。
「私達には親としての責務もあるのですから」
工藤君を見上げる凛とした表情は、魔麗の国で会った朝来さん本人に通じるものがあった。親子なんだなと思う。
そんな安藤君のお母さんを困ったように見つめ、工藤君は安藤君の方を向いた。安藤君は工藤君の視線を受け止めきれずに視線をそらす。そんな安藤君を見て、工藤君はふっと笑い空を見上げた。
「いいお天気ですね。桜は満開ですし、連翹も燃えるように咲いてるし、柳は柔らかな芽を出して風に揺れている。魔麗の国の春はまだまだ先でしょう。明日は一家揃ってお花見にでも行ってらっしゃい」
にこにこしながらそう言うと、工藤君は安藤君のご両親に背を向けてこっちに戻ってきた。何かわたしたちにも声をかけるのかと思いきや、表情はにこやかながら無言でわたしたちの横を通り抜け、薄暗い螺旋階段を上りはじめたのだった。まるで囚人が自ら牢に籠もりに行くかのように。
「詩音さん、」
不安になって詩音さんを見ると、詩音さんは口元にだけわずかばかりの笑みを刷いて一人ごちた。
「しょうのない奴。ほんと、素直じゃないんだから。好きにしろ、くらい言えるでしょうにね」
「工藤君、ほんとは安藤君たちのこと怒ってるの?」
独り言だと分かっているのに、ついわたしは尋ねてしまう。
「ああ、違うわよ。無表情に笑ってたけど、あれは怒ってない怒ってない」
「でも、何か我慢してるような……」
「守景さんは勘がいいんだね。維斗はね、ちょっと寂しくなっちゃったのよ」
「寂しく?」
尋ね返すと、詩音さんも口元に切なそうな微笑を浮かべ、困ったようにわたしを見つめ返した。
「わたしたちも明日、お花見に行こうか。お弁当作るから」
「え、お花見?」
「なんてね。明日は金曜日だもの。わたしたちまで学校休んでお花見なんて行けないよね」
詩音さんは交わった世界を切り離そうとするかのように、にっこりと笑った。わたしはその反応についていけず、「え、あ、」としょうもない音だけを口にする。
工藤君がどうして安藤一家を見てあんな切なそうな表情をしたのか、詩音さんもどうして同じような表情をして工藤君を見守っていたのか、わたしには知る由も術もなかったのだけど、ただの軽い社交辞令だと判断してしまうにはあまりに二人の表情が似通っていて、わたしはそのままにはしておけなかったのだ。
「行こうよ」
ようやくその言葉を口に出した時、詩音さんは工藤君を追って塔の階段に足をかけようとしていた。振り返った詩音さんにわたしは声を大きめに出して言う。桔梗や葵、それから、来ないだろうけど夏城君にも聞こえるように。
「学校終わった後に行けばいいじゃん。何なら学校広いし、哲学の森の辺りなら人目気にせずレジャーシート広げられると思うよ」
詩音さんはちょっと目を見開き、花がほころぶように微笑んだ。
「いいね、哲学の森の桜。あそこの桜大っきくて、何気に穴場なんだよね」
「うん、うん」
去年、高等部に入学して一番初めに見つけた安らげる場所。桜が咲きはじめたあの頃はまだ桔梗しか知っている人がいなくて、外部のわたしはお昼ご飯を教室で食べることさえ肩身が狭いような気がして、お昼休みはお弁当を持って外に出ていた。哲学の森の入り口にある桜は堂々とした一本桜で、萌えはじめた緑の木々とは異なる色、厳かな雰囲気に、わたしは安らぎとともになぜか懐かしさと胸にちくりと刺さるような刹那さを感じたものだった。
その痛みの正体が何なのかは今でも分からない。
「わたし、ちょっと維斗の様子見てくるから、あとは桔梗、頼むね」
詩音さんは手を振って螺旋階段の壁の向こうに消えていった。あとには、安藤一家と、工藤邸内でどこに行けばいいかわからないわたしたちが残される。
「桔梗、任されたみたいだけど?」
滞りかけた空気を押し流そうと、葵が口を開く。
「そうね。とりあえず魔麗王、真紀さん、それから安藤君、朝来さんの救出はお任せします。ただし、こちらの空気は読んでくださいね」
「藤坂さん、おれはみんなと……」
「忠義と我侭は履き違えないほうがいいわよ。戦国時代じゃないんだから、直接仕えるだけが美徳と思わないことね」
「……わかった」
桔梗にぴしゃりといわれて安藤君はうなだれる。
「きっつー」
葵は葵で肩をすくめる。
「工藤君と安藤君って特殊な関係なの?」
「あたしが知るわきゃないだろ。桔梗はそうでもないようだけど」
「桔梗と詩音さんが仲良かったのも知らなかったよ」
「学校じゃあんまり一緒にいないからなー。でも、親戚筋らしいって聞いたことはあるよ。小三で京都から転校してきた時、親戚頼ってこの学園に入ったって言ってたし」
「え、コネ入学?」
「桔梗に限ってそれはないな。実力だろ。頼ってって言うのは、岩城の理事長が詩音の父親だからさ、知ってる人がいるところにってこと」
「ああ、なるほど。……じゃあ、もしかして工藤君とも親戚……」
「さて樒ちゃん、葵ちゃん、無駄口叩く暇あったら行くわよ。それから夏城君も、洋海君も、もちろん来るわよね?」
気のせいかちょっとどすを聞かせた桔梗の声に、わたしと葵は一瞬にして縮み上がった。
「行くってどこにですか?」
工藤君と詩音さんと入れ替えに螺旋階段を下りてきた何も知らない洋海が飄々と尋ねる。
「ああ、洋海君、お疲れさま。上のほうはもうすっかり片付いた?」
「はい。かわりにじめっとしたのが来ましたけど」
「それはせっかくさっぱりさせたのに残念だったわね。行き先はもちろんイグレシアン・サーカスの最終公演よ」
朗々とした桔梗の、ある意味鬨の声に洋海は頷いたのだけど。
「その前に夕飯にしとかないか。先はまだまだ長いんだろ? 安藤のお袋が夕飯作るってさ」
夏城君は本邸へと向かう安藤君たちの後に続いてくるりと踵を返していた。
「あ、俺もお腹空きました!」
そのあとに洋海も続いていく。
「もう、まだちょっと早いんじゃないの? 作るまでに時間だってかかるでしょうし」
「桔梗、聞いてない、聞いてない。あいつらもういなくなってる」
桔梗のぼやきに葵がつっこみ、わたしのお腹はぐう、と遠慮がちに空腹を訴えた。
「あ。あはははははは」
「四時か。六時半からの公演にはちょうどいいかもしれないわね」
慌てて笑ってごまかそうとしたわたしに、桔梗は時計を見て苦笑した。