聖封神儀伝1.鏡幻の魔術師
第 5 章  わがまま



 胸がきしむように痛いのは、悪い夢を見たからだろうか。だれかに追いかけられたり、知らないところをひたすらさまよう夢とは違う。後がない閉塞感、窒息感が恐怖とは別のいやな感じを植えつけて、わたしを眠りから解き放つ。あれはもはや夢などではない。少女の動かない身体に閉じ込められて、無理やり記憶を追走させられているだけだ。
 だから、眠った気がしない。
「良かった、目が覚めて。何度か起こそうかとも思ったんだけどさ」
 外の世界と内の世界とがごっちゃになっているうちに声をかけられて、わたしはうっすらとまぶたを開けて声の主を見上げた。
「ヴェルド……?」
 金髪に新緑の瞳、日に焼けた肌を持っていて、わたしを優しく包み込むように見つめてくる人。とうに死んでしまっているはずなのに、どうして目の前にいるんだろう。
 まだ意識に纏わりついてくるもやもやを打ち払いちゃんと目を開けると、驚いた表情で洋海がわたしを見下ろしていた。
「誰、ヴェルドって……」
 聞いちゃいけないものを聞いちゃったという表情で、洋海は訊ね返した。
 身体の真ん中で胃袋がきゅっと縮まる。
「まさか姉ちゃん、寝ぼけて人の名前呼ぶなんて外国人の恋人?!」
「ばっ、馬鹿なこと言わないでよ!! な、な、な、何よ、どうして寝ぼけて呼んだ人の名前が恋人になるのよ!?? そ、それも外国人だなんて!!」
「姉ちゃん、そんなに慌てるなんて、その外国人とエッチなことする夢でも見てたんじゃ……きゃっ」
「なっ、馬鹿っ」
 指をめいっぱいに広げた両手で顔を覆い隠した洋海を張り倒して、わたしは切れた息を整えた。
「きゃっじゃないわよ、きゃっ、じゃ。なんなのよ、あんた。気持ち悪い。いい年した男子中学生が黄色い声出してんじゃないわよ」
「うー、怖ぇ。誰が看ててやったと思ってんだよ、ったく」
 床に尻もちをついた洋海は、ぼやきながら起きだしてくる。
「それはありがとう。でもわたし、弟に寝顔観察される趣味なんかないつもりなんだけど」
「あー、姉ちゃんの寝顔? ありゃぁひどかったなぁ。もう、どこの般若のお面かぶってるんだってくらい眉間に皺寄せて、歯ぁむき出しにしてさぁ」
 ひどい顔は実際にやって見せてるあんたの方よ、洋海。
「こらこら、その辺にしておきなさい」
 呆れてものも言えないわたしに代わって、ふんわかいい香りのするお茶を持って詩音さんが現れた。
「あ、詩音さん……今の、聞こえて、た?」
 まずは、昨夜詩音さんと工藤君を疑って逃げ出してしまったことを謝ろうと思っていたのに、人間ってのは臨機応変、忘却万歳、いざとなるとつい今しがたのことしか頭に思い浮かばなくなるらしい。
「いい弟さんじゃない。わたしも弟ほしかったなぁ。で、めいっぱい思う存分喧嘩して、たまにかばってもらってキュンっとするとか……」
「何いたたまれない妄想してるんです」
 ため息とともに戸口に寄り掛かったのは、黒縁眼鏡に七三分けで制服を着ている工藤君だった。
「あら、お帰りなさい。どうだった、学校は」
「……ひっくり返されていましたよ、見事に」
「それは、困ったわねぇ」
 詩音さんと工藤君は熟年の夫婦のような会話を繰り広げると、互いに暗い表情でふふふ、と笑った。
「で? 誰がいたたまれない妄想してるって?」
「僕の叔母さんですよ。いい年して、何が弟萌ですか。恥ずかしい」
「そういう自分は優等生のコスプレ好きじゃない。この、七三分け黒縁眼鏡がっ」
「ふっ、身なりを整えると心も自然、学徒として引き締まるものなのですよ。悔しかったら貴女も眼鏡をかけて、そのざんばら髪を三つ編みにでもまとめたらどうですか?」
「ざんばら髪ですって? あんた、一体いつの時代の人よ。これはちゃんと梳いてもらっているの。放置してるんじゃないんだからね。大体、目も悪くないのに眼鏡なんて掛けられますかっ。三つ編みってのは何? あんたもしかして桔梗が好みだったの?」
「ああ、確かに藤坂さんはいいですね。あの淑やかで落ち着いた感じ、高校生とは思えないほど大人びていて、清楚で。まさに大和撫子とは藤坂さんのことを言うのでしょうね。詩音にも少しは見習ってほしいものです」
 詩音さんと工藤君、顔を合わせるたびにこれくらい長い挨拶を毎回しているんだろうか。悪口の言い合いというよりは、これはもう、二人だけの世界での挨拶のようなものだよね?
「えっと、あのー、それで……詩音さん、このお茶、いただいていいの、かな?」
 わたしの前に差し出された状態で、依然として詩音さんの手の上にあった湯呑を指して、わたしは恐る恐る出来上がりつつあった二人だけの空間に割って入った。
「ああ、ごめんごめん。飲んで飲んで」
 湯呑に注がれていたのは飲んだだけでほっとする玄米茶だった。
「なんだか家にいるみたい」
「安心してもらえてよかった」
 にっこりと微笑んでくれた詩音さんに笑い返して、わたしはつと居ずまいを正した。
「昨日の夜は、疑って逃げ出したりしてごめんなさい。偽物の洋海たちから助けてくれたのに……心配までかけちゃって、本当にごめんなさい!」
「こっちこそ不安にさせるようなこと言っちゃってごめんね。あの状況から抜け出してきたばかりだって分かってたのにね。どこかと思うよね、普通。マンションみたいなところとか言っても、窓から見える景色があれじゃあ、ね」
 詩音さんが振り返った窓辺には、白いレースカーテン越しに午後の柔らかな日差しが降り注いでいる。あれだけ見れば普通の窓辺と変わりないのだけれど、きっと外をのぞけば別な世界が広がっているのだろう。
 非日常が日常になった部屋。この部屋はそんな場所なのだろう。
「ここに来るまでのこと、覚えてる?」
「飛嵐に送ってもらって……」
 ちらりとわたしは洋海の方を気にしてみたが、洋海は聞かないふりをしているようだった。
「昨日の夜、ここから落ちて、エルメノの顔が思い浮かんだと思ったら魔麗城に着いたみたいなの。安藤君の本当の妹さんとそれからアイカさんっていう神代末から魔麗城を管理しているっていうメイドさんがいて、朝ごはんご馳走になったんだけど、朝来さんもアイカさんもエルメノの鏡の中に吸い込まれちゃって。わたしだけまた逃げてき、今度は聖刻の国にでていて、そこで緋桜に会って時解きの実をもらったの。アイカさんが時の実で時間を止められているらしくって、元の人間に戻りたいっていうから。だから、そうだ、わたし、光くんに会わなきゃ」
 はっと思い出したわたしを、詩音さんと工藤君はにこにこと見つめていたが、洋海はいつのまにか哀れみのこもったまなざしでみつめていた。
「姉ちゃん、誰もつっこまないから言わせてもらうけど、日本語めちゃくちゃ」
「めちゃくちゃって、仕方ないじゃない。これでも思い出しながら手短にまとめようってがんばったんだよ?」
「ていうか、ほんと、一体何に巻き込まれてんだよ。怪しい言葉連発し過ぎだって。ファンタジー小説でも読みすぎたんじゃないの?」
「違うわよ。本当に、本当なのよ!」
 こぶしを握って唇をかみ締めて訴えたわたしだって、まだ全部夢だったんじゃないかって思いたい。目を開けて見てきたこと、目を閉じて見せられてきたこと、全て本当の出来事じゃなきゃいいのにって思ってる。でも、全部を否定したら、今わたしがいるこの場所も現実なのか夢なのか分からなくなってしまう。もやもやとした夢の中に閉じ込められ続けるのは、自分の存在そのものが曖昧になっていきそうで嫌だった。誰か別の人、そうたとえばあの左右の瞳の色が違う少女にわたしをのっとられてしまいそうで、怖かった。
 誰も信じてくれないことを信じなきゃならないのは、自分を守るためだ。他人からじゃなくて、自分の中にいるものから自分を守るため。自分で自分の記憶を否定してしまったら、わたしはどこにもいられなくなってしまうから。
「魔麗の国と聖刻の国。人界から神界に渡るだけでも相当体力を使うというのに、ずいぶんな無茶をしましたね。半日眠っただけですむなんて奇跡ですよ。最後に聖刻の国にたどり着いたのは幸いでしたね。飛嵐に人界まで送ってもらえたんですから」
 そんなわたしの心中を察したのかどうか。工藤君は目の前に地図でも思い浮かべてでもいるように、わたしのトリップを当たり前のこととして肯定してくれた。
「工藤君、詳しいんだね。〈予言書〉のことも詳しかったよね」
 何も知らないふりを通して、このまま甘えることだってできたはずだ。工藤君は、わたしに聖のことを思い出されては困るようだったから、あるいは、さっきの話も胸にしまっておいたほうがよかったのかもしれない。
 工藤君の眼鏡の奥の瞳がすっと細められる。
「どれくらい、思い出したんですか?」
 質問はこれ以上ないくらい直球だった。わたしは慎重に言葉を選ぶ。
「思い出したっていうのとは違うと思う。主人公の目線でドラマを断片的に見せられている感じ。見たものも、聖刻の国で起きた連続放火事件の話だったり、麗兄様とけんかしたりするもので、他愛ないものばかりだったよ」
 大それたものではないのだ、と伝えたかったのだけれど、工藤君は途中で咎めるように一瞬目を眇めた。それはサーカスで相対したライオンに見つめられるのと同じくらい、心臓に悪いものだった。
「兄様、ですか」
 やがて漏らされたため息に、詩音さんが咎めてなのか気遣ってなのか、「維斗」と呼びかける。
 わたしは、まるでしてはいけない証言をしてしまった罪人のように肩をすぼませて交互に二人の様子を窺った。
 そんなわたしに気づいたのだろう。洋海が大袈裟にため息をついてみせた。
「姉ちゃん、何も姉ちゃんがそんな気ぃ使うことないだろ。聞かれたんだからそのとおり答えただけなんだろ?」
「そう、だけど……」
「すみません、守景さん。洋海君の言うとおりです。そのとおり答えてくださったのに失礼しました。ついでにもう一つお伺いしますが、魔麗の国関係以外は特にないんですね?」
「え? ああ、うん、それはない、かな」
 目の前に一瞬、ルガルダの森の縁から見る曇り空が見えた気がしたけれど、これ以上ややこしくしたくなかったからわたしは笑ってごまかした。ややこしくするだけじゃなくて、あの記憶はわたしの胸の奥底に沈めて二度と蘇らないようにしなきゃならないもののような気がした。あれほどやるせなく、惨めな気持ちをわたしは知らなかったから。
 工藤君はわたしの心中を読むかのようにじっとわたしを見つめた後、学校では見せない人懐こい微笑を浮かべた。
「ゆめゆめ思い出そうとしたりしないように。確か昨夜そう言ったと思いますが、ここまできた以上、身を守るために必要なこともありますよね。〈渡り〉が使えて何よりでした。さて、魔麗の国では城の管理者のメイドさんと安藤君の妹さんがエルメノの鏡に吸い込まれたということでしたが――夏城君、安藤君、お帰りなさい。どうぞ、こちらへいらっしゃってイグレシアンサーカスの様子を教えてください」
 工藤君が廊下の方に声をかけると、暗い表情の安藤君とちょっと怒っているようにも見える夏城君とが無言で部屋に入ってきた。
 まだベッドの上にいたわたしは、湯飲みを手にしつつ、どこか別の場所に移動できないかと辺りを見回す。
「いいのよ、樒ちゃんはそこで。まだ疲れてるんだから。あ、あたしも座っちゃおうっと」
 ベッドサイドに膝をついていた詩音さんはちょっと勢いをつけてわたしの隣にお尻からダイブした。
「このベッド、寝心地もよければ座り心地もいいのよねぇ。でしょ?」
「うん」
 お茶がこぼれなくてよかったぁ、と内心安堵しながら、わたしは詩音さんからこっそり夏城君の方へと視線を移した。
 斜め下を睨むかのような夏城君は、いつにもまして何かに苛立っているようだった。満たされない想いを抱えたそんな表情は、聖を拒みつづけた龍兄にどこか似ている。
 って、わたし、何考えてるのかしら。
 だめだめっと首を振っていると、つと夏城君と目が合った。
 飛び跳ねた心臓を胸の内側に押さえ込むように、わたしは胸の位置で湯呑みを握りしめる。
 そらしたのは、わたしも夏城君も同時だったかもしれない。
 見つめあっちゃいけない。目が合ってさえもいけない。そんな習性が刷り込まれているかのように、どうしよう、どうしよう、と魂が呟く。おかしいの。何も夏城君が龍兄の生まれ変わりなわけじゃないだろうに。そう、だよね。これはわたしが勝手にどきどきしているだけなんだよ。同じ空間にいると思えば、どうしても彼を見つけたくなる。同じ空間のどこにいるのか気になってしまう。何でこんなに気になってしまうんだろうってくらい、気がつくとわたしの目は夏城君を探して、遠目に姿を追っている。自分じゃ怪しいって分かってるつもりなのに、だんだん頻度が増してきているような気がする。
「安藤君、妹さんの居場所ですが……」
 再び肩をすぼめて俯いたわたしにはかまわず、工藤君は、本物の妹を探していたはずの安藤君に声をかけた。
 安藤君はうつろに顔を上げると、手に握っていたビラを工藤君の前に差し出した。
「これ」
 握られてくしゃくしゃになったビラを受け取って、工藤君は丁寧に広げる。
「イグレシアンサーカス、特別企画。世紀の大マジックショー。鏡の国に差し出された生贄の少女を救え、ですか」
 苦笑した工藤君から洋海がビラを受け取って、わたしと詩音さんの前に広げた。ビラに印刷されていたのはサーカス用の絢爛な衣装に身を包んだエルメノと四頭のライオン、アップで背景にされている彼らの前には、いかにも助けてと叫んでいそうな表情をしたアイカさんともう一人のエルメノ、朝来さんだった。
「さあおいでなさいと言わんばかりね」
 詩音さんも呆れた声を漏らす。
「でも、行かないわけにはいかないよね。わざわざチャンスをつくってるってことは、これが最後のチャンスになるかもしれないし。って、あ、ごめん、安藤君」
 思わず、朝来さんを見捨てるとも取れる発言をしてしまって、わたしは慌てて謝った。
「守景さんの言うとおりだと思うよ。たぶん、これが最後のゲームだ」
 安藤君は俯きながら軽く首を振った。その様子は何か思いつめているようだった。
「このビラはどこでもらってきたんですか?」
 工藤君の問いかけにも答えず、安藤君はじっとビラの中の妹に視線を落とす。
 見かねたのだろう。夏城君が口を開く。
「サーカスの入り口近くでサーカスの奴らがビラ配ってたんだけど、その中に安藤の妹そっくりな奴がいてさ。どうぞって渡されたんだ。よくよく顔を見たら、裏で糸引いてる奴の方でさ」
「それはつまり、こっちのエルメノ」
「そ」
 ビラの背景にライオンとともに映っているエルメノを指した工藤君に、夏城君は短く頷いた。
「自分から宣戦布告するなんて、すごい自信ね」
 詩音さんはそう言ったけど、わたしは少し違うところに意図があるんじゃないかと思った。人質をとってわたしたちをおびき寄せてまで成し遂げたいことがある。だから、こんな手の込んだことをしているんじゃないかと。
 その目的は、当初から言っているように、ずばりわたしに時を戻せ、と。エルメノと麗兄様が別れ別れになってしまう直前からやり直させてくれ、と。だけど、本当はそれさえも彼女の本心じゃないのではないだろうか。
「あれ?」
「ん、どうしたんですか、守景さん」
 ぼんやり扉を見つめていたわたしは、なんとなくその構図に違和感を感じて小さく声を上げていた。
「なんか、違う」
「違う? 違うって、何が?」
「ん~……何か足りない? 揃ってるんだけど、足りてない?」
 エルメノの周りが少しすかすかしている気がする。
「あー! 分かった! 俺、わかっちゃった!」
 もやもやしたままのわたしを差し置いて声を上げた洋海に、一堂の視線が集まる。
「大きな声出して、洋海。どこか分かったの?」
「ライオンだよ、ライオン。俺らが見たショーだとライオン七頭いただろ? でもここに載ってるのは四頭だけだ」
 感嘆の声がわたしと安藤君の口から漏れ出た。
「じゃあ、残りの三頭は……」
「三頭はアルト・カルナッスル城で光くんが倒しちゃったわ」
 開いたままの扉の向こうに、いつの間にかもう一人岩城の制服を着た少女が佇んでいた。
「桔梗!」
 わたしと詩音さんの声が重なった。
「こんにちは」
「桔梗!」
 桔梗が返事するのも待たずに、わたしはベッドから桔梗の元に駆け寄り、飛びついた。
「桔梗、桔梗、桔梗!」
「一人で怖かったでしょう。よくがんばったわね」
「姉ちゃん……」
 洋海の呆れる声なんか知るものですか。緊張の糸がふつりと切れて、わたしは桔梗に抱きついたままずるずるとしゃがみこんでしまった。
「よしよし。よっぽど気ぃ張ってたんだな。立てるか?」
 しゃがみこんだわたしの頭を撫でながら手をとったのは葵だった。
「葵~っ」
 余計にほっとしてしまったわたしは、完全に床に座り込んでしまった。洋海がいるっていうのに、姉の威厳も何もあったものじゃない。
「でも、どうしてここに?」
 葵に抱えられるようにして立ち上がったわたしは、力強く微笑んでいる二人を交互に見ながら尋ねた。
「あたしは樒がここにいるって桔梗から聞いたからさ。今日学校行っても樒、一時間目終わった途端どっかいっちまうし、心配したんだぞ」
「私は工藤君に用事があったから」
 葵はあったかい目でわたしを見つめてくれたが、桔梗は工藤君に視線を移すと、すっと目を細めた。まるで仕事でも始めるかのように。
 それに答えるように、貼り付けられた笑みはそのまま眼鏡の奥の工藤君の目も細められる。
「光くんの様子はどうでしたか?」
「よく眠ってるわ。眠る直前にお母さんが破水して病院に行ったんだけど、お父さんがついているから大丈夫でしょう。光くんには今はクリスがついているから、そっちも大丈夫なはずよ」
「光くんも倒れたの? ていうか、無事なの?」
「樒ちゃんはサーカスで離れ離れになって以来光くんには会ってなかったものね。ええ、光くんは無事よ。倒れたというか、ちょっと疲れて眠っているだけよ。そろそろ目覚めている頃かもしれないわね」
「よかった~」
 サーカスでエルメノにステージに招かれた後、鏡をくぐってそのままわたしは帰れなくなり、光くんだと思っていた人は実はエルメノだったり、結局、わたしはあれから光くんにも、桔梗と葵にも会ってなかったことになる。とにかく、無事なら目が覚め次第、早いうちに時の実を光くんに渡さなくちゃ。
「守景さんの顔色も少しよくなったみたいですね。お二人に来ていただけてよかった」
「工藤君が桔梗たちのこと呼んでくれたんだよね? ありがとう」
 振り返って笑顔でお礼を言ったわたしに、工藤君は照れたのかちょっとだけ頬を赤らめ、打ち消すようにおじさんくさく咳払いした。
「お礼を言われるほどのことでもありませんよ」
「そんなことないよ。おかげでわたし、すごく元気でたもん」
「う、あ、そ、それは、よかった……デス」
「樒ちゃん、だめよ。あんまりほめるとこいつすーぐ頭に乗るんだから」
 詩音さんがしかめっ面でたしなめる。
「詩音さんもありがとう。そばにいてくれて」
「え、あ、いや、それは……」
 軽い気持ちでお礼を言っただけなのに、詩音さんまで顔を赤らめて落ち着きなく視線をさ迷わせはじめた。工藤君と血がつながっているって言うのも、あながち嘘じゃないかもしれない。
「で、工藤。俺たちは夜、サーカス始まるまでここでゆっくりお茶でも飲んでればいいのか?」
 緩みかけた空気が、夏城君の緊張感のある声に再びしまる。
「いいえ。そうでもないみたいですよ」
 意味深な笑みが工藤君の口元に浮かんだと思った瞬間、空間が重力から自由になったかのように一度浮き上がり、再び下に叩きつけられた。
 わたしも含め、みんなが悲鳴をあげる中、先を読んでいたらしい工藤君と夏城君が、すばやくベッドの向こうの窓から下を覗き込んでいた。
「これはこれは総出で」
「余裕かましてる場合かよ。藤坂、塔の下、戸締りはしてきたのか?」
 工藤君に続いて夏城君が真剣な声で桔梗を振り返った。
「ここの戸締り? いいえ。開いてたからそのまま階段上ってきちゃったんですもの。ねぇ、葵ちゃん」
 悲鳴を上げていたわりには何事もなかったかのように桔梗は答え、同意を求められた葵はというとちょっと青ざめてまだ口元をがたがた震わせていた。
「え? あ、ああ、あんな重そうな扉、いちいち閉めようと思うかよ。てか、工藤の家の一部なら自動ドアになってんじゃないの?」
「この塔は電気が発明される前から立ってるんですよ。ドアの自動化ですか。検討しておきましょう」
「せめてセコムくらいつけとくことをおすすめするよ」
 夏城君の軽口をかき消す勢いで、階下から駆け上がってくる足音が聞こえる。
 嫌な予感。
「ねぇ、一体何が起こったの?」
 桔梗と葵に引っ張られるままにわたしは詩音さんともども部屋の奥に移動し、そこから窓の下を見た。
 窓の下は、はるか遠くに地球のネオンが見えた昨晩とは違う景色が広がっていた。青空。高層マンション。それから、下にはドーム一つ分はありそうな広さの日本庭園と平安時代の貴族の屋敷と見まごうような棟々、森に囲まれた片隅にはテラス付きの白い洋館。この塔が立っているのは、屋敷を挟んで洋館とは正反対の位置。入り口の真正面には黒紫色の揃いの軍服らしきものを着た一群がずらりと陣取り、一部は屋敷の外へ向かい、一部は次々にこの塔になだれ込もうとしているところだった。その一群の一番後ろ、中世から抜け出してきたような王様の格好をした男性と地味なメイド服の老婆、二人とは違っていかにもこっちの世界の人のように見えるんだけどお手伝いさんの格好をした三十代半ばくらいの女性とが、十人ほどの兵士に守られるようにして俯きながら立っていた。











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